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生きる意味(2) [なぜ生きる]

我々は、生きがいを生きる目的だと勘違いしてしまいがちです。
政治も経済も科学も医学も、
個人的なものであれば、妻子、財宝、お金、 趣味など
すべて生きがいであり、生きる手段です。
それを人生をかけてやる、人生の目的だと勘違いしてしまうから、
あっという間に人生は終わり、
こんなはずではなかった、求めるのが間違っていたと
泣いて死ななければならないのだと、
親鸞聖人は警告しています。
前回より、長南 瑞生著『生きる意味109』より載せていますが、
お釈迦さまの生涯教えていかれたことを、
親鸞聖人のご教導なされたことを、
分かりやすく解説してくださっていますので、
それを読んでいただきたいと思います。

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生きる意味について、よくある7つの間違い
①生きるために生きる
②成長するために生きる
③他の誰かのために生きる
④愛のために生きる
⑤自己実現のために生きる
⑥生きたあかしを残すために生きる
⑦生きること自体が大事

このような、完成のない趣味や生きがい(生きる手段)を、
「生きる目的」と思って求め続けているから、
人間に生まれてよかったという生命の歓喜がないのだと
仏教で説かれています。

仏教の教えを一言で表すと「平生業成」。
生きている「平生」に人生の大事業が完成できると、
完成のある生きる目的が説かれています。

今回は7つの間違いのうち、③と④を載せています。

よくある間違い③
「他の誰かのために生きる」
       という考え

次の「生きるのは他の誰かのため」というのは、
「人の役に立つため」などともいわれます。
ほとんどの人が自分のことばかり考えている中、
他の誰かのために生きようということですから、
「生きるのは成長するため」より
さらに素晴らしい考え方といえるかもしれません。

他の誰かというのは、具体的には、家族や子供のためとか、
まずは身近な人が思い浮かびます。
それがさらに、能力や徳がある人ほど、
身内以外の人のことも考え始め、
友人のため、会社のため、日本のため、
世界人類に貢献するためと、スケールが大きくなります。
一人の人の人生でも、
子供の時には自分のことしか考えていなかったのが、
成長して社会人となれば、その社会の一員として家庭を築き、
仕事や地域の集まりなどで、努力に応じて
社会に貢献する割合も大きくなっていきます。
素晴らしいことです。

ところが現実問題としては、60歳にもなれば、
子供も社会人として独り立ちし、
自分の主たる仕事も終わることがほとんどです。
さらに年齢を重ねていくと、だんだんと衰え、
やがてどちらかというと貢献というより、
社会や家族に世話になるようになっていきます。
それはとりもなおさず、「他人のために生きている」
とはいえなくなってくるということです。
『60歳からの「生きる意味」』という本には、
こう書かれています。

子孫を残すという生物本来の役割が終わっている以上、
「あなたは何のために生きているのですか?」と聞かれて、
「私は社会に役立つために生きています」
とはなかなか言えません。

現実にだんだんと役立たなくなるのですから、
それでは答えにならない。

「社会に役立たない人は生きる意味はない」とはいえません。
どんなすごい人でも、
やがて死ぬまでには周りの世話になるでしょうから、
「生きるのは他の誰かのため」というのは、
「何のために生きるのか」の答えにならないことが分かります。
では百歩譲って、優れた人の中には、
それでも何らかのすごい力で、
家族や社会に貢献できる人もあるかもしれません。

では、そのあなたが貢献した相手は
何のために生きているでしょうか?
もし特に意味を持たない人のために生きてしまうと、
自分の意味もなくなってしまいます。

子供であれば、子供は何のためにいきているのか。
子供はそのまた子供のために生きているとすれば、
そのまた子供は何のために生きているのか・・・、
そのまたまたまた子供は何のために生きているのか?
分からないまま、子々孫々までずっと続いていってしまいます。
社会に貢献するなら、社会というのは人間のあつまりですから、
その人たちは、何のために生きているのか。
社会は、そこに生きている人が、
よりよく生きるためにあるのですから、
そうやってみんなで協力し、
助け合って生きていくのは何のためかが問題なのです。
このように、誰か他の人のために生きるとか、
社会に貢献することは、大変素晴らしい「生き方」ではありますが、
「生きる目的」ではない、ということです。

ここまでの3つは、最初の「①生きるため」よりは
「②成長するため」のほうが克己心が必要となり、
さらに「③誰か他の人のため」は利他心も必要になりますから、
だんだん立派な考え方になってきたのですが、
それでもいずれも「生き方」の問題であって
「何のために生きるのか」という問いの答えにはなっていませんでした。
次からは、一応、答えているものを見てみましょう。

よくある間違い④
「愛のために生きる」
      という考え

(最後は自分か相手のどちらかが死んで、
別れていかなければならない)

まず、「愛のために生きる」というのはどうでしょうか。
誰しも人生で一度は大恋愛を夢みますから、
「人を愛するため」といえば、子供から大人まで、
いちばん人気がありそうです。
これはかなり「生きる意味」の答えになる可能性が
高いのではないでしょうか。
自分だけではあまり意味が感じられない場合でも、
好きな相手から愛されれば、
自分の存在に大きな意味を感じることができます。
そんな心情をドイツの文豪ゲーテは、
このように描いています。

ロッテは愛している!私を愛している!
あのひとが私を愛してから、
自分が自分にとってどれほど価値あるものとなったことだろう。
             (『若きウェルテルムの悩み』ゲーテ)

あの人に愛されたい!
そのためなら献身的な努力も惜しみません。
そうして自分のすべてを捧げて愛する人と一心同体になれれば、
夢のような陶酔感にひたれます。
その幸福感は、哲学者・伊藤健太郎氏の著書『男のための自分探し』に、

誤解を恐れずに言えば、「結婚」は人生の唯一にして最大の幸福です。
              (『男のための自分探し』伊藤健太郎)
とあるほどです。

ところがそんな幸せも、長くは続きません。
1970年、アーサー・ヒラー監督の名作『ある愛の詩』は、
不滅のロマンス映画として歴史にその名をとどめています。
大富豪の一人息子で、勉強もスポーツも万能のオリバーは、
ハーバード大学時代、図書館で知り合った貧しいお菓子屋さんの娘、
ジェニーと恋に落ちます。
あまりの身分の違いに、
卒業したら音楽を学びにパリへ行くというジェニーを、
オリバーは引き留め、父親の反対を押し切って、卒業と同時に結婚。
仕送りは打ち切られますが、音楽の夢をあきらめたジェニーが
小学校の先生をして学費を稼ぎ、
オリバーはハーバードの法科大学院に進学します。
食うや食わずの毎日で、時には大げんかをしてジェニーが
出て行ったこともありますが、最後には戻ってきて、
「愛とは決して後悔しないこと」と夫にほほえみかけます。
2年間の苦学の末、ついにはオリバーは3位の優秀な成績で卒業、
ニューヨークの法律事務所に高給で迎えられました。
喜んだ2人は、子供の名前を話し合うなどして、
これから始まる新生活を思い描きます。
ところがニューヨークへ来てすぐ、
ジェニーは白血病で、余命幾ばくもないと分かったのです。
オリバーは次々入るやりがいのある仕事を断って、
必死に看病しますが、ジェニーはみるみる弱っていきます。
その年の冬の、ある寒い日、ジェニーが病気だと知り、
オリバーの父親がかけつけた時には、
ジェニーは息を引き取った後でした。
「なぜ言わなかった!私が力になったのに」
父親の言葉を、うつろな目をしたオリバーがさえぎり、
「・・・愛とは決して後悔しないこと」
とつぶやくと、一人、ジェニーとの思い出の場所に行き、
じっと座り込みます。
家を捨て、家族を捨て、莫大な財産をも捨てて、
ただ愛のために大変な苦労をしてきたのに、
思いがけず、その愛する妻を失ってしまいました。
今までの苦労は何だったのでしょうか・・・。

「結婚」が人生最大の幸福であればあるほど、
それが崩れてしまった人に、
「続かないからこそ美しいんだよ」と言ってみても、
全く慰めになりません。

世界的な文豪・シェイクスピアは、
その厳しい現実を、実に美しく言い表しています。

やっと想いをとげたとなると、戦争とか、
死とか、病気とか、きっとそんな邪魔がはいる。
そして、恋はたちまち消えてしまうのだ、
音のようにはかなく、影のようにすばやく・・・
そうなのだ、夢より短く・・・
あの闇夜の稲妻よろしく、
一瞬、かっと天地の全貌を描き出したかと思うと、
「見よ!」と言う間もあらばこそ、
ふたたび暗黒の腭(あぎと)に呑み込まれてしまう、
それと同じだ、すばらしいものは、すべてつかのまの命、
たちまち滅び去る。
             (シェイクスピア)

このことを、仏教では、「会者定離」と教えられます。
出会った者は、必ず別れなければならないということです。
好きであればあるほど、ずっと一緒にいたいのですが、
必ず別れの日がやってきます。
別れの日は、事前に分かるときもありますし、
突然やってくる時もあります。
その時、愛する気持ちが強ければ強いほど、
別れの時の悲しみも大きくなります。

それは男女の間に限りません。子供でも同じです。
母親の子供を思う心は、この世で最も誠実で崇高だといわれます。
そんな子供も、やがて成長し、
20年もすれば必ず巣立つ時がやってきます。
今まで命のように育ててきた子供が自分の元を離れると、
心にぽっかり大きな穴が開いてしまいます。
空の巣症候群とまではいかなくとも、
すっかりがっかりしてしまうのです。
フロイトとともに、初期の精神分析に貢献した心理学者シュケテールは、
このように言います。

子供を挫折した人生の目的に置き換えることはできない。
われわれの人生の空虚を満たすための材料ではない。
             (シュケーテル)

たとえどんなに一緒にいることができたとしても、
最後は自分か子供のどちらかが必ず死んで、
別れていかなければなりません。
たいていは自分のほうが先ですが、
子供に先立たれる親もたくさんあります。
愛する子供に死なれた悲しみはどれほど大きなものでしょうか。

江戸時代・化政文化を代表する俳人・小林一茶は、
晩年になって、ようやく待ちこがれた子供が生まれました。
「さと」と名づけたその長女は、
生まれて一年も経つと、他の子供が持っている風車を欲しがったり、
夜空に浮かぶ満月を、「あれとって」とせがんだり、
たき火を見てきゃらきゃらと笑います。
そのかわいいかわいい一人娘の、
あどけないしぐさをいとおしむ情景が、
一茶の代表作「おらが春」に描かれています。
ところがそんな時、突如、さとは当時の難病、
天然痘にかかってしまいます。
びっくりした一茶、必死に看病しますが、
さとはどんどん衰弱し、あっという間にこの世を去ってしまいます。
茫然自失、深い悲しみが胸にこみ上げ、
一茶はこう詠んでいます。

露の世は つゆの世ながら さりながら
            (小林一茶)
露の世は、露のようなはかないものと聞いてはいたけれど・・・。
かわいい娘を失った悲しみは胸をうちふるわせ、
あふれる涙に、もはや言葉が継げません。
一茶の決してあきらめることのできない
むせび泣きが聞こえてくるようです。

このように、会者定離ということからすれば、
相手が子供であれ男女間であれ、
とても愛が生きる目的とは言ってはいられないのです。
「会者定離 ありとはかねて 聞きしかど
昨日今日とは 思わざりけり」

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次回は内容を変更します。
続きを読まれたい方は、
書店にて長南 瑞生著『生きる意味109』をお求めください。
出版社名は、一万年堂出版です。


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