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暮れゆく人生を安心して生き抜く~ 「墓じまい」と真実の仏法 [葬儀・法事とは]


   
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今年の7月30日の『朝日新聞』に、
目を引く奇妙な写真と記事が掲載されていました。
その写真とは、一見、ただの岩石の山なのですが、
よく見ると石に人の名前や言葉が刻まれています。
それは、管理する人のいない、いわゆる無縁墓が撤去され
山奥に捨てられた残骸でした。

日本は少子高齢化社会からさらに進み、
今や少子多死社会へと突入しつつあります。
そのことがもたらす社会現象の一つとして、
墓じまい」問題が浮上してきたことを、
新聞はこの写真で示していました。
今月は、このことを通して考えてみましょう。

●忘れていませんか?
     墓や遺骨より大事なこと

墓じまいとは、故郷にある墓を撤去し、
遺骨を永代供養の合葬墓などに移すことをいいます。
理由はさまざまで、少子化で子供がいない、
いても女の子では跡を継いでもらえない、
跡継ぎはいるけれど遠方に住んでいる、などです。
だから自分が死んだら誰も先祖代々の墓を
管理する者がいないということです。
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墓の撤去など、遺骨を取り出して墓を解体し、
更地に戻すだけのことと思いますが、
そこに至るまでの過程が実は大変で、
多くの人がどうすればいいか悩んでいます。
具体的には、寺院の墓の場合、
200万円もの高額な金額を要求されるケースがあります。
また、古い墓の管理者からの「改装許可申請書」、
遺骨を移す先の霊園の「受入証明書」などを用意し、
自治体への手続きが要ります。
こうして金銭面での負担や手続きの面倒さに加え、
親族が先祖の墓をなくすことに反対し、
不義理を責められるなど精神的苦痛を味わうことも多いようです。

読者の中にも、墓じまいをするかどうかで
お悩みの方もあると思います。
本誌では、この「墓」の話題を通して私たちの心の根底にある
「迷い」について考えてみましょう。

親鸞聖人のみ教えから振り返ってみたいと思います。

●墓に行けば肉親に会える?

私たちは死んだ後、本当に墓の下に入るのでしょうか?
墓に遺骨を納め、毎年遠くから墓前までやってきて、
頭を下げたり線香を供えるのは、
墓へ行けば懐かしい人に会えると思うからでしょう。
大切な人がそこにいないのなら、
わざわざやってくる意味もなくなります。
このような、「墓や遺骨に死者の魂が宿っている」
という日本人に一般的な思想は、
古代神道や儒教や道教などが入り交じって
形づくられたものといわれています。
亡くなった肉親をしのび、
懐かしむ心情は人として当然ですが、
果たして「遺骨=肉親」なのでしょうか。
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「世界の光」と称賛される親鸞聖人は、
「私が死ねば、屍を加茂川に捨てて、魚に食べさせよ」
と、衝撃的なことを仰っています。

「『親鸞閉眼せば賀茂河にいれて魚に与うべし』と云々」
               (改邪鈔)

川へ捨てれば墓に納める骨も残りませんから、
墓や遺骨を全く問題にされていないことが分かります。

良識ある人ほど「何てことを!」と驚く聖人の発言は、
私たちに何を教えんとされているのでしょう。

●肉体も脳も、すべては「私」の持ち物

そもそも、私とはどこにいるのしょう。
「これが私です」と指差しているのは、私の「体」です。
私たちの家や車、時計や指輪などは、
私たちの「持ち物」であるように、
自分の肉体、すなわち心臓や肺、胃腸なども、
やはり自分の所有物であって、
私そのものではないと仏教では教えられます。

骨もその人の持ち物であって、
その人自身ではないのです。

ですから、いかに慣習とはいえ、骨に特別な意味を持たせ、
遺骨の取り扱いいかんで
死んだ人の後生が左右されるように思ったり、
礼拝供養の対象にするのは、
昿劫流転の真実の自己を知らないところからくる迷いと、
仏教では教えられるのです。

「脳が私だから、死んで脳が消滅すれば無になる」
というのは唯物論者の主張ですが、
世界的に著名な脳外科ペンフィールドは、
「唯物論」の立場で脳の研究に生涯をささげた末、
脳と私とは別だと考えるほうが、
合理的だという結論に達しています。

心の働きはすべて脳の仕組みに帰するという
十分な証拠はない。
私は人間は2つの基本要素から成ると考えたほうが、
一つの基本要素から成ると考えるよりも理解しやすいと結論する

               (『脳と心の正体』)
ペンフィールドは、古くなった車を乗り換えるように、
「私」は数え切れないほどの脳を乗り換えてきたのだろうと、
推測しています。

私たちの肉体は80年か100年の「借り物」ですが、
「真の私」は肉体が滅びたあとも永遠に続くのです。
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●死出の旅路に
    連れはない

平生は、「死んだら無だ」と主張している人でも、
肉親や友人などの告別式になると、
途端に態度を変え、「冥福を祈ります」とか
「御霊前で謹んで申し上げます」
などと述べるようになります。
死んで何もなくなるのであれば、
「冥土の幸福(冥福)」も、「霊の前(霊前)」もありえないはず。
単なる周囲への配慮というだけでは済まされない、
何か神妙なものがそこにはあります。

それは一片の知性や理屈で死後の世界を否定してみせても、
本心では死後の実存を否定しきれないでいるからでしょう。

生まれた時が「人生列車」に乗った時。
駅に着くたび出会いがあり、別れもあり、
しばらく車内で一緒に過ごせても、
降りた先は一人一人が別々の道を歩まねばなりません。

独り生まれ 独り死ぬ
独り来て 独り去る

      (大無量寿経

親や兄弟、子どもたちとスクラム組んでの
人生行路をしばらく楽しめても、
死出の旅路に連れはないと、お釈迦さまは説かれています。

「独り来て 独り死にゆく 旅なれば
つれてもゆかず つれられもせず」
の古歌のとおり、好きな人とも相添えず、
嫌いな人とケンカもできない。
墓石の下に遺骨を並べてみても、
先祖の霊が行儀よく納まっているものではないと、
お釈迦さまは教えられているのです。

●「私は墓の下にはおらん」
        と聖人

では「私」は死ねばどうなるか。
無になるのではないとするなら、どこへ行くのでしょう。

暗黒の世界よりも、明るい無量光明土でありたいのが、
全人類の熱願でありましょう。
親鸞聖人は、

我が歳きわまりて、
安養浄土に還帰す

     (御臨末の御書

と宣言されています。
阿弥陀仏に救われた親鸞、
死ねば極楽浄土(無量光明土)往くから、
墓の下にはいないぞ

との明言です。
そのあとに、
寄せては返す波のように、
極楽浄土からすぐさまこの娑婆へ戻ってくる。
無限に衆生済度の活動が始まるのだ

とも仰せです。
極楽でのんびりなどしていないぞ。
この世に苦悩の人がいる限り、
寄り添って救わずにおれないのだ、との喜びの表明です。

ましていわんや墓の下などに、どうしておれましょう。
では、死ねば誰でも彼でも親鸞様と同じく、
極楽へ往けるのでしょうか。

それについて、親鸞聖人のみ教えを正確に日本中に伝えられた、
蓮如上人からお聞きしてみましょう。

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●えっ、「誰でも極楽」
      ではないの?

浄土真宗の門徒には、
「阿弥陀如来の呼び声は、南無阿弥陀仏の名号となって、
今この私に届いているから、
誰でも極楽へ往けることに気づかせていただきましょう」
というのが、親鸞聖人の教えと聞かされている人が多くあります。
誰もが死ねば極楽へ往って仏になれるというのは、
蓮如上人の『御文章(御文)』に反することで、
断じて聖人の教えではありません。

現在ただ今、信心獲得して往生一定(浄土へ往けることがハッキリすること)
の大満足に救われていなければ、
死んで極楽浄土へは往けないし、仏にもなれないのです。

さらに聖人は、信心獲得していなければ、
極楽どころか、取り返しのつかないことになると、
警鐘を鳴らされています。

呼吸の頃すなわちこれ来生なり。
一たび人身を失いぬれば万劫にも復らず(かえらず)。
この時悟らざれば、仏、衆生を如何したまわん。
願わくは深く無常を念じて、
徒に後悔を胎(のこ)すことなかれ
」(教行信証

吸った息が吐けなかったら、
吐いた息が吸えなかったら来世である。
後生は遠い話ではない。
死ねば、二度と同じ人身に戻ることは永遠にないのである。
今、この大事を解決しなければ、
いつできるであろうか。
永遠のチャンスは、今しかないのだ。
されば、刻々と迫る無常を凝視して、
決して後悔を残すことがあってはならない

死ねば二度と戻らぬのが人の一生。
だからこそ南無阿弥陀仏の名号を賜って(信心獲得)、
間違いなく弥陀の浄土へ生まれる身になりなさいよと、
聖人は生涯教えていかれました。

浄土に往生して阿弥陀如来と同じさとりを開いた人は、
還相の菩薩として、この世に戻り、
迷える衆生を救済する活動をせずにおれなくなります。

それは弥陀より賜った六字の名号(南無阿弥陀仏)の大慈悲心によるものです。
だからこそ信心獲得は、亡くなった方を幸せにする道でもあるのです。

「『親鸞閉眼せば賀茂川にいれて魚に与うべし』と云々。
これすなわち、この肉親を軽んじて、
仏法の信心を本とすべき由をあらわしまします故なり。
これをもって思うに、
いよいよ葬喪を一大事とすべきにあらず。
もっとも停止(ちょうじ)すべし」
         (改邪鈔)

(「私が死ねば、屍を賀茂川に捨てて、
魚に食べさせよ」と、
しばしば親鸞聖人が仰ったのは、なぜか。
それはセミの抜け殻のような肉体の後始末よりも、
永遠の魂の解決(信心獲得)こそが、
最も急がねばならないことを教導されたものである。
されば葬式などを大事とすべきではあるまい。
やめるべきであろう

静かに墓前にぬかずくことは、
人生を見つめる得がたい機会になることは間違いありません。
「私も、死なねばならぬのか」と、
生死の一大事に触れて、
厳粛な思いになるでしょう。
葬式や墓参りを儀礼だけに終わらせず、
無常を見つめ、自身の一大事解決のために聞法し、
弥陀の救いにあう勝縁にしたいものです。
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