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いのちの問い 「なぜ生きる?」「なぜ生かす?」

いのちの問い

 なぜ生きる?

 なぜ生かす?

医療が抱える根本問題

   あなたはどう答える?


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世界で初めて、ips細胞(人工多能性幹細胞)が

人の治療で使われることになった、

と報道されました。

難病治療に弾みがつくと期待されています。

多くの命を救うため、医療は日々進化を遂げていますが、

「そんなにしてまで生きるのはなぜか」

という問題が置き去りにされてはいないでしょうか。

「何のために生きる?」の問いに

あなたはどんな答えを持っていますか?

親鸞さまはどのようにお答えくださるでしょうか。

 

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生きる意味を考えている私っておかしいですか?

 

今まさに「なぜ生きる」という問題に直面しています。

必死に頑張って仕事をしてきて、

気がつけばこんな年になって、

がむしゃらに生きてきたツケがこれなのか、

後は死を待つだけの人生なのか、

といつも考えてしまいます。

友達には、

「そんな哲学者みたいなこと考えずに、

カラオケにでも行こう」

と言われるのですが、それもごまかし、

無意味なことにしか思えず、

食べるためだと思うと食欲もあまり湧きません。

原因不明の病気にも苦しみ、

ストレスで神経がおかしくなりそうで、

毎日、外ばかり見ては「何のための人生か」

と考えています。

 

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還暦過ぎたある女性のつぶやきです。

これを読んで、どのように感じられましたか?

この方の友人が言うように、

〝そんな深刻に考えずに、カラオケにでも行って

楽しく過ごせばいいじゃない〟

という意見に賛成の人もあるでしょう。

しかし、病に苦しみ、人生の行く末を見つめる女性にとって、

一時の楽しみは「ごまかし」としか思えないのです。

何のための人生か。

この問いに、年代は関係ありません。

過日、全国紙にも、大病を経験した20代女性の

こんな疑問が掲載されていました。

 

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全てが無意味に思われて意欲が湧きません。

「死んだら、これまで自分がやってきたことも

全部なくなる」と思うと、何をしても意味がないと

思ってしまいます。

たとえ今の時点だけでも善いことをすることには

意味がある、と考えたくても、納得できないでいます。

 

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回答した識者は、自身も困惑しながら

「今の時点で善いことをするのに意味がある、

と思うしかない」

と言いましたが、ではどんな意味があるのか、

には答えていません。

これではとても質問者は納得できないでしょう。

あなたなら、これらの問いにどう答えるでしょうか?

 

●医療従事者も悩んでいる

 

生あるものは必ず死に帰す、とは誰でも分かっていること。

しかしふだん、意識している人はほとんどありません。

それが、大病にかかり、否応なく人生の終末と

対峙させられるや、

「死を待つだけの人生か」

「死ねば全部なくなるのなら、何をしても無意味では」

の問いが胸に迫ってくる。

患者からのこんな訴えに、

果たして医療は答えることができるのでしょうか。

「私も現場で悩む医療者の一人でした」

と語るのは、富山県の看護師、橘幸恵さん(23)です。

「看護師は中学生からの夢」

という橘さんは、看護専門学校で3年間学び、

昨年の春から総合病院の内科病棟で働き始めた。

最初は目の前に仕事をこなすのに精一杯。

失敗に落ち込むこともあったが、

それ以上に患者の笑顔に癒やされ、

充実した毎日を送っていた。

だがある日、看護師の道に大きな疑問を投げかける

出来事が起きる。

「それは、突然の呼吸困難で緊急搬送されてきた年配の

Aさんとの出会いでした」

病院に到着した時、すでに意識のなかったAさんは、

家族の意思で人工呼吸器を装着することになったのである。

数日後の朝、橘さんはいつものようにAさんの病室に入り、

カーテンを開けながら、優しく声をかけた。

「おはようございます、調子はいかがですか?」

ピポン、ピポン、ピポン・・・・。

ただ機械音だけが響く。

何本もの点滴やチューブにつながれたAさん。

時々苦しげな表情を浮かべ、ギュッと握ったこぶしが

かすかに震えていた。

〝苦しい・・・楽にさせて・・・〟

Aさんの全身から、声なき声が聞こえてくるようだった。

(こんなになってまで、Aさんは本当に生きたいのかなぁ?)

ふと頭をよぎった疑問だった。が、

だんだんと橘さんの中で大きくなっていった。


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●こんなにまでしてなぜ生かすの?

 

〈機械を止めたら死んでしまうが、

Aさんの苦痛は続く。こんな状態で、

一体、何のために生かされているのだろう?〉

同じ問いが頭の中で悶々と繰り返される。

「かわいそうに・・・苦しそう。

いっそあの時、逝かせてあげればよかったのでは・・・」

誰かが言っていた、こんな言葉にも、

多少なりと同意する自分がいた。

「一分一秒でも命を延ばすのが医療の使命と、

今まで理解していたつもりでした。

でも、私が点滴を交換することがAさんの苦痛を

長引かせることになるのでは、

とさえ思うようになったのです」

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機械につながれ生かされる患者を前に、

「この延命に意味はあるのか」と悩み苦しむのは、

新米看護師の橘さんだけではないでしょう。

医療者たる自信をすっかり失ってしまった橘さんが、

やがて重い足取りで向かったのは、

両親の勧めで聞いていた仏教の勉強会でした。

なぜ生きるのか。

なぜ生かすのか。

死を待つだけの人生ならば、何もかもが無意味なのか。

その時、親鸞聖人がはっきりとお答えくださったのです。

一分でも一秒でも、命を延ばすことには意味がある。

たとえ意識がなくても、機械で生かされている状況でも、

決してあきらめなくていいのだと・・・。

『看護師になってよかった!』。初めて心から言えた瞬間でした」

「いのちの問い」に、親鸞さまはどのようにお答えくださったのか、

次章で解説いたしましょう。

 

 

なぜ「いのちの歓喜」がないのか

  聖人の示された

     「なぜ生きる」の解答

 

この命を心から喜びたいと、

誰もが願って生きているはずなのに、

生きることが無意味に思えたり、

「あの時、死なせてあげればよかった」と、

延命の意味を見失ってしまうのはなぜでしょうか。

その理由を親鸞聖人は、こう明示されています。

 

真・仮を知らざるによりて、

如来広大の恩徳を迷失す」(教行信証

 

本当の人生の目的を知らないから、

〝よくぞ人間に生まれたものぞ〟

の生命の歓喜がないのである

 

聖人が「真・仮を知らざる」と言われているのは、

「人生の目的」(真)

「生きがいや趣味、目標などの生きる手段」(仮)

の違いが分からないということです。

果たして私たちは、生きる本当の目的を知って

生きているでしょうか。

「なぜ生きる」と問われ、

大方の人が思い浮かべる答えは、

仕事や旅行、金や名誉を得る、

家族や仲間のため、おいしいものを食べるため、

などでしょう。

これらは生きるために必要で、

大切なもの(生きがいや目標)ですが、

このために生まれてきたという「人生の目的」とは

いえません。

それは、自分が事故や病気で寝たきりになり、

どれも満足にできなくなった時を考えてみれば分かります。

呼吸器をつけ、全身にチューブをつながれて、

それでも命を延ばすのはなぜか。

「そんなにしてまでなぜ生きる」。

前章で見たように、患者も医療従事者も

この問いに真の答えを見いだせず、皆、

深いアキラメの中に沈んでいるようです。

そんな中、「人生には、これ一つ果たさねばならない

大事な目的がある。それは一念で達成できる。

だから最後の一息まであきらめてはならないんだよ」と、

真の人生の目的を明示されているのが親鸞聖人です。

主著『教行信証』の冒頭に記された、

聖人のお答えを聞いてみましょう。

 

難思の弘誓は難度の海を度する大船、

無碍の光明は無明の闇を破する慧日なり

              (教行信証総序

阿弥陀さまは、苦しみ多い世間の海を、

明るく楽しく渡す大きな船をつくられている。

阿弥陀さまには、その大船に私たちを一念で乗せて、

極楽浄土まで届けてくださるお力がある。

この大船に乗ることこそ人生の目的だ

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苦海の人生(難度の海)に大船あり。

聖人の解答は、簡潔で、確信に満ちています。

世界の光と仰がれる親鸞聖人は、

多くの著作を残されました。

中でも臨終まで枕元に置いて加筆修正され、

最も心血を注がれたのが主著『教行信証』です。

聖人の教えの全てが記された、全六巻に及ぶ畢生(ひっせい)の大著です。

その初めの一行が、

「難思の弘誓は難度の海を度する大船」。

苦海の人生を、明るく楽しく浄土へ渡す大きな船があるぞ!

人は苦しむために生まれてきたのでも、

生きているのでもない。

この大船に乗るために生まれ、生きているのだよ)

の一大宣言であります。

 

●「なぜ生きる」を知れば、

   この世の一切が

    意味を持つ

 

この船は「すべての人(十方衆生)を、

この世から未来永遠の幸福(絶対の幸福)に助ける」という、

阿弥陀仏の想像を絶する誓い(難思の弘誓)によって

つくられた大船です。

聖人ご自身がこの大船に乗られ、

絶対の幸福になられたのは29歳の時。

それから90歳まで61年間、

阿弥陀如来の広大な恩徳を知らされた聖人は、

誰もが平等に救われる大船あることを、

四方八方からの非難中傷も恥とせず

教え続けてくださいました。

「そんな大船、見たことも聞いたこともない。

あるはずないよ」と、今は疑い謗る人も、

聖人の教えに従い、この大船に乗せられた時、

「人身受け難し、今已に受く」

(よくぞ人間に生まれたものぞ!

このための人生だったか)

と、人生の目的(真)が鮮明に知らされるのです。

同時に、生きがいや趣味、目標などは

この目的果たすための手段(仮)であったと、

はっきりします。

政治も経済も、科学も医学も、

一切はこの大船に乗るために存在するのだと、

明らかになります。

真(なぜ生きる)を知らされ、

仮(どう生きる)が初めて意味を持ち、

生き返るのです。

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●人生の目的は一念で完成する

  だから、あきらめなくていい

 

では、どうすれば大船に乗れるか。

船に乗るにはどれほどの時間がかかるのでしょうか。

聖人はズバリ、

「無碍の光明は無明の闇を破する慧日なり」

(この大船は、弥陀のお力〈無碍の光明〉によって

一念で乗せていただけるのだよ)

と、直後に断言されています。

「無明の闇」とは、果てしない過去から

私を迷わせてきた苦しみの元凶のこと。

阿弥陀さまには、この闇を一念でぶち破るお力がある。

一念とは、あっという間もない時間の極まりですから、

乗船するのに時間はかからない。

闇が破れた一念に乗せていただけるのです。

こう聞いても「本当に一念で救われることがあるの?」

と疑う人に、中国の曇鸞大師という方は、

こんな例えで教えられています。

 

譬えば千歳の闇室に光若し暫く至れば

すなわち明朗なるが如し。

闇豈室に在ること千歳にして去らずと言うことを得んや

           (浄土論註

 

千年もの間、真っ暗な部屋でも、

光が来たと同時に明るくなるようなものである。

千年間真っ暗な部屋だから、

闇がなくなるのも千年かかる、ということはないだろう。

無始より迷わせてきた無明の闇だが、

弥陀の光明によって、一念で晴れわたるのである

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無明の闇は一念で破れる。

同時に、人生の目的が完成する。

だから臨終息の切れ際まで、あきらめてはならないよ、

と聖人は励ましてくださいます。

それを覚如上人(聖人の曾孫)は、こう説かれています。

 

如来の大悲、短命の根機を本としたまえり。

もし多念をもって本願とせば、

いのち一刹那につづまる無常迅速の機、

いかでか本願に乗ずべきや。

されば真宗の肝要、一念往生をもって淵源とす

               (口伝鈔

 

弥陀の慈悲は徹底しているから、

一刹那に臨終が迫る、最悪の状態の人が目当てである。

あと一秒しか命のない人に、三秒かかる救いでは

間に合わない。

一念の救いこそが、弥陀の本願の最も素晴らしい特徴なのだ

 

弥陀のお約束の相手は十方衆生(すべての人)。

たとえ意識がなく、機械で生かされていても、

いや、そんな最悪の状態でさえも救い切る本願を

建てられているのです。

「あとわずかで死ぬ命なら生かす意味がない」

と思うのは、「一念で救う」弥陀の誓いを知らないからです。

知っていても、疑っているのです。

一分、命が延びても弥陀の救いにあえる。

一秒あれば十分、大船に乗せていただけるのですから。

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●最後の一息まで、

  人生に無意味な時間は

      一秒もない

 

金や財、名誉や地位、家族、友人に恵まれた人生は一見、

強そうですが、案外もろくて弱いもの。

本当に強いのは、真の目的を知って生きる人だといえるでしょう。

聖人の説かれた弥陀の大船の厳存を知れば

「なぜ生きる」の疑団は氷解し、

自信をもって苦海を航海できるのです。

弥陀の一念の救いを求める人生は、

一息一息が尊厳であり、どんな絶望的な状況でも、

最後の一息まで無意味な時間は一秒もありません。

 

一念の信心定まらん輩は、十人は十人ながら

百人は百人ながら、みな往生に往生すべき事更に疑いなし

               (蓮如上人

 

一念の信心決定〈しんじんけつじょう〉した人は、

十人も百人も、死ねば必ず弥陀の浄土へ生まれることが

できるのである

 

無量光明土(光明輝く世界・弥陀の浄土)に向かって、

ともに弥陀の本願、聞き抜きましょう。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

これら親鸞聖人、蓮如上人のお言葉を、

橘幸恵さんは、これまで何度も勉強会で聞いていたといいます。

「でもAさんと出会ったことで、

初めて聖人の教えが私の人生の問題になったんだと

思います。全く違うお言葉に聞こえたほどです」

こうして今日も笑顔で患者に接する橘さん、

仏法を知らされた看護師としての決意をこう語っています。

どの患者さんも、姿にかけて私に教えてくださいます。

『仏法を聞けるのは今しかないんだよ。

急ぎなさい。真剣に求めなさい。

早く弥陀の大船に乗せていただきなさい。

もっと真剣に聞けばよかったと思った時には手遅れだぞ。

今、聞き抜きなさいよ

正しい教えを知って、暗中模索の医療界に

『なぜ生きる』を示す灯炬(とうこ)でありたいと思います」

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