SSブログ

仏教でいわれる5つの不思議とは!? [Q&Aシリーズ]

(真実の仏法を説かれている先生の書かれた「とどろき」より載せています。)

●仏教に5つの不思議が説かれていると聞きましたが、
どこにどんなことが不思議と説かれているでしょうか。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

5つの不思議は、特に弥陀の本願力不思議をたたえて
龍樹菩薩が説かれたもの。

「衆生多少不可思議」

多くの生き物が生まれ続いて尽きない不思議をいったもの。
少は意味のない助字。

「業力不可思議」

善悪の業力によって、引き起こされる果報に、
寸分の狂いもないことの不思議。

「龍力不可思議」

気象の変化の不思議なこと。

「禅定力不可思議」

聖者が修行によって永い寿命を保ったり、
現す神通の不思議をいったもの。

「仏法力不可思議」

これこそ弥陀願力の不思議で、
道理理屈を離れた摩訶不思議の境地は、
仰げばいよいよ高く広く、
虚空のごとく、心は十方世界に遍満する。

EPSON058.jpg-1.jpg


●親鸞聖人が懐かしい

絶対の悪が絶対の善に救済されてみれば、
生死の苦海のままが光明の広海と転じます。
「不可称・不可説・不可思議の信楽」と、
叫ばれた親鸞聖人が懐かしい。
富も地位も、名誉も権勢も、しばしの間の装飾です。
払い落とせば自性の妄念しかありません。
悪に向かえば光る目も、善に向かえば眠ってしまう。
世間話は夜を徹するが、仏法の話はイヤになる。
夢の世といいながら、執着は微塵も離れず、
ツユの命と知りながら、真剣に報謝する気もない。

三悪道はい出しのやつは、
極楽を嫌って地獄を慕っています。

●底なしの慈悲

正定聚不退の現在も、蛇蠍かん詐、
我執我慢、放逸無慚の曲者で、
どこどこまでも地獄一定すみかぞかし。
こんなやつを大好きだとは、弥陀の慈悲には底がない。
堕つる私が弥陀の正客、聖者そこのけ善人後回し。
うれしい思いを頼りにもせず、悲しい心が心配にもならぬ。
称えた念仏を当てにもせず、忘れた失敗が障りにもならぬ。
信に信功なく、行に行功なし。
仏前で称えた念仏も、トイレで称えた念仏も、
無碍の世界に上下なく、円満である。
カラの念仏は、なお有り難い。
忘れがちの称名を、常念仏の行者とは、
身の置きどころもなく恥ずかしい。
泣いている。苦しいからではない。悲しいからでもない。
悪鬼羅刹が恵まれて、生かされるご恩に感じて泣くのが不思議。
楽して楽知らず、恩を恩と感じない逆謗の屍が、
横超の直道を猛進する時、善も欲しからず悪を恐れず、
苦しても苦知らずとは、不思議の中の不思議です。
まことに業海深きがゆえに願海深し。
われらの業海に名利の大山を映すがごとく、
弥陀の大願海に浄土の荘厳を映す。
月は降らずして水に浮かび、水は昇らずして月を宿す。
月は月にして水に宿り、水は水にして月を宿す。
求めたのやら求められたのやら、捨てたのやら捨てられたのやら、
取ったのやら取られたのやら、
信じたのやら信じられたのやら、
あるといえばある、ないといえばない。
何ともないが何とかある。
何とかあるが何ともない。

「餓鬼は、水を火と見候が、あわれに候。
自力執心の人が他力を知らぬが、悲しく候」
         (法然上人)
同じ事件の当事者でも、悲しむ者と踊る者、怒る人、泣く人、
喜ぶ人、立場によって見方が変わる。
世間は無料の人生劇場です。

他力不思議の世界へ出さえすれば、
「渋柿の シブこそよけれ
 そのままに かわらで変わる 味の甘さよ」
と逆境に微笑し、涙の中に輝く世界が拝めるのです。
「いつつの不思議をとくなかに
仏法不思議にしくぞなき
仏法不思議ということは
弥陀の弘誓になづけたり」
      (高僧和讃)
親鸞聖人の驚嘆です。

「仏が仏にお成りになるのが何が不思議ぞ。
極悪人が弥陀タノム一念にて、無碍の一道に生かされ、
仏に成ることこそ不思議というものだ」
不可思議の仏智に生かされたうれしさには、
法雷の下、法剣をかざし、法鼓をたたいて武士の戦場に臨むがごとく、
真実開顕に、獅子吼せずにはおれないのです。

nice!(56)  コメント(2)  トラックバック(0) 
共通テーマ:資格・学び

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。