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死を解決できれば限りなく明るい未来が開かれる! [なぜ生きる]

限りなく

  明るい未来が開かれる

 

絶対の幸福とは

往生が今ハッキリすること

 

すべての人は「絶対の幸福」になるために生まれてきた、

と親鸞聖人は教えられました。

それはどんな幸福なのでしょうか。

 

●生きる意味は「幸福」

 

「人は皆、幸せを求めて生きている。

人生の目的は幸福である」

とパスカルも言っていますが、

「幸福」と聞いて、どんなことが思い浮かぶでしょう。

おいしいケーキを食べて、〝うーん、幸せ〟

ということもあれば、温泉につかって、

〝ああ~、極楽ゴクラク〟といい気分に

鼻唄が飛び出すこともあるでしょう。

見たこともない絶景に、〝うわー、感動だぁ〟

と叫ぶこともありましょう。

確かに、皆いい気分であり、幸せには違いないのですが、

残念なことには、これらの幸せは皆、続きません。

一口で言うと、飽きてしまいます。

飽きてもさらに続くと、やがて苦痛に変わっていきます。

つまり、それらは、本質的な意味での幸福ではないのです。

もっと別なものなら、どうでしょう。

生活のクオリティー(質)の向上とか、仕事の成功とか、

自己実現とか、さまざまなことが挙げられます。

刹那的な快楽と比べれば、長続きしそうですが、

いずれもキリのないことばかりで、

どこまでいっても「これで達成、満足できた」

ということがありません。

また、崩れる不安は常に付きまとい、

やはり永続するものではないのです。

 

ところが、親鸞聖人は、

「死ぬまで変わらない絶対の幸福がある。

そんな幸せになりなさい」

と断言されています。

「ええ、絶対の幸福?そんな幸せ、本当にあるの?」

と誰でも驚かれるでしょう。

 

なぜ親鸞聖人は、このような断言ができたのでしょうか。

 

●苦しみの根本原因は「無明の闇」

 

仏教では、私たちの苦しみの根本原因を「無明の闇

と教えられます。

「無明の闇」とは「死んだらどうなるか分からない心」

のことで、「死後に暗い心」をいいます。

暗い、とはハッキリしない、よく分からないこと。

「機械に暗い」と言えば機械音痴のことだし、

「この辺りの地理に暗い」と言えば、

土地勘がないことを意味します。


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巻頭の「特集」で現在と未来の関係を、

台所とトイレの例えで学びました。

私たちが今、真に明るい心になれないのは、

この無明の闇という暗い心が覆っているからだと、

仏教は説くのです。

 

「十五 十六 十七と 私の人生 暗かった」

かつて、こんな歌が流行しました。

人生が暗い、とは、未来がボンヤリして明るい展望がない、

ということでしょう。

たとえ今が、どんなにつらくとも、未来に展望があれば、

人は明るく生きられます。

逆に、どんなにリッチで裕福な生活をしていても、

未来が暗ければ、心は暗いのです。

 

人生は、日々、不確実な事件の連続ですが、

たった一つの確実な未来は、すべての人に

必ず死が訪れるということです。

 

お釈迦さまが入山学道された動機は、

この生死を超越した世界を求めてのことであり、

親鸞聖人はわずか9歳で、

「死ねばどうなるか」の暗い心に悩まれ、

それ一つ明らかになりたいと仏門に入られました。

大統領だろうが、ホームレスだろうが、

死と無関係の人は一人もありません。

 

20世紀最大の哲学者といわれるハイデッガーは、

人間は、死に向かって生きている存在であり、

常に死んだらどうなるかの問題意識を持つことこそが、

本来の人間なのである。

だが多くの人は、死を忘れて堕落している

と説いています。

 

●宿のなき身はどんな心地か

 

いかに死の問題が、私たちの人生に大きな影響を与えているか。

その問題が解決できると、どう心が変わるのか。

2首の古歌では、こう表されています。

 

ふみ迷う

  知らぬ旅路の 夕暮れに

    宿のなき身の 心地こそすれ


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ある旅人が、山中で道に迷った。

方角も立たず、どこも見たような景色で

〝どうしたらよいか〟と途方に暮れる。

徐々に日も落ち、〝このまま日が暮れたら、

山賊や熊に襲われるかも・・・〟

と心は焦るばかり。

先の歌はそんな心細さを詠んでいます。

ところがその時、〝あっ、向こうに灯が!〟

と人家を見つけたら、〝早速、宿をお願いしよう〟

と希望が湧いてくる。

その家の主人が〝どうぞ、ゆっくりお泊まりください〟

と快諾した瞬間に、心は〝ああよかった。これで安心だ〟

とガラリと明るくなるでしょう。

 

ふみ迷う

  知らぬ旅路の 夕暮れに

    宿をとりたる  心地こそすれ

 

先の歌と後の歌は、「宿のなき身の心地」か、

「宿をとりたる心地」かで、心は大変わりしているのです。

 

今年2月の受験シーズンに、福岡県でこんなことがありました。

国公立大学の2次試験の行われる土日に、

福岡の大規模な会場で、2組の人気グループのコンサートが

予定されていた。

入場者は5万人を超え、県内の宿泊施設は予約で満杯。

しかも、同日に薬剤師の国家試験もあり、

受験生から「宿が取れない」と苦情が殺到した。

受験生の娘を持つ父親(広島県)は、

前日から隣の佐賀県に宿泊させるか、

新幹線で当日向かわせるか〝どちらも天気次第で心配〟

と悩んでいた。

一生を左右する大学受験、宿の事情で遅刻したり、

試験会場に着けなかったら大変だ、どうしよう、

と「宿のなき身」の心細さを味わったことでしょう。

ところが程なくして、行政やボランティアの活躍で、

隣県や県内企業、一般の人たちの善意で宿が提供され、

ヤレヤレ安心できたといいます。

 

人生の日没が迫っているのに、

宿(往生)の確保ができていない焦りや心細さはどうでしょう。

ところが宿(往生)が確定した瞬間から、

その焦りや不安は全て雲散霧消し、

大安心の後生明るい心となるのです。

 

●明るい未来がハッキリする

 

「無明の闇」後生暗い心が、平生の一念に照破され、

後生明るい心に生まれ変わったことを、

絶対の幸福といわれます。

いつ死んでも阿弥陀仏の極楽往生に往って、仏に生まれる身に

なったことで、これを「往生一定」といいます。

有名な蓮如上人の「領解文」に、

「たのむ一念のとき、往生一定・御たすけ治定とぞんじ」

と仰っているとおりです。

 

「往生」とは、浄土へ〝往〟き、仏に〝生〟まれること。

「一定」とはハッキリすること。

生きている今、無明の闇が破られた人は、

死後、浄土へ往って仏になることがハッキリいたします。

往生できるか否かは、平生に無明の闇が破られたか否かで決まる。

死後の往生が、生きている時に本決まりになるのです。

 

親鸞聖人が

「光明の広海に浮かんだ」

と仰ったのは、この絶対の幸福の表明です。

明日のことさえ分からない私たちが、

どうして後生明るい心になって、

絶対の幸福が獲られるのでしょう。

それは阿弥陀仏の光明(智慧)によってなれるのだ、

とお釈迦さまも、親鸞聖人も説かれています。

阿弥陀仏とはどんな仏さまでしょうか。

大宇宙には地球のような世界が数限りなく存在し、

それぞれに地球の釈迦仏のように、

仏さまがまします、と教えられています。

その宇宙の無数の仏方が口をそろえ、

褒めたたえる本師本仏(先生)が阿弥陀仏という仏さまです。

阿弥陀仏は、すべての人の苦悩の根元である

無明の闇を照破し、後生明るい、絶対の幸福に

必ず救い摂ってみせる、と誓っておられます。

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●弥陀の智慧光が心の闇を照破する

 

このことを親鸞聖人は『教行信証』に、

 

無碍の光明は無明の闇を破する慧日なり

阿弥陀仏の光明は無明の闇を破り、

人生を明るくする智慧の太陽である

 

と仰り、また和讃には、

 

無明の闇を破するゆえ

智慧光仏となづけたり

一切諸仏三乗衆

ともに嘆誉(たんにょ)したまえり」(浄土和讃

阿弥陀仏には、すべての人の苦悩の元凶である

無明の闇〈後生暗い心〉を破り、

往生一定に救い摂る働きがあるから、

大宇宙のすべての仏や菩薩が〝智慧光仏〟と

弥陀を絶賛されているのである

 

とも仰っています。

阿弥陀仏は、無明の闇を照破する限りなき力「智慧光」を

持たれた唯一の仏さまだから、

大宇宙にすべての仏も菩薩も皆、

阿弥陀仏を「智慧光仏」と絶賛されるのだよと、

聖人は仰っています。

その阿弥陀仏の智慧の働きによって「往生間違いなし」と

私の未来がハッキリするのです。

知恵とは先を知る働き、ともいえましょう。

碁や将棋の強い人は何十手も先が見えるといいます。

その道の知恵があるからです。

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誰もが、先を読む知恵をもって安心して生きたいと願っています。

弥陀の智慧光によって心の闇の晴れた人は、

まさに人生の知恵者になれる、と蓮如上人は、

たとい一文不知の尼入道なりというとも後世を知るを智者とす

                    (御文章

最も大事なことを知る人こそ智者である。

たとえ文字が全く読めなくても、

いつ死んでも浄土往生間違いなしと、

未来の明るい人が本当の智者といえよう

 

と言われています。

 

人生苦の根元である無明の闇が破られ、

未来の幸せがハッキリすると、

この世から、明るく楽しい絶対の幸福(往生一定)に

生きることができるのです。

この絶対の幸福こそが、私たちがこの世に生まれてきた目的です。

その目的を果たすためには、阿弥陀仏の本願を聞く一つ。

真剣に、よくよく聞かせていただきましょう。

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