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『正信偈』には、本当の幸せに導く道が端的に説かれている。 [親鸞聖人]


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「きみょうむりょうじゅーにょーらい」
で始まる、親鸞聖人の『正信偈』

編集部には毎月、『正信偈』に引かれて
仏教を学びたくなったという声が
多く寄せられます。
七文字百二十行の『正信偈』の中には
何が教えられ、私の人生にとって
どんな意味を持つのでしょうか。

初めて触れる方も、よく親しんでいる方も、
ぜひ知りたいことでしょう。

今月は「正信偈」という名前の意味から、
その答えをひもといてみたいと思います。

・・・・・・・・・・・・・・

家事や仕事に追い立てられ、
毎日が慌ただしく過ぎゆく。
同じことの繰り返しの中で、
ふと気がつけば、人生のたそがれが目前に迫っている。
あなたは何をするために、
人間としてこの世に生を受けられたのでしょうか。

ただ“食て寝て起きて金ためて”子育てのに励むためなのか。
心の底から「生まれてきてよかった」という生命の歓喜を
味わうことができる人生とは、
どうすればよいのでしょうか。

最近、仏前で心静かに『正信偈』を拝読する人が増えています。
この朝夕の「勤行(おつとめ)」は、
人としての「日々のたしなみ」です。

昔は食事の前に家族そろって勤行する家庭も多く、
「勤行しないと、ご飯を食べさせてもらえなかった」
と懐かしむ方もあるでしょう。
一方で、あるきっかけで『正信偈』を読み始める人が多いのです。
それは「大切な人との別れ」です。

本誌読者の園田ヨシコさん(仮名)は、
3年前の秋、、50年連れ添った最愛の夫を亡くした。
医師として多忙だった夫を支える園田さんの周囲には、
いつも多くの人の出入りがあった。
だが葬式が終わると、サーッと引いて、
急に独りぼっちになった。
「ドカーンと、落ち込みました」
音がないと心が沈む。
見もしないテレビをつけ、
自分が吹き込んだ歌をテープレコーダーでかけ、
部屋を音で満たして気を紛らわそうとした。
独りぼっちになっても寂しくないように、
と続けてきたお茶やお花も、孤独な心には、
何の役にも立たないことが分かりました

ほとんど出歩くことができぬまま、
仏前で『正信偈』をあげる毎日が続く。
半年が過ぎた頃、新聞折込で仏教勉強会の案内を目にした。
「何かある」と直感し、会場へ足を運ぶ。
仏教のイロハからの分かりやすい解説に
「ひび割れた土がグングン水を吸収するように、
続けて聞かずにおれなくなりました」。
以来、光に向かって、聞法人生を歩み始めた。

園田さんと接した講師は、
その心情をこう語っています。
「大切なご主人を亡くされ、お仏壇の前に座る。
『喪失』という言葉を超えた寂しさを埋める方法は、
それしかなかったのでしょう。
しかし、ただ座っていることは耐えられない。
そこで『正信偈』を読み始めました。
そして生きながら死んだような状態から、
少しずつ、少しずつ心が力を取り戻していかれたのです」
お釈迦さまは「諸行無常」と説かれ、
この世に変わらないものはないと教えられました。
「大切な人も死ぬことがある」と、
頭では理解していても、
身近な人の死ほど受け入れるのは容易ではありません。

妻を亡くし、「残りの人生は供養のみ」
と語る中高年男性も多くありますが、
実は供養しているのは
「最も大切なものを失った亡骸のような自分」ではないか

と言う人がありました。
愛する人は自分の一部であり、
伴侶の死は、自分の一部が死んだも同じ。
「このつらい経験は、私にとってどんな意味があるのか」
皆、その答えを求めて仏前に座るのでしょう。

そして、その答えにたどり着いた時、
初めて人は迷える自分自身の追悼を終える、
といえるのかもしれません。

「この『正信偈』の中に答えがあるかもしれない」
そんなせつない、すがるような思いが、
阿弥陀如来のご方便となって、
多くの人を仏法へと向かわせるのでしょう。

『正信偈』に、明らかな私たちの生きる道が
説かれていると知った園田さんは、
「夫を失った悲しみは今も癒えないけれど、
光に向かう道に導かれたこと、感謝せずにおれないのです」
と語っています。

●『正信偈』には
     何が教えられているのか

『正信偈』とは「正しい信心のうた」という意味です。
「信心」と聞くと、無宗教の自分には関係ないと思う人がありますが、
神や仏を信じるだけが信心ではありません。
心で何かを信じていれば、それは、その人の信心なのです。
「信じる」とは、言葉を換えれば、
頼りにし、支えにし、愛すること。
何かを信じなければ、人は生きてはいけません。

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生きるとは、信ずることですから、皆、
必ず何らかの信心を持っているのです。

例えば「明日も明後日も、家族みんな、元気でいられる」
と思って生きています。
それは「自分の死」や「健康」「家族」を
「信じている」ということです。
家や貯蓄、持てる才能や技術を、
あて力にしている人もあるでしょう。
「信じている」という自覚さえないほどに私たちは、
それらに頼り切って生きています。
それが如実に知らされるのは、その幸せが揺らいだ時です。
東日本大震災から5年が過ぎた4月14日、
熊本や大分を中心に、九州全域を襲った地震では、
不気味な余震が千回以上も続き、
倒壊の危険のある自宅に戻れず、
多くの方が避難所生活を余儀なくされました。
昨日までの平穏が一夜にして暗転し、
どれだけの方が、信じ、支えにしていた幸福に裏切られ、
肩を落とし、今も苦しんでおられることでしょう。
「私の住む地域は地震がないから大丈夫」
と思っている方も、他人事ではありません。
「人生には3つの坂がある。上り坂、下り坂、まさか」
と言った人がありますが、人生は、
「まさか、こんなことに・・・」
という驚きの連続でしょう。

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初孫を抱き上げようとしたら腰の辺りに激痛が走り、
リハビリ生活、「まさか、ギックリ腰に・・・」
かわいい息子が助けを求めてきたと思って
大金を振り込んだら、実は振り込め詐欺だった。
「まさか、自分が・・・」
何でもハイハイ従う、おとなしくていい妻だと思っていたら、
定年後に三行半を突きつけられて熟年離婚。
「まさか、俺の女房が・・・」
健康診断でガンが見つかった人が、
足下が崩れるようなショックを受けるのも、
信じていた健康に裏切られたから。
子供に虐待されて苦しむのは、
命として信じて育てたわが子に裏切られたからです。
「2年前に突発性難聴になり、片耳が聞こえなくなりました。
さらに母がガンで余命3ヶ月の宣告を受け、
受け入れられず、苦しんでいます」
「息子に『金だけ残して死ね』と言われ、
ウツになりました。何のためにいきるのか、
毎日考えています」
こんな愁嘆の声が、世の中にはあふれています。
私たちの苦しみの悩みは、どこから起きるかといえば、
自分が信じ、支えにしているものに
裏切られる時に起きるのです。
「私は別に苦しみなんてないよ」と言うのは、
幸いにもまだ信心が崩れていないからでしょうが、
遅かれ早かれ、その時はやってきます。
無防備に深く信じていればいるほど、
その衝撃は大きくならざるをえないでしょう。

だからこそ、本当に幸せになろうとする時には、
今の私は、何をどう信じているかをよくよく吟味し、
絶対変わらない、裏切られないものを信じなければならないと、
仏教では教えられるのです。

●絶対裏切られない信心
   “浄土往生に碍りなし”

しかし、この肉体さえ焼いて滅びていくのに、
そんな不滅の幸福など、どこにあるのか。

親鸞聖人は「一切の滅びる中に、滅びざる幸せが、
ただ一つだけある」と教えられました。

それこそが、阿弥陀仏の本願に誓われている「絶対の幸福」です。
この弥陀より賜る絶対の幸福を「正しい信心」といわれ、
それを明らかにされたのが『正信偈』なのです。
この正しい信心を獲得した時、
「人間に生まれてよかった・・・。
このための人生だったのか」
と、どんな人もハッキリいたします。
では、絶対の幸福とはどんな幸せでしょうか。
想像もできぬその世界を、親鸞聖人は、
かの有名な『歎異抄』に、「無碍の一道」と喝破されています。

「念仏者は無碍の一道なり。
そのいわれ如何とならば、信心の行者には、
天神・地祇も敬伏し、魔界・外道も障碍することなし。
罪悪も業報も感ずることあたわず。
諸善も及ぶことなきゆえに、無碍の一道なり、と云々」
                (歎異抄七章)
“弥陀に救われ念仏する者は、
一切が障りにならぬ絶対の幸福者である”

ここで言われる「念仏者」とは、
ただ口で「南無阿弥陀仏」と称えている人のことではなく、
弥陀に救われ、お礼の念仏を称えずにおれなくなった人のこと。
すぐ後に「信心の行者」と言い換えられていることでも
明らかでしょう。
「碍りだらけのこの世にあって、
弥陀に救い摂られた人は、
一切が碍りとならぬ絶対の幸福者になれる」
親鸞さまの断言です。

澄み渡る無碍の一道の爽快さを、
「天神・地祇も敬伏し、魔界・外道も障碍することなし」
と仰っています。
神といえば、普通は私たちがおそれて頭を下げるもの。
ところが弥陀より信心を賜った者には、
天地の神々が敬って頭を下げ、
幸せをぶち壊す悪魔や外道の輩も一切、
妨げることができなくなるのだとの確言です。

ここで「碍りにならぬ(無碍)」といわれる碍りとは、
「浄土往生の碍り」のこと。
弥陀に救い摂られれば、たとえいかなることで、
どんな罪悪を犯しても、
“必ず浄土へ往ける金剛心”には全く影響しないから
「罪悪も業報を感ずることあたわず」。
この世のいかなる善行を、
どんなに励んだ結果も及ばぬ幸せだから
「諸善も及ぶことなし」と、宣言されています。

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それでは、この世の苦しみや悲しみは一切なくなるのか。
どんな目に遭っても、誰を失っても笑っている人間になるのか、
と思われるかもしれませんが、そうではありません。
無碍の一道に出たならば、
この世の災禍がいかに襲ってこようとも、
浄土往生は微塵も変わらず、苦しみがそのまま楽しみに転ずる。
つらい事実も幸せの種に変わるという、
全く常識破りの世界です。

「私ほど不幸な者はない」
と他人に恨み世を呪っていた人が、
その涙の種が幸せ喜ぶ種となり、
逆境に微笑し、輝く世界が拝める不思議。

「シブ柿の シブがそのまま 甘味かな」
流れた苦しい年月も過去形で語れる至福です。
これを「転悪成善」の幸せといいます。
転悪成善の不思議さを、聖人はこんな例えで説かれています。

罪障功徳の体となる
水と氷のごとくにて
氷多きに水多し
障り多きに徳多し
」(高僧和讃)
大きな氷ほど、解けた水が多いだろう。
罪や障りの氷が多いほど、
幸せよろこぶ水が多くなるのだ


ひとたび弥陀より絶対の幸福を賜れば、
渦巻く現実のままが光明の広海と転じ、
泣いても曇らず、笑ってもふざけず、
富んでもおごらず、貧しくても卑屈にならず、
憎まれてもすねず、ウラミと呪いの人生を、
感謝と法悦で乗り切らせていただく魂の自由人となるのです。
29歳の御時、この弥陀の救いにあずかられた聖人は、

「如来大悲の恩徳は
身を粉にしても報ずべし
師主知識の恩徳も
骨を砕きても謝すべし」。(恩徳讃)

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こんな広大無辺な世界に救いたもうた阿弥陀如来の大恩は、
身を粉にしても報いずにおれないぞ。
お釈迦さまはじめ、この弥陀の救いを伝えてくだされた方々のご恩も、
骨を砕いてもお返しせずにおれない。
どんな悪人も不可思議な弥陀の本願力で、
今ハッキリ絶対の幸福になれるから、
あなたも早く弥陀の本願を聞信し、
親鸞と同じ心になってくれよ!と念じて筆を染められたが、
『正信偈』百二十行となったのです。

この親鸞聖人の教えを聞き求め、ともに無碍の一道、
絶対の幸福に向かって進ませていただきましょう。
正しい信心を獲得した時、悲しみも苦しみも、
全て通らねばならぬ道だったと知らされ、
如来のご方便に感謝せずにいられなくなるでしょう。

あなたの大切な方も、きっとそれを願っていられるはずですよ。


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