SSブログ

仏教の目的は何ですか? [Q&Aシリーズ]

(質問)仏教の目的は何ですか?

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
今日、仏教と聞くと何が思い浮かぶでしょうか。
葬式や法事で生き延びている葬式仏教、
おみくじやゴマをたいてゴ利益を振りまく祈祷仏教、
伽藍や大仏を売り物にする観光仏教・・・。
もちろんこれらは論外ですが
、中には、
仏教を道徳や倫理と兄弟のように考えて、
「仲良く生きていく方法を教えたもの」
と思っている人もあるでしょう。

だからケンカもせず、人の言うことは何でもハイハイと
聞く円満な人格者、角の取れた人間が
仏教信者だと信じています。
しかし、仏教はそんな修養の道具でもありません。
では、仏教を聞く目的は何でしょうか?
それは、後生の一大事の解決をするためです。

EPSON089.jpg-1.jpg


(質問)後生の一大事とは何ですか?

・・・・・・・・・・・・・・・・
蓮如上人は、『御文章(お文)』の至るところに、
後生の一大事を思いとりて」とか、
「今度の一大事の後生」とおっしゃっています。
有名な「白骨の章」には、
「誰の人も、はやく後生の一大事を心にかけて」
とあります。
仏教は、後生の一大事に始まり、
その解決で終わる教えです。

釈尊一代の教え、八万の法蔵といわれる一切経も、
この一大事を私たちにいかに知らせるか、
この一大事をいかに解決するかを
教えられた以外の何ものでもありません。

ですから、後生の一大事ということが分からなければ、
仏教は分からない。
これが仏教の出発点なのです。

EPSON090.jpg-1.jpg

(質問)後生とはどんな意味ですか?

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
後生とは、死後のことです。
後生と聞くと、カビの生えた古い言葉のように感じたり、
30年も50年も先のこと、
自分とは関係のないと思う人もありますが、
本当にそうでしょうか。
吸った息が吐き出せない時、
吐いた息が吸えなかった時が、
もうその人の後生です。

だから、一息一息が取り返しのつかない価値を持ち、
吸う息、吐く息が後生と密着している。

こんな差し迫った現実問題はないのです。

「後の世と 聞けば遠きに似たれども 
知らずや今日も その日なるらん」(古歌)
のとおりです。

されば、蓮如上人は、
仏法には、明日という日はない」とまで言われています。

EPSON090.jpg-2.jpg

(質問)一大事とはどんなことですか?

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
一大事とは、取り返しのつかないことをいいます。
自宅が火事や地震に見舞われると、
私たちは、「一大事!」と叫びます。
確かにそれも大変なことですが、
後生の一大事と比べたら皆、
小事だと仏教ではいわれます。

取り返しがつくからです。
家ならば、建て直すこともできるでしょう。

釈尊はズバリ、「必堕無間」と経典に説かれています。
(必堕無間とは、死ぬと大苦悩の世界に堕つること、
六道の一つである地獄界)

親鸞聖人は、
一たび人身を失いぬれば万劫にも復らず(かえらず)

             (教行信証)
とおっしゃり、“一息追(つ)がざれば次の生、
永久にもどらぬ人生となる”と、
警鐘乱打なされています。
この後生の一大事を解決することが、
仏教を聞く目的なのです。

EPSON091.jpg-1.jpg

 


タグ:仏教の目的
nice!(71)  トラックバック(0) 
共通テーマ:ネットコミュニティ

阿弥陀仏とはどんな仏さま? [阿弥陀仏]

阿弥陀仏とはどんな仏さまなのでしょうか。

一般には阿弥陀仏、お釈迦さまと、呼び名こそ違っても、
仏さまといえば、皆、同じだと思っている人が多いようです。
仏教では、
「阿弥陀如来と申すは、三世十方の諸仏の本師・本仏なり」
              (御文章)
“阿弥陀仏は大宇宙のすべての仏方の先生、
指導者である”と教えられています。

後で詳説しますが、
お釈迦さまも「三世十方の諸仏」の一仏であり、
阿弥陀仏とは違う仏です。

この違いが分からねば、
仏教は決して分かりませんから、
まずよく知っていただきたいと思います。

EPSON182.jpg-2.jpg

たくさんの仏さまが大宇宙にまします

仏教では、大宇宙には地球のような世界が
無数にあると説かれています。

今日の天文学でも、生命を持ちうる惑星が
銀河系だけで億単位に上るというのが定説です。
宇宙全体で考えれば、どれほど膨大な数になるか
想像も及びませんね。
それをお釈迦さまは、「ガンジス河の砂の数」と表現され、
その宇宙観を2600年前に説いておられるのです。
地球にお釈迦さまが出られたように、
十方世界、大宇宙には、
数限りもない仏さまがおられます。

大日如来や薬師如来、
奈良の大仏として有名なビルシャナ仏、
お釈迦さまも、皆、「三世十方の諸仏」の一仏なのです。

EPSON183.jpg-1.jpg

阿弥陀仏は諸仏の先生

阿弥陀仏は諸仏の「本師本仏」といわれています。
「本師」も「本仏」も先生のことですから、
阿弥陀さまは諸仏の指導者であり、
諸仏方は、阿弥陀仏の弟子、生徒ということです。
私たちの地球に現れた唯一の仏、お釈迦さまは、
「私の尊い先生を紹介しに来たのだよ」
と、生涯、先生である阿弥陀仏のことばかりを
説いておられます。

それを親鸞聖人は、
如来、世に興出したまう所以は、唯、弥陀の本願海を
説かんがためなり
」  (正信偈)
とおっしゃっています。
弟子の使命は、師の御心を多くの人に
伝える以外にないからです。

EPSON183.jpg-2.jpg

阿弥陀仏は最尊第一の仏

では、なぜ阿弥陀仏を本師本仏と尊敬するのでしょう。
それは阿弥陀仏の能力がズバ抜けて素晴らしいからです。
お釈迦さまは、
無量寿仏(阿弥陀仏)の威神光明は最尊第一にして、
諸仏の光明の及ぶこと能わざる所なり
」(大無量寿経)
とおっしゃって、
大宇宙で最も尊い仏が阿弥陀仏であり、
諸仏の力は足下にも及ばない。

だから「諸仏の王」ともいわれています。
その最尊第一阿弥陀仏が、私たち一人一人と、
崇高なお約束をなさっている。
それが阿弥陀仏の本願といわれるものです。

どのような内容か、次回で明らかにしましょう。

EPSON184.jpg-1.jpg

EPSON184.jpg-2.jpg


nice!(77)  トラックバック(0) 
共通テーマ:資格・学び

念仏はお礼であって、称えても救われない! [信心決定]

憶念弥陀仏本願(弥陀仏の本願を憶念すれば、)
自然即時入必定(自然に即の時必定に入る、)
唯能常称如来号(唯能く常に如来の号を称して、)
応報大悲弘誓恩(大悲弘誓の恩を報ずべし、といえり。)
           (親鸞聖人・正信偈)
親鸞聖人が、尊敬する七高僧の第一、
龍樹菩薩の教えを述べておられるところです。

「弥陀仏の本願を憶念すれば、
自然(じねん)に即の時必定に入る」とは、
「阿弥陀仏の本願を信ずれば、
弥陀のお力によって、一念で必定に入る」
ということです。
これを蓮如上人は、
「一念発起・入正定之聚」 (聖人一流の章)
“一念で正定の聚(じゅ)に入る”といわれています。
一念とは、弥陀に救い摂られる、
アッともスッとも言う間のない短い時間のことです。
「必定に入る」とは、必ず仏に成ることに定まること。
「正定聚に入る」も、間違いなく仏のさとりを
開くに定まった人たちの仲間入りをすることです。

弥勒菩薩と肩を並べる身に

それは、弥勒菩薩と肩を並べる身になることであり、
いつ死んでも浄土に往生できる大満足の身になることだよ、
と親鸞聖人は『教行信証』に教えられています。
その驚くべきお言葉を聞いてみましょう。

真に知んぬ。
弥勒大士は、等覚の金剛心をきわむるがゆえに、
龍華三会(りゅうげさんえ)の暁、
まさに無上覚位をきわむべし。
念仏の衆生は、横超の金剛心をきわむるがゆえに、
臨終一念の夕、大般涅槃(だいはつねはん)を超証す

              (教行信証)
「本当にそうだったなぁ!
あの弥勒菩薩と、今、同格になれたのだ。
全く弥陀の誓願不思議によってのほかはない。
しかもだ。
弥勒は56億7000万年後でなければ、
仏のさとりが得られぬというのに、
親鸞は、今生終わると同時に浄土へ往って、
仏のさとりが得られるのだ。
こんな不思議な幸せが、どこにあろうか

「真に知んぬ」とは、
「あまりにも明らかに知らされた」驚嘆の叫びでありましょう。
弥勒大士」とは、仏のさとりに最も近い、
等覚というさとりを得ている菩薩のことです。

仏教では、凡夫が仏覚に到達するまでに、
五十二段のさとりの位があり、しかもその間、
三大阿僧衹劫の長い修練が必要だと説かれています。

一位から四十一位までに第一阿僧衹劫、
四十一位から四十八位までに第二阿僧衹劫、
そこから五十二の位に成るまでに第三阿僧衹劫かかるとあります。

阿僧衹劫(あそうぎこう)とは
億兆よりも数十桁高い桁の名ですから、
大変な長期間です。

EPSON031.jpg-.jpg

その五十一段まですでに上り、
釈尊の次に仏のさとりを開いて現れる、
釈迦の後継者といわれるのが弥勒菩薩です。

そのため今でも弥勒信仰の人は決して少なくありません。

ところが驚くことなかれ。
親鸞聖人は、弥陀の本願を憶念した一念で、
その弥勒と同等になったとおっしゃっているのです。

「念仏の衆生」とは、弥陀の本願を憶念した人であり、
聖人ご自身のことを言われています。
「横超の金剛心をきわむる」とは、
他力によって一念で五十一段高とびさせられ、
正定聚不退転の身に救われたことを言われます。
金剛心とありますように、
何ものにも壊されることのない、
絶対の幸福になりますから、
“よくぞ人間に生まれたものぞ”
という生命の歓喜は、生涯、変わりません。

しかも、それだけではないのです。
弥勒菩薩が無上覚を開き、
龍華三会という法座で初の説法をするのは、
五十六億七千万年後であると経典に説かれていますが、
弥陀に救い摂られている念仏の衆生は、
「臨終一念の夕」、つまり死ぬと同時に、
「大般涅槃を超証す」、弥陀の浄土へ往って
弥陀同体のさとりを開かせていただけるのです。

EPSON032.jpg-.jpg


アッと言う間もない一念で弥勒と肩を並べ、
命終われば“弥勒お先ごめん”と仏のさとりを開く。
これひとえに、
弥陀の威神力不思議によってのほかありません。

こんなとてつもない救いを、だれが想像できましょう。
事実、江戸時代、有名な比叡山の学僧だった鳳潭(ほうたん)は、
この『教行信証』を読んで狂人の書だと、
唾棄して庭に投げたといいます。

念仏はお礼の言葉

弥陀の本願は信ずる一念で救い摂るお約束、と聞くと、
では念仏は何のために称えるのか、
と疑問に思う人もあるでしょう。

それについてハッキリと、
唯能く常に如来の号(みな)を称して、
大悲弘誓の恩を報ずべし

と教えられています。
「ただ如来の号を称えなさい」
とは、阿弥陀如来の御名、念仏を称えなさいということです。
それは、大悲弘誓の恩に報いるためだと言われています。
大悲とは大慈悲心。
弘誓とは弥陀の本願のこと。
ですから、
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と
口に称える念仏は、
弥陀の本願によって、
絶対の幸福の身に救われた御恩報謝であると、
親鸞聖人は明らかにされています。

つまり念仏称えたら助かるのではない、
念仏は救われたお礼であるということです。

救いは信心か、念仏か
    信行両座の諍論

これは昔も今も、大変よく誤解されているところです。
そのため親鸞聖人は34歳の時、
法友と大論争までなさっています。
有名な信行両座の諍論です。

ある時、聖人は法然上人の御前で手を突かれました。
「お師匠さま。私は何の宿縁でか、
無二の善知識にお会いすることができました。
そのうえ、380余人の法の友達も持たせていただきました。
皆過去世からの、深いご縁のある方ばかりでございます。
ところでお師匠さま。
この世だけの友達では、寂しゅうございます。
未来永劫の友達が、何人おられるか、
親鸞、心にかかります。
お許しいただければ、この親鸞、皆さんの信心を
一度お尋ねしとうございます。
いかがなものでございましょうか」
「親鸞、そなたもそのことを案じ煩っていたのか。
この法然も常に心にかかっていたことだ。
しかし信心は心の問題だからなあ。
どのようにして確かめようとするのか」
「私に一つの名案がございます。
私に任せていただけましょうか」
「けっこうなことだ。それこそ、まことの友情というもの。
そなたの思うとおりやってみるがよかろう」
こうして師の許しを得られた親鸞聖人は、早速、
信の座と行の座を設定し、法友380余人を集めて、
厳かにおっしゃいました。
「本日は御師・法然上人の認可を頂き、
皆さんにぜひお尋ねしたいことがございます。
ごらんのとおり今ここに、行不退の座敷と信不退の座敷と、
2つの座敷に分けました。
いずれなりと、皆さんの信念に従って
お入りいただきたいのです

EPSON033.jpg-.jpg
ここで「行」とは念仏のこと、
「信」とは信心のこと
ですから、分かりやすく言えば、
「弥陀の本願は、念仏称えれば助けるという
お約束だと思っている人は行の座へ、
信心一つで救う誓いだと心得ている人は
信の座へ入ってください」
という問いかけです。

親鸞聖人の投じられた問題は、
法然門下380余人を驚かせ、戸惑わせるに十分でした。
果たして、決然と信の座に着いたのは、
信空、聖覚法印、熊谷蓮生房の3名のみ。
やがて、親鸞聖人も信不退の座に進まれ、
最後に380余名注視の中、法然上人も、
「それではこの法然も信の座に入れていただこう」
と、信の座に着かれています。

こうして、弥陀の本願は、
信心一つで救いたもうお約束であると、
聖人は争いまでして明らかになされたのでした。

蓮如上人のご教示も

これを受けて蓮如上人も、
聖人一流の御勧化の趣は、信心をもって本とせられ候
               (聖人一流の章)
と、信心一つで救われることを明示されています。
そして、念仏さえ称えておれば救われるという誤りを、
至るところで破られています。

ただ声に出して念仏ばかりを称うる人は、
おおようなり。それは極楽に往生せず

           (御文章三帖)
ただ声に出して南無阿弥陀仏とばかり称うれば、
極楽に往生すべきように思いはんべり。
それは大に覚束なきことなり

           (御文章三帖)
「念仏称えなさい。救われる」というのは、
断じて浄土真宗の教えではないのです。

念仏は、

「かくの如く決定しての上には、
寝ても覚めても命のあらんかぎりは、
称名念仏すべきものなり」
           (御文章五帖)
その上の称名念仏は、如来わが往生を
定めたまいし御恩報尽の念仏と、心得べきなり

           (聖人一流の章)

とありますように、信心決定した人が、
阿弥陀如来の御恩徳に感泣し、
そのうれしさのあまり、お礼の心で称えるものが、
他力の念仏だと説かれています。

報謝で浄土へ詣りょうか

ここは大変間違えやすい所なので、
蓮如上人は替え歌まで作って、
その誤りを正しておられます。

巡教中の蓮如上人が、
茶店の娘の奇妙な子守歌を耳にされた。
「泣いて呉れるな
    泣かしはせぬぞ
 泣けば子守の身が立たぬ。
    昔々に武士は
      箒(ほうき)と刀を間違えて
 箒で敵が討たりょうか」
この風変わりな歌の訳を尋ねられると、
“ある侍が、親の敵を探して旅をしていたところ、
ちょうどこの茶店で、
目の前を馬に乗って行く敵を見つけた。
あまりに慌てた侍は、刀とほうきを間違えて、
ほうきを手につかんで、
「敵待てい」と追いかけた”と言う。

EPSON034.jpg-1.jpg


興味深げに聞かれていた上人は、
幾度もうなずき、
替え歌を作り供の者に与えられたという。
堕ちて呉れるな
    堕としはせぬぞ
 堕とせばこの弥陀
    身が立たぬ。
 昔々の同行は
  信と報謝を間違えて
 報謝で浄土へ詣りょうか

このように親鸞聖人・蓮如上人のご教示で明らかなように、
信心一つが浄土へ生まれる正しい因であり、
称える念仏はお礼ですから、
信心正因、称名報恩
といわれ、これが浄土真宗の骨格であります。
つまり信心決定できたかどうかで、
往生の可否を決するのです。

皆々信心決定あれかしと、
そればかりを善知識方が念じ続けられるゆえんです。


nice!(77)  トラックバック(0) 
共通テーマ:資格・学び

独りぼっちの人生が底抜けに明るい人生になる [孤独な魂]

 (真実の仏教を説いておられる先生の書物「とどろき」から載せています)

「涙とともにパンを食べたものでなければ、
人生の味は分からない」
ドイツの詩人・ゲーテの言葉です。
肉親との死別、伴侶との別れ、老いていく体・・・。
年を重ねるごとに涙の数が増えていくのは、
世の習いでしょうか。
底知れぬほど寂しいところが人生のようです。
しかし親鸞聖人の教えに生かされれば、
無限に楽しい人生となることを、皆さんご存じでしょうか。

今回は、
お釈迦さまの有名な
譬え話を通して、
人生の原点を見つめてみたいと想います。

・・・・・・・・・・・・・・・・

今、団塊の世代は「同窓会」がブーム。
会社を定年退職し、
仕事のつきあいもなくなって思い出すのは、
青春をともに過ごした仲間たちのことでしょう。
「彼(彼女)は今、どんな人生を歩んでいるんだろう」
「初恋の人に、もう一度会いたい」
そんな人々の望みをかなえるべく、
幹事役を引き受ける「同窓会ビジネス」
まで登場しました。
久方ぶりの再会は、感慨もひとしおです。
しかしそこには紛れもなく、
数十年の歳月の足跡が刻まれています。
「お互い、年を取ったなぁ」
そう言って苦笑いする参加者たち。
「青春時代が夢なんて、あとからほのぼの思うもの」 
         (森田公一とトップギャラン)
歌の詞にもあるように、
激動の時代を駆け抜けた今、
振り返ると、笑ったのも、涙したのも
夢のようではありませんか。
光陰矢のごとし。
人は老い、やがて死んでいかねばなりません。
そんな人間の、ありのままの姿を
教えられたのが仏教です。

中でも、
「これこそ論じ合う余地のない、
人間の真実の姿だ」
とロシアの文豪トルストイが絶賛したのは、
『仏説譬喩経』に説かれた、ある例え話でした。

●「人間の実相」の譬え話

ある日、お釈迦さまの法話会場に、
一人の王様が参詣しました。
名を勝光王といいます。
初めて仏法を聞く勝光王に、釈尊は、
人間とはどんなものかを、
次のような例えで説かれたのです。

・・・・・・・・・・・・

王よ、それは今から幾億年という昔のことである。
ぼうぼうと草の生い茂った、果てしない広野を、
しかも木枯らしの吹く寂しい秋の夕暮れに、
独りトボトボと歩いていく旅人があった。
ふと旅人は、急ぐ薄暗い野道に、
点々と散らばっている白い物を拾い上げて
旅人は驚いた。
なんとそれは、人間の白骨ではないか。
どうしてこんな所に、
しかも多くの人間の白骨があるのだろうか。
と不気味な不審を抱いて考え込んだ。

そんな旅人に、間もなく前方の闇の中から、
異様なうなり声と足音が聞こえてきた。
闇を透かして見ると、
彼方から飢えに狂った、見るからに獰猛な大虎が、
こちらめがけて、まっしぐらに突進してくるではないか。

旅人は、瞬時に白骨の散らばっている意味を知った。
自分と同じく、この広野を通った旅人たちが、
あの虎に食われていったに違いない。
同時に旅人は自分もまた、
同じ立場にいることを直感した。
驚き恐れた旅人は無我夢中で、
今来た道を全速力で虎から逃げた。

しかし、所詮は虎に人間は、かなわない。
やがて猛虎の吐く、恐ろしい鼻息を身近に感じて、
もうだめだと思った時である。
どう道を迷って走ってきたのか、
道は断崖絶壁で行き詰まっていたのだ。
絶望に暮れた彼は、
幸いにも断崖に生えていた木のもとから
一本の藤蔓が垂れ下がってい
るのを発見した。

旅人は、その藤蔓を伝って
ズルズルズルーと下りたことはいうまでもない。
文字どおり、九死に一生を得た旅人が、
ホッとするやいなや、
せっかくの獲物を逃した猛虎は断崖に立ち、
いかにも無念そうに、ほえ続けている。
「やれやれ、この藤蔓のおかげで助かった。
まずは一安心」
と旅人が足下を見た時である。
旅人は思わず口の中で、「あっ」と叫んだ。
底の知れない深海の怒濤が絶えず
絶壁を洗っているではないか。

それだけではなかった。
波間から三匹の大きな竜が、
真っ赤な口を開け、自分が落ちるのを
待ち受けているのを見たからである。
旅人は、あまりの恐ろしさに、
再び藤蔓を握り締め身震いした。

しかし、やがて旅人は空腹を感じて
周囲に食を探して眺め回した。
その時である。
旅人は、今までのどんな時よりも、
最も恐ろしい光景を見たのである。
藤蔓のもとに、白と黒のネズミが現れ、
藤蔓を交互にかじりながら回っているではないか。
やがて確実に白か黒のネズミに、
藤蔓はかみ切られることは必至である。
絶体絶命の旅人の顔は青ざめ、
歯はガタガタと震えて止まらない。

9994546224_1b77165cb4_o.jpg

だが、それも長くは続かなかった。
それは、この藤蔓のもとに巣を作っていたミツバチが、
甘い五つの密の滴りを彼の口に落としたからである。
旅人は、たちまち現実の恐怖を忘れて、
陶然と蜂蜜に心を奪われてしまったのである。

・・・・・・・・・・・

釈尊がここまで語られると、
勝光王は驚いて、
世尊!その話、もうこれ以上しないでください
と叫びました。
どうしたのか
その旅人は、何とバカな、愚かな人間でしょうか。
旅人がこの先どうなるかと思うと、
恐ろしくて聴いておれません!

王よ、この旅人をそんなに愚かな人間だと思うか。
実はな、この旅人とは、そなたのことなのだ

※世尊とは、お釈迦さまのこと。

えっ!どうしてこの旅人が私なのですか
いや、そなた一人のことではない。
この世のすべての人間が、この愚かな旅人なのだ

釈尊の言葉に、聴衆は驚いて総立ちになりました。

この例え話は、何を教えられているのでしょうか。
今回は、「旅人」と「秋の夕暮れ」について、
お話しましょう。

●幸せ求めての旅路
       ーー旅人

「旅人」とは、私たち人間のことです。
「生きることは 旅すること 終わりのないこの道」
     (秋元 康作詞「川の流れのように」)
こんな美空ひばりの歌を思い出される方もあるでしょう。

EPSON002.jpg-1.jpg


古くから人生は旅に例えられてきました。
一カ所にとどまっていたら旅ではありません。
旅は、どこかへ向かって行くもの。
人生もまた、昨日から今日、
今日から明日へと、どんどん進んで行きます。

様々な人との出会いは、
そんな旅の大きな楽しみの一つです。
「旅は道連れ、世は情け」
しかしまた、
「会うは別れの始め」なり。
最愛の人との別れに、号泣した日もあったでしょう。

ビートルズの名曲「ロング・アンド・ワインディング・ロード」
(長く曲がりくねった道

には、こんな一節があります。
孤独な時も 何度かあった
泣いた夜も 幾夜かあった
きみには 決してわかりはしないけど
人知れず試みた道も 幾つかあった
そうして ぼくが辿り着いた道
それは あの長く曲がりくねった道
          (山本安見・訳)
旅の道中は、晴天の日ばかりとは限りません。
風雪の日もあれば、暴風に見舞われる日、
上り坂もあれば、下り坂もある。
曲がりくねった遠い道で、
途方に暮れたこともありました。
あざなえる縄のごとく、苦楽が交互にやってくる人生は、
旅によく似ています。
「泣いてはいけない。簡単にあきらめてもいけない」
とは、人気韓国ドラマ『チャングムの誓い』の名せりふですが、
自らの心にこう言い聞かせ、何度立ち上がってきたでしょう。
それは一筋に明るい日差しの降り注ぐ、
幸せを求めてのことに違いありません。

EPSON003.jpg-1.jpg

●幸せのゴールはどこ?

ところが、
「この坂を 越えたなら
しあわせが 待っている
そんなことばを 信じて
越えた七坂 四十路坂」
   (星野哲郎作詞「夫婦坂」)
と歌われます。
結婚すれば、お金があれば、
この坂さえ越えたなら幸せがつかめるのだと、
必至に目の前の坂を上ってみると、

そこにはさらなる急坂が、
「こんなはずでは・・・」
何度、驚き、悲しんだことでしょうか。

“ここまで来てよかった”の満足がなければ、
歩いた苦労は報われないように、
“生きてよかった”の生命の歓喜がなければ、
苦しむために生きているようなものでしょう。

人生は、決して、「終わりなき道」ではありません。
まして死ぬまで重荷を下ろせぬ悲劇などとは、
とんでもない。

真の人生のゴールを知ってこそ、
人間に生まれた喜びを心の底から味わえるのです。

「生きてよかった!」
と喜べる人生のゴールはどこにあるのか。
その解答が仏教なのです。

●やってくる黄昏の人生
      秋の夕暮れ

旅人が歩いていたのは、木枯らしの吹く、
秋の夕暮れでした。

日本ほど春夏秋冬鮮やかな四季のある国は
珍しいといわれます。
秋は、どことなく悲しい季節。
草木は枯れ、生命が大地に返る季節だからでしょう。
そんな秋の夕暮れに、
人生の寂しさが例えられています。

かつての幸せの象徴だった団地の一室で、
ひっそりと息を引き取り、
2、3ヶ月もたって発見される「孤独死」
が増えています。
しかも、その半数近くは、
65歳未満の中高年男性だといわれます。
死亡したある男性の机の上には、
ハローワークから取り寄せた20枚の求人票と、
負けても負けても走り続けた競走馬・ハルウララの馬券が
置かれていました。
「生まれる時は、みんなに祝福されて生まれてきて、
何がどうなって、だれにも見取られず独り亡くなったのか」
葬儀を終え、住人の一人がつぶやきました。

生きる気力を失い、部屋に閉じこもって
近所付き合いしない中高年者には、
複雑な事情を抱えた人も少なくありません。
過日も、次のような話を聞きました。

その男性は、72歳。45年間連れ添った妻に、
昨年の春、先立たれ、独り身となったそうです。
仕事を探し始めたものの、
高齢の彼を採用してくれる会社はありませんでした。
18年にわたる妻の介護もなくなり、
仕事も見つからないまま、
男性は町の公共浴場に足を向けました。
そこで一風呂浴び、広間のカラオケで、
生前、妻とよく歌った懐メロを歌うことに
楽しみを見つけたのです。
毎週、通っていると、顔見知りもでき、
弁当を分け合いながらの身の上話をするうち、
彼の話に涙を流してくれる人がいました。
男性も相手の話に涙することがあるといいます。
広間は歌と笑いと涙で大賑わい。
100歳のご老人とも友達になりました。
“皆と過ごすうちに、だれもが、
内に寂しく悲しい思いを秘めていることが分かった。
私一人ではないと知って、
少しだけ心に晴れ間が見えたよ”

その男性は、そう語ったといいます。

歌と笑いに交じる涙。
「心に晴れ間が見えた」と言っても、
それは瞬く間に暗雲立ち込める冬空と一緒で、
つかの間のことに違いありません。

●独りぼっちの旅

なぜ、人生はこうも寂しいのでしょうか。
その理由を釈尊は、
「独りぼっちだから」
と経典に、
「独生独死(独り生まれ、独り死し)
 独去独来(独り去り、独り来る)」
と説かれています。

人の一生は、初めから終わりまで、
連れがない独りぼっちの旅なのです。

そんなことはない。私には家族も、兄弟も、
友人もたくさんいると思われる方もあるでしょう。
しかし、多くの人に囲まれていても、
自分の心を本当に分かってくれる人は、
果たしているのでしょうか。

「親の心、子知らず」といわれます。
しかし、子の心も親分からずで、子供が何を考えているのか
分からないと悩むお母さん、お父さんが少なくありません。
血を分けた親子でさえ、分かり合えないお互いの心。
まして、元は他人の夫婦なら、なおさらかもしれません。

「永遠の愛」を誓った2人でも、擦れ違いだらけ。
一緒に映画を見た帰り道。
「この感動を分かち合いたい!」と思ったのに、
「それより、飯は?」と肩透かし。
安らぎを求めて一緒になったはずが、
分かり合えない寂しさは日ごとにつのり、
やがてあきらめに変わるのに、
それほど時間はかかりません。

やがて、子供たちが独り立ちしたある日、
「私も主婦を退職させてもらうことにしました」と、
ツッと差し出される一枚の紙切れ。
「分かってくれるはず」の思惑が外れたショックと、
自分だって妻のことを少しも分かっていなかったと
自責の念に駆られても、後の祭り。
こんな熟年離婚のケースが少なくありません。

●私一人がための本願

人は皆、一人一人それぞれの世界に生きています。
自分にさえ知りえぬ、秘密の蔵のような心があると
仏教では説かれています。

どんなに仲が良く、一緒に暮らしている親子、夫婦であっても、
お互いの心はかいま見ることも、
うかがい知ることもできません。
しかも心の奥底には、とても言えない、
言っても分かってもらえないものを抱えています。

もし知られたら、「そんなこと思っていたのか」
と相手は驚き、あきれ、
二度と口をきいてもらえないものを持っています。

「ある人には、何でも言える」というのは、
言える程度までならば、何でも言えるということです。
この悩み、苦しみのすべてを、
だれかに完全に理解してもらえたならば、
どれほど救われるかしれません。
しかし、それはかなわないのです。
肉体の連れはあっても、魂の連れがない。
だから人生は、底知れぬほど寂しいのです。

EPSON004.jpg-1.jpg


そんな私の、孤独な魂を救ってくださるのは、
大宇宙広しといえども、
本師本仏の阿弥陀仏しかおられません。

弥陀の本願に救い摂られ、
底知れぬ孤独地獄から解放された親鸞聖人は、
「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、
ひとえに親鸞一人(いちにん)が為なり」
            (歎異抄)
“親鸞一人を救わんがための、弥陀の本願であったのか”
と感泣なされています。


弥陀の本願とは何でしょうか。
大慈大悲の阿弥陀仏のお約束のことです。
阿弥陀仏は、私のすべてを見通されて、
「苦しみ悩むすべての人を、
必ず、摂取不捨の幸福に助ける」
と約束なされています。

「摂取不捨」とは、文字どおり、“摂め取って捨てぬ”こと。
弥陀は、私たちを、ガチッと摂め取って、
絶対捨てられぬ幸福にしてみせる、
と誓われているのです。

果てしない遠い過去からさまよい続けてきた、
孤独で不安な魂が、その弥陀の誓いどおり、
大安心、大満足の心に生まれる時があるのです。

●大悲の願船の風光

弥陀の本願に救い摂られた法悦を、
聖人は海と船に例えて、こうも述べられています。

大悲の願船に乗じて、光明の広海に浮かびぬれば、
至徳の風静に、衆禍の波転ず

             (教行信証)
大悲の願船に乗って見る人生の苦界は、
千波万波きらめく明るい広海ではないか。
順風に帆をあげる航海のように、
生きるとは何と素晴らしいことなのか”

これはまさしく聖人の、
キラキラ輝く乗船記といえましょう。

「大悲の願船に乗じて」とは、
「弥陀の誓いどおり、摂取不捨の幸福になった」
晴れやかな宣言です。
弥陀の救いは、決して曖昧なものではないのです。
暗い人生が、明るく転じた慶喜を、
「光明の広海に浮かびぬれば」と言われています。
「闇」に泣いた人だけに「光」に遇った笑いがあり、
「沈んで」いた人にのみ「浮かんだ」という歓喜があります。
「至徳の風静に」とは、
最高無上の功徳・南無阿弥陀仏と一体になった、
至福の世界のこと。
「衆禍の波転ず」とは、
ロクな因まき(たねまき)してこなかった親鸞だから、
因果の道理に狂いなく
不幸や災難の禍いはいろいろ押しかけてくるが、
それらが南無阿弥陀仏のお力で転悪成善、
ご恩喜ぶ因(たね)となるから不思議である。
かくて、順境でよし、逆境でよし。

これを、「仏凡一体」ともいいます。
仏凡一体とは、仏心凡心一体の略で、
仏心とは、阿弥陀仏の大慈悲心、南無阿弥陀仏のこと。
凡心とは私の心です。
一体とは、ちょうど炭に火がついて、どこまでが炭で、
どこまでが火か分けられない状態をいいます。
炭のように黒く冷たい私の心に、
火のように清浄で暖かい
阿弥陀仏の大慈悲心が徹底すると、
“仏離れて私なし。
仏凡一体と、燃え上がるのです。”

蓮如上人はこれを、
「仏心と凡心と一つになるところをさして
信心獲得の行者とはいうなり」    (御文章)
と教えられています。

いつでもどこでも、
限りなく温かい弥陀の大悲に包まれて、
安心一杯、満足一杯、
人生の醍醐味を心行くまで味わうことができるのです。

この広大な世界に生かされるまで、
本当の仏教を、聞き抜かせていただきましょう。

(本当の仏教を聞き抜くとは、生きている元気なときに、弥陀に救われること)

EPSON005.jpg-1.jpg


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

体験手記
(底の知れぬ孤独な心で生きてきたという
林愛(りんあい)さんが、
台湾から手記を寄せてくださいました。
寂しい心の解決を求める林さんが、
心引かれたのは仏法でした。)

●この寂しい心を
   抱きしめて

「独生独死 独去独来」
お釈迦さまのお言葉が胸に響きます。
振り返れば、親鸞聖人のみ教えに出遇うまでの人生は、
「独り来て、独り去る」という
私たちの実相をわからせるための
ご方便と思わずにおれません。

私が生まれたのは台南(たいなん)という古い都です。
生まれてすぐに養父母にもらわれていった私は、
5歳で台北(たいぺい)へ引越し、
実の親とはその時が最後となったのです。
12歳の時、養母が亡くなり、
しばらくしてかわいがってくれた祖母も亡くなりました。
「死んだらどうなるのか」と思うと未来がハッキリせず、
不安で一杯になります。
何とも言えない、底知れぬ寂しい心があるのに
気づきました。
今思えば、私の寂しさは死に対する恐怖から
来ていたのだと分かります。

しかし、解決の道を教えてくれる人もなく、
漠然と生きるしかありません。
「実の親に会えば安心できるのでは」
と、台南を訪ねたこともありますが、
両親はすでに亡くなっており、
兄弟たちの冷たい態度にますます孤独感が深まりました。
日本語が分かる私は、日本の『釈迦』という映画を見て、
「仏教を聞けば、この不安が解決できるのではないか。
学んでみたい」
と思ったこともあります。
でも、台湾仏教はただ拝むだけで、
教えを説く人に出会うことはありませんでした。

そんな私が、何の不思議か、真実の仏法、
浄土真宗のみ教えに出遇い、『とどろき』を知ったのです。

大慈大悲の阿弥陀如来が摂取不捨と誓っておられる。
続けて聞かせていただくにつれ、
「この教えこそ、私の孤独な魂を助けてくださる」
と確信いたしました。
たった一人で泣き続けてきた孤独な魂を、
阿弥陀如来に抱き締めていただくまで、
求めさせていただきます。


 


nice!(81)  トラックバック(0) 
共通テーマ:ネットコミュニティ

阿弥陀仏は我々を救うためにどれほどのご苦労をなされたのか! [仏願の生起本末]

 今回の記事は阿弥陀仏が、死ねば地獄しか行き場のない我々を救うために、
どれほどのご苦労なされたのかについて書かれたものです。
生きている今、阿弥陀仏に救われれば、
この記事に書かれてあること全てが作り話ではなく、
真実であることが知らされるのです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(ここからは真実の仏教を説かれている先生ご執筆の「とどろき」より載せています)

法蔵菩薩因位時(法蔵菩薩因位の時、)
在世自在王仏所(世自在王仏の所に在して、)
覩見諸仏浄土因(諸仏浄土の因、)
国土人天之善悪(国土・人天の善悪を覩見して、)
建立無上殊勝願(無上殊勝の願を建立し、)
超発希有大弘誓(希有の大弘誓を超発せり、)
五劫思惟之摂受(五劫に之を思惟して摂受す)

『正信偈』冒頭に、
「帰命無量寿仏如来 南無不可思議光」
「親鸞、弥陀に救われたぞ、弥陀に助けられたぞ」
と高らかに叫ばれている聖人に、
「どうすれば親鸞さまと同じく、
弥陀の救いに遇えるのですか」
とお尋ねすると、

「仏法は聴聞に極まる」
“聞く一つで救われるのだ”
と教示されています。
「では、何を、どのように聞けばよいのですか」
と問う私たちに、聖人は、

「聞」と言うは、衆生、仏願の生起・本末を聞きて
疑心有ること無し。これを「聞」と曰うなり
             (教行信証信巻)

「仏願の生起・本末」を、
「疑心有ること無し」と「聞く」のだ、
と明言されています。

「仏願」とは、本師本仏の阿弥陀仏が
建立されたご本願のこと。
「本願」とは「誓願」ともいわれ、「約束」のことですから、
「仏願の生起本末」とは、
「阿弥陀仏は、どんな者のために、
どのようなお約束をされているのか。
それを果たすために、どのようなご苦労をなされ、
結果はどうなったのか。
その初めから終わりまですべて」
ということです。

「物に本末あり、事に始終あり」といわれます。
物事には、始めがあって、終わりがある。
その一部始終を聞いて初めて、
正しく理解することができるのです。
始めだけ、終わりだけ、あるいは途中だけ聞いたのでは、
真意を知り損ねてしまうでしょう。

・・・・・・・・・・・・・・・
中秋の名月、4、5人の町の俳人たちが、
発句の会を開いていた。
そこへ一人の旅人が通りかかったので、
“これこれ旅の衆、今宵は名月、
月見の題で発句の会を開いているんだが、
そなたも一句詠んでみなさらんか”
と呼びかける。

快く応じて旅の男は、
“三日月の”と上の五文字を書くと、
“これこれ旅の人、今宵はあのとおり中秋の満月ですぞ。
三日月とは寝とぼけていられるのではござらんか”
と、腹を抱えて一同が笑う。

だが次に、男が黙ってしたためた、
“頃より待ちし、今宵かな”
の名句に一同あっと驚く。
最後に小さく芭蕉と書き入れたのを見て
みんな深く恥じ入り、
心から前非(ぜんぴ)を謝したという。

EPSON188.jpg-1.jpg

・・・・・・・・・・・・・・・
俳句のことなら恥をかくだけでしょうが、
阿弥陀仏の本願を聞き誤ったならば、
未来永劫、取り返しのつかない一大事。

だから親鸞聖人は、その「仏願の生起本末」を、
次に、

法蔵菩薩因位時(法蔵菩薩因位の時、)
在世自在王仏所(世自在王仏の所に在して、)
覩見諸仏浄土因(諸仏浄土の因、)
国土人天之善悪(国土・人天の善悪を覩見して、)
建立無上殊勝願(無上殊勝の願を建立し、)
超発希有大弘誓(希有の大弘誓を超発せり、)
五劫思惟之摂受(五劫に之を思惟して摂受す)

と、懇切に教えておられるのです。

無論これは聖人の独創ではなく、
お釈迦さまが『大無量寿経』に説かれていることです。

大略を分かりやすい現代の表現で述べてみましょう。

仏願はどのように起こされたのか

「今を去ること量り知れぬ久遠の昔に、
世自在王仏という仏さまがましました。
時に一人の国王であって、
世自在王仏の説法を聞いて深く喜び、
なんとかして苦悩の十方衆生(すべての人)を救いたい、
の願いを起こし、国も王位もなげうっての出家の身となり、
法蔵と名乗られた。

EPSON189.jpg-1.jpg
(このことを親鸞聖人は『正信偈』に、
「法蔵菩薩因位時(法蔵菩薩因位の時、)
在世自在王仏所(世自在王仏の所に在して、)」
とおっしゃっています。

「因の位」とは、「果の位」である仏覚を求めて、
努力精進の因(たね)まきをしている、菩薩の位のこと

才知秀れ志願堅く、はるかに常人を超えていた、
その法蔵菩薩が、世自在王仏のみ元に至り、
地にひざまずき、恭しく(うやうやしく)合掌礼拝して、
『師の仏よ、苦しみ悩むすべての人を見ていると、
私はじっとしておれません。
どうか私に、助けさせてください』

『法蔵、そなたの気持ちは尊いが、あの者らは煩悩にまみれ、
あまりにも罪が深く、大宇宙のすべての仏方が、
とても助けることはできないと見捨てた極悪人なのだよ。
それを知ってのことか』
『それはよーく存じております。
だからこそ、私に助けさせていただきたいのです。
どうぞ、私の為に広く教えをお説きくださいませ。
私は、それによって修行して、最もすぐれた浄土を荘厳し、
迷いの衆生の悩みの元を除きたいのです』
と申されると、世自在王仏は、法蔵の願いが実に尊く、
並々ならぬものであると見そなわして、
『法蔵よ。大海の水を枡で汲み取り、
幾劫とも知れぬながい間それを続け、
ついには底まで汲み干して、
海底の珍しい宝を手に入れることができようか。
罪悪深重・煩悩熾盛(ぼんのうしじょう)の
すべての人を助けることは、それよりも難しいことなのだ。
そなたは、それでもやろうとするのか』

EPSON190.jpg-1.jpg
『私が諦めたら、全人類はこの世も未来も、
苦から苦の綱渡り、永劫の苦患に沈まねばなりません。
なんとしても助けさせていただきたいのです』
法蔵菩薩の固い決意に、世自在王仏はようやく、
『真心込めて、一心不乱に道を求めてやまないなら、
必ずその目的を果たし遂げ、
いかなる願いでも成就せぬことはないであろう』
と仰せられ、広く二百十一億の諸仏の浄土の優劣と、
そこに住んでいる人々の善悪を説き、
法蔵菩薩の望みどおり、
それらのすべて目の当たりにお見せになったのである。
法蔵菩薩は、それを親しく拝見して、
この上もなく秀れた願いを起こされた。
その心は極めて静かに、その志は少しの執着もなく、
世の中で、これに及ぶものがないという清らかな有り様で、
五劫の長い間、思惟を巡らして、
浄土を荘厳する清浄の行を選び取られたのである。

(かくて法蔵菩薩が、
二百十一億の諸仏の浄土の秀れたところと、
その清浄の行を選び取られたことを、
親鸞聖人は、
「覩見諸仏浄土因(諸仏浄土の因、)
国土人天之善悪(国土・人天の善悪を覩見して、)」
とおおせられています。

「覩見して」とは、「徹底的に調査して」ということ。
例えて言うと、家を新築しようとする時に、
色々の家を見て回り、全体の間取りや玄関、
台所やトイレの使い勝手はどうか、
などをよくよく調査するでしょう。
そして相応しく(ふさわしく)ないところは採用せず、
善いところは取り入れて、
最高の家を造ろうとするようなものです)

そこで法蔵菩薩は、世自在王仏に向かって、
『では師の仏よ、どうか、お聞きくださいませ、
これから私の願いをつぶさに申し述べましょう』
と言って、四十八願を述べられる。
そのうちの十八願を根本の誓願として、
限りなき長年月(永劫)にわたる修行を続け、
ついに十方衆生を絶対の幸福に救い摂る
妙薬・南無阿弥陀仏の六字の名号を成就され、
仏と成られた。

それが阿弥陀仏であって、その住せられる世界を極楽浄土という。
ここを去ること西方十万億の世界を過ぎた所にあり、
今もなお、その浄土にましまして説法していられる。
成仏せられてからおよそ十劫を経ている。
その浄土は善美を尽くし、
憂悲苦悩(ゆうひくのう)のけがれなき理想の国土である」
と述べられています。

●弥陀五劫の思惟は、だれのため?

このように、阿弥陀仏は、私たちすべてを救わんがために、
法蔵菩薩という因の位の姿となって、
五劫の間思惟し、無上の本願を建立せられたのです。

これを親鸞聖人は、『正信偈』に、
「建立無上殊勝願(無上殊勝の願を建立し、)
超発希有大弘誓(希有の大弘誓を超発せり、)
五劫思惟之摂受(五劫に之を思惟して摂受す)」
とおっしゃっています。
このような素晴らしい願いは、大宇宙に二つとありませんから、
「無上殊勝の願」と言われ、
「希有の大弘誓」と称讃されているのです。

では、このような長期間にわたって
思案せられねばならなかった法蔵菩薩のお目当ては、
どんな人なのでしょうか。


何のためにこの世に生まれてきたのか、
サッパリ分からず、ただ生きるために、毎日、
食て寝て起きての繰り返しで、やがて年老い、
体も動かなくなり、ああ、こんなものが人生なのかと嘆いている。
幸い仏法を聞く縁に恵まれても、
晴れたも曇ったも分からず、
「死にさえすれば極楽じゃろう」
他人事のように聞いているときは助かるような気がするが、
家へ帰れば元の木阿弥だから、
「こんな心ではなァ」と首をかしげて思案する。
「いやいや、こんな根性をそのまま助けるとおっしゃるのだから」
「どうせ凡夫だ。これくらいは許してもらえよう」
と独り決めしてみるけれども、
心の底から満足できない。
なぜ喜べないのだろうかと腹底をのぞいてみれば、
キョロン、トロン、ボーとした心しか見当たらない。
ただ食いたい飲みたい楽がしたい、
ねむたいの根性しか出てこない。
善いほうには尻込みするが、悪のほうへはダダ走りする根性、
「こんな奴が本当に助かることがあるのじゃろうか」
と聞けども聞けども分からない、分かったようでも分からない。
困ったようで困らず、
泣くほど困ってもいないが聞かずにいては気が済まない。
こんな奴がいるとは知らなんだ。
難治の三病(なんちのさんびょう)とはこのことか、
難化の三機(なんげのさんき)とはこの悪性かと、
打てど叩けど返事のしない、この悪性こそ、
法蔵菩薩の思惟をして五劫の長きにわたらせたのです。
何とかこの逆謗の屍を、
絶対の幸福に生き返らせねばならないぞ、
後生の一大事、必ず平生に助けてみせる、
それにはどうすれば、の法蔵菩薩の願心が、
ついに五劫の思惟となってあらわれたのであります。

法然上人は『選択本願念仏集』の中に、
法蔵菩薩は世自在王仏のみもとにあって諸仏の国土をみ、
その救済の方法をしらべたもうに、
或は布施を勧むるもの、
或は戒律を持たすむるもの、
或は禅定を勧むるもの、
或は智慧を勧むるもの、
或は持経すること、
或は寺塔を起立すること、
或は沙門に供養すること、
或は父母に孝養すること、
或は師長に奉持すること、
こうした色々の善根と
いろいろの功徳とを規定されてあるけれども、
かかる諸行が規定せらるる時は
到底すべての人々が救われることができない。
そこで一切の善悪の凡夫が、
受けとる一つで救われる名号を成就し、
これを廻向することを誓い、
この名号を受け取る者はすべて救われることを約束せられた

と、五劫思惟の有り様を詳しく述べられ、
お経を念誦せらるる時に、
いつもこの五劫思惟の文に感泣せられたという。

ある時お弟子がそれをいぶかしく思って尋ねてみると、
この愚痴の法然房・十悪の法然を助けんがために、
五劫の間思惟してくだされたと思えば、
弥陀のお慈悲の程が身に沁みて涙がこぼれる

と仰せられたといいます。

11431335303_a594ac5ba4_o.jpg



親鸞聖人は『歎異抄』に、
弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、
ひとえに親鸞一人が為なりけり、
されば若干(そくばく)の業をもちける身にてありけるを、
助けんと思召したちける本願のかたじけなさよ

「弥陀が五劫という永い間、
熟慮に熟慮を重ねてお誓いなされた本願を、
よくよく思い知らされれば、
まったく親鸞一人(いちにん)を助けんがためだったのだ。
こんな量りしれぬ悪業を持った親鸞を、
助けんと奮い立ってくだされた本願の、
なんと有り難くかたじけないことなのか

と感泣なされ、

蓮如上人も『御一代記聞書』に、
思案の頂上と申すべきは、
弥陀如来の五劫思惟の本願に過ぎたることはなし。
この御思案の道理に同心せば仏になるべし

と讃嘆なされています。

このような話を聞いても、ご文を拝読しても、
始めはピンと来ず、誰のことかいな、何のことかいなと
荒唐無稽なおとぎ話のように思えるかもしれません。
しかし、この五劫の思惟が自己の体験を通して、
そのまま事実となって生きてこなければ、
阿弥陀仏のご苦労は水泡に帰するのです。

この「仏願の生起本末」に、
「疑心有ること無し」と晴れ渡るまで聞き抜けよ、
必ず晴れて絶対の幸福になれるぞ、
と親鸞聖人が訴えておられる、『正信偈』のお言葉です。


 


nice!(112)  トラックバック(0) 
共通テーマ:資格・学び

弥勒お先ごめん! [南無阿弥陀仏]

(真実の仏教を説かれている先生の書かれた「とどろき」から載せています)

本願名号正定業(本願の名号は正定の業なり)
至心信楽願為因(至心信楽の願を因と為す)
            (親鸞聖人・正信偈)


前回は、「本願名号正定業」の
一行についてお話いたしました。
これは、
「本願の名号は正定の業なり」と読みます。
「本願」とは「阿弥陀仏の本願」、
「名号」とは「南無阿弥陀仏」の六字のことです。
「正定」は「正定聚」の略で、
今日の言葉で言えば「絶対の幸福」のことですから、
本師本仏の阿弥陀仏が、本願に基づいて作られた
『南無阿弥陀仏』の名号には、
すべての人を絶対の幸福に救う働きがあるのだ

といわれている、親鸞聖人のお言葉です。

EPSON024.jpg-1.jpg


例えて言うと、
「阿弥陀仏の本願」とは、苦悩の人生の海を
明るく楽しく渡す船の“設計図”であり、
「名号」は、その“設計図”どおりに造られた「大船」である、
ということです。

「名号」の働きについて、今回も学びましょう。

EPSON025.jpg-1.jpg

正定聚(しょうじょうじゅ)とは

「正定聚」を、一言で「絶対の幸福」と言いましたが、
詳しく述べたいと思います。
「正定聚」とは、さとりの位をいうのです。
「さとり」といっても、低いさとりから高いさとりまで
全部で五十二の位があり、
これを仏教で「さとりの五十二位」といわれます。

EPSON025.jpg-2.jpg


ちょうど相撲取りにも、下はフンドシ担ぎから
上は大関・横綱までいろいろな位があるようなものです。
五十二位のさとりには、それぞれ名前がついており、
中でも最高のさとりの位を
「仏覚」(仏のさとり)といわれるのです。

これ以上のさとりはないから、
「無上覚」ともいわれます。

さとりが一段違えば、人間と虫けらほどの
境涯の差があるといわれるのですから、
五十二段の仏覚が、
いかに崇高で想像も及ばぬ境地であるか、
お分かりになるでしょう。

その最高無上の仏覚まで到達された方のみを、
「仏」とか「仏さま」といわれるのであって、
死んだ人を「仏」というのは大変な間違いです。

今日まで、この仏覚を開かれ「仏」となられた方は、
地球上ではお釈迦さま以外にはありません。
これを「釈迦の前に仏なし、釈迦の後に仏なし」
と言われます。

中国で天台宗を開いた天台も、
「九段目までしか覚れなかった」と
臨終に告白していますし、
また、壁に向かっ9年間(面壁九年)、
手足腐るまで修行し禅宗を開いた達磨大師でも、
三十段そこそこであったと言われます。

仏の覚りを開くことが、いかの大変なことかが
分かります。

「正定聚」とは、その仏に間違いなく(正しく)なれると
定まった人たちのことであり、
五十一段のさとりの位をいうのです。

絶対に崩れない位ですから、
「正定聚不退転」とも言われます。

「不退転」とは、後戻りしない、壊れない幸せ、
ということで、今日の言葉で「絶対の幸福」と言えましょう。

“必ず浄土へ往って仏になれる”大満足であり、
何ものも往生のさわりとならない「無碍の一道」(歎異抄)であり、
「人間に生まれてよかった」という生命の大歓喜なのです。

EPSON026.jpg-1.jpg


阿弥陀仏が、兆載永劫のご苦労によって完成なされた
「南無阿弥陀仏」の六字には、
どんな極悪人も、この「正定聚不退」の絶対の幸福に
救い摂る働きがある
ことを、
親鸞聖人は『正信偈』に、
「本願の名号は正定の業なり」
と絶賛されているのです。

同じく『正信偈』に「功徳の大宝海」(功徳の大きな宝の海)
とも言われています。
多くの人が「これは宝だ」と大事にしているものは、
どんなものでしょうか。
代々伝わる壷とか掛け軸、土地や家財道具などでしょう。
中には鑑定士から何千万と評価された
「お宝」もあるかもしれません。
「国宝」に指定された仏像や建造物、
「世界遺産」登録の文化や自然を誰もが大切にするでしょう。

EPSON027.jpg-1.jpg
しかし悲しいかな、これらの宝は、
どんなに厳重に管理し維持しようと努めても、
火事で焼けたり、洪水で流されたり、
盗まれたりする不安が絶えず、やがて必ず朽ち果てる、
一時的なものではないでしょうか。

「佐賀の会社役員、庭に埋めた3億6000万円盗まれる」
という見出しで、こんな記事がありました。

会社役員の80代の男性が、安全のために、
佐賀県にある自宅の庭に埋めていた
現金3億6000万円が盗まれていたことが明らかになった。
(中略)前年10月に盗難にあっていることに
気づいたという。
男性はその2ヶ月後に死亡している。(中略)
40年間にわたって、現金を容器に入れては
自宅の庭に埋めることを繰り返していたという。
男性は、銀行の金利が低いことから
手元に置いておく方がよいと考え、
さらに火事や地震の被害を避けるために
庭に埋めていたという。

なんともったいない、とも思いますが、
考えてみれば、たとえ盗まれなかったとしても、
後生へは一円も持っていけない。
この世の宝は、すべて置いていかねばなりません。

ところが、「南無阿弥陀仏」の宝は、
焼けもせず、流されも、盗まれもしない、
未来永遠の幸福にする、もの凄い働きがあるから、
親鸞聖人は「功徳の大宝海」と讃嘆されているのです。


蓮如上人も『御文章』に、
分かりやすく解説されています。

それ「南無阿弥陀仏」と申す文字は、
その数わずかに六字なれば、
さのみ功能のあるべきとも覚えざるに、
この六字の名号の中には、
無上甚深の功徳利益の広大なること、
更にその極まりなきものなり

「『南無阿弥陀仏』といえば、わずかに六字だから、
それほど凄い力があるとは誰も思えないだろう。
だが、この六字の中には、私たちを最高無上の
幸せにする絶大な働きがあるのだ。
その広くて大きなことは、
天の際限のないようなものである」

まことだった!ホントだった!

この不可称・不可説・不可思議の大功徳(南無阿弥陀仏)を、
親鸞聖人ご自身が一念で弥陀から丸もらいされて(仏智全領)、
「正定聚」の身に救い摂られた歓喜を、
『教行信証』にこう告白されています。

真に知んぬ。弥勒大士は、等覚の金剛心を窮めるが故に、
龍華三会の暁、当に無上覚位を極むべし。
念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、
臨終一念の夕、大般涅槃を超証す

初めに「真に知んぬ」と言われているのは、
「親鸞、ハッキリ知らされた」という確信です。
「たぶんこうだろう」という曖昧な憶測でもなければ、
「私はこう思う」などという想像でもありません。
体験して知らされたことを、
「まことであった、本当であった」
と高らかに叫ばれているのが、
聖人の「真知(真に知んぬ)」です。
「あまりにも明らかに知らされた」驚嘆の叫びなのです。
では、どんなことが「ハッキリ知らされた」と
おっしゃっているのでしょうか。
「弥勒大士」とは、有名な弥勒菩薩のこと。
「菩薩」とは、仏のさとりに向かって修行中の人のことです。
いろいろな位の菩薩がある中で、
弥勒菩薩は、仏のさとりにもっとも近い等覚(51段のさとり)
を開いていること
を、
「弥勒大士は、等覚の金剛心をきわむるがゆえに」
と言われています。
あの面壁九年の達磨でも、30段そこそこであったのですから、
51段のさとりを開いている弥勒が、
いかに勝れた菩薩であるか、お分かりになるでしょう。
その等覚の弥勒菩薩は、
「龍華三会の暁、当に無上覚位をきわむべし」
“56億7000万年後に、仏のさとりを開く”

と聖人が言われているのは、
お釈迦さまがお経の中に、
「この釈迦の次に、地球上で仏のさとりを開くのは弥勒である。
それは、56億7000万年後のことである」
と説かれているからです。

その弥勒菩薩と比較して、
「念仏の衆生は、横超の金剛心をきわむるがゆえに、
臨終一念の夕(ゆうべ)、大般涅槃を超証す」
と宣言されています。

「念仏の衆生」とは、阿弥陀仏に救われた人のことであり、
聖人自らのことです。

「横超の金剛心」とは、「正定聚」のこと。
絶対壊れない幸福ですから、金剛心
(ダイヤモンドのように硬い、不変の信心)
と言われています。
あの弥勒菩薩は、気の遠くなるような
長期間の自力修行によって、
さとりの位を一段一段上り、
ようやく51段まで到達したけれども、
「念仏の衆生」の親鸞は、
「南無阿弥陀仏」の働きによって、
一念で51段を高飛びさせられ
「正定聚」の身に救い摂られたのだ

という大自覚を、
「横超の金剛心をきわむるがゆえに」
と告白され、
「臨終一念の夕、大般涅槃を超証す」
“一息切れると同時に、
阿弥陀仏と同じ仏のさとりを開くことができるのだ”
と明言されているのです。

本当にそうだったなぁ!
あの弥勒菩薩と、今、同格になれたのだ。
まったく弥陀の名号不思議によってのほかはない。
しかもだ。
弥勒は56億7000万年後でなければ、
仏のさとりを得られぬというのに、親鸞は、
今生終わると同時に浄土へ往って、
仏のさとりが得られるのだ。
こんな不思議な幸せが、どこにあろうか

この世から未来永遠に救い摂る、
名号六字の働きを真知させられた聖人の、
大慶喜なのです。

救われたらハッキリする

ここで親鸞聖人の言われている「真知(真に知んぬ)と、
一般に使われる「信じる」との違いについて、
よく知っていただきたいと思います。

実は、「信じる」のは「疑い」があるからです。
「ん?そりゃどういうことだ。
『信じる』とは、『疑っていない』ことだろう」
と、常識的には思われるでしょう。

ですが、ちょっと考えてみれば分かるように、
疑う余地の全くないことなら、
「信じる」必要はありませんし、
「信じている」とも言いません。
「知っている」といいます。

例えば、ひどい火傷をしたことのある人なら、
火は熱いものだと「知っている」というでしょう。
火は熱いと「信じている」とは言いません。
そのように言う人は、まだ火に触ったことがなく、
想像や憶測で語っている人です。
「あなたの永遠の愛を、信じているわ」
「あの子はまだどこかで生きてくれていると、
信じている」
「今度こそ合格、と信じる」
いずれも、ハッキリしない不安をかき消すために、
疑いを抑えつけ信じ込もうとする努力ではないでしょうか。

EPSON028.jpg1.jpg


親鸞聖人の「真に知んぬ」の告白は、
それらの「信じる」とは全く異なります。
「南無阿弥陀仏は尊いそうな」という想像でもなければ、
「お念仏さえ称えていれば、
阿弥陀さまは極楽へ連れて行ってくださるだろう」
と夢みる信仰でもない。
身も心も「南無阿弥陀仏」と一体となって、
「正定聚」の身に救い摂られた聖人が、
「まことであった、本当だった、ウソではなかった」
と、本願に露チリほどの疑心もなく晴れ渡った、
実体験なのです。

蓮如上人も『御文章』に、
「その位を『一念発起・入正定之聚』とも釈し」
「今こそ明らかに知られたり」
「この大功徳を一念に弥陀をたのみ申す我等衆生に
廻向しまします故に、
過去・未来・現在の三世の業障一時に罪消えて、
正定聚の位また等正覚の位なんどに定まるものなり」
「うれしさを昔は袖につつみけり、
今宵は身にもあまりぬるかな」
とおっしゃっているのも、
「南無阿弥陀仏」を頂いた一念に、
絶対の幸福に救い摂られた歓喜の発露です。

ところが、「弥陀に救われても、
そんなにハッキリするものではない」
と嘯(うそぶ)いている人が少なくありません。

一念で51段を高飛びさせられて、
この世は弥勒と同格、死ねば「弥勒お先ごめん」
と仏覚を開く身になった人が、
「その自覚がない」ということがありえるでしょうか。

何兆円どころでない大宇宙の宝を丸もらいして、
永遠の幸福に救い摂られたのに、
それが「自分には分からない」ということが、
考えられるでしょうか。
「救われても、ハッキリするものではない」と言うのは、
「正定聚」とはどんなことかも、
「南無阿弥陀仏」の偉大な働きも、
知られていないだけなのです。

どうして、そんな働きが

「本願名号正定業」(本願の名号は正定の業なり)
と言われている御心の一端を、解説してきました。
では、どうしてそんな凄い力が名号にはあるのかというと、
その理由を次に、
「至心信楽願為因(至心信楽の願を因と為す)
と開示されています。

「至心信楽の願」とは、
“すべての人を必ず信楽(正定聚)に救う”
と誓われている「阿弥陀仏の本願」のこと。

その「至心信楽の願」を因として造られた結果が
「南無阿弥陀仏」だから、この六字の名号には、
私たちを「正定聚」にする働きがあるのだよ
と、
親鸞聖人は朝晩の勤行(おつとめ)で、
本願名号正定業(本願の名号は正定の業なり)
至心信楽願為因(至心信楽の願を因と為す)
と教えられているのです。


nice!(81)  トラックバック(0) 
共通テーマ:資格・学び

南無阿弥陀仏って何だろう? [南無阿弥陀仏]

 (真実の仏教を説いておられる先生の書「とどろき」より載せています。)

「南無阿弥陀仏」って何だろう?

Q1.念仏とは何ですか?

Q2.「南無阿弥陀仏」って何ですか?

Q3.「南無阿弥陀仏」はどなたが、何のために、
   創られたのですか?

Q4.「南無阿弥陀仏」を頂いたら、どうなるのでしょうか

Q5.どうすればいただけるのでしょうか

Q6.どのように聞けばよいのでしょうか?

親鸞聖人といえば
「念仏」(南無阿弥陀仏と称えること)を
連想する人が多いでしょう。
「お念仏の声を子や孫に」
「お念仏の喜び」などのフレーズが、
まるで浄土真宗であるかのように
語られているからです。
これでは誰もが
「念仏称えたら極楽へ往ける」と
誤解するのも、当然かもしれません。

では、そもそも念仏って、何なのでしょうか?

厄除け?それとも何かのマジナイ?
まずは次のページのアンケート結果をごらんください。

『とどろき』のメールマガジンを
購読されている皆さんを対象に、
「南無阿弥陀仏」とは何だと思いますか、と、
下記のような内容でアンケートを実施いたしました。

EPSON012.jpg-1.jpg

普段から何気なく称えておられる方も多いでしょうが、
一体どんなことなのか、まずは各自の思いをお聞きしました。

『とどろき』で出会うまでは、
何も考えずに称えていました。
父親の真似をして・・・

自分の思いがかなえてもらえるように、とか、
自分に嫌なことが起こらないように祈る時、
称えていました。

「南無阿弥陀仏」とは、亡くなられた方への供養、
亡くなられた方への栄養と思っていました。
お仏壇にお参りするときは、「南無阿弥陀仏」と称え、
残っている家族の健康を願っていました。

称えれば災いから逃れられるのかなぁ、と、
気休めのまじないのように思っていました。

よく心霊番組で、悪魔ばらいにお経を称えている光景が
映し出されていましたので、
その影響を受けていました。
墓の近くを通った時や夜中に怖くなった時に、
「なむあみだぶつ」と称えていました。

救われたお礼と聞いて、
「救われている実感がないのになぜお礼するの?」
と思いましたが、言葉が先で、
実体は後からついてくるということなのかと、
今は思っています。

「あぁ、私もそう思ってた」と共感されたり、
あれっと思われたり、いろいろでしょうが、
では親鸞聖人は、「念仏」について
どのように教えておられるのでしょうか。
次ページから問答形式で学びましょう。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

Q1.念仏とは何ですか?

「念仏」とは、「口で南無阿弥陀仏と称えること」です。
「口声(くしょう)の念仏」とも、
「称名念仏」ともいわれます。
先に述べたように、
「念仏さえ称えていれば、誰でも極楽へ往ける」
というのは大きな誤りで、

500年前の蓮如上人の時代にも
同じ誤解が蔓延していたのでしょう、
こう糾(ただ)されています。

まず世間にいま流布して旨と勧むるところの念仏と申すは、
ただ何の分別もなく南無阿弥陀仏とばかり称うれば
皆助かるべきように思えり、
それはおおきに覚束(おぼつか)なきことなり

             (御文章三帖)

このような『御文章』は枚挙にいとまがありません。
蓮如上人はここで、
「『南無阿弥陀仏』とは何のことか分からず、
ただ称えている」のを「何の分別もなく」と誡められ、
それでは助かりませんよ、
早く「南無阿弥陀仏のいわれ」
を知りなさいと勧められておられるのです。

 

EPSON004.jpg-1.jpg


そこで「南無阿弥陀仏」とはどんなことか。
親鸞聖人、蓮如上人のご教示を頂きましょう。

Q2.「南無阿弥陀仏」って何ですか?

「南無阿弥陀仏」とは何か、
蓮如上人は平易に明らかにされています。

「南無阿弥陀仏」と申す文字は、
その数わずかに六字なれば、
さのみ功能のあるべきとも覚えざるに、
この六字の名号の中には、
無上甚深の功徳利益の広大なること、
更にその極まりなきものなり

       (御文章五帖)
南無阿弥陀仏といえば、わずか六字であるから、
そんな凄い力があるとは誰も思えないだろう。
だが実は、南無阿弥陀仏の六字の中には、
我々を最高無上の幸せにする
限りなき広大な働きがあるのだ

「南無阿弥陀仏」を「六字の名号」と言われます。
この六字の中には、とてつもない働きがあることを
蓮如上人は、
「無上」「甚深」「広大なること極まりもなし」
と、表現を変え言葉を尽くして絶賛されているのです。

あまりにも凄すぎてピンとこない人もあるかもしれませんので、
具体的に比較して考えてみましょう。

日本には現在、個人金融資産は千四百兆円あります。
さて、かりにこれが全部自分の物になったら、どうでしょう。
まずはローン完済してスッキリ重荷を下ろしたい。
それから我慢していた海外旅行へ。
豪華客船で世界一周。
しかも高級スイートルームで。
それでもせいぜい数千万ですから、
さらに料亭通いでもしますか。
銀座で毎晩、100万円散財し、田園調布に豪邸、
軽井沢に別荘。
ヨーロッパ旅行に親族300人を連れて
何億円も“大人買い”する、
アラブの石油王をマネてみても、
まだまだ大丈夫。
考えてみると少し気が遠くなってきますが、
「南無阿弥陀仏」の真価は、
そんな金額に換えられるようなものじゃない、
と蓮如上人はここで仰っているのです。

EPSON006.jpg-1.jpg
「無上甚深の功徳」ですから、
世界中のお金も貴金属もダイヤも、
全部かき集めたよりも桁違いに凄い値が、
この六字の名号の中にあるのだ、ということですが、
そう聞いて、「なるほど、よく分かりました」
と素直にうなずけるでしょうか。

そんなバカな、たった6つの字に、何で?
と訝る(いぶかる)私たちの心を見透かされて蓮如上人は、

南無阿弥陀仏」と申す文字は、
その数わずか六字なれば、
さのみ功能のあるべきとも覚えざるに
「南無阿弥陀仏といえば、わずか六字であるから、
そんな凄い力があるとは誰も思えないだろう

とズバリ指摘されているのです。

だがそれは、猫に小判、豚に真珠、
あなたに「南無阿弥陀仏」の真値を知る知恵がないからだ、
実は「南無阿弥陀仏」の六字は、
大宇宙の万善万行の結晶なのだと、
讃嘆されているのです。

親鸞聖人は、朝晩拝読する『正信偈』に
「功徳の大宝海」と褒め称えておられます。
両聖人とも、釈迦が教えておられることを、
「その通りであった」と知らされてのことです。

お釈迦さまが仏の大雄弁をもって
「南無阿弥陀仏」の功徳一つを説かれたのが、
7000余巻の一切経ですが、
それでも晩年に、

若し広説(こうせつ)せば
百千万劫にも窮め尽くすこと能(あた)わじ
             (大無量寿経)

「『南無阿弥陀仏』の功徳は、
何億年かかって説いても説き尽くせない。
80年の生涯では、大海の一滴も説けなかった。」

と仰っています。
不可称・不可説・不可思議の功徳と言われて当然でしょう。

Q3.そんな「南無阿弥陀仏」を、
どなたが、何のために、創られたのですか?

それほど功徳のある「南無阿弥陀仏」の名号を、
では一体どなたが、何のために、創られたのでしょうか。

それについて釈迦や親鸞聖人は、
阿弥陀仏という仏が、苦しみ悩む私たちに
与えて助けるために、創ってくだされたのだよ

と仰っています。
幸せ求めて生きているのに、
なれずにいる私たちを見捨てておけず、
立ち上がってくださったのが、
阿弥陀仏という仏さまなのです。

地震や津波がまた来ないか。
株は暴落しないか。
就職できるのか。
会社が倒産するのでは。
将来、年金はちゃんともらえるのだろうか。
未来が不安で皆苦しんでいます。

これらの大事は、放っておけぬと私たちは必死です。
しかし、最も大きなものが「死後、どうなるかハッキリしない」
不安ですから、仏教ではこれを「後生の一大事」といわれます。
嫌じゃ嫌じゃといいながら、
墓場へ向かって、皆行進している。
一日生きたとは、一日死に近づいたこと。
意識しようとしまいと、それが真実なのです。

死は100パーセント確実な未来であり、
今晩かも知れぬ大事です。
災害や事故で、一瞬で命が失われていく。
生と死は、つねに隣り合わせ。
今生と後生は、一息一息触れ合っています。
その後生が暗い「無明の闇」が、
今の生を暗くしているのです。

阿弥陀仏は、この「無明の闇」こそ
私たちの苦しみの根元と見抜かれて、
「無明の闇を破り、必ず浄土へ往ける
大安心の身に救ってみせる」
と、命を懸けて誓約されています。
これが有名な「阿弥陀仏の本願」であり、
この誓願を実現するために、
阿弥陀仏が創られた大功徳の結晶が
「南無阿弥陀仏」なのです。

いわば、私たちが「無明の闇」という
恐ろしい心の病で苦しんでいるのを、
阿弥陀仏という医師が
「何とかして治してやりたい、必ず助ける」
と誓われた、その熱願から創られた妙薬といえましょう。

だから、この六字の名号には、
“すべての人を幸福に救い摂る、
広大無辺の力があるのだ”
と親鸞聖人は、こう道破されています。

無碍光如来の名号と
かの光明智相とは
無明長夜の闇を破し
衆生の志願をみてたまう

       (高僧和讃)

阿弥陀仏の創られた名号(南無阿弥陀仏)には、
果てしなき過去から我々を苦しめてきた無明の闇を破り(破闇)、
どんな人をも永遠の幸福にする(満願)働きがある

EPSON007.jpg-0.jpg

本師本仏の阿弥陀仏が、
私一人を絶対の幸福に救うために、
五劫の思惟の末に本願を建てられ、
その願を果たすために兆載永劫のご修行をされた、
その大変なご苦労によって成就なされたのが
「南無阿弥陀仏」の六字の名号であり、
これら経緯の一切を「名号(南無阿弥陀仏)のいわれ」というのです。

そう聞いても、分析して価値を認めようとする
科学万能主義では、
荒唐無稽でしかないも知れませんが、
19世紀のイギリスの大化学者ファラデーは
学生たちにこう説いたといいます。

“母親の涙も、化学的に分析すれば、
少量の塩分と水分に過ぎない。
しかし、その涙の中には化学も分析し得ない
深い愛情がこもっていることを知らねばならぬ
”と。

EPSON007.jpg-1.jpg


名号はわずか「南無阿弥陀仏」の六字だけれども、
「すべての人を絶対の幸福にしてやろう」
という阿弥陀仏の大慈悲心(仏心)の顕現なのです。

Q4.「南無阿弥陀仏」を頂いたら、
      どうなるのでしょうか。

弥陀から、その「南無阿弥陀仏」の名号を頂いたのを
「信心獲得」というと、
蓮如上人は説示されています。

信心獲得すというは、第十八願(阿弥陀仏の本願)
を心得るなり。

この願を心得るというは、
南無阿弥陀仏のすがたを心得るなり 

           (御文章)
「信心獲得」したならば、どうなるのか。
聖人はこう仰せです。

五濁悪世の衆生の
選択本願信ずれば
不可称不可説不可思議の
功徳は行者の身にみてり

       (高僧和讃)
どんな人も、弥陀の本願信ずれば(南無阿弥陀仏を賜れば)、
心も言葉も絶えた幸せが、
その人の身に満ち溢れるのである。

蓮如上人も、弥陀より名号を頂いた一念に、
永の迷いの打ち止めをさせられるのだと、
こう言われています。

この大功徳を一念に弥陀をたのみ申す
我等衆生に回向しまします故に、
過去・未来・現在の三世の業障一時に罪消えて、
正定聚の位また等正覚の位なんどに定まるものなり

          (御文章)
過去・現在・未来の三世を通して
苦しめてきた迷いの親玉(無明の闇)が、
弥陀より『南無阿弥陀仏』の大功徳を
頂いた一念でぶち破られて、同時に、
絶対の幸福(正定聚)に救い摂られるのである

正定聚とは、「必ず仏になれる身」のことで、
等正覚ともいわれます。

事故や災害、病気など、どんなことがあっても崩れない、
壊れない、裏切らない幸せですから、
今日の言葉で「絶対の幸福」といえるでしょう。

EPSON008.jpg-1.jpg

弥陀の救いは、信心一つ

「信心獲得」のことを「信心を獲る」「他力の信心」
とも言われます。
親鸞聖人は、「弥陀の救いは、この他力の信心一つ」
と教えていかれました。

ゆえに親鸞聖人の教えを「信心正因」とも
「唯信独達の法門」ともいわれます。

蓮如上人はこれを、有名な「聖人一流章」の冒頭に、

聖人一流の御勧化の趣は、
信心をもって本とせられ候

親鸞聖人九十年の生涯、教え勧めていかれたことは、
信心獲得ひとつであったのだ

と明言されています。

念仏さえ称えたら極楽へ往ける」など、
断じて親鸞聖人の教えでもなければ
浄土真宗でもないことが、
このご文一つでお分かりでしょう。

そこで初めの質問に戻りますが、
では「口で『南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏』と称える」
「念仏」とは、何なのか。
弥陀に救い摂られて(信心獲得して)からの
「念仏」は、救いたもうた弥陀への
感謝報恩(称名報恩)である
ことを、
聖人は『正信偈』に、

唯能く常に如来の号(みな)を称して、
大悲弘誓の恩を報ずべし

(唯能常称如来号 応報大悲弘誓恩)
他力の信心を獲た上は、
常に念仏して、弥陀の大恩に報いるのである

と詳説されています。
蓮如上人も、先の「聖人一流の章」の最後に、

その上の称名念仏は、如来わが往生を定めたまいし
御恩報尽の念仏と、心得べきなり

弥陀に救われてからの念仏は、
浄土往生が決定した大満足の心から、
その御恩に報いる念仏である

と明らかにされています。

この「信心正因、称名報恩」こそが、
親鸞聖人の開顕された浄土真宗の教えなのです。

ここまでの話をまとめましょう。

【本願】
「阿弥陀仏の本願」とは、
「現在ただ今、絶対の幸福に救う」
という阿弥陀仏の誓いのこと。

それは五劫という気の遠くなるような長期間、
熟慮に熟慮を重ねて誓われたお約束ですから、
聖人は「弥陀五劫思惟の願」とも仰って、
広大なご恩徳に感泣さなれています。

【名号】
この弥陀の五劫思惟の本願とは、
兆歳永劫の修行によって、
十劫の昔にすでにでき上がったものが
「南無阿弥陀仏」の六字の名号です。

【信心】
「信心」とは、大功徳の六字の妙薬をのんで、
病気が全快した(無明の闇が晴れた)ことをいうのです。

EPSON009.jpg-1.jpg


【念仏】
病気を治して頂いたら、治してくださった医師に
対して出るのがお礼の言葉です。
そのお礼が「称名念仏」です。

顔中に飯粒をつけていても、
食べなければ腹は膨れず、餓死してしまいます。
何万遍礼を言っても、薬をのまずしては、
病気は治りません。
「名号」は私が頂いて「信心」となり、
その上の御恩報謝の「念仏」とならなければならないのです。
ゆえに「後生の一大事」助かるか、どうかは、
「信心」一つで決するから、

蓮如上人はこう仰っています。

祖師聖人御相伝一流の肝要は、
ただこの信心一つに限れり。
これを知らざるをもって他門とし、
これを知れるをもって真宗のしるしとす

          (御文章)
親鸞聖人の教えの肝要は、信心一つなのだ。
浄土真宗か、どうかは、『信心一つ』の弥陀の救いを、
知るか、否かで決するのである

仏教で「肝要」とは、“これ以上大事なものはない”
という極めて重い表現です。
その「肝要」に加えて蓮如上人は、「ただ」「一(ひとつ)」
「限れり」と、いずれも「たった一つ」を表す言葉を
四つも使われて、「信心ひとつ」を強調されているのです。
微に入り細を穿(うが)っての懇ろな教導に、
間違ってくれるなよ、『念仏さえ称えたら助かる』
は浄土真宗ではない、
『信心一つの救い』が親鸞聖人の教えなのだ、
聞き誤ったら大変ですよ」
という、蓮如上人の熱き御心を
感ぜずにおれないではありませんか。

Q5.ではどうすれば、
その名号を頂けるのでしょうか。

お釈迦さまは、
「聞其名号」
「無上の功徳の名号は、聞く一念に
我々に満入する」
と説かれています。

「聞く一つ」で頂けるように、
阿弥陀仏は名号を成就なされているのです。

EPSON010.jpg-.jpg

Q6.どのように聞けば
      よいのでしょうか。

親鸞聖人は、こう和讃されています。

たとい大千世界に
みてらん火をもすぎゆきて
仏の御名を聞くひとは
ながく不退にかなうなり

      (浄土和讃)
たとえ大宇宙が猛火に包まれても、
その中、弥陀の名号(仏法)を聞く人は、
不滅の幸せに輝くのである

尋常ならざる、真剣な聞法の勧めです。
また、たゆまぬ聞法の大切さを、
蓮如上人はこう細説されています。

りて堅きは石なり、至りて軟らかなるは水なり、
水よく石を穿つ。
「心源もし徹しなば菩提の覚道何事か成ぜざらん

といえる古き詞あり。
いかに不信なりとも聴聞を心に入れて申さば、
お慈悲にて候間、信を獲べきなり。
只仏法は聴聞に極まることなり

        (御一代記聞書)

EPSON011.jpg-1.jpg
至って堅い石でも、至って軟らかい水で穴が開く。
『初志貫徹すれば成就できぬことはない』
と昔から言われるではないか。
どんなにしぶとく疑い深くとも、
聴聞に身も心も打ち込めば、
限りなく深い弥陀のお慈悲によって、
必ず信心を獲ることができるのだ。

ただ仏法は聞くことが肝要である

これら善知識方の教えに順って「聞法」に励み、
信心獲得してお礼の念仏を称える身と
ならせていただくのです。
それこそが、親鸞聖人の最も喜ばれる
真の750回忌となりましょう。
(平成23年5月号のとどろきです)


nice!(63)  トラックバック(0) 
共通テーマ:資格・学び

ご遺言にあふれる恩徳讃の心 [親鸞聖人]

如来大悲の恩徳は
身を粉にしても報ずべし
師主知識の恩徳も
骨を砕きても謝すべし

       (親鸞聖人・恩徳讃)
阿弥陀如来の洪恩は、
身を粉にしても報い切れない。
その弥陀の大悲を伝えてくだされた方々のご恩も、
骨を砕いても済みませぬ

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
親鸞聖人の「恩徳讃」は、熱火の法悦にあふれ、
強い決意に満ちています。

終生変わらず、この恩徳讃そのままのご活躍をなされた方が
親鸞聖人でありました。
「身を粉にしても、骨を砕きても」
と、大変なご苦労の中、伝えてくだされた真実によって、
私たちは本当の幸せを知り、永久に崩れぬ幸せになれるのです。

今回も、この「恩徳讃」の御心をお伝えいたしましょう。

●報恩一つに生き抜かれた波乱万丈のご生涯

「阿弥陀如来の大恩と、
その救いをお伝えくだされた師主知識の深恩は、
身を粉に骨砕きても相済まぬ。
受けし恩徳限りなく、返す報謝はやむことなし」
親鸞聖人の真情を知れば、
阿弥陀仏の救いがいかに不可称不可説不可思議で、
どれほど広大無辺かが知られます。

もし弥陀の救いが死後ならば、
この「恩徳讃」はありえません。

世に粉砕砕身の形容詞はありますが、
不治の難病を治してもらってでさえ、
「ご恩返し、この身、砕け散っても」とは思えぬもの。

ところが、聖人90年の「恩徳讃」は、
全く形容詞ではありませんでした。

親鸞聖人の生きられた平安末期から鎌倉初期は、
源平の合戦や干ばつの大飢饉で天下は麻のごとく乱れ、
養和の都の死者は43000人を超えたと『方丈記』は記しています。
かかる不穏な社会情勢の中、仏意を鮮明にせんと聖人は、
大変なご苦労をなされました。
31歳、すべての人が煩悩あるままで救われる
弥陀の本願を身をもって明らかにされるため、
僧侶に固く禁じられていた肉食妻帯を断行。

堕落坊主、破戒坊主、悪魔、狂人との世間中の非難も
甘んじて受けられています。
34歳、法然上人の元で、法友たちと激しい論争を三度もなさったのも、
弥陀の本願の聞き誤りを正されるためでした。

35歳の越後流刑は、阿弥陀仏以外に私たちを救ってくださる方はないと
死刑覚悟で徹底的に叫ばれたからです。

IMG_20151021_0001.jpg-1.jpg


流罪のご苦労は5年に及び、その後、関東に赴かれた。
仏法嫌いの日野左衛門の門前で、極寒の中、
石を枕に雪を褥に休まれ仏法に導かれたのも、
剣をかざし、聖人を殺しに来た山伏・弁円に、
「御同朋、御同行(友よ、兄弟よ)」
とかしずかれ、親しく弥陀の本願を説かれたのも、
弥陀の大恩に報いるため以外にはなかったのです。
そして、生まれ故郷の京都へ帰られた後、
84歳の老聖人に、さらなる人生の怒涛が待っていた。
関東に残してきた長男の善鸞が、
事もあろうに仏法をねじ曲げていると知られたのです。
何度もいさめの手紙を出されましたが、
善鸞は一向に改めようとはしませんでした。
わが子のために多くの人を迷わすことはできぬと、
断腸の思いで義絶。
親子の縁を切ってまで聖人は、
弥陀の本願を護り抜いてくださったのです。

●「御恩報謝やむことなし」とのご遺言

親鸞聖人をかくも雄々しく前進させたのは、
利害得失でもなければ名聞利養でもありませんでした。
「深い阿弥陀仏のご恩を思えば、
世間の悪口や非難などで逡巡(しゅんじゅん)してはおれない」

(逡巡・・尻込みすること)

誠に仏恩の深重なるを念じて人倫のろう言を恥じず
                (親鸞聖人)

ひとえに如来大悲の恩徳に感泣し、
じっとしていられぬ衆生済度の報恩行だったのです。
それでもない「ご恩返しは相済まぬ」のお気持ちを遺言なされ、
『御臨末の御書』として今日に残されています。
そのお言葉を心静かに聞かせていただきましょう。

我が歳きわまりて、安養浄土に還帰すというとも、
和歌の浦曲の片男浪の、寄せかけ寄せかけ帰らんに同じ。
一人居て喜ばは二人と思うべし、
二人居て喜ばは三人と思うべし、
その一人は親鸞なり

            (御臨末の御書)

これが、弘長2年11月28日、
京都で90年の生涯を閉じられた聖人のご遺言です。
「我が歳きわまりて」とは、
「私の寿命もいよいよ尽きることとなった」ということ。
言うまでもなく、聖人だけが「歳きわまる」のではありません。
生ある者は、必ず死す。
地震や津波に遭わずとも「我が歳きわまる」時が、
100パーセント訪れます。
しかしそれは「今日とも知らず、明日とも知らず」
と蓮如上人が『白骨の御文章(御文)』に言われるとおりで、
すべての人にとって「死ぬ」ことほど確実なものはなく、
「いつ死ぬか」ほど不確実なものはないのです。
ところがどうでしょう。
何百年に一度の事故や災害には、
「万が一」と保険に入って備えるのに、
例外なく訪れる「万が万」の自分の死には
全くの無防備ではないでしょうか。

そして、今日もあくせく、目先の幸せに走り回っています。

しかし、死の巌頭に立たされた時、
それまで明かりとしてきたものは、皆、光を失って、
色あせたものになってしまいます。

「今までの人生、何だったのか」
と愕然とし、それまで軽く考えていた、
「死んだらどうなる」
の問題が、グウッと重い問題となるのです。

ある哲学者はこう書いています。
「死が全く人間の予測や思考の枠を超えた存在であり、
死後の世界が不安と謎に満ちたブラックホールなのである。
死んだらどこへ行くのか、死んだら自分はどうなるのか、
という問いは、現世の人間関係とか財産の喪失とは
まったく次元の異なる恐怖をよび起こす」

受験生は、合格発表を聞くまで落ち着きません。
行く先がハッキリしていないからでしょう。
被災地の方は「この先どうなるか、先が見えない」
と口々に訴えられます。
誰しも未来がハッキリしなければ不安なのです。
しかし、最も不安で分からないのは、
「死んだらどうなるか」という後生です。

チラリとでも死が脳裏をかすめると、
生の土台が根本から揺らぎ、全く心の安定をなくしてしまいます。
これ以上の大問題はありませんから、
これを仏教で「生死の一大事」とも「後生の一大事」ともいわれるのです。

IMG_20151021_0002.jpg-1.jpg

●後生明るくなった一大宣言

次に、親鸞聖人が『御臨末の御書』に
「安養の浄土に還帰す」と言われていますのは、
「安養」とは、安養仏のことで、阿弥陀仏の別名です。
阿弥陀仏のましますところを安養界ともいわれます。
「安養界」は『正信偈』にも
「至安養界証妙果(安養界に至りて妙果を証す)」
と出てくる言葉で、安楽浄土の世界、極楽浄土のこと。
「妙果」とは、仏のさとりのことです。
ですから、「我が歳きわまりて、安養の浄土に還帰す」とは、
「命尽きたら、この親鸞、阿弥陀仏の極楽浄土へ往くぞ」
の一大宣言です。
このように、いつ死んでも極楽往生間違いない身になったことを
「往生一定」といいます。
「往」は弥陀の浄土へ往くこと。
「生」は仏に生まれる。
「往生」とは、弥陀の浄土へ往って阿弥陀仏と同じ仏に生まれることです。
「一定」は「一つに定まる」ことですから「ハッキリする」。
いつ死んでも浄土往生間違いなし、とハッキリしたことを
「往生一定」といわれるのです。
暗い後生が明るい後生に転じ、
未来永遠変わらぬ大満足に生かされますから
「絶対の幸福」ともいわれます。
聖人は29歳の御時、阿弥陀仏の本願力によって、
一念で「いつ死んでも浄土往生間違いなし」
と後生明るい心に救い摂られました。
だからこそご臨末に、ためらいなく「安養浄土に還帰す(弥陀の浄土へ帰る)」
「往生一定」と明言なされているのです。
今死ぬとなった時、果たして私たちは同じ断言ができるでしょうか。
もし、後生暗いままなら、極楽浄土へ往けませんから、
親鸞聖人のみ教えを口伝えに聞かれた曽孫(ひまご)の覚如上人は、
こう教えられています。
「浄土へ往けるかどうか(往生の得否)は、平生の一念で決まる。
今、往生一定の身になっていなければ(不定の念に住せば)、
浄土往生できない(かなうべからず)」

然れば平生の一念によりて往生の得否は定まれるものなり。
平生のとき不定の念に住せばかなうべからず  (執持鈔)

「現在、往生がハッキリしていない不定の心では、
極楽往生はできませんよ。
早く、往生一定の身になってもらいたい。
阿弥陀仏のお力で、どんな人でも必ずその身になれるのだから」
との御心です。
このように、阿弥陀仏の本願力によって、
一念で「往生一定」に救われ、
絶対の幸福に生かされることこそ、私たちの生きる目的であり、
人生の決勝点であると親鸞聖人は教えられているのです。

IMG_20151021_0003.jpg-1.jpg

●無限の報謝

では親鸞さま、極楽へ往かれたらどうされるのですか?
とお聞きすると、
「一度は浄土へ往くが、寄せては返す波のように、
すぐ戻ってくるぞ」

和歌の浦曲(うらわ)の片男浪(かたおなみ)の、
寄せかけ寄せかけ帰らんに同じ

と仰っています。
「和歌の浦曲の片男浪」とは、
万葉の昔から美しい海の代名詞になっている
和歌浦片男波海岸(和歌山県)のこと。
あれだけのご布教をされた親鸞聖人が、
「今生だけではとてもご恩返しは相済まない。
いまだ苦しんでいる人を見捨てて、極楽で一人楽しんでなどおれぬ。
苦しみ悩める人が一人もいなくなるまで、親鸞は無限に戻ってくる。
衆生済度は今からだ」
と仰るのです。
これは、阿弥陀仏より賜る「還相廻向」の働きによる、
と親鸞聖人は教えられています。

他力の信をえん人は
仏恩報ぜんためとて
如来二種の廻向を
十方にひとしくひろむべし (正像末和讃)

阿弥陀仏より他力の信心を賜って救い摂られた人は、
弥陀の大恩に報いるために、弥陀から二つの贈りもののあることを、
漏らさず伝え切らねばならない。

弥陀の二つの贈りものとは
「往相廻向(弥陀の浄土へ往く働き)」
「還相廻向(浄土から娑婆に還来して、すべての人を救わねば止まぬ働き)」
の二つである。

この「還相廻向」の働きを聖人は、
「寄せかけ寄せかけ、無限に、この娑婆へ帰ってくる」
と表されているのです。

IMG_20151021_0004.jpg-1.jpg

●いつも側に親鸞がいるからね

一人居て喜ばは二人と思うべし、
二人居て喜ばは三人と思うべし、
その一人は親鸞なり    (親鸞聖人)

私たちが生死の一大事に驚き、聞法に燃え、
往生一定に生かされるのも、
救い摂られたその時から報恩の活動に突き動かされるのも、
全ては阿弥陀如来の広大なお働きによると
明らかにしてくだされた方が親鸞聖人です。
私たちは今、深い因縁で人間に生まれ、
等しく弥陀に照育され、無上道を歩んでいます。
うれしい時も、悲しい時も、決して一人ではありません。
「はらからよ、ともに無上道を進もうぞ」と、
いつも聖人が寄り添い、手を引いておられるのです。

永久の闇より救われし
身の幸何にくらぶべき   (真宗宗歌)

「無量の過去から苦しみ続け、泣き続けた永久の闇から、今、救われた」
とハッキリする時が、必ずあります。
一人居て喜ばは二人と思えと言われても、
“それは往生一定になった人のこと”
と、一人寂しく泣くことはありません。
「一人居て苦しまば二人と思うべし、
二人居て悩まば三人と思うべし、その一人は親鸞なり」
衆生苦悩我苦悩(人々の苦しみは我が苦しみ)。
悩める人にこそ心をかけてくだされるのです。
苦しんでいる人を放置されるはずがないではありませんか。
喜びも悲しみも、聖人はともにあるのです。
光に向かう人生に、恐れるものは何もない。
無量光明土に向かって、日々、力強く前進させていただきましょう。
最後に「恩徳讃」の御心あふれるご遺言を、
もう一度、聞かせていただきます。

我が歳きわまりて、安養浄土に還帰すというとも、
和歌の浦曲の片男浪の、
寄せかけ寄せかけ帰らんに同じ。
一人居て喜ばは二人と思うべし、
二人居て喜ばは三人と思うべし、
その一人は親鸞なり     (御臨末の御書)

「間もなく私の、今生は終わるであろう。
一度は弥陀の浄土へ還るけれども、
寄せては返す波のように、すぐに戻ってくるからな。
一人いる時は二人、二人の時は三人と思ってくだされ。
うれしい時も悲しい時も、決してあなたは、
一人ではないのだよ。
いつも側に親鸞がいるからね」


nice!(22)  トラックバック(0) 
共通テーマ:資格・学び

聖道仏教は消え、浄土仏教のみ残る。 [聖道仏教と浄土仏教]

聖道仏教は、時代の流れによって廃れ、やがて無くなります。
聖道仏教とは、華厳、天台、法華、真言、禅宗など修行をして
自力で助かろうとする教えです。
お釈迦さまご自身が、説かれていることですが、
「正法、像法、末法と、時代が下るとともに仏教が衰え、
やがて滅する時期が到来するであろう。」
と、さらに次のようにおっしゃっています。

釈迦の死後、最初の五百年間「正法」は、教えがあり、
その教えの通り真面目に修行する者があり、
それによってある程度まで証る(さとる)者もある。
教・行・証、いずれも残るであろう。

教・・・教え
行・・・修行する者
証・・・さとる者(さとる者といっても、低いさとりに過ぎない)

ところが、次の一千年間「像法」には、教と行のみあって、
証る者は無くなるであろう。

さらに時代が下って「末法」になると、教えは残っていても、
行・証かなわぬ時期となる。

そして末法一万年の後、釈迦の教法はことごとく滅尽し、
ついには「教・行・証」いずれも絶えて無くなる「法滅」
の時期に入るであろう。







時代
正法
像法×
末法××
法滅×××


それに対して、浄土仏教、すなわち『大無量寿経』に説かれている
「阿弥陀仏の本願」は、正法、像法、末法、法滅の時代になっても、
始終変わらず一切の人々を救うと説かれています。


続きを読む


nice!(1)  トラックバック(0) 
共通テーマ:資格・学び

我利我利では幸せになれない! [人間の実相]

●「あなたは何のために生きていますか?」

昨夏から秋にかけて、
南米のチリの鉱山で起きた落盤事故
世界中の関心を集めました。
地中深く閉じこめられた33人の作業員全員が、
70日ぶりに無事生還したのです。
(平成23年のとどろきの記事を載せています)
救助を待つ間、互いを思いやり、規律正しく過ごした彼らは、
救出用の掘削が完了した時、口々にこう言ったといいます。
「自分は最後でいい。仲間を先に助けてくれ」
一人はみんなのために、みんなは一人のために。
その麗しい友情に世界中が感動し、
“こんな思いやりの輪が世界に広がればいい。
人は一人では生きられないのだから、
互いに助け合い、よりよく生きるのが
私たちの生まれてきた目的だ”
と思った人も多いでしょう。

EPSON152.jpg-1.jpg

「なんのために生まれて なにをして生きるのか
こたえられないなんて そんなのはいやだ!」
の主題歌で知られるアニメ『アンパンマン
は子供に大人気。
この歌詞の答えをアンパンマンは、劇中で
「僕が生まれてきたのは困っているみんなを
助けるためなんだ」
と言い、おなかをすかせた人に
顔のアンパンを与えて助けます。
その利他の精神は子供だけでなく、
大人をも感動させています。

「君を守るために生まれてきたんだ」
「あなたのために生きる」
歌謡曲でよく聞くこんなフレーズも、
そういう人生観を代弁しているといえましょう。
だれかのために生きる。
これこそ生きる意味、と考える人は多いようです。


「私は
  だれかの幸せの
        ために・・・」

●「自分さえよければいい」
    こんな人は幸せになれる?
        「自利利他」こそ

一方“自分さえよければいい”という身勝手な考え、
風潮が生きづらさを助長しています。
相手の立場を無視し「オレが」「私が」
と自分優先で互いに怒り、人を悲しませる。
経済が行き詰まり、
生活に明かりが見いだせないような世相が、
図らずもそういう人間の姿を
浮き彫りにしているのかもしれません。

仏教ではこういう言動を「我利我利」といい、
それでは幸せになれませんよ。
「自利利他」、他人の幸せを優先するままが、
自分も幸せになれるのだ、と説かれています。

成功者の多くは、この自利利他を
心がけていたからといえるでしょう。

「若い人たちのために
役に立つような仕事を続けていきたい」
昨年、ノーベル化学賞を受けた
北海道大学の鈴木章名誉教授は、
受賞の喜びとともに後進への貢献を誓いました。
栄誉の根底には、多くの人の役に立った、
という誇りがあるのではないでしょうか。
かりに大きなことはできなくても、
家族や周囲のために自分はある。
目の前のことから着実にやっていけば、
やがて社会はよりよく変わる、
と教育や医療、福祉などの分野で
懸命に努力する人も少なくありません。
少しでも住みよい、平和な世の中を保つには
非常に大切な心がけであり、道徳倫理、
ほとんどの宗教もそう教えています。

EPSON153.jpg-1.jpg


しかしここで、もっと深く掘り下げて考えてみたいのは、
私たちは他人のために心底から親切ができるのか、
ということです。

果たして人間は、自分の行う善で真の満足や安心を
得ることができるものなのでしょうか。

真面目に努めると
   見えてくる自分の姿

真摯に精一杯、だれかの幸せのために生きたいと願った、
ある女性読者の体験を聞いてみましょう。

中学生のころ、同じ生きるなら、
自分のためではなく人のために生きたい、
貧困や紛争で苦しむ人たちの助けになりたいと、
国連の職員になろうと思い始めました。
世界を舞台に活躍しようと夢は膨らみましたが、
国連の職員になるには、
高度な語学力に専門分野の職務経験など、
様々な能力と経験が求められます。
またグローバルな問題の解決など、
自分にはとても自信がありませんでした。
人生の羅針盤が欲しいと、
オーストラリアにホームステイしました。
何もかもが新鮮で楽しい日々でしたが、
本当に期待したものをつかむことはできません。
周りの友達は、具体的に目標に向かって進んでいる。
一方、私は向かうべき方角が見いだせず不完全燃焼。
人のために生きたいとは言いながら、
友達の成功をねたましく思う醜い心も知らされました。
こんな身近な人の幸せさえ喜べない者が、
どうして異国で苦しむ人々を幸せにすることなどできようか。
ますます自己嫌悪に陥るばかりでした。

焦りといらだちをぶつけるように、
いろいろな先生や友達にも相談しましたが、
心は晴れません。
そんな私が大学生となり、
巡り遇ったのが親鸞聖人のみ教えでした。

世のため他人のために一生をささげたいと願ったが、
親しい人の幸せさえもねたましく思う自己の姿に気づき、
彼女は自分の限界にぶち当たって悩んだといいます。
真面目に他人に尽くそうとすると、
できぬ心ばかりが見えてきて苦しむことがあります。

真剣に孝行したいと、
親の介護に努めたある人が、
こう述懐しています。
「病気の母を支えてみせる」
と自信をもって家族と看病を始めた私。
ある深夜、トイレの回数が頻繁になった母を前に、
「またかー、30分前に行ったやろ」。
そんな心が動いたのです。
愕然としました。
私は何のためにここにいて、
これほどまでに尽くしているのか。
母を支えるためではないのか。
楽したいいっぱいで母を邪魔に思う、
こんな心しかない自分だと気づいたのです。
「ごめん、お母ちゃん、こらえてなあ、お母ちゃん」
真心込めた看病ができるとうぬぼれていました。

EPSON154.jpg-1.jpg

●「罪悪まみれのおまえを救う」
    弥陀の救いはどんなものか

人類の幸福に貢献したい、
母の恩に報いたいと尊い願いを起こしても、
真心尽くせない私。

善のでき難い人間の正体を、骨の髄まで見抜かれて、
「そんな罪悪にまみれたおまえを必ず救うぞ」
と誓われたのが、
大宇宙の仏方の本師・師匠であられる
阿弥陀仏の本願です。

親鸞聖人は、この宇宙最尊の阿弥陀仏の本願力によって
救い摂られ、
信知させられたことを、こう仰っています。

小慈小悲もなき身にて
有情利益はおもうまじ
如来の願船いまさずは
苦界をいかでかわたるべき
      (悲歎述懐和讃)
「小慈小悲もなき身にて
有情利益はおもうまじ」
“微塵の慈悲も情けもない親鸞に、
他人を導き救うなど、とんでもない”
こんな聖人の告白を聞けば驚く方も多いでしょう。
親鸞さまといえば慈悲の塊、
仏さまの化身のように思われているからです。

事実、聖人が29歳で阿弥陀仏の救いを獲得されてからの
命がけのご苦労は、
迷える人々を救うためにほかなりません。

「どんな人をも必ず救う」
と誓われた阿弥陀仏の救いを明らかにするため、
当時の僧侶の常識を公然と破って、
31歳、肉食し結婚なされました。

まことの仏法を知らぬ人々からは、
大変な非難を浴びましたが、
我利我利亡者の聖人ならば保身に走ったでしょう。
あえていばらの道を歩まれたのは、なぜなのか。
35歳、無実の罪で風雪の越後(新潟)へ
流罪となった聖人のご布教も、
その後、赴かれた関東で、石を枕に雪を褥(しとね)の
日野左衛門の済度も、剣で迫る弁円に「御同朋・御同行」
とかしずかれたのも、
仏の慈悲の顕現としか思えません。

EPSON155.jpg-1.jpg


そんな聖人が、
「無慈悲な親鸞、人の幸せなど願う心は微塵もない」
とはどういうことなのでしょう。

これは仏眼に映れた人間の真実の姿を仰ったものです。
弥陀の願力に照らし抜かれて
初めて知らされる自己の本性なのです。

こんなあさましい者であったか。
少しは他人を憐れみ、
助ける心があると思っていたが、
とんでもない錯覚だった

と無二の懺悔をなされた聖人は、
極悪最下の親鸞が、
極善無上の幸福に救い摂られた不思議さよ”
と勇躍して真実開顕の道をひたすら歩まれました。

それはひとえに弥陀のお力以外にはなかったのだと、
「如来の願船いまさずは
苦界をいかでかわたるべき」

阿弥陀如来の本願の船に乗らずして、
どうしてこの苦悩の人生(苦界)を
渡り切ることができようか
弥陀の大慈悲あればこそ、
すべての人が救われるのである”
こう聖人は確言されています。

わずかばかりの善のまねごとでうぬぼれ、
自己の本性をごまかしてはなりませんよ。
真剣に光に向かい、弥陀の救いに一刻も
早くあってもらいたい。
往生一定の身に救われることこそが、
万人の生きる目的なのだからね”
と聖人は教導なさっているのです。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


まとめ
●私たちがよりよく生きるには

○我利我利・・・自分さえよければいいという考え
○自利利他・・・他人の幸せを優先するまま、
         自分も恵まれること
「我利我利」ではなく「自利利他」でなければならない、
と仏教では教えられています。

●親鸞聖人は一生涯、自利利他の道を歩まれました。
そしてそれは、全く阿弥陀仏の本願力によると仰っています。
私たちは善のでき難い者である、
と仏さまは見抜かれて、
そういう者を必ず救う、とお約束なさっています。

阿弥陀仏の本願
   どんな悪人も信ずる一念で絶対の幸福に救う、
   というお約束

(信ずるとは、弥陀の本願にツユチリほどの疑いもなくなったこと。
一般的に使われている信ずるとは意味が違います。)

この弥陀の救いにあい、
たくましい人生を歩ませていただきましょう。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
体験手記

看護師として30年
 「私を変えた
     患者さんの“説法”」

     【岐阜県】山本 奈津美さん(仮名)
「聞法のつどい」スタッフとして活躍している山本さんは、
3年前まで訪問看護師でした。
「患者さんに叱咤されて、
今、私は聴聞させていただけるんです」
30年の看護師生活で知らされたこととは・・・

幼いころは、何をするにも自信が持てず消極的でした。
ところが家族の看病となると、途端に張り切るのです。
「はい、横になって、熱を測ってね!」
「血が出ているところを強く押さえて」
と大した症状でもないのに、
氷枕や氷のうを作り、包帯を巻いていました。
他人の役に立てる、元気になって感謝される。
何とも言えない充実感に、
夢は小学生の時から看護師一つでした。
看護学校の病院実習で見た先輩看護師の姿は、
今も目に焼き付いています。
植物状態の患者さんにも、
声をかけながら排泄の処理をし、
ちり紙をもんで優しく拭く。
何気ないしぐさですが、
“これこそ患者さんの立場に立ったケアだ”
と感動し、自分もそんな看護がしたい、
と強く思ったのです。

一方、仏法熱心な父・本田孝文さんに連れられ、
小学生のころから聞法していた。
父親がよく暗唱する、蓮如上人の「白骨の御文章」が
好きだった。
仏法を尊く思いながらも、
「阿弥陀さま一つ」
という教えには、
“信仰は人それぞれ。
その人が幸せだと思えばそれで十分では?”
となかなか納得できなかった。

●見せつけられた現実

21歳で看護師の第一歩を踏み出したのですが、
早々に現実の厳しさを知らされました。
将来を有望視されていた大学生に待っていた透析、
かわいい子供が欲しいと願う新婚夫婦を襲った卵巣摘出・・・。
“だれもが普通に願う幸せさえも、
病で握りつぶされる。
どうしてこう、人生は思い通りにならないのだろう”
悶々とした思いが、日を追うごとに膨らんでいったのです。

初めて、患者さんの臨終に立ち会った日。
“さっきまで私と話していたのに・・・。
命はなんて儚いの?”
体の底からの恐怖に、ただ立ちすくむばかりでした。

「朝(あした)には紅顔ありて、
夕(ゆうべ)には白骨となれる身なり。
既に無常の風来たりぬれば、
すなわち二つの眼(まなこ)たちまちに閉じ、
一の息ながく絶えぬれば、
紅顔むなしく変じて桃李の装を失いぬるときは、
六親・眷属集まりて歎き悲しめども、
更にその甲斐あるべからず」
蓮如上人が「白骨の御文章」に
お書きくだされたとおりなのです。

“あの患者さんはどこへ行っちゃったの?
死んだらどうなるの?”
この問いが、わが身の問題となって、

「誰の人も、はやく後生の一大事を心にかけて、
阿弥陀仏を深くたのみまいらせて」(白骨の章)
の仰せどおり、答えは仏法にしかない、
私を救う力があるのは本師本仏の弥陀のみだ、
と思うようになりました。

●真心尽くした看護とは?
答えを求め続けて・・・

看護師が検温する時、排泄の介助をする時、
点滴を交換する時、入院患者さんは、こう言われます。
「忙しいのに悪いねえ・・・ごめんね」
そのたびに、“どうして・・・?”
とやり切れない思いになるのです。
スタッフにさえ気を遣いながらの入院生活、
患者さんはどれほど忍耐されているのだろう。
慣れ親しんだ家で、家族と一緒ならば、
もっと心安らかに療養できるのでは?
こうして“患者の立場に立った看護”
の答えを求めて、
訪問看護師を目指すようになったのです。

結婚し、子供3人を育てながら、
新たな目標に向かい始めた。
だが間もなく、実母が病魔に冒されたことを知る。
これを機に訪問看護師に転向。
午前は働き、午後は介護のために実家へ通った。
入院を拒み続けた母の介護は、
一年半続いた。

知らず知らず、介護の疲労がたまっていたのでしょう。
ある日、
「お母さんもつらいだろうけど、
私もしんどい。もう入院する?」
とつい言ってしまったのです。
翌日、いつもどおり実家へ行くと、
机の上には「入院します」とだけ書かれた紙。
“しまった!私があんなことを言ったばかりに・・・”
病室で横たわる母に、
「お母さん、ごめん」
と心の中で何度も叫びました。

わずか一ヶ月で母は帰らぬ人となりました。
悲しみを思い出すまいと、
訪問看護の仕事と家事に打ち込みました。
訪問看護では、与えられた時間内で、
効率よく要望にこたえることを追求する毎日。
ケアマネジャー、アロマセラピスト、
フットセラピスト等の資格を取得したのもそのためです。
しかし、真心尽くせば尽くすほど、
「これが本当に相手の望んでいることなの?
本当の救いになることがしたい」

●「これがおまえの姿だぞ!」

現場を退いた今は、月に一度、
ボランティアでホスピス(末期ガン患者の病棟)へ赴き、
フットセラピーを行っている。

ボランティアの私たちは、
病院から、「入院患者とは約束をしないように」
と言われています。
次会える保証がないからです。
目の前の患者さんとは、一度きりのご縁。
幼子を心配する若い女性、
パソコンを見せてこれまでの業績を
誇らしげに語る年輩の男性など・・・。
いろんな方の思い出話を聞かせていただきながら、
ひたすら仏縁を念じつつ、
足のマッサージをしています。

私にとっては、これまでに出会ったすべての患者さんが、
姿にかけて“生きた説法”をしてくださる善知識です。

「私を見なさい。これがおまえの未来の姿だぞ。
早く弥陀の救いを求めよ!」
患者さんのお叱りをしっかり受け止め、
光に向かって進みます。


nice!(105)  トラックバック(0) 
共通テーマ:資格・学び