SSブログ

命を懸けても、後生の一大事は解決せねばならない! [後生の一大事]

死ぬとどうなるのかハッキリしない心を
無明の闇といいますが、
その心を晴らさずにそのまま死ぬと、
お釈迦さまは、“必堕無間”と説かれ、
後生(死後)、必ず無間地獄に堕ちると教えられています。
(無間地獄とは、地獄の中でも一番苦しみが激しく、
気の遠くなるような長年月、休む間もなく苦悩を受け続ける世界)

何としてもそれだけは解決しなければ
人間に生まれてきた意味がないと、
親鸞聖人がおられる京都へ
田畑を売って命がけで旅をした、
関東の同行たちの話です。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 (ここからは、真実の仏教を説かれている先生の書物「とどろき」から載せています。 ) 

EPSON068.jpg-1.jpg

たとえこの世が
火の海になっても、
解決せねばならぬは、
後生の一大事

    (関東の同行・平太郎)

(アニメ・世界の光・親鸞聖人)

EPSON068.jpg-2.jpg

事の重大さに関東の同行衆は、
吹雪が吹き荒れる夜、
稲田の草庵に集まりました。
親鸞聖人のお弟子・性信房は村の人たちを前に
呼びかけます。
今こそ弥陀の本願を、
命かけてお伝えせねばならぬ時が来た

これ以上多くの人々を邪義に
迷わせてはならない。
真実を一層、明らかにする仏弟子の使命に
燃えたのです。

一方で、「念仏のほかに助かる道があるのか」
「本当に秘密の法文があるのでは・・・」
という拭い切れない不審を、
内心に秘める者もいたでしょう。
本当のところを、聖人に直接お聞きしたい。
この思いは次第に強まっていきました。

なぜ関東の法友たちは、
この騒乱を、これほど重く受け止めているのでしょう。
その理由を彼らは、
事は、後生の一大事
と言ってます。
「後生の一大事」とは、
「死んだらどうなるかの一大事」のことです。
“生ある者は必ず死に帰す”
と言われるように、
死は全ての人の確実な未来です。
では、死んだらどうなるか、
未来はハッキリしているでしょうか。
未来が分からぬまま生きるのは、
行く先が分からぬ飛行機に乗っているのと同じで、
そんなフライトを楽しめるはずがありません。
未来が暗いと、現在が暗くなる。
後生暗いまま、明るい現在を築こうとしても、
できる道理がないのです。
現在が暗い生活を送っている人は、
死後も必ず真っ暗闇の世界へ入り、
苦しまねばならないことを、
お釈迦さまは、
「苦より苦に入り、冥より冥に入る」
           (大無量寿経)
と説かれています。

この後生の一大事を解決し、
極楽往生間違いない身に救う「往生極楽の道」
一つを、親鸞聖人は生涯明らかにされたのです。

●「往生極楽の道」
     ただ一つ

「往生極楽の道」とは、阿弥陀仏の誓願のこと。

大宇宙の仏方の師の仏である阿弥陀仏は、
こう約束されています。

すべての人よ“極楽浄土へ必ず往ける”
大安心・大満足の身にしてみせる


このお約束どおりに救われた人は、
この世から未来永遠の幸福に生かされるのです。

親鸞聖人が関東で20年間、
教え続けられたことは、
この弥陀の救い、
「往生極楽の道」以外にはありませんでした。

その聖人の教えを熱心に求めていた
同行衆ではありましたが、
内外からの非難に信仰が揺らぎ、
ここひとつ「往生極楽の道」をハッキリさせたいと、
燃え上がったのは当然でしょう。

EPSON069.jpg-1.jpg

●命がけの聞法の旅

そんな法友たちに性信房は、
「京へ行って、じかにお師匠さまにお聞きしよう」
と訴え、一同は京行きを決意しました。
とはいえ、新幹線も電話もメールもない当時、
京へは歩いていくしかありません。
まさに命懸けの旅でした。

京都までは武蔵、相模など十以上の国があり、
片道一月、往復で二月かかったといわれます。
その間の宿代や食費等、多額の旅費が必要です。
道中には、箱根の山や大井川の難所があり、
山賊や盗賊もウロウロしています。
生きて帰れる保証など、どこにもありませんでしたが、
それでも行かねばならぬ聞法の旅でした。

平太郎をはじめとする関東の同朋たちは、

「たとい大千世界に
みてらん火をも過ぎゆきて
仏の御名を聞く人は
ながく不退にかなうなり」
      (浄土和讃)
たとえ、大宇宙が火の海になろうとも、
そのなか仏法聞き抜く人は、
必ず不滅の幸せに輝くのだ

※仏法を聞き抜くとは、弥陀の本願に救い摂られることです。

の聖人の常のご教導に従い、
それぞれが困難を乗り越えて、
決死の覚悟で京へと旅立ったのです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
詳しく載せてある記事はこちらです。

なぜ命がけで京都まで!?

 


nice!(21)  トラックバック(0) 
共通テーマ:ネットコミュニティ

お釈迦さまや観音菩薩と、あなたも「親友」になれるのです! [親鸞聖人]

阿弥陀仏に救われると、
お釈迦さまや観音菩薩、他の諸仏方、菩薩方と
弥陀の浄土にて実際に会うことができるし、
今生で救われた時点で、親友にならせていただけることが
書かれています。
 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 

(真実の仏教を説いておられる先生の書物「とどろき」から載せています。 ) 

仏言広大勝解者(仏は広大勝解の者と言い)
是人名分陀利華(是の人を分陀利華と名く)
                           (正信偈)

「仏は広大勝解(こうだいしょうげ)
の者(ひと)と言い(のたまい)」
の、広大勝解の者とは仏教の大学者のこと。
阿弥陀仏に救い摂られた人を、
釈尊(釈迦)はじめ大宇宙の諸仏方が口をそろえて、
「一切経を体で読破した大学者だ」
と称讃されるということです。

それだけではありません。次に、
「是の人を分陀利華(ふんだりけ)と名く(なづく)」
ともおっしゃっています。
分陀利華とは、白蓮華のことです。
泥沼に咲きながら、純白で、
シミ一つないきれいな蓮の華のことです。
シミ一つないとは、心の中に、
何の不安もない大安心を表します。
広大勝解者と褒められて大満足、分陀利華で
不安一つない大安心ですから、
阿弥陀如来に救われれば、
大安心・大満足の身になれるのです。

EPSON057.jpg-1.jpg

●五種の嘉誉(かよ)

仏さまの誉め言葉を善導大師は、
詳しく「五種の嘉誉」として
次のように教えられています。

○好人(こうにん)・・・好きな人
○妙好人(みょうこうにん)・・妙なる好ましい人
○上上人(じょうじょうにん)・・上の上の人
○希有人(けうにん)・・めったにない人
○最勝人(さいしょうにん)・・最も勝れた人

信仰が徹底し喜ぶ人を妙好人といわれるのは、
ここから来ています。
こんな、はしにも棒にもかからぬ極悪人を上上人とは。
地獄より行き場のない者を大好きとは。
めったに咲かぬ白蓮華のような勝れた人だとは。
少しも褒められる値うちのない者が、
仏方からたたえられ、何と幸せなることかな。

これ皆、救いたもうた無上仏(阿弥陀如来)の
お徳による以外にありません。

●お釈迦さまが「親友」と

また釈尊(釈迦)は、
「我が善き親友なり」(大無量寿経)
と言われ、
“苦悩に満ちた世の中で、
難信の法をよくぞ聞き抜いた。
そなたこそ私の親友だ”
と手を差し伸べてくださっています。

幼なじみ、同級生、仕事の仲間、趣味の友など、
友達はさまざまですが、
親友は「喜びを倍にし、悲しみを半分にする」
といわれる、人生の貴重な財産でしょう。
つまらぬ人から親友になろうと言われても
うれしくありませんが、
世界最高の偉人、釈尊に、「私の親しい友よ」
と呼びかけていただけるとは
何という幸せでしょうか。
さらに、
「観世音菩薩・大勢至菩薩、
その勝友と為(な)りたまう」
            (観無量寿経)
とも説かれています。

観音菩薩・勢至菩薩といえば、
今日でも多くの信奉者がありますが、
この二菩薩は阿弥陀如来の脇士(わきじ)です。
脇士とは、仏に付き従い、
仏の智慧と慈悲を表す菩薩のこと。

古い寺院などで、仏さまの両脇に
菩薩が従っている三尊像を
見ることがあるでしょう。
釈迦三尊なら、釈迦如来(お釈迦さま)に
文殊・普賢の二菩薩です。

弥陀三尊像ならば、阿弥陀如来を中央に、
脇士は観音菩薩と勢至菩薩となっています。

有名人の友達を自慢する人もありますが、
こんな素晴らしい方々を友にしている人が、
皆さんの周りにあるでしょうか。
阿弥陀如来に救い摂られた人は、
観音・勢至の友達だよ、
と、釈尊はおっしゃるのです。

EPSON058.jpg-1.jpg

●当てにならぬ人間の称讃

朝から晩まで私たちは、
“認められたい、褒められたい”
気持ちいっぱいでキュウキュウとしています。

髪型から、顔、服装、アクセサリー、靴に至るまで
寸分のスキもなくおしゃれをするのは、
羨望や称讃を求めるからでしょう。
だれか見てくれないかと
他人の視線を気にしてばかりいます。

逆に、
“オレは身だしなみなど構わない、中身で勝負さ”
と言わんばかりに、髪はボサボサ、破れた服、
ズタズタの靴を履いて見せる人もありますが、
やはり注目を浴びたい気持ちは同じでしょう。

EPSON059.jpg-1.jpg
冗談を言って人を笑わせるのも、
勉強やスポーツに努力するのも、
多くは認めてもらいたい気持ちからではないでしょうか。
ところが、涙ぐましい苦労をして得た称讃も、
手放しで喜んではおれません。

人間の心ほど当てにならぬものはないからです。
禅僧・一休は、当てにならぬ人間の評価を、
「今日ほめて 明日悪くいう 人の口
      泣くも笑うも うその世の中」
とスッパ抜いています。

人間は皆、その人の都合で褒めます。
都合のよい時は善人、
都合が悪くなればたちまち悪人でしょう。


 
・・・・・・・・・・・・・・・・・
約200年前のヨーロッパ。
イタリア、オーストリアと戦い、
連勝のナポレオンが凱旋した時のこと。
イルミネーションや旗行列、松明(たいまつ)や鐘、
祝砲など、国民の慶賀(けいが)は、
その極に達する。
部下の一人が、恭しく(うやうやしく)祝辞を述べました。
「閣下、このような盛大な歓迎を受けられ、
さぞ、ご満悦でありましょう」
意外にもその時、ナポレオンは、冷然と、
こう言っています。
「馬鹿を申すな。
表面だけの騒ぎを喜んでいたら大間違いだ。
彼らは、少しでも情勢が変われば、
またおれを“断頭台に送れ”と言って、
やはり、このように騒ぐだろう。
雷同(らいどう)の大衆の歓迎など、
当てになるものか

人の心の移ろいやすさが、
骨身にしみていたのでしょう。

とある大学での一幕。
抜き打ち試験の発表に、学生たちの顔が一斉に曇る。
“嫌な教授だ”
ところが問題が配られると、案外易しい。
“思ったよりも、いい先生かも”
評価は急上昇。
ところが、やがて返却された採点の厳しさに、
“何という意地の悪い人だ”
と今度は急降下。
成績表を手にして、予想外のよい評価に驚く。
“いい先生だなぁ”
とコロリと変わったといいます。
同じ一人の人でも、
都合が変われば「昨日の友は今日の敵」で、
コロコロ評価は変わります。

「ブタは褒められてもブタ、
ライオンはそしられてもライオン」

これも人間の称讃や
非難の無責任さを笑った言葉でしょう。
当てにならぬ人間に褒められてさえ、
うれしくて有頂天になるのですから、
間違いのない仏さまに褒められる幸福は、
比ぶべくもありません。

●親鸞聖人のたくましさ

思えば親鸞聖人ほど、波乱万丈の激しい生涯を
生き抜かれた方はないでしょう。
聖人は常に、非難中傷の的でした。
31歳の時、僧侶には固く禁じられていた結婚をなされ、
世間中から、
「破戒坊主じゃ」
「狂人じゃ」
「仏教を破壊する悪魔だ」
と八方総攻撃を受けられたことは有名です。
EPSON060.jpg-1.jpg


しかし、すべての人がありのままの姿で
救われるのが真実の仏教であることを、
身をもって明らかにするために、
厳然として肉食妻帯を断行されました。

35歳では、新潟へ流刑になっておられます。
釈尊出世の本懐である「一向専念無量寿仏」
“阿弥陀如来一仏に向かい、阿弥陀如来だけを信じよ。
これよりほかに助かる道はないのだ”
を強調されたことが、
神信心の権力者の逆鱗に触れたからです。

最初は死刑だったのですが、
関白九条兼実公(くじょうかねざねこう)の計らいで、
越後流刑になったのです。
「偏執者(偏ったことを言うやつ)だ」
「他人の信仰をあれこれ言うな」
と疑謗の砂塵が巻き上がる中、

一向専念の義は、往生肝腑、自宗の骨目なり

“私たちが救われるかどうかは、
阿弥陀如来に一心一向になるか否かで決まるのだ。

これ一つが肝要なのだ”
と徹底して叫び抜かれたのです。

●諸仏に褒められる万劫(まんごう)の名誉

こんな親鸞聖人を知ると、
“名誉欲がなかったのだろう”
とか、
“何を言われても無頓着で平気な人だったのか”
とまで思う人があるかもしれません。
否。
聖人は、「名利の大山に迷惑している親鸞だ」
と告白されています。
“褒められたい、悪口言われたくないいっぱいの親鸞。
名誉欲が大きな山ほどあって迷惑している”
とおっしゃるのです。
ならば、どうして、あんな非難中傷の嵐の中を、
毅然として布教に突き進まれたのでしょうか。

大宇宙にまします無数の仏方から褒められる、
諸仏称讃の幸福を知れば、
その理由の一端が知らされるではありませんか。

真実の仏法は、迷いのまっただ中にある大衆に
都合のよいことは説きません。
だからこそ、真実に潔癖な親鸞聖人は生涯、
世間中からそしられたのですが、
無量の諸仏方から褒められる身に
なっておられた聖人にとって、
それらの非難は物の数ではなかったのです。

ウソ偽りのない仏に褒められるこそ万劫の名誉。
私たちも、十方諸仏に
称讃される身にならせていただきましょう。

 


nice!(18)  トラックバック(0) 
共通テーマ:ネットコミュニティ

親鸞聖人の教えって? [親鸞聖人]

 (真実の仏法を説いておられる先生の書かれた「とどろき」より載せています) 

独自の教えを説かれたのではない

「浄土真宗」とか、「親鸞聖人の教え」と聞くと、
何か独自の教えを考え出されたように思うかもしれませんが、
そうではありません。

更に親鸞珍らしき法をも弘めず、
如来の教法をわれも信じ
人にも教え聞かしむるばかりなり

「更に珍らしき法を弘めず」とは、
「親鸞の伝えていることは、
決して珍しい教えではありません」
ということ。
珍しい教えとは、今までで誰も説かなかった
新しい教えのことです。
聖人は、そんな珍しい教えを伝えたことは
一度もなかったのです。

EPSON179.jpg-1.jpg

親鸞聖人の教え=仏教

では、どんな教えを伝えられたのでしょうか。
如来の教法をわれも信じ
人にも教え聞かしむるばかりなり

と言われています。
如来の教法とは、釈迦如来(お釈迦さま)の教え、
仏教のことです。

約2600年前、インドで活躍なされたお釈迦さまは、
35歳で大宇宙最高の「仏」というさとりを開かれ、
80歳でお亡くなりになるまでの45年間、
教えを説いていかれました。
それが仏教です。
その仏教を
「間違いないと、親鸞知らされたから、
皆さんにもお伝えしているだけなんだよ」

とおっしゃるのです。

EPSON180.jpg-1.jpg

仏教には何が教えられているか

お釈迦さまは何を教えられたのでしょうか。
釈迦45年の説法は、
すべて「お経」となって残されています。
その数は7000余巻。
総称して「一切経」といわれます。
この7000余巻の一切経を全部読んで、
しかも正しく理解しなければ、
仏教に何が説かれているのか分かりません。
だれでもできることではありませんね。
親鸞聖人は、その一切経を何回も読み破られて、
「お釈迦さまの説かれたことはたった一つだ」
と、『正信偈』の中に驚くべき断言をされています。

親鸞聖人の、そのお言葉をお聞きしてみましょう。

EPSON180.jpg-2.jpg

仏教=弥陀の本願

如来所以興出世
唯説弥陀本願海
」(正信偈
「如来、世に興出したまう所以は」とは、
釈迦如来がこの世にお生まれになって、
仏教を説かれた目的(所以)は、ということ。
それはたった一つのことを
説かれるためであったとの断言が、
次の「唯説」。
その唯一つのことこそ「弥陀の本願」です。
その広さ、深さはこの世で例えるなら「海」しかないので、
本願海とおっしゃっています。
お釈迦さまが説かれたことは、弥陀の本願唯一つ。
だから親鸞聖人も、その弥陀の本願一つを生涯、
教えていかれたのです。

EPSON181.jpg-1.jpg

EPSON181.jpg-2.jpg

 阿弥陀仏とはどんな仏さま?


nice!(41)  トラックバック(0) 
共通テーマ:ネットコミュニティ

南無阿弥陀仏を頂くとは、どういうことか!? [南無阿弥陀仏]

(真実の仏教を説かれている先生の書物「とどろき」から載せています。 ) 

大悲の願船に乗じて、
光明の広海に浮かびぬれば、
至徳の風しずかに、衆禍の波、転ず
          (親鸞聖人・教行信証行巻

阿弥陀仏の大悲の願船に乗って見る人生の苦界は、
千波万波きらめく明るい広海ではないか。
順風に帆をあげる航海のように、
なんと生きるとは素晴らしいことなのか


今回も、この親鸞聖人のお言葉について
お話いたしましょう。

●最高無上の宝とは?

「大悲の願船に乗じて、
光明の広海に浮かびぬれば」
とは、
「阿弥陀仏の大慈悲の願いによって
つくられた大きな船に
乗せていただいたならば、
明るく楽しい広い海に浮かぶ」
親鸞聖人は言われています。

では、光明の広海に浮かんだ人生とは、
いかなるものか。
親鸞聖人は、「至徳の風しずかに、衆禍の波、転ず
と教えてくださいます。
今回は、その
「至徳の風しずかに」
についてお話いたします。

まず、「至徳」とは、「至上の功徳」を
略したお言葉です。
「至上」とは「無上」、「功徳」とは「宝」ですから、
「至徳」とは、「無上の宝」という意味です。


EPSON070.jpg-1.jpg


ここでいわれる「宝」とは何のことでしょうか?
世に「宝」といわれるものは色々ありますが、
その値を、お金の例で考えてみたいと思います。
最近発表された、長者番付の世界一は、
メキシコの通信王、カルロス・スリム・ヘル氏の
5兆6千億円でした。
「兆」とか「億」といわれても
なかなかピンときませんから、
細かい単位に分けて考えてみましょう。
もし、毎日100万円使ったとしたら
5兆6千億円を全部使いきるのに
どれくらいかかると思いますか?
答えは、「約15000年」。
毎日一億円使ったとしても、
約150年かかります。
まさに、「死ぬまで使い切れないお金」です。
これは、一年当たり、約1060億円の収入を
得た計算になり、
一日当たりだと約3億円!
5兆6千億円とは、それほどの大金です。
毎日、3億円が手に入れば、
「宝のような日々」で、
ほとんどの人が「これ以上すごいものはない」
と思われるのではないでしょうか。

●知恵がなければ、ネコに小判、ブタに真珠

しかし親鸞聖人は、
最高無上の宝は、南無阿弥陀仏なり
と言われています。
こう聞きますと、
「南無阿弥陀仏が最高の宝?
5兆円どころか、一万円札よりもありがたいとは
思えんが・・・」
という人も少なくないでしょう。

「南無阿弥陀仏」といっても、
ただの文字としか思えない人ばかりだからです。

そのことをお見抜きの蓮如上人は、
こう教えてくださいます。

「南無阿弥陀仏」と申す文字は、
その数わずかに六字なれば、
さのみ功能のあるべきとも覚えざるに、
この六字の名号の中には、
無上甚深の功徳利益の広大なること、
更にその極まりなきものなり

          (御文章五帖目十三通)

まず、蓮如上人は、「『南・無・阿・弥・陀・仏』
と、たった六字しかないから、
そんなに功徳や、効能があるとは思えないだろう」
と言われています。
読経でも、短いものより
長いほうがありがたく感じるもの。
ましてや、たった六文字だけでは心もとなく
思えてしまう。
そんな迷いの心境を蓮如上人はお見通しで、
こう続けておられます。
だが、この南無阿弥陀仏の六字の中には、
最高無上で甚だ深い功徳がおさまっているのだ。
仰げば果てしなく高く、
底を見れば深さが知れない。
六字の功徳は広くて大きく
天の極まりないようなものだ

言葉を尽くされての大絶賛です。

この偉大な「南無阿弥陀仏」の価値が分からないのは、
ネコに小判、ブタに真珠で、
私たちには、値を知る知恵がないからです。

正しい知恵を持たれたお釈迦さまや、
親鸞聖人、蓮如上人からすれば、
大宇宙の宝が全て収まっている
「南無阿弥陀仏」なのだと明らかなのです。

ですから、
お釈迦さまは、
「『南無阿弥陀仏』の大功徳は、
何億年かかっても説き尽くせない」
と言われ、

親鸞聖人は、正信偈』に
「南無阿弥陀仏」を
「功徳の大宝海」(大きな宝の海)
と言われているのです。

EPSON074.jpg

●「南無阿弥陀仏」は、どんな宝?

では、「南無阿弥陀仏」には、どんな功徳があるのでしょう。
親鸞聖人は『正信偈』に
名号正定業(名号は正定の業なり)
と教えられています。
「名号」とは本師本仏の阿弥陀仏が創られた
「南無阿弥陀仏」のこと。
「正定」は「正定聚」の略で、
今日の言葉で言えば、「絶対の幸福」。
「業」とは「働き」という意味ですから、
ここで、親鸞聖人は、
「『南無阿弥陀仏』の名号には、
すべての人を絶対の幸福にする働きがあるのだ

と言われているのです。

今、「正定聚」を、一言で「絶対の幸福」
と言いましたが、詳しく述べましょう。
「正定聚」とは、さとりの位をいいます。
仏教では、「さとり」といっても、
低いさとりから高いさとりまで
全部で五十二の位があり、
これを「さとりの五十二位」といわれます。
ちょうど相撲取りにも、
下は褌担ぎ(ふんどしかつぎ)から
上は大関・横綱までいろいろな位があるようなものです。
五十二のさとりには、それぞれ名前がついており、
最高の位を「仏覚(仏のさとり)」といわれます。
これ以上のさとりはないので、
「無上覚」ともいわれます。
さとりが一段違えば、人間と虫けらより違うと
いわれますから、
五十二段の仏覚が、
いかに崇高で想像も及ばぬ境地であるか、
お分かりになるでしょう。

その最高無上の仏覚まで到達された方のみを、
「仏」とか「仏さま」といわれるのであって、

死んだ人を「仏」というのは大変な間違いです。
今日まで、この仏覚を開かれた方は、
地球上ではお釈迦さま以外にありません。

これを、「釈迦の前に仏なし、釈迦の後に仏なし」
と言われます。

EPSON072.jpg-1.jpg


中国で天台宗を開いた天台(智顗・ちぎ)も、
「五品弟子位(ごぼんでしい・十段よりも下の位)
までしかさとれなかった」
と臨終に告白していますし、
壁に向かって九年間(面壁九年)、
手足腐るまで修行した禅宗の開祖・達磨大師でも、
三十段そこそこであったといわれます。
仏のさとりを開くことが、
いかに大変なことかが分かります。

「正定聚」とは、いつ死んでも間違いなく(正しく・まさしく)
仏になれると定まった人たち(聚・じゅ)のことであり、
五十一段に相当する位をいうのです。

「正定聚不退転」とも言われ、
「不退転」とは、崩れない、壊れない、
という意味ですから、まさに「絶対の幸福」
といえましょう。
それは、“必ず浄土へ往って仏になれる”
大満足の身となり、
「人間に生まれてよかった」
という生命の大歓喜を獲るからです。

「名号は正定の業なり」とは、
「『南無阿弥陀仏』の六字には、
私たちを『正定聚不退転』の幸福に
救い摂る働きがある」

親鸞聖人が、これ以上尊い宝はないのだよと
仰っておられるお言葉なのです。

●至徳具足の幸せ

しかも、親鸞聖人は、阿弥陀仏から
「南無阿弥陀仏」を丸もらいすると
「至徳具足の益」に生かされる、と教えられます。

「具足」とは、「一体」のこと。
「一体」とは、ちょうど炭全体が
真っ赤な火になったようなものです。

炭のままが火、火のままが炭となって、
どこまでが火か炭か、区別できません。
分けようにも分けられなくなったのが
「一体」です。

EPSON073.jpg-1.jpg


サンドイッチならば、パンと、ハムとサラダなどが
分けられますから、一体とはいわれません。
これは「合体」です。
水と油を混ぜても一体にはなりません。
大悲の願船に乗せていただくと、
大宇宙最高の宝である「南無阿弥陀仏」
と私が一体になります。

この幸せを「至徳具足の益」といいます。
金や財、名誉や地位などは、
苦労して手に入れても、
思わぬ天災、人災で一瞬にして消え失せる。
どんな豪邸のマイホームも、
マッチ1本で灰になる。
形あるものは、盗まれ、流され、焼かれ、
やがて消えてしまいます。
たとえ毎日3億円が手にはいるようになったとしても、
失う不安が常に付きまとい、
死ぬ時には、一円も持ってはいけません。
これらの宝では、私たちは本当の安心や満足を
得ることはできないのです。
「南無阿弥陀仏」と一体になられた親鸞聖人は、
焼けもせず、流されも、盗まれもしない、
いつも満ちている無上の幸福に生かされた。
「不可称・不可説・不可思議の
功徳は親鸞の、身にみてり」
と、誇り高くうたいあげていられます。

今日が満足、ただいまが幸せ、
鳥のさえずる声は、天然の音楽であり、
四季の花の美しさは、この世の極楽の荘厳です。
真実の仏法を知らされれば、
世の財産家を羨む必要は、少しもない。
最後に笑うのは、極善無上の宝と一体となった
心の長者にほかなりません。

「至徳の風しずか」。
無上の幸せの風が静かにそよいでいるとは、
なんと素晴らしいお言葉でしょうか。
「聞く一つ」でどんな人もなれますから、
真剣に、聞法精進いたしましょう。


nice!(16)  トラックバック(0) 
共通テーマ:ネットコミュニティ

我々はいかに心で悪をやっているか! [罪悪深重]

 

(真実の仏教を説いておられる先生の書物「とどろき」から載せています)

生死の苦海ほとりなし
久しく沈めるわれらをば
弥陀弘誓の船のみぞ
乗せてかならずわたしける
       (親鸞聖人)
果てしない苦しみの海に溺れもだえている我々を、
阿弥陀仏の造られた大船だけが、
乗せて必ず、明るく楽しく極楽浄土まで渡してくださるのだ

今回は「弥陀弘誓の船」について解説します。
「弥陀」とは、阿弥陀仏という仏さまのことで、
阿弥陀如来ともいわれます。
阿弥陀如来について、親鸞聖人の教えを
最も正確に伝えられた蓮如上人は、
こう教えられています。

阿弥陀如来は三世諸仏の為には本師・師匠なり
         (御文章二帖目九通)
今日、大宇宙に地球のようなものが
数え切れないほどあるのは天文学の常識ですが、
その大宇宙に数え切れない仏さまがましますと
お釈迦さまは説かれているのです。

これらの仏方を、「三世諸仏」とか、「三世十方の諸仏」
と言われます。

よく知られているのは、大日如来とか薬師如来
奈良の大仏はビルシャナ如来といわれる仏ですが、
皆、「三世十方の諸仏」の一仏です。

「本師・師匠」とは、師、先生ということですから、
阿弥陀如来は、大宇宙の無量の仏方の先生なのです。
大宇宙の仏方が、口をそろえて
「われらが師匠だ、尊い仏さまだ」
と絶賛され、合掌礼拝される仏さまが阿弥陀仏なのです。

逆から申しますと、大宇宙のあらゆる仏は、
阿弥陀如来のお弟子です。
地球のお釈迦さまも諸仏の一人ですから、
弥陀と釈迦は、先生と生徒、師匠と弟子の関係になります。

阿弥陀仏が見て取られた私たちのすがた

次に、「弘誓」とは、「弘い(ひろい)誓い」ということで、
十方衆生(すべての人)と約束されている弥陀の誓願のことです。
これ以上、弘い約束はありませんから、
「弘誓」といわれるのです。
約束は、相手をよく知らねばできません。
阿弥陀仏は、十方衆生をどのような者と見て取られたのか、
『御文章(御文)』にこう教えられています。

それ、十悪・五逆の罪人も、
(乃至)空しく皆十方・三世の諸仏の悲願に洩れて、
捨て果てられたる我等如きの凡夫なり

          (御文章二帖目八通)
私たちは、十悪・五逆という罪を犯し、
大宇宙の仏方から見捨てられた者である

「諸仏に見捨てられるほどの罪を造った覚えはない」
と思われる方がほとんどでしょう。

では、十悪・五逆とはいかなる罪なのか、
まず十悪から説明いたします。

仏教では、私たちの犯すいろいろの罪悪をまとめて、
十悪」と教えられています。

EPSON092.jpg-1.jpg-2.jpg

の十の悪です。

はじめの貪欲、瞋恚、愚痴の三つは
心で犯す罪悪をいいます。

仏教では「殺(や)るよりも 劣らぬものは 思う罪」
といわれ、口や身で犯す罪よりも
心で思う罪のほうが恐ろしいと教えられています。

最初の「貪欲」とは底の知れない欲の心をいいます。
欲の本性は、「自分さえよければよい」
という我利我利の心です。

普段は隠しているようでも、
切羽詰まった時に本性が顔を出す。

ガソリンスタンドの割り込みトラブルが多発し、
注意すると「急いでいるんだ!」と喧嘩が始まる。
JRの職員が「ミスを知られたくなかった」
と機械をハンマーでたたき折り、故障に見せ掛けた。
介護疲れで、「いい加減に死んでくれたら・・・」
の悪魔の心が噴き出る。

こう聞いて自分は絶対そんなことはないと
言い切れる人がいるでしょうか。

EPSON093.jpg-1.jpg
追い詰められると、「邪魔者は消えてなくなれ」
と恐ろしい心が出てきます。
それでいてバレると、「仕方なかった」「あいつのせいだ」
と反省もない。
表面上は頭を下げても心の中は、
どうせ、見えない、聴こえない、ばれないからと、
まるで無法地帯ではないでしょうか。
パチンコに夢中になり、車中のわが子を熱中症で死なせる。
遺産相続をめぐって兄弟姉妹が
骨肉相食む(あいはむ)修羅場と化す。
実の娘に保険金を掛けて殺害する。
自分の欲望を満たすためには、親でも、子でも恩人でも、
どんな恐ろしいことでも考え、やってしまうのが
“人間”という存在のようです。
この欲が邪魔されると出てくるのが「瞋恚」、
怒りの心です。
うまくいかなければイライラし、弱い相手に当たり散らす。
どうして言うことをきかないのかとわが子を怒鳴る。
試合に負ければ、あいつのせいだ、
コーチのせいだとムカツク。
やられたら倍返しでやり返す。
全て自分の思いどおりにしたい我利我利亡者の欲望は
ちょっとしたことで妨げられ、そのたび、
瞋恚の炎が燃え上がります。
心のまな板の上で、あの奴、この奴と切り刻むのは、
「怒」という字にも表れています。
次の「愚痴」とは、妬み、そねみ、うらみの心。
他人の成功を見ては、「あいつだけうまくやりやがって」
「いつもひいきされてずるい」と、妬み心が出てきます。
逆に、他人の不幸を目にすれば、
ごちそうを与えられたように瞳をランランと輝かす。

EPSON094.jpg-1.jpg
いつも馬鹿にする上司、競っても勝てない同輩、
自分より優秀な後輩の失敗には、心の中で拍手喝采。
昔から「他人の不幸は蜜の味」ともいわれ、
脳科学でも証明されたそうです。
妬ましい人物に不幸が起きると、
脳の喜びに関する部分が反応する
実験結果が得られたというのです。

悪性さらにやめがたし
こころは蛇蝎(じゃかつ)のごとくなり
修善(しゅぜん)も雑毒(ぞうどく)なるゆえに
虚仮(こけ)の行とぞなづけたる

     (悲歎述懐和讃)

親鸞聖人は、「死ぬまでやまぬ悪性だ」と言われ、
蛇やサソリを見たときのようなゾッとする心だと
告白なされています。

次に、これらの心が口に表れれば、
綺語、両舌、悪口、妄語としかなりません。
さらに、身では殺生、偸盗、邪淫の悪を造っています。
(口や身の悪の詳細は以下にアクセスしてください)
殺生の限りを尽くしている者が救われるには!
ウソ偽りの私たちを命懸けで救う仏さま

このように、心や口や身で十悪を造り続けている我々は、
自分のまいたタネの結果で苦しみ続けています。
そんな私たちを放ってはおけぬと、
大宇宙の仏方が慈悲の心を起こされたのですが、
我々があまりに悪重く罪深いので、
とても助けられぬとサジを投げてしまわれた。

このことを『御文章』に、

空しく皆十方・三世の諸仏の悲願に洩れて、
捨て果てられたる我等如きの凡夫(人間)なり

と書かれています。

「悲願」とは慈悲によって起こされた願いです。
その「悲願に洩れた」とは、
諸仏でも助けられなかったということで、
私たちからいえば見捨てられた、ということです。

肉体の病で例えるなら、
町医者に「もっと大きな病院で」と言われ、
大病院でも「私の手には負えません」と手を放され、
ついに、すべての医者に見放された重病人のようなものです。
しかも、その自覚が全くないので、なお救い難いのです。

ただ一人見捨てられなかった仏

ところが『御文章』には、続けてこう書かれています。

然れば、ここに弥陀如来と申すは、
三世十方の諸仏の本師・本仏なれば、
(乃至)今の如きの諸仏に捨てられたる
末代不善の凡夫・五障三従の女人(すべての人)をば
弥陀にかぎりて、「われひとり助けん」
という超世の大願を発して

大宇宙のすべての仏に見捨てられた者なら、
なおさら捨ててはおけぬと、
ただ一人立ち上がってくだされたのが
本師本仏の阿弥陀仏なのだ。
弥陀だけが“決して見捨てはしないぞ、必ず助ける”
と、世を超えた、大慈悲の願いを起こしてくだされたのだよ

蓮如上人は教えてくだされています。

このことは、
お釈迦さまが『大無量寿経』というお経に説かれ、
親鸞聖人も『教行信証』に記されています。

その弥陀の誓願の原文は漢字三十六文字ですが、
今日の分かりやすい言葉に直しますと、
「どんな人も 我をたのめ
必ず絶対の幸福に救う」
というお約束です。

親鸞聖人は船に例えて、「弥陀弘誓の船」と仰り、
すべての仏が束になっても救えない極悪人を、
この世から絶対の幸福に救済する力を持っておられるのは
弥陀一仏
ですから、「弥陀弘誓の船のみ」
と教えられているのです。

弥陀弘誓の船に乗せていただくための人生

私たちは、苦しむために生まれてきたのでも、
生きているのでもない。
弥陀弘誓の船に乗せていただき、
“人間に生まれてよかった!”
の生命の歓喜を獲るために生を受けたのです。

弥陀の願船に乗せていただければ、
この世は絶対の幸せに生かされ、
来世は必ず阿弥陀仏の極楽浄土・無量光明土
(無限に明るく楽しい世界)に連れて行っていただけます。
まさに永の迷いの打ち止めであります。

生死の苦海ほとりなし 久しく沈めるわれらをば
弥陀弘誓の船のみぞ 乗せてかならずわたしける

このお言葉は、溺れ苦しみ続けた生死の海を離れ、
一日も早く弥陀弘誓の船に乗って光明輝く世界に出てくれよ、
との親鸞聖人のやるせないお気持ちが込められています。

一生造悪値弘誓(一生悪を造れども、弘誓に値〈もうあ〉いぬれば)
至安養界証妙果(安養界に至りて、妙果を証せしむ)
              (正信偈)
一生造悪の極悪人ではあるが、
弥陀弘誓の船に乗せていただければ、
来世は必ず阿弥陀仏の浄土(安養界)へ往って、
弥陀と同じ仏のさとり(妙果)を
開かせていただくことができるのだよ

仏法は聴聞に極まる。聞く一つです。
先哲は、苦労して聞け、真剣に聞け、
続けて聞けとも教えておられます。
身代わりは立ちません。
今ハッキリするのが、弥陀の救いです。
後悔を残さぬよう
弥陀の本願をツユチリの疑心もなくなるまで、
真剣に聴聞いたしましょう。


nice!(7)  トラックバック(0) 
共通テーマ:資格・学び

阿弥陀仏のご念力(光明)とはいかなるものか [阿弥陀仏]

正信偈』の冒頭、
帰命無量寿如来
南無不可思議光」の二行は、
阿弥陀如来に親鸞、救われたぞ!
阿弥陀如来に親鸞、助けられたぞ!

という聖人の魂の叫びです。

EPSON128.jpg-1.jpg


同じことを繰り返されているのは、
二回、三回だけではない、
何万回言っても言い尽くせぬ歓喜の表明なのです。

では聖人が、「救われたぞ!」と叫んでおられるのは、
何のことでしょうか。

無限に言わずにおれないほどの喜びとは、
いったいどうなったことなのでしょうか

世の中にうれしいことはいろいろあります。
オリンピックで金メダル、世界の栄誉ノーベル賞、
宝くじで3億円が当たる。
いずれも狂喜乱舞することでしょうが、
聖人の歓喜は、それらとは全く質が異なります。
「親鸞、弥陀に救い摂られたぞ!」
と踊躍歓喜されているのは、平生の一念に、
「後生の一大事を解決された」ことなのです。

「後生の一大事」とは、どんなことなのでしょうか。

仏教の目的・・・後生の一大事

4歳でお父さま、8歳でお母さまを亡くされた聖人は、
今度死ぬのはオレの番だ、死ねばどうなるのか”
と驚かれ、9歳で仏門に入られました。

死後がハッキリしない。
どれだけ考えても分からない。
真っ暗がりの後生を、仏教では「後生の一大事」といわれます。

“後生暗い心のまま一息切れたならば、
暗い世界に堕ちねばならぬ、
なんとしても後生明るくなりたい”と、
「明日ありと 思う心の あだ桜 夜半に嵐の吹かぬものかは」
のお歌とともに聖人が出家されたのは、
9歳の御時でした。

EPSON001.jpg-1.jpg


私たちは皆、「明日がある」と思っています。
だからこそ、明日はこうしよう、
明後日はあれをしよう、来年は留学しよう、
などと計画を立てているのです。

さらに、20年後はこうして、
30年後はああなって、と夢を描いている、
これが「明日ありと思う心」です。
ところが、今晩死ねば今晩から後生、
「明日はなかった」ことになる。
「明日ありと思う心」は、必ず裏切られるのです。

(平成20年のとどろきより載せています)
先日も、大阪・ミナミの個室ビデオ店の火災で
16人は亡くなりました。
夜中の2時、放火による一酸化炭素中毒でした。
犠牲者の一人は、5年程前、介護福祉士を目指して
大阪市内の介護サービス会社に入社。
知人らに「一生を介護にささげる」
と意気込みを語っていたそうです。
同僚の男性は、
「お年寄りの入浴など体力が必要な仕事も
進んで引き受けてくれた。
一緒に飲みに行き、夢を語っていたのに信じられない」
と沈痛な表情を浮かべたといいます。
思い描いていた明日の夢が、
一夜で絶たれた悲しい事件でした。
今日も、交通事故や災害、病気で亡くなる人が、
どれだけあるか分かりません。
老少不定で、年齢は関係ないのです。
これを書いている私も、読まれている皆さんも、
遅くとも百年のうちには、
「明日がない」という「今日」を迎えねばなりません。
それがいつかは分かりませんが、
早ければ今晩かもしれない。
ということは、「明日がある」と思う心は、
まったく当てになりません。

これを聖人は「あだ桜」といわれ、
“咲き誇る満開の桜も、夜中に一陣の嵐で散ってしまう。
その桜より儚いのが私の命。
明日とは言ってられません、どうか今、出家させてください”
と、切迫した心境を歌われているのです。

親鸞聖人が仏道を求められた目的は、
富や名声を得ることでもなければ、
学問や地位のためでもない、
「後生暗い心」の解決一つであったことが、
お分かりになるでしょう。

そのために29歳まで20年間、
比叡山で血のにじむ修行に打ち込まれました。

救いたもう仏は、弥陀一仏だけ

ところが、どれだけ求めても、
暗い後生に明かりを灯すことはできませんでした。

泣く泣く下山され、どこかにこの一大事、
解決の道を説かれる方はないか、
導きたもう高僧ましまさぬのかと、
京の街をさまよっておられた聖人が、
やがて「阿弥陀如来の本願」を説かれる
明師・法然上人に巡り遇われたのです。

EPSON003.jpg-1.jpg

釈尊がこの世にお出ましになられたのは、
阿弥陀如来の本願一つを説かんがためでありました。
この法然も、弥陀の本願によって、
救われたのです。
13歳で出家してより、27年間、
比叡での難行・苦行も、京都・奈良で学んだ、
華厳・法相などの学問も、
この法然の後生の一大事の解決には、
なりませんでした。
泣く泣く山を下りました。
黒谷で、7000余巻の釈尊の説かれた経典をひもとくこと、五回。
法然のような者でも助かる道がなかろうかと、
探し求めました。
そして、ついに、私一人を助けんがための、
阿弥陀仏のご念力が届いた一念に、
法然の暗黒の魂が光明輝く心に救い摂られたのです。
その不思議、その驚き、尊さは、
心も言葉も絶え果てて、ただ泣くだけでした。
まことに皆の人、一日も早く、
阿弥陀仏の本願を聞き開いてください。
いかなる智者も、愚者も、弥陀の本願を信ずる一念で、
救われるのです。
よくよく聞いてください


法然上人の一言一言は、甘露の法雨となって
渇き切った魂を潤していく。
雨の日も風の日も聖人はひたすら、
法然上人から「弥陀の本願」を聞き求められました。
そして29歳の御時、
“この親鸞を救いたもうお方は、
大宇宙広しといえども、
本師本仏の阿弥陀如来ただお一人であった”
と、往生一定の「後生明るい心」に救い摂られた大満足を、
「阿弥陀如来に親鸞、救われたぞ!
阿弥陀如来に親鸞、助けられたぞ!」
と叫ばれているのが、
『正信偈』の最初の2行なのです。

闇に泣き、光を求めて20年。
待って待って待ちわびた「弥陀の救い」に、
ようやく遇えた大歓喜の告白です。

「弥陀に救われた」とは、だから、
生きている現在、「後生暗い心」がぶち破られて、
“いつ死んでも浄土へ往ける”
大安心の身に救い摂られたことであることが、
お分かりになるでしょう。

これを「後生の一大事の解決」といわれます。

EPSON004.jpg-1.jpg

では、どうして阿弥陀如来は、
現在ただ今ハッキリ救うことができるのか。
「後生の一大事」を解決して下さる弥陀のお力とは、
どういうものなのか。

それについてはお釈迦さまが
『大無量寿経』に説かれていることを、
親鸞聖人は実体験され、

正信偈』に褒め称えておられるのが、
「十二光」といわれるものです。
「光」とは、仏さまのお力、ご念力のこと。
「光明」とも言われます。

阿弥陀如来の光明(お力)を、
十二に分けて教えられているのです。
今回は「無辺光」「無碍光」「無対光」「光炎王光」
について述べましょう。

EPSON005.jpg-1.jpg

無辺光

「無辺光」とは、阿弥陀如来のお力には
「ほとりがない」こと。
阿弥陀如来のお力の届かぬ所はない、
どんなところにも、働いてくだされている。
「ここには阿弥陀如来のお力がかかっていない」というところは、
地球上にも、大宇宙にもどこにもない。

ですから、「いつでも助かる」ということです。
畑仕事している時でも、風呂に入っている時でも、
出張している時でも、病院のベッドにいる時でも、関係ない。
「ここにいる時でないと助からない」とか、
「あそこにいては救われない」ということは、
一切ない。

弥陀の救いは、いつ、どこで、ということは決まっていません。
その阿弥陀如来のお力を、
「無辺光」と言われているのです。

●「無碍光」の「碍」は障碍、さわりということですから、
「無碍光」とは、「遮るものがない」阿弥陀如来のお力のこと
阿弥陀如来のお力は、遮蔽するものがない。
妨げるものが何もありません。

「無碍光」ですから、
私たちを「無碍の一道」に出させてくださるのです。
「無碍の一道」とは、欲や怒り、
ねたみやそねみなどの煩悩も、
浄土往生の碍りとならない大安心のこと。

親鸞聖人は、この不可思議な世界に雄飛せられた体験を、
歎異抄』には、
念仏者は無碍の一道なり」(第七章)
と高らかに宣言されています。

無対光

「無対光」とは、「対するものがない」
阿弥陀如来のお力のこと。

他に比べるものがない。
大宇宙のすべての仏方が束になっても到底及ばぬ、
もの凄いお力である
ことを、
お釈迦さまは、

無量寿仏の威神光明は最第一にして
諸仏の光明の及ぶこと能わざる所なり 
   
           (大無量寿経)
諸仏の中の王なり、光明の中の極尊なり、
光明の中の最明無限なり

           (大阿弥陀如来)

とも説かれています。

大宇宙の仏方に見捨てられた極悪の私たちを、
「我一人助けん」
とただ一仏奮い立たれて、
「無碍の一道」に助け切ってくだされる
のが
阿弥陀如来ですから、その無類の光明を「最尊第一」
「最明無極」と言われ、
「無対光」と絶賛されて当然でしょう。

光炎王光

仏教では、“私たちが人間に生まれるには、
五戒といわれる色々の戒律を持たね(たもたね)ばならない”
と教えられているのですが、

法の鏡に照らされて自分の姿をよくよく見れば、
とてもそんな戒律を持って(たもって)きた殊勝な者とは思えない。

では、どうしてそんな私が、人間に生まれることができたのか。
人界受生の難しさを知れば、
なおさらそう思わずにおれないでしょう。

源信僧都は、こう言われています。

まず三悪道を離れて人間に生るること、
大なるよろこびなり。
身は賤しくとも畜生に劣らんや、
家は貧しくとも餓鬼に勝るべし、
心に思うことかなわずとも地獄の苦に
比ぶべからず  
  
         (横川法語・よかわほうご)

まず、人間に生まれることはいかに有り難く、
喜ぶべきことかを、地獄・餓鬼・畜生界といわれる
苦しみの激しい三つの世界と比較して、
分かりやすく教えておられるお言葉です。


では、その人間に生まれたのは何のためでしょうか。
仏法を聞くためなのだと、
親鸞聖人は断言されています。


仏法を聞いて「後生の一大事」を解決し、
「人身受け難し、今已に受く」
“人間に生まれてよかった”
という生命の大歓喜を獲るため、
一切の碍がさわりとならぬ
「無碍の一道」へ出るための人生なのだよと、
親鸞聖人は生涯教え続けていかれました。

その仏法を聞くことができるのは、
六道の中で人間界だけですから、
阿弥陀如来が私たちを、なんとか仏法を聞かせて
「無碍の一道」に出させるために、
その人間界に生まれさせてくだされた絶大なお力を、
「光炎王光」と言われているのです。

(※六道とは、苦しみの絶えない6つの世界。
地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界、人間界、天上界をいう)


nice!(21)  トラックバック(0) 
共通テーマ:資格・学び

阿弥陀仏の命を懸けた誓いゆえ [阿弥陀仏]

(真実の仏法を説いておられる先生の書かれた「とどろき」より載せています)  

弥陀仏本願念仏(弥陀仏の本願念仏は、)
邪見驕慢悪衆生 (邪見・憍慢の悪衆生)
信楽受持甚以難 (信楽受持すること甚だ以て難し、)
難中之難無過斯 (難の中の難これに過ぎたるは無し)
          (親鸞聖人・正信偈)

まず「弥陀仏の本願念仏」から説明しましょう。
弥陀仏とは、阿弥陀仏のこと。
大宇宙のあらゆる仏から、我らの先生、
本師本仏と仰がれるお方です。

本願とは誓願ともいわれ、お約束のことです。
阿弥陀如来の誓約どおりに救われると、
必ず報恩謝徳の念仏を称える身になります。
それで親鸞聖人は、阿弥陀如来の本願を
「弥陀仏の本願念仏」と言われています。
弥陀の本願を知らねば、後の三行も分かりませんから、
まず、弥陀の本願とは何かを
よく知っていただきたいと思います。

阿弥陀如来の本願は、
『大無量寿経』に漢字三十六文字で
書かれていますが、分かりやすく一言で言えば、
「すべての人を、必ず絶対の幸福に救う」
というお約束です。

相手を知らずに約束はできません。
例えば、金銭の貸借の約束でも、
相手構わずにできるものではないでしょう。
重大な約束であればあるほど、
相手をよくよく調査するはずです。

では、阿弥陀如来は全人類を、
どのようなものと見て取られて
約束されているのでしょうか。

「親殺し」は、恐ろしい五逆罪

阿弥陀如来は、すべての人は逆謗だと仰せです。
逆謗とは、五逆罪・謗法罪を造り通しの
極悪人ということです。

生き物を殺したり、うそをつくのも罪悪ですが、
もっと恐ろしいのが五逆の罪であり、
その最初に挙げられているのが親殺しの罪です。

十六歳の少年が金属バットで
お母さんを殴り殺したとか、
五十代の男が年老いた母親を
刺し殺したなどという事件を、
時々耳にします。
赤ん坊のころは、お乳を飲ませてもらったり、
おしめを取り替えてもらったのではありませんか。
病気になれば寝ずに看病してもらい、
離れていてもいつも心配してもらって
成長してきたのです。
そんな大恩ある親を自ら手で殺すなど、
人間の心を持たぬ
鬼の仕業ではないかとさえ思われます。
仏教では、親殺しは無間地獄へ堕ちる恐ろしい
無間業であると教えられています。

ところが親鸞聖人は、手にかけて殺すばかりが
親殺しではないのだよと、
「親をそしる者をば五逆の者と申すなり」(末灯鈔)
と言われています。

親をそしるのも五逆罪なのです。
「早く死んでしまえ」などと言うのは無論ですが、
「うるさい」「あっちへ行け」などと、
ののしるのも親を殺しているのです。

EPSON029.jpg-1.jpg

心の罪が最も重い

また、仏教では、
殺るよりも、劣らぬものは、思う罪
といわれ、
体や口より、最も重いのは
心で殺す罪だと教えられます。

例えば、一つ屋根の下に暮らしておりながら、
ろくに口もきかず、食事も別々に取り、
呼ばれても聞こえないふりして
親を邪魔もの扱いしているのは、
心で殺しているのです。
親が病気で寝たきりにでもなると、
“邪魔だなあ”“いい加減に死んでくれたら”
と、とても他人には言えない心が
出ては来ないでしょうか。

ある三人の兄弟が、父親が亡くなったので、
土地と屋敷を売り、相続税を払い、
残りを兄弟で分けました。
ところが、独りになった母親の面倒をだれが見るかで
話し合いをしても世話を嫌う者ばかり。
結局、兄弟でたらい回しにした揚げ句、
施設に入れてしまいました。

年老いた母親は、
「子供がいないほうがましだった」
と嘆き悲しみ、
今では生きる気力を失ったように
過ごしているそうです。

EPSON030.jpg-1.jpg
親が元気で、小遣いをくれたり
仕送りしてもらえる間は、
ありがたいと生かしておき、
肉体が衰え世話が必要になると、
忘恩(ぼうおん)の徒となり、
“面倒だ、いい加減に・・・”と抹殺する。

手にかけて殺してはいなくても私たちは、
心でどれだけ親を殺しているか分かりません。


また、
“こんなに苦しいのなら死んだほうがましだ”
と思ったことのない人があるでしょうか。

“生んでさえくれねば、苦しまなくてもよかったのに”
と親を恨み、のろっている心ですから、
心で親を殺していることになります。

全人類が救われる唯一の道を壊す大罪

五逆よりも恐ろしいのが謗法の罪です。
謗法罪とは、真実の仏法をそしったり
非難する罪をいい、
これも無間業だと教えられています。

(※無間業とは、無間地獄に堕つる罪のこと)
かの聖徳太子が、
「四生の終帰、万国の極宗」
と断言されたように、
古今東西の全人類が救われる
たった一本の道が仏教です。
そんな仏教を誹謗することは、
全人類が救われる唯一の道をぶち壊すことであり、
幾億兆の人を地獄へ突き堕とすことになりますから、
これ以上恐ろしい罪はないのです。

しかし、「仏法も鉄砲もあるか」「仏教なんて迷信だ」
「邪教だ」とののしる者だけが、
謗法の大罪を造っているのではありませんよ、

と親鸞聖人は、
「善知識をおろかに思い、師をそしる者をば、
謗法の者と申すなり」    (末灯鈔)
と教えられています。

真実の仏法を説かれる
善知識をおろそかに思うことも
謗法の罪なのです。
居眠り半分で仏法を聞いているのは、
善知識をおろそかに思っている表れでしょう。
尊く思えば、居眠りなどできるはずがないからです。

それだけではありません。
“今日の話は長かった”“短かった”と、
善知識の教えを批評しているのも謗法罪です。

なぜなら、先生は子供の答案の善し悪しが分かりますが、
子供は先生の答案の善し悪しが分かりませんから
採点ができません。
善知識の教えを「ああだ」「こうだ」と採点しているのは、
善知識の上に立ち、
おろそかにしていることに違いありません。

しかも、このように五逆罪・謗法罪を
造り通しの悪人だと聞かされても、
罪を罪とも思わず、悪を悪とも思わず、
地獄と聞いても驚かず、
極楽と聞いても喜ぶ心がない脈のあがった心ですから、
親鸞聖人は、「逆謗の屍(ぎゃくほうのしかばね)」
と言われています。

仏眼からごらんになれば、全人類は例外なく、
逆謗の屍なのです。

ところが私たちはうぬぼれ強く、
逆謗の屍が自分だと思っていません。
だれのことかと思っています。

これを憍慢(きょうまん)といいます。

●「憍慢」とは、どんな心か

憍慢とは、地獄しか行き場のない
真実の自己が分からず、
己(おのれ)は善人だとうぬぼれて、死んだら極楽、
死んだらお助けと寝とぼけている心です。

まさか地獄へは堕ちんじゃろ」
「朝晩ちゃんと勤行もしているのだから、
悪いところへは行かんだろう」
「このオレが地獄へ堕ちるとすれば、
隣のばあさんはどこへ行くのか」
「これだけお念仏称えているのだから、
いつ死んでも大丈夫だ」
「素直に本願を信じ、念仏喜んでいるもの、
間違いなかろう」
「他人から指さされるような悪いことは、
しておらんからよかろう」

挙げればキリがありませんが、
このような心の動いている人を、
憍慢の悪衆生というのです。

●生きてよし、死んでよしの幸福に

すでに阿弥陀如来が見抜かれたとおり、
すべての人は逆謗の屍。
その逆謗を「絶対の幸福」に助けると
約束されているのが弥陀の本願です。

EPSON031.jpg-1.jpg
私たちは、手に入れても色あせ、
つかんでも夢と消える幸福しか知りません。
本当の安心、満足を切望しながら、
幸福に見放される不安が付きまとい、
どこまで求めても満たされず渇いています。

そんな私たちを、何があっても絶対に変わらぬ
大安心・大満足に助けると、弥陀のお誓いなのです。

もちろん、現在生きている時にです。
この不壊不変(ふえふへん)の未来永遠の
幸福になることこそが、人生の目的なのです。

ゆえに弥陀の誓約どおりに救われますと、
“人間に生まれてよかった、
この身になるための人生であったのか”
と生きてよし、死んでよしの幸福に満ちあふれます。

ところが、いまだ体験したことのない、
夢にも見たことのない境地。
そんなことになれるはずがないと、
私たちは全く受け付けません。
これが邪見です。

●「邪見」とは、どんな心か

邪見とは、阿弥陀如来の本願を
計らっている心をいいます。

仏智の不思議を拒否する心で、
「凡夫がそんなにハッキリ救われるものではない」
「人間に、日本晴れの大安心なんてなれるはずがない」
「我々のような悪人に大満足なんかある道理がない」
「この世で助かったということはありえない」
「生きてよし死んでよしなんかに、なれるものじゃない」
と、本願力の不思議が体得できず、
法の真実を計らっているのを皆、
邪見というのです。

世の中に、これ以上の難はない

地獄行きと聞かされても、だれのことじゃ、
オレは違うとうぬぼれている憍慢。
絶対の幸福に救うと言われても、
そんな幸福になれようかと計らっている邪見。

すべての人は邪見憍慢の悪衆生ですから、
弥陀の本願まことをまことと信じること(信楽受持)
は難中の難なのです。

それを親鸞聖人は、
邪見・憍慢の悪衆生、信楽受持すること、
甚だもって難し、難の中の難、これに過ぎたるは無し

と言われているのです。
世の中に難しいことはいろいろありましょう。
「一兆円の財産を持つことはできるか」
と問われれば、だれでも腰抜かすほど難しいと思うでしょう。
イチロー選手の年俸が約5億円とすれば、
単純計算では、飲まず食わずで全額貯金し、
2000年かかってようやく一兆円です。
ところが弥陀の救いにあうことは、
一兆円の財産を築くぐらいではありません。
100年や200年求めて得られるちっぽけな幸せとは
ケタが違うぞと、親鸞聖人は、
“多生にもあい難い本願力に、今あえたり。
億劫にも獲難き真実の信心を、今獲たり”
と叫ばれたとおり、多生億劫の目的なのです。

「一生参学の大事」
「仏道を求めることは、
大宇宙を持ち上げるよりも重いぞ」
「信心獲得は難の中の難、これ以上の難はない」
と言われるのも当然でしょう。

●若不生者のちかいゆえ

そこで阿弥陀如来は、
「必ず助ける、もしできなければ命を捨てる」
と誓われるのです。

救わずばおかぬの強烈な「阿弥陀如来の本願」と、
真実聞く耳のない「邪見憍慢の悪衆生」とが
一騎打ちをするのです。

邪見と憍慢の者は、信を獲ること甚だ難しい、
これほど難しいことはない」

しかし、命懸けの弥陀のご念力が生きて働いてますゆえに、
難中之難無過斯(なんちゅうしなんむかし)を突破させられ、
信楽受持の身にさせていただける時が、
必ずあるのです。

若不生者のちかいゆえ
信楽まことにときいたり

       (浄土和讃)
“阿弥陀如来の命を懸けたお約束があるのだから、
間違いなく絶対の幸福の身になれる時がくるのだぞ”
そこまで求め抜いてくれよの親鸞聖人のお言葉です。

 


nice!(17)  トラックバック(0) 
共通テーマ:ネットコミュニティ

ウソ偽りの私たちを命懸けで救う仏さま [罪悪深重]

 (真実の仏法を説いておられる先生の書かれた「とどろき」より載せています) 

生死の苦海ほとりなし
久しく沈めるわれらをば
弥陀弘誓の船のみぞ
乗せてかならずわたしける

       (親鸞聖人)
果てしない苦しみの海に溺れもだえている我々を、
阿弥陀仏の造られた大船だけが、乗せて必ず、
明るく楽しく極楽浄土まで渡してくださるのだ


今回もこの親鸞聖人のお言葉を解説いたします。
前回は、「弥陀弘誓の船」についてお話ししていました。
「弥陀」とは、すべての仏の師である阿弥陀仏、
「弘誓」とは、“すべての人を
必ず絶対の幸福に救う”お約束。

阿弥陀仏は、全人類(十方衆生)を
相手取って誓われているのです。

相手を知らずして約束はできません。
阿弥陀仏は、約束の相手、十方衆生(すべての人)を
どのように見られているのでしょう。

『御文章(御文)』に分かりやすく、書かれています。

我が身は極悪深重の浅ましき者なれば、
地獄ならでは赴くべき方もなき身なるを、
辱くも弥陀如来ひとり助けんという
誓願を発したまえり

           (御文章二帖目九通)
弥陀は私たちを、極悪深重の者、
地獄しか行き場のない者と見抜かれ、
「われ一人、助けよう」と誓われている。


前回から、仏教で教えられる十の罪悪を解説しています。

心で犯す罪
①貪欲
②愼恚(しんい)
③愚痴

口で犯す罪
④綺語(きご)
⑤両舌(りょうぜつ)
⑥悪口(あっこう)
⑦妄語(もうご)

身で犯す罪
⑧殺生
⑨偸盗(ちゅうとう)
⑩邪淫

今回は、口で犯す罪です。


人間関係の多くは言葉遣いによって決まるといわれ、
「言葉で人生は決まる」「大人の会話力」などの本が
世にあふれています。
確かに人は、ちょっとした言葉で傷つくもの。
容姿を悪く言われ、
落ち込んでいる娘を慰めようとした父親が、
「おまえ、人間は顔じゃないぞ」
と言うところを、
「おまえ、人間の顔じゃないぞ」

と言ってしまったり、
新人女子社員が電話で
「どちらさまですか」を
「何様(なにさま)ですか」
と聞いてしまったり、

妻をたしなめるため、
「バカモノ!」と言うべきところ、
「バケモノ!」と怒鳴って収拾がつかなくなったり、

そばで聞けば笑い話でも、
当事者たちは、言葉一つで修羅場が現出します。

EPSON008.jpg-1.jpg

口で犯す、四つの悪

「口に四悪を好むなり」といわれ、
仏教では、口で四つの悪を造ると教えられます。
順番に見ていきましょう。

【綺語】
綺語とは、おべっか、へつらいの言葉。
「巧言令色(こうげんれいしょく)、鮮し仁(すくなしじん)」
という故事成語があります。
“口先だけうまいことを言ったり、
上辺だけ愛想よく取り繕って媚びへつらうさまは
誠実に欠ける”という意味です。
「口に密あり、腹に険あり」で、
甘い言葉の奥に、
金や出世の策略が巡らされています。
「下いびりの上へつらい」という言葉もありますが、
部下には毒舌、上司には甘言でこびる醜さは、
他人に見えても自分にはなかなか気がつかぬものです。

【両舌】
両舌は、二枚舌。
友達を仲たがいさせるもので「離間語(りかんご)」
ともいいます。
仲良しを見るとしゃくに触り、
一方には、
「あの人、裏ではこんなひどいことを言っているのよ」
と吹き込み、
もう一方にも同じことを言う。
初めは二人とも「まさか」と思いますが、
やがて疑心暗鬼が生じ、
関係がギクシャクしてくる。
それを見て、「しめしめ」とほくそえむ。
こんなのが両舌です。

EPSON009.jpg-1.jpg

【悪口(あっこう)】
文字どおり、悪口のこと。
心無い一言や悪意に満ちた言葉は「舌刀」となって、
深く人を傷つけます。
昔、丹波(京都)に百歳を超えた老婆がいた。
「いちばん思い出深い話は?」
との問いに
「もう何もかも忘れてしまったが、
二十四回殺されたことだけは忘れられん」
どういうことか尋ねると、悲しげに老婆が言う。
「ワシの家では子や孫が先立ち、
二十四度の葬式を出した。
そのたびに参列者が、
『ここのばあさんと代わっておれば・・・』
と言ったのじゃ。そのつど、ワシは殺された」
言ったほうは無自覚でも、
言われたほうは死ぬまで忘れられないもの。
私たちも知らずに言葉で
どれだけ人を殺していることか。

EPSON010.jpg-1.jpg
いじめでも、言葉の暴力が問題視されています。
特に、インターネット上は無法地帯。
十年以上、十数人から
殺人者扱いされ続けた芸能人もいる。
しかも、捕まった中傷者たちは、
「ネットの情報にだまされた。
自分も被害者だ」
「あなたは悪口言われただけではないか、
離婚した自分のほうがつらい」
と反省もなく、
「表現の自由」を振りかざす者もあった。
刑事から
「表現の自由なら自分の名前が書かれてもよいのか」
と問われると、
「芸能人はよいが、自分は一般人だから嫌だ」
と嘯いた(うそぶいた)といいます。
被害者は、中傷犯たちの顔写真を見て
「どこにでもいる普通の人」
という印象を持ったという。
匿名だと本性をむき出し、
辛辣な攻撃をする人間へと変貌する。
集団化もしやすく、安易に中傷サイトを見ていると
「語殺」の共犯者になりかねません。
その報いは一人一人が
受けていかねばならないでしょう。

【妄語】
事実無根のウソをつくこと。
「私はウソは申しません」と言った政治家があったが、
これほどの大ウソはありません。
「ウソつきの受ける罰。
それは、人が信じてくれなくなることだけでなく、
誰も信じられなくなることにある」
          (バーナード・ショー)
お釈迦さまは経典に、
「心口各異(しんくかくい) 
言念無実(ごんねんむじつ)」
と説かれています。

心で思うことと口で言うことはそれぞれ異なり、
いずれにも真実がない。
これが私たちの真実の姿だと教えられています。

あまりに私たちは平気でウソばかりついているので、
醜いという感覚が麻痺してしまって、
ウソをついているという自覚すらありません。
ちょうど、臭いトイレの中に長くいると鼻がバカになって、
臭いと感じなくなってしまうようなものです。

EPSON011.jpg-1.jpg

命がけの弥陀の救い

このようにウソ偽りばかりの全人類は、
悪を造り続けながらも自覚がなく、
ほとりなき苦しみの海に溺れもだえています。
まさに自業自得。

諸仏から見捨てられても文句の言えない我々です。
そんな私たちを相手に、

若不生者 不取正覚
(若し生まれずは、正覚を取らじ)
もし、絶対の幸福(往生一定)に生まれさせることが
できなければ正覚(仏のさとり)を捨てる

と、命懸けて誓われた仏さまがおられます。
その仏こそ、すべての仏の先生である阿弥陀仏です。

このことを親鸞聖人は、こう和讃されています。

若不生者のちかいゆえ
信楽まことにときいたり
一念慶喜するひとは
往生かならずさだまりぬ

       (浄土和讃)

阿弥陀仏が「若(もし)」の一字に命を懸けて
「必ず救う」と誓ってくだされたからこそ、
諸仏にも捨てられた虚仮不実の私たちが、
絶対の幸福(信楽)に救われる。
平生の一念、絶対の幸福になった人は、
「人間に生まれてよかった」の大慶喜を獲(え)、
死ねば必ず弥陀の浄土・無量光明土に往って
仏に生まれられるのだ、との仰せです。

仏語に虚妄なし」
ウソをつかれぬ方が仏さま。

ましてや本師本仏の阿弥陀仏にウソはありません。
“我々凡夫の真実(まこと)は、真実がないのが真実
仏の真実は、真実があるのが真実”

真実(まこと)なき私たちは、
真実一杯の弥陀弘誓の船に
乗せていただく以外、
本当の幸せになれる道はないのです。

弥陀弘誓の船に乗ずる唯一の道

この弥陀弘誓の船に乗せていただくには、
弥陀の本願を聞く一つ。

ですから、親鸞聖人は、
「聞思(聴聞)して遅慮することなかれ」
モタモタせずに弥陀の本願聞き抜けよ
と、今日もあなたのそばで念じておられます。
そして、「自分のような罪深いものはとても・・・」
「これだけ聞いてもダメだから・・・」
と悲しむ私たちに、

無明長夜の灯炬なり
智眼くらしと悲しむな
生死大海の船筏(せんばつ)なり
罪障重しと嘆かざれ

       (正像末和讃)

長い夜のような暗い心を晴らす光あり、
生死(苦悩)の大海を渡す弥陀の大船ましますから、
どんなに罪重く、さわり多くとも
「悲しむな」「嘆かざれ」と励まし、
押し出してくださっているのです。

「虚仮不実の私一人がための本願であった」
と悲嘆の涙が歓喜の涙に変わるまで、
阿弥陀仏の本願を真剣に聞かせていただくことが
何より肝心なのです。


nice!(15)  トラックバック(0) 
共通テーマ:ネットコミュニティ

弥陀はどう我々を救ってくださるのか!?(その道程) [Q&Aシリーズ]

(真実の仏教を説かれている先生の書かれた「とどろき」より載せています。) 

大宇宙の諸仏方から本師本仏と仰がれている阿弥陀仏には、
四十八のお約束があります。
弥陀の四十八願といいます。

その中で
「あらゆる人を救う」
と誓われた願が三つあります。

十八、十九、二十願がそれです。

十八願は、率直に阿弥陀仏が
「どんな人をも、必ず、絶対の幸福に救う」
と、本心を誓われたものですから、
王本願といいます。

ところが、うぬぼれ強く、相対の幸福しか知らない私たちを、
絶対の幸福にまで導くことは大変で、
種々の方便が必要だったのです。
十九、二十の願は、そのために誓われたものです。

十九願には、
十方の人々が、人生の苦しみの連続に驚いて、
どうしたら平和な安楽な世界に生まれることができるのか。
それには、悪を慎み、善を励まなければならないと
奮発心をおこし、あらゆる善を一生懸命実行して、
その力で我が国(浄土)に生まれたいと願う者は、
臨終に諸仏菩薩に取り巻かれて迎えに行こう」
と、約束なされています。


因果の道理は宇宙の真理、
善因善果、悪因悪果、自因自果には寸分の狂いもない。

知っただけでは観念の遊戯に終わり、
実行しなければ善果は得られない、
と真面目に全力尽くしてやってみると、
悪はやみ難く善は成し難い悪性ばかりが知らされて
泣かざるをえません。


二十願はそんな人に誓われた弥陀の約束です。
十方の人々が、南無阿弥陀仏の名号を聞いて、
念仏を称え、その功徳の力で、
我が国(浄土)に生まれたいと願う者は、
必ず、思いを遂げさせてあげよう」と。

そこで誠心誠意、一心不乱に念仏を称えようと、
つとめればつとめるほど、
散乱麁動(さんらんきどう)の心ばかり見えてきて、
こんな雑念で称えていてもよいのだろうか、
こんな乱れた心で称えていても本当に助かるのだろうか、
と不安な心が出てきます。

また悪い心や、悪い行為をしながら称えていても、
功徳にならぬように思えるので、
悪を慎み善を励んで、念仏しようとするのですが、
見えてくるのは悪ばかり。

励めば励むだけ、乱れる心はやまず、
悪しか造れない自己が知らされ不安で苦しいから、
こんな者でも死んだらお助け、
と安心して喜ぼうとしますが、
助かっていないから喜ばれるはずがありません。
法の尊さに感激した時は、
助かるようにも思いますが、悪性が現れると、
こんなことでは助からんのではなかろうかと、
堕ちるような気がする。

念仏は称えているが、自分の心の善し悪しで、
参ってみたり堕ちてみたり、
常に不乱動乱がやまないのです。


十九、二十願で無能無力、真実のカケラもないことを知らせ、
次の十八願で絶対の幸福へ転入させようとするのが、
弥陀の狙いなのです。

後生も菩提も分からず、相対の幸福しか知らず、
後生の一大事と聞いても驚かず、
絶対の幸福と言っても、ウンともスンともこたえず
何のことかい、とせせら笑っているのが私たちの本性です。

親鸞聖人は、逆謗の屍(しかばね)と言われました

この屍を、絶対の幸福に生かし切らねば、
命を投げ出すとお約束なされているのが
弥陀の十八の誓願です。

こうまで聞かされても、聞き切らぬしぶとい私であったのかと
照らし出され、進むに進まれず、やめるにやめられず、
にっちもさっちもならぬところを三定死といいます。

一切の助かる望みが切れた時と、
大慈悲心が徹底した時とは同時で、
まことなるかな、弥陀の本願、
己(おのれ)忘れて躍り上がり、
ようこそ、ようこそ南無阿弥陀仏と噴き上がるお念仏を
仏恩報尽の念仏というのです。


無辺の智慧と、無限の慈悲を体得しますから、
底の知れない懺悔、高さの知れない歓喜、
広さの知れない苦悩の晴れた味に、
遠く宿縁を喜ばずにおれないのです。

この十八願に誓われた絶対の幸福、
無碍の一道に出るには、十九、
二十願の道程を通らなければならないことを発見し、
教導なされたのが親鸞聖人です。

その体験を三願転入というのです。


nice!(16)  トラックバック(0) 
共通テーマ:資格・学び

あなたの信心は崩れないものに樹(た)っていますか!? [親鸞聖人]

「物に本末あり、事に始終あり」といわれるように、
本が分からなければ、
そのあとは全く分からなくなってしまうからでしょう。
親鸞聖人の教えの本(もと)は、『正信偈』の最初の二行にあります。
この二行が分からなければ、聖人の教えは毛頭分かりません。
そこで、冒頭の二行について詳説いたしましょう。

●『正信偈』=「正しい信心のうた」

『正信偈』は親鸞聖人の書き残されたものです。
約800年前、京都にお生まれになられ、
90歳でお亡くなりになった聖人は今日、
世界の光と大変多くの人から尊敬されています。

『知ってるつもり!?』というテレビ番組では、
戦後出版された本の中で、
一番多く語られた「歴史上の人物ベストワン」
と紹介されました。

その親鸞聖人の『正信偈』は、浄土真宗の家では朝晩、
勤行(おつとめ)で拝読されていますので、
最初の「帰命無量寿如来 南無不可思議光」
は、子供でも口ずさむほど、特に有名です。

ドラマや映画の葬儀の場面でよく読まれているのも、
それほど親しまれているからでしょう。

漢字ばかりなのでお経だと思っている人がありますが、
『正信偈』はお経ではない。

お経はお釈迦さまのお言葉を書き残したもの、
『正信偈』は親鸞聖人の書かれたものですから、
お経とは違うことも知っていただきたいと思います。

この『正信偈』には、親鸞聖人90年の教えすべてが
収まっています。

「偈」というのは「うた」ということですから、
正信偈』は「正しい信心のうた」ということです。

EPSON013.jpg-1.jpg

●生きる=信じる

「信心」と書くと、自分とは関係のないことだと
思われる人もありましょうが、

私たちは何かを信じなければ
一日なりとも生きてはいけません。

例えば、明日も生きておれると「命」を信じて生きています。
「いつまでも達者でおれる」と健康を信じています。
夫は妻を、妻は夫を信じ、子供は親を、
親は子供を信じ生きています。
また「これだけお金があるから大丈夫」「財産があるから安心だ」
と、金や財産を信じて生きています。

オレは社長だ」「ノーベル賞を取った」
と、地位や名誉を力にしている人もあるでしょう。
「宗教はアヘンだ」と排斥する共産主義は、
共産主義を信じている人たちです。

「科学は人類を幸福にする万能だから、
信心なんて必要ない」と言っているのは、
科学信心の人です。

神や仏を信じるだけが信心ではありません。
何かを信じておれば、それはその人の信心です。
何を命として信じるかは一人一人違いましょうが、
すべての人は何かの信心を持って生きているのです。
生きるということは、イコール信じることだといえましょう。

苦しむ原因

ところが私たちは、信じていたものに裏切られた時に
苦しみ悩みます。
  
病気になると、健康に裏切られたことで苦しみます。
子供に虐待されて泣くのは、
命と信じて育てた子供に裏切られたからです。

しかも深く信じていればいるほど、
それらに裏切られた時の悲しみや怒りは大きくなります。

私たちは決して苦しんだり悲しんだりするために
生まれてきたのではありません。 
生きているのでもありません。
幸福を求めて生きているのです。


では、裏切らないものを信じて、
私たちは生きているでしょうか。  

たとえ70年、80年信じられるものがあったとしても、
最後、死なねばなりません。

いよいよ死んでいかねばならない時には、
信じていた家族や、お金や財産、名誉にも裏切られ、
この肉体さえも焼いていかなければなりません。

蓮如上人のご金言

蓮如上人は有名な『御文章』に、こうおっしゃっています。

まことに死せんときは、予てたのみおきつる妻子も財宝も、
わが身には一つも相添うことあるべからず。
されば死出の山路のすえ・三塗の大河をば、
唯一人こそ行きなんずれ

かねてから頼りにし、力にしている妻子も財宝も、
死んでいく時には、何一つ頼りにならぬ。
みんなはぎ取られて、一人でこの世を去らねばならない

病気の時は妻や子供が介抱してくれると、
あて力にもなりましょうが、死ぬ時は、
どんな愛する家族もついては来てくれないのです。

どれだけお金があっても、財産を持っていても、
死んでいく時は紙切れ一枚持ってはいけない。
全部この世に置いていかねばなりません。
地位も名誉も何一つ明かりになるものはありません。

「人間は最後、丸裸になって、たった一人で暗黒の後生へと
旅立っていかなければならない」

と言われているのです。

   ■    ■    ■    ■

昔、ある金持ちの男が3人の妻を持って楽しんでいた。
第一夫人を最も可愛がって、寒いと言っては労わり(いたわり)
暑いと言っては心配し、
ゼイタクの限りを尽くさせ一度も機嫌を損なうことはなかった。
第二夫人は、それほどではなかったが、
種々苦労して、他人と争ってまで手に入れたので、
いつも自分のそばに置いて楽しんでいた。
第三夫人は、何か寂しい時や、悲しい時、
困った時だけ会って楽しむ程度であった。
ところがやがて、その男が不治の病床に伏すようになった。

EPSON014.jpg-1.jpg

刻々と迫りくる死の影に恐れおののいた彼は、
第一夫人を呼んで心中の寂しさを訴え、
ぜひ死出の旅路の同道を頼んだ。
ところが、「ほかのことと違って、
死の道連れだけはお受けすることはできません
」と、
すげない返事に男は絶望のふちに突き落とされた。

しかし、寂しさに耐えられぬ男は、
恥を忍んで第二夫人に頼んでみようと思った。
貴方があれほど、かわいがっていた第一夫人さんでさえ、
イヤとおっしゃったじゃありませんか。
私もまっぴらごめんでございます。
貴方が私を求められたのは、貴方の勝手です。
私から頼んだのではありません
」。
案の定、第二夫人の返事も冷たいものであった。

男は、恐る恐る第三夫人にすがってみた。
日ごろのご恩は、決して忘れてはいませんから、
村外れまで同道させていただきましょう。
しかし、そのあとはどうか、堪忍してください

と突き放されてしまった。

男は独りこの世を去った。

■    ■     ■     ■

これは、お釈迦さまの『雑阿含経』に
説かれている有名な例えです。

男というのは我々人間。
「不治の病に伏した」とは、
もとより人間はオギャッと生まれた時から、 
百パーセント死ぬに定まっていることです。

「散る桜 残る桜 散る桜」
といわれるように、ガンや交通事故、火災、
震災の犠牲者だけが亡くなっているのではない。
すべての人が、一息一息、死の滝壺に向かって
確実に進んでいる厳粛な事実を
「不治の病にかかっている」と言われているのです。

最愛の「第一夫人」とは、肉体のことです。
暑ければクーラー、寒ければヒーターで
体調を壊さぬよう気を遣います。
還元水がよいらしい、空気清浄器が室内の除菌もしよう。
サプリメントだ、野菜ジュースだと
健康食品は巷にあふれています。
ちょっとでも熱が出ると、医者だ薬だと慌て、
小さなトゲ一本指に刺さっても、ほっておきません。
体型をいつまでも美しく保ちたいと
死ぬ思いまでしてダイエット。
シャンプーはどれにしよう、洗顔料はこのメーカーに決めた。
大金を投じ、危険を冒して整形手術。
爪にまで絵をかいたり宝石つけたりネールファッションや、
ヘソにもピアスなどなど。
毎日、風呂できれいに磨き、
大事にすることこの上ない肉体を、
欲しいものは何でも与えていた
第一夫人に例えられているのです。

EPSON015.jpg-1.jpg

ところがその肉体も、死ねば焼いて灰になる。
残るのはひとつまみの白骨だけ。
生まれてから片時も離れたことのない肉体も、
死に道連れだけはしてくれない。
魂は独り後生へと旅立っていかねばなりません。

小指一本切り落とされてさえつらいのに、
肉体のすべてを失う痛苦は、いかばかりでしょうか。

「第二夫人」は金銀財宝です。
人と争い、時にはライバルをダマし蹴落とし、
引きずり降ろして奪い取ってきた金も財産も、
後生には一円玉一つ持ってはいけない。
肉体でさえ先のごとくですから、なおさらです。
第一夫人さんでさえ、イヤと言ったじゃありませんか・・・」
の冷酷な宣言は、
万人の直面する悲劇をあらわにされたものです。

「第三夫人」は、父母・妻子・兄弟・朋友など
のことをいわれています。

通夜に駆けつけ、葬儀に参列し、
火葬場まではついてきてくれるでしょう。  
しかし、そこまでです。
命に代えて、大事に愛し求めてきた一切のものから見放され、
何一つあて力になるものがなかったことに驚き悲しむ、
人間の哀れな実態を、この「三人の妻」は
例えて余すところがありません。 

秀吉の最期

太閤秀吉の波乱の生涯と、寂寥たる最期は、
仏説まことの実証でしょう。

尾張(愛知)の貧農の子に生まれた豊臣秀吉は、
15歳で家を離れ、後に織田信長に仕える。
草履取りから足軽、侍大将と順調に出世し、
20数年で長浜と姫路に城を構えるという異例の昇進。
信長に反旗を翻した明智光秀を破り、
49歳で念願の「関白」、
怒濤の天下統一を成し遂げたのは54歳のことです。
派手好みの生活は、時の人の目を奪った。
日に三万人を動員して建設した、
壮大な「大阪城」の総面積は百万坪を超え、
建築総額は今日の3兆円に上る。
天守閣のかわらや壁に惜しげもなく金箔を施し、
城内の「黄金の茶室」は、天井、壁、柱、敷居まで、
すべて金。
かま、茶杓、茶碗なども黄金で造らせた。
京都の華麗な別荘「聚楽第」は、
銘木、名石を広く集めて造らせ、
堀と石垣を巡らせた堂々たる邸宅は
「黄金の屋敷」といわしめた。

EPSON016.jpg-1.jpg

多くの美女をはべらせ、各地の金山、銀山は思いのまま。
一族、公家、大名を集めては金配り。
立身出世の夢果たし、贅沢三昧、
思う存分ふるまった彼が、
しかし62歳で病没した時の時世に、
世人は耳を疑います。

露とおち 露と消えにし わが身かな
 難波のことも夢のまた夢」
愛欲も映画も、ああ、夢の中の夢だった。
死を前にして一切が光を失った。
バカだった。こんなはずではなかった。


咲き誇った花も散る時が来るように、
死ぬ時には、必死にかき集めた財産も、名誉も地位も、
すべて身から離れて、独りで地上を去らなければなりません。
これほどの不幸があるでしょうか。

やがて必ず裏切るものを信じて生きているから、
苦しみ悩みが絶えないのだ、本当の幸福になりたければ、
絶対に裏切ることのない正しい信心を持ちなさいよと、
親鸞聖人は教えられているのです。

一切の滅びる中に滅びざる、真の幸せ

EPSON017.jpg-1.jpg

正信偈の「正」という字は、「一に止まる」と書きます。
正しいものは一つしかない。
二つも三つもあるものではありません。
その唯一つの正しい信心を明らかになされたのが
『正信偈』であり、
聖人自身の、
正信心を獲得なされた驚き・満足・大歓喜を
生々しく告白されているお言葉が、
初めの2行なのです。

帰命無量寿仏如来(無量寿如来に帰命し)
南無不可思議光(不可思議光に南無したてまつる)

親鸞は、阿弥陀如来に救われたぞ!!
阿弥陀如来に親鸞、助けられたぞ!!」

何があっても微動だにせぬ金剛の信心を体得され、
生きてよし、死んでよし、焼けもせず、流されも、
盗まれもしない絶対の幸福に救い摂られた喜びを、
叫び上げておられるのです。

親鸞聖人のすべての根本がここにあります。
90年の生涯、波乱万丈のたくましい生きざまの源泉が、
『正信偈』冒頭の二行にあるのです。


nice!(12)  トラックバック(0) 
共通テーマ:資格・学び

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。