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そうだ、お盆には仏教を聞こう。 [なぜ生きる]

 

そうだ、
   お盆には
     仏教を聞こう
 

 

“お盆”は仏教なの?
日本の夏といえば「お盆」。
古来、この季節には先祖の霊が帰ってくるといわれます。
お盆とは仏典の『仏説盂蘭盆教』から転じた言葉です。
各地に残っている迎え火や送り火、
墓参りや盆踊りなど種々の風習も、
仏教から出たものと考えられており、
日本人の仏教観にも大きく影響しています。
お盆とはどんなことか、
私たちはどう過ごせばいいのでしょうか。
親鸞聖人にお聞きしましょう。

・・・・・・・・・・・
ある人からこんな話を聞きました。

毎年、お盆の前には父に連れられて、
先祖代々の墓に家紋入りの灯篭を立てに行きました。
「お父さん、何でこれ立てるの?」
「わが家の墓はここだぞ、という目印だ。
死んだじいさんや、ばあさんの霊が迷わんようにな」
「ふーん」
そんなもんかと思って聞いていました。
お盆の間、灯篭は明々とともり、
終われば、また片付けに行ったものです。

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お盆の前には迎え火をたき、
最終夜は盆踊りや送り火をする。
地方によってスタイルや呼び名は違いますが、
こんなやり取りが、日本の夏の風物詩となっているようです。
それらの慣習の根底には、先祖や死者の霊が、
お盆の期間中は帰ってくる、という考えがあります。
そして“これが仏教”と多くの人は思っています。

ところが、お釈迦さまや親鸞聖人、蓮如上人の教えを聞かせていただくと、
こうした風習と仏教の教えとは、
相いれない部分があると分かってきます。

事実、前記のような慣習は、
浄土真宗には本来ありません。
なぜなら、平生、弥陀に救われている人は、
死ねば必ず浄土へ生まれて大活動するから、
「我が歳きわまりて、安養浄土に還帰す」
(親鸞、死ねば弥陀の浄土に還る)
と聖人も御臨末に仰って、
墓の下には戻ってこないのだ、と教えられています。
また、弥陀に救われていなければ、
善因善果、悪因悪果、自因自果の因果の道理によって、
まいた因に応じた結果を、後生、
永く受けなければなりません。
ですから親鸞聖人や蓮如上人は、
死者の霊が墓に帰ってきたり、
また出かけて行ったりできるものでは絶対ないと、
これらの俗信を打ち破っていられるのです。

●無常を念ずる勝縁に

ならば墓参りは一切不必要で、無意味なのかといえば、
心構えさえ正しければ故人をしのび、
自身の無常を念じる得難いご縁となりますから、
弥陀の救いに値う勝縁となりましょう。

この「無常を念ずる」とは、どんなことでしょうか。
「無常」とは「常が無い」と書き、
絶えず変化することをいいます。
私や私を取り巻く一切は、
一時として常住しないものばかりです。
五月に話題になった「金環日食」は
数百年に一度、見られるか否かの天体イベントでしたが、
太陽をはじめ宇宙が刻々と変動している証でしょう。
外界のみならず、私の肉体も心も、同様に無常ですが、
とりわけ生きている私の最大の変化は「死」ですから、
無常の「死」の意味で使われるのです。

●切々たる無常観

「死」を、自己の確実な未来とみていく無常観は、
仏法の原点です。
室町時代に活躍された蓮如上人は、
有名な『白骨の御文章』に、
人の世の無常を切々と訴えられました。
「それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、
凡そはかなきものは、この世の始中終、幻の如くなる一期なり」
(浮草のような人間の一生をよくよく眺めてみると、
人生とは何と儚く、幻のようなものか)

人の一生を、まず「浮生(浮いた草)」と仰っています。
根っこのない浮き草が
風に流され漂っているようなものということです。
この世のどんな成功者も、
財や物に恵まれている人も、
人生の本質は皆浮生だと教えられます。
火宅無常の世界は、万のこと皆もって
空言・たわごと・真実あることなし

有名な『歎異抄』の親鸞聖人の仰せです。
「火宅」とは火のついた家。
隣から出た猛火が、まさに自宅のひさしに燃え移った時、
のんびり晩酌しながらテレビを見ていられるでしょうか。
人生が火宅のような不安に覆われているのは、
一切が無常だからです。

健康、金や財産、地位や名誉、家族や恋人など、
私たちが日々求めている全ては、
今日あって明日なき幸せ。

太陽や月が刻々と動いているように、
絶えず変転しています。
手に入れた瞬間から、滅びに向かっていくものばかりですから、
「万のこと皆もって空言・たわごと・真実あること無し」とも
「浮生」ともいわれるのです。

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今なお、毎年多くの交通事故死があります。
京都で無免許運転の少年が居眠りして
通学中の子供の列を襲い、
格安高速バスの運転手が早朝、
居眠り運転で壁に突っ込む。
多くの命が犠牲となりました。
思わぬ自然災害も起きています。
5月、茨城で突然竜巻が発生し、
自宅にいた中学生が亡くなりました。
コンクリートの基礎ごと巻き上げられた家が、
逆さまに地面にたたきつけられたといいます。
自宅にいてさえも、突発的に命を落とす。
まさに「朝に紅顔、夕に白骨」で、
この世のどこに、100パーセント安全な場所がありましょうか。

●後生の一大事
    心にかけよ

誰もが逃れがたい無常を教えられた『白骨の章』の最後を、
蓮如上人はこう締めくくられています。

「誰の人も、はやく後生の一大事を心にかけて、
阿弥陀仏を深くたのみまいらせて、念仏申すべきものなり」

死は万人に訪れる。だから、何人<なんびと>も早く、
後生の一大事を心にかけて阿弥陀仏の救いを頂きなさい

仏法を求める目的は、実にこの「後生の一大事」の解決にあり、
それは万人共通の問題なのだよと示されています。

では、「心にかけよ」と言われる
「後生の一大事」とはどんなことなのでしょうか。

人生を飛行機の旅に例えるならば、
誕生した時が離陸の時。
二十歳の人は20年前に、六十歳なら60年前に飛び立ったということです。
ひとたび飛び立った飛行機は一刻も止まらず、
猛スピードで飛び続けねばなりません。
では、人生という飛行機はどこへ向かって飛んでいるのでしょう。

「世の中の 娘が嫁と 花咲いて
 嬶としぼんで 婆と散りゆく」
禅僧・一休は女性の一生をこう詠んだ。
若くて楽しい娘時代。
箸が転んでもおかしい年頃ですから、
女偏に良いと書きます。
やがて見初められて花開く結婚、
家に入って嫁となります。
子を産み、どっしりたくましくなれば、
鼻高々と嬶です。
婆さんを待たずに病死や事故死する人もありますが、
幸せに生き延びても、必ず死を迎えることは変わりません。
男も呼び方が違うだけで、誰もが同じ道をたどります。
生きるとは、死に向かっていくということにほかならず、
飛行機なら必ず降りねばならぬ、ということなのです。

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ところが、そんな飛行機に乗っている私たちは、
「いずれ降りねばならないことは、分かっているけど・・・」
と言いながら、どこに向かい、どこに降りるのかハッキリせぬまま、
人生のフライトを続けています。

「差し当たり今は公私ともに順調。
そこそこ快適だし、このまま飛んでいけばいいんじゃないの?」
ところが、そんな快適な旅の最中に、
こんなアナウンスが流れたらどうでしょう。
皆様、当機は現在、上空1万メートルを航行中です。
しかし、目的地は分からず、着陸地も見当たりません。
燃料はあと5時間でございます。
それまでの間、皆様、映画やお食事、ゲームやショッピングなど
快適な空の旅を、ゆっくりお楽しみください・・・

こんなナンセンスな飛行機に、誰が乗り込むでしょう。
しかし、どこに向かって生きるか分からない人生は、
こんな不条理な飛行機の旅と、どこが違うでしょうか。

この「どこに向かって生きるか分からぬ不安」を
後生の一大事といいます。

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「死期はついでを待たず。
死は前よりしも来らず、かねて後ろに迫れり。
人皆死あることを知りて、待つこと、
しかも急ならざるに、覚えずして来る」
        (徒然草)
死の時期は順番を待たない。
死は前からだけ来るのではない。
いつの間にか背後に迫っているものだ。

人は皆、自分もいずれ死ぬと知りながら、
そうとは思わぬうちに、突然死んでいかねばならないのである

兼好法師が言うように、死は前後だけでなく、
上からも下からも、いつどこから襲ってくるか分かりません。
「あと○日」と余命宣告を受けた人だけが死んでいくのではありません。
生に酔いしれている私たちが、思っていないとき、
突然ドカドカと土足で座敷に上がり込んでくるのが死というものなのです。

●釈迦の結論は?

降りる場所のない飛行機のような不安を抱えた私たちが、
真に救われる道を、お釈迦さまはどう教えられているのでしょう。

それが仏教の結論である
「一向専念 無量寿仏」
の教えです。

「無量寿仏」とは、大宇宙の諸仏方に
本師本仏と仰がれている阿弥陀仏のこと。

その阿弥陀仏は、
「全ての人を、いつ死んでも
往生一定(必ず浄土往生できる身)に救う」
と誓われています。

この弥陀の本願(お約束)によらねば、
我らの後生の一大事助かる道は二つも三つもないのだ。
だから弥陀一仏を信じよ、とお釈迦さまは勧められているのです。

阿弥陀如来を一筋にたのみたてまつらずば、
末代不善の凡夫、極楽に往生する道、
二つも三つもあるべからざるものなり

         (御文章二帖)
心を一にして、阿弥陀仏を深くたのみまいらせて、
更に余の方へ心をふらず、一心一向に、
『仏助けたまえ』と申さん衆生をば、
たとい罪業は深重なりとも、
必ず弥陀如来は救いましますべし

         (御文章五帖)
阿弥陀仏をたのめば、どんな罪悪深重の者でも
必ず浄土往生できるのです。

そこで、肝心の「阿弥陀仏をたのむ」とは、
どんなことなのでしょう。

「たのむ」は今日「お願いする」の意味で使われますが、
「御文章」の「たのむ」は、
そんな祈願請求の意味ではありません。
「憑む」と書いて「あてにする」「たよりにする」「うちまかせる」
という意味なのです。

「私の後生の一大事、助けてくだされる方は、
大宇宙でただお一人、阿弥陀仏だけであった」
と自力のはからいを全て捨てて、
弥陀にまかせ切ったことを、「阿弥陀仏をたのむ」といわれているのです。

「ただ一念に弥陀をたのむ衆生は、
皆ことごとく報土に往生すべきこと、
ゆめゆめ疑う心あるべからざるものなり」
           (御文章五帖)
朝から晩まで、はからい満足のために欲に追い回されて、
静かに自己の脚下を見る時がない。
忙しくなればなるほど、人生を振り返る間が必要です。

一年に一度、静かにお盆の墓前にぬかずくことは、
人生を見つめる得難い機会になることは間違いありません。
「オレも、必ず死なねばならぬのか」
と、生死の一大事に触れて、厳粛な思いがするでしょう。
酔生夢死で終わってはならぬ。
必ずこの法を聞き抜くぞ、と、
聞法の勝縁とするならば、有意義なお盆となるでしょう。


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