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弥陀の救いにあうにはどうすればいいのか! [極楽に往生するには]


誠なるかなや、

摂取不捨の真言、超世希有の正法、

聞思して遅慮することなかれ

        (親鸞聖人・教行信証総序)

 

まことだった!本当だった。

弥陀の誓いにウソはなかった。

みなみな、聞いてもらいたい、この親鸞が生き証人だ。

早く、弥陀の誓願まことを知ってもらいたい。

 

今回も、この親鸞聖人のお言葉を解説いたしましょう。

親鸞聖人が「まことだった!(誠なるかなや)」と言われている

「摂取不捨の真言」とは、「阿弥陀仏の本願」のこと。

それは、十方諸仏の本師本仏と仰がれる阿弥陀仏が、

本当に願っていられる御心で、

“すべての人を必ず絶対の幸福(往生一定)に救う”

お約束です。

真実に背を向けて逃げ回っている私たちをどこまでも追いかけ、

“絶対の幸福にガチッと摂め取って捨てぬ”
という弥陀の真実のお言葉
ですから、

親鸞聖人は「摂取不捨の真言」とも言われています。

世の常識を超越した唯一無二の大誓願ですから、

「超世希有の正法」とも言われるのです。

 

●悲劇と隣り合わせの日常


人は皆、幸せを求めて生きています。

けれども、世を知れば知るほど、厳しい現実の壁に立ちすくむもの。

二十代、三十代の死因一位をご存知でしょうか?

答えは「自殺」。

二十代で亡くなるおよそ二人に一人が、自殺で命を絶っています。

ニュースキャスターが眉をひそめて報じるのは、

殺人、戦争、暴力、虐待・・・。

地球より重いはずの命が、
弊履(へいり)のように粗末に扱われています。

やっと手に入れたはずの幸せも、

手のひらからこぼれる水のように失われていく。

ショーペンハウエル(ドイツの哲学者)は、

「遠目には幸福に見えても、近づけば蜃気楼と消える。

現実になるのは、苦悩と苦痛」

と嘆き、哲学者ヴォルテール(フランス)も

「幸福は幻にすぎず、苦痛は現実だ」

と警告しています。

たとえ、50年、70年、幸せが続いても最後、

死んでいかねばなりません。パスカル(フランスの思想家)は

「人間は、死と不幸を癒せなかったので、考えないことにした」

と皮肉たっぷりに書き残しています。

お釈迦さまは「死」を「飢えに狂った虎」に例えられています。

厚生労働省の人口動態統計(平成25年)によると、

日本の年間死亡者数は、およそ127万5千人。

平均すると一日3500人弱が、
日本のどこかで命を落としています。

一週間にすれば2万4500人。

あの東日本大震災の死者、
行方不明者が1万8502人といいますから、

それを上回ります。

しかし、このことを取り立てて大騒ぎする人はありません。

もちろん、津波で死ぬのと、
病院や自宅で静かに布団の上で亡くなるのとでは、

大きく異なりますが、「命を失う」という悲劇の本質に、

変わるところはないでしょう。
とすれば、私たちの“平穏な日常”

というものは、実は「死」の悲劇と常に隣り合わせなのです。

 

●この世から未来永遠の幸せになれる


確実な未来に不安を抱える私たちを、

この世から絶対の幸福にガッチリ摂め取り、

「必ずわが浄土に生まれさせてみせる」
と誓われたのが阿弥陀仏の本願です。

親鸞聖人は絶対の幸福に救われ、こう仰っています。


超世の悲願聞きしより

われらは生死の凡夫かは

有漏の穢身は変わらねど

こころは浄土にあそぶなり

     (帖外和讃)


阿弥陀仏の本願に救い摂られてからの人生は、

もう苦しみ迷いの人ではない。

欲や怒りの絶えない煩悩具足の身は変わらないけれども、

今が幸せ今日が満足、ウラミと呪いの渦巻く人生を、

浄土で遊んでいるような気分で生かされる。


地震や津波、台風、火災や病気、
人間関係のゴタゴタなど災厄が逆巻き、

いかに煩悩、渦巻こうとも、本願まことと救われた人は、

一切が往生の障りとならない真の自由人になれるのです。

しかも「老少善悪の人をえらばず」(歎異抄一章)で、

老いも若きも関係なく、善人悪人差別なく、

すべての人が弥陀のお約束の相手だと
親鸞聖人は教えておられます。

では、どのようにすれば、弥陀の本願に救われるのでしょうか。

 

●本当の幸福になれるただ一つの道


それはただ一つ、親鸞聖人は「聞思して遅慮することなかれ」と

教えておられます。

「聞思」とは、「聴聞」のこと。

お釈迦さまも、親鸞聖人も、蓮如上人も、

「仏法は聴聞に極まる」とのご教示です。

「聴聞」とは、聴もきく、聞もきく、ということ。

聞いて聞いて聞き抜きなさい、と教えられています。

うわさ話や落語や漫才を聞くのではありません。

仏法を聞かせていただくのです。

親鸞聖人のご一生が描かれている
アニメーション『世界の光・親鸞聖人』は、

親鸞聖人の教えに基づいて作られていますから、

このアニメを見ることも、聴聞になるのです。

では、どのような心がけで聴聞すればいいのでしょう。

親鸞聖人は、


たとい大千世界に

みてらん火をもすぎゆきて

仏の御名をきくひとは

ながく不退にかなうなり

     (浄土和讃)


たとえ大宇宙が猛火に包まれようとも、
その中、
仏法を聞く人は、
早く絶対の幸福になれると教えられています。

蓮如上人も、こう仰っています。


火の中を 分けても法は 聞くべきに

雨風雪は もののかずかは


これは、

仏法は、火の中かき分けても聞かねばならない
大事なことが教えられているのだよ、

と親鸞聖人は教えておられる。
だから、雨や風や雪に負けずに仏法は聞かねばなりませんよ

と言われているのです。

 

●「聴聞」四つの心構え


ある浄土真宗の先達は、仏法を聞く心構えを、

分かりやすく四つに分けて教えられました。

一番目は「骨折って聞け」。

「骨を折る」とは、「苦労する」という意味ですから、

仏法は、「苦労して聞きなさい」ということです。

何事も楽していては身につかぬ。


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ある新聞社の編集長が
三人の記者が書いた同一事件の原稿を批評してこう言いました。

「第一は頭で書いた原稿、
第二は耳で書いた原稿、
第三は足で書いた原稿。
足で書いたものが最もよい」

頭で書いた原稿とは、
横着して事件の現場を想像して書いたもの。


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耳で書いた原稿は、電話や人伝えで聞いて記したもの。

足で書いたというのは、実地に現場に足を運び、
状況を目で確かめ、
生の証言を聞いて書いたものをいう。

会社を一歩も出ずに横着していては記者失格。

足を動かし汗をかき、苦労してこそ得るものは大きい。

ましてや仏法。

近くのコンビニで買い物するような気楽な聞法ではなく、

離れた場所まで苦労して行ってこそ、「しっかり聞こう」

と真剣になります。

ですから、「仏法は、出て聞け」「足で聞け」といわれるのです。

 

二番目に大事な心掛けは「衣食忘れて聞け」。

仏法を聞くのに、服装や、食事に気がかかっているようでは、

真剣な聞法とはいえません。

わが身の大事となれば、衣食など忘れてしまいます。

自分のうわさ話が聞こえたらどうでしょう。

「そういえば○○さんってこの前・・・」

あなたの名前がささやかれる。

褒め言葉か悪口か、一体どんな話が始まるのか。

聞き落としては大変と、脳はシャンとなり、耳もツンと立つ。

わが子が交通事故に遭って病院に運ばれれば、

医者の一言一言に全神経を集中して聞かずにおれません。

仏法には、私の後生の一大事が説かれているのですから、

それ以上に真剣な気持ちで聞かせていただいて当然です。

釈尊十大弟子の一人、
舎利弗尊者が閑静な山中で座禅していた時のこと。

かねて畏敬する維摩居士がやってきた。

「舎利弗さん、そこで何していられるのかな」

誰もが見れば分かることを、ワザと聞くので面白くない。

「座禅しているのだが・・・」

無愛想の答える。

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散乱している舎利弗の心を見抜き、
維摩は言下にこう指摘する。

「なに座禅、それが座禅とな。
もし身体を動かさないのが座禅なら、

山の樹木も立派に座禅していることになる」

かくて諄々と、本旨を説いたという。

形よりも心が大事なのです。


聴聞の心構えの三つ目は、「間断なく聞け」。

「継続は力なり」といわれるように、
何かを身につけようと思ったら、

根気よく続けることが大切です。

仏法は、半年や一年に一度、
ボツーンと聞いて分かるような浅い教えではありません。

続けて続けて聞きなさい、と教えられているのです。

昔、明詮という僧侶が、3年たっても魂の解決にメドがつかず、

「オレは助からない人間かもしれない。今はこれまで」

と、師匠にいとまを願い出て泣きながら寺を出た。

ところが、その時、大雨が降ってきたので、

山門の下に腰を下ろし、雨がやむのを待った。

山門の屋根から落ちる雨だれを見ていた明詮は、
フト、足下の石に、
穴が開いているのを目にする。

「こんな硬い石に、どうして穴が開いたのだろう」

と、じっと見ていると、その石の穴は、

雨だれがポタポタと落ち続けてできたのだと気づいた。


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明詮はハッとした。

「軟らかい水滴が、こんな硬い石に穴を開けたのか。

オレは、2年や3年の修行でへこたれて
後生の一大事の解決をあきらめるとは、

この水にも劣る横着者ではないか」

翻然と寺へ帰るや、雨だれの説法を師匠に話し、

心を改め、努力精進して、
後に「音羽の明詮」といわれる大徳になったという。

蓮如上人は、


至りて堅きは石なり、至りて軟らかなるは水なり、

水よく石を穿つ。いかに不信なりとも聴聞を心に入れて申さば、

お慈悲にて候間、信を獲べきなり。

只仏法は聴聞に極まることなり

          (御一代記聞書)

 

いかに硬い石でも、軟らかい水が穴を開ける。

どんなに疑い深くとも、聴聞に身も心も打ち込めば、

広大な阿弥陀仏のお慈悲によって
必ず信心を獲ることができるのだ。

ただ仏法は聞くことが肝要である。

と教えられています。


聴聞の心構えの最後は、「聞けない時は、思い出せ」です。

「どんなに聞きたくても、聴聞のご縁がない時は、

聞いたことを思い出しなさい」

と教えられています。復習が大事、ということですね。

 

4つの心がけをおさらいいたしましょう。


①骨折って聞け(苦労して、足で聞きましょう)

②衣食忘れて聞け(集中して、真剣に聞きましょう)

③間断なく聞け(継続して聞きましょう)

④聞けない時は思い出せ(しっかり復習しましょう)


「仏法聞き難し、今已に聞く」(お釈迦さま)

本当の幸せを明らかにする仏法を聞かせていただくことは
大変有り難いことです。

4つの心がけを胸に刻み、

「聞思して遅慮することなかれ」。

「心は浄土にあそぶなり」の風光が開かれるまで、

聞法会場へ足を運び、聴聞の一筋道を進みましょう。


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