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私とは、何ものか [阿頼耶識(我々の本当の心)]

私といっても肉体以外になく、死んで消滅すれば、
私も無くなると思っていましたが、
肉親を亡くした時、「無」になったとはとても思えませんでした。
一体、「私」とは何なのでしょうか。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(答)
医学の進歩はめざましく、
さまざまな人工臓器の移植が実現されつつあります。
やがて心臓の患者は、障害のある心臓をあれこれ治療することは止めて、
新品の人工心臓に取りかえて元気になるでしょう。
胃腸の悪い人も、手足が動かなくなれば、
これまた新品の手足と取りかえます。
もちろん濁った血液は、清浄な血液と入れかえもできるといった具合に、
ちょうど機械の部品が故障すると、
新品に替えたり補強されたりするように、
私たちの肉体もなるかもしれません。
将来は、人体組織のすべてが交換自由になるでしょう。
さて、そのようになった場合、一体、
生来の私というものは、どうなるのか、
ということが問題になります。
肉体の全てが替わってしまった時でも、
私という根源的主体性というものには、
全然影響が及ばないのでしょうか。

●肉体は別人、
    でも私は私?

肉体は別人であっても、
意識は依然として私であるという面白いことがおきます。
肉体のすべてが変わっても、
私そのものは変わらないとすれば、
その私とは一体、何者でしょうか。
これは決して、これからの医学を仮定しての問題ではありません。
すでに、私たちの肉体は約六十兆の細胞からできていることは
周知のことです。
しかもその細胞は、絶えず新陳代謝して、
おおよそ7年間で全部入れ替わるといわれています。
されば、7年前の私と7年後の私とは物質的に全く別人ということです。
ですが、実際は別人の感じはなく、
やはり同一人であることに間違いないのです。
してみれば、7年前の自分と今の自分との間には、
物質以外に何か一貫して変わらないものがあると
思わなければなりません。
これを統一的主体といわれます。
「いくら年をとっても、気だけは若い感じがする」と、
年配者は言います。
統一的主体としての自己が、
肉体の老化とは関係なくあまり変わらないからでしょう。
これを仏教では、
永遠に亡びざる生命の流れである阿頼耶識と説かれています。
これが明らかにならなければ、
私が行方不明になります。
この永遠の生命の実相が説かれているのが仏法ですから、
本当の私と対面するところまで聞きましょう。


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