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無常こそ阿弥陀仏に救われる縁となる! [なぜ生きる]

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読者の皆さんからのアンケートによると、
伴侶や肉親、友人知人の無常が本誌購読のきっかけ、
という方が大変多く見られます。

「年を重ねていく自分。
母、弟と死別した悲しみや、二人はどうしているかという心配、
自身が来世に旅立つ不安がありました」
           (愛知県 60代女性)
無常を観じ、人生の意義や自身の未来を思うのは、
まことに人間らしい心だと仏教では教えられます。

今回は、まず、わが子との痛切な別離を乗り越え、
人生の喜びを見いだした読者を紹介しましょう。

●「あの子が身をもって
       導いてくれた」
     愛息との突然の別れ

石川県かほく市の黒田まゆみ(仮名)さんは、
10年前、最愛の子息を15歳で亡くしました。
「今でも毎日、息子のことを思っています。」
と述懐する別れとは、どんなものだったのでしょうか。

異変は突然訪れた。
中学3年の秋、部活動を引退し、
受験を目前に控えた長男は、原因不明の熱が続いていた。
数日前の遠足の疲れでも残っているのか。
近所の医院を受診すると、すぐに金沢の大学病院を紹介された。
それほど重症とは思えないし、サッカーで鍛えていたから、
大したことはないはず。
だが検査後、すぐに入院を促す連絡が来る。
血液検査の数値が異常に高いと医師は、
難病とすぐ分かる病名を告げた。
それからは、アッという間の出来事だった。
入院して2日目まで意識があったが、
その後、昏睡状態に。
心臓の鼓動は徐々に弱まり、心の準備も最後の会話もできぬまま、
10日後、息を引き取った。
「なぜもっと早く気づいてやれなかったのか」
悔やみ切れず、自らを責める。
勉強もサッカーも、あんなに努力して、
頑張っていたのに、なぜこんなことに・・・
深い悲しみに暮れた。
せめてもの供養にと、毎日読み始めたのが親鸞聖人の『正信偈』だった。
仏縁深い家庭で、祖母の勤行の声を聞いて育ったからだろう。
息子を思い、そうせずにはおれなかった。


●『なぜ生きる』
  タイトルに引かれ


心の傷は癒えぬまま、数年後、
今度は自身が病に倒れた。
安静を余儀なくされ、病室で過ごす毎日、
心は優れず、“やがて散りゆく命、何のために生きていくのだろう”
の問いが胸につかえていた。
そんな黒田さんに年若い主治医が、
「本でも読まれませんか」
と持ってきた書物の中に、
なぜ生きる』のタイトルがあった。
心引かれ、“ぜひ読みたい”と手に取ると、
中には、幼少時から親しんだ親鸞聖人の教えが詳しく説かれていた。
続いて『歎異抄をひらく』を手にする。
『歎異抄』がどんな書物かも知らなかったが、
これも親鸞聖人の教えであり、
「生きる意味」が教えられていることに驚いた。
一層詳しく聞きたいと、退院後、勉強会に参加し、
どんな人も救われる弥陀の本願を知らされた。
「息子が身をもって仏法に導いてくれたと思います。
あの子のためにも真剣に求めたいと思っています」

●真の人生の意義とは

夢の世を
あだにはかなき 身と知れと
教えて還る 子は知識なり

(知識・・・弥陀の本願を伝える教師)
愛し子に先立たれた悲嘆を勝縁に、
人生の意味を問い、
仏法を求めて救われてみれば、
夭逝のわが子は善智識である
、と歌っています。
古来、逆縁に泣く親は数知れず、
日本を代表する哲学者・西田幾多郎もその一人でした。
『我が子の死』という随筆に、
愛娘との永久の別れが述べられています。
「今年の一月、余は漸く六つばかりになりたる己が
次女を死なせて(略)
この度生来未だかつて知らなかった沈痛な経験を得たのである。(略)
特に深く我心を動かしたのは、
今まで愛らしく話したり、歌ったり、遊んだりしていた者が、
忽ち消えて壺中(こちゅう)の白骨となるというのは、
如何なる訳であろうか。
もし人生はこれまでのものであるというならば、
人生ほどつまらぬものはない、
此処には深き意味がなくてはならぬ、

人間の霊的生命はかくも無意義のものではない。
死の問題を解決するというのが人生の一大事である、
死の事実の前には生は泡沫の如くである、
死の問題を解決し得て、始めて真に生の意義を悟ることができる

では、真の人生の意義とは何か。
その答え一つを説かれたのが、実に仏教なのです。

今回はそれを、室町時代の蓮如上人が書かれた
白骨の御文章(御文)』に学びましょう。
まずは全文を拝読します。

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冒頭の一文、
それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、
凡そはかなきものは、この世の始中終、幻の如くなる一期なり

からお聞きしましょう。

●苦しみ漂う人生

まず“人間の浮生なる相をよくよく見てみると
と仰っています。
「浮生」とは「浮いた生」と書くように、
水面に漂う浮草のような一生のこと。
人間の実相をこう表現されているのです。
どこから来て、どこへ行くのか、
生きる意味も分からぬ根無し草。
何を手に入れても、どこかしら不安で、
私たちはひょうたんの川流れのように根拠のない生を、
フワフワと日々、過ごしているのではないでしょうか。


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気楽な人生はどこにもなく、皆、生きることに必死です。
果たしてどこへ行くのでしょう。
全国紙の人生相談には毎日、
さまざまな人生模様が描き出されています。
“50代のシングルマザー。
寄り道して仕事の帰りが遅くなると、
同居の母が嫌味を言う。母から自由になりたい。”
“40代主婦。幼少時から人見知りの激しい中3の次男が、
学校に行きたがらない。
高校受験も近いのにどうしたら・・・”
など、人の数だけ苦悩があることが知らされます。
50代の独身女性からはこんな相談も。
「母と弟を相次いで亡くし、一億円以上の遺産を相続した。
だが大金を得たと喜ぶより、
人生の指針を失ったように感じて戸惑っている。
どんな心持で暮らせばいいのですか」
“私なら諸手を挙げて歓迎するのに”
と思う人も多いでしょうが、大枚を手にすれば、
自身も周囲も平常心ではいられない。
好事魔多しで、思いもかけぬ事態に襲われることもある。
宝くじの高額当選で人生を誤る人が多いのも、
生きる目的が分からず、本当の金の使い道を知らないからでしょう。

続いて、
凡そはかなきものは、この世の始中終、
幻の如くなる一期なり
」。

「始中終」とは始め、中、終わりのこと。
人生まだ始まったばかり、と思っていたのが、
すぐに中程に差しかかり、あれよあれよと終盤へ。
人の一生は幻のようだ、と仰せです。


40代男性の、こんなつぶやきがありました。
「10代の頃、応援していた同い年の女性アイドルが、
久しぶりにCM出演していたので、
オッと思って見てみると、なんと<白髪染め>のCM。
そうだよな、彼女もデビュー30年。
気だけは若いけど、オレも・・・」



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●夢の如く過ぎ去る時間

「一生過ぎ易し」
人生の速さを、古今の人々はさまざまに表現しています。
有名な能の『邯鄲』は中国の古典に題をとった演目。
「一炊の夢」ともいわれる故事です。

田舎の青年・盧生が人生に迷い、
有名な僧侶を訪ねて教えを請おうと旅に出た。
途中、邯鄲という町の宿屋で休憩していると、
女主人が仙人からもらったという枕を出して、
粟の炊ける間に一休みするように勧めた。
やがて、眠りかけた盧生を楚国の役人が迎えに来る。
どうしたわけか、帝が彼に譲位したいという。
驚きつつも彼は王位に就く。
有為転変も味わいながら、栄耀栄華を極め、
気づけば50年の歳月。
波乱万丈の一生だったなあ、と思ったその時、
女主人に起こされた。
粟飯がようやく炊き上がったということだった。

●終幕・・・・・行く道

我や先、人や先、今日とも知らず、
明日とも知らず

5月下旬、俳優の今井雅之さんが54歳の若さで亡くなりました。
演劇に情熱を傾け、男気ある言動が人気でしたが、
死の一カ月前、ガン闘病を告白する記者会見には、
やせ衰えた彼の姿が。
かつての精悍な風貌は消え、人前もはばからず
「悔しい、悔しい」と涙を流すインタビューが胸を打ちました。
若い終幕に惜しむ声は絶えませんが、
遅かれ早かれ、皆行く道であります。
しかも人間は貪欲(欲)、瞋恚(怒り)、愚痴(ねたみ、そねみ)
の三毒の煩悩にまみれ、生きるためとは言いながら、
数限りない殺生を繰り返している。
誰もが抱え切れぬ悪業を背負って生きているのです。

人生、夢幻の如し。
「朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり」
と知らされれば、
「私の後生はどうなるのか?」
と問わずにおれなくなるのです。


●弥陀を一心にタノメ

この『御文』の最後に、
誰の人も、はやく後生の一大事を心にかけて、
阿弥陀仏を深くたのみまいらせて、念仏申すべきものなり

と、蓮如上人は、真の生きる目的を教えられています。
「誰の人も」とはすべての人のこと。
「はやく」は、明日なき命の私たちだから、
一日も片時も急げと言われています。
「後生の一大事」とは、生ある者、必ず死す。
死んでどこへ行くのか、ハッキリしないこと。
後生とは無関係な人は一人もありません。
万人共通の一大事であり、
これを生死の一大事ともいいます。

この生死の一大事を解決し、
「どんな人も、必ず極楽浄土に往生させてみせる」
と誓われているのは、大宇宙最高の仏さま、
無上仏ともいわれる阿弥陀仏だけなのです。


その阿弥陀仏の誓いを、蓮如上人はこう教えられています。

弥陀仏の誓いましますようは、
『一心一向にわれをたのまん衆生をば、
如何なる罪深き機なりとも救いたまわん』
といえる大願なり
」    (御文章二帖目九通)

「すべての人よ 一心に我をたのめ
どんな悪人も
必ず絶対の幸福(往生一定)に救い摂る」

との偉大な誓願であります。
蓮如上人が『白骨の章』の最後に
「阿弥陀仏を深くたのめ」
と言われているのは、私の生死の一大事は、
この阿弥陀仏の本願によらねば救われないからなのです。

弥陀たのむ一念に往生一定、絶対の幸福に救い摂られたならば、
来世は必ず極楽浄土に往って、
弥陀同体の仏に生まれることができる。

これこそ人界受生の本懐(人生の目的)なのだから、今、
真剣に仏教を聞けよ、と教導されているのです。


●タノム=あてにする 力にする

では肝心の「弥陀たのむ」とはどんなことか。
蓮如上人の『御文章』には、至る所に
「弥陀をタノメ」
「弥陀をタノム」
と仰っています。
これは大変重要な、しかも誤解されているお言葉です。
「弥陀をタノメ」
「弥陀をタノム」
「弥陀をタノミ」
をほとんどの人は、他人にお金を借りに行くときのように頭を下げて、
「阿弥陀さま、どうか助けてください」
とお願いすることだと思っています。
ところが蓮如上人の教えられる
「弥陀をタノメ」
は、全く意味が異なりますから注意しなければなりません。
古来、「タノム」という言葉に「お願いする」
という祈願請求の意味は全くありませんでした。
今日のような意味で、当時、
この言葉を使っている書物は見当たりません。

それが「お願いする」という言葉に使われるようになったのは
後世のことなのです。

「タノム」の本来の意味は、
「あてにする、憑(たの)みにする、力にするということ。

蓮如上人の仰る
「弥陀をタノム」
は、阿弥陀仏をあてにする、憑みにする、力にする、
という意味なのです。

もし蓮如上人が
「阿弥陀仏にお願いせよ」
と仰ったのなら、
「弥陀にタノム」
と書かれるはず。ところがそのような
『御文章』は一通もありません。
常に
「弥陀をタノメ」
「弥陀をタノム」
「弥陀を」と仰って、「弥陀に」とは
言われていません。これらでも明らかなように、
「弥陀をタノメ」
「弥陀をタノム」
は、祈願請求の意味ではないのです。

浄土真宗で「タノム」を漢字で表す時は、
「信」とか
「帰」で表します。
「信」はお釈迦さまの本願成就文の「信心歓喜」を表し、
「帰」は天親菩薩の『浄土論』の「一心帰命」を表したものです。
阿弥陀仏に信順帰命したということは、
弥陀の本願が「あてたより」になったことです。
ゆえに親鸞聖人は、

「本願他力をたのみて自力をはなれたる、
これを『唯心』という」    (唯信鈔文意)

(本願他力があてたよりになって、
自力の心のなくなったのを、唯心という)

と仰せになっています。蓮如上人も、
「一切の自力を捨てて、弥陀をタノメ」
と仰っています。
「弥陀をタノメ」
とは、自力の計らいを捨てよということです。
一切の計らいが自力無功と照破され、
「弥陀の五劫思惟は私一人のためだった」
と明知したのを、
「弥陀をタノム」
と言われているのです。


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蓮如上人の
「自力を捨てて、弥陀をタノム」
は、曠劫流転の迷いの打ち止めであり、
他力永遠の幸福に輝くときです。
だから他力になるまで他力を聞くのだと教えられています。
弥陀の救いは「聞く一つ」。
弥陀をタノム一念に本願を聞きひらいて、
往生一定の身にさせていただきましょう。

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