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晩年の聖人(最終回) [親鸞聖人の旅]

(真実の仏教を説かれている先生ご執筆の『とどろき』より載せています)

      親鸞聖人の旅      

        晩年の聖人(最終回)

 

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関東からの道すがら、多くの人を勧化されながら、

親鸞聖人は、懐かしき京都へお帰りになった。

無実の罪で越後へ流刑に遭われてより、

約25年ぶりのことである。

90歳で、浄土へ還帰されるまでの30年間、

聖人は、どのように過ごされたのか。

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●ご帰洛後のお住まい

 

京都に着かれた聖人は、何回も住まいを変えておられる。

「聖人故郷に帰りて往事をおもうに、

年々歳々(ねんねんせいせい)夢のごとし幻のごとし。

長安洛陽の棲(すみか)も跡をとどむるに懶(ものう)しとて、

扶風馮翊(ふふふよく)ところどころに移住したまいき」

                (御伝鈔)

「或時は岡崎、または二条冷泉富小路にましまし、

或時は、吉水、一条、柳原、三条坊門、

富小路等所々に移て住みたまう」

            (正統伝)

このうち平太郎と面会された場所が、

上京区の一条坊勝福寺である。

現在の西本願寺前の堀川通を北へ進み、

中立売通を西に曲がってすぐだ。

しかし、本堂の屋根は高層ビルの谷間に埋もれているから

見つけにくい。

民家と変わらない大きさである。

門前には、「親鸞聖人御草庵平太郎御化導之地」と

石柱が立っていた。

平太郎だけでなく、聖人のみ教えを求め、

命懸けで関東から訪ねてくるお弟子が多数あった。

狭いながらも、信心の花咲くお住まいであったに違いない。

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●道珍の霊夢

 

西本願寺正面の細い通りへ入ると、

念珠店が立ち並んでいる。

そのまま東へ進むと、突き当たりが紫雲殿金宝寺である。

ここは、勝福寺より小さく、表札を見なければ寺とは気づかない。

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金宝寺はもと、天台宗の寺だった。

ところが、57代目の住職・道珍が親鸞聖人のお弟子になり、

真宗に改宗したのである。

その経緯を、当寺の『紫雲殿由縁起』は次のように記している。

道珍は、高僧が来訪される霊夢を3回も見た。

そこへ間もなく、親鸞聖人が訪れられたのである。

紛れもなく夢でお会いした高僧なので、

道珍は大変驚き、心から敬服した。

ご説法を聴聞して、たちまちお弟子となったのである。

時に、聖人67歳、道珍33歳であった。

道珍は、聖人のために新しく一室を作り、

安聖閣と名づけた。

道珍がしきりに滞在を願うので、約5年間、

聖人は金宝寺にお住まいになったという。

ここにも、関東の門弟が多数来訪した記録がある。

片道一ヶ月以上かけて、聞法にはせ参じる苦労は

いかばかりであったか。

後生に一大事があればこそである。

また、『紫雲殿由縁起』には、道珍が聖人に襟巻きを

進上したところ大変喜ばれた、と記されている。

 

●報恩講の大根焚き

 

京名物の一つ、了徳寺の大根焚きは、

親鸞聖人報恩講の行事である。

了徳寺は京都市の西、右京区鳴滝町にある。

山門をくぐると、すぐに大きなかまどが目に飛び込んでくる。

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報恩講には、早朝から大鍋で3500本の大根が煮込まれ、

参詣者にふるまわれるという。

どんないわれがあるのか。

略縁起には、次のように記されている。

聖人80歳の11月、ご布教の途中、鳴滝村を通られた。

寒風吹きすざぶ中で働いている6人の農民を見られ、

一生涯、自然と闘い、体を酷使して働くのは何のためか。

弥陀の救いにあえなければ、あまりにも哀れではないか・・・

と近寄られ、阿弥陀仏の本願を説かれた。

初めて聞く真実の仏法に大変感激した農民たちは、

聖人にお礼をしたいと思ったが、

貧しさゆえ、何も持ち合わせていない。

そこで、自分たちの畑で取れた大根を塩炊きにして

召し上がっていただいたところ、

聖人は大変お喜びになったという。

親鸞聖人は、阿弥陀仏一仏を信じていきなさいと、

なべの炭を集められ、ススキの穂で御名号を書き与えられた。

以来、聖人をしのんで大根を炊き、

聞法の勝縁とする行事が750年以上も続いている。

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●著作に励まれる聖人

 

晩年の聖人は著作に専念しておられる。

52歳ごろに書かれた『教行信証』6巻は、

お亡くなりになられるまで何回も推敲・加筆されている。

いわば、生涯かけて著された大著である。

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このほか、主なご著書とお書きになられた年代を挙げてみよう。

 

76歳 

 浄土和讃

 高僧和讃

78歳

 唯信鈔文意

83歳 

 浄土文類聚鈔

 愚禿鈔

84歳

 往相廻向還相廻向文類

 入出二門偈頌

85歳 

 浄土三経往生文類

 一念多念証文

 正像末和讃

86歳

 尊号真像銘文

88歳

 弥陀如来名号徳

 

このほかにも、親鸞聖人が書写・編集されたり、

加点されたお聖教は、全部で20冊以上知られている。

しかも、そのほとんどが76歳以降に書かれている。

ご高齢になられるほど、執筆に力を込められていることが

分かる。「体の自由が利かなくなった分、

筆を執って真実叫ぶぞ」と、聖人の並々ならぬ

気迫が伝わってくるようだ。

 

●聖人のご往生

 

親鸞聖人は、弘長2年11月下旬に病床につかれた。

あまり世間事を口にされず、ただ阿弥陀仏の大恩ばかり述べられ、

念仏のお声が絶えなかったという。

11月28日、午の刻(正午)、聖人は90年の生涯を終えられ、

弥陀の浄土に還帰なされた。

臨終には、弟子の顕智と専信、

肉親は、第5子の益方(ますかた)さまと

第7子の覚信尼さまのみが、わずかに臨んだ。

一切の妥協を排し、独りわが道を行かれた聖人にふさわしい、

ご臨終であった。

聖人は、ご自身の肉体の後始末に非情な考えを持っておられた。

『改邪鈔』に、こう記されている。

親鸞閉眼せば賀茂河にいれて魚に与うべし

私が死んだら賀茂河に捨てて、魚に食べさせよ、

とおっしゃっているのだ。

これは、肉体の葬式に力を入れず、早く、魂の葬式、

すなわち後生の一大事の解決(信心決定)に力を入れよ、

と教えられたお言葉です。

親鸞聖人は信心決定した時をもって、魂の臨終であり、

葬式であると教えられた。

覚如上人も、

平生のとき善知識の言葉の下に帰命の一念発得せば、

そのときをもって娑婆のおわり臨終とおもうべし

とおっしゃっているように、信心決定した人は、

もう葬式は終わっているのである。

だから、セミの抜け殻のような肉体の葬式など、

もはや問題ではないのだ。

「つまらんことに力を入れて、大事な信心決定を

忘れてはなりませんぞ」と最後まで真実を

叫び続けていかれた聖人のお言葉である。

このご精神を体したうえで、聖人のご遺体は、

鳥辺山に付された。

『御伝鈔』には、

「洛陽東山の西の麓・鳥辺山の南のほとり、

延仁寺に葬したてまつる。

遺骨を拾いて、同じき山の麓・鳥辺山の北の辺(ほとり)、

大谷にこれを納め畢(おわ)りぬ」

と記録されている。

 

●聖人のご遺言

 

「ご臨末の御書」は、親鸞聖人のご遺言として有名である。

我が歳きわまりて、安養浄土に還帰すというとも、

和歌の浦曲(うらわ)の片男波の、寄せかけ寄せかけ

帰らんに同じ。一人居て喜ばは二人と思うべし、

二人居て喜ばは三人と思うべし、その一人が親鸞なり。

我なくも法(のり)は尽きまじ和歌の浦

あおくさ人のあらんかぎりは

弘長2年11月 愚禿 親鸞満90歳」

29歳で阿弥陀仏の本願に救い摂られてより、

90歳でお亡くなりになるまでの、聖人のご生涯は、

まさに波乱万丈であった。

真実の仏法を明らかにされんがための肉食妻帯の断行は、

破壊堕落の罵声を呼び、一向専念無量寿仏の高調は、

権力者の弾圧を招いた。

35歳の越後流刑は、その激しさを如実に物語っている。

流罪の地でも、無為に時を過ごされる聖人ではなかった。

「辺鄙(へんぴ)の郡類を化せん」と、命懸けの布教を

敢行されたことは、種々の伝承に明らかである。

関東の布教には、聖人をねたんだ弁円が、

剣を振りかざして迫ってきた。

邪険な日野左衛門に一夜の宿も断られ、

凍てつく雪の中で休まれたこともあった。

今に残る伝承は、聖人のご苦労の、

ほんの一端を表すにすぎない。

まさに、報い切れない仏恩に苦しまれ、

「身を粉にしても・・・」と、

布教に命を懸けられたご一生であった。

その尽きぬ思いが、「御臨末の御書」に表されている。

「我が歳きわまりて、安養浄土に還帰すというとも、

和歌の浦曲(うらわ)の片男波の、寄せかけ寄せかけ

帰らんに同じ」

「和歌の浦曲の片男波」とは、

現在の和歌山県和歌浦、片男波海岸である。

万葉の昔から美しい海の代名詞になっている。IMG_20221202_0008.jpg-5.jpg

親鸞聖人は、「命が尽きた私は、一度は浄土に

還(かえ)るけれども、海の波のように、

すぐに戻ってくるであろう。

すべての人が弥陀の本願に救われ切るまで

ジッとしてはおれないのだ」とおっしゃっている。

一人居て喜ばは二人と思うべし、

二人居て喜ばは三人と思うべし、その一人が親鸞なり

一人の人は二人と思いなさい。

二人の人は三人と思いなさい。

目に見えなくても、私は常にあなたのそばにいますよ。

悲しい時はともに悲しみ、うれしい時はともに喜びましょう。

阿弥陀仏の本願に救われ、人生の目的を達成するまで、

くじけず求め抜きなさいよと、

全人類に呼びかけておられるのである。

真実のカケラもない私たちが、どうして聞法の場に足が向くのか。

そこには、目に見えない親鸞聖人が常に、

手を引いたり押したりしてくださっていることが知らされる。

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