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お釈迦さまと親鸞聖人 [釈迦]

お釈迦さまが人間界にお出ましになられたのは、
「弥陀の本願」一つを我々に伝えるためでした。
ただそれだけを教えれば出世本懐を果たせるのですが、
すべての者を一念で、絶対の幸福に助け、
死ねば必ず極楽に往生させ仏にしてみせる

という弥陀の誓いがあるぞと教えても、
いくら尊容なお姿をお釈迦さまがしておられても
誰も信ずることができず、見向きもしないことは
分かりきっていましたので、
「大無量寿経」以外の7000余巻の
膨大なお経を説かれたのです。
いろいろな善を説き、我々に実際にやらせて、
身をもって善のできない極悪人であることを知らせ、
そして我々の気づいていないところで、
いかに大変な悪ばかりやっているか、
どれほど
罪悪深重のものであるかを教え、
一息切れたら、その報いが必ずあるのだ、
地獄しか行き場のないのがお前たちなのだよと知らせ、
そんなものを助けるために本願を建ててくだ
さった
仏さまがただ一仏だけいるのだ、
それは本師本仏の阿弥陀仏であり、
阿弥陀仏だけに向かえば後生の一大事助けてもらえるぞ!
六道輪廻から出離し、極楽往生できるのだ!
と教えていかれたのです。

(弥陀の本願一つを教えていかれたという根拠は、以下を参照ください。

如来、世に出興する所以は道教を光闡し、群萌を拯い(すくい)恵むに
真実の利を以ってせんと欲してなり
                (大無量寿経)
「私がこの世に現れた目的は、一切の人々を阿弥陀如来の真実の救いに
値(あ)わせるためである」
これは、釈尊がこの世に生まれた目的を、
「全ての人に弥陀の本願を説き聞かせ、絶対の幸福に導くためであった」
と自ら宣言されたお言葉です。

巻頭のこの経文だけでも『大無量寿経』が真実の経であることは明らかですが、
さらに巻末にも釈尊は、次のように仰っています。

当来の世に経道滅尽せんに、我慈悲を以て哀愍し、
特に此の経を留めて止住すること百歳せん。
               (大無量寿経)
「やがて『法華経』など一切の経典がなくなる時が来ても、
この『大無量寿経』だけは永遠に残り、すべての人を絶対の幸福に導くであろう」
「百歳せん」とは「永遠に」の意。
(「百年」ならば「一百歳」といわれます) )

お釈迦さまが涅槃の雲にお隠れになられた後、
龍樹菩薩、天親菩薩、曇鸞大師、道綽禅師、
善導大師、源信僧都、法然上人の七高僧方が
弥陀の本願を命を懸けてお伝え下されましたが、
親鸞聖人ほど、鮮明に、我々が受け取りやすいように
教えていかれた方はありません。
だから世界の光と讃仰される本当の理由があるのです。

それにかんしては、以下をご参照ください。
親鸞聖人の教えって?


タグ:大無量寿経
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自利利他で行こう!しあわせの種まき [因果の道理]

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自利利他で行こう
     しあわせの種まき

プロローグ★しあわせのスイッチ

夜八時を少し回ったこと、
お店には、女性たちのにぎやかな笑い声が響いていた。
“疲れたおとなの充電基地”をうたい文句に、
家庭料理と飾らない居心地のよさが評判の、
和風ダイニング『ダンナ屋』。

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照明を落とした店内をぐるりと見渡したマリ子は、
奥のテーブルで手を振るケンジを見つけた。
「ごめんなさい。遅くなって」
「いや、ボクも今来たばかり」
ほとんど空のグラスを見ればウソと分かったが、
ケンジの言い方がおかしくて、自然と口元が緩んだ。
ケンジは学生時代の先輩であり、
よき相談相手でもある。

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「今日もまた何かあったのかい?」
「分かりますかぁ」
マリ子は向かいに腰掛け、近づいてきた店員に、
冷たいゴーヤ茶を注文した。
「いっつもトラブルが起きるんです。
すごくイヤな人がいて・・・」
「そうか、大変なんだね」
「ケンジさんの周りは、そういうことないんですか。
いい人ばかりで、うらやましいな」
そうでもないよ。ま、ボクはなるべく
幸せのスイッチを入れるようにしてるだけ

「何ですか、それ」
ケンジはすぐには答えず、問いかけた。
例えば一日の中で、他人のことを考えている時間の割合、
考えたことある?」
「ないですけど、半分ぐらいかな」
「じゃ、その中で相手に何かしてあげようと思ってる時間と、
腹を立ててる時間は?」
「うーん。九割方、怒ってるかも」
「つまり、相手に何かしてあげようと思っている時間は一割未満?」
「まあ、そうなります

ケンジはぐっとマリ子のほうに顔を近づけて、ささやいた。

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毎日ちょっとでも多く、人に何か与えられないか考える。
それが幸せのスイッチ

えー、よく分からないけど、と言って、
マリ子は首をかしげた。
ゴーヤ茶が運ばれてきた。
店員は、手際よく次の注文をとって立ち去る。
とりあえず二人はグラスを重ねた。
で、さっきの続きだけど。
お釈迦さまがね、“幸せになりたければ、
相手に与えることを考えなさい。
もらうこと、取ることばかり考えていたら不幸になりますよ”
と仰っているんだよ

「えっ、お釈迦さま?」
ここからの時間は君にプレゼント、と言いながら、
ケンジは手帳とペンを取り出して、
さらさら書き始めた。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
  しあわせの
     原因と結果の関係

どうすれば幸せになれるのか。
私たちが一番知りたい、
運命の原因と結果の関係を教えられたのが、

善因善果
悪因悪果 
自因自果

という、お釈迦さまのお言葉です。
「善因善果」とは、善い種をまけば善い結果が現れる。
「悪因悪果」とは、悪い種をまけば悪い結果が引き起こる。
「自因自果」とは、善いのも悪いのも、
自分の現れる結果のすべては、
自分のまいたものばかり、ということです。

ここで「因(タネ)」とは、私たちの行いのこと。
「果」とは幸福や不幸の運命です。
幸福という運命は、善い行いが生み出したものであり、
不幸や災難は、悪い行いが引き起こしたものである。

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神というものがいて運命を造ったのでもなければ、
先祖のたたりで不幸になるのでもない。
自分の運命のすべては、
自分の行為が生み出したものなのだ

と、お釈迦さまは教えられているのです。
まかぬ種は生えませんが、まいた種は必ず生える。
善因は善果、悪因は悪果。
一度まいた種(行い)が消えることは絶対ありません。
私の人生をつくっているのは、
私の行為であり、因が変われば果も変わる。
運命は自分で変えられる、ということです。

幸せの種まき
    六度万行と布施

では、どんな種をまけばよいのでしょう。
お釈迦さまは、たくさんの善(諸善万行)を
教え勧められています。

しかし、あれも善、これも善と並べられても、
私たちはどれから手をつけてよいか迷いますね。
ちょうど、服を一着だけ買いに行ったのに、
何百着も並んでいると目移りして選べません。
そんな時、店員さんが気を利かせて、
数着候補を並べてくれると選びやすいでしょう。

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私たちが実行しやすいように、
お釈迦さまが、いろいろな善を六つにまとめられたのが、
六度万行(六波羅密ともいう)です。

その六つを挙げ、現代語で表現すると次のようになります。

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この六つに、数え切れぬほどの善がおさまっています。
しかも、どれか一つ実行すれば、
六つ全部したのと同じになるのが、六度万行の特長です。

中でも私たちがいちばんしやすいのが布施ですから、
お釈迦さまは、六度万行の最初に挙げられています。

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布施とは「施す、与える」こと。
広い意味で「親切」です。

布施を大きく分けると、財施と法施の二つになります。
財施とは、財を施す。
つまり、お金や物を人にあげることです。

恵む人は恵まれる。
生かす人は生かされる。
「幸せになりたければ、布施しなさい。
もらうこと、取ることばかり考えていたら、
善果はきませんよ」
とお釈迦さまは仰います。

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「与えたら自分の分が減るではないか」と思うでしょうが、
違うんです。
あげた人も、もらった人も、ともに幸せになれる。
やってみれば分かりますよ。

もちろん、これだけ与えればこれだけ返ってくるだろう、
と計算してやるのは、
商売であって布施ではありません。

お釈迦さまは、布施の心掛けとして、
「三輪空(さんりんくう)」を教えられています。

「私が(施者)」
「だれだれに(受者)」
「何々を(施物)」
この三つを忘れるように努めよ、ということです。

相手の幸せだけを考えて種をまくのです。
心が大切なんですよ。

お金や財を持たない人でも、
気持ちさえあれば七つの布施ができますよ、
とお釈迦さまは「無財の七施」を教えられています。

無財の七施

眼施(げんせ)
優しい温かい眼差しで周囲の人々を
明るくすること。「目は心の鏡」。
和やかな光をたたえた目は、どんなに人を慰め、
励ますことでしょう。

和顔悦色施(わげんえっしょくせ)
優しい笑顔で人に接すること。
笑顔は周囲を和ませ、
トゲトゲしい対人関係もスムーズにしますね。

言辞施(ごんじせ)
優しい言葉をかけること。
例えば事故や災害に遭った人に、
心から「命が無事で幸いでしたね」
と気遣う人もあれば、
「修理費いくら?うわーバカみたい」
と傷に塩を塗る人もある。
あなたはどんな言葉をかけていますか。

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身施(しんせ)
肉体を使って人のため、
社会のために働くこと。
いわゆるボランティアです。
知人が車に大きめのゴミ箱を置いていた。
道路にゴミが落ちていたら拾うためという。
普通なら「だれか片付けるだろう」と思うところ。
「みんなのために、自分に何かできることはないか」
という心が行動に表れます。

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心施(しんせ)
心から感謝の言葉を述べること。
「ありがとう」
「すみません」
たった5字の音声が、職場や家庭を明るくする。
反対に、その一言がなくて
信頼を失ったことはありませんか。

床座施(しょうざせ)
場所や席を譲り合う親切。
乗り物の座席の取り合いや、
権力の座の奪い合いを見ると、
いかに床座施が必要か知らされます。
「他人に譲る気持ちを持つようにしよう」
といわれますね。

房舎施(ぼうしゃせ)
求める人、訪ねて来る人があれば
一宿一飯の施しを与え、
その労をねぎらうことです。

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このように心がけさえあれば、
どんな人でも、いつでもできる善が布施なのです。

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ただし、誰にでも与えればよいのではありません。
えば放蕩息子に金銭を与えればますます堕落しますし、
泥棒の手助けをしてよいはずがありません。

お釈迦さまは、布施の相手を「三福田」
と説かれています。

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最も敬うべき、ご恩を受けているお方は、
私たちを未来永遠に幸せにしてくださる阿弥陀如来です。

そして親鸞聖人や蓮如上人など、
その阿弥陀如来の御心を伝えてくださった方々。

また、生み育ててくださったご両親や学校の先生、
他にも陰に陽にお世話になっている方もあるでしょう。

悲田(ひでん)は、病やケガ、災害や貧困などで
苦しんでいる人のことです。

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農家の人が田んぼに種をまくのを見て、
あいつは馬鹿だなあ、
あんなところに種を捨てて、と思う人はないでしょう。
やがて芽が出て成長し実を結んだ秋の収穫は、
すべて農家のものになるからです。

ちょうどそのように、布施をすれば、
その福徳は布施をした人のものになり、
やがて大きな幸せの実を結ぶから、

布施の相手を田んぼに例えられているのです。

欲深い私たちは、金でも物でも、
与えるとつい損をしたように思いますが、
逆だと教えられます。

布施の功徳は、幸せとなって必ず布施した本人に
現れるのですね。

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法施とは法を施す。
つまり、人に仏法を伝えることです。
財は一代の宝、法は末代の宝」といわれ、
金や財は生きている間の喜びですが、
仏法には未来永遠の幸せが説かれていますから、
それを伝えることは財施に勝るしあわせの種まきだと、
お釈迦さまは教えられています。


思う存分話ができなくても、
仏法が説かれる場所へ人を誘ってあげれば、
それも法施です。

「こんな尊い教え、自分だけ聞いているのはもったいない。
みんなに聞いてもらいたい」
と、わが家を開放して法話を開いたり、
聞法道場をつくる。
これは、財施と同時に法施もすることになり、
その功徳は計り知れません。
昔から、自分の家で法座を勤めると、
その家の屋根に留まった鳥から、
床下の虫まで尊い仏縁を結ぶといわれています。

財施も法施も、ともにしあわせの種まき。
まいた種はほかのだれでもない、
全部あなたのものになるのですから。

●エピローグ★自利利他で行こう

「何だか幸せになれそうな気がしてきた」
そう言ってマリ子は笑った。
店に入ってきた時の疲れ顔は、
もうどこかへ消えてしまったようだ。
ケンジはほほえみながら、最後にこう付け加えた。
仏教では、自分さえよければ他人はどうでもいい、
という考え方を最も嫌われるんだ。
我利我利亡者といってね。
我利我利とは、自分さえ助かればいい。
他人はどうでもいい、という心。
そんな人が愛され、慕われ、
恵まれるはずがないでしょ?

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仏教は自利利他。
他人を幸せにする(利他)ままが、
自分の幸せ(自利)となる。
他人も生かし、自分も生きる。

これが自利利他の道なんだよ
「自利利他、か。ステキな言葉ね」
マリ子は弾んだ声で答えた。
ちょうど熱々の料理が運ばれてきた。
「お待たせしました。
揚げ出し豆腐のほっこり煮と
『ダンナ屋』特製桜ご飯のセットでございます」
「うわっ、おいしそっ!」
おいしいですよー、と言いながら、
店員は二人の前にお膳を据えた。
「じゃ、改めて」
ケンジがグラスを手に取る。
マリ子もならった。
「自利利他で行こう!」
「乾杯!」
カラン、と、グラスの中で氷が揺れた。

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・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
体験手記

無常を教えてくれた
    父のメッセージ
「いつまでも幸せが続くと思っていたのに、
無常の嵐が、何の前触れもなく吹いたのです」
清水さんが仏法を聞くきっかけとなったのは、
幼いころの悲しい出来事でした。
   石川県  清水 浩一さん(22・仮名)

「それ、人間の浮生(ふしょう)なる相(すがた)を
つらつら観ずるに、凡そはかなきものは、
この世の始中終、幻の如くなる一期なり」
蓮如上人の書かれた「白骨の御文章」の冒頭です。
18歳の時、私は初めてこのお言葉を聞き、
心を打たれました。
そして、胸にしまっていたあの出来事を、
思い出さずにはいられなかったのです。

6歳の夏、その日は。父と私、3歳の弟とで
海水浴を楽しんでいました。
とても高い飛び込み台から、父は繰り返し頭から飛び込んでいました。
何度目だったでしょう。
飛び込んだ父が、海面からなかなか上がってきません。
最初は、私や弟を驚かそうとしているのだと思いましたが、
いつまでたっても上がってこないのです。
にわかに周囲が騒然とし、大人たちが海に潜って、
父を捜し始めました。
言いようのない不安。
私はどうしていいか分からず、
ただ待つしかありませんでした。
やがて、2、3人に抱きかかえられ、
海から上げられました。
人々が取り囲み、心臓マッサージがなされている。
救急車のサイレンが鳴り響きました。
「さてしもあるべき事ならばとて、
野外に送りて夜半の煙と為し果てぬれば、
ただ白骨のみぞ残れり」  (白骨の章)
190センチもあった父は、ひとつまみの白骨に変わり果てたのです。
「大好きなお父さんは、もういない。
二度と会えない。一体、何が起きたのか」
幼かった私には、とても理解できないことでした。
一つだけ分かったのは、母の狂わんばかりの悲しみ。
泣き叫ぶその姿は、今も忘れることができません。

●衝撃的な出遇い

事故から12年後、大学生になった私は、
高校の友人に誘われて、初めて仏法を知りました。
そこで聞いたのが「白骨の御文章」です。
衝撃的な蓮如上人のお言葉は、
私の胸に深く刻まれました。
営々と築き上げたどんな成果も、
人生の幕切れで、ぐしゃりと握りつぶされる。
残るはひとつまみの白骨のみ。
31歳の父が、姿にかけて教えてくれたのは、
この仏説まことだったのです。
「一度きりの人生、後悔だけはしたくない」
そう強く願って生きてきた私が、
“人生で果たすべき唯一の目的”
を教える仏法に出遇えたのです。
仏縁に恵まれ、今の私があるのも、
母のおかげです。
父亡きあと、いちばん悲しみ、苦労してきた大切な母にこそ、
この素晴らしい聖人の教えを伝えたい。
離れて暮らす母に何度も手紙を書き、
『とどろき』を送りました。
けれども、なかなか伝わりません。
“人一倍苦労し、ずっと応援し続けてくれたのに、
なぜ伝えることができないんだ。どうしたらいいのか”
もどかしさを抱えながら、
気がつけば3年が過ぎていました。

●「聖人の教えは、最高よ」

ところが昨年の秋、
「あなたから、話を聞くようにするよ」。
母の突然の言葉に耳を疑いました。
「職場の先輩から言われたの。
『親鸞聖人の教えは最高よ。息子さんがどんな話を聞いているか、
あなたも聞いてみなさい』って」
母は職場で、ある女性の先輩をとても尊敬し、
悩み事を何でも相談しています。
その先輩の机に、ある日、『とどろき』が置かれていたそうです。
実は20年来の読者で、
しかも、よく仏法を聞きに行っていることが分かりました。
信頼する方の言葉が縁となり、
11月、母と祖母が初めて聞法会場に足を運びました。
その日は『歎異抄』第7章についてでした。
「難しいお話だったね」
と言いながらも母は、
「浄土真宗では、どなたに手を合わせるの?」
と尋ねてきました。
「阿弥陀仏だよ」
と答え、阿弥陀仏とお釈迦さまの関係は
先生と弟子であることなどを話しました。
家族で肩を並べて聴聞し、法を語り合う、
夢のような幸せな時間でした。
“お母さん、22年間、苦労して育ててくれてありがとう。
お母さんの子供に生まれて、本当によかった”
仏法に出遇い、心からそう言えます。
身をもって無常の真実を伝えてくれた
父のメッセージを心に刻み、
家族で光に向かって進ませていただきます。


タグ:自利利他

親鸞、更に私なし [親鸞聖人]


(真実の仏教を説かれている先生の書かれた「とどろき」より載せています)

「親鸞、更に私なし」
    親鸞聖人と七高僧

親鸞聖人の教えとか、浄土真宗と聞きますと、
何か独自の教えを説かれた方のように
思うかもしれませんが、
そうではありません。

親鸞聖人の教えといっても、
お釈迦さまの説かれた仏教以外にはなかったのです。

聖人は常に、
更に親鸞珍らしき法をも弘めず、
如来の教法をわれも信じ、
人にも教え聞かしむるばかりなり

“親鸞の伝えていることは、
決して珍しい教えではない。
釈迦如来の教法を、
親鸞も間違いないと知らされたから、
皆さんにお伝えしているだけなのだよ”

と言われ、「親鸞、更に私なし
ともおっしゃっています。


では、釈迦の教えとは何でしょうか。
親鸞聖人は『正信偈』に、
「如来、世に興出したまう所以は、
唯、弥陀の本願海を説かんがためなり」

“釈迦如来が、仏教を説かれた目的は、唯、
弥陀の本願一つを説くためであった”

と断言されています。
弥陀の本願とは、
「我を信じよ、すべての人を必ず絶対の幸福に救い摂る」

と誓われた大宇宙最高の仏さま・阿弥陀仏のお約束です。

この弥陀の救い一つを、お釈迦さまは、
生涯説いていかれたのです。

●貯水池と水道管

しかし、お釈迦さまは、約2600年前のインドの方。
親鸞聖人は、約800年前の日本の方。
時代も国も違う聖人が、どうして仏教を聞けたのでしょう。

それは、インド・中国・日本に現れ、親鸞まで、
本当の仏教を間違いなく伝えてくだされた方々の
おかげであった

と、聖人は『正信偈』に7人のお名前を挙げ、
それらの方の恩徳をしのび、褒めたたえています。

インドでは、龍樹菩薩、天親菩薩。
中国では、曇鸞大師、道綽禅師、善導大師。
日本では、源信僧都、法然上人。
これらの方々を「七高僧」といいます。

山の上にある貯水池の水が、
家の蛇口をひねってすぐに飲めるのは、
水道管のおかげ。

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弥陀の本願を貯水池に例えれば、
水道管に当たるのが、お釈迦さまから始まって、
龍樹・天親・曇鸞・道綽・善導・源信・法然上人の七高僧方です。

これら善知識(正しい仏教の師)のご教導あればこそ親鸞、
弥陀の本願に救われることができたのだと喜ばれ、
その弥陀の本願を、私たちに正しく伝えてくださったのです。

いかに聖人が仏教を正確に伝えられたか。
それは主著『教行信証』を見れば一目瞭然でしょう。
『教行信証』には聖人ご自身の作文は非常に少なく、
ほとんどがお経や七高僧の書かれた論・釈の引用です。
「経に言(のたま)わく」「論に曰(いわ)く」
「釈に曰く」とおっしゃって、

親鸞は常に経・論・釈に基づいてお伝えしている。
独自の考えなど一切ない

といわれています。
まさに「親鸞、更に私なし」
のお言葉です。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

阿弥陀仏とはどんな仏さま?

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

他の仏教はどうなのか、疑問に思っている方もいると思います。
以下を見ていただければと思います。

お釈迦さまの本当のみ教えは、いかに骨抜きにされたか!

(空海、最澄、密教、加持祈祷、修験道、神仏習合などに関してです。)


 


タグ:親鸞聖人

心でやる悪&弥陀に救われたら煩悩はどうなる!? [罪悪深重]

(真実の仏法を説いておられる先生の書かれた「とどろき」より載せています) 

大悲の願船に乗じて、
光明の広海に浮かびぬれば
至徳の風しずかに、
衆禍の波、転ず

          (親鸞聖人・教行信証

阿弥陀仏の大悲の願船に乗って見る人生は、
千波万波きらめく明るい広海ではないか。
順風に帆をあげる航海のように、
なんと生きるとは素晴らしいことなのか

今回は最後の行「衆禍の波、転ず」
についてお話したいと思います。

●不思議な弥陀の救済

親鸞聖人は、阿弥陀仏の大慈悲によってつくられた
南無阿弥陀仏の大船の乗せていただいても、
「衆禍の波」はやってくると言われています。
「衆禍」とは、“いろいろな禍い”
“様々な悪果”ということです。

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世間では、「阿弥陀仏に救われたら、
災難や事故などの禍いに遭わなくなるのだろう」
と思われています。
言葉を換えれば、
「弥陀に救われた人は、欲や怒りの煩悩は、
なくなるか、大きく減少するだろう。

悪も造らなくなって、その報いも受けなくなるだろう」
と誤解しています。

ところが、阿弥陀仏に救われ、
大悲の願船に乗せていただいても
煩悩は減りもしなければなくなりもしない、
だから衆禍の波も変わらない、
と親鸞聖人は言われるのです。

こう聞くと、「えっ、それで救われたことになるの!」
と驚かれたり、「読み間違えたかな」
と読み直される方もあるかもしれません。
しかし、親鸞聖人は、救われても、
煩悩は全く変わらないとハッキリ教えておられます。

煩悩あるがままで救われる不思議な弥陀の救済を、
明らかにされた方が、親鸞聖人なのです。

その不思議な世界を、親鸞聖人は、こう和讃されています。

有漏(うろ)の穢身はかわらねど
こころは浄土にあそぶなり


「有漏」は「煩悩」の別名。
煩悩とは、私たちを煩わせ悩ませるもので、
全部で百八つあります。

除夜の鐘を百八回突くのは、この煩悩の数からきています。

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代表的なものは、貪欲、瞋恚(しんい)、愚痴の三つで、
これを三毒の煩悩といいます。


「貪欲」とは欲の心。
あれが欲しい、これも欲しい、ああもなりたい、
こうもなりたいという心で、
「成果を横取りしてでも儲けたい、褒められたい」
「ライバルを蹴落としてでも愛されたい」
「手抜きして少しでも楽したい」
と、何でも自分の思い通りにしたい自己中心的な心です。
欲を満たそうとして、どれだけ浅ましい心が
噴き上がってくることでしょう。


この欲が妨げられると出てくるのが「瞋恚」の心。
瞋恚とは怒りです。
あいつのせいで儲け損なった、
こいつのせいで恥かかせられた、
コンチクショーと怒りの心が燃え上がります。
上司を、部下を、同輩を、怒りの心で切り刻む、
恐ろしい心が瞋恚です。

夫婦喧嘩で「死ぬ」「殺す」と修羅場になった発端も。
冷静に振り返れば、ささいでつまらないことなのですが、
一旦怒りの炎が点火すると、理性もへったくれもない。
散々辺りを焼き尽くし、焼け野原にボツネンと
たたずんで残るは後悔のみ。
まさに、「怒りは無謀に始まり、後悔に終わる」のです。

愚痴は、ねたみそねみの醜い心であり、
他人の不幸を喜ぶ悪魔の心。

不幸話が耳に入ると、「おかわいそうに」
と眼を潤ませながら、
「どうしてそうなったの?それでどうなったの?」
と興味津々。
自分でも知らぬ間に心が躍り、人気ドラマを見る以上に
ドキドキワクワクしてしまう。
不幸の度合いが深いほど関心も深まる醜い心、
それが愚痴です。

上辺は立派な善人を演じながら、
内面は、浅ましく、醜い心が渦巻いている。
このような心を「煩悩」といい、
ここでは「有漏(うろ)」と言われています。

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「穢身」は「穢い身体」ですから、
「有漏の穢身」とは、
「煩悩に穢れた肉体」「煩悩具足の身」ということです。
私たちは、心のドン底から噴き上がる煩悩のために、
どれほど身を焦がし、もだえ苦しんできたことでしょう。

煩悩さえなくなれば、心穏やかに過ごせるのにと
思わないではいられません。

しかし、親鸞聖人は、
有漏の穢身はかわらねど
阿弥陀仏に救われても、煩悩は少しも変わらない)」
と断言されているのです。

●もし煩悩をなくさねばならないのなら

もし、煩悩をなくさねば救われないとすれば、
峻烈な修行が必要になるでしょう。
かりにそうなら、身体の不自由な方や、病床の人、
年配の方はとても救われないことになってしまう。

また親鸞聖人、法然上人、龍樹菩薩といった方々が
何年も血のにじむ修行に励まれても、
煩悩はなくせず、減りもしなかったと言われています。

今日でも、千日回峯行を成し遂げた人も
「残ったのは足跡だけ」と述懐しているのです。

煩悩の塊の我々が、
煩悩をなくすことなどできるはずがありません。

かといって無限の欲を満たそうとすれば、
死ぬまで不満は絶えず、苦しまなければなりません。
満たせもせず、なくすことも不可能な煩悩を前に、
私たちはどうすることもできない。
真の幸せはどこにあるのか。
あらゆる哲学、思想もここで八方塞がりです。

●煩悩あるがまま、心は浄土に遊ぶ

そんな中、親鸞聖人は、欲や怒りの煩悩を、
減らしも無くしもしないままで体験できる、
驚くべき幸福の存在を、


有漏の穢身はかわらねど
こころは浄土にあそぶなり

と言われているのです。
これは、
「煩悩いっぱい変わらぬままで、親鸞、
極楽浄土へ往って遊んでいるように、
明るく愉快なのだ」

という宣言です。
『正信偈』にも、次のような例えで教えられています。

すでによく、無明の闇を破すといえでも、
貪愛・瞋憎(とんない・しんぞう)の雲霧、
常に、真実信心の天を覆えり。
たとえば、日光の雲霧に覆わるけれども、
雲霧の下、明らかにして闇なきがごとし
            (正信偈)
阿弥陀仏に救われ、
苦悩の根元である無明の闇が破れると、
欲や怒り、ねたみそねみの煩悩〈貪愛・瞋憎の雲霧〉以外、
何もない自己の裸形〈らぎょう〉が知らされる。
だが、雲や霧がどんなに天を覆っていても、
日光で雲霧の下は明るいように、
欲や怒り、ねたみの煩悩いっぱいあるままで、
心は浄土に遊んでいるように明るく愉快なのだ

「貪愛」とは、貪欲・愛欲のことで、底知れぬ欲の心。
「瞋」は瞋恚、怒りの心。
欲が邪魔されてカーッと腹が立つ心。
「憎」は憎しみ・うらみ・ねたみそねみの愚痴の心です。
親鸞聖人は、この煩悩を霧や雲に例えて
「貪愛・瞋憎の雲霧」と言われています。
弥陀に救われる前は、
日光が出ていない夜の状態ですから、
暗い心を抱え、何のために生まれてきたやら
分かりません。
弥陀に救われた時、日光が闇を破って昼になり、
「人間に生まれてよかった」の明るい心に大転換します。

では、日光が出たら、同時に雲や霧もなくなるのでしょうか?
そうではありません。
親鸞聖人は、日光が出ても、
雲霧は常に天を覆ったまま(貪愛・瞋憎の雲霧、常に、
真実信心の天を覆えり)と言われています。
しかし、いかに雲霧の煩悩が天を覆っていても、
昼になれば、雲霧の下は明るいのです。
これが「雲霧の下、明らかにして闇なし」の一大宣言です。
煩悩の有無は問題ではない。
苦悩の根元、無明の闇が晴れたかどうかが肝心です。

煩悩(雲霧)あるままで救われた(闇が破れた)
世界があることを何とか知ってもらいたいと、
親鸞聖人は例えを駆使して
私たちに教えてくださっているのです。

●波乱万丈の衆禍の波、逆巻こうとも

このように、救われても煩悩具足の身は変わりませんから、
救われる前も、救われた後も、悪果はやってきます。
ですが、どれだけ衆禍の波が逆巻こうとも、
心が浄土に遊ぶ幸せは崩れることも
色あせることもありません。

29歳で弥陀に救い摂られてからの、
波乱万丈の聖人のご生涯を知れば、
これがいかにすごいことか、お分かりになるでしょう。
31歳、すべての人がありのままで救われることを
明らかにされるため、当時、
僧侶には固く禁じられていた肉食妻帯を断行なされ、

「堕落坊主じゃ」「破戒坊主」「色坊主」
「仏法を破壊する悪魔だ」と非難罵倒の嵐を呼んだ。

35歳、仏教の結論である「一向専念無量寿仏」
(阿弥陀仏に一向専念せよ、必ず絶対の幸福に救われる)
をあまりにも強調された
ため、
当時の権力者の逆鱗に触れ、
死刑判決を受けられた聖人は、
関白九条公の計らいで越後(今の新潟県上越)に流刑となり、

配所の5年、風雪に耐えておられます。
その後、関東へ移られてからは、
聖人の興隆を妬んだ山伏弁円が白昼堂々、
刀振りかざして殺しに来たりと、
たびたび命も狙われました。
還暦過ぎて京都へ戻られてからも、
83歳の時には自宅全焼の悲運に遭われ、
さらに84歳の、長子善鸞の義絶事件は、
人生最大の苦悩であったでしょう。
これら万丈の波乱は、紛れもなく「衆禍の波」が
荒れ狂ったご生涯でした。

そんな親鸞聖人が、「こころは浄土にあそぶなり」
と謳い上げておられるのですから、
驚く他はありません。

たとえ災難続きであろうと、心に欲や怒りが逆巻いていようとも、
ありのままで「念仏者は無碍の一道なり」

万人救済の道が、ここに開かれているのです。
私たちは、災難や事故に遭わないために
仏法を聞くのではない。
どんな目に遭っても永久に変わらぬ
絶対の幸せ者になるために聞くのです。


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因果の道理を説かれた本当の目的とは!? [因果の道理]

 (minsukeが書きました)

皆さん、前回の記事「因果の道理」に関しては、
読んでいただけたでしょうか?
(読まれていない人は、「幸せの選択、不幸の選択、あなたはどっち!?」 )
お釈迦さまが因果の道理を説かれたのは、
この世、幸福に生きるにはどうすればいいかを
教えたかったからではありません。
この世の50年、100年など、
あっという間に過ぎ去ってしまいます。
無量寿の仏さまからすれば、
人間の寿命などカゲロウのようなものです。
仏さまであるお釈迦さまが地球にお出ましになられたのは、
そんな50年、100年の崩れるような幸せではなく、
未来永遠の崩れない幸福があるということを
教えるためだったのです。

1000年後も、1万年後も、
未来永遠に幸福になる方法を教えに来たのです。
つまり「阿弥陀仏の本願」に救われれば、
未来永遠の大生命をいただけることを
教えたかったのです。

因果の道理は三世(過去世・現在世・未来世)を貫きます。
この世だけで終わらないのです。
お釈迦さまは、我々の本当の姿を大無量寿経に
説かれています。

心常念悪(心は常に悪をおもい)
口常言悪(口は常に悪を言い)
身常行悪(身は常に悪を行い)
曾無一善(かつて一善もなし)


心で、口で、体で、悪ばかり行い、
かつて一善もやったことがないのが
我々だと言われているお言葉です。
そんな者が一息切れたらどうなるでしょうか。

私たちのやった行為は
目に見えない力・業力となって残り、
決してなくなりません。
悪ばかりやっていて、その業力が我々の本当の心である
阿頼耶識に蓄えられていくのです。

死ねば、その悪業が悪縁と結びついて、因果の道理により、
悪因悪果で我々に返ってくると教えているのです。

だから、必堕無間と言われ、
死んだら八万劫中、大苦悩の地獄に
堕ちるのだと説かれたのです。

(一劫とは4億3千2百万年。八万劫とは、その八万倍の長年月。
お釈迦さまの言われたのは1000年や10000年どころではないのですよ!
人間界は、悪縁がそれほどないので苦しまずにすむだけです。)

それを解決する方法は、
阿弥陀仏に救われるしかないのだ、
だから今生で、弥陀の本願を聞き抜けと
教えに来られたのです。

阿弥陀仏は、生きている今、
もう崩れない絶対の幸福に救い摂り、
死ねば極楽に往生させ仏にしてみせると、
命を懸けて誓われています。

「若不生者 不取正覚」と、
弥陀の18願に誓っておられるのです。
それも聞く一つで救ってみせると誓われているのです。
(なぜ聞く一つで救うと誓われたのか、
それは条件などつけたら誰も救えないからです。
悪しかできない、真実のかけらもない我々には何もできないことなど、
とっくの昔に見抜かれているのです)

我々は阿弥陀仏に救っていただくしか、
死後の地獄を解決する方法はないのです。

地上に出て1週間しか生きられないセミには、
10年、100年が分かりません。
我々は仏さまから見れば、セミのようなもので、
我々の生命は、始まりがなく終わりがないものと
教えられてもピンときません。
地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上界の
心が作り出す迷いの世界を巡っていて、
しかも、三悪道(地獄・餓鬼・畜生界)ばかりで
苦しんできたことなど、知る由もありません。

(『涅槃経』には、
「人趣に生まるるものは、爪の上の土のごとし。
三途に堕つるものは、十方の土のごとし」
人間に生まれるものは、爪の上の砂のように少なく、
三悪道(地獄・餓鬼・畜生に苦しみの世界)に堕つる者は、
大宇宙の砂の数ほど多いと教えています。)

それは人間界に生を受けて、
その時にできた頭で考えるから分からないのだと、
お釈迦さまは教えられます。

仏とは、さとりの52段の一番上の仏覚を悟られた方です。
悟りとは、一段違えば我々凡夫と虫けらよりも
知恵が違うといわれます。
お釈迦さまは、我々とは52段も違うのです。
仏の知恵を体得されたから、我々が六道輪廻し、
生死を繰返し苦しみ続けているのが分かるのです。

(今回、参考に以下の記事を案内しておきます。
心の行いが一番重要なのです。
口や身体に命令をくだすのは心だからです。
口や身体は心の奴隷に過ぎないからです。

我々はみな極悪人である!
地獄行きの本性


弥陀の救いは2度ある [Q&Aシリーズ]

(質問)二益法門とはどんなことですか?

(答え)二益とは、「現益(げんやく)」と「当益(とうやく)」の
2つの利益(救い)をいいます。

現益とは、本師本仏の阿弥陀仏のお力によって、
現在ただいま無碍の一道(絶対の幸福)に
救われること。
いつ死んでも浄土往生間違いなしという
大安心・大満足の幸せな身になります。


当益とは、死ぬと同時に弥陀の浄土へ往き、
弥陀同体の仏に成れるということです。


このように阿弥陀仏は、
この世と死後の2回救うと誓われていますから、
これを現当二益の教え、「二益法門」といわれます。
しかし、当益を得られるのは飽くまで
現益を頂いている人のみですから、
親鸞聖人は、“現在の救いを急げ”と
教えられています。

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(質問)えっ!?「この世はどうにもなれない、
死んだらお助け」ではないのですか?

(答え)この世さえどうにもなれない人が、
死んでどうなれましょうか。

「そこは阿弥陀さまのお力で・・・」
と言う人がありますが、
死後の地獄を助けることのできる阿弥陀さまなら、
なおさら、この世のジゴクを
助けられないはずがありません。

人間でさえ、今、おぼれて苦しんでいる人に、
「土左衛門になったら助ける」と言う人はいません。
今、腹痛で苦しんでいる人に、
「死んだら治す」と言う医者もいなしでしょう。

いわんや大慈大悲の阿弥陀仏が、
「この世は助けられないから我慢せよ。
死んだら助ける」とおっしゃるはずがないのです。

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(質問)「この世で救われる」という根拠は?

(答え)その根拠は、「弥陀の本願」にあると
聖人は教えられています。

本願とは、誓願ともいわれ、約束ということ。
弥陀の本願とは、本師本仏の阿弥陀仏が
なされているお約束です。
その中に弥陀は、
「若不生者 不取正覚」
“もし、生まれさせることができなければ、
正覚(仏のさとり)を取らない”

と誓われています。
ここで、「生まれる」といわれているのは
肉体のことだけではありません。
仏法では肉体よりも心を重んじます。
弥陀は、私たちの後生暗い心を、
現在ただいま、大安心の明るい心に生まれさせる、
と命(正覚)を懸けて誓われているのです。

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(質問)本当に、この世で助かるのですか?

(答え)そうです。
親鸞聖人は『教行信証』に、
「誠なるかなや、摂取不捨の真言」
“まことだった、本当だった、
弥陀の誓いにうそはなかった”
と、弥陀の誓願どおり、
この世で助かったとおっしゃっています。
救われたら、ハッキリするのです。

原因なくして結果なし。
平生の救い(因)にあわずして、
死後の救い(果)は望めません。

足元の小川が渡れぬ人に、
その先の大河がどうして渡れましょう。
今生救われた人だけが浄土往生できるのです。

ですから、「この世はどうにもなれない、
助かるのは死んでから」
などと思っている人は、
死んでもどうにもなれません。

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