ガチッと摂め取って捨てぬ弥陀の救い [極楽に往生するには]
という弥陀の真実のお言葉ですから、
人は皆、幸せを求めて生きています。
弊履(へいり)のように粗末に扱われています。
日本のどこかで命を落としています。
行方不明者が1万8502人といいますから、
病院や自宅で静かに布団の上で亡くなるのとでは、
とすれば、私たちの“平穏な日常”
確実な未来に不安を抱える私たちを、
と誓われたのが阿弥陀仏の本願です。
超世の悲願聞きしより
阿弥陀仏の本願に救い摂られてからの人生は、
地震や津波、台風、火災や病気、
人間関係のゴタゴタなど災厄が逆巻き、
親鸞聖人は教えておられます。
それはただ一つ、親鸞聖人は「聞思して遅慮することなかれ」と
アニメーション『世界の光・親鸞聖人』は、
たとい大千世界に
たとえ大宇宙が猛火に包まれようとも、
その中、仏法を聞く人は、
早く絶対の幸福になれると教えられています。
火の中を 分けても法は 聞くべきに
これは、
大事なことが教えられているのだよ、
だから、雨や風や雪に負けずに仏法は聞かねばなりませんよ」
ある浄土真宗の先達は、仏法を聞く心構えを、

ある新聞社の編集長が
三人の記者が書いた同一事件の原稿を批評してこう言いました。
第二は耳で書いた原稿、
第三は足で書いた原稿。
足で書いたものが最もよい」
横着して事件の現場を想像して書いたもの。

状況を目で確かめ、生の証言を聞いて書いたものをいう。
舎利弗尊者が閑静な山中で座禅していた時のこと。

散乱している舎利弗の心を見抜き、
維摩は言下にこう指摘する。
もし身体を動かさないのが座禅なら、
聴聞の心構えの三つ目は、「間断なく聞け」。
何かを身につけようと思ったら、
ボツーンと聞いて分かるような浅い教えではありません。
フト、足下の石に、穴が開いているのを目にする。

明詮はハッとした。
後生の一大事の解決をあきらめるとは、
後に「音羽の明詮」といわれる大徳になったという。
至りて堅きは石なり、至りて軟らかなるは水なり、
必ず信心を獲ることができるのだ。
聴聞の心構えの最後は、「聞けない時は、思い出せ」です。
①骨折って聞け(苦労して、足で聞きましょう)
「仏法聞き難し、今已に聞く」(お釈迦さま)
大変有り難いことです。
阿弥陀仏に救われるには? 「聴」と「聞」 [極楽に往生するには]
誠なるかなや、
摂取不捨の真言、超世希有の正法、
聞思して遅慮することなかれ
(親鸞聖人・教行信証総序)
まことだった!本当だった!
弥陀の誓いにウソはなかった。
みなみな、聞いてもらいたい、この親鸞が生き証人だ。
早く、弥陀の誓願まことを知ってもらいたい
今回も、この親鸞聖人のお言葉を解説いたしましょう。
親鸞聖人が「誠だった!」といわれている「摂取不捨の真言」も
「超世希有の正法」も、「阿弥陀仏の本願」のこと。
それは、十方諸仏の本師本仏の阿弥陀仏の
“どんな人も必ず、絶対の幸福(往生一定)に救う”
という命がけのお約束です。
その弥陀の願いに背を向けて、
欲のままに逃げ回っている私たちをどこまでも追いかけ、
“無上の幸せに救わずばおかぬ”
という弥陀の真実のお言葉ですから、
親鸞聖人は「摂取不捨の真言」とも言われ、
世を超えた2つとない真実の誓い、
「超世希有の正法」とも称されます。
では、弥陀のお約束どおりに救われるには、
どうすればよいのでしょうか。
●仏法は聴聞に極まる
阿弥陀仏のお約束は、
「聞其名号、信心歓喜」
とありますように、
聞いて信ずる者を助けるというお約束ですから、
聞くということが阿弥陀仏の救いに最も大切なことなのです。
ゆえに蓮如上人は、
仏法は聴聞に極まる (御一代記聞書)
(仏法は聞く一つで救われる)
と教えられています。
聴聞といいますのは、「聴」もきくということですが、
仏法では、聴というきき方と、
聞というきき方を厳然と区別されていることを、
よく知らなければなりません。
まず、聴というきき方は、
ただ耳できいて合点しているきき方をいいます。
2+2は4、4+4は8というように、
きいて納得しているきき方をいいます。
弥陀の救いにあうには、まず、
阿弥陀仏の本願の生起本末をきいて、
よく納得することが大事です。
阿弥陀仏の本願の生起本末とは、
弥陀は、どんな者のために本願を建てられたのか。
どのようにして本願を建てられたのか。
その結果は、どうなったのか、ということです。
納得できなかったら納得できるまで、
重ねて聞かねばなりません。
仏教は因果の道理を根幹として説かれていますから、
どんな人でも、聞けば必ず納得できる教えなのです。
教えを重ねて聞いて正しく理解し納得することが、
第一に大切なことです。
これが聴聞の聴です。
まず教えをよく聴いて納得することから聞法は始まるのです。
●「上の心」と「下の心」
重ねて仏教を聴いていきますと、
私たちには2つの心があることが知らされてきます。
「2つの心?私の心は一つしかありませんよ」
と思われるかもしれません。
2つの心とはどういうころでしょうか。
あるところに、喧嘩が絶えない菓子屋の若夫婦がいた。
今日も、つまらぬことで始まった口争いが怒号となり、
亭主が「殺してやる」と叫び、
女房は、「殺すなら殺せ」と激高している。
そこを通りかかった寺の和尚、また始まったかと仲裁に入った。
「どうしたんだい、大きな声を上げて。
通りがかりの人に恥ずかしいとは思わんか。
やめなされ、やめなされ」
すると、亭主、
「捨てておいてください。
今度という今度は勘弁ならん。
今日こそ、かかあをたたき殺してやる」
と目を釣り上げ、わめきたてる。
女房も女房で、
「和尚さん、ほっといてください。
さあ、殺せるものなら殺してみろ」
と、かみつかんばかりに逆上し切っている。
こうなっては手のつけようがない。
思案に余った和尚、
「じゃ、お互いの気の済むまで喧嘩するがよい。
これほど止めても聞き入れぬなら仕方がない。
殺すとも殺されるとも勝手にしたらよかろう」
と言い捨てた。
いつの間にか店先に近所の子供たちが集まって、
派手な夫婦喧嘩を見物している。
すると和尚、店先に並べてあった菓子を取り上げて、
「さぁさぁ、よいか、おまえたちにこの菓子をみんなやるから、
持って行け」
と投げ与えた。
菓子屋の夫婦が驚く。
「和尚さん、そんな無断で店の物をやっては困ります。
明日から私たち、商売できなくなるじゃありませんか」
「なに、私たちの商売?なんと訳の分からぬ話じゃ。
おまえさんらは殺すとか殺されるとか言っていたじゃないか。
人を殺せば刑務所へ行く身じゃ、
してみればおまえさんたちに用のない菓子。
今のうちに子供たちを喜ばせておいたほうがよかろうと思ってな、
施しているところじゃ」
と和尚が言うと、
「ああは言ったが、今晩また一緒に寝るつもりじゃ」
と言ったという。
感情は激怒している時も、
その下に湖底のように静まり返っている心があります。
特に真剣に仏法を聴聞していきますと、
ハッキリする2つの心があることが分かってきます。
「なるほど、なるほど」とうなずいてきいている心と、
腹底に感じられる、少しも仏法をきこうとしない心です。
「上の心」と「下の心」といわれることもあります。
一例を挙げましょう。
「あなたは、生まれたからには必ず死なねばならないと思うか」
と質問されたら、誰でも「イエス」と答えるでしょう。
「生ある者は必ず死に帰す」
これは誰も否定できない厳粛な事実だからです。
では、
「今日死ぬと思えるか」
と尋ねられたらどうでしょうか。
答えは「ノー」でしょう。
この「今日死なない」と思いこんでいる心は、
明日になっても「今日は死なん」と思う心であり、
明後日、そのまた翌日になっても
「今日死なん」と思い続ける心です。
「いつまでも 死なぬつもりの 顔ばかり」
最後まで死ぬまいと思っている、
つまりは永遠に死なないと思っているのが私の本心なのです。
2つの矛盾した心があるとお分かりになるでしょう。
●「聞」ときく
聴聞の「聴」は、上の心がきいて合点、理解することです。
しかし、どんなに理解や合点しても、
知った覚えたであって弥陀の救いではありません。
それを蓮如上人は、こう言われています。
聴聞ということは、なにと意(こころ)得られて候やらん。
ただ耳にききたるばかりは、
聴聞にてはなく候。
そのゆえは、千万の事を耳にきき候とも、
信得(しんえ)候わぬはきかぬにてあるべく候。
信をえ候わずは、報土往生はかなうまじく候なり
(一宗意得之事)
聴聞ということを、どう思っていられるだろうか。
ただ、耳できいて理解し合点しているだけでは、
それは聴聞とはいえないのである。
たとえ千座万座きいても、
信心を獲得しなければ聞いたことにはならない。
信を獲なければ、弥陀の浄土へは往けないのである
いくら耳で千回万回の説法をきいても、
それは合点や理解だけの聴のきき方です。
では聴聞の「聞」とは、どんなきき方か、
親鸞聖人は、次のように教えられています。
「聞」と言うは、衆生、仏願の生起・本末を聞きて
疑心有ること無し。これを「聞」と曰うなり
(教行信証信巻)
聞とは、阿弥陀仏の本願の生起・本末に、
ツユチリほどの疑心もなくなったのを、
聞というのである。
弥陀の五劫思惟の本願は、
私ひとりのためでありましたと、
弥陀の本願の生起・本末が晴れ(信)、
大安心大満足になったのを、聞といわれるのである。
●合点するだけでは意味がないのか
こうきくと、次のような疑問を抱く人があります。
「では、『聴』というきき方は、何にもならないのか」
とんでもない。それは因果の道理を破壊する誤りです。
まかぬ種は生えませんが、まいた種は必ず生える。
これが因果の道理です。
自業自得といわれるように、自分の行い(業)によって、
自分の結果(運命)が得られるのです。
一回きけば、それ相応の結果が生じる。
十回きけば、それだけの果報が得られる。
ボーッときくのと、真剣にきくのと、
結果が同じはずがありません。
家で気楽に学ぶ人と、外へ出て苦労してきく人とでは
結果は違います。
近くの会場でしかきかない人と、遠くまで足を運んできく人、
時間があればきくという人と、忙しい中を時間つくってきく人とでは、
得る結果は絶対に同じではありません。
ですから、「聴いているだけでは何にもならない」という考えは
大間違いなのです。
一歩踏み出し、聞法の場へ足を運ぶことは、
尊い仏縁がなければありえないことです。
そこには、阿弥陀仏の強い後押しが必ず働いています。
聞く気のない私に「聞いてくれよ」
の阿弥陀仏の絶大なる願心がかかっていてくだされるからです。
「聞思(聴聞)して遅慮することなかれ」(教行信証)
弥陀の本願に対する一切の疑心が消滅し(信)、
大安心大満足になるまで聞き抜きましょう。