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どんな極悪人をも救い切る弥陀の本願力 [阿弥陀仏]


願力無窮にましませば
罪業深重もおもからず
仏智無辺にましませば
散乱放逸もすてられず

       (正像末和讃)


阿弥陀仏には、どんな極悪人をも救い切る、
ものすごいお力があると教えられた親鸞聖人の「ご和讃」です。


●「願力」=「阿弥陀仏の本願力」


初めの「願力」とは、“阿弥陀仏の本願のお力”のこと。
阿弥陀仏は、大宇宙の諸仏から本師本仏と仰がれる最尊第一の仏さまで、
釈迦の経典には、
   阿弥陀仏は、諸仏の中の王なり(大阿弥陀経)
阿弥陀仏は、大宇宙にまします多くの仏方の王様だ、
と説かれています。
蓮如上人も、


阿弥陀如来は三世諸仏の為には本師・師匠なれば、
その師匠の仏をたのまんには
いかでか弟子の諸仏のこれを喜びたまわざるべきや。
この謂を以て、よくよく心得べし

        (御文章二帖目九通)
阿弥陀仏は諸仏の本師本仏であることを、
懇ろに教導されています。


次に「本願」とは、「お約束」のことです。
だから「誓願」ともいわれます。
本師本仏の阿弥陀仏は誰と、どんなお約束をなさっているのでしょうか。
阿弥陀仏の約束の相手は「十方衆生」。
十方とは仏教で大宇宙をいい、
衆生とは生きとし生けるものすべてのことですから、
古今東西のすべての人と弥陀は約束されているのです。
弥陀のお約束の相手に入らない人は一人もありません。
大日如来や薬師如来など、大宇宙に無数の諸仏がおられても、
「われら一切衆生を平等に救わんと誓いたまいて、
無上の誓願を発して」(御文章二帖目八通)くだされている仏は
阿弥陀仏だけですから、弥陀の本願のみを
「弘誓(弘い誓い)」といわれるのです。
その弥陀のお約束を平易に表現すれば、次のようになりましょう。


どんな人をも
必ず助ける
絶対の幸福に


古今東西の全人類を、必ず絶対の幸福(往生一定)に救ってみせる、
と誓われているのです。

こんな素晴らしいお約束は他には絶対ありませんから、
『正信偈』に親鸞聖人は、「無上殊勝の願(この上ない殊に勝れたお約束)とも
希有の大弘誓(大宇宙に二つとない素晴らしいお誓い)」とも言われています。


蓮如上人は『御文章』に阿弥陀仏の本願の偉大さを、
諸仏の本願と比較して、こう教えられています。


抑(そもそも)、諸仏の悲願に弥陀の本願の勝れましましたる、
その謂を委しく尋ぬるに、既に十方の諸仏と申すは、
至りて罪深き衆生と、五障・三従(ごしょう・さんしょう)の女人をば、
助けたまわざるなり。
この故に「諸仏の願に阿弥陀仏の本願は勝れたり」と申すなり

                    (御文章三帖目五通)


私たちは、極めて罪深い者(至りて罪深き衆生)であるから、
大宇宙の仏方は助けることができなかったのだ。
そして次に、


さて、「弥陀如来の超世の大願は、いかなる機の衆生を救いましますぞ」
と申せば、十悪・五逆の罪人も、五障・三従の女人に至るまでも、
皆悉くもらざず助けたまえる大願なり

                    (御文章三帖目五通)
と言われています。


ここで「十悪・五逆の罪人」とは、
仏さまの眼からごらんになった古今東西の全人類の姿です。
“罪人”と聞くと、窃盗、横領、恐喝、殺人罪など、
法律を犯した人のことだと思われるでしょうが、
ここでいわれる「罪人」はそれだけではありません。
すべての人を“罪人”と言われているのです。

「警察に捕まるようなことはやっていないのに、
どんな罪を犯したというのか」と、反発したくなりましょう。
それは、仏教で説かれている「十悪」「五逆罪」を犯した罪人である、
と仰せです。


●全人類の罪・・・十悪


仏教では、私たちの犯すいろいろの罪悪をまとめて、
十悪」と教えられています。
その中の一つ、「殺生罪」は生き物を殺す罪です。
人を殺せば刑務所行きだと誰でも分かりますが、
牛や豚、鶏や魚を食べたり、ハエや蚊を駆除したりするのは、
「仕方のないこと」と、誰も悪いとは思っていない。
しかし、どんな生き物も死が苦しみであることは
我々と変わりません。
捕まえた鶏がバタバタもがくのも、
漁船の甲板で魚がピチピチ跳ねるのも、
死にたくないからです。
それを「活きがいいなぁ」「こりゃ、うまそうだ」と、
人間は好んで食べる。
殺される生き物たちは、人間は何と残酷なものか、
と強く呪って死んでいるに違いありません。
お釈迦さまは「すべての生命は平等であり、上下はない」
と教えられています。

人間の命だけを尊いと考えるのは人間の勝手な言い分で、
相手が動物でも虫でも、殺生は恐ろしい罪なのです。


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●全人類の罪・・・五逆罪


五逆罪」とは、仏教で地獄行きの五つの恐ろしい罪をいい、
中でも最初に挙げられるのが親殺しです。
赤ん坊の頃は、昼も夜もお乳を飲ませてもらったり、
おむつを取り替えてもらいました。
病気になった時、寝ずに看病してもらった人もあるでしょう。
離れて暮らせば、「元気でいるか」「しっかり食べているの?」
「いい友達できた?」と、いつも心配してもらって、
私たちは成長してきたのです。
今年の八月、若手俳優が暴行容疑で逮捕され、
女優の母親が、多くの報道陣を前に謝罪会見したことが
テレビで報じられた。
38歳で生んだ息子は、アトピーやぜんそくもあって病気がち。
救急車で病院に連れていくこともたびたびあったという。
女優として働きながら、女手一つで育てた息子がようやく成人。
俳優として人気が出始め、まさにこれからという時の逮捕だった。
そんなことになっても、母親は、
「私はどんなことがあってもお母さんだからね」
と、警察署で面会した息子に語ったといいます。
わが子を慈しむ親心に、息子は何を感じたでしょう。


そんな大恩ある親を殺すのは、言うまでもなく大罪です。
ところが、親鸞聖人は、


親をそしる者をば五逆の者と申すなり(末灯鈔)


と教誨(きょうかい)され、親をそしるのも五逆の罪なのだと
言われています。


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「うるさいな!」「あっちへ行け!」と暴言を吐くのは無論ですが、
「いつまで生きるつもりなのか」と、
年老いた親を邪魔に思うだけでも
親殺しの五逆罪だと戒められているのです。


果たしてこれを、他人事として片づけられるでしょうか。


ある生命保険会社が制作したCM。
画面には「2分9秒38」という時間が表示されている。
東京に上京し、家庭を築き、忙しくも充実した生活を送る男性。
仕事のことばかり考える毎日の中で、
時折、かかってくる母親からの電話。
「何?今、会議中だからさ・・・」
とすげなく切る。
両親が息子の顔を見に東京に来てくれる。
母親が畑の野菜で作った漬物を渡そうとすると、
苦々しい表情で、「これ持って得意先に行けないよ」
と受け取らない。近況を尋ねる両親に、
「悪いけど俺、時間がないんだ」
と、急いで立ち去る息子を母親が呼び止める。
「次はいつ話せるの?」
男性は、何を言っているんだ、という顔で、
「また、いつでも話せるだろ」と一言。
「2分9秒38」は、男性が3か月で両親と話した合計時間。
そのままの関係が続けば20年でたったの3時間しか
会話しないことになる。
親子のつながりを見直すことを訴えかけるCMだった。
四六時中、自分のことを大切に思ってくれている両親に、
自分がどれほど心をかけ、大事に思っているか。
会話さえも煩わしく思って、ないがしろにしてはいないか。
反省させられる内容でした。


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7月に放送されたNHKのドキュメンタリー番組では、
介護問題をテーマに、介護の切実な現実をリポートし、
大きな反響を呼びました。
認知症になった母親と同居し、
11年にわたって介護を続けている50代の男性は、
当初、母親の介護を妻に任せていたが離婚。
一人で介護をすることになり、勤めていた不動産会社を退職して、
今は母親の年金で暮らしている。
「いちばんつらいのは自由がないこと」
「手足を鎖につながれた牢獄にいるようだ」
と介護の苦衷を漏らす。
5年前、母親が脳梗塞で倒れた時、
倒れている母親を前にして呆然と眺めていたという。
「このまま放置して、おふくろがいなくなれが介護が終わる。
やっと自由になれる・・・」
そんな心が去来したことを、救急車を呼ぶのをためらった自分を
強く後悔しながら告白していました。


さるべき業縁の催せば、如何なる振舞もすべし(歎異抄)


「縁が来たら、どんなことでもする親鸞だ」と親鸞聖人は仰っています。
何をしでかすか分からない業縁を、どんな人も持っている。
私たちは、そんな「十悪・五逆の罪人」だから、
大宇宙の仏さまは、これではとても助けることはできぬ、
とさじを投げてしまわれたのです。


●「どんな極悪人も助ける」本願


では、我々は助からないのでしょうか。
そうではありません。蓮如上人の『御文章』を再度、
拝読しましょう。


「弥陀如来の超世の大願は、いかなる機の衆生を救いましますぞ」
と申せば、十悪・五逆の罪人も、五障・三従の女人に至るまでも、
皆悉くもらさず助けたまえる大願なり

              (御文章三帖目五通)


こんな諸仏に捨てられた者だからこそ、
救わずにいられないと、ただ一人、立ち上がられた仏が
大慈大悲の阿弥陀如来なのです。

このようにして建てられた弥陀の本願を『歎異抄』には、


罪悪深重・煩悩熾盛(ぼんのうしじょう)の衆生を
たすけんがための願にてまします


と教えられ、阿弥陀仏は、欲や怒り、妬みそねみの煩悩の激しい、
最も罪の重い極悪人を助けるために本願を建てられたのだよ、

と言われています。
そして、弥陀がどんな極悪人も救いお誓いを建ててくだされたからこそ、
親鸞は救われた。
無量の悪業をもった親鸞一人を助けんがためのご本願であった、
と聖人は、弥陀の本願力不思議に、こう感泣なされています。


弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、
ひとえに親鸞一人がためなりけり、
されば若干(そくばく)の業をもちける身にてありけるを、
助けんと思召したちける本願のかたじけなさよ

              (歎異抄)


大宇宙の諸仏も見捨てた極悪の親鸞を、
救い摂ってくだされたのは、
弥陀の無限の本願力以外になかった
、と知らされて、


願力無窮にましませば
罪業深重もおもからず


と、ご和讃に褒めたたえられているのです。


●「決して見捨てはしない」


仏智無辺にましませば
散乱放逸もすてられず


と仰っているのは、「仏智」とは、阿弥陀仏のお力のこと。
その弥陀のお力が「無辺」であるとは、限界がないということです。
「散乱放逸」とは、思いに任せて悪を、やりたい放題、
やり散らしている我々の実態を仰ったものです。
そんな箸にも棒にもかからぬ極悪人が十方衆生(すべての人)だから、
大宇宙の諸仏はあきれて逃げたのです。
しかし、弥陀はそんな私たちを、「決して見捨てはせぬぞ」と、
底なしの大慈悲心で無上の誓願を建立してくだされた。

その弥陀の本願力によって平生ただ今、
救い摂られたことを親鸞聖人は、


誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法
               (教行信証
ああ、阿弥陀仏の摂取不捨のお約束、
まことであったなあ


と宣言されています。


罪業は深重、散乱放逸で大宇宙の諸仏に
見捨てられた自己の真実と、そんな私を「必ず救う」弥陀の本願を、
疑いなく信知させられた表明です。
“十方衆生(すべての人)が極悪人とは、おかしい”
“諸仏に捨てられたって?そんな悪人とは思わない”
“私のような者は救われないのではなかろうか”
と思っているのは、すべての人を罪業深重・散乱放逸と見て取られ、
無窮の願力と無辺の仏智で「必ず助ける」と誓われた本願を、
真っ向から疑っている証です。
この本願に対する疑心を本願疑惑心とか、疑情とか、
自力の心、不定の心ともいわれます。


このような疑心がツユチリほどでもある間は
救われていないのであると、蓮如上人は、


これ更に疑う心露ほどもあるべからず
            (御文章五帖目二十一通)
と明らかにされています。そして、


命のうちに不審もとくとく晴れられ候わでは
定めて後悔のみにて候わんずるぞ、
御心得あるべく候
 
        (御文章一帖目六通)
本願に疑い晴れていなければ、
必ず、後悔するであろう


と教誡されています。


「誠なるかなや、阿弥陀仏の本願」と、
本願疑惑心(自力の心)が浄尽し、
絶対の幸福(往生一定)に生かされるまで、
仏法を真剣に聞かせていただきましょう。

    



 


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