SSブログ

仏教の本当の先生とは! [善知識]

善知識にあうことも
おしうることもまたかたし
よくきくこともかたければ
信ずることもなおかたし
      (浄土和讃)
親鸞聖人のこのご和讃について、
二回にわたりお話してきました。
初めに、
「善知識に遇うことが難しい」
と仰っている「善知識」とは、
仏教を正しく教えられる先生のこと。
仏教とは約2600年前、インドで活躍された
仏陀・釈迦が説かれた教えです。
当然ながら釈迦は、地球上で初めて
仏教を正しく説かれた方ですから、
善知識の元祖ということになります。

これもすでに述べてきました。
その釈迦の教えられたことが
すべて書き残されているのが、
7000余巻の一切経です。
仏教とはどんな教えかを知るには、
その一切経をあますところなく読んで、
正しく理解しなければなりません。

しかし漢字ばかりのお経、
しかも一字一句が極めて深遠な意味を持つ
仏語の連続ですから、
誰でも彼でも読めるものではありませんし、
正しく領解できるものではありません。

それをなされた方が、親鸞聖人です。
7000余巻以上ある一切経を、
何度も読み破られて、
「釈迦の教えられたことは、
これ一つであったのだ」
と、有名な『正信偈』に、こう断言されています。

如来所以興出世
唯説弥陀本願海

釈迦如来が、この世に現れられて仏教を説かれたのは、
唯、阿弥陀仏の本願一つを説かれるためであったのだ

これは、朝晩勤行で拝読している、
『正信偈』のお言葉ですから、
そらんじている方もあるでしょう。
この二行で親鸞聖人は、
「仏教=阿弥陀仏の本願」であると、
大変なことを仰っています。

「阿弥陀仏の本願」ひとつ聞けば、
仏教すべて聞いたことになる、
7000余巻の一切経を読み破ったことになる、
ということです。

阿弥陀仏の本願

「阿弥陀仏の本願」とは、
本師本仏(大宇宙にまします無数の仏方の先生)である
阿弥陀仏が、
どんな人も 平生に必ず救う 絶対の幸福に
と誓われているお約束のこと。

釈迦は、すべての人をこの「弥陀の救い」に
値(あ)わせること一つのために、地球上に現れ、
7000余巻の一切経を説かれたのだ
と、
聖人は「唯説」と言い切っておられるのです。

ですから、
仏教を正しく説く人・善知識とは、
言葉を換えれば
「阿弥陀仏の本願を正しく説かれる先生」
のことであり、

それは、「阿弥陀仏の本願によってのみ、
この世も未来も本当の幸せになれるのだから、
弥陀一仏を信じよ、早く弥陀の救いにあいなさい」
と、皆に教え勧める人をいうのです。

これを蓮如上人は、
善知識の能(使命)というは
「一心一向に弥陀に帰命したてまつるべし」
と人を勧むべきばかりなり 

          (御文章)
と仰っていることも、詳しくお話をしてきました。

一心一向に弥陀に帰命したてまつるべし」
とは、釈迦が仏教を説かれた結論である、

一向専念無量寿仏
阿弥陀仏一仏に向け、阿弥陀仏に助けて頂きなさい
の教えです。
この「一向専念無量寿仏」を説くことが、
善知識の唯一無二の使命なのだと、
蓮如上人は言われているのです。

親鸞聖人も90年の生涯、「一向専念無量寿仏」
一つを明らかにされた方ですから、
『世界の光・親鸞聖人』アニメーション全六巻には、
この8字が60回以上も出ています。

第2巻にも、こんな場面がありました。

  ■    ■    ■

(辻説法される親鸞聖人)

EPSON133.jpg-1.jpg
親鸞聖人 「だから皆さん、私たちを、本当の幸福に助けたもう仏は、
       本師本仏の阿弥陀如来しかおられないのです

学者風の男 「それじゃ、わしらの信心している仏や神では、
         助からんと言うのか

町人A 「偏ったこと言うな!
親鸞聖人 「よく聞きなさい
町人B 「うるさい!
(と手で、親鸞聖人を突くが、聖人はぐっと
踏ん張られ、逆に数珠を持って前に出られる)
親鸞聖人 「いいですか、一向専念無量寿仏、
        これは大聖釈迦牟尼世尊の、至上命令です

町人C 「やかましい!
町人B 「うそつき!
親鸞聖人 「決して親鸞、勝手に言っているのではありません。
        いいですか、よく聞きなさい。
        一向専念無量寿仏・・・

(親鸞聖人を取り囲む群衆)
ナレーター 「親鸞聖人の、一向専念無量寿仏の強調は、
        すさまじかった。
        それは後世、親鸞聖人の教えを、
        一向宗としかいわなかったほど、
        阿弥陀如来一仏に向け、
           阿弥陀如来以外のすべてを捨てよ、
      という徹底したものであった

■   ■   ■    ■

また第3巻には、仏教史上最大の弾圧といわれる
「承元の法難」が描かれています。
住蓮房や安楽房はじめ、法然門下の4名が死罪となり、
法然上人は土佐(高知県)へ、親鸞聖人は越後(新潟県)へ
流刑に処せられた事件です。

その真因は、法然上人も親鸞聖人も、
徹底して「一向専念無量寿仏」を叫ばれたことでした。

■   ■   ■   ■

(京都・吉水の本堂に集まった弟子たちが、
騒然としている)
弟子A 「これからどうなるのじゃろう」
弟子B 「れらいことになったのお」
(法然上人が、本堂に入ってこられ、
一同、姿勢を正して頭を下げる)
法然上人 「皆の者、住蓮房と安楽房のことは、ご承知か
弟子たち 「はい」
法然上人 「やがて、朝廷より我々にも、ご沙汰があるだろう
(弟子たち、顔を見合わせながら)
弟子B 「ま、まさか」
法然上人 「この法然も、決して、このままでは済むまい
(親鸞聖人が立ち上がられ)
親鸞聖人 「お師匠さま、たとえ、どのようなことがあっても、
       親鸞は、お師匠さまに従います

弟子A 「私も、地の果てまでも、お師匠さまのお供を致します」
(他の弟子たちからも、「私も」「私も」の声が上がる。
法然上人は、それらを見回して、「うん」とうなずかれる)

EPSON134.jpg-1.jpg

親鸞聖人 「それにしても、お師匠さま。
       彼らは、己の怒りと恨みで、真実の仏法を破壊したのみならず、
       この世の正義も踏みにじり、住蓮房、安楽房を、殺害いたしました。
       公然と道理を踏みにじってはばからぬ無法者こそ、
       彼ら、権力者ではありませぬか。
       断じて親鸞、許すことはできませぬ!

(床下の権力者の密偵2人、この発言にうなずき合う)

親鸞聖人 「お師匠さま。親鸞、断固戦います!
       釈尊出世のご本懐、一向専念無量寿仏を、
     命の限り伝え切ります

密偵A 「おい、放ってはおけんぞ」
密偵B 「そうだ。吉水の奴ら、やる気だな」
(密偵2人、そっと草庵を抜け出していく)

(目を閉じて聖人の言葉を聞いておられた法然上人、
やがて)
法然上人 「よいか、皆の者。
       我ら仏法者にとって、命懸けて護らねばならぬのは、
       天下の掟でもなければ、世間体でもない。
      ましてや、名誉でも財産でもない。

       それは唯一つ、釈尊出世の本懐である、
     一向専念無量寿仏と、その布教だけなのだ

字幕 『一向専念無量寿仏』
弟子たち 「はい」
法然上人 「いずこの里に別れ別れになろうとも、
       これだけは忘れるでないぞ

弟子たち 「はい」
親鸞聖人 「はい」
(一斉に頭を下げられる)

■   ■   ■   ■
このように、「一向専念無量寿仏」の真実を
説き切られる方を善知識といわれるのですが、
そんな方は滅多におられませんから、
「善知識にあうことも、大変難しいことなのだ」
と聖人は、よき人・法然上人との邂逅(かいこう)を、
つくづく述懐されるのです。

そして、この「一向専念無量寿仏」のまことを、
微塵のまこともない私たちに教えることもまた、
鉄板の上にタネを蒔くような、
途方もない難事なのだと、次に、
「おしうることもまた難し」
と仰っているのです。

よくきくこともかたければ

せっかく善知識にお会いできても、
そこで留まっていては、もったいないことになります。
次に、「よく聞きなさいよ」と教えられています。

「よく聞く」とは、納得するまで
よくよく聞くことが大切だということです。

世間では「どんなことでも話せば分かる」といわれます。
“問答無用、斬り捨て御免”の時代もありましたが、
戦後、民主主義となり、
「どんなことでも話せば分かる。
お互い納得するまで話し合いましょう」
と言われています。
ところが、今日の政治や外交を見ても明らかなように、
どれだけ話し合っても分かり合えないのが
人間社会の実態です。

家庭内でもそうではないでしょうか。
男は女の気持ちが分からず、女は男の気持ちが分からない。
子供は親の心が、親は子の心が分からない。
家族でさえも分かり合うことは難しいのです。

EPSON135.jpg-1.jpg
ましてや、赤の他人同士、政治家や異国の人々となると、
どれだけ話しても分かり合えないことは幾らでもあります。
この世のことでも、何でも「話せば分かる」
というものではありません。

しかし、親鸞聖人のみ教えは、よくよく聞けば、
どんな人でも「分かった」とうなずけることがあるのです。
ある妙好人は、
「合点できずば、合点ゆくまで聞きなされ、
聞けば合点のゆく教え」
と言っています。

銭の勘定もできず、『御文章』を逆さまに
読んでいた人だといわれますが、
そんな私でさえ、合点できた。
納得するまで聞きなさい
」と入っているのです。

「どれだけ聞いても分からん」と言うのは、
聞き方が足りないか、真剣に聞いていないからです。

仏教は、「だいたい分かった」という
曖昧な聞き方ではダメなのです。
ハッキリ納得できるところまで聞くことです。

信ずることもなおかたし

しかし、「よくきいて納得する」ことと「信ずる」こととは、
別です。

親鸞聖人がここで言われている「信ずる」とは、
「阿弥陀仏の本願に疑いが晴れて救われた」
ということです。

先ほどの妙好人は、続いてこう言っています。
「合点したのは信ではないぞ、それは知ったの覚えたの、
合点せよとは口では言えど、不思議不思議の外はない」
「信ずる」とは、阿弥陀仏に救われて
「不思議不思議」と喜ばずにおれぬことを言われたのです。

この弥陀の不可思議の願力に救い摂られたのを、
「信心決定」と言われます。

阿弥陀仏のお力によって、いつ死んでも浄土往生間違いなしと
絶対の幸福になったことです。

ひとえにこの弥陀の本願力によらなければ、
私たちは絶対に救われないことを、
聖人は、

生死の苦界ほとりなし
ひさしくしずめるわれらをば
弥陀弘誓のふねのみぞ
のせてかならずわたしける

       (高僧和讃)
“果てしない苦しみの海に、
永らくさまよい続けてきた私たちを、
弥陀弘誓の船だけが、必ず、
乗せて浄土へ渡してくださるのだ”

どの和讃でも教えてくださっています。
自分の力で、船によじ登るのではありません。
そんな力のある私達ならば、諸仏は見捨てられません。
何の力もない私たち、それどころか、仏法に背を向けて、
またしても迷いの海に逃げ惑っている私たちを、
本師本仏の阿弥陀仏のみが、
そのまま大悲の願船に乗せてくださるのです。
そして、必ず仏に生まれる身にしてくだされるのです。

一人一人が、親鸞聖人のみ教えを真剣に聞き、
不思議不思議の弥陀の救いにあうために
生まれてきたのであり、
生きていることを、決して忘れず、
一念の決勝点まで進ませていただきましょう。


 


nice!(73)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:資格・学び

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。