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遇いがたき師主知識のご恩 [善知識]

動画を観られるとよく分かると思います。


(真実の仏法を説いてくださっています)


また、真実の仏法は慈悲でいっぱいなので癒されますし、


生活の指針にもなるので役立ちます。


そういう意味でも見られるといいですよ。


「仏法はこの人から聞け」正しく仏教を説く人(善知識)の特徴.


 


https://www.youtube.com/watch?v=yGCSkNGSS7E


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(真実の仏教を説かれている先生ご執筆の『とどろき』より載せています)



如来大悲の恩徳は
身を粉にしても報ずべし
師主知識の恩徳も
骨を砕きても謝すべし

       (親鸞聖人・恩徳讃)
阿弥陀如来の洪恩は、
身を粉にしても報い切れない。
その弥陀の大悲を伝えてくだされた方々のご恩も、
骨を砕いても済みませぬ


法話の最後に歌われる親鸞聖人の「恩徳讃」。
短いお言葉に、私たちの人生を左右する
大切なメッセージが込められています。
その「如来大悲の恩徳(本師本仏の阿弥陀如来のご恩)」について、
昨年の11月号からお話ししてきました。
では、「師主知識の恩徳」とは、どういう意味なのでしょう?
すべての人にとって、とても大事なことですので、
今回から学んでいきましょう。

●師主知識とは?

「師主知識」の「知識」とは、“健康の基礎知識”といわれるような
「知識」ではありません。
この「知識」は仏教用語で、
仏教を伝える先生」という意味です。

親鸞聖人が、師主知識に巡り遇えた感激を、
みずみずしく詠い上げられた、このような『和讃』があります。


真の知識にあうことは
かたきが中になおかたし
流転輪廻のきわなきは
疑情のさわりにしくぞなき(親鸞聖人)

苦しみの根元は“疑情”と説く、
真の仏教の師(師主知識)に遇うことは、
難しい中にも難しい

「正しい仏教の先生・師主知識」にお遇いすることは、
希の中にも希であると、親鸞聖人は言われています。
こう聞かれると
うちの町にも坊さんはいる。
なぜ遇うのが難しいのだろう?」
と首を傾げるかもしれません。

確かに、日本の寺院数はコンビニの2倍、
約7万6000か所といわれます。
僧侶と名のつく人は、ほとんどの町にいるでしょう。
しかし問題は、
その人たちが、どのようなことを教えているか、です。

実態はどうでしょう。

●なぜ遇い難い、真の知識

数年前、NHKの『クローズアップ現代』で、
最近の寺について次のようなことが語られていました。
「お坊さんも世襲になってきて、
家業になってしまっている。
本当に仏教のことを信じているお坊さんは、
そんなに多いのだろうか」
「葬式、法事が『商品』のように扱われるようになったと思う」
「『生き残れるか仏教』というテーマで講師をやって、
さあ、皆さんどうですかとお坊さんたちに聞くと
『いやー、うちの寺の経営が』とか、
『檀家さんが少なくなってきて』と、
寺の経営のお話しをまず第一にします。
けれども、我々からすると、
『生き残れるか仏教』というのは寺が潰れるかどうかの話ではなくて、
これだけ苦しみの多い現代社会で、
果たして仏教は我々を救ってくれるのだろうか
(ということが問題なのです)」

また、このような統計も紹介されていました。

○仏教に良いイメージを持っている人・・・約90%
○寺に良いイメージを持っている人・・・・約25%
○僧侶に良いイメージを持っている人・・・約10%

そして、こう語られていました。
「(この統計結果を)一言で言えば、
お寺とかお坊さんは
仏教をやってないんじゃないかということですよね。
仏教にはいいイメージがあるわけだから」

実際、仏教と聞くと、何が思い浮かぶでしょうか。
葬式や法事・読経ばかりの葬式仏教、ゴマを焚いたり、
柱にスリスリ触れば幸せになれるというゴ利益仏教、
数年に一度のご開帳と宣伝して伽藍や仏を見せ物にする観光仏教、
信仰より社会事業を重視して、
学校や幼稚園経営に奔走する事業仏教、
境内を駐車場に貸し、学校教師などになって衣食する二股仏教、
祖師や中興の法要にかこつけて、金集めする遠忌仏教などなど。

IMG_20150907_0004.jpg-1.jpg


もちろん、それらは論外ですが、
欲や怒り、ねたみそねみの煩悩を苦しみの元と教え、
それらにどう向き合えばよいかを説く僧は、
今でも少しはあるでしょう。
しかし、親鸞聖人は、
「真の知識とは、
『流転輪廻のきわなきは、疑情のさわりにしくぞなき』と、
説かれる先生のことである」

と明言されています。

実は、葬式を生業としたり、
倫理道徳を語るだけの僧侶は、
真の知識とはいわれないのです。
では、
「流転輪廻のきわなきは 疑情のさわりにしくぞなき」
とは、どういう意味なのでしょう。

●きわなき流転輪廻

「流転輪廻」とは、同じところをグルグル回り、
果てなく迷い苦しむこと。

“真の安心・満足”というゴールなきレースが人生なら、
誰しも、死ぬまで苦闘を続ける悲劇で終わります。
室町時代の禅僧・一休は、こう歌いました。

「人生は
喰て寝て起きて クソたれて
子は親となる 子は親となる」

IMG_20150907_0001.jpg-1.jpg

一生を煎じ詰めれば、台所で食べ、
便所で出す、寝たり起きたりのフトンの上げ下げにすぎぬ。
やがて子が親となって死んでいく。
「結婚や出産は人生のイベントにすぎなかった。
終わったら単調な日々が繰り返されるだけ」
「楽しいのはほんのしばらく。
スグに色あせ、幸福はすぐに、“スタートに戻る”」
と、
500年後の現代人からも、
変わらぬ「流転輪廻」の嘆きが聞こえてきます。
着実に重ねたのは年齢。
けれど、いまだに人生のゴールは見えてこない。
「『日暮れて、道遠し』とはこのことか」
と実感している人も少なくないでしょう。
ある新聞に、こんな記事が載っていました。
「特別に楽しいことも悲しいこともなく、
平々凡々に生きてきて、疲れもたまっているが、
子供の手も離れ、ようやくこれから私の人生に・・・
というところで、舅に先立たれた姑が家族に加わった。
手に入れたマイホームには、
ローンと積み増された『老い』だけが残された」
そしてこの主婦は、決意して12日間のヨーロッパ旅行に行ったが、
旅が終われば、また日常のため息に逆戻りしたといいます。

急速な科学の進歩により、生活は大きく変わった。
部屋には冷暖房、飛行機に乗れば7時間でアメリカへ。
無料の国際電話サービス。
トイレに行けばウォシュレットが心地よい。
昔と比較にならぬ豊かさと快適さを手にした。しかし、
「マリーアントワネットも馬車で移動したのに、
私は車だなんて、とっても幸せ」
「始皇帝はウチワで涼んでいたのに、
クーラーがある僕は何と幸せ者だろう」
と喜ぶ人がどこにあるでしょう。
かつての王妃や皇帝以上の幸せを手にしても、
今日は全て「当たり前」で、
幸せ感がどこにもありません。
まさに「有無同然」の仏説どおりなのです。

何ごとも原因を間違えれば大変で、治る病気も助からない。
腹痛も、胃潰瘍か、ガンか、神経性か、はたまた、
ただの食べ過ぎか、正しい診断がなければ、
的確な治療は望めず、苦しみは除かれません。
胃ガンを潰瘍と誤診したら命取り。
治療の先決問題は、だから原因の究明でしょう。

人生にむなしさや苦しみを感じる私たちも同じです。
趣味に没頭しても、自己啓発セミナーに通い詰めても、
成功を手にしても、なぜか底知れぬ寂しさ、
むなしさがなくならない。
「人間に生まれてよかった」
の生命の歓喜がないのはなぜか。
どんなに文明文化を進歩させても、幸せは進歩せず、
人類は、原因不明のまま、暗い森をさまよっているのです。

しかも、その迷いの深さは私たちの想像を超えています。
お釈迦さまは、
「人は皆、生まれては死に、生まれては死に、
果てしのない過去から生死流転の迷いを重ねてきたのだ」
と教えられています。

迷いの世界は大きく分けると6つあると説かれ、
これを六道とか、六界といわれます。
次の6つの世界です。

地獄界・・最も苦しみの激しい世界。
      八大地獄が説かれている。
餓鬼界・・食べ物も飲み物も皆、炎となって食べられず、
      飲まれもせず、飢えと渇きで苦しむ世界。
畜生界・・犬や猫、動物の世界。
      弱肉強食の境界で、常に不安におびえている世界。
修羅界・・絶えない争いのために苦しむ闘争の世界。

人間界・・苦楽相半ばしている、我々の生きている世界。
天上界・・六道の中では楽しみの多い世界だが、
      迷界に違いなく、悲しみもあり寿命もある。
これらの世界を、際限なく回る車輪のように、
私たちは輪廻してきたのです。

ここまでくると、どんな哲学者も思想家も、
苦悩の謎の解明はお手上げでしょう。
そんな中、親鸞聖人は、苦しみやまぬ相(すがた)
を、
「きわなき流転輪廻」と一言されたうえで、
その元凶を鮮明にされ、未来永遠の幸福になれる法を
説き開かれたのです。

一体、私たちの苦しみの根元は何だと、
親鸞聖人は教えられているのでしょうか。

●まったく意外な苦悩の根元の正体

私たちが最も知りたい、知らねばならない苦悩の根元を、
親鸞聖人は、こう断言されています。
「疑情のさわりにしくぞなき」(疑情一つである)
疑情とは「阿弥陀仏の本願を疑う心」のことです。

では阿弥陀仏の本願とは何でしょう。
大宇宙最尊の阿弥陀仏は、
「煩悩具足の者を絶対の幸福(往生一定)に一念で救い摂り、
来世は必ず極楽浄土へ生まれさせる」
と誓われています。
これが世に聞こえた「阿弥陀仏の本願」です。

「本願」とは「誓願」ともいわれ、
三大古文に数えられる『歎異抄』は
「弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて往生をば遂ぐるなり」
と書きだされています。
煩悩」とは、あれが欲しい、これも欲しいという貪欲
カッと腹立つ瞋恚、うらみねたみの愚痴などをいいます。
「具足」とは、100パーセントということですから、
「煩悩具足」とは、煩悩100パーセント。
煩悩でできているのがすべての人だ、
と阿弥陀仏は見抜かれ、
そんな「煩悩具足の者を救う」と誓っておられるのです。


親鸞聖人は、この阿弥陀仏の本願を大船に例えられ、
その大船に乗せていただいても、
私たちの煩悩は全く変わらない、と仰っています。
仏法を聞いたら、欲が減ったとか、腹が立たなくなった、
と思っているのは自分の本当の姿を知らないのです。
「煩悩は臨終の一念に至るまで、止まらず消えず絶えず」
と親鸞聖人が仰るように、死ぬまで減りもしなければ、
なくなりもしない。
だから人間は「煩悩具足」、煩悩の塊と言われるのです。
「かわいそうだなぁ、せっかく人間に生を受けながら、
生命の歓喜を知らぬとは。
罪悪深重の己の実態も知らず、罪を重ねて、
またしても苦患に沈もうとしている。
とても放っておけぬ。見捨てておけぬ。
何としても助けてやろう」
と、大宇宙でただお一人立ち上がってくださったのです。

そして
「煩悩具足のそのままで、一念で大船に乗せて(絶対の幸福)、
必ず極楽往生へ連れてゆくぞ」
と誓われたのです。
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例えていえば、私たちは100トンの石。
そのままならば必ず水に沈む。
しかし阿弥陀さまは、その大石をそのまま大船に乗せ、
重さ100トンのままで水に浮かばせ、
向こう岸(極楽浄土)に渡してくださるのです。
この弥陀の願船に乗せていただけば、
この世から「往生一定」の身になる。
往生一定とは、いつ死んでも、極楽浄土へ往って、
阿弥陀仏と同じ仏に生まれるとハッキリした(一定)ことです。
大船に乗せていただけば、苦しみの六道から出離し、
2度と迷わぬ身になれるのです。

ところが、こう聞きましても、私たちは、
自分が煩悩具足とは毛頭、思えない。
そんな者が、煩悩具足のままで往生一定に救われるとは信じられません。
この「阿弥陀仏の本願を疑う心」のみを「疑情」といいます。

この疑情が晴れぬ限り、何が、どんなに恵まれても、
人生苦の根本はなくなりません。
弥陀の本願を疑っている限り、
自分が死んでどこに行くのか、さっぱり分からず、
生死流転を繰り返すからです。

そのことを親鸞聖人は
「流転輪廻のきわなきは 疑情のさわりにしくぞなき」
と仰っているのです。
これは、

「真の知識にはめったに遇えないそうですよ」
と他人事のように言われたのではありません。
幸いにも親鸞、弥陀の誓願不思議を説き切られる師主知識、
法然上人にお遇いできた。
弥陀の広大な救いにあずかることができた。
ああ、なんと幸せ者なのか

とのお言葉なのです。
誰しも、際もなき流転の真因を知り、
取り除いていただいてこそ、永久に輝く生命が開けます。
「仏法は聴聞に極まる」
仏法は「苦悩の根元は疑情」と説く
真の知識(師主知識)から、
真剣に聞かせていただかなければなりません。

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