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人生に悩んだ門弟たち(関東の二十四輩) [親鸞聖人の旅]

(真実の仏教を説かれている先生ご執筆の『とどろき』より載せています)

        親鸞聖人の旅

 

人生に悩んだ門弟たち

    (関東の二十四輩)

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親鸞聖人には、関東の二十四輩をはじめとして、

多くのお弟子があった。

彼らは、どのようにして真実を求めるようになったのだろうか。

剣の道に励んでいた善念房(ぜんねんぼう)、

比叡山で修行していた唯誓房(ゆいせいぼう)、

有名な歌人だった慈善房(じぜんぼう)、

城主だった唯信房4人のドラマにスポットを当ててみよう。

いずれも、本当の人生の目的を探し求めていた人たちである。

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●剣の道を捨てた善念房

 

18歳の青年、三浦義重は、人生の目的に悩んでいた。

「武士の家に生まれ、当然のごとく、剣の道に励んでいるが、

このまま一生を終わっていいのだろうか・・・」

ある日、常陸(茨城)の名勝・桜川のほとりを通りかかった時、

一人の僧形の旅人が、土手にたたずんでいるのが見えた。

「今日の桜川は、いつもより水かさが多い。

川を渡れずに困っておられるのだな」

と感じた義重は、

「私の背中にお乗りください」

と、屈強な体を差し出した。

この旅人こそ、親鸞聖人だったのである。

義重は胸まで水につかりながらも、無事、

聖人を対岸へお渡しできた。

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聖人は、青年の気負いのない誠実さに

感謝の言葉をかけられるが、

義重の表情は、どことなく暗い。

「何か、お悩みを?」

はい。人は何のために生きるのか、悩んでいます。

私は、親の言いつけに従い剣の道を求めていますが、

強くなる目的は一体何なのか

結局、人を殺し、領地を奪うためとしか思えません。

父は、私の13歳の時に討ち死にしました。

思えば、はかない一生。

私もいつ命を落とすかしれません。

人生懸けて悔いのない目的を知りたいのです

義重は胸のうちを聖人に打ち明けた。

あなたの言うとおり、欲や怒りや愚痴のために

命を落とすのは、愚かなこと。

人間には、なさねばならない重大な使命があります。

それ一つを教えたのが仏教です

親鸞聖人は、後生の一大事を解決して、

絶対の幸福に救われることこそ、人生の目的であると、

じゅんじゅんと教えられた。

この方が。この方こそ、本当の人生の師だ

と確信した義重は、すべてを投げ捨てて、

聖人のお弟子となった。

二十四輩の十二番「善念房」である。

建保4年8月13日、暑い夏の日であったと記されている(聖人44歳)

思いがけない出会いが、人生を大きく変える。

真実を知らされ、喜びに燃える義重は、

目をみはる勢いで聞法に励んだ。

晩年、伊勢地方(三重県)の布教に力を尽くし、

85歳で亡くなっている。

義重が開いた善重寺は、JR水戸駅から車で5分ほどの、

水戸市酒門(さかど)町にある。

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●合戦の功名を捨てた唯誓房(ゆいせいぼう)

 

善重寺から、約500メートル西に、聖人のお弟子「唯誓房」が

開いた安楽寺がある。

唯誓房は、源氏の勇将・佐々木四郎高綱の四男で、

もとの名を沢田四郎高信といった。

高信は、父とともに源平の合戦に参陣し、

若武者ぶりを発揮した。

しかし、手柄を立てながらも、心には大きな悩みがあった。

合戦は武士の晴れ舞台。しかし、現実には、

功名を争っての殺し合いでしかない。

命を懸けて名誉を追い求め、一体、何が残ったのか。

多くの人間を殺した自分は、死んだらどこへ行くのか

高信は、武士を捨てた。「諦乗(たいじょう)」と名を改め、

比叡山に登り、後生の一大事の解決目指して、

修行に没頭したのである。

しかし、打ち込めば打ち込むほど、

救われない自己の魂が見えてくる。

天台宗では助からないとさとった高信は、

真っ暗な心を抱えて比叡山を下りた。

このままでは、後生は一大事だ。

どこかに魂の解決をしてくださる善知識はおられぬか

と、雲水の旅に出たのであった。

全国を流浪し、常陸国大戸郷(おおどのごう)の

天台宗浄土院に身を寄せていた時のことである

(現在の東茨城郡茨城町大戸)。

「稲田の親鸞聖人が、生死出ずべき道を説いておられる」

という話が伝わってきた。

早速、稲田を訪ねた高信は、草庵を埋め尽くす参詣者が、

老いも若きも、真剣に聞法している姿に驚いた。

親鸞聖人は、

仏法を聞く目的は、後生の一大事の解決以外にはない。

この一大事の解決は、阿弥陀仏の本願によらなければ

絶対にできない。

阿弥陀仏は、どんな人をも、必ず絶対の幸福に救い摂ると

誓っておられる

と力強く断言される。

高信は、

長い間探し求めた善知識に、今、お会いできたぞ

と全身で叫ばずにおれなかった。

比叡山を下りて4年目のことである(承久2年、聖人48歳)

さらに驚いたことには、戦場でともに戦った父・高綱も、

数年早く、聖人のお弟子になっていたのである。

阿弥陀仏の不思議なご念力で実現した親子の再会であった。

 

●文学の名声を捨てた慈善房

 

後鳥羽上皇の家臣・橘重義は、優れた歌人として有名であった。

しかし、いくら文学で名声を得ても、心には満たされないものを

感じていた。

重義が、所用で関東に向かい、常陸国の村田郷の太子堂で

一夜を明かした時のことである。

夢の中に、聖徳太子が現れ、

これより西南に高僧ましまして説法したもう。

これ弥陀如来の化身なり。汝、早く行きて要法を聴聞せよ

と告げられたという。

驚いた重義は、稲田の草庵に親鸞聖人を訪ねた。

地位や名誉は、いつまでも続く幸せではない。

阿弥陀仏によって、大安心、大満足の絶対の幸福に救われてこそ、

永遠に変わらない幸せになれるのです

親鸞聖人は阿弥陀仏の本願を説法なされた。

重義は、それまでの地位も名誉も投げ捨てて、

直ちに聖人のお弟子になっている(建保3年、聖人43歳)。

慈善房と生まれ変わった重義は、霊夢を見た太子堂のほとりに

聞法道場(常弘寺)を建て、親鸞聖人のみ教えを

伝えることに生涯をかけた(二十四輩二十番)。

常弘寺は、水戸駅から、国道118号線を北へ

20キロほど進んだ所にある。(那珂郡大宮町石沢)。

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●城主の位を捨てた唯信房

 

親鸞聖人は、稲田から鹿島方面へと、

よくご布教に歩かれた。

そのコースの途中、霞ヶ浦の北岸に幡谷村があった

(現在の東茨城郡小川町幡谷)

建保4年8月13日の夜のこと。

この村の城主・幡谷次郎信勝の夢に、観音菩薩が現れ、

汝、城主の位は高くとも、七珍万法(しっちんまんぽう)は

久しくとどまらず。ただいま城下に休んでおられる親鸞聖人の

ご教化を被らずば、永劫に生死を出ずることあるべからず。

直ちに行きてみ教えを賜れと告げたという。

おまえは今、城主という地位や財産に

満足しているかもしれぬが、

いつまでも続く幸せではないぞという観音の言葉が、

深く胸に刺さった。

不思議な霊夢に驚いた信勝は、夜が更けていたにもかかわらず、

一人で城外に出てみた。

するとどうだろう。

霊夢のとおり、親鸞聖人が三日月を眺められながら、

しばしお休みになっているではないか。

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信勝は、聖人にお目にかかって、事の次第をお話しした。

親鸞聖人は、

今まで何度も、この城下を往復しています。

そのたびに、いつかお会いして、親しくお話ししたいと

思っていました。ようやく縁が熟したのですね

とお喜びになった。信勝は胸をときめかせながら、

聖人を城内へご案内し、夜の明けるまで、

阿弥陀仏の本願を聴聞させていただいた。

信勝は、

善知識まします今、真剣に求めなかったら、

未来永遠、苦しみから逃れることはできないぞ

という、観音菩薩の言葉をかみしめずにおれなかった。

すなわち、城主の位をなげうって、聖人のお弟子となり、

唯信房」と生まれ変わった(二十四輩二十三番)。

唯信房は、親鸞聖人のみ教えの伝道に燃えた。

北は福島県から、南は島根県に至るまで、

教化の跡が残されている。

水戸市緑町の信願寺は、唯信房が開いた寺である。

関東には、人生の目的を知らされた人々の

熱烈な聞法の逸話が、数多く残されている。

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