SSブログ

『正信偈』講話① [正信偈]

帰命無量寿如来 無量寿如来に帰命し、
南無不可思議光 不可思議光に南無したてまつる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
『正信偈』は一つの文章で、初めが分からなければ
最後まで分からなくなる。
『正信偈』の内容を表す非常に大切なところである。
●阿弥陀仏の独用(ひとりばたらき)
これは親鸞聖人自らのことを仰ったので、
「親鸞は無量寿如来に帰命しました。
親鸞は不可思議光に南無しました」
ということである。
まず、無量寿如来とは、阿弥陀如来の別名である。
これは、命に限りない無量寿の仏であるところからきている。
不可思議光は、不可思議光如来を略したもので、
阿弥陀如来のことである。
我々の頭では思議することのできないお力を
持たれた仏だからである。
次に、帰命と南無という言葉であるが、
帰命とは中国の昔の言葉で、南無はインドの言葉である。
意味はともに救われた、助けられたということである。
仏教学上では、信順無疑といい、阿弥陀如来を信じ、
その仰せに従って、ツユチリ程の疑いの心をなくなった状態をいう。これは、まったく阿弥陀如来の独用(ひとりばたらき)による。
親鸞聖人はここで、自分の力微塵ほども間に合わなかったと
自己の信心を告白しておられる。
なぜ、親鸞聖人は『正信偈』の冒頭に、
しかも2回繰り返し、阿弥陀如来に救われたことを書かれたのか。
●叫びつくせぬ喜び
IMG_20230531_0007.jpg-3.jpg
それは、親鸞聖人、非常に嬉しかったからで、
何回でも叫びたいことであり、
書き尽くせないことであったからである。
たとえば、腹が減って、今から夕飯を食べようとしている時に、
電気が消えてしまった。
真っ暗闇の中、懐中電灯もローソクもない。
動きがとれず、困り果てていた。
待てども待てども電気はなかなか来ない。
30分、1時間と時は流れ、2時間たっても電気が来る気配もない。
そうしているうちに、電気がパッとつき、
あたり一面明るくなった。
その家の人はどう言うだろうか。
台所にいた奥さんも、座敷にいた主人も、
勉強部屋から動けなかった子供も電気がつくと同時に上がる声は、
「ついた、ついた」
という喜びの叫びである。
みんな光を待っていた。
暗がりに困り果てていた時に光がきた。
一回、
「ついた」
と言えば分かることであるが、歓喜の余り思わず知らず、
繰り返し叫びのである。
親鸞聖人は、長い間、どうしたら阿弥陀如来に救われるのだろうか、どうしたら魂の解決ができるのだろうかと、
いわゆる光を求めておられた。
そこへ心の暗闇をぶち破る光がとどいた。
その時どうして、
「救われたぞ、助けられたぞ」
と叫ばないでおれるだろうか。
命がけに求めた者でなかったら救われたとき、
こういう気持ちにはならない。
日中に電気が切れ、修理され電気が来ても、誰も、
「ついたか」ともいわない。
なぜか。昼間は明るいから、暗がりに少しも困らない。
光を待っていないのだから、電気がついても、
少しも嬉しくないからである。
同じことが二回繰り返してあるのは、
阿弥陀如来の救いにあずかると、
無限にその喜びを叫ばずにおれないからである。
IMG_20230531_0008.jpg-1.jpg
●明らかな救い
そして、その救いは、あまりにもハッキリした明らかなものである。
これで助かったんだろうか、どうだろうかというような
ボケたものではない。
親鸞聖人は29歳の時に、ハッキリ阿弥陀如来に救われたと、
「建仁第一の暦、春の頃ーー乃至ーーたちどころに
他力摂生の旨趣を受得し、あくまで凡夫直入の真心を
決定(けつじょう)しましましけり」
と、『御伝鈔』に書かれている。
蓮如上人は、『御文章』に、
「今こそ明らかに知られたり」
とハッキリ言い切られた。
阿弥陀如来に救われたら、救われたことがハッキリするから、
ハッキリ言わずにおれない。書かずにおれない。
これを『正信偈』のこの2行で朝な夕な私たちに教えてある。
●ハッキリするまで求め抜け
またこれがハッキリしなかったら、
後生の一大事が安心できない。
阿弥陀如来に救われたら、大安心・大満足のハッキリした
自覚があるぞ、そこまで求め抜けと、
親鸞聖人が叫ばれたお言葉である。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
帰命無量寿如来 無量寿仏に帰命し、
南無不可思議光 不可思議光に南無したてまつる。
法蔵菩薩因位時 法蔵菩薩因位の時、
在世自在王仏所 世自在王仏の所に在して
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
世界最高の宗教、仏教は、無上道とも言われる。
朝晩の勤行で拝読する『正信偈』は、
仏教を開顕なされた親鸞聖人のお言葉である。
まず冒頭二行で親鸞聖人は、何を訴えておられるのだろうか。
「無量寿如来に帰命し、不可思議光に南無したてまつる」
と読む。
「帰命」も「南無」も、「救われた、助けられた」ということ。
「無量寿如来」と「不可思議光」はともに阿弥陀仏のことである。
「親鸞は阿弥陀仏に救われたぞ、助けられたぞ!」
と歓喜の叫びをあげておられる。
これほど明らかな阿弥陀仏の救いとは、いかなるものか。
阿弥陀仏は本師本仏、と釈尊はご教示されている。
大宇宙にガンジス河の砂のごとくまします十方諸仏の
師匠にあたる仏である。
地球上、最高の聖者であられる釈尊が、
「我が師」と拝まれる最高無上の仏である。
IMG_20230531_0006.jpg-1.jpg
●生命の歓喜
偉大な仏ほど、そのお徳に応じて、多くの名前を持っておられる。
阿弥陀仏ほど、多くの名称を持たれる仏はない。
限りない命を与えて下さる「無量寿如来」、
無上の幸福にする「不可思議光如来」、
いずれも阿弥陀仏のお徳を表す御名である。
親鸞聖人は阿弥陀仏に救われた喜びを、
「救われたぞ、助けられたぞ」
と繰り返しておられる。
「人間に生まれてよかった!」
生命の歓喜がなければ言えないことである。
ましてや、繰り返されるはずがない。
人生の目的が分からず、
「人間にさえ生まれねば・・・」
と親を恨んでいた者が、
「よくぞ人間に生まれたものぞ」
と躍り上がった体験を、
「救われた、助けられた」
と仰っているのだ。
●常識をこえた世界
そんな明らかな体験だから、必ず、ハッキリする世界がある。
親鸞聖人のみ教えには、卒業があるということだ。
世間の常識とは反対である。
「死ぬまで求道」と思っている人ばかりだ。かつて、
「卒業のある信心だ」
と説法した時、
「死ぬまで求道じゃ」
と怒鳴り込んだ、80過ぎの同行があった。
40年以上も親鸞聖人の教えを聞いてきた人である。
永年を聞法に投じてきた人でさえ、こう思っている。
ほとんどの人は、
「仏教に卒業がある」
とは、ユメにも思ってない。
これは、親鸞聖人のみ教えがまったく分かっていないのだ。
●理解できないお言葉
浄土真宗の一枚看板は、平生業成である。
「人間に生まれた目的を、平生に完成できる」
ということである。
「死ぬまで求道」では看板に偽りありとなる。
現生不退ーーこれも聖人のみのお言葉である。
現在ただ今、絶対の幸福になれる。
「永遠不滅の幸福になれる」
との仰せである。
●恩徳讃も歌えない
ただ今救われたからこそ、恩徳讃となる。
「如来大悲の恩徳は
身を粉にしても報ずべし
師主知識の恩徳も
骨を砕きても謝すべし」
親鸞聖人の告白である。
ただ今、人生の目的を果たしてくだされた阿弥陀如来と、
伝えてくださった知識の大恩は、身を粉にしても足らないぞ、
骨を砕いても済まないぞ、の不惜身命の報謝行となる。
死んでから、のことではない。
にもかかわらず、聖人のみ教えが、なぜかくも誤解されるのか。
どうも生きがいや趣味を、人生の目的と勘違いしている
ことにあるようだ。
政治、経済、芸術、スポーツ・・・
人間の営みのすべては、趣味や生きがいである。
家康や秀吉の、天下統一の苦労や満足も、
すべて彼らの生きがいなのである。
生きがいや趣味には、完成も卒業もないから、キリがない。
「人の一生は重荷を背負うて遠き道を行くがごとし」
剣聖・宮本武蔵は、
「まだまだ自分は未熟」と述べている。
完成のない趣味や生きがいには、金輪際、満足ということはない。
だが人生の目的は違う。
完成がある。
「このために生まれたのか」
と歓喜する時がある。
これ一つ達成すれば、いつ死んでも満足といえるものである。
親鸞聖人はその体験を、冒頭の二行で告白なされているのだ。
その親鸞聖人のみ教えを、明らかにする人がいない。
だから、真の人生の目的を知らず、
趣味や生きがいを人生の目的、と誤解している人ばかりである。
親鸞聖人によってのみ、明らかにされた、仏教の真髄、
卒業のある信心。
人間に生まれた真の喜びは、まさにここにあるのだ。
「帰命無量寿如来
 南無不可思議光」
人生究極の目的が、平生に完成できることを、
繰り返して教え続けておられる。
祖師聖人を世界の光、と仰がずにおれない所以がここにある。

nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:資格・学び

nice! 5

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。