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不平等な運命を、仏教ではどう教えられているのですか? [因果の道理]

(質問)不平等な運命を、仏教では
              どう教えられているのですか?

「人はみな平等だ」といわれますが、
とてもそうは思えません。
裕福な家に生まれ、
容姿端麗でスポーツも勉強もできる優秀な人と、
貧しい家庭に育ち才能もない自分とは、
明らかに差別があります。
努力してもどうにもならぬことがあるように思いますが、
これも運命とアキラメるしかないのでしょうか。
こういうことについて親鸞聖人は、
どう教えられているのでしょうか。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

(答え)
「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず」
人間は平等であることを福沢諭吉は喝破しました。
白人も黒人も有色人も、
富豪も大臣もホームレスも、
一皮はいだら同じ人間であることに、
なんら違いはありません。

けれども現実は、人間ほど、
不平等、差別の激しいものはありません。
生まれながらの賢愚美醜、強弱貧富などの差別や、
各人の身に起きる様々な事象など、
千差万別、億差兆別、実に複雑怪奇であることは
認めざるをえない事実です。

金持ちの家に生まれる者もあれば、
手から口へのその日暮らしの家に生まれる者もあります。
頭の良い人、悪い人、健康な者、病弱な者、
同じ学校を出ても大學の教授になる人、
会社の部長、家業を経営する人、職業を転々と変わる者、
事業に失敗して自殺する者、妻を亡くする人、
交通戦争の犠牲になる人など雑多です。

このようにすれば、間違いなく、
こうなるだろうと思ってやったことが、
とんでもない結果になって、
この後どうすればよいか、
途方に暮れることもしばしばあるでしょう。
いくら真面目に仕事をしているからといっても、
必ず成功するというものでもないし、
悪人だからといって、必ず不成功に終わるとも言い切れません。
善人の失敗者も多いですが、
悪人の成功者も少なくありません。

●正直者はばかを見る?

中国の顔回(がんかい)は、
孔子の門弟で最高の人格者でしたが、
極貧の生活で、しかも夭折(ようせつ)しました。
盗跖(とうせき)という大泥棒は、
悪事の限りを尽くしましたが、
生涯、富貴栄華を極めて死にました。

この2人の人生を対照して孔子は、
「ああ、天われを亡ぼせり、天われを亡ぼせり」
と嘆息しています。

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このようなことは、
私たちの身辺にもいくらでもあって、
「正直者はばかをみる、やりたい放題やりちらせ」
と、自暴自棄になる人やら、
「これはどうにもならない運命なのか」
と、アキラメ主義になる人もいます。
また、自分が不幸になると「あいつが悪い」から、
「社会が悪い」からと、
それらを怨む人も多いのです。

むろん、本人の注意や努力、環境や社会機構なども、
大いに私たちの運命に関係を持っています。
世の中の仕組みを変えることによって、
少なくすることもできるし、
無くすることのできる悲運もあるでしょう。

しかし、持って生まれた知能指数や性格など、
どうすることもできないものも多々あります。
なぜ、障害を持って生まれなければならなかったのか。
なぜ日本に生まれたのか。
なぜ昭和に生まれたのか。
なぜ、この親の子供として生まれなければならなかったのか、
なぜ、こんな子供を産まなければならなかったのかと、
悲運の原因を模索していますが、
結局は「分からない」とアキラメてしまいます。

三世を知るか否か

ここに仏教は、過去、現在、未来の三世の実在を説き、
それを貫く因縁果の大道理を示します。

私たちの現実は、限りなき時間と限りなき空間の上に成り立ち、
因縁果の道理に従って、過去、現在、未来と続くのですが、
現世だけしか知らない人間の目の届く範囲は
ごく限られています。
だから、現世だけの結果を見ただけでは、
原因のつかみようがないのです。

ただ、間違いないことは、
蒔かぬタネは絶対に生えぬということです。
結果があれば、必ず、
そうなる因と縁とがあってのことなのです。

頼山陽(らいさんよう)は、
釈迦と孔子と相撲をとって負かされている画を描いて、
仏教者の雲華院大含(うんげいんだいがん)に
「この絵に、賛をしてくれ」
と依頼した。
すると大含は、しばらく考えて、
孔子、三世を知らず、
釈迦顛倒(てんどう)して、これを笑う

と揮毫(きごう)したといいます。

人生を、今生だけにとらえて、
道徳倫理生活のみを強調する人も、
親鸞聖人の教えよりすれば、
無知蒙昧(むちもうまい)といわざるをえないでしょう。

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弥陀の光明に2つあり! [阿弥陀仏]

 (真実の仏教を説かれている先生の書かれた「とどろき」から載せています)

摂取心光常照護(摂取の心光、常に照護したまう)
                  (親鸞聖人・正信偈)

帰命無量寿如来
南無不可思議光

この有名な冒頭二行は、
親鸞、無量寿如来に帰命いたしました。
親鸞、不可思議光に南無いたしました

と読み、
親鸞、阿弥陀如来に救われたぞ。
親鸞、阿弥陀如来に助けられたぞ

と叫ばれている聖人の告白です。

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阿弥陀如来については蓮如上人が、
ここに弥陀如来と申すは、
三世十方の諸仏の本師本仏なり
」(御文章)
と、分かりやすく教えられています。
阿弥陀如来は、大宇宙のすべての仏方を指導する、
先生である

と言われているお言葉です。
大宇宙の仏方は、阿弥陀如来のお弟子なのです。
お釈迦さまも含めて大宇宙の仏方が皆、
阿弥陀如来のことを「本師本仏だ、われらが先生だ」
と尊敬し絶賛するのは、自分たちにはないお力を、
阿弥陀如来だけが持っておられるからです。

そのいろいろなお力に応じて、
阿弥陀如来にはたくさんのお名前があります。

中でもよく言われているのが、
「無量寿如来」と「不可思議光如来」
です
から、
親鸞聖人はこの二つのお名前を
『正信偈』の最初の二行に出されて、
「無量寿如来の阿弥陀如来に救われたぞ。
不可思議光の阿弥陀如来に助けられたぞ」
と繰り返されているのです。
同じことを二回言われているのは、
何度言っても言い足りぬ、どれだけ書いても書き尽くせぬ、
弥陀に救われた歓びの広大さを表されています。


では、その弥陀の救いとは、どんなことか。
救われる前と、救われた後とでは、
どう変わるのか。

それを親鸞聖人が教えられているお言葉が、
「摂取心光常照護(摂取の心光、常に照護したまう)」
の一行です。

摂取不捨の利益

「摂取」とは、「摂取不捨の利益」のこと。
「摂取不捨」とは文字どおり“摂め取って捨てぬ”ことであり、
「利益」は“幸福”をいいます。
“ガチッと摂め取られて、捨てられない幸福”を
「摂取不捨の利益」と言われるのです。

「絶対の幸福」といえるでしょう。

私たちは、健康から、子供から、恋人から、
友人から、会社から、金や財から、名誉や地位から、
捨てられはしないかと、毎日ビクビクしてはいないでしょうか。
彼女にフラれるんじゃないか。
メールの返信しないと仲間はずれにされるんじゃないか。
やっともらえた内定、取り消されたらどうしよう。
定年退職した途端に妻から離縁状を突きつけられたら大変だ。
病院から再検査の通知が来たが大丈夫かなあ。
うちの子が事故や事件に巻き込まれたらどうしよう、

薄氷を踏む不安にいつもおびえています。
楽しみも夏の夜の夢、幸せもつかの間の幻、
浜辺の砂に指で書いた文字のように
儚いものだと知っているからです。

たとえしばらくあったとしても、
やがて、すべてと別れる時がきます。

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まことに死せんときは、予てたのみおきつる妻子も財宝も、
わが身には一つも相添うことあるべからず。
されば死出の山路のすえ・三塗の大河をば、
ただ一人こそ行きなんずれ

             (御文章)

いままで頼りにし、力にしてきた妻子や金や物も、
いよいよ死んでゆく時は、何一つ頼りにならぬ。
誰もついては来てくれぬ。
すべてから見放され、独りぼっちでこの世と別れて、
いったい、どこへゆくのだろうか

咲き誇った花も散る時が来る。
死の淵に立てば、必死にかき集めた財宝も、
名誉も地位も、何もかもわが身から離散し、
一人で地上を去らねばなりません。

こんな悲劇の結末に向かっている私たちに、
死が来ても崩れない「摂取不捨の幸福」のあることを
明示されているのが、親鸞聖人です。

絶対捨てられない身にガチッと摂め取られて、
「人身受け難し、今すでに受く」(釈尊)

“よくぞ人間に生まれたものぞ”と、
ピンピン輝く摂取不捨の幸福こそ、
誰もが求める人生の目的なのです。

阿弥陀如来の光明に、二つあり

次に「心光」とは、阿弥陀如来のお力のこと。
「光明」ともいわれるのですが、
阿弥陀如来の光明の働きに、大きく分けて二つあることを、
よく知っていただかねばなりません。

「遍照(へんじょう)の光明」と「摂取の光明」
の二つです。

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「遍照の光明」とは、“遍く(あまねく)照らす”
とあるように、大宇宙のすべての衆生にかかっている
阿弥陀如来のお力です。

アメリカ人にも中国人にもアフリカの人にも日本人にも、
古今東西の人々すべてに働いている。
またキリスト教を信じている人も、
イスラム教者も天理教の信者も。
みんなを照らしておられる阿弥陀如来のお力を、
「遍照の光明」と言われるのです。
この光明に照らされていない人は、一人もありません。

次に「摂取の光明」とは、「摂取不捨の幸福」に
救い摂る弥陀のお力をいわれます。

政治も経済も、科学も医学も、法律、芸術、スポーツなど
あらゆる人間に営みは、幸福の追求以外にありません。
ストレスに耐えて働くのも、
資格取得や大学受験に励むのも、
スキルアップに努め時間の使い方を工夫するのも、
いろんな健康法やダイエットを試したり、
合コン・婚活、プチ整形、ファッション、温泉めぐりや
食べ歩きなど趣味や生き甲斐もすべて、
よろこびや満足を求めてのことでしょう。
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しかも私たちは決して、“夢のまた夢”と
消える幸せのために生きているのではない。

一切の滅びる中に、滅びざる真の幸福こそ、
私たちの願いであり、人生究極の目的です。


その「摂取不捨の幸福」に
一念で救い摂る阿弥陀如来のお力、
人生の目的を果たさせるお力を「摂取の光明」といわれ、
『正信偈』のここでは「摂取の心光」と言われているのです。

「一念」とは、何兆分の一秒より短い時間のこと。
弥陀の「摂取の光明」によって
「摂取不捨の幸福」に救い摂られるのは、
アッという間もない一瞬であると、
親鸞聖人は教えられています。

2つの光明の違い、分かれ目

この「一念の救い」に遇わせるまで、
何としても導かんと、
大宇宙のすべての人を照らして、
押したり引いたり、ああもしたら、こうもしたらと
種々に働いてくだされている弥陀のお力が、
先に述べた「遍照の光明」です。

これを「調熟の光明」ともいわれます。
「調熟」とは、一念で人生の目的を果たすところまで、
私たちの心を調え、誘導し、押し出し、引っ張ってくださること。

例えて言うと、集合写真を撮影する際にカメラマンが、
「はい皆さん、前の人の顔と顔の間から見えるようにしてください」
「二列目の方、中腰になってください」
「後ろの方、はいあなたです、気持ち右に寄っていただけますか・・・」
「赤い服の方、少しお顔が隠れていますので左に・・・」
などと、撮影できる状態になるまで調整するようなもの、
といえましょう。
シャッターを押すのは一瞬でも、そのための調節が、
どうしても要るのです。

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阿弥陀如来は、どうすれば私たちに「摂取不捨の利益」
を与えることができるかと、種々にご苦労なされています。
仏(ぶつ)とも法(ほう)とも知らなかった私が照育されて、
無常と罪悪に驚き、後生の一大事を知らされ、
仏法を真剣に聞かずにおれなくなる。
そしてやがて「摂取の光明」に遇わせるところまで、
私たちの心を調えてくださる、
その弥陀のお働きを「調熟の光明」といわれ、
これは大宇宙すべての人に
差別なく平等にかかっているお力ですから、
「遍照の光明」といわれるのです。

このように阿弥陀如来の光明には、
「遍照(調熟)の光明」と「摂取の光明(心光)」と、
二つの働きがあることをよく知っていただきたいと思います。

その違いを知らないと、
「摂取心光常照護(摂取の心光、常に照護したまう)」
の一行が正しく読めないからです。

二つの光明の違いを一言で言えば、
「遍照の光明」はすべての人を照らしているお力ですが、
「摂取の光明」は、人生の目的を果たした人だけにかかっている。
ここが、まったく違うところです。

要の中の要

次に「常照護」とは、「常に照らして、護ってくだされる」こと。
一念で阿弥陀如来の「摂取の光明(心光)」に救い摂られた後、
弥陀のお力は途切れることなく、
ずっと護ってくだされるのだよ、といわれているのです。

これは「摂取の光明」に遇い
「摂取不捨の利益」に救い摂られた人(=信後)のことであって、

弥陀に救われていない人(=信前)のことではありません。

言葉を換えれば、親鸞聖人はここで、
弥陀の光明の働きを「遍照」と「摂取」の二つに分けられて、
その中の「摂取の光明」のことをおっしゃっている、ということです。
「摂取の心光(=摂取の光明)は、常に照護したまう」
と言われているのですから、明らかですね。
ゆえに、「平生の一念に摂取されたか、どうか」
こそが大問題なのだ
と蓮如上人も、こう断定されています。

たのむ一念のところ、肝要なり(御一代記聞書)

たのむ一念」とは、「弥陀に摂取された一念」
「人生の目的を完成した一念」のこと。

「肝要」とは「要の中の要」の意であり、
これ以上大事なものはないことをいわれます。

この「たのむ一念」こそ、地獄と極楽の分かれ目であり、
信前・信後の水際であり、自力と他力の分岐点であるから、
仏教で最も重い言葉を使われているのです。

ところが、この肝要がすっぽり抜けると、
例えば、「阿弥陀さまのお力は今ここに届いている。
だからみんな助かっている」などと誤る。
これは「遍照の光明」と「摂取の光明」との区別がつかず、
一緒くたにしているのです。
大事なところですから、重ねて申しましょう。
「遍照の光明」に照らされていない人は一人もありませんが、
「摂取の光明」に遇わねば「摂取不捨の利益」は頂けず、
死後、弥陀の浄土へも往かれません。
「誰でも彼でも死ねば浄土に往ける」のではない。

だからこそ親鸞聖人は、朝晩の勤行(おつとめ)で、
「摂取心光常照護(摂取の心光、常に照護したまう)」
とおっしゃって、
早く弥陀の『摂取の光明』に遇わせて頂きなさいよ。
平生の一念に、未来永劫の浮沈が決するのだからね」
と、現在ただ今の救いを強調されているのです。


 


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仏教の本当の先生とは! [善知識]

善知識にあうことも
おしうることもまたかたし
よくきくこともかたければ
信ずることもなおかたし
      (浄土和讃)
親鸞聖人のこのご和讃について、
二回にわたりお話してきました。
初めに、
「善知識に遇うことが難しい」
と仰っている「善知識」とは、
仏教を正しく教えられる先生のこと。
仏教とは約2600年前、インドで活躍された
仏陀・釈迦が説かれた教えです。
当然ながら釈迦は、地球上で初めて
仏教を正しく説かれた方ですから、
善知識の元祖ということになります。

これもすでに述べてきました。
その釈迦の教えられたことが
すべて書き残されているのが、
7000余巻の一切経です。
仏教とはどんな教えかを知るには、
その一切経をあますところなく読んで、
正しく理解しなければなりません。

しかし漢字ばかりのお経、
しかも一字一句が極めて深遠な意味を持つ
仏語の連続ですから、
誰でも彼でも読めるものではありませんし、
正しく領解できるものではありません。

それをなされた方が、親鸞聖人です。
7000余巻以上ある一切経を、
何度も読み破られて、
「釈迦の教えられたことは、
これ一つであったのだ」
と、有名な『正信偈』に、こう断言されています。

如来所以興出世
唯説弥陀本願海

釈迦如来が、この世に現れられて仏教を説かれたのは、
唯、阿弥陀仏の本願一つを説かれるためであったのだ

これは、朝晩勤行で拝読している、
『正信偈』のお言葉ですから、
そらんじている方もあるでしょう。
この二行で親鸞聖人は、
「仏教=阿弥陀仏の本願」であると、
大変なことを仰っています。

「阿弥陀仏の本願」ひとつ聞けば、
仏教すべて聞いたことになる、
7000余巻の一切経を読み破ったことになる、
ということです。

阿弥陀仏の本願

「阿弥陀仏の本願」とは、
本師本仏(大宇宙にまします無数の仏方の先生)である
阿弥陀仏が、
どんな人も 平生に必ず救う 絶対の幸福に
と誓われているお約束のこと。

釈迦は、すべての人をこの「弥陀の救い」に
値(あ)わせること一つのために、地球上に現れ、
7000余巻の一切経を説かれたのだ
と、
聖人は「唯説」と言い切っておられるのです。

ですから、
仏教を正しく説く人・善知識とは、
言葉を換えれば
「阿弥陀仏の本願を正しく説かれる先生」
のことであり、

それは、「阿弥陀仏の本願によってのみ、
この世も未来も本当の幸せになれるのだから、
弥陀一仏を信じよ、早く弥陀の救いにあいなさい」
と、皆に教え勧める人をいうのです。

これを蓮如上人は、
善知識の能(使命)というは
「一心一向に弥陀に帰命したてまつるべし」
と人を勧むべきばかりなり 

          (御文章)
と仰っていることも、詳しくお話をしてきました。

一心一向に弥陀に帰命したてまつるべし」
とは、釈迦が仏教を説かれた結論である、

一向専念無量寿仏
阿弥陀仏一仏に向け、阿弥陀仏に助けて頂きなさい
の教えです。
この「一向専念無量寿仏」を説くことが、
善知識の唯一無二の使命なのだと、
蓮如上人は言われているのです。

親鸞聖人も90年の生涯、「一向専念無量寿仏」
一つを明らかにされた方ですから、
『世界の光・親鸞聖人』アニメーション全六巻には、
この8字が60回以上も出ています。

第2巻にも、こんな場面がありました。

  ■    ■    ■

(辻説法される親鸞聖人)

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親鸞聖人 「だから皆さん、私たちを、本当の幸福に助けたもう仏は、
       本師本仏の阿弥陀如来しかおられないのです

学者風の男 「それじゃ、わしらの信心している仏や神では、
         助からんと言うのか

町人A 「偏ったこと言うな!
親鸞聖人 「よく聞きなさい
町人B 「うるさい!
(と手で、親鸞聖人を突くが、聖人はぐっと
踏ん張られ、逆に数珠を持って前に出られる)
親鸞聖人 「いいですか、一向専念無量寿仏、
        これは大聖釈迦牟尼世尊の、至上命令です

町人C 「やかましい!
町人B 「うそつき!
親鸞聖人 「決して親鸞、勝手に言っているのではありません。
        いいですか、よく聞きなさい。
        一向専念無量寿仏・・・

(親鸞聖人を取り囲む群衆)
ナレーター 「親鸞聖人の、一向専念無量寿仏の強調は、
        すさまじかった。
        それは後世、親鸞聖人の教えを、
        一向宗としかいわなかったほど、
        阿弥陀如来一仏に向け、
           阿弥陀如来以外のすべてを捨てよ、
      という徹底したものであった

■   ■   ■    ■

また第3巻には、仏教史上最大の弾圧といわれる
「承元の法難」が描かれています。
住蓮房や安楽房はじめ、法然門下の4名が死罪となり、
法然上人は土佐(高知県)へ、親鸞聖人は越後(新潟県)へ
流刑に処せられた事件です。

その真因は、法然上人も親鸞聖人も、
徹底して「一向専念無量寿仏」を叫ばれたことでした。

■   ■   ■   ■

(京都・吉水の本堂に集まった弟子たちが、
騒然としている)
弟子A 「これからどうなるのじゃろう」
弟子B 「れらいことになったのお」
(法然上人が、本堂に入ってこられ、
一同、姿勢を正して頭を下げる)
法然上人 「皆の者、住蓮房と安楽房のことは、ご承知か
弟子たち 「はい」
法然上人 「やがて、朝廷より我々にも、ご沙汰があるだろう
(弟子たち、顔を見合わせながら)
弟子B 「ま、まさか」
法然上人 「この法然も、決して、このままでは済むまい
(親鸞聖人が立ち上がられ)
親鸞聖人 「お師匠さま、たとえ、どのようなことがあっても、
       親鸞は、お師匠さまに従います

弟子A 「私も、地の果てまでも、お師匠さまのお供を致します」
(他の弟子たちからも、「私も」「私も」の声が上がる。
法然上人は、それらを見回して、「うん」とうなずかれる)

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親鸞聖人 「それにしても、お師匠さま。
       彼らは、己の怒りと恨みで、真実の仏法を破壊したのみならず、
       この世の正義も踏みにじり、住蓮房、安楽房を、殺害いたしました。
       公然と道理を踏みにじってはばからぬ無法者こそ、
       彼ら、権力者ではありませぬか。
       断じて親鸞、許すことはできませぬ!

(床下の権力者の密偵2人、この発言にうなずき合う)

親鸞聖人 「お師匠さま。親鸞、断固戦います!
       釈尊出世のご本懐、一向専念無量寿仏を、
     命の限り伝え切ります

密偵A 「おい、放ってはおけんぞ」
密偵B 「そうだ。吉水の奴ら、やる気だな」
(密偵2人、そっと草庵を抜け出していく)

(目を閉じて聖人の言葉を聞いておられた法然上人、
やがて)
法然上人 「よいか、皆の者。
       我ら仏法者にとって、命懸けて護らねばならぬのは、
       天下の掟でもなければ、世間体でもない。
      ましてや、名誉でも財産でもない。

       それは唯一つ、釈尊出世の本懐である、
     一向専念無量寿仏と、その布教だけなのだ

字幕 『一向専念無量寿仏』
弟子たち 「はい」
法然上人 「いずこの里に別れ別れになろうとも、
       これだけは忘れるでないぞ

弟子たち 「はい」
親鸞聖人 「はい」
(一斉に頭を下げられる)

■   ■   ■   ■
このように、「一向専念無量寿仏」の真実を
説き切られる方を善知識といわれるのですが、
そんな方は滅多におられませんから、
「善知識にあうことも、大変難しいことなのだ」
と聖人は、よき人・法然上人との邂逅(かいこう)を、
つくづく述懐されるのです。

そして、この「一向専念無量寿仏」のまことを、
微塵のまこともない私たちに教えることもまた、
鉄板の上にタネを蒔くような、
途方もない難事なのだと、次に、
「おしうることもまた難し」
と仰っているのです。

よくきくこともかたければ

せっかく善知識にお会いできても、
そこで留まっていては、もったいないことになります。
次に、「よく聞きなさいよ」と教えられています。

「よく聞く」とは、納得するまで
よくよく聞くことが大切だということです。

世間では「どんなことでも話せば分かる」といわれます。
“問答無用、斬り捨て御免”の時代もありましたが、
戦後、民主主義となり、
「どんなことでも話せば分かる。
お互い納得するまで話し合いましょう」
と言われています。
ところが、今日の政治や外交を見ても明らかなように、
どれだけ話し合っても分かり合えないのが
人間社会の実態です。

家庭内でもそうではないでしょうか。
男は女の気持ちが分からず、女は男の気持ちが分からない。
子供は親の心が、親は子の心が分からない。
家族でさえも分かり合うことは難しいのです。

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ましてや、赤の他人同士、政治家や異国の人々となると、
どれだけ話しても分かり合えないことは幾らでもあります。
この世のことでも、何でも「話せば分かる」
というものではありません。

しかし、親鸞聖人のみ教えは、よくよく聞けば、
どんな人でも「分かった」とうなずけることがあるのです。
ある妙好人は、
「合点できずば、合点ゆくまで聞きなされ、
聞けば合点のゆく教え」
と言っています。

銭の勘定もできず、『御文章』を逆さまに
読んでいた人だといわれますが、
そんな私でさえ、合点できた。
納得するまで聞きなさい
」と入っているのです。

「どれだけ聞いても分からん」と言うのは、
聞き方が足りないか、真剣に聞いていないからです。

仏教は、「だいたい分かった」という
曖昧な聞き方ではダメなのです。
ハッキリ納得できるところまで聞くことです。

信ずることもなおかたし

しかし、「よくきいて納得する」ことと「信ずる」こととは、
別です。

親鸞聖人がここで言われている「信ずる」とは、
「阿弥陀仏の本願に疑いが晴れて救われた」
ということです。

先ほどの妙好人は、続いてこう言っています。
「合点したのは信ではないぞ、それは知ったの覚えたの、
合点せよとは口では言えど、不思議不思議の外はない」
「信ずる」とは、阿弥陀仏に救われて
「不思議不思議」と喜ばずにおれぬことを言われたのです。

この弥陀の不可思議の願力に救い摂られたのを、
「信心決定」と言われます。

阿弥陀仏のお力によって、いつ死んでも浄土往生間違いなしと
絶対の幸福になったことです。

ひとえにこの弥陀の本願力によらなければ、
私たちは絶対に救われないことを、
聖人は、

生死の苦界ほとりなし
ひさしくしずめるわれらをば
弥陀弘誓のふねのみぞ
のせてかならずわたしける

       (高僧和讃)
“果てしない苦しみの海に、
永らくさまよい続けてきた私たちを、
弥陀弘誓の船だけが、必ず、
乗せて浄土へ渡してくださるのだ”

どの和讃でも教えてくださっています。
自分の力で、船によじ登るのではありません。
そんな力のある私達ならば、諸仏は見捨てられません。
何の力もない私たち、それどころか、仏法に背を向けて、
またしても迷いの海に逃げ惑っている私たちを、
本師本仏の阿弥陀仏のみが、
そのまま大悲の願船に乗せてくださるのです。
そして、必ず仏に生まれる身にしてくだされるのです。

一人一人が、親鸞聖人のみ教えを真剣に聞き、
不思議不思議の弥陀の救いにあうために
生まれてきたのであり、
生きていることを、決して忘れず、
一念の決勝点まで進ませていただきましょう。


 


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悔いのない人生の選択 [なぜ生きる]

何もかもが華やぐ春。
「第2の人生」「新たな出発」を迎える季節ですね。

「未来をよりよくしたい」
それは、年齢や境遇に関係なく、
誰もが抱く思いでしょう。
そんなあなたに仏教は、
「限りなく明るい未来」を約束しています。
そのための「悔いなき選択」とは何か。
親鸞聖人にお聞きしましょう。

①モーレツに働いて、何が残った?
②尺取り虫と流転輪廻
③人生には“歓喜の決勝点(ゴール)”がある

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モーレツに働いて何が残った?
       ある読者の仕事人生

定年まで仕事に明け暮れたという愛知県の
杉本徳男さん(本誌読者)は、こう述懐しています。
「45年間、一生懸命働いてきたが、何も残っていない。
60を過ぎて80まで生きられるとすると、あと20年。
このまま死んでいくだけなのだろうか・・・。
何か心のよりどころが欲しい」
これは、ひとり杉本さんだけのタメ息でしょうか?

●“毎日残業”の45年間

愛知県碧南市に生を受けた杉本さんは、
中学卒業後すぐに、地元のトヨタ系の
自動車部品製造会社に就職した。
材料の発注と受け取りの仕事。
万が一、納品が遅れると、何千万もの違約金が課せられるため、
発注には神経を使ったという。
生産量のノルマも高く、月に7、80時間の残業もざら。
昭和40年代には120時間を超えることもあった。
朝7時から夜11時過ぎまで、ほぼ毎日残業だった。
それでも“働かなければ儲からない”とモーレツに働き続けた。
現場のミスで残りの材料がわずかになった時は、
自ら4トントラックのハンドルを握って
材料の会社まで往復する。
納期が守れない下請けには、足を運んで具体的な指示を出し、
改善を促した。
「現場を離れた今でも時々、『まずい!間に合わない』
と、絶望的な気分で目を覚ますことがあるんですよ」

入社20年を過ぎた頃、
杉本さんは静岡の関連会社に出向した。
愛知の自宅から、電車で往復4時間。
毎日、始発に乗らなければ間に合わない。
まだ眠るわが子に「行ってきます」と告げ、
帰宅して会うのも寝顔。
家族との時間はほとんど取れなかったが、
「これも3年間だけだ」と辛抱した。
ところがその3年目、突然、「もう一年頼む」と打診され、
やむなく承諾した。
さらに一年の出向先通いの後、ようやく戻れた時、
「後輩には、出向の延長はないように」
と意見を具申したのがあだとなり、
上司の心証を悪くした。
「本や通信講座で学んだことを生かし、
生産効率改善の提案をしても、
なかなか取り合ってもらえず、
待遇にも恵まれませんでした。
組織に生きる厳しさをいたくかみしめましたね。
『これも家族のため・・・』と割り切るまでが大変でしたが、
忍の一字で、苦労の先にきっと幸せがあると
信じて勤め上げました」
と杉本さんは当時を振り返る。

第二の人生どう過ごす!?

永年勤め上げて定年を迎え、
“やり切った”と来し方を振り返りつつ、
第2の人生に向け、
新たな出発を迎えている方もあるでしょう。

「定年後の自由な時間」について、
ある人がこう言っています。
“現役時代、週休2日で40年勤めた人の
過ごした休日は4400日。
60歳で退職し、80歳までの20年間は7300日。
定年後の方が圧倒的に時間が多いのです。
この時間を上手に活用し、
充実した第2の人生を過ごせるかどうか、
それが問題です”
引退とともに自由な時間を手にしたといっても、
少々の無茶もできた若い頃と違い、
経済や健康などあらゆる面で、
不測の事態に備えねばならなくなります。
人生は有限であり、終末を意識すれば、
残された時間はそう多くはない。

その中で、悔いなき選択をどうすればよいのか。
仕事一筋に過ごしてきた杉本さんは、
冒頭のような人生の疑問から、
「聞法のつどい」の案内チラシを縁に仏法と出遇いました。

杉本さんはこう言います。
その日は、『世界の光・親鸞聖人』
のアニメーションを見せていただきました。
『この世はどうにもならない。
阿弥陀仏は死んだら極楽に助けてくだされる』
と説いた兄弟子・善慧房証空に、
『親鸞は、ただ今、救いたもうた本願を、
喜んでおります』と弥陀の本当の救いを明らかにされた
聖人のお言葉にびっくりしました。

この世で救われる?生きている今、
弥陀の本願に救い摂られるということがあるのか
と、
聖人の、確固たる信念と、深い学問に感動しました」

「現在ただ今、未来永遠の幸福に救われる」
これこそが人生の目的と親鸞聖人は仰るのです。
では、未来永遠の幸福とは、どんな幸福なのでしょうか。


尺取り虫と流転輪廻の人生
      結局、死ぬのになぜ生きる?

平凡な毎日が飛ぶように過ぎる中、
ふと我に返り「なぜ生きる」という問いに
目覚めることがあります。
前段の杉本さんのように、
「一生懸命働いてきたが、何も残っていない」
と、漠然とした思いに沈む人も少なくありません。

その、もやもやした心の出どころはどこにあるのでしょうか。

「生命の歓喜」ありますか?

ある50代女性向け雑誌に、
「自由もある。夢もある。でも不安もある」
というキャッチコピーがありました。
仕事や子育てを終え、やっと手にした自由な時間を、
若い頃できなかった趣味や芸事に
使いたいと考える人も多いでしょう。
ところが、しばらくやっても次第にむなしくなり、
後が続かなくなったという話をよく聞きます。

夢や目標を達成した満足感は一時的で、
やがて単なる記憶に変色します。

そんな目標だけを追い続ける一生は、
どうなるでしょう。
目標を果たせば「達成した」という一時の満足はあっても、
時間とともにまた薄れ、またスタート地点に逆戻り。
「今度こそ・・・」と、さらなる労苦が始まります。

一点の周りをグルグル回るのみで、
「人間に生まれてよかった」という生命の歓喜には
永久にたどり着けません。
考えてみれば、これは悲劇です。

安心・満足というゴールがなく、
果てしなく同じ所を回り続けて苦しむさまを、
仏教で「流転輪廻」といわれます。

流転も輪廻も、車の輪が回るように
苦しみから離れきれないこと。

人生の本質は「流転輪廻」であることを、
中国の曇鸞大師は、
「しゃっ蠖の循環するがごとし
」(浄土論註)
と例えられています。
しゃっ蠖(かく)とは尺取り虫です。
以前、円い桶に突き当たった尺取り虫が、
桶の周りをはっているのを見たことがあります。
伸びたり縮んだり、虫は虫なりに一生懸命ですが、
いつまでも桶を回り続けている姿には、
何とも言えぬ悲哀を覚えました。

仏教では人間もこの尺取り虫と同じだと
説かれているのです。

虫と同じ?そんなバカな、
と思われるかもしれませんが、

人生は
食て寝て起きて クソたれて
子は親となる 子は親となる

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●「火鉢の縁を回る尺取虫」


アニメーション『世界の光・親鸞聖人』第四巻には、
火鉢の縁を回る尺取虫が描かれています。
親鸞聖人の教えを聞いた猟師の日野左衛門は、
この尺取虫を見て、
「なぜ生きるか知らない自分の姿と同じだ」
と気がつきます。
人間が尺取虫と違うのは、
虫は同じ所を回っていることさえ気づきませんが、
人間はそれに気づき、「なぜ生きる」の答えを
求めることができる点でしょう。

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越えなばと
思いし峰に きてみれば
なお行く先は 山路なりけり

毎日毎日、食て寝て起きてを繰り返し、
子は親となって、あっという間にじいさん、ばあさんとなる。

その間、受験や就職、結婚、マイホーム、ローン返済と、
「この坂を 越えたなら
しあわせが 待っている」
と信じて、幾つ坂(目標)を越えてきたことか。
果たして心からの幸せは得られたでしょうか。

どれも人生のゴールではなく、
一時の通過点ではなかったでしょうか。
どこまで頑張っても本当の満足に届かない、
そんな人生を「しゃっ蠖の循環するがごとし」
と言われているのです。

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なぜ、夢を実現しても
          むなしいのか

なぜ、夢を実現してもむなしいのか。
その根っこはどこにあるのでしょう。
作家の猪瀬直樹氏(前東京都知事)は、こう述べています。

毎日があわただしくて、
なにかどこかに忘れ物をしてきたように感じてしまうのは、
仕事が忙しいという理由だけだろうかーー。
疲れが躯の芯にたまって消えないのは、
いつも妻や子供のことなどなにくれとなく
考えているせいなのかーー。
どれもこれもそのとおりだが、
それだけではない。

本当は身近に枯れ葉のようにおびただしい死が
累積していることに見て見ぬふりをしているからである

             (死を見つめる仕事)
何をやってもむなしさが消えず、
流転輪廻を果てしなく繰り返しているのが
私たちの実態ですが、その根本原因を、
親鸞聖人はこう明らかにされています。

還来生死輪転家(げんらいしょうじりんてんげ)
決以疑情為所止(けっちぎじょういしょし)」

        (正信偈)
生死輪転の家に還来することは、
決するに疑情を以て所止と為す

“苦しみ悩みに果てしがないのは、
疑情(無明の闇)一つが原因である”

「生死輪転」も「流転輪廻」も意味は同じ。
家を離れては生きられないから、
離れ切れない苦しみを「家」に例えられ、
そんな苦しみの世界を行ったり来たりしていることを聖人は、
「生死輪転の家に還来する」
と仰っています。
これは、この世だけのことではありません。
私たちは果てしなく遠い過去から生死、生死を繰り返し、
水車が回るように六道(迷いの世界)を輪廻していると
仏教では説かれているからです。

今の流転は、永久の流転になるのです。
その果てしない流転の元凶を、
親鸞聖人は次に、
「疑情一つ」
とキッパリ仰っています。

「決するに」「所止と為す」の断言には迷いがありません。
疑情とは「無明の闇」ともいわれ、
「なぜ生きるか分からない、
死んでどこに行くのかも分からない後生(死後)暗い心」
をいいます。
この「無明の闇(疑情)」こそが、昿劫流転の元凶であると、
聖人は断定されているのです。

そして苦しみの根元であるこの闇は、
弥陀のお力によって必ずブチ破られる、
と親鸞聖人は教えられています。

次章で、無明の闇を破られた聖人の、
悔いなき人生へのメッセージをお聞きしてみましょう。

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人生には
“歓喜の決勝点(ゴール)がある”

           
親鸞聖人の断言

前章で、親鸞聖人は、苦悩の根元は
生きる目的の分からぬ「無明の闇」であると
教えられていることを明らかにしました。

その闇の心がハッキリと晴れることがあるのだ、
と聖人は教えられています。

不可思議な弥陀の誓願

人はなぜ生きるか。
この問いにもだえ苦しまれた親鸞聖人は、

生きる目的が分からぬ闇の心が晴れた!と仰っています。
それは、阿弥陀仏という仏さまのお力によってであったと、
その喜びを著書の至るところに書き記されています。
そして、
ご自身だけでなくすべての人に
“この無明の闇が破れ、生まれてきてよかった、
生きてきてよかった、人生の大目的果たしたぞ!
と踊躍歓喜する決勝点がある”と教えられているのです。

有名な『歎異抄』第一章には、次のように仰っています。

弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて
往生をば遂ぐるなり」
と信じて「念仏申さん」と思いたつ心のおこるとき、
すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり。

(“すべての衆生を救う”
不思議な阿弥陀如来の誓願の力によって救われ、
疑いなく弥陀の浄土へ往く身となり、
念仏称えようと思いたつ心のおこるとき、
摂め取って捨てられぬ絶対の幸福に生かされるのである

「弥陀の誓願」とは、阿弥陀仏という仏のお約束のことです。
阿弥陀仏とは、大宇宙に無数にまします
諸仏方の先生の仏さまです。

どこから来て、どこへ行くのか。
何のために生まれ、生きているのか。
肝心のことが何も分からぬまま、
またしても迷い苦しみの闇に沈まんとしている私たちを、
本師本仏の阿弥陀仏は
何とか助けてやりたいと大慈悲心をおこされた。
そして、すべての人の苦悩の元凶である無明の闇を破り、
必ず摂取不捨の利益(絶対の幸福)に救うと
約束なされたのです。

これを阿弥陀仏の誓願、または本願といわれます。

それは私たち人間の想像もつかぬことですから、
親鸞聖人は、
「弥陀の誓願不思議」
と言われています。

その不思議な弥陀の誓願に救われ、
無明の闇が破られたことを親鸞聖人は、
「弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて」
と言われたのです。

救われたらどうなる?
   水際立った救い

では、弥陀に救われ無明の闇が破れたらどうなるか。
疑いなく弥陀の浄土へ往く身となります。

いつ死んでも、往生極楽間違いなしと
心がハッキリいたします。
一息一息が摂め取って捨てられぬ
絶対の幸福に生かされるのです。

しかし親鸞聖人も、阿弥陀仏の誓願を
明師・法然上人から聞かせていただいても、
救い摂られるまでは
「本当だろうか」
「そんなことあるのだろうか」
との疑いに苦しまれました。

アニメーション『世界の光・親鸞聖人』第1巻には、
その聖人の苦衷(くちゅう)が描かれています。
暗い心(無明の闇)を晴らしたいと、
9歳から20年間聖人は、
比叡山(天台宗)でご修行なされましたが、
一向に解決のメドがつかず、堂々巡り、
流転輪廻の求道に行き詰まられました。
比叡山の教えに絶望された聖人は、下山後、
京都で法然上人と邂逅(かいこう)、

無明の迷闇(めいあん)を破り
絶対の幸福に救うと誓われた弥陀の本願を聞かれ、
雨の日も風の日も、
火のつくような聞法求道をなされました。

それでもしかし、闇は破れず、
親鸞聖人は師の法然上人に、弥陀の本願に対する
疑い(疑情)を告白されています。

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親鸞聖人 「阿弥陀仏の一声で、晴れて満足できると
      仰せられますが、聞いても聞いても、
      その一声が聞けません。親鸞の心は晴れません。
      仏法を聞いている時も、思ってはならないことが思われ、
      考えてもならぬことが浮かびます。
      一向専念無量寿仏どころか、雲のごとく、
      疑いが湧き上がってまいります。
      こんな心のままで、臨終を迎えるのかと思えば、
      ただ恐ろしいばかりでございます

      

阿弥陀仏のお約束に対する疑いは、なくなるどころか、
ますます湧き上がり七転八倒されたのです。
その聖人に、法然上人は厳しく仰る。

法然上人 「親鸞よ。形の上で捨てたつもりではだめじゃ。
      無始より迷わせ続けた自力我慢の親玉は、
      そんな生ぬるい聞き方では、聞かないぞ!
」(中略)

親鸞聖人 「親鸞の心は、ただ暗い・・・、
      それだけでございます。
      暗さも分からぬ、真っ暗がりでございます

果たして、聖人の疑情(無明の闇)は、
南無阿弥陀仏の宝を賜った一念に破れ、
明信仏智、破闇満願、極楽往生間違いない身に
ハッキリ救われたのです。

●“弥陀の本願まこと”
    疑い晴れた世界

私たちが南無阿弥陀仏を賜る、
何億分の一秒よりも速い時間の極まりを一念といいます。
その一念に、疑情が破られるのだと蓮如上人は『御文章』に、
こう教えられています。

「この大功徳を一念に弥陀をたのみ申す我等が衆生に
廻向しまします故に、
過去・未来・現在の三世の業障一時に罪消えて、
正定聚の位また等正覚の位なんどに定まるものなり」

南無阿弥陀仏の大功徳を、弥陀より賜る一念に、
過去・現在・未来の三世を流転させる元凶である疑情が
晴れわたり、いつ死んでも往生成仏間違いない
正定聚・等正覚の位にハッキリ定まるのである。

一念発起・入正定之聚
(いちねんぽっき・にゅうしょうじょうしじゅ)」

あっという間もない一念に、
いつ死んでも極楽参り間違いない、
正定聚不退転の身(絶対の幸福)になるのである

友人に貸した大金が返った時に、
“彼の誓約は本当だった”と、
それまでの疑いが晴れるように、
「助ける」という約束に対する疑いは、
「助かった時」に破られます。

摂取不捨の利益(絶対の幸福)という
弥陀の本願に対する疑い(疑情)は、
摂取不捨の利益を受け取った一念に消えてなくなります。

必ず浄土へ往ける”
と大満足の身にさせていただけますから、
「弥陀の誓願まことだった」
とハッキリするのです。

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弥陀に救われた驚きと歓喜を、
親鸞聖人は『教行信証』冒頭にこう記されています。
誠なるかなや、
摂取不捨の真言、超世希有の正法、
聞思して遅慮することなかれ

        (教行信証総序)
誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法」
とは、誠だった、本当だった、
弥陀の本願ウソではなかった
ということです。
「摂取不捨の真言」「超世希有の正法」
とは、ともに摂取不捨(絶対の幸福に救う)
の阿弥陀仏の本願のことです。

●「逃げまわる者を
     必ず救う」

「摂取」の「摂」は、逃げ回る者を追いかけて
捕らえるという意味がある。
欲に引きずられて、仏法に背を向け、逃げ回っている私を、
弥陀は追いかけ、追い詰め、救い摂るということです。
心は、家へ会社へ恋人へと娑婆じゅう飛び回り、
仏法を聞く気がありません。
そんな私を逃がしてなるかと弥陀は、逃げ場を封じ、
ついに一念で絶対の幸福に摂取して、
いつ死んでも往生極楽間違いない、
大安心の身にしてくださるのです。

絶対に捨てられない幸せになれますから、“不捨”です。

仏や神にすがり、信ずる者を救うというのが、
一般の宗教ですが、
信ずる心も念ずる心もなく、
背を向けて逃げ回っている者を、
追いかけて救い摂ってくだされるのは、
弥陀一仏だけですから、
「超世希有の正法」とも言われます。

世の常識を超えた、二つとない大本願なのです。
『正信偈』には、
「阿弥陀仏は、無上殊勝の願を建立し、
希有の大弘誓を超発された」
と讃嘆されています。
何もかも当てにならぬ、空事・たわごとばかりの世に、
たった一つの真実があるぞ、
この弥陀の本願を聞き抜き、
本当の幸せになることこそ人生の目的なのだ
と、
親鸞聖人は教示されているのです。

では、どうすれば摂取不捨の利益を頂くことができるのか。
聖人は、

聞思して遅慮することなかれ」。
聞く一つで救われるから、手遅れにならぬよう、
どうか命のあるうちに、皆さん早く聞き抜いてくださいよと、
必死に勧められています。

弥陀の救いは断じてぼんやりしたものではありません。
火に触ったようにハッキリいたします。
ハッキリ救われるまで、急ぎ聞き求めてください。
聞法の場に足を運ぶことです。
必ず広大無辺な世界がひらかれます。

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現在、杉本さんは毎月、「聞法のつどい」に参加して
親鸞聖人の教えを学びながら、
法の友といきいきとした毎日を過ごしている。
「あれからすぐに聖人のアニメを求め、
出てくるお歌やお言葉などを、
映像を止めてノートに書き写し、勉強しています。
「仏法は聴聞に極まる」のお言葉どおり、
これからも聞法に励み、
聖人の教えを聞かせていただきたいと思います


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