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煩悩あるがままで絶対の幸福になれる [救われるとどうなる]

      シブ柿の シブが

           そのまま 甘味かな

 

                煩悩あるがままで

                絶対の幸福になれる

 

親鸞聖人への妬みそねみで苦しんでいた弁円が、

仏教を聞いて幸せな人生に転じたことを、

巻頭特集でお話しました。

(ブログでは載せていません)

 

山も山 道も昔に 変わらねど

 変わりはてたる 我が心かな

 

彼の詠んだこの歌は、何を表しているのでしょう。

親鸞聖人を殺害せんとして待ち伏せしていた山も道も、

当時と何も変わらないが、「絶対の幸福」となって、

苦しみの人生が幸せな人生にガラリと変わり果てた、

と弁円は歌っています。

仏教では私たちの生まれた目的、「なぜ生きる」の答えは、

阿弥陀仏の本願を聞いて「絶対の幸福」になることだ、

と教えられています。

弁円はここで、その絶対の幸福になった喜びを歌っているのです。

阿弥陀仏の本願とは、大宇宙のすべての仏(十方諸仏)が、

「本師本仏(先生)」と異口同音に褒めたたえる阿弥陀仏が、

すべての人を相手に「必ず絶対の幸福に助ける」と

誓われたお約束のこと。

 

阿弥陀仏の本願を聞いた、とは、このお約束どおりに

絶対の幸福に救われたことをいいます。

すべての仏が師と仰ぐ阿弥陀仏が、

「すべての人を必ず助ける」

と仰せだから、誰もが必ず幸せになれます。

「だから、早く絶対の幸福になりなさいよ」

と親鸞聖人は生涯、教え勧められました。

 

●絶対の幸福になっても煩悩は変わらない

 

では、絶対の幸福とは、どんな幸せなのでしょう。

〝汝自身を知れ〟といわれるように、〝私〟というものが

どんな者かを知らなければ、

その〝私〟が幸せになることはできません。

一体私たち人間は、どんな者なのでしょうか。

親鸞聖人は、

煩悩具足の凡夫

と仰っています。「煩悩具足」とは「煩悩100パーセント」

「煩悩によってできている」ということです。

 

『凡夫』というは無明・煩悩われらが身にみちみちて、

欲もおおく、瞋(いか)り腹だち、

そねみねたむ心多く間(ひま)なくして、

臨終の一念に至るまで止まらず消えず絶えず

                (一念多念証文)

人間というものは、欲や怒り、腹立つ心、妬みそねみなどの、

塊である。これらは死ぬまで、静まりもしなければ減りもしない。

もちろん、断ち切れるものでは絶対ない

 

仏教を聞くと、欲の心が少しはなくなったり、

怒りの心がおさまったり、ましてや、他人を妬み、

そねむ心などなくなるだろうと思っている人もありましょうが、

親鸞聖人はそんな心は死ぬまで変わらないのだよ、

と仰っています。だから阿弥陀仏の本願に救われて、

絶対の幸福になったあとも、

「煩悩具足」が変わらぬ人間の姿です。

ところがそう聞くと、

「エッ!絶対の幸福になっても煩悩は変わらないの?」

と驚く人が少なくないでしょう。

それは人間の実態をよく知らないところから起きる誤解です。

親鸞聖人が仰るように、人間は「煩悩具足」。

そんな者を目当てに、阿弥陀仏は、「絶対の幸福にしてみせる」

と誓われているのです。

「ナーンダ、煩悩が変わらないのなら、救われても意味がない」

などと思ったら、これまた大間違い。

阿弥陀仏の本願に疑い晴れて、

煩悩具足の者が絶対の幸福になると、

煩悩は変わらぬままで喜びに転ずる

と親鸞聖人はこう和讃で教えられています。

 

罪障功徳の体となる

氷と水のごとくにて

氷多きに水多し

障り多きに徳多し」(高僧和讃)

弥陀に救われると、欲や怒りの煩悩〈罪障〉の氷が解けて、

幸せ喜ぶ菩提の水となる。氷が大きいほど解けた水が多いように、

罪障〈煩悩〉が多いほど、幸せ、功徳が多くなるのである

 

これが「煩悩即菩提」ということで、

絶対の幸福になると、欲や怒り、

妬みそねみの煩悩はなくなるどころか、

幸せのタネとなるのだと、驚くべき世界の厳存を、

聖人は断言されています。

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●エッ 悪が転じて善となるって!?

 

絶対の幸福とは本来、相対の言葉ではとても表現し切れませんが、

言葉によらなければ伝えられませんから、例えでなりと、

この世界を何とか分かってほしいと聖人は和讃されているのです。

古来、

シブ柿の シブがそのまま 甘味かな

とも詠まれています。

シブ柿を干せば甘い干し柿になる。

シブを抜いて甘味を注入したのではなく、

シブがそのまま甘味になったのです。

弥陀の救いは「転悪成善(悪が、そのまま善となる)」ともいい、

煩悩が減ったり、なくなって幸福になるのではなく、

煩悩がそのまま喜びに転ずるのです。

 

こら阿弥陀 助けたいなら 助けさそ

 罪は渡さぬ 喜びのもと

 

「どうか助けさせておくれ」

手を突いて願われる阿弥陀如来に、

〝阿弥陀さま、そうまで仰るなら、助けさせてあげましょう。

でも、罪悪(煩悩)は渡しませんよ。煩悩即菩提。

喜びの元ですからね〟

弥陀の本願を喜んだ人がユーモラスに歌っています。

言葉で説明するのはとても困難ですが、「煩悩即菩提」を

表す例え話を、もう一つ紹介しましょう。

 

●どんな困難も前向きに乗り越えられる

 

自然豊かな地方に住むある少年。近所に同級生は少なく、

彼は山一つ越えた中学校へ、ひとりで通学しなければならない。

部活動で遅くなった帰路などは、街灯もなく、

ドキッとするような寂しい場所もある。

夏はジリジリ照りつける太陽に焼かれ、

冬は容赦なくたきつける吹雪にしゃがみ込むこともあった。

雨が降ると、たちまち坂道が滝になる。

ズボンの裾からは水が滴り、運動靴はぬれてグズグズ。

朝からそんな天気で、一日体操着の日もあった。

「ああ、もっと学校が近ければ・・・。

この山さえなかったら・・・。」

いつも山と道とが、恨めしかった。

 

やがて学校に、美しい少女が転校してきた。

何と彼女は、同じ町ではないか。

以来、しばしば一緒に通学し、遠い学校のこと、

趣味や好みのことなど語り合い、親しくなっていった。

ある日、下校途中に、にわか雨に襲われた。

なかなかやみそうになく、傘のない彼は困惑する。

その時、少女が、

「この傘で一緒に帰ろう」。

思いがけず相合い傘になった少年は、内心、

跳び上がらんばかりに喜び、ひそかに願った。

〝どうか雨がやまないように〟

〝山がもっと寂しければ〟

〝家がもっと遠ければいいのに〟

あんなに恨んでいた道の遠さも、

山の寂しさも変わってはいないのに、

今は少しも苦にならない。

いや〝苦しみ〟がかえって楽しみにさえなっている。

誰にでも身に覚えがあることではないだろうか。

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かつてNHK朝の連続ドラマで、オーロラ輝子という

演歌歌手を演じて人気を博した女優の河合美智子さんが、

昨年、40代の若さで脳出血を発症し、

入院治療を余儀なくされました。

(2017年6月のとどろきです)

そんな河合さんが、復帰とともに結婚を発表し、

元気な姿を見せたのは今年3月。

半身不随になるかもしれぬ深刻な病状を、

パートナーが明るく支えてくれたのだといいます。

「病気はしたけど、楽しいことがいっぱいあったから、

手が動かなくなった、足が動かなくなったは、

そんなマイナスじゃなかった」

とコメントしています。

つらい療養やリハビリも、明るく支えてくれる人が

いれば楽しい、とさえ思える。

絶対の幸福になって底抜けに明るい人生と転ずれば、

どんな困難も前向きに乗り越えていけるのです。

 

●心は浄土に遊ぶように明るく愉快になる

 

最後に、絶対の幸福を教えられた親鸞聖人の次のお言葉を

お聞きしましょう。

 

有漏の穢身はかわらねど

心は浄土にあそぶなり」(帖外和讃)

欲や怒りの絶えない煩悩具足の身は変わらないけれども、

今が幸せ今日が満足、ウラミと呪いの渦巻く人生を、

浄土で遊んでいるような気分で生かされる

 

「有漏の穢身」とは、煩悩に汚れた私たちの肉体のこと。

絶対の幸福になっても煩悩具足の身は変わらないことを、

「有漏の穢身はかわらねど」と仰っています。

ところが、次の「心は浄土にあそぶ」は、弥陀の本願に

救い摂られると、いつ死んでも浄土往生間違いなしと

ハッキリしますから、生きている今から、

心は極楽浄土で遊んでいるように明るく、愉快だ

と言われるのです。

 

どんな人でも、こんなすごい絶対の幸福に必ずなれるのですから、

親鸞聖人の教えをよくよく聞かせていただきましょう。

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