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葬式・法事で死者は助かるのか!? [後生の一大事]

 


(真実の仏教を説かれている先生の書かれた「とどろき」から載せています。)


今日、仏教界には、ひいきのひき倒し、というか、
親鸞聖人が現世の救いを説かれたことを強調するあまり、
「釈尊や親鸞聖人は、死後のことは説かれなかった」
という人がいる。
確かに親鸞聖人のみ教えの真髄は、
「この世で救われる」ところにある。
これを、「平生業成」「不体失往生」「現生不退」という。
弥陀の本願に救われ、この世が「心は浄土の遊ぶなり」
「光明の広海」となることは間違いない。

だからと言って、「死後を説かれなかった」と脱線することは許されない。
釈尊や親鸞聖人は未来世の実在を認められての上で、
現在の救いを教えられたのだ。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
仏教の根幹は因果の理法であり、
因果の道理を離れて仏教はありえない。

一切の現象には原因がある。
原因なしに生ずる結果は万に一つもない。

この因果の法則は科学を初め、
あらゆる学問の大前提になっているが、
仏教では我々の生命に過去、現在、未来の三世の実在を説き、
その上に因果必然の理法を説く。

これを三世因果の教えという。
これこそ他宗教に対する仏教の旗印といっても過言ではない。
我々の生命に三世があることについては、
否定する者も肯定する人もあるだろう。
来世を無とする説は唯物論、共産主義などで、
仏教では「断見外道」、または「無の見(むのけん)
」という。
一方、霊魂が不滅だから来世ありとする説は、
キリスト教やマホメット教など、
ほとんどの宗教の説くところであり、
仏教では「常見外道」、または「有の見(うのけん)」という。
仏教は無霊魂説である。
釈尊は固定不変な霊魂の実在を認めず、
業の不滅を説かれた。

即ち『阿含経』にある如く、
「因果応報なるが故に来世なきに非ず、
無我なるが故に常有に非ず」

と説かれ、「死後はない」とする断見外道も、
「死後には霊魂が存続する」とする常見外道も否定しておられる。

インドで小釈迦、八宗の祖師とうたわれた龍樹菩薩常見外道(有の見)と、
断見外道(無の見)を徹底的に破られ、
業の不滅を明らかにされた。
親鸞聖人は龍樹菩薩の大活躍を『正信偈』に、
「悉能摧破有無見」
(龍樹菩薩は悉く能く有の見、無の見を打ち砕かれた)
と讃えておられる。
親鸞聖人も同じ立場に立っておられるのだ。


●不滅の業と来世


では、業が不滅だから来世があるとは、
いかなることであろうか。

業とは中国の語で、サンスクリット(古代インドの言語)でカルマといい、
元来(行為)の意味である。
行為は残る。一種の勢力となって残る。
その業力が因となって果を結ぶ。
善因には善果、悪因には悪果あり。

ここに厳粛なる因果業感の理法が成り立つ。
我々は日々、口、体、そして心で
数え切れない程の行為(業)を重ねている。
その無数の業は目に見えない業力となって存続する。
業は物質でも精神でもない。
今生の身心は離散しても業は残る。
この業は次生の身心を生み出す。

今生の身心と次生の身心とは同一のものではないが
業が両者を連鎖している。

玉突きの時、白玉の速力とその方向は
必ず赤玉の動く方向と速力を決定する。
だから赤玉と白玉とは同一のものではないが
その間に密接不離の関係があるようなものである。


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仏教では、業力は「阿頼耶識」という識に蓄えられる、
と教える。

「蔵」という意味であるから、阿頼耶識を「蔵識」ともいう。
天親菩薩阿頼耶識を、
「暴流(ぼうる)の如し」と言われた。
「暴流」とは滝のことだ。
遠方から見れば滝は一枚の白い布を垂らしたように見えるが、
接近してみれば、激しい水の落下で時々刻々と変わっている。
かくて不滅の業力は、流れ流れて、
因果相続して窮まりなく、
今生の果報尽きても来世の新たなる果報を引き、
幾度も生死輪廻止むことがないのである。

万物は輪廻する。
車輪の果てしなく繰り返すようなものである。

仏教では、人間は生まれ変わり死に変わりすると説く。
それも犬や猫や馬になったりするのだが、
それは本当かという質問をたびたび受ける。
我々は過去ではいろいろのものに生まれ変わったと思う。
犬や猫の気持ちがよく分かる。
言葉こそ通じないがその気持ちはよく知られる。
彼らの気持ちがよく分かるのは、
自分もいつの世にか、犬や猫であった証拠ではないか。
そう考えると牛の気持ちも分かるし、馬の気持ちも分かる。
蜻蛉や蝶の気持ちも分かるし、
カタツムリやトカゲや蛇の気持ちさえ分かるような気がする。
我々は過去で何にでも生まれていたと思われるのである。


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今日の生物科学では人間受胎の現象を詳細に説明しているが、
なぜに私が、特定の父母の間に生まれ、
男女、貴賎、賢愚、美醜などを持たねばならなかったか
という
本質問題になると沈黙する。
いわんや父母未生の以前の世界のことなどは研究することもできない。
仏教は、ここに峻厳な因果の大道理に立脚して永遠不滅の業があると説き、
その不滅の業が内因となり、
父母を外縁として我々の存在を説明する。

ゆえに特定の父母に受生したのも、
偶然でもなければ神の命令でもない。
自業自得である。

即ち自己の立場を生み出したものは
かつて自己の意思によって造った業なのである。
同じ父母から生まれながら、
兄弟姉妹の相違するのも各自の過去の業因のためであり、
兄弟よく相似しているのは父母という外縁の同一によるものだ。


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●仏典を貫く教え


三世因果の教えは今日、誰もが純粋に仏説と認める
小乗経典の『阿含経』より始めて、
大乗経典の『涅槃経』に至るまで、仏教経典を一貫する。

したがって、前世、あるいは来世の存在もまた、
仏説であることは勿論である。


応報相応円珠経』には、
「その時、世尊、諸々の比丘に告げたまわく、
若し殺生の人多習多行せば地獄の中に生ぜん。
若し人中に生ずるも必ず短寿を得ん。
不与取を多習多行せば地獄の中に生ぜん。
若し人中に生ずるも銭財に多難あらん」
ここでは、十不善行と十善行の三世因果が明白に示されている。
『雑阿含経』には、
若し、命終の時、この身は若しくは火焼せられ、
若しくは塚間に棄てられ、風に飄され、
日に曝さるるとも、久しくして塵末となるとも、
心意識は久遠長夜に正信に薫ぜられ、戒、施、聞、慧に薫ぜられる

とある。
肉体が滅んでも、心意識が久遠長夜に続いてゆくと説かれているのだ。


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●親鸞聖人と三世因果


かかる釈尊の教えをそのまま、
生涯かけて明らかにされた方が親鸞聖人である。

聖人が三世因果の教えに立脚して
弥陀の本願を説かれたのは、
当然すぎるほど当然のことだ。

『教行信証』などから、親鸞聖人が、
三世について書かれたものを列記してみよう。
もしまた、このたび疑網に覆蔽せられなば、
かえりてまた昿劫を逕歴せん

        (教行信証総序)
ひとたび人身を失いぬれば、
万劫にもかえらず

        (教行信証行巻)
「昿劫」「万劫」ともに、
果てしない未来世を表している。
「この逆を犯す者は、身壊れ、命終えて、
必定して無間地獄に堕し」
        (教行信証信巻)
「身壊れ、命終えて」の後に、
つまり死後に「必定して無間地獄に堕し」
と言われている。
死後の地獄である。
未来世の浄土往生についてもハッキリと言われている。
「この身は今は歳きわまりて候えば、
定めて先立ちて往生し候わんずれば、
浄土にて必ず必ず待ちまいらせ候べし」
         (末灯鈔)
「地獄、極楽はこの世のこと、
と親鸞聖人は教えられた」
と主張する人は間違いである。

今日、真宗の人々が最も読む『歎異抄』においても、
死後の実在を前提とした親鸞聖人のお言葉が多い。
「一切の有情は皆もって世々生々の父母・兄弟なり。
いずれもこの順次生に仏に成りて助け候べきなり」
            (歎異抄第五章)
「名残惜しく思えども、娑婆の縁尽きて、
力なくして終るときに、彼(か)の土へは参るべきなり」
           (歎異抄第九章)
「来生の開覚は他力浄土の宗旨、
信心決定の道なるが故なり」
         (歎異抄第十五章)
「『浄土真宗には、今生に本願を信じて、
彼土にして覚を開くとならい候ぞ』とこそ、
故聖人の仰せには候いしか」
         (歎異抄第十五章)
『歎異抄』に記されている「順次生」「彼(か)の土」「来生」
いずれも「未来世」のことであることは明らかだ。
釈尊や親鸞聖人が業の不滅を説き、
三世の実在を教えておられたことは以上の通りである。


●過去と未来を知見


では、かかる三世が如何なる因果関係によって
成立しているのだろうか。
そのことについて釈尊は、
因果経』に明らかにご教示しておられる。
即ち、「前世の因を知らんと欲すれば其の現在の果をみよ、
後世の果を知らんと欲せば現在の因を見よ
」。
いわゆる現在世の苦楽、禍福などは、
過去世の善悪の業報であり、
現在世の善悪の業はまた、未来世の苦楽禍福を生み出す。

個人の禍福は偶然でもなければ神の摂理でもなく、
まったく自業自得である。

よって三世因果の理法は、過去の因は現在の果に現れており、
未来の果は現在の因より発するのだから、
現在の自己の上に無限の過去と永遠の未来とを
知見できることを教えている。

では我々の未来に何が待っているのか。


●死後は地獄か極楽か
     厳然たる後生の一大事


死後の世界は、厳然としてある。
釈尊も親鸞聖人も、明確にそう説いておられることを、
前章で述べた。

それは、希望に満ちた明るい「極楽浄土」であろうか、
暗黒の苦しみの「地獄」だろうか。

「地獄」とは、中国の言葉である。
サンスクリットで釈尊は、「ナカラ」と仰有った。
それを中国で「地獄」と翻訳したが、
「苦界」(苦しみの世界)という意味である。
「ジゴク」は、この世にも死後にもあると教えられるのが仏教だ。
インドネシアの暴動や、ドイツの超特急事故の現場は、
多くの遺体が横たわり、さながら地獄の様相であったろう。
悲惨で救いようのない様子を、この世のジゴクと言う。
また、借金地獄に堕ちている人もあれば、
受験地獄に苦しんでいる学生もある。
不安な暗い心で、生きる目的のない日々を送っている人も皆、
ただ今からジゴクへ堕ちている人である。
「私ほど業な者はいない」
と他人をウラミ、世間をノロイ、
苦しみ悩みの不幸が絶えないから、ほとんどの人は、
すでにジゴクへ堕ちていることになる。
大無量寿経』には、
「従苦入苦 従冥入冥」
(苦より苦に入り、冥より冥に入る)
と説かれ、今が苦悩の絶えない人は、
必ず死後も地獄の苦を受けると教えられた。

未来は、現在の延長である。
現在が闇の生活なら、
死後もまた闇の地獄へ堕ちて苦しまねばならない。

では、死後の地獄とはどんな世界か。
賢愚経』に釈尊は、
「如何なる喩をもってしても、地獄の苦は説けない」

と仰有った。強いて、
「教えたまえ」
と願いでた仏弟子に、
朝と昼と夜と、
それぞれ百本の槍で突かれる苦しみをどう思うか」
と尋ねられた。お弟子は、
「一本の槍で突かれてさえ苦しいのに、
一日三百本で突かれる苦しみは想像も及びません」。
そのとき釈尊は、豆粒大の石を御手にとられ、
「この石と向こうの雪山と、どれほど違うか」
とお尋ねになった。
「雪山」とは、ヒマラヤ山である。
「それは大変な違いでございます」
と答えた弟子たちに、
「一本の槍で突かれる苦はこの石の如く、
ジゴクの苦はあの雪山の如し」
と仰有っている。


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大衆に地獄の実在を教えることは、
魚に火煙を知らせる以上に困難であり、
犬猫にテレビや原爆の説明をするよりも
至難だったと思われる。

こんなこととは知らずに、虎皮のフンドシの鬼や、
地獄の釜をそのまま事実と思って嘲り、
疑っているのは、幼稚な仏教観である。


●“冥福を祈る”心理
    感情は死後の世界を肯定


「ご冥福をお祈ります」
の「冥福」とは、仏法の言葉である。
「冥土の幸福」を略したものだが、
「元旦や、冥土の旅の一里塚、
めでたくもあり、めでたくもなし」
という一休の歌にもあるように、
「冥土」とは、死後の世界を言う。
「冥」には、「かたあかり」という意味がある。
スダレのように、片側からはよく見えるが、
反対側からは見えないことを表す。
死後の世界からは、
この世の我々の様子は手にとるようにわかるが、
私たちには、死後の世界のありさまがわからないから、
冥土と言われる。

「冥福を祈る」とは、故人の死後の幸福を祈ることになるから、
肉親や知人・友人が亡くなったとき、
すべての人が使う言葉と言ってよかろう。
平生は、死後の地獄なんかあるものかと、
せせら笑っている人でも、肉親や知人が亡くなると、
たちまち殊勝そうな顔で、
「ご冥福をお祈りします」
と言い出す。


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共産主義を信奉している国の人たちは、
死後の世界を認めないはずだが、
大統領などが死去すると、半旗を掲げ、
国葬をとり行うではないか。
クレムリンの「赤の広場」の裏手には、
旧ソ連の歴代書記長の墓があり、
花がそなえられているという。
死後がないなら、死体はただの肉塊となり、
墓も葬式もいらない。
思想的矛盾と言わねばならぬ。
自他ともにインテリと認める人は、
概して死後の世界を否定し、
またそれが知識人の証明であるかに思っていることが多い。
科学者には、その傾向が顕著であろう。
しかし、ひとたび肉親などの死にあうと豹変して、
平生の信念はどこへやら、
「心から、ご冥福を・・・」
と弔辞を読んでいる。

あるいは泣きながら、
「静かにお眠りください」
と言う人もある。
生前、その人の好きだった食べ物や酒などを墓に供え、
語りかけている光景も目にする。
周囲の人も、何の不審も持たない。
死後がなければ、「冥土の幸福」を祈る理由もなく、
まったくナンセンスになってしまう。

「安らかに眠る」ものもなく、墓も必要ない。
これは、死後の世界を否定し切れない感情が
私たちにあるからであり、しかもその世界は、
暗く苦しいものであると、予感しているのである。

死んで極楽浄土に往っている人の、冥福を祈るだろうか。
暗い世界に沈んでいるのではないかと思うからこそ、
「幸せになってください」と願うのである。
一片の知性によって、死後の苦界を否定してみても、
死んだ親などが苦しんでいるのではと思うのは、
そう思わずにおれなくする実存があるからという平凡な真理を、
かみしめねばならぬだろう。

地獄があるかないかは、知識の問題である。
死んだ後が恐ろしい、助かりたいという気持ちは、
人間の問題である。

死後の地獄を恐れる心は、
「地獄なんてないだろう」という知識くらいで
清算されるワケがないのだ。


●必堕無間の一大事


一歩、後生と踏み出すと、真っ暗な心が出てくるではないか。
今晩死んでも、覚悟はよいか。
いやーな思いになるのを、「後生暗い心」という。
その心を抱えて死ねば、地獄である。
釈尊は、
必堕無間
と説かれ、「必ず無間地獄へ堕ちる」と仰った。
中国の善導大師は、
ひとたび泥犂(でいり・地獄)に入りて
長苦を受くる時、始めて人中の善知識を憶う

と説かれている。
親鸞聖人が、
「もしまた、このたび疑網に覆蔽せられなば、
かえりてまた昿劫を逕歴(きょうりゃく)せん」
と仰ったのは、暗い心(疑網)を抱えたまま一息切れれば、
気の遠くなるほど長い間、
苦患に沈まねばならぬという意味である。

これを、「後生の一大事」という。
「後生」とは死んだ後。
取り返しのつかない大事件が惹起するから、一大事だ。
人生の目的は、この一大事の解決以外にない。
ではどうすれば、後生の一大事は解決できるのか。
それは、仏法を聞き、
阿弥陀如来の本願に救い摂られるしかないのである。

ゆえに釈尊は、仏教の結論として、
一向専念無量寿仏
と説かれ、親鸞聖人も、
「一向専念の義は、往生の肝腑、
自宗(仏教)の骨目なり」
と仰った。

仏教は何のために聞き、何を達成するのか、
よく知って、一日も早く、
目的を完遂させていただかねばならない。


●成仏と読経の関係は?
    池に石を投ぜられた釈尊


少し前の資料だが、国民生活センターによれば、
平均の葬儀費用は、249万円で、
内訳は次のようになっている。
葬儀社へ・・・87万円
寺へ・・・48万円
飲食費・・・31万円
香典返し・・・72万円
その他・・・11万円
(平成10年9月号のとどろきより載せています)
盛大な葬式を求める背景には、
死者への追善供養を重視する考え方がある。
死んだ家族の「霊」は、どこへ行ったのか。
一般には、極楽とか天国と思われているが、
そんな楽しい世界へ行っているなら、
霊を慰める必要はまったくない。

生きている人間の方が、
慰めてもらいたいくらいだろう。
やはり何となく、死者は暗黒の世界で苦しんでいるように思うのだ。
それで、お金をかけた葬式をしなければ、
「死者は成仏できないのでは」と考え、
張り込んで、できるだけ長いお経を読んでもらおうとする。


あるとき釈尊に、一人のお弟子が、
「死人のまわりで有り難い経文を唱えると、
死人が善い所へ生まれ変わるという人がありますが、
本当でしょうか」
と、尋ねた。
釈尊は、黙って小石を一個拾われ、
近くの池の中に投じられる。
水面に輪を描いて沈んでいった石を指さし、釈尊は、
「あの池のまわりを、石よ浮いてこい、浮いてこいと唱えながらまわれば、
石は浮いてくるであろうか」
と、反問されている。
お弟子が、
「石は浮いてきません」
と答えると、
「そうであろう。石は、それ自身の重さで沈んでいったのだ。
だから、どれだけ周囲の者が『浮いてこい』と繰り返しても、
浮かび上がるはずがない。
人間もまた同様だ。
人はそれぞれの罪悪の重さによって、
死後に生まれる世界が定まるのだ。
この世の者が、経文を読んでも、
死人の運命が変わるはずがない」
釈尊は、読経や儀式で死者が救われるのではないと
教えられたのだった。


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●追善供養されなかった聖人


「さらに親鸞珍らしき法をも弘めず、
如来(釈尊)の教法を、われも信じ、
人にも教え聞かしむるばかりなり」
と、無我に仏教を相承なされた親鸞聖人は仰っている。
「親鸞は父母の孝養のためとて念仏一遍にても
申したること未だ候わず」
         (歎異抄第五章)
この親鸞は、死んだ両親の追善供養のために、
一度の念仏を称えたことはない

と言われるのである。
念仏も称えたことがない、とは、もちろん、
孝養のための読経をしたり、線香をたてたり、
花を供えることもなかったということだ。
それでは、親鸞聖人は不孝な方であったのか。
そうではない。
4歳で父君、日野有範卿と別れられ、
8歳で母君、吉光御前と死別なされた聖人は、
人一倍、親恋しいお心が強かったに違いない。


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また、「恩を知らざる者は畜生に劣る」
と知恩、感恩、報恩を厳しく教えられる仏教を求められ、
阿弥陀仏に29歳で救い摂られ、
「如来大悲の恩徳は
身を粉にしても報ずべし
師主知識の恩徳も
骨を砕きても謝すべし」
と、恩徳讃を歌われた聖人である。
深重なる仏恩、広大なる師恩に感泣なされた聖人が、
阿弥陀如来、善知識・法然上人についで、
大恩を感じておられたご両親の魂の行く末を案じられないわけがない。
読経や念仏で、ご両親を救えるなら、
どれだけでもなされただろう。
しかし、それは救いにならないという、
釈尊のご教導に従われ、聖人は追善供養を一切、
なされなかったのだ。

そもそも経典は、釈尊が苦しみ悩む人に説かれた教えを、
お弟子方が書き遺したものである。
死人に説法なされたはずがない。
あくまでも、現在、生きている苦悩の衆生を
真実の幸福に導くための経典なのだ。


○葬式・法事を勝縁に


では、葬式や法事や読経はまったく無意味なのだろうか。
それは、勤める人の心にかかっている。
厳粛な儀式で、わが身を反省して罪悪と無常を観ずれば、
有り難い勝縁となる。

また法事も、よく分からない読経のみで終わっては所詮がない。
そのお経に説かれている真実の教えを聞かせていただいたり、
アニメ『世界の光・親鸞聖人』を皆で聴聞して、
ますます信心決定せねばならぬと知られてこそ、
意味があるのである。

「命のうちに不審もとくとく晴れられ候わでは、
定めて後悔のみにて候わんずるぞ。
御心得あるべく候」
       (御文章一帖目六通)
蓮如上人のお言葉を深くかみしめ、
葬式、法事も勝縁に、人生出世の本懐に向かわねばならない。


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●肉体より魂の葬式を
     「賀茂河にいれて魚に与うべし」


親鸞閉眼せば賀茂河に入れて魚に与うべし」(改邪鈔)
賀茂川は、京都に流れる有名な川である。
京に生まれ、京で晩年を過ごされた親鸞聖人には、
馴染みの深い川であっただろう。
その賀茂川に入れて、
自分の亡骸を魚に食べさせてやってくれよと、
聖人は仰っている。
驚くべきお言葉だ。


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遺骨を大切にしたり、葬式や法事に力を入れる風潮と
正反対だからである。

このお言葉は、種々に味わうことができるが、
まず一番は、遺体の後始末や肉体の葬式よりも、
魂の解決こそ急がねばならないのみ心であろう。

我が祖師・親鸞聖人は、阿弥陀仏に救い摂られた一念をもって、
魂の臨終であり、心の葬式だと教えられた方である。
『愚禿鈔』には、
「信受本願 前念命終、
即得往生 後念即生」
と仰せられている。
「信受本願 前念命終」とは、
弥陀の本願を信受した一念に、
迷いの命(昿劫より流転を重ねてきた自分の心)が
死んでしまうことである。だから、
「命終」である。
覚如上人は、この体験を
「平生のとき善知識の言葉の下に帰命の一念を発得せば、
そのときをもって娑婆のおわり臨終とおもうべし」
           (執持鈔)
と喝破なされている。
平生のとき、善知識のお言葉に導かれ、
阿弥陀仏に帰命した一念に、娑婆の終わり、
心の臨終を体験させられる。

だから、生死の断頭台に
生首を突き出す覚悟で聞かねばならぬときが、必ず来る。


そのとき、「南無阿弥陀仏」の仏心をいただいて、
「あら尊(とうと)
   地獄の底が
 極楽の
   門であったか
      涙こぼるる」
と、生まれ変わる。

親鸞聖人は、この「六字のまこと」をいただく体験を、
「即得往生 後念即生」と仰っているのである。
迷いの心が死んだとき、往生を得る。
この世の往生だから、不体失往生といわれる。
その時に、即ち生まれる。
一念で生まれるから、「後念即生」という。
「信受本願 前念命終」「即得往生 後念即生」とは、
文章に表せば前後ができるが、
体験は一念同時。
これを、信心決定信心獲得というのである。
この魂の臨終、心の葬式こそ大事であり、
信心決定した人は、もう葬式は、終わっているから、
肉体の葬式は、もはや問題ではなくなる。


二番目は、深信因果。
仏教の根幹は、因果の大道理である。
一切は、みな因果の道理に従って成立し、変化する。
蒔かぬ因は生えぬが、蒔いた因は必ず生えるのである。
阿弥陀仏に救い摂られた聖人は、仏智により、
善因善果、悪因悪果、自因自果の因果の道理
狂いなしと知らされた。
だから、「賀茂河にいれて魚に与うべし」のお言葉には、
「なんと今まで多くの殺生をしてきたことか、
食うたら食われるのが因果の道理、
せめて死んだら食べてもらおう」
という深信因果もあったに違いないと思われる。


●罪悪感と大慈悲心


三番目には、徹底した罪悪感が窺える。
一生造悪、曽無一善で出離の縁有ることなしの親鸞に、
葬式や墓などとんでもない、
勿体ないという深い懺悔もあったであろう。

最後に、親鸞聖人の大慈悲心がくみ取れる。
信心決定した人は皆、宇宙最高の功徳である
「南無阿弥陀仏」の名号と一体になる。

親鸞聖人が、
「五濁悪世の有情の
選択本願信ずれば
不可称不可説不可思議の
功徳は行者の身にみてり」
       (正像末和讃)
と言われ、蓮如上人が、
「弥陀をたのめば南無阿弥陀仏の主になるなり。
南無阿弥陀仏の主に成るというは、
信心を獲ることなり」
       (御一代記聞書)
と仰せになっている通りである。
親鸞聖人には、「この『南無阿弥陀仏』と
一体の肉体を食べて、いずれの世にか、
魚にも仏縁あれかし」の度衆生心もあっただろうと拝察される。

人間のみならず、衆生一切の救済を念じられる
親鸞聖人の大慈悲心を彷彿とさせられるではないか。
それにつけても、葬式や墓番を任務のように心得ている仏教もあるが、
この金言を何と味わっているのであろうか。
親鸞聖人の悲憤が聞こえてくるようだ。


 


 


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