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親鸞聖人の教えは「弥陀の本願まこと」が原点 [親鸞聖人]

誠なるかなや
摂取不捨の真言、超世希有の正法、
聞思して遅慮することなかれ
       (親鸞聖人・教行信証総序)
まことだった!まことだった!
弥陀の誓い、ウソではなかった。
みなみな、聞いてもらいたい、この親鸞が生き証人だ。
早く、弥陀の誓願まことを知ってもらいたい。

今回も、この親鸞聖人のお言葉を解説いたしましょう。
最初に親鸞聖人は、
「誠なるかなや」
と言われ、
「まことだった」
「本当だった」
と仰っています。
何が、まことだったのか。
それは「摂取不捨の真言」です。

「摂取不捨の真言」とは、「阿弥陀仏の本願」のこと。
「阿弥陀仏の本願」は、大宇宙最高の仏・本師本仏の
阿弥陀仏が誓われたお約束で、
『歎異抄』冒頭に「弥陀の誓願不思議」と著され、
『正信偈』には「(阿弥陀)如来の弘誓願」とあります。
それは、
“どんな人も、必ず絶対の幸福に救う”誓いです。

この不思議な弥陀の誓いに疑い晴れた聖人が、
「弥陀の本願まことだった」と仰っています。

「弥陀の本願まこと」
これが親鸞聖人の原点なのです。

最大の誤り

ところが、最も大切な聖人の原点が、
これまで多く誤解されてきました。
一例を挙げると『歎異抄』第二章のお言葉、

弥陀の本願まことにおわしまさば、
釈尊の説教、虚言なるべからず

の理解は大変誤られています。
もしも本願が、まことであるならば」
と「仮定」で解釈されているのです。

仮定では、アテにならない。
「本願まこと」と、ハッキリしなければ安心できません。
こんな話があります。

ある寺が、布教使を招き、浴室へ案内した時のこと。
昔のことですので、入浴時には湯加減を尋ね、
熱ければ水を運び、ぬるければ、たかねばなりませんでした。
程よい時を見計らって、湯加減を聞くと、
「これでいいでしょう」
と、布教使。
「でしょう」
では、困る。そこで重ねて、
「布教使さん。湯加減だけは遠慮は無用。
ハッキリ仰ってください」
と催促しても、
「これでいいでしょう」
と曖昧な返事。この布教使、
湯加減も分からんのかと不安に思った住職が、
戸のスキ間からそっとのぞき、納得した。
フンドシのヒモがもつれて脱げず、
ブルブル震えながら、まだ風呂へ入っていなかったのだ。

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熱いか、ぬるいか、ザブンと湯につかったら子供でも分かるが、
入っていなければハッキリしません。
湯加減でさえ、お湯に入れば明らかに知られる。
阿弥陀仏に絶対の幸福(往生一定)に救われたならば、
誰よりも本人がハッキリいたします。

もし、死ぬまで救われたのやら救われていないのやら、
ハッキリしないとすれば、一体、いつ安心できるのか。
「疑うまんま助けてくだされるのが阿弥陀仏」
「もう助かっていると私は感じています」
というような、
ハッキリしないものが阿弥陀仏の救いではありません。

往生一定と火に触ったよりもハッキリしますから、
大安心できるのです。

「弥陀の本願まこと」
これが親鸞聖人の原点である、教えの根本なのですから、
決して、「本願まことにおわしまさば」を、
「本願まことならば」と「仮定」で解釈してはならないのです。

本願寺の門主が明言

そんな中、本願寺の門主(最高責任者)が
この春に本を出版しました。
帯には、「門主・最後のメッセージ」と謳っています。
この6月に門主を退任されますので、
最後に言い残したいことなのでしょう。
その中に、注目すべき発言がありました。
『歎異抄』第二章の「弥陀の本願まことにおわしまさば、
釈尊の説教、虚言なるべからず」のところを、
「『阿弥陀如来の本願がまことであるから、
釈迦如来が説かれたことは嘘ではない』、
『阿弥陀如来の本願がまことであるから、
釈迦如来はそれを説かれたのだ』」

          (いまを生かされて)
と、二回も「断定」で強調されていたのです。

今回、門主自身が、仮定で解釈されていた誤解を翻し、
「本願がまことであるから」と断定された意義は
極めて大きなものです。
親鸞聖人のみ教えを学ぶ人たちに、
大きな影響を与えることでしょう。

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ハッキリするのが弥陀の救い

「弥陀の本願まことにおわしまさば」は、
「弥陀の本願まことだから」という明らかな「断定」です。
「誠なるかなや 摂取不捨の真言」(教行信証総序)
の聖人の明言どおり、
弥陀の本願に救われたらハッキリいたします。

蓮如上人も『御文章(御文)』に、
他力の信心ということをば今既に獲たり、
今こそ明らかに知られたり
」(二帖目十三通)
と仰っています。
「他力の信心を獲た」とは、
弥陀の本願に救い摂られたことですから、
「今そこ明らかに知られたり」とハッキリするのです。
ハッキリするのが間違いなら、
親鸞聖人も蓮如上人も間違いになります。

それどころか「明信仏智」と教えられたお釈迦さまも
間違い者になります。

皆、「助かったらハッキリする」と教えられているからです。

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事は生死の一大事。
阿弥陀仏に救われてハッキリしなければ、
往生一定の決定心もなく、安心はできません。
大安心のない救いは、阿弥陀如来の救いではありません。

アニメーション映画『世界の光・親鸞聖人』第一巻には、
こう描かれています。
不思議なるかなや、不思議なるかなや。
弥陀五劫思惟の願は、親鸞一人がためなり」
「多生にも、値い難き本願力に、今値えたり。
億劫にも、獲難き真実の信心を、今獲たり」
「本願、まことだった。まことだった

聞思して遅慮することなかれ

では、「弥陀の本願まこと」とハッキリするには、
どのような道を進むのでしょう。

親鸞聖人は、「聞思して遅慮することなかれ」
と教えられています。

「聞思」とは、「聴聞」のこと。
聴聞とは、
「阿弥陀仏の本願に、疑心あることなし」
と聞きひらくさまで、聞き抜くことです。

『正信偈』には、

聞信如来弘誓願  (阿弥陀)如来の弘誓願を聞信す

と教えられています。
その『正信偈』の最後の言葉は、

唯可信斯高僧説  唯、斯(こ)の高僧の説を信ずべし

です。

「唯」とは、「たった一つ」「これしかない」ということ。
「斯(こ)
の高僧」とは、弥陀の救いを正しく伝えてくだされた、
インド・中国・日本の高僧方。
すなわち、インドの龍樹菩薩・天親菩薩、
中国の曇鸞大師・道綽禅師・善導大師、
そして日本の源信僧都、法然(源空)上人です。

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これら七高僧の教えを、信じてくれよ」
と親鸞聖人はお勧めなのですが、
七高僧の教えといいましても、
「弥陀の本願」以外にありません。

ですから、
「唯、斯の高僧の説を信ずべし」
とは、
「ただ弥陀の本願を聞信するほかに、助かる道はない」

「決して、親鸞が勝手に言っているのではない。
あの偉大な七高僧方が、
口をそろえて教えられていることなのだ。
こんな広大無辺な世界があるぞ、
絶対の幸福があるぞ。
弥陀の本願まことをまこととハッキリ知らされるまで、
聞き求めていただきたい。それが親鸞の願いなのだ

との御心です。
親鸞聖人が最もお喜びになることは、
阿弥陀仏の本願を真剣に聞き求め、
聖人と同じく絶対の幸福(往生一定)に
救い摂られること以外ありません。

「本願に疑心あることなし」と
ツユチリの疑いもなくなるまで、聞法精進いたしましょう。


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