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どんな非難攻撃が起ころうとも、弥陀一仏に向けが仏教の結論! [一向専念無量寿仏]

五濁の時機いたりては
道俗ともにあらそいて
念仏信ずるひとをみて
疑謗破滅(ぎほうはめつ)さかりなり
       (正像末和讃)
これは親鸞聖人が書き記されたご和讃の一つです。
和讃とは、仮名交じりの4行詩で教えを説かれたものをいいます。

最初の「五濁」とは、「五濁悪世」のことで、
四方八方愁苦に満ちた世の中の、
古今東西変わらぬ実態をいわれたものです。
今日も、地震や津波、台風、洪水などの自然災害は絶えず、
テロや大事故、親殺し、子殺しが、日々報じられています。

今年の7月26日、神奈川県相模原市の障害者施設で、
19名が死亡、26名が重軽傷を負う戦後最悪の殺人事件が起きた。
寝静まった深夜に施設に入り込み、
障害者を刃物で次々と切りつけた元職員の男は
「障害者なんていなくなればいい」と語っていたという。

フランスのニースでは7月14日に、
花火大会の観光客を狙ったテロ事件が発生。
犯人は、大型トラックで花火見物の群衆に突っ込み、
約2キロにわたって次々とはね飛ばした。
未成年者10名を含む84名が亡くなり、
負傷者は200名を超えた。

アメリカのフロリダ州では6月12日、
アメリカ史上最悪となる銃乱射事件で49名が亡くなり、
53名が負傷する大惨事が起きた。

不安を除き、生活を豊かにするために、政治や経済、
科学や医学は努めてきましたが、人々の苦悩は絶えることがなく、
2600年前のお釈迦さまの時代も、親鸞聖人の800年前も、
今日も、「五濁悪世(ごじょくあくせ)」の現実は少しも変わりません。
「道俗ともにあらそいて」とは、「道(どう)」は僧侶、
「俗」は俗人(在家の人)のことですから、
「道俗」で世間中の人々という意味です。
世間中が一緒になって、「念仏信ずる人」を激しく「疑謗破滅」してくる、
と聖人は仰っているのですが、一体、どういうことなのでしょうか。

●「念仏信ずる人」とは

まず「念仏信ずる人」についてお話ししましょう。
ここで「念仏」といわれているのは、「南無阿弥陀仏」のことです。

「南無阿弥陀仏」とは何か。
蓮如上人は『御文章』に、次のように教えられています。

「南無阿弥陀仏」と申す文字は、その数わずかに六字なれば、
さのみ功能のあるべきとも覚えざるに、
この六字の名号の中には、無上甚深の功徳利益の広大なること、
更にその極まりなきものなり   
(御文章五帖目十三通)

南無阿弥陀仏といえば、字数はわずか六字であるから、
そんなすごい力があるとは誰も思えないだろう。
だがそれは猫に小判、豚に真珠といわれるように、
南無阿弥陀仏(六字の名号)の真価を知る知恵がないからである。
本当な南無阿弥陀仏の六字の中には、
どんな人をも無上の幸福にする、
釈迦も説き尽くせなかった計り知れないお力があるのである。

「南無阿弥陀仏」とは、五濁悪世で苦悩にあえぐ
私たちを絶対の幸福に救うために、
本師本仏の阿弥陀仏が完成された、
大宇宙の功徳(宝)の結晶なのです。

そして、私たちを助ける力があるのは、
大宇宙広しといえども、阿弥陀仏の創られた
南無阿弥陀仏(名号)以外にないことを、
蓮如上人は『御文章』に次のように仰っています。

それ十悪・五逆の罪人も、ー乃至ー空しく皆十方・三世の諸仏の
悲願に洩れて、捨て果てられたる我ら如きの凡夫なり。
然れば、ここに弥陀如来と申すは、
三世十方の諸仏の本師・本仏なれば、ー乃至ー弥陀にかぎりて、
「われひとり助けん」という超世の大願を発して、
われら一切衆生を平等に救わんと誓いたまいて、
無上の誓願を発して、已に阿弥陀仏と成りましましけり

                 (御文章二帖目八通)
すべての人は三世・十方の諸仏から、
「助ける縁なき者」と捨てられた極悪人である。
そんな私たちを本師本仏の阿弥陀如来のみが、
ただ一人「私が助けよう」と奮い立たれて崇高な大願を建てられた。
そして、自身の誓いを果たさんがため、
どんな極悪人も助ける力のある名号(南無阿弥陀仏)を完成し、
万人にその名号を与えて救う準備は、
すでに完了されているのである。

では、“念仏(南無阿弥陀仏)を信ずる”とは、
どういうことなのでしょうか。
それは、南無阿弥陀仏の大功徳を阿弥陀仏から受け取ったことで、
これを「信心獲得」といわれます。

蓮如上人はこのことを、

信心獲得すというは、第十八の願を心得るなり。
この願を心得るというは、南無阿弥陀仏のすがたを心得るなり

              (御文章五帖目五通)
と教示されています。

南無阿弥陀仏の偉大な働きを以前に詳説したように、
この六字の名号には、私たちを絶対の幸福に助ける無限のお力があります。
ですから、私たちが南無阿弥陀仏を弥陀より賜った一念に、
最高無上の幸せになれるのです。

もちろん、死んでからのことではありません。
現在ただ今の救いですから、弥陀の救いを「平生業成」といわれるのです。

念仏信ずる人」と親鸞聖人が仰っているのは、
弥陀より名号を賜って、絶対の幸福に救い摂られた人のことであり、
「弥陀より他に我々を助ける力のある仏はなかった」と信知させられ、
「一向専念無量寿仏」を伝える人のことです。
それは、聖人ご自身のことでもあります。

●仏教の結論「一向専念 無量寿仏」

一向専念無量寿仏」とは、お釈迦さまのお言葉です。
無量寿仏は阿弥陀仏のことですから、
阿弥陀仏以外に助けてくださるお方はないから
弥陀に一向専念せよ、必ず絶対の幸福に救われると釈迦は、
仏教の結論として教えられたのです。

ゆえに、親鸞聖人の「一向専念無量寿仏」のご布教は、
徹底したものでした。
なぜなら、死んで浄土に往生できるか否かは、
「生きている今、弥陀に一向専念するか、否か」で決するからです。

そのことを、
一向専念の義は、往生の肝腑(かんぷ)、自宗の骨目なり
とズバリ喝破されています。

また、次のようにも仰せです。

かなしきかなやこのごろの
和国の道俗みなともに
仏教の威儀をもととして
天地の鬼神を尊敬す
 (悲歎述懐和讃)

(なんと悲しいことか、国中の僧侶も在家の者も、
外面は仏法者を装っているが、内心は天地の鬼神を敬っている)

僧侶は、衣を着て寺に住まいをして、仏法者の格好だけはしている。
門徒も家には仏壇があり、葬式は寺で勤め、
仏教信者のようにふるまっている。
しかし実態はどうか。僧俗ともに、「一向専念無量寿仏」の教えに背いて
鬼神を信仰し、敬い頭を下げて、現世利益を祈っている者ばかり
であるこを嘆かれています。

浄土真宗が世間から「一向宗」とまでいわれるようになったのも、
親鸞聖人がこのように、一向専念の教えを徹底していかれたからなのです。
その「念仏信ずる人」を、世間中が激しく疑謗破滅してくる、と
言われているのが、
「念仏信ずるひとをみて、疑謗破滅さかりなり」
の聖人のお言葉です。

「疑謗破滅」とは、「疑」は疑う、「謗」は謗る、
「破滅」とは妨害・迫害すること。
今日は「世界の光」と仰がれる親鸞聖人ですが、当時、
どのような疑謗破滅を受けられたのでしょうか。

●親鸞さまの受けられた疑謗破滅

親鸞聖人は、29歳の御時、法然上人に巡り会われ、
本当の仏教、阿弥陀仏の本願を聞かれるようになりました。
そして、弥陀の本願によって絶対の幸福(往生一定)に救い摂られたのです。
すぐに法然上人のお弟子となられた親鸞聖人は、
「一向専念無量寿仏」の布教活動に挺身(ていしん)されています。

31歳の肉食妻帯は、すべての人を救い切る弥陀の大願の、
破天荒の布教でありましたが、それは「狂人」「悪魔」「堕落坊主」と、
世間中から集中攻撃の的となっていった。

また当時、弥陀一仏の救いを説かれる京都吉水の法然上人の元へは、
農民、町民、武士や貴族など、あらゆる人々が群参し、
法然上人の信奉者が急増。
ところが法然一門の急速な発展に恐れを成した南都(奈良・興福寺)や
北嶺(比叡山・延暦寺)などの仏教各派は、
強い危機感を抱き、やがて聖道諸宗が一丸となり、
前代未聞の朝廷への直訴となった。
その結果、承元元年(1207)2月、念仏は停止、
「一向専念無量寿仏」の布教は禁止、吉水の法然門下は解散。
法然上人は四国の土佐(高知県)へ流刑、
お弟子四人が死罪、親鸞聖人を含む7人が遠流となっています。

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親鸞聖人には、初め死刑の判決が下りましたが、
関白九条兼実公の計らいで、辛くも流刑となった。
聖道諸宗と権力者が結託しての日本仏教史上かつてない大弾圧は
「承元の法難」と今日いわれています。
聖人35歳の時のことでした。
流刑の地、越後(新潟県)で5年を過ごされた聖人は、
40歳を過ぎてから関東へ。その関東布教も、
吹きすさぶ逆風の中の20年でした。

還暦を過ぎてから生まれ故郷の京都に戻られた晩年の聖人にも、
疑謗破滅は止むことはなかった。
84歳の老聖人に、ご長男の善鸞を義絶せねばならぬという
悲しい事件が起きたのです。
信頼して関東に残してきた長子・善鸞が、事もあろうに
「一向専念無量寿仏」の教えを破壊していると知られた聖人は、
何度もいさめの手紙を出されました。
しかし、善鸞は一向に改めない。
今はこれまで。わが子のために大衆を地獄へ堕とすことはできぬと、
断腸の思いでついに義絶。
親子の縁を切ってまで聖人は、
弥陀の本願の真実を護り抜いてくださったのです。
悲憤の涙でつづられた義絶状にも、世人の嘲笑罵倒が湧き上がった。
「家庭を破壊して、何の仏法か」
「わが子さえ導けぬ親鸞に、人が導けるか」
仏法を家庭円満の道具のように誤解し、
弥陀の本願を知らぬ人たちには、
格好の攻撃材料だったに違いありません。
聖人90年の波乱万丈で、最もつらい非難だったでありましょう。

●蓮如上人への非難攻撃

激しい疑謗破滅は、親鸞聖人のみならず、
500年前の蓮如上人にも襲いかかりました。
「一向専念」について、蓮如上人は『御文章』に
次のように教えられています。

心を一にして、阿弥陀仏を深くたのみまいらせて、
更に余の方へ心をふらず、一心一向に、
「仏助けたまえ」と申さん衆生をば、
たとい罪業は深重なりとも、必ず弥陀如来は救いましますべし

              (御文章五帖目一通)

阿弥陀仏以外に私たちを助ける力のある仏はないのだから、
弥陀一仏に向き、信じなさいよ、と懇切にご教示くださっています。

蓮如上人が43歳で法主に就任された当時の本願寺は、
本堂はわずか三間四面、比叡山延暦寺の末寺として、
辛うじて存続を許されている状況だった。
親鸞聖人のみ教え徹底に立ち上がられた蓮如上人は、
本堂から天台色を一掃され、親鸞聖人のみ教えどおり、
阿弥陀仏以外の仏や菩薩、神の木像、絵像を撤廃し、
「南無阿弥陀仏」の名号のみを御本尊とされた。

その後、上人の卓越したご布教により、本願寺は急速に発展。
一方の天台宗・延暦寺は、支配地が次々に浄土真宗に変わって
収入が減り、不満が鬱積していった。

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寛正6年(1465)、ついに暴徒化した叡山の僧兵らが本願寺を襲い、
完全に破壊した(寛正の法難)。
辛うじて難を逃れられた蓮如上人は、その後、
畿内各地を転々と布教される。
僧兵たちは執拗に上人のお命を狙い続けた。
ご説法中の襲撃も数知れない。
橋の下や洞窟に身を隠されたり、
農家がもみ殻やぬかを捨てる穴に潜まれることもあった。
「蓮如の首を取った者には、賞金を与える」
比叡山は、こんな高札をほうぼうに立てて、
村人にまで上人を狙わせた。
滋賀県山間部の日野町に、次のような話が伝えられている。

蓮如上人が、日野町の正崇寺へご布教に赴かれた時、
賞金に目がくらんだ豪族が、
上人殺害を企てているとの知らせが入った。
上人は、お弟子の誘導で、6キロ山手の寺に避難されたが、
間もなく敵が追ってきたので、再び3キロ先の寺に行かれた。
そこにも敵が迫り、さらに5キロ先の険しい山奥へと入られた。
夜も更け、蓮如上人も大変お疲れになっている。
お休みいただく所はなかろうかとお弟子が山中を探すと、
炭焼き窯があった。
山肌に大きな穴が開いたような窯の中へ上人は入られ、
お弟子が炭焼き人に変装して、明け方まで窯の前で見張りをし、
お護りしたという。

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生命の危機が迫りながらも、蓮如上人は各地を布教に歩かれ、
熱烈に弥陀の本願を徹底していかれたことが、
アニメ映画『なぜ生きる━蓮如上人と吉崎炎上』に描かれています。

このように、「弥陀の本願以外に助かる道なし」と
一向専念無量寿仏を徹底して伝える人に、
激しい非難攻撃のあることを、釈迦は2600年前に既に教えられ、
親鸞聖人も、
「お釈迦さまの仰せのとおりであったなぁ」
と、ご和讃に、
五濁の時機いたりては
道俗ともにあらそいて
念仏信ずるひとをみて
疑謗破滅さかりなり

と仰っているのです。

しかし聖人は、どんな非難中傷も恥とせず、
弥陀の本願宣布を妨げる一切を、斬り捨てられ、
ひたすら一向専念の道を突き進まれました。

唯仏恩の深きことを念じて、人倫の嘲を恥じず(教行信証)
(ただただ深き阿弥陀仏のご恩が知らされ、世間の非難中傷など、
気にしておれない。)

いかなる苦難にも屈せず、ひとえに、限りなき阿弥陀如来のご恩に
感泣される親鸞聖人の聖容(せいよう)が彷彿とするではありませんか。


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何が私の運命を決めるのか!? [因果の道理]

人の数だけ生きざまがあります。
順風満帆の人生を謳歌する人もあれば、
迷走しているようにしか思えず、
悶々と過ごす人もある。
いずれにしても、「人生不可解なり」
を痛感する人は多いでしょう。
一体、自分の運命を生み出しているのは何か。
その謎を解く答えを、今回は仏教に学びます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・
「どうしてこんなに不公平なの?」
      運命の違いはなぜ生じるか

「小学生の頃、背が低いのがイヤで、
親に苦情を言いました。
中学や高校になれば自然に伸びると言われ、
自分でもできるだけの努力はしましたが、
結局、大人になっても小さいまま。
もう少し背が伸びれば違った人生が送れたのでは、
と今でも思います」
「友達の家族旅行はいつも豪華なのに、
家は経済的に厳しくて、
日帰り旅行さえ行けない。
親には悪いと思いながら、
どうしてこの家に生まれたのかと思っていました」

人間誰でも、さまざまな劣等感を抱いて生きています。
生まれた時から差別があり、
自分より恵まれた人を見ては、
不公平感を味わうからです。
こんな運命の違いは一体、どこから生じるのでしょう。
その謎のカギを解くのが、
お釈迦さまの説かれた因果の道理です。

●答えは仏教に

お釈迦さまは、2600年前、インドに現れられた。
35歳でさとりの最高位である仏覚を成就され、
80歳で涅槃に入られるまでの45年間、
説かれた教えを仏教という。
今日、7000余巻の一切経となって書き残されています。

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その膨大な一切経の根幹が「因果の道理」です。
根がなければ木は枯れ、
幹を切れば倒れてしまうように、
仏教を一本の木とすれば、
根幹の「因果の道理」が分からねば、
仏教は絶対に分からないし、
親鸞聖人の教えも全く分からなくなるのです。

「因果」とは、原因と結果のこと。
どんな結果にも必ず原因があり、
原因なしの結果は万に一つもない。
たとえ太平洋の真ん中に墜落、
沈没した飛行機の事故原因が
究明できなくても、
原因不明とは言っても、原因なしとは言いません。
どんな結果にも例外はなく、原因はあるのです。

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次に「道理」は三世を貫き
十方をあまねく真理をいいます。

三世は過去、現在、未来「いつでも」ということ。
千年前も今も、何万年後も変わらぬことを「三世を貫く」
といいます。
十方は東西南北上下四維のあらゆる方角をいい、
「どこでも」ということです。

(※四維とは、北東、北西、南東、南西のこと)
地球上、どの国に行っても、たとえ宇宙へ飛び出しても
不変なのが「十方をあまねく」ものです。
時空を超越して間違いのない真理を道理といい、
この道理に立脚して仏教は説かれています。

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とりわけ仏教の因果律は、
私たちの運命に関する
因果関係を教示されているのです。

善因善果(善い原因は善い結果を生み出す)
悪因悪果(悪い原因は悪い結果を生み出す)
自因自果(自分のまいた因は、自分が刈り取らねばならぬ)

スイカの種をまけばスイカが生え、
大根の種をまけば大根ができる。
スイカの種から大根が出てきた国は聞いたことがないし、
そんな時代もありえない。

いつでもどこでも種に応じた結果が現れる。
これが「善因善果、悪因悪果」です。

「自因自果」は、善いも悪いも、
自己に現れる結果の一切は、
皆、自己がまいた種によるのだ、
ということです。

一般に「自業自得」ともいいます。

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●運命を生み出す原因とは

ここでいう原因や結果とは何でしょう。
原因とは我々の行為であり、
結果は一人一人の運命をいいます。
私の運命を決めるのは、
ほかでもない私の行為なのです。

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行為と聞けば、一般には身体の行いと思いますが、
仏教では心と口と身体の三通りあると教えます。

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この身口意によって造る行為(三業)が、
目に見えない力(業力、業因)となって、
私たちの阿頼耶識というところに蓄えられます。

阿頼耶識はインドの言葉で「蔵」のこと。
阿頼耶識とは、私の業力を全て蓄える蔵のような心です。
過去、現在、未来にわたって続く永遠不滅の生命の流れ、
と教えられ「暴流(ぼうる)のごとし」と説かれています。
暴流とは滝のことです。
遠くから眺めれば、
一枚の白い布を垂らしたように見える滝も、
実際には無数の水滴が激しく変化しながら
流れ落ちています。
そのように阿頼耶識は、
私たちの身口意の行為を
次から次と業力としておさめ蓄え、
絶えず変化しながら続いていくのです。

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この三世を流れる阿頼耶識に蓄積された業因が
縁と和合し、結果を現します。

縁とは業因が結果となるのを助けるものをいいます。
例えば米という結果の直接的な原因はモミダネですが、
それだけで米はできません。
土や水、空気、陽気や農家の方の手間ひまなどがそろって、
ようやく実りを手にできるのです。
これらを縁といいます。

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“そんなバカな・・・行いが力となって残るなんて”
と思う人もあるでしょうが、

見えない業力に、縁が加わって
目に見える結果となることを、
古歌を通してこう教えられています。

年毎に
咲くや吉野の 山桜
木を割りてみよ
花のありかは

桜の名所といえば奈良の吉野山。
ある人が冬に花見をしに出掛けたが、
枯れ木のような桜が突っ立っているだけ。
“花はどこだ”と木を一分刻みに砕いてみても、
一片の花びらも出てはこなかった。

しかし、それらの木が春の陽気に触れると一斉に開花し、
山全体が桜に彩られるのです。

冬の間は、花を咲かせる力として桜の木にあった、
その色も形もない力が、
春の陽気という縁と結びついた時、
桜花と現れたのです。

我々の運命も同様に、各人の阿頼耶識に
蓄えられた目に見えない業因に、
縁が結びついた時、
結果となって現れることをよく知ってください。

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●火の車(苦境)を
       つくっているのは誰?

さて、この因果の道理に例外が一切ありません。
幸せも不幸も全ては
自分のまいたタネ(行為)の結果なのです。

どんな苦しみも、自因自果にほかならぬことが、
こんな歌にも詠まれています。

火の車
造る大工は なけれども
己が造りて
己が乗りゆく

「あの家の台所は火の車だ」と言うように、
苦しい状態を火の車といいます。
そんな火の車(苦境)を造って
私に与える大工(他者)はいない。
そうなる業因が私にあったから、
そういう結果が私に起きたのだと教えられるのです。

●「現在」に
      「過去」と「未来」がおさまる

この因果の道理を深く知れば、
必ず「廃悪修善」の心が起きます。
「廃悪」とは悪をやめること、
「修繕」は善に向かうことです。
誰もが不幸を厭い、明るい未来を求めて
生きていますから、
幸せを得るには善を実行しなさい
と教えられるのです。

この廃悪修善の心の強弱が、
仏教を本当に分かっているか否かの
バロメーターだといえるでしょう。

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冒頭の疑問にも通じることですが、
自分に現れる結果の一切は、
過去の自らの行為が生み出したもの。
未来、私が受ける運命の原因は、
今、私がつくり続けているのです。

これをお釈迦さまは、

汝ら 
過去の因を知らんと欲すれば現在の果を見よ。
未来の果を知らんと欲すれば現在の因を見よ

                                  (因果経)

と説かれています。

過去の種まきを知りたければ、現在の結果を見よ。
未来が知りたければ、現在の種まきを見ればよい。
これは、この世だけでなく、
各人の三世を貫いていることです。

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三世と聞くと、親、子、孫の三世代のことと
思う人がありますが、
仏教では、一人一人に過去世、現在世、未来世の
三世があると教えています。

今の自分に分かるのは今生だけですが、
それぞれが違った運命(結果)を背負って生まれてきたのは、
それを生み出した過去世が間違いなくあったからです。

それを表す、こんなエピソードが経典に説かれています。

過去の私が
       現在の私をつくった

釈尊(釈迦)の十大弟子で「多聞第一」と
うたわれた阿難尊者は、
お釈迦さまに随行すること25年に及んだ。
多聞第一とは、最も数多く聞いたという意味でなく、
釈尊の説法を正確に聴聞し、
一言も忘れなかったということである。
頭脳の明晰さ、記憶の確かさに他の弟子たちは驚き、
それはなぜかお聞きすると、
過去世に次のようなことがあったからだと、
お釈迦さまは仰せられている。

昔、ある僧が一人の修行者に教育していた。
僧は非常に厳格で、毎日時間を定めて修行させ、
もし彼が日課どおりにしないと、すぐに厳しい訓戒を加えた。
修行者にはそのほかに、毎日、村々を托鉢し、
師匠と自分の生活の糧を求めねばならぬ、という仕事があった。
日課どおりに修行できねば厳しく叱られ、
托鉢もできないので、修行者は大変だった。
ある時も、師匠からひどく叱られ、
泣きながら歩いていると、一人の富豪に出会った。
修行者の様子に不審をもった富豪が訳を尋ねると、
苦しさのあまり、彼は次第を打ち明ける。
ふびんに思った富豪はこう提案した。
「よろしい、そんなことで苦労しているのなら、
明日からお師匠様とあなたの食べ物は、
全部私が供養しよう。
だから、あなたは安心して、一生懸命修行されるがよい」
富豪の言葉に彼は慶喜し、
直ちに帰って話したところ、師僧も大変感激し、
師弟ともにいよいよ修行に励んだのであった。

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お釈迦さまはこう話されてから、
「その時の師匠の僧は定光仏であり、修行者は私の前身である。
そして、2人供養し続けた富豪こそ、
実に阿難の前身である。
その時の布施の功徳で今、多聞第一の評価を得たのである」
と教えられている。

万人を驚かせる徳とは、一朝一夕の努力で
備わるものではありません。
遠い過去世からの精進あってこそです。
このように、過去世の種まきによって
今生(この世)の運命が決まり、
この世の種まきによって未来世が作られるのです。

この仏教の「三世因果」の道理が正しく理解されますと、
いかに「現在」が大切かが知らされましょう。
ゆえに、親鸞聖人の教えを聞き、
真実の仏法を知らされたならば、
よりよい未来を求め、一層、
光に向かって進まずにおれなくなるのです。
“どんなに頑張っても無意味だよ”
とか“適当にやり流せ”というような退廃的なアキラメ主義は、
そこからは出てきようがありません。
常に全力主義、努力主義で、
光に向かって無限に向上進歩できるのです。
では、何が善か。
どのような言動が幸せの種まきになるのでしょう。
それをお釈迦さまは詳しく教えられています。
それが仏法です。
教えのとおりに実践するには聞法が大事ですから、
より一層、真剣に仏法を聞いていくことが
何より大切なのです。

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Q&A
「こんなことも自因自果なの?」

前章で学んだように
「善因善果 悪因悪果 自因自果」
の因果の道理は、億に一つも例外はありません。
しかし、いざ不幸や災難に直面すると、
なかなかそうは思えないものです。
本当に例外はないのか。
ここからは読者の質問を通して、
より深く、因果の道理を学んでみましょう。

Q1.親の因果が子に報いるのでは?

五歳くらいまでの子供は無心で生きていると思いますが、
よい親に恵まれる子供もいれば、
悪い親に育てられる子供もいます。
このような場合、因果の法則は適用されるのでしょうか。
むしろ親の因果が子にたたっているように思えますが。
             (福岡県・88歳男性)

(回答)
先日、新聞でベトナムのドクちゃんの記事を読みました。
ベトナム戦争でまかれた枯葉剤の影響で結合双生児として
生まれてきたベトちゃんとドクちゃんは、
ベトナムと日本の医師による共同手術で足の分離に成功。
その後、ベトちゃんは亡くなりましたが、
ドクちゃんは成人して結婚し、
2人の子供に恵まれ、元気に暮らしています。
日本に対する感謝から、子供には富士山と桜を意味する
名前がつけられたと記事にはありました。
人間の運命ほど分からないものはありません。
中でも、どんな親の元に生まれ育てられるかは、
その後の人生に大きな影響を与える一つでしょう。
さまざまな苦しみから、
「なぜ、こんな家に生まれたのか」
と親を恨んでいる人もあるでしょう。

     私が生まれた因縁は?

私が人間に生まれたのは、一つの結果です。
この結果は、どんな因縁によって生じたのでしょうか。
常識的には、父を因とし、母を縁として私がうまれたと
思われるでしょうか。
実はそうではありません。
全く同じ因縁からは、同じ結果しか現れないはずですが、
同じ両親から生まれた兄弟でも、
顔や体型がまるで違うことがよくあります。
一卵性の双子で顔や背丈は一緒でも、
性格や好みは随分違うものです。
もちろん、その後の人生は、その人の行動によって
まるで変わってきます。
仏教では、私たちは過去の行い(宿業)を因とし、
父母を縁として、この世に生を受けたのだと教えられます。
このような両親の元に、このような私として生まれた因は、
過去に私自身がまいた種にあったのです。
父母は縁であり、決して「親の因果(種まき)が子にたたって」
いるのではありません。
「五歳くらくまでの子供は無心で生きているのでは」
と仰いますが、どっこい私たちの魂の歴史は非常に古く、
子供といっても過去無量劫(果てしなく長い間)の業を
もっているのです。

生まれた時から、兄弟でも驚くほど性格が
バラバラで嗜好も千差万別なのは、
皆、本人が背負ってきた宿業の違いによるのです。
その過去の業を因とし、今の両親を縁とし、
私たちはこの世に生を受けたのです。
無論、両親という縁が私の運命に与える影響は大きなもので、
決して親は無関係ということではありません。
また、親が造った業の結果は、
親自身が受けていかねばならないことは
言をまちません。
親もまた因果の法則の中で生きているのですから。
この機会に、私が生まれた因と縁とを、
深く考え直してみてはいかがでしょう。

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Q2.交通事故の場合はどうなの?

自因自果はよく理解できましたが、
交通事故による死傷はどのように考えるのでしょうか。
自分では管理できないことだと思います。
        (大阪府・70歳男性)

(回答)
こちらは法定速度を守って優先道路を走っていたのに
脇道から一時停止無視の車が飛び出してきて衝突したり、
歩道を歩いていた児童の列に
暴走車が突っ込むという痛ましい事件が、
時々耳に入ってきます。
「被害者に何の非があるか。
こんなことも自因自果なのか?」
と、やる方ない気持ちになるのもよく分かります。
事故の責任は暴走車にあることは間違いありませんし、
運転手の犯した罪が許されるはずはありません。
ではなぜ、これらも自因自果なのでしょうか。
衝突事故の例で考えてみますと、
私の前にも後にも車は走っていましたが、
それらの車は事故に遭わなかった。
私が事故に遭った原因は、無謀運転の車が飛び出す、
ちょうどその時その場所を通ったという、
私の行為そのものなのです。

      その時、そこを通る「業」があった

ではなぜ、その時その場所を私は通らねばならなかったのか。
それは、そんな「業」を私がもっていたからにほかなりません。
無謀運転の車はこの場合、悪い縁です。
同じ道を走りながら事故を免れた前後の車は、
幸いにして縁がなかったといえるでしょう。
では、そんな悪縁と結びついて
事故を引き起こした「業」とは何なのか、
と考えてみても、
私たちは過去にまいた自分の種まきを、
ほとんど忘れています。
しかし、結果が起きたということは、
それ相応の原因を過去において
自ら造ったことに間違いないのです。

      遅い、早いの違いはあっても

お釈迦さまは、まいた種が生える時期には前後があることを
「順現業」「順次業」「順後業」と説示されています。

順現業とは、現在世でまいた種の結果が
現在世ですぐに現れるもの。
順次業とは、現在世の種まきが次の生で現れるもの。
順後業は、現在世でまいた種の結果が、
ずっと後の生で現れるものをいいます。
おととい食べた夕食さえなかなか思い出せないのに、
私たちの永遠の生命に蓄えられている業は
過去無量劫からのもの。
記憶にないのも当然ですが、
たとえ覚えていなくとも、原因は厳しく結果を開く。
遅い早いの違いはあっても、
まいた種は必ず生えるのです。

まいた種によって結果の出る時期は違う
○順現業・・・現在世でまいた種の果が現在世で現れる
○順次業・・・現在世の種まきが次の生で現れる
○順後業・・・現在世でまいた種の果がずっと後の生で現れる

さらに、まいた種の生え方に二通りあると、
お釈迦さまは教示されています。

一つは「等流因等流果」。
これは、まいた種(因)と現れる結果が同質のものをいいます。
例えば、「殴ったら、殴り返された」
「悪口を言ったら、悪口を言われた」などです。
これは分かりやすい。
もう一つは「異熟因異熟果」。
これは、因と果が異質なもので、
例えば「悪口を言ったら、財布を落とした」
「泥棒したら、家が火事に遭った」など、
単純には因と果の関係が分からないものをいいます。

まいた種の生え方
○等流因等流果・・原因と結果が同質なもの
         「殴ったら殴られた」
         「盗んだら盗まれた」など
○異熟因異熟果・・原因と結果が異質なもの
         「悪口言ったら財布を落とした」
         「泥棒したら火事に遭った」など


「なぜ私がこんな目に?」と思うのは、
異熟因異熟果の場合が多いでしょう。
しかし結果が同質であれ異質であれ、
善因には善果、悪因には悪果を生み出すことに
変わりはありません。
「さるべき業縁の催せば、如何なる振舞もすべし」
               (歎異抄)
“縁さえ来れば、どんなことでもする親鸞だ”
の聖人の告白は「もたぬ悪業はない」
という深刻な自覚であり、
どんな悪果を受けても文句の言えぬ私が、
こんなに恵まれるとは不思議の中の不思議・
ゆえに、善果が来た時は仏祖のご加護と感謝し、
悪果が現れた時は過去の自分の種まきと懺悔し、
反省努力するのが、因果の道理を深信する
真の仏法者であると教えられているのです。

 


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弥陀に救われるのは現在ただ今、急がねばならない! [信心決定]

成等覚証大涅槃(等覚を成り、大涅槃を証することは、)
必至滅度願成就(必至滅度の願、成就すればなり)
            (親鸞聖人・正信偈)

今回はこの2行について学びましょう。
初めに、
「成等覚証大涅槃(等覚を成り、大涅槃を証する)」
と言われているのは、
「まず『等覚』に成り、『大涅槃』を証しなさい」
ということです。
親鸞聖人は私たちに、
「『等覚』に成らねば、『大涅槃』を証することは
絶対にできないのだから、早く『等覚』に成りなさい」
と勧めておられるのです。

そこで「等覚に成る」とはどんなことか、
お話しいたしましょう。

等覚に成る

「等覚」とは、さとりの位の一つです。
一口に「さとり」と言っても、
低いさとりから高いさとりまで、
全部で五十二の段階があり、
これを仏教で「さとりの五十二位」といわれます。
その最高位を「仏覚(仏のさとり)」とも
「無上覚」ともいわれ、
「等覚」とは、その「仏覚」まであと一段の、
五十一段の位をいうのです。

「等覚」はまた「正定聚」とも「信心決定」ともいわれ、
今日の言葉で「絶対の幸福」といえます。

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親鸞聖人が『正信偈』に朝晩、「早く等覚に成りなさい」
と教えられていることを、
蓮如上人はご遺言に、

あわれあわれ、存命の中に皆々信心決定あれかしと、
朝夕思いはんべり

              (御文章)

と仰っています。
初めに、
「あわれあわれ(あわれだなあ、不憫だなあ)」
と嘆かれているのは、どういうことでしょうか。

私たちが「かわいそう」と思う相手は、不幸な人です。
幸せの絶頂にいる新郎新婦に向かって、
「あわれあわれ」とは誰も言わないでしょう。

地震の被災者や、飢餓で苦しむ子供たちなどを見て、
「気の毒だなあ」と思うのです。
ところが蓮如上人が哀れんでおられるのは、
一部の人だけのことではありません。
「皆々」とあるように、
「すべての人」に「不憫だなあ」と言われているのです。

「ん?なんでだろう。別に私はそれほど不幸ではないが」
と思われる人も多いでしょう。

なぜ蓮如上人は、私たちすべてを「あわれ」と
悲嘆されているのでしょうか。

今日でも、仏教といえば「死んだら極楽」「死んだら仏」
と思っている人がほとんど。
「この世はどうにもなれない、助かるのは死んでから」
が常識になっています。

せっかく生まれ難い人間に生まれながら、
本当の仏教も知らず、
何のために生まれてきたのか、生きているのか、
真の人生の目的も分からぬまま、
金だ財産だ、地位だ名誉だ、酒だ女だと、
浮かれ騒いで酔生夢死(すいせいむし)していく。
“人間に生まれてよかった”という命の輝きはなく、
人生こんなもんさとアキラメてはいないでしょうか。

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そんな私たちを蓮如上人は、
「かわいそうに。情けないことだ」
と悲しんでおられるのです。

そして、仏法は、
「存命の中に」
“生きているときが勝負なのだ。
死んでからでは手遅れですよ”
と道破され、
「皆々信心決定あれかしと、朝夕思いはんべり」
“すべての人に「信心決定」してもらいたい。
そのこと一つをこの蓮如は、
朝から晩まで、思い続けているのだよ”
と、述懐されているお言葉です。

私たちが朝夕考えていることは、
「どうしたらお金が儲かるか」
「人から褒めてもらえるか」ということばかりですが、
親鸞聖人や蓮如上人が念じ続けられているには、
私たちの「信心決定」一つであることがお分かりでしょう。

人間は、ただ生きるために生きるのではない。
崇高な目的があって、生まれてきたのであり、
生きているのです。

どんなに苦しくても生きねばならないのは、
「信心決定」するためであることを、
親鸞聖人も蓮如上人も、
「早く等覚に成れ」
「命のあるうちに、片時も急いで信心決定せよ」
と教示されているのです。

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ところがそう聞いても、なにしろ「等覚」とは、
最高位の「仏覚」に次ぐさとりの位ですから、
「そんな等覚に、私なんかがホントになれるのかな」
と、途方に暮れる人もあるかもしれません。
しかし、「成れない」ことを
「成れ」とおっしゃる聖人ではありません。
「等覚に成れ」と言われているのは、必ず成れるからです。
「信心決定せよ」と言われているのは、できるからです。

それでもなお、「どうしても、等覚にならねばならないんですか」
「信心決定なんて、できっこない」と、
尻込みする人もあるでしょう。
しかし、現在「等覚」にならねば、
死後「大涅槃を証する」ことは絶対にできないのです。
「大涅槃を証する」とは、
「阿弥陀仏の極楽浄土へ往って、
弥陀と同じ仏のさとりを開く」こと。
先述のように、みんな「死んだら極楽」「死んだら仏」
と思っているのは大間違いで、
誰でも仏になれるのではない。

この世で等覚になった人だけが、
死ぬと同時に極楽へ往って仏に成れる
」のだから、
「成等覚証大涅槃」
“まず「等覚」に成り、「大涅槃」を証しなさいよ”
と聖人は朝晩、『正信偈』に仰せなのです。

後生の一大事

浄土真宗には、
「この世はどうにもなれない、死んだら極楽、死んだら仏」
と言う人が多いのですが、
この世と死後の関係を知れば、それはおかしいと分かります。
お釈迦さまは、
唯一の真実の経である『大無量寿経』に、

従苦入苦 従冥入冥

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と説かれています。これは、
「苦より苦に入り、冥より冥に入る」
と読みます。

今苦しんでいる人は、死んだ後もジゴクの苦を受ける。
「この世のジゴクから、死後のジゴクへと堕ちていく」
と仰ったお言葉です。


「ジゴク」というのは中国の昔の言葉ですが、
日本の言葉では「苦しみの世界」ということです。
この世のジゴクというのは、
何のために生きているのか分からず、
毎日が不安で暗いことをいいます。
「私ほど業なものはない」
と他人を恨み世間をのろい、
「こんな辛いのなら死んだほうがましだ」
と苦しむ暗い生活が、この世のジゴクです。
このような、現在が真っ暗闇の生活を送っている人は、
死後も必ず真っ暗闇のジゴクへ堕ちて
苦しまなければならないことを、
お釈迦さまは、
「苦より苦に入り、冥より冥に入る」
と教えられているのです。

続けて、
「教語開示すれども信用する者は少し(すくなし)。
生死休まず(やまず)、悪道絶えず」
と、現在の苦が救われなければ、
永遠に苦しみ続けなければならぬ一大事を説示され、
その「本当の地獄の苦しみは、
どんな喩えでも説けない」ことを、『賢愚経』には、
「諸々の比丘よ、如何なる喩と雖も、
如何に地獄の苦なりやを説くこと能わず」
と警鐘乱打されています。
かかる死後の大きな苦しみを助け、
極楽へ生まれさせる力が阿弥陀仏にあると、
本当に思っている人なら、
この世の苦しみを助けられることも分かるはずです。
「この世はどうにもなられません、死んだら極楽」
と言うのは、理屈に合いません。

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それはちょうど、
「目の前にある小さな川は渡れないが、
向こうの大きな河なら渡れる」
と言っているようなもの。

眼前の小川さえ渡れない人に、
どうして後方の大河が渡れましょう。

同様、この世の苦さえどうにもならなければ、
死後の大変な一大事を助かるはずがないのです。


別な例えで言うと、
「1万円の買い物するお金はないけど、
100万円の物なら買える」
と言っているのと同じです。

100万円の物を買える人なら、
1万円の買い物は楽にできるに決まっています。

後生の一大事の大苦悩を救う力のある阿弥陀仏なら、
わずか100年の人生の苦しみを助けてくださるのは
当然ではありませんか。

それを「この世はどうにもなれない、死んだ後だけ助かる」
ように思っている人はこの世も死後も助からないことを、
蓮如上人は、

この信心を獲得せずば、極楽に往生せずして、
無間地獄に堕在すべきものなり

            (御文章)

と教誡されています。

ただ今「信心獲得(信心決定)」しなければ、
死んで極楽どころか、一大事が起きますから、
親鸞聖人も、蓮如上人も、
「早く等覚に成れ」
「存命の中(うち)に皆々信心決定あれかし」
と、手に汗握って勧化なされているのです。

弥陀の救いは二度ある・・・二益法門

「成等覚証大涅槃」とは、
“現在、等覚になった人は、死ねば極楽浄土へ往って
弥陀同体の仏のさとりを開くことができるのだ”
と、「弥陀の救い」は現在と死後の二度あることを
言われています。

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このように、二度の弥陀の救いを
明らかにされた方が親鸞聖人ですから、
親鸞聖人の教えを「現当二益」の法門(教え)といわれます。
「現当二益」とは、「現世(この世)の利益」と
「当来(死後)の利益」の2つの利益(救い)のこと。
「等覚に成る」現在の救いを
「現世の利益(現益)」と言われ、
「大涅槃を証する」死後の救いは
「当来の利益(当益)」と言われます。

この現当二益の親鸞聖人の教えを、
少しでも分かってもらいたいと、
蓮如上人は問答形式で次のように教えておられます。

問うていわく、
「正定と滅度とは、一益と心得べきか、
また二益と心得べきや」。
答えていわく、「一念発起のかたは正定聚なり、
これは穢土の益なり。
つぎに滅度は浄土にて得べき益にてあるなりと心得べきなり。
されば二益なりと思うべきものなり」
           (御文章)

弥陀の救いは一度でしょうか、二度あるのでしょうか」
と問いを出され、
この世は、弥勒菩薩と同格(正定聚・等覚)に救い摂られ、
死ぬと同時に弥陀の浄土で、
無上のさとり(滅度・大涅槃)が得られる。

弥陀の救いは二度(二益)ある

と明快に答えておられます。
この二度の「弥陀の救い」を親鸞聖人は『正信偈』に、
「成等覚証大涅槃(等覚を成り、大涅槃を証する)」
と、一行で言われているのです。

必至滅度の願、成就

ではどうして、この世で「等覚」に成った人が、
死後「大涅槃」を証することができるのか。

それは、
必至滅度願成就(必至滅土の願、成就すればなり)」
と言われています。

「必至滅土の願」とは、阿弥陀仏の「十一願」のこと。
十一願とは、弥陀が四十八の約束をされている中の、
十一番目のお約束をいいます。

弥陀は十一願に、
“この世で正定聚(等覚)に成った人を、
死後、滅度(大涅槃)に至らせてみせる。
もしできなければ命を捨てる”
と誓われている
ので、
十一願を「必至滅度の願」といわれているのです。
“現在「正定聚」に成った人が、
必ず死後「仏覚」を開くことができるのは、
この弥陀の十一願が完成されているからなのだ”

と言われている『正信偈』のお言葉が、

成等覚証大涅槃(等覚を成り、大涅槃を証することは、)
必至滅度願成就(必至滅度の願、成就すればなり)
に二行です。


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『正信偈』には、本当の幸せに導く道が端的に説かれている。 [親鸞聖人]


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「きみょうむりょうじゅーにょーらい」
で始まる、親鸞聖人の『正信偈』

編集部には毎月、『正信偈』に引かれて
仏教を学びたくなったという声が
多く寄せられます。
七文字百二十行の『正信偈』の中には
何が教えられ、私の人生にとって
どんな意味を持つのでしょうか。

初めて触れる方も、よく親しんでいる方も、
ぜひ知りたいことでしょう。

今月は「正信偈」という名前の意味から、
その答えをひもといてみたいと思います。

・・・・・・・・・・・・・・

家事や仕事に追い立てられ、
毎日が慌ただしく過ぎゆく。
同じことの繰り返しの中で、
ふと気がつけば、人生のたそがれが目前に迫っている。
あなたは何をするために、
人間としてこの世に生を受けられたのでしょうか。

ただ“食て寝て起きて金ためて”子育てのに励むためなのか。
心の底から「生まれてきてよかった」という生命の歓喜を
味わうことができる人生とは、
どうすればよいのでしょうか。

最近、仏前で心静かに『正信偈』を拝読する人が増えています。
この朝夕の「勤行(おつとめ)」は、
人としての「日々のたしなみ」です。

昔は食事の前に家族そろって勤行する家庭も多く、
「勤行しないと、ご飯を食べさせてもらえなかった」
と懐かしむ方もあるでしょう。
一方で、あるきっかけで『正信偈』を読み始める人が多いのです。
それは「大切な人との別れ」です。

本誌読者の園田ヨシコさん(仮名)は、
3年前の秋、、50年連れ添った最愛の夫を亡くした。
医師として多忙だった夫を支える園田さんの周囲には、
いつも多くの人の出入りがあった。
だが葬式が終わると、サーッと引いて、
急に独りぼっちになった。
「ドカーンと、落ち込みました」
音がないと心が沈む。
見もしないテレビをつけ、
自分が吹き込んだ歌をテープレコーダーでかけ、
部屋を音で満たして気を紛らわそうとした。
独りぼっちになっても寂しくないように、
と続けてきたお茶やお花も、孤独な心には、
何の役にも立たないことが分かりました

ほとんど出歩くことができぬまま、
仏前で『正信偈』をあげる毎日が続く。
半年が過ぎた頃、新聞折込で仏教勉強会の案内を目にした。
「何かある」と直感し、会場へ足を運ぶ。
仏教のイロハからの分かりやすい解説に
「ひび割れた土がグングン水を吸収するように、
続けて聞かずにおれなくなりました」。
以来、光に向かって、聞法人生を歩み始めた。

園田さんと接した講師は、
その心情をこう語っています。
「大切なご主人を亡くされ、お仏壇の前に座る。
『喪失』という言葉を超えた寂しさを埋める方法は、
それしかなかったのでしょう。
しかし、ただ座っていることは耐えられない。
そこで『正信偈』を読み始めました。
そして生きながら死んだような状態から、
少しずつ、少しずつ心が力を取り戻していかれたのです」
お釈迦さまは「諸行無常」と説かれ、
この世に変わらないものはないと教えられました。
「大切な人も死ぬことがある」と、
頭では理解していても、
身近な人の死ほど受け入れるのは容易ではありません。

妻を亡くし、「残りの人生は供養のみ」
と語る中高年男性も多くありますが、
実は供養しているのは
「最も大切なものを失った亡骸のような自分」ではないか

と言う人がありました。
愛する人は自分の一部であり、
伴侶の死は、自分の一部が死んだも同じ。
「このつらい経験は、私にとってどんな意味があるのか」
皆、その答えを求めて仏前に座るのでしょう。

そして、その答えにたどり着いた時、
初めて人は迷える自分自身の追悼を終える、
といえるのかもしれません。

「この『正信偈』の中に答えがあるかもしれない」
そんなせつない、すがるような思いが、
阿弥陀如来のご方便となって、
多くの人を仏法へと向かわせるのでしょう。

『正信偈』に、明らかな私たちの生きる道が
説かれていると知った園田さんは、
「夫を失った悲しみは今も癒えないけれど、
光に向かう道に導かれたこと、感謝せずにおれないのです」
と語っています。

●『正信偈』には
     何が教えられているのか

『正信偈』とは「正しい信心のうた」という意味です。
「信心」と聞くと、無宗教の自分には関係ないと思う人がありますが、
神や仏を信じるだけが信心ではありません。
心で何かを信じていれば、それは、その人の信心なのです。
「信じる」とは、言葉を換えれば、
頼りにし、支えにし、愛すること。
何かを信じなければ、人は生きてはいけません。

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生きるとは、信ずることですから、皆、
必ず何らかの信心を持っているのです。

例えば「明日も明後日も、家族みんな、元気でいられる」
と思って生きています。
それは「自分の死」や「健康」「家族」を
「信じている」ということです。
家や貯蓄、持てる才能や技術を、
あて力にしている人もあるでしょう。
「信じている」という自覚さえないほどに私たちは、
それらに頼り切って生きています。
それが如実に知らされるのは、その幸せが揺らいだ時です。
東日本大震災から5年が過ぎた4月14日、
熊本や大分を中心に、九州全域を襲った地震では、
不気味な余震が千回以上も続き、
倒壊の危険のある自宅に戻れず、
多くの方が避難所生活を余儀なくされました。
昨日までの平穏が一夜にして暗転し、
どれだけの方が、信じ、支えにしていた幸福に裏切られ、
肩を落とし、今も苦しんでおられることでしょう。
「私の住む地域は地震がないから大丈夫」
と思っている方も、他人事ではありません。
「人生には3つの坂がある。上り坂、下り坂、まさか」
と言った人がありますが、人生は、
「まさか、こんなことに・・・」
という驚きの連続でしょう。

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初孫を抱き上げようとしたら腰の辺りに激痛が走り、
リハビリ生活、「まさか、ギックリ腰に・・・」
かわいい息子が助けを求めてきたと思って
大金を振り込んだら、実は振り込め詐欺だった。
「まさか、自分が・・・」
何でもハイハイ従う、おとなしくていい妻だと思っていたら、
定年後に三行半を突きつけられて熟年離婚。
「まさか、俺の女房が・・・」
健康診断でガンが見つかった人が、
足下が崩れるようなショックを受けるのも、
信じていた健康に裏切られたから。
子供に虐待されて苦しむのは、
命として信じて育てたわが子に裏切られたからです。
「2年前に突発性難聴になり、片耳が聞こえなくなりました。
さらに母がガンで余命3ヶ月の宣告を受け、
受け入れられず、苦しんでいます」
「息子に『金だけ残して死ね』と言われ、
ウツになりました。何のためにいきるのか、
毎日考えています」
こんな愁嘆の声が、世の中にはあふれています。
私たちの苦しみの悩みは、どこから起きるかといえば、
自分が信じ、支えにしているものに
裏切られる時に起きるのです。
「私は別に苦しみなんてないよ」と言うのは、
幸いにもまだ信心が崩れていないからでしょうが、
遅かれ早かれ、その時はやってきます。
無防備に深く信じていればいるほど、
その衝撃は大きくならざるをえないでしょう。

だからこそ、本当に幸せになろうとする時には、
今の私は、何をどう信じているかをよくよく吟味し、
絶対変わらない、裏切られないものを信じなければならないと、
仏教では教えられるのです。

●絶対裏切られない信心
   “浄土往生に碍りなし”

しかし、この肉体さえ焼いて滅びていくのに、
そんな不滅の幸福など、どこにあるのか。

親鸞聖人は「一切の滅びる中に、滅びざる幸せが、
ただ一つだけある」と教えられました。

それこそが、阿弥陀仏の本願に誓われている「絶対の幸福」です。
この弥陀より賜る絶対の幸福を「正しい信心」といわれ、
それを明らかにされたのが『正信偈』なのです。
この正しい信心を獲得した時、
「人間に生まれてよかった・・・。
このための人生だったのか」
と、どんな人もハッキリいたします。
では、絶対の幸福とはどんな幸せでしょうか。
想像もできぬその世界を、親鸞聖人は、
かの有名な『歎異抄』に、「無碍の一道」と喝破されています。

「念仏者は無碍の一道なり。
そのいわれ如何とならば、信心の行者には、
天神・地祇も敬伏し、魔界・外道も障碍することなし。
罪悪も業報も感ずることあたわず。
諸善も及ぶことなきゆえに、無碍の一道なり、と云々」
                (歎異抄七章)
“弥陀に救われ念仏する者は、
一切が障りにならぬ絶対の幸福者である”

ここで言われる「念仏者」とは、
ただ口で「南無阿弥陀仏」と称えている人のことではなく、
弥陀に救われ、お礼の念仏を称えずにおれなくなった人のこと。
すぐ後に「信心の行者」と言い換えられていることでも
明らかでしょう。
「碍りだらけのこの世にあって、
弥陀に救い摂られた人は、
一切が碍りとならぬ絶対の幸福者になれる」
親鸞さまの断言です。

澄み渡る無碍の一道の爽快さを、
「天神・地祇も敬伏し、魔界・外道も障碍することなし」
と仰っています。
神といえば、普通は私たちがおそれて頭を下げるもの。
ところが弥陀より信心を賜った者には、
天地の神々が敬って頭を下げ、
幸せをぶち壊す悪魔や外道の輩も一切、
妨げることができなくなるのだとの確言です。

ここで「碍りにならぬ(無碍)」といわれる碍りとは、
「浄土往生の碍り」のこと。
弥陀に救い摂られれば、たとえいかなることで、
どんな罪悪を犯しても、
“必ず浄土へ往ける金剛心”には全く影響しないから
「罪悪も業報を感ずることあたわず」。
この世のいかなる善行を、
どんなに励んだ結果も及ばぬ幸せだから
「諸善も及ぶことなし」と、宣言されています。

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それでは、この世の苦しみや悲しみは一切なくなるのか。
どんな目に遭っても、誰を失っても笑っている人間になるのか、
と思われるかもしれませんが、そうではありません。
無碍の一道に出たならば、
この世の災禍がいかに襲ってこようとも、
浄土往生は微塵も変わらず、苦しみがそのまま楽しみに転ずる。
つらい事実も幸せの種に変わるという、
全く常識破りの世界です。

「私ほど不幸な者はない」
と他人に恨み世を呪っていた人が、
その涙の種が幸せ喜ぶ種となり、
逆境に微笑し、輝く世界が拝める不思議。

「シブ柿の シブがそのまま 甘味かな」
流れた苦しい年月も過去形で語れる至福です。
これを「転悪成善」の幸せといいます。
転悪成善の不思議さを、聖人はこんな例えで説かれています。

罪障功徳の体となる
水と氷のごとくにて
氷多きに水多し
障り多きに徳多し
」(高僧和讃)
大きな氷ほど、解けた水が多いだろう。
罪や障りの氷が多いほど、
幸せよろこぶ水が多くなるのだ


ひとたび弥陀より絶対の幸福を賜れば、
渦巻く現実のままが光明の広海と転じ、
泣いても曇らず、笑ってもふざけず、
富んでもおごらず、貧しくても卑屈にならず、
憎まれてもすねず、ウラミと呪いの人生を、
感謝と法悦で乗り切らせていただく魂の自由人となるのです。
29歳の御時、この弥陀の救いにあずかられた聖人は、

「如来大悲の恩徳は
身を粉にしても報ずべし
師主知識の恩徳も
骨を砕きても謝すべし」。(恩徳讃)

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こんな広大無辺な世界に救いたもうた阿弥陀如来の大恩は、
身を粉にしても報いずにおれないぞ。
お釈迦さまはじめ、この弥陀の救いを伝えてくだされた方々のご恩も、
骨を砕いてもお返しせずにおれない。
どんな悪人も不可思議な弥陀の本願力で、
今ハッキリ絶対の幸福になれるから、
あなたも早く弥陀の本願を聞信し、
親鸞と同じ心になってくれよ!と念じて筆を染められたが、
『正信偈』百二十行となったのです。

この親鸞聖人の教えを聞き求め、ともに無碍の一道、
絶対の幸福に向かって進ませていただきましょう。
正しい信心を獲得した時、悲しみも苦しみも、
全て通らねばならぬ道だったと知らされ、
如来のご方便に感謝せずにいられなくなるでしょう。

あなたの大切な方も、きっとそれを願っていられるはずですよ。


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弥陀に救われると何故、熱火のご恩報謝の気持ちが起こるのか!? [親鸞聖人]

如来大悲の恩徳は
身を粉にしても報ずべし
師主知識の恩徳も
骨を砕きても謝すべし

阿弥陀如来の洪恩は、
身を粉にしても報い切れない。
その弥陀の大悲を伝えてくだされた方々のご恩も、
骨を砕いても済みませぬ

『恩徳讃』を拝読しますと、
熱火の法悦からあふれ出る親鸞聖人の報恩の情を強く感じます。
身を粉にしても、骨砕きても相済まないほどの報謝の念は、
どなたから、どのようなご恩を受けて湧き出るのでしょう。

まず「如来大悲」と言われています「如来」とは、
阿弥陀如来のことです。

釈迦如来でもない、大日如来でもない、
ここで言われる「如来」は大慈大悲の本師本仏、阿弥陀如来です。
「本師本仏」とは、大宇宙にまします数え切れない仏方の
「先生」という意味。

最高無上の仏さまですから、
親鸞聖人は特に晩年、阿弥陀仏のことを、
無上仏」とばかり言われています。
そう言わずにいられなかったのでしょう。
阿弥陀如来から受けた洪恩は、
命懸けても報い切れないほど大きいのだ、
と親鸞聖人は仰っています。

●『正信偈』冒頭にあふれる「弥陀救済への喜び」


阿弥陀如来に救われた喜びを、親鸞聖人は『正信偈』冒頭に、


帰命無量寿如来 (無量寿如来に帰命し)
南無不可思議光 (不可思議光に南無したてまつる)


と記されています。
無量寿如来も、不可思議光も、阿弥陀如来の別名です。
本師本仏の阿弥陀如来には、
さまざまなお徳(力)に応じたお名前があるのです。


「帰命」は昔の中国の言葉、「南無」は昔のインドの言葉で、
ともに「救われた」ということ。

ですから、この二行は
“阿弥陀如来に親鸞、救われたぞ。
阿弥陀如来に親鸞、助けられたぞ”
という意味ですから、同じ言葉が二回繰り返されているのは、
どれだけ言っても言い足りぬ、
書いても書いても書き尽くせぬ“救われた喜び、感謝”
が込められているからです。

このように『正信偈』も、
「身を粉にしても返しきれない阿弥陀仏の大恩」
から始まっています。
「如来大悲の恩徳」とは、
“阿弥陀如来の大慈悲心によって救われたご恩”であり、
「身を粉にしても報ずべし」とは、
“身命を賭してもお返しできない”という熱いお気持ちなのです。
日々の生活で、それほどのご恩を感じることが
私たちにあるでしょうか。
「命の恩人」という言葉があります。
どの医者にも見放された難病を治してもらった時、
「あの医師は私の命の恩人です」
と言います。
確かに、この肉体の命を助けてもらった喜びは特別ですが、
死ななくなったのではありません。
寿命を何年か延ばしてもらったということです。
ですから、たった一つのその命を捨ててまで、
医師の恩に報いようとまでは思えないでしょう。

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一体、親鸞聖人は、何から救われて、
「身を粉に、骨砕きても」という気持ちになられたのか。

「救われた」「助かった」といっても、いろいろあります。
道を教えてもらって「助かりました」とも言うし、
倒産しかけた事業を立て直してもらって、
「助かった」とも言います。
山で遭難し、死を覚悟していた時に救助され、
「九死に一生を得た」と涙する人もあるでしょう。
これら皆「救われた」「助かった」といえましょうが、
親鸞聖人がここで言われている「救われた」とは
「後生の一大事」から救われたことなのです。

では「後生の一大事」とは何でしょう。
これが分からねば『恩徳讃』の真意は読めません。


●後生の一大事とは


仏教は後生の一大事を知るところから始まり、
後生の一大事の解決で終わります。

後生の一大事とはどんなことかを知らなければ、
仏法は何十年聞いても分かるものではありません。

「後生」とは、「来世」のこと。
私たちの100パーセント確実な未来です。


トンチで有名な一休さんは、
「門松は 冥土の旅の 一里塚」
と歌った。
「冥土」とは、死んだ後の世界です。
年が明けると、みんな「おめでとう」「おめでとう」と言うが、
私たちは一年たてば一年、
一日生きれば一日、確実に死に近づいています。
死ぬのは嫌じゃ嫌じゃと言いながら、
毎日、墓場へ向かって行進しているのです。
すべての人が、後生へと向かっての旅人なのです。
たとえ地震や津波からは逃げられても、
死から免れることはできません。
早ければ今晩かもしれません。
何かのことで吸った息が吐き出せなければ、
吐いた息が吸えなければ、その時から後生。
一息一息と触れ合っているのが、後生なのです。
実際、御嶽山では、わずか11歳の小学生が亡くなりました。
頂上で記念撮影した笑顔いっぱいの写真が噴火20分前に
母親の携帯電話に送られています。
私たちもいつどうなるか。
一寸先が分かりません。
誰もが、いつ爆発するかしれぬ噴火山上でパーティーをしたり、
あくせく働いたりしているようなものです。


70億の全人類、後生と関係のない人は、一人もありません。
死んだらどうなるのか。
この確実な未来の「後生」がハッキリしていないほどの不安はなく、
こんな一大事はありませんから、
仏教ではこれを「後生の一大事」といわれます。

この「後生」「死」の問題は、かつてはタブー視されてきましたが、
今日、多くの人の関心事となっています。
月刊誌『文藝春秋』では、たびたび「うらやましい『死に方』」とか
「世界の『死に方』と『看取り』」などの大特集を組んで、
“どんな週末を迎えれば、悔いなく人生を閉じられるか”
と問う声に応えようとしています。
自らもガンを患う評論家の立花隆さんが出演したNHKスペシャル
「臨死体験 死ぬとき心はどうなるのか」は高視聴率を記録し、
見た人の中には「ありがとうございました」
とお礼を言う人が何人もあったといいます。
立花さんは、
「最後の旅の中にどうしても残る一定の未知なる部分への不安感」を、
あの番組が「あらかた取り去ってくれた」からではないかと
自己分析し、希望的観測を述べています。
たとえ一時的にでも、後生の不安が薄らいだように思えたのでしょう。
しかし、死の不安は一片の知識で雲散霧消するようなものではありません。


私たちが直面する後生とは、いかに深く、重い問題であるか。
またその解決ができたとは、どれほどすごいことなのか。

後生の一大事が、阿弥陀如来の本願力によって救われた親鸞聖人は、
格調高くその喜びをうたいうたい上げられています。


噫(ああ)、弘誓の強縁は多生にも値(あ)いがたく、
真実の浄信は億功にも獲がたし。
遇(たまたま)行信を獲ば遠く宿縁を慶べ。
若しまたこの廻疑網に覆蔽(ふくへい)せられなば
更りてまた昿劫を逕歴せん。
誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法、
聞思して遅慮することなかれ

            (教行信証総序)


ああ・・・何たる不思議か、親鸞は今、多生億劫の永い間、
求め続けてきた歓喜の生命を得ることができた。
これは全く、弥陀の強いお力によってであった。
深く感謝せずにおれない。
もし今生も、弥陀の救いにあえぬままで終わっていたら、
未来永遠、浮かぶことはなかったであろう。
何とか早くこの真実、みんなに伝えねばならぬ、
知らせねばならぬ。
こんな広大無辺な世界のあることを。


「噫(ああ)」という感嘆は、かつて経験したことのない驚きと喜びの、
言葉にならぬ言葉です。
「多生にも値(あ)いがたいことに値えた、
億劫にも獲がたいことが、今、獲られたのだ」
と聖人は仰っています。
「多生」とは仏教から出た言葉で、私たちが人間に生まれる前には
永い過去世があり、種々の世界に生まれ変わり、
死に変わりしてきたのだと教えられています。

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これを「多生」といい、昔から
二十五有生(うしょう)、迷わぬ里もなければ受けぬ形もない
といわれます。
「二十五有生」とは、仏教で説かれる迷いの世界のことで、
ある時は犬、またある時は猫、鳥や獣に生まれては殺され、
餓鬼に生まれては飢え渇き、
地獄で苦しみにのたうち回っていたこともありましょう。
遠い過去から私たちは、そのいずれの世界にも生まれ、
どんな姿形も受けてきた。
その過去世から現在、未来へと三世を貫いて流れる
永遠の生命が本当の私なのだと、
仏教では教えられます。

ところがそう聞いても、
私たちはこの世に生まれてから死ぬまでの
50年ないし100年の肉体しか分からず、
“そんな過去世なんか信じられるか”という人もあるでしょう。
「セミは春秋を知らず」といわれるように、
永年地中で過ごし、一夏、地上に出て、
わずか一週間で死にゆくセミは、
春も秋も分からず、まして10年、100年など想像も及ばぬ。
だがセミが知らずとも春秋はある。
私たちが「何それ?そんなのあるか」と思っても、
過去・現在・未来の三世は、
一人一人に厳然と存在するのです。

「億劫」とは、仏教で4億3200万年を一劫といいますから、
これも大変な長期間のことです。


気の遠くなる多生・億劫の永きにわたる魂の遍歴の中で、
いまだあったことのない「弘誓の強縁」にあえた、
かつて獲たことのない「真実の浄信」を獲ることができた、
と聖人は叫ばれています。
ここでいわれる「あう」とは、「値う」と書き、
過去無量劫、果てしなく生死を繰り返してきた間にもなかったこと。
そしてこれからも未来永劫、
二度とないことに「値(あ)った」ことをいうのです。
親鸞聖人が値われた「弘誓の強縁」とは何か。
阿弥陀仏の本願のことです。

それは「すべての人を必ず救う」
という弘い誓いであり、ものすごく強いお力ですから、
「強縁」と言われているのです。
また、聖人が獲られた「真実の浄信」とは、
弥陀より賜るまことの心(南無阿弥陀仏)。

それは弥陀如来の浄らかなお心ですから、
浄信と仰るのです。
人間に生まれてきた目的は、
この弥陀の救いに値う以外にありません。

それは実は、人生の目的どころではない。
永遠の生命の多生永劫の目的なのです。

その弥陀のお約束どおりに救われた聖人は、
この世でこんなことがあろうとは、
不可称不可説不可思議に、
心も言葉も絶え果てて「噫」と感嘆されています。
そしてしみじみ、どんな遠い過去からの弥陀のご配慮があったのやらと、
「たまたま、行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ」
と感泣なされ、もし救われることがなかったら、
と後生の一大事に戦慄し、こう嘆息されています。
「若しまたこの廻疑網に覆蔽せられなば更りて
また昿劫を逕歴せん」
もし今生もまた、弥陀の本願に対する疑い(疑網)が破られなかったら、
またしても果てしない迷いを重ねるところであった。
危ないところであったなあ。

まさに、弥陀の救いとは、50年から100年のこの肉体の命のことではない、
永遠の生命の救済であることがお分かりでしょう。

だからこそ、救われたご恩の大きさは比類なく、
この身がたとえ砕かれようと、
報いずにおれなくなってくるのです。


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私とは、何ものか [阿頼耶識(我々の本当の心)]

私といっても肉体以外になく、死んで消滅すれば、
私も無くなると思っていましたが、
肉親を亡くした時、「無」になったとはとても思えませんでした。
一体、「私」とは何なのでしょうか。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(答)
医学の進歩はめざましく、
さまざまな人工臓器の移植が実現されつつあります。
やがて心臓の患者は、障害のある心臓をあれこれ治療することは止めて、
新品の人工心臓に取りかえて元気になるでしょう。
胃腸の悪い人も、手足が動かなくなれば、
これまた新品の手足と取りかえます。
もちろん濁った血液は、清浄な血液と入れかえもできるといった具合に、
ちょうど機械の部品が故障すると、
新品に替えたり補強されたりするように、
私たちの肉体もなるかもしれません。
将来は、人体組織のすべてが交換自由になるでしょう。
さて、そのようになった場合、一体、
生来の私というものは、どうなるのか、
ということが問題になります。
肉体の全てが替わってしまった時でも、
私という根源的主体性というものには、
全然影響が及ばないのでしょうか。

●肉体は別人、
    でも私は私?

肉体は別人であっても、
意識は依然として私であるという面白いことがおきます。
肉体のすべてが変わっても、
私そのものは変わらないとすれば、
その私とは一体、何者でしょうか。
これは決して、これからの医学を仮定しての問題ではありません。
すでに、私たちの肉体は約六十兆の細胞からできていることは
周知のことです。
しかもその細胞は、絶えず新陳代謝して、
おおよそ7年間で全部入れ替わるといわれています。
されば、7年前の私と7年後の私とは物質的に全く別人ということです。
ですが、実際は別人の感じはなく、
やはり同一人であることに間違いないのです。
してみれば、7年前の自分と今の自分との間には、
物質以外に何か一貫して変わらないものがあると
思わなければなりません。
これを統一的主体といわれます。
「いくら年をとっても、気だけは若い感じがする」と、
年配者は言います。
統一的主体としての自己が、
肉体の老化とは関係なくあまり変わらないからでしょう。
これを仏教では、
永遠に亡びざる生命の流れである阿頼耶識と説かれています。

これが明らかにならなければ、
私が行方不明になります。
この永遠の生命の実相が説かれているのが仏法ですから、
本当の私と対面するところまで聞きましょう。


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仏教とは、どういうものか? [釈迦]


仏教は難しいと言う人がいます。
それは仏教の本末を聞かないからです。
今から2600年前、インドに出現された釈尊が、
35歳、大宇宙で最高の仏の悟りを開かれ、
80歳でお亡くなりになられるまで、
説き続けられた教えが仏教です。

仏教の本末は
病人と医者の関係に譬えられます。
まず苦痛を訴える病人がいます。
このまま放置すれば死んでしまう。
次に病人を何とか助けてやろうという
医者が現れます。
医者は素手では病気は治せないので、
薬を作ります。
その薬を病人に与えると、
病気が全快する。
苦痛と死の恐怖から救われた病人は、
医者に心から全快のお礼を言います。

つまりどういうことかといいますと、
我々、衆生という病人がいたから、
阿弥陀仏という医師が現れられました。
阿弥陀仏は素手では病気は治せないので、
六字の名号という妙薬を完成されました。
その薬を我々がいただくと病気が全快します。
それを信心決定(しんじんけつじょう)といいます。
信心決定したら、阿弥陀仏にお礼を
言わずにはおれなくなります。
それが称名念仏です。

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仏教の「本」である、
我々衆生が病人であるということですが、

その病名は、「無明業障のおそろしき病
と言います。
オバマ大統領からホームレスに至るまで、
「無明業障のおそろしき病」にかかっています。

恐ろしいのは自覚症状がないということです。
病気であるという証拠は、
人類がみな苦しんでいるということです。

お金や財産に恵まれない人ばかりではなく、
富豪や王侯貴族といわれる人たちも、
苦悩しています。

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徳川家康といえば、
誰もが知るこの世の大成功者でありましたが、
所詮は苦悩の人生でした。
「人の一生は重荷を背負うて
遠き道を行くがごとし」
死ぬまで重荷をおろせず、
苦悩の連続であったと自戒された言葉です。

女流作家の林芙美子の
「花の命は短くて、苦しきことのみ多かりき」
は多くの人の共感を呼んでいます。

ダイアナ妃といえば、
英国王室の華でしたが、
王室での生活はこの世の地獄、
夫の不倫、拒食症、過食症、
愛人の裏切り、自殺未遂など、
苦の連続でした。

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誰もが苦しんでいます。
日本国内の自殺者は、年間三万人もいるのです。
病人でなければ、何でしょうか。


この心の病気を「無明業障」といいますが、
無明とはここでは煩悩のことです。
無明の闇の無明とは意味が違います。
我々には百八の煩悩があると釈尊は教えられています。
その代表が、欲、怒り、愚痴の、三毒の煩悩です。

業障とは、これら欲、怒り、愚痴などの煩悩で、
造り続ける悪業、罪悪が、
悪因悪果、自因自果の因果の法則により、
必ず自己の上に
「障り」=不幸、災難となって返ってきます。

それによって、この世も苦しみ、
未来も大苦悩の世界に堕ちてゆかなければなりません。

これを業障と言われるのです。
三毒の煩悩で、どれほど日々、
罪悪を重ねるか、知らねばなりません。
親鸞聖人は照らし抜かれたご自身の姿を
「罪悪深重」「一生造悪」「地獄一定」と懺悔しています。
我々もまた同じ極重の悪人なのです。


それでは検証してみましょう。


●欲の心で罪悪の造りどおし

①殺生罪の悪逆非道

まず欲の心で造る悪ですが、
食欲でどれほど殺生罪を造っているでしょうか。
殺生罪とは、衆生を殺す罪であり、
衆生の中には人間以外の動物も入ります。
人を殺すのも、牛、豚、鶏を殺すのも、
同じ殺生罪です。
人間が平和を願うように、動物とて、
健康で長生きしたいのです。
生命は同根と、仏教は教えています。
生き物を殺すのは罪なのです。

逆になって考えてみれば分かります。
譬えば、人間以上の知能を持つ動物がいたとして、
その者が我々の妻子や兄弟を
次々と捕まえて五体をバラバラにし、
焼いて食べたなら、
我々はその連中の悪逆非道を
どれほど怨むでしょうか。
殺生罪にも、自分で殺す自殺、
他人に頼んで殺させる他殺などがあり、

牛肉、魚などを買って食べるのは、
仏教でいう他殺にあたります。

アメリカでは、年間四千万頭もの牛が殺されます。
一日に換算すれば十万頭です。
有無を言わさず、
牧場から食肉処理場へ連行して殺し、
その牛肉が日本にも輸入されます。
我々は日々、どれだけの生き物を
無惨に殺して食べているでしょうか。
生まれてから今日まで何千、何万もの命を
犠牲にしているのです。

そんな殺生罪の報いが今、現れたならば、
この体、何万回、バラバラにされても
少しの文句も言えないのです。

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②財欲による親殺し

財欲でも恐ろしい罪を造ります。
親殺しは仏教では、五逆罪という重罪ですが、
体で殺さずとも、心中で親の死を願えば
心で親を殺す五逆罪です。

親が中風で寝たきりになり半年にもなると、
看病疲れで、ひそかに親の死を願います。

子供の病気ならば、
どれほど大金をかけても治そうとするが、
年老いた親の病気に
それだけの気持ちは生じません。

近所の医師を呼び、
その医者が帰りがけ、若夫婦に、
「今晩辺りがヤマですよ、よく注意していてくださいよ。」
などと耳打ちしてゆこうものなら、
ひそかに葬儀の準備を考えます。
子供がそうなったときと比較してみれば、
いかに親をおろそかにして、
心の中で邪魔者扱いしているかが分かります。

③色欲や名誉欲(女の決闘)

色欲や名誉欲でも悪の造りどうしです。
フランスの哲学者、ポール・ヴァレリーに、
次のような名言があります。
「もし人間がまなざしで
女性を犯すことができたら、
街は妊婦でいっぱいになってしまうだろう。
もし人間がまなざしで
人間を殺すことができたなら、
街は死体でいっぱいになってしまうだろう。」
色情を抱いて女性を見る男性は心中で、
その女性を犯しているのです。

同年配の女性同士がすれ違う時など、
互いに頭の先からつま先までの値踏みをし、
自分の服装、持ち物などと比較し、
勝負を決めようとします。
自分が負けたと思ったとき、
相手を心で切り刻みます。

あたかも巌流島の決闘の如きすさまじさです。

まさに「愛欲の広海に沈没(ちんもつ)し、
名利の大山に迷惑して」
と親鸞聖人が言われるとおり、
名誉欲、財欲、愛欲、食欲などで、
一生造悪の我々なのです。

その結果、
この世は自業苦(ジゴク・自分の業の障りで苦しむ)、
未来も地獄。
自分の業が生み出す大苦悩の世界で
八万劫中、のたうち回る後生の一大事が、
必ず起きるのです。

これを「無明業障の恐ろしき病」に
かかっているというのです。


●諸仏方も見捨てられた私たちの死んだ心

この病人を何とか助けようと
出現された名医が阿弥陀仏です。

実は、大宇宙の諸仏方も一度は、
苦悩の衆生を助けようとしてくだされたが、
我々の罪が余りにも重く、
とても救済は不可能と
見捨てられてしまいました。

その我々とは、どれだけ周囲に
無常の風が吹いていても、
少しも自分が死ぬとは思わず、
悪を悪と思いません。

地獄と聞いても皿一枚割ったほどにも驚かず、
極楽と聞いても喜びません。

後生の一大事を少しも一大事と思わず、
あわてる心もありません。
金が心配で寝られないことはあっても、
後生の一大事が心配で
寝られないことはありません。
仏法に向かっては、
キュトン、ポカン、ボーとした心しかないのです。

まさに「屍」の心です。

我々の本心は死んだ心、
屍と仏教は教えます。

諸仏では、屍は生き返らせることは
できませんでした。

こんな衆生の心を救うことは、
「太平洋のような大海の水を貝殻で汲み干し、
海底の宝物を手をぬらさずに
取ってくるより難しい。」
と『大無量寿経』には説かれています。

だから諸仏の手では到底及ばなかったのです。

この間の消息が、蓮如上人
『御文章』二帖八通に書かれています。
それ十悪五逆の罪人も、
五障三従の女人も、空しく皆、
十方諸仏の悲願に洩れて、
捨て果てられたる我等ごときの凡夫なり


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●救済の試行錯誤

諸仏が見捨てた病人を、唯一人、
救おうと立ち上がってくださった方が
阿弥陀如来です。

蓮如上人は続けて仰っています。
然ればここに弥陀如来と申すは、
三世十方の諸仏の本師本仏なれば、
久遠実成の古仏として、
今の如きの諸仏に見捨てられたる末代不善の凡夫、
五障三従の女人をば、
弥陀に限りて『われひとり助けん』
という超世の大願を発して、
われら一切衆生を
平等に救わんと誓いたまいて
無上の誓願を発してすでに南無阿弥陀仏と
成りましましけり

              (御文章二帖八通)

阿弥陀仏は諸仏の王であり、
師匠であり、最尊第一の仏です。

弟子の諸仏の手に負えない我々衆生を、
命にかけても助けてみせる、
屍を生まれさせてみせるとの大願を
起こしてくださいました。
何しろ、大海の水を貝殻で汲み干し、
海底の宝物を得るという難中の難事であります。
医師がエイズのような難病に取り組んで、
原因と救済の方法を求めて試行錯誤するように、
阿弥陀仏は、思惟に思惟を重ねられ、
その間、実に五劫に及びました。
一劫とは、四億三千二百万年です。

かくて大海の水を汲み干し宝物を得るには、
どうすればよいか、

という壮大な阿弥陀如来の本願が建立されました。
これを弥陀五劫思惟の願といいます。
薬で言えば処方箋、製造方法が確立したのです。


●特効薬の完成

次に阿弥陀仏は、医師が世界各地から
必要な材料を集めて

精製し、調合し、実験を重ねて、副作用なく、
病原を取り除く薬を完成するように、
修業に次ぐ修業を重ねられました。

その期間は兆載永劫という長年月です。

十劫の昔に、我々の恐ろしき病の治る特効薬、
南無阿弥陀仏の六字の名号大功徳を
完成なされたのであります。


●病気全快した大歓喜

このような、阿弥陀仏の五劫思惟、
兆載永劫のご修業の仏説が真実であった、
と知らされるのは、

自身が、この特効薬をいただいて、
無明業障が全快した時です。

親鸞聖人は二十九歳の御時、
法然上人に導かれて、
阿弥陀仏に救い摂られた時、
弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、
ひとえに親鸞一人がためなりけり。
されば若干(そくばく)の業をもちける身にてありけるを
助けんと思召したちける本願のかたじけなさよ

              (歎異抄)
と泣いて喜んでおられます。

法然上人が救われたのは
四十三歳の御時でありました。

それから八十歳でお亡くなりになるまで、
いつも『大無量寿経』の、
五劫思惟・兆載永劫の御文を念誦される時、

涙を流しておられました。
ある時、お弟子がそれをいぶかしく思って
尋ねてみると、

「この愚痴の法然坊、
十悪の法然坊を助けんがために、
五劫の間、思惟して下され、兆載永劫の間、
ご修業をしてくだされたことを思えば、
お慈悲のほどが身にしみて、涙がこぼれる」
と仰せられたと記録に残されています。

若い娘が悲恋の物語を読んで
涙を流したというなら、誰も驚きません。
女性は感情的であり、特に若いときは感受性が強く、
よくあることでしょう。

しかし、五十代、六十代の男性である法然上人が、
難化な経典を念誦されては
涙を流されたことは一般には驚きでしょう。

それほどに深く、
弥陀如来の五劫思惟・兆載永劫の
ご修業の大恩を知らされておられたのです。

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弥陀に救われるためには、聞き開かねばならない! [極楽に往生するには]

4通りの「きく」とは

誠なるかなや、
摂取不捨の真言、超世希有の正法、
聞思して遅慮することなかれ

       (親鸞聖人・教行信証)

まことだった!本当だった。
弥陀の救いにウソはなかった。
みなみな、聞いてもらいたい、
この親鸞が生き証人だ。
早く、弥陀の誓願まことを知ってもらいたい。

今回も、この親鸞聖人のお言葉を解説いたしましょう。
親鸞聖人が「まことだった!」と言われている
「摂取不捨の真言」とは、「阿弥陀仏の本願」のこと。
それは、十方諸仏の本師本仏である阿弥陀仏が、
本当に願っていられる御心で、
“どんな人も必ず、絶対の幸福(往生一定)に救う”
お約束です。
弥陀の願いに背を向けて逃げ回っている私たちをどこまでも
追いかけ、追い詰めて、“無上の幸せに摂め取って捨てぬ”
という弥陀の真実のお言葉ですから、
親鸞聖人は「摂取不捨の真言」と言われています。

大宇宙に2つとない大誓願だから、
「超世希有の正法」とも称されます。

この阿弥陀仏の救いにあずかる道はただ一つ。
「聞思して遅慮することなかれ」と親鸞聖人は明言されています。
「聞思」とは「聴聞」。
「聴」も「聞」も、ともに「きく」ということです。

●4通りの「きく」

一口に「きく」といいましても、次のように、
四通りあると教えられます。

①聞き閉じる
②聞き流す
③聞き覚える
④聞き開く

最初の「聞き閉じる」人とは、
尊い法を聞かせていただきながら、
ボーッとしたり、居眠り半分になってしまい、
休憩時の世間話は元気いっぱいでも、
説法が再開するとまた眠くなるような人です。
聞法しながらも他のことばかり考え、
ただ体が座っているだけ、
という人も同じこと。
湯のみに例えるならば、引っくり返った状態で、
どれだけ高級なお茶を注いでも、はじいてばかり。
このように、心を閉じて、法が入っていかないのは、
「聞き閉じる」きき方です。

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次が「聞き流す」人。
漫然と聞いて、少しも心に聞きとどめようとしない人です。
「覚えてこいとはおっしゃらん」
と忘れるのを自慢げに語る人さえあります。
また、「それも聞いた」「これも知ってる」「この話は3回目だ」
と、粗末に聞く人も同様です。
世間でも、「『分かったつもり症候群』に注意!」といわれる。
この症状につける薬は幾つかありますが、
「聞いたことを、誰かに分けるように説明してみる」
「学んだことを実践に移す」
の2つがお勧めです。
“分かったつもり”でも、
いざ他人に話そうとすると「あれ、これは何の例えだったかな」
「話がつながらなくなった」「このお言葉、どう説明されてたかな」
と、驚くほど聞けていないものです。
話が空中分解したり、2時間かけて聞いた話を
説明すると5分で終わってしまったという経験は
誰にでもあるのではないでしょうか。
同じ話を、常に初事として聞き求めねばならぬのが仏法と、
蓮如上人は、こう、戒めておられます。

人は珍しい話、変わった話を聞きたがるが、
何度、同じことを聴聞しても、
初事と聞かなければならない

一つことを幾度聴聞申すとも、珍しく、
はじめたるようにあるべきなり

         (御一代記聞書)

珍しい話を聞きたい心は、敵。
弥陀の御心一つ分からないから助からないのです。
皮相をなめただけで、分かった気になり、
仏法を軽く見ていては、信仰は進みません。

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三番目は「聞き覚える」人。
親鸞聖人の教えを真剣に聞いて、理解しよう、
覚えようとする人です。
他人事と流さず、教えの通りに忠実に実践しようと
努める人でもあります。
「分かったことは、実行すること」
どれだけ物知りになっても、
仏教で勧められる挨拶すらしない人は、
「聞き流している」と言われてもしかたないでしょう。

頭でっかちになって相手を見下し、
批評や批判ばかりでは足元がおろそかになり、
つまずいて転んでしまいます。
「和顔愛語」を「わがおあいご」と間違って読んだ人に、
「こんな言葉も読めんのか!」と、
恐ろしい形相でとげとげしく注意をしていた人がありましたが、
そんな時こそ、笑顔で優しい言葉をかける
「和顔愛語」を実践してほしいもの。
真実の教えを一つでも覚え、理解し、
できることから実行しようとする努力が尊いのです。
しかし、ここでとどまってしまっては、また大変。
覚えたのが他力の信心ではない。
他人に話せるようになったのが、
弥陀の救いではありません。
分かろう、分かろうとするのは「分かって助かろう」
としている自力の心です。
いろんな知識を増やすための聞法では、
いつまでたっても助かりません。

どれだけ合点を積み重ね、理解を深めても、
それで極楽往生はできません。

あながちにもろもろの聖教を読み、
物を知りたりというとも、
一念の信心の謂(いわれ)を知らざる人は徒事なりと知るべし

             (御文章五帖目二通)
一切の聖教は、私たちに弥陀の救いを知らせ、
一念の信心を獲させるために書き残されたものですから、
大いに学び、教えの理解を深めねばならないのは当然です。
しかし、どれだけ詳しく聖教を学び、知識を増やしたとしても、
一念の信心を獲得し、弥陀の救いにあわねば、
弥陀の浄土へは往けませんよ、
と蓮如上人は戒められているのです。

●弥陀の本願「聞き開く」

最後の、「聞き開く」とは、
「弥陀の本願まことだった」と聞いたことをいいます。

「聞」と言うは、衆生、仏願の生起・本末を聞きて疑心有ること無し
               (教行信証信巻)

阿弥陀仏の本願に“疑心あることなし”と聞く、
一念の信心のことです。


こんな話があります。
中国へ出張中のこと。
風邪を引いてしまった。
いつもなら持参の薬を3日ものめばスッキリ治ったのに、
中国のウイルスは違うのか、
一週間のんでも咳が止まらず苦しんだ。
そんな時、「中国の風邪の特効薬だ」
と同僚が赤い小箱を持参した。
聞いたことも見たこともない薬を手にして、
“本当に効くのかな”と疑いながらのんでみた。
ところがなんと翌日、ウソのように症状が消えているではないか。
一気に「特効薬だった」と疑いが晴れたという。

もう一つ疑い晴れる例。
飛行機が乱気流に突っ込んで激しく振動し、
しばしば機長のアナウンスが流れる。
「大丈夫です。ご安心ください」
それでも起きる不安や疑心は、
無事着陸した時に消滅する。
「助ける」という約束に対する疑いは、
「助かった時」に破れます。
「与える」という約束の疑いは、「受け取った時」に無くなる。
“摂取不捨の利益(絶対の幸福)を与える”
という弥陀の約束(本願)への疑いは、
「摂取不捨の利益」を私が受け取った時に晴れるのです。

このように、弥陀の本願(誓願)に
露チリほどの疑いもなくなった「聞」を、
「聞き開いた」といいます。

しかも聖人は、ただ「疑心なし」とは言われずに
「疑心あることなし」と言い表されています。
一体「疑心なし」と「疑心あることなし」とは、
どう異なるのでしょうか。
例えば友人に、
「百万円、貸してくれないか」
と頼んだ時、
「とんでもない、百万円などオレにはないよ」
と断られた。
こんな友人なら5年か10年後には、
ひょっとしたら借りられるかもしれません。
今はなくても、その友人に将来、
どんな大きな収入があるか分からないからです。
しかし、「オレに百万円なんか、あることなしだ」
と断られたら、何十年たっても可能性はゼロとなります。
「あることなし」では、永久に「ありっこない」のですから
「なし」とは大違い。
「弥陀の本願に疑心あることなし」と聞き開いた人は、
金輪際、本願に疑いが出てくることは二度とありません。

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●聞き開けば“こころは浄土に遊ぶ”

聞き開いた一念に、弥陀の本願どおり絶対の幸福に救われ、
いつ死んでも極楽参り間違いない身にさせていただけます。

親鸞聖人は、こう和讃されています。

超世の悲願ききしより
われらは生死の凡夫かは
有漏の穢身はかわらねど
こころは浄土にあそぶなり

       (帖外和讃)
「弥陀の本願まことだった」と聞き開き、
絶対の幸福に救い摂られた時から我々は、
迷いの人間ではなくなるのだ。

欲や怒りの煩悩は少しも変わらないままで、
心は弥陀の浄土へ往って遊んでいるように、
明るく愉快である

超世の悲願とは、世の常識を超えた、
大慈悲の弥陀の本願のことで
「超世希有の正法」ともいわれます。
その本願に疑い晴れたことを
「超世の悲願ききしより」と言われています。
これは、聞き開いた、「ききし」です。
弥陀の本願、聞き開くと「生死の凡夫かは」、
迷いの人間ではなくなる。

では、迷いの衆生でなくなったのならば、
何が変わって何が変わらないのか。
「有漏の穢身はかわらねど」の有漏の穢身とは、
欲や怒りの煩悩に汚れた肉体のことですから、
弥陀に救われても、我々の煩悩は全く変わらないのです。
救われたら、少しは煩悩が減るのだろうと、
誰しも思うでしょうが、そうではありません。
弥陀の救済は、煩悩あるがまま。

煩悩具足の凡夫が、弥陀の正客です。
煩悩が変わらないままで救われたら、
では何が大変わりするのか。
親鸞聖人は「こころは浄土にあそぶなり」と言われています。
欲や怒りの煩悩は、減りも無くなりもしないままで体験できる、
驚くべき幸福のあることを、
「煩悩いっぱい変わらぬままで、親鸞は、
極楽浄土へ往って遊んでいるように、明るく愉快なのだ」
という一大宣言です。

●『真宗宗歌』にも

『真宗宗歌』には、こう歌われています。

ふかきみ法にあいまつる 身の幸何にたとうべき
ひたすら道をききひらき まことのみむねいただかん

「ふかきみ法(のり)」とは、
釈尊の説きたもうた阿弥陀仏の本願のこと。
古来、幾多の宗教がありましても、
人生究極の目的を説き切り、
万人を真実の幸福に導くみ教えは、
仏教以外にありません。

しかし、深い仏縁がなければ、弥陀の本願という大法には遇えない。

稀にも受け難きは人身、値い難きは仏法なり。
如来の本願に値いたてまつらずは、いたずらごとなり。
然るに、今既にわれら弘願の一法(弥陀の本願)に
遇うことを得たり
               (御文章三帖目四通)
生まれ難い人間に生まれ、
聞き難い仏法に巡り遇えたことは、
どれほど喜んでも足らない、
蓮如上人は仰せです。

無二の深法に巡り遇えたこの上は、
“雨風雪はもののかずかは”
と聞き求めずにはおれません。
「ひたすら道をききひらき まことのみむねいただかん」
阿弥陀仏の本願を聞き開いたならば、
まことの南無阿弥陀仏を一念に賜り、
大安心、大満足に生かされます。
その身になるには、「聞く一つ」。

山に籠もって修行したり、断食したり、
座禅を組んで助かるのではありません。

「仏教は聴聞に極まる」
ほかに道なし、であります。

ここで四通りの「聞き方」をおさらいしてみましょう。

①聞き閉じる
②聞き流す
③聞き覚える
④聞き開く

最終目的は、「聞き開く」。
知った覚えた、の合点でとどまっていてはなりません。
まずは一歩踏み出してみましょう。

聞法の場へ足を運んで親鸞聖人のみ教えを
真剣に聞かせていただくことが、浄土への第一歩です。


 


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弥陀の救いにあうにはどうすればいいのか! [極楽に往生するには]


誠なるかなや、

摂取不捨の真言、超世希有の正法、

聞思して遅慮することなかれ

        (親鸞聖人・教行信証総序)

 

まことだった!本当だった。

弥陀の誓いにウソはなかった。

みなみな、聞いてもらいたい、この親鸞が生き証人だ。

早く、弥陀の誓願まことを知ってもらいたい。

 

今回も、この親鸞聖人のお言葉を解説いたしましょう。

親鸞聖人が「まことだった!(誠なるかなや)」と言われている

「摂取不捨の真言」とは、「阿弥陀仏の本願」のこと。

それは、十方諸仏の本師本仏と仰がれる阿弥陀仏が、

本当に願っていられる御心で、

“すべての人を必ず絶対の幸福(往生一定)に救う”

お約束です。

真実に背を向けて逃げ回っている私たちをどこまでも追いかけ、

“絶対の幸福にガチッと摂め取って捨てぬ”
という弥陀の真実のお言葉
ですから、

親鸞聖人は「摂取不捨の真言」とも言われています。

世の常識を超越した唯一無二の大誓願ですから、

「超世希有の正法」とも言われるのです。

 

●悲劇と隣り合わせの日常


人は皆、幸せを求めて生きています。

けれども、世を知れば知るほど、厳しい現実の壁に立ちすくむもの。

二十代、三十代の死因一位をご存知でしょうか?

答えは「自殺」。

二十代で亡くなるおよそ二人に一人が、自殺で命を絶っています。

ニュースキャスターが眉をひそめて報じるのは、

殺人、戦争、暴力、虐待・・・。

地球より重いはずの命が、
弊履(へいり)のように粗末に扱われています。

やっと手に入れたはずの幸せも、

手のひらからこぼれる水のように失われていく。

ショーペンハウエル(ドイツの哲学者)は、

「遠目には幸福に見えても、近づけば蜃気楼と消える。

現実になるのは、苦悩と苦痛」

と嘆き、哲学者ヴォルテール(フランス)も

「幸福は幻にすぎず、苦痛は現実だ」

と警告しています。

たとえ、50年、70年、幸せが続いても最後、

死んでいかねばなりません。パスカル(フランスの思想家)は

「人間は、死と不幸を癒せなかったので、考えないことにした」

と皮肉たっぷりに書き残しています。

お釈迦さまは「死」を「飢えに狂った虎」に例えられています。

厚生労働省の人口動態統計(平成25年)によると、

日本の年間死亡者数は、およそ127万5千人。

平均すると一日3500人弱が、
日本のどこかで命を落としています。

一週間にすれば2万4500人。

あの東日本大震災の死者、
行方不明者が1万8502人といいますから、

それを上回ります。

しかし、このことを取り立てて大騒ぎする人はありません。

もちろん、津波で死ぬのと、
病院や自宅で静かに布団の上で亡くなるのとでは、

大きく異なりますが、「命を失う」という悲劇の本質に、

変わるところはないでしょう。
とすれば、私たちの“平穏な日常”

というものは、実は「死」の悲劇と常に隣り合わせなのです。

 

●この世から未来永遠の幸せになれる


確実な未来に不安を抱える私たちを、

この世から絶対の幸福にガッチリ摂め取り、

「必ずわが浄土に生まれさせてみせる」
と誓われたのが阿弥陀仏の本願です。

親鸞聖人は絶対の幸福に救われ、こう仰っています。


超世の悲願聞きしより

われらは生死の凡夫かは

有漏の穢身は変わらねど

こころは浄土にあそぶなり

     (帖外和讃)


阿弥陀仏の本願に救い摂られてからの人生は、

もう苦しみ迷いの人ではない。

欲や怒りの絶えない煩悩具足の身は変わらないけれども、

今が幸せ今日が満足、ウラミと呪いの渦巻く人生を、

浄土で遊んでいるような気分で生かされる。


地震や津波、台風、火災や病気、
人間関係のゴタゴタなど災厄が逆巻き、

いかに煩悩、渦巻こうとも、本願まことと救われた人は、

一切が往生の障りとならない真の自由人になれるのです。

しかも「老少善悪の人をえらばず」(歎異抄一章)で、

老いも若きも関係なく、善人悪人差別なく、

すべての人が弥陀のお約束の相手だと
親鸞聖人は教えておられます。

では、どのようにすれば、弥陀の本願に救われるのでしょうか。

 

●本当の幸福になれるただ一つの道


それはただ一つ、親鸞聖人は「聞思して遅慮することなかれ」と

教えておられます。

「聞思」とは、「聴聞」のこと。

お釈迦さまも、親鸞聖人も、蓮如上人も、

「仏法は聴聞に極まる」とのご教示です。

「聴聞」とは、聴もきく、聞もきく、ということ。

聞いて聞いて聞き抜きなさい、と教えられています。

うわさ話や落語や漫才を聞くのではありません。

仏法を聞かせていただくのです。

親鸞聖人のご一生が描かれている
アニメーション『世界の光・親鸞聖人』は、

親鸞聖人の教えに基づいて作られていますから、

このアニメを見ることも、聴聞になるのです。

では、どのような心がけで聴聞すればいいのでしょう。

親鸞聖人は、


たとい大千世界に

みてらん火をもすぎゆきて

仏の御名をきくひとは

ながく不退にかなうなり

     (浄土和讃)


たとえ大宇宙が猛火に包まれようとも、
その中、
仏法を聞く人は、
早く絶対の幸福になれると教えられています。

蓮如上人も、こう仰っています。


火の中を 分けても法は 聞くべきに

雨風雪は もののかずかは


これは、

仏法は、火の中かき分けても聞かねばならない
大事なことが教えられているのだよ、

と親鸞聖人は教えておられる。
だから、雨や風や雪に負けずに仏法は聞かねばなりませんよ

と言われているのです。

 

●「聴聞」四つの心構え


ある浄土真宗の先達は、仏法を聞く心構えを、

分かりやすく四つに分けて教えられました。

一番目は「骨折って聞け」。

「骨を折る」とは、「苦労する」という意味ですから、

仏法は、「苦労して聞きなさい」ということです。

何事も楽していては身につかぬ。


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ある新聞社の編集長が
三人の記者が書いた同一事件の原稿を批評してこう言いました。

「第一は頭で書いた原稿、
第二は耳で書いた原稿、
第三は足で書いた原稿。
足で書いたものが最もよい」

頭で書いた原稿とは、
横着して事件の現場を想像して書いたもの。


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耳で書いた原稿は、電話や人伝えで聞いて記したもの。

足で書いたというのは、実地に現場に足を運び、
状況を目で確かめ、
生の証言を聞いて書いたものをいう。

会社を一歩も出ずに横着していては記者失格。

足を動かし汗をかき、苦労してこそ得るものは大きい。

ましてや仏法。

近くのコンビニで買い物するような気楽な聞法ではなく、

離れた場所まで苦労して行ってこそ、「しっかり聞こう」

と真剣になります。

ですから、「仏法は、出て聞け」「足で聞け」といわれるのです。

 

二番目に大事な心掛けは「衣食忘れて聞け」。

仏法を聞くのに、服装や、食事に気がかかっているようでは、

真剣な聞法とはいえません。

わが身の大事となれば、衣食など忘れてしまいます。

自分のうわさ話が聞こえたらどうでしょう。

「そういえば○○さんってこの前・・・」

あなたの名前がささやかれる。

褒め言葉か悪口か、一体どんな話が始まるのか。

聞き落としては大変と、脳はシャンとなり、耳もツンと立つ。

わが子が交通事故に遭って病院に運ばれれば、

医者の一言一言に全神経を集中して聞かずにおれません。

仏法には、私の後生の一大事が説かれているのですから、

それ以上に真剣な気持ちで聞かせていただいて当然です。

釈尊十大弟子の一人、
舎利弗尊者が閑静な山中で座禅していた時のこと。

かねて畏敬する維摩居士がやってきた。

「舎利弗さん、そこで何していられるのかな」

誰もが見れば分かることを、ワザと聞くので面白くない。

「座禅しているのだが・・・」

無愛想の答える。

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散乱している舎利弗の心を見抜き、
維摩は言下にこう指摘する。

「なに座禅、それが座禅とな。
もし身体を動かさないのが座禅なら、

山の樹木も立派に座禅していることになる」

かくて諄々と、本旨を説いたという。

形よりも心が大事なのです。


聴聞の心構えの三つ目は、「間断なく聞け」。

「継続は力なり」といわれるように、
何かを身につけようと思ったら、

根気よく続けることが大切です。

仏法は、半年や一年に一度、
ボツーンと聞いて分かるような浅い教えではありません。

続けて続けて聞きなさい、と教えられているのです。

昔、明詮という僧侶が、3年たっても魂の解決にメドがつかず、

「オレは助からない人間かもしれない。今はこれまで」

と、師匠にいとまを願い出て泣きながら寺を出た。

ところが、その時、大雨が降ってきたので、

山門の下に腰を下ろし、雨がやむのを待った。

山門の屋根から落ちる雨だれを見ていた明詮は、
フト、足下の石に、
穴が開いているのを目にする。

「こんな硬い石に、どうして穴が開いたのだろう」

と、じっと見ていると、その石の穴は、

雨だれがポタポタと落ち続けてできたのだと気づいた。


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明詮はハッとした。

「軟らかい水滴が、こんな硬い石に穴を開けたのか。

オレは、2年や3年の修行でへこたれて
後生の一大事の解決をあきらめるとは、

この水にも劣る横着者ではないか」

翻然と寺へ帰るや、雨だれの説法を師匠に話し、

心を改め、努力精進して、
後に「音羽の明詮」といわれる大徳になったという。

蓮如上人は、


至りて堅きは石なり、至りて軟らかなるは水なり、

水よく石を穿つ。いかに不信なりとも聴聞を心に入れて申さば、

お慈悲にて候間、信を獲べきなり。

只仏法は聴聞に極まることなり

          (御一代記聞書)

 

いかに硬い石でも、軟らかい水が穴を開ける。

どんなに疑い深くとも、聴聞に身も心も打ち込めば、

広大な阿弥陀仏のお慈悲によって
必ず信心を獲ることができるのだ。

ただ仏法は聞くことが肝要である。

と教えられています。


聴聞の心構えの最後は、「聞けない時は、思い出せ」です。

「どんなに聞きたくても、聴聞のご縁がない時は、

聞いたことを思い出しなさい」

と教えられています。復習が大事、ということですね。

 

4つの心がけをおさらいいたしましょう。


①骨折って聞け(苦労して、足で聞きましょう)

②衣食忘れて聞け(集中して、真剣に聞きましょう)

③間断なく聞け(継続して聞きましょう)

④聞けない時は思い出せ(しっかり復習しましょう)


「仏法聞き難し、今已に聞く」(お釈迦さま)

本当の幸せを明らかにする仏法を聞かせていただくことは
大変有り難いことです。

4つの心がけを胸に刻み、

「聞思して遅慮することなかれ」。

「心は浄土にあそぶなり」の風光が開かれるまで、

聞法会場へ足を運び、聴聞の一筋道を進みましょう。


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阿弥陀仏の本願 [阿弥陀仏]

IMG_20150524_0046.jpg-1.jpg(平成10年6月号『とどろき』より載せています。) 


都会の人は可哀想である。
満天に、無数にきらめく星空を、
スモッグのためになかなか見られないからだ。
そこへゆくと、このチューリップ企画本社ビルのある
富山県大島町などはよい。
見上げれば、雄大な世界に吸い込まれるかのように思える。
わずかな土地を奪い合い、裁判沙汰になったり、
戦争まで起こしている人間社会がバカらしくなるではないか。
大宇宙から見れば、地球は星クズの一つに過ぎず、
その中にうごめく人間は、なんと表現したらよいのだろう。
かまびすしく鳴くセミも、
地上へ出て一週間で死ぬと言われる。
日本人ならば人生八十年、しかし宇宙の生命と比べれば、
それがどうした。
セミよりもはかない、一瞬のできごとではないか。

「悠々たるかな天壌
遼々たるかな古今
五尺の小軀をもって
この大をはからむとす。
ホレーショの哲学、
ついに何等の
オーソリティに
価するものぞ。
万有の真相は
唯一言にして悉す。
曰く『不可解』。
我この恨みを懐いて煩悶
ついに死を決す」

明治36年5月22日、日光・華厳の滝に投身自殺した、
藤村操の遺言である。


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旧制一高で西洋哲学を学んでいた18歳の藤村操が、
巌頭の大樹の幹を削り、書き残したので、
「巌頭の感」と言われる。
二ヶ月後、滝壺で遺体が発見されると、
一大センセーションが巻き起こった。
明治初期、「デカンショー、デカンショーで半年暮らす」
とうたいはやされるほど、
西洋哲学は熱狂的に受け入れられた。
「デカンショー」とは、デカルト(仏)、カント(独)、
ショーペンハウエル(独)という高名な哲学者の名前から
作られた言葉である。
彼らの哲学を学んで半年、残りの半年は寝て暮らすという、
当時の学生気質だった。
ところが、西洋哲学を学んだ天才青年の結論は、
どうだったか。

「悠々たるかな天壌」
人間の存在に比べれば、あまりにも大きな天地自然。
「遼々たるかな古今」
はかない人間の寿命に比して、宇宙の歴史は悠久である。
「五尺の小軀をもってこの大をはからむとす」
五尺の身体で人生の意義を考えてみた。
「ホレーショの哲学、ついに何等のオーソリティに価するものぞ」
西洋哲学は、私に何も教えてくれなかった。
「万有の真相は唯一言にして悉す。曰く『不可解』」
結論はただ一言、「人生は不可解」である。
この一瞬の人生、何のために生まれてきて、
なぜ生きるのか、生きねばならないのはなぜか。
「生きる目的は不可解である」と、
藤村操は言いたかったのだ。

以後、人生に悩む青年が後追い自殺を繰り返し、
4年間に185人もが、華厳の滝へ投身している。
「哲学を学ぶと自殺する」とまで言われ、
親は子に哲学をさせないようにしたという。


●伝染する自殺


藤村操の例からもわかるように、自殺は伝染する。
ペスト(黒死病)は、ネズミを媒介として大流行した。
自殺はマスコミが媒介する。
報道が自殺志願者を駆り立て、実行へ走らせるのだ。


昭和61年に、アイドル歌手だった岡田有希子が、
18歳で7階建てのビルから飛び降りたときも、
後追いと見られる遺書を残し、
少年少女が次々と自殺した。
この年の日本の自殺者は、2万5000人を突破している。


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さらには今年五月、人気ロックバンドのメンバーの自殺でも、
後追いが見られた。
それだけ、自殺志願は多いのだ。
1日65人に上る自殺者の陰で、
その4倍とも10倍とも言われる未遂があり、
さらに機会あらば自殺したいと思っている、
危険性の高い(ハイリスクの)人がいる。
これらの人が、有名人などの自殺を聞き、
「私も同じ場所で・・・」と思うと、
たちまち自殺の名所ができてしまう。
報道各社も、気を使っているようだが、
「『なぜ生きるか』が不透明」という、
人間存在の根底にあるテーマに、
斬りこむジャーナリストはいない。


●自殺者は大バカ者
    死後に待つ地獄の苦


仏教では、自殺者は愚か者と言われる。
ある日、釈尊が、托鉢の道中、
大きな橋の上であたりはばかりながら一人の娘が、
袂(たもと)へ石を入れているのを見られた。
自殺の準備である。
近寄られた釈尊は、やさしく事情を尋ねられた。
「お恥ずかしいことですが、
ある男と親しくなり妊娠しましたが、
その後捨てられました。
世間の眼は冷たく、おなかの子供の将来なども考えますと、
死んだ方がどんなによかろうと思います。
どうかこのまま、見逃してくださいませ」
泣き崩れる娘を釈尊は、哀れに思われながらも、
厳然と仰せられた。
「お前は何というバカ者なのか。
お前には譬えをもって教えよう。
ある所に、毎日荷物を満載した車を引かねばならない牛がいた。
牛はなぜ、こんなに苦しまねばならぬのか、
オレを苦しめるものは何かと考えた。
そのとき、この車さえなければ苦しまなくてもよいと
思い当たったのだ。
ある日猛然と走って、大きな石に車を打ち当て、
壊してしまった。
ところが牛の使用人は、
やがて、鋼鉄製の車を造ってきたのだった。
今までの車の何百倍、何千倍も重い。
牛は、軽い車を壊したことを深く後悔したが、
後のまつりであった。

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お前は、肉体さえ壊せば楽になると思っているが、
死ねば地獄へ飛び込むだけだ。
お前には分からぬだろうが、
地獄の苦は、この世の苦しみぐらいではないのだ」
釈尊は諄々と、地獄の苦しみを教えられた。

娘は初めて知る真実の仏法に驚き、
仏門に入って救われたという。


●星空の説法
    真に意義ある人生に


私たちの後生にも、
「必堕無間」
の一大事が待っている。

「必ず、無間地獄という苦しみの世界に堕つる」
と仰有った。経典のお言葉だ。
これを「後生の一大事」という。

なぜ私たちは、地獄へ堕ちねばならないのか。
それは暗い心で、悪のタネまきしかしていないからである。
仏教の根幹は、因果の道理
道理とは、三世を貫き(いつでも成り立つ)、
十方を普く(どこでも成り立つ)真理をいう。
何万年前も、何万年後も、
また宇宙のどこへ行こうとも、
因果の道理は正しいのだ。
因果とは、原因と結果のことで、
原因なしに現れる結果はありえない。
結果に対しては、必ず原因を追求するのが仏法である。
原因と結果の関係は、
善因善果 
 悪因悪果 
 自因自果

と釈尊が仰る。
善い行いをすれば必ず、善い結果が返ってくるが、
悪い行いには、必ず悪い結果が引き起こる。
自分のやった行為は、善きも悪きも、
自分に結果をもたらすから、
自業自得とも言われるのだ。

一息切れた後、堕ちねばならぬ地獄という悪果は、
間違いなく、わが身がまいたタネの結果である。

そして、後生の一大事を解決することが、
人間に生まれてきた目的だ。

いかに苦しくとも、自殺してはならない理由も、ここにある。
国会議員も日銀理事も、自殺してしまう。
銀行の貸し渋りで経営破綻に追い込まれれば、
妻子を残して中年男が3人、そろって首吊りしたではないか。


すべてこれらは、
「なぜ生きるか」の人生の目的を知らぬからである。

「天上天下、唯我独尊」
「天の上にも天の下にもこの大宇宙で、
唯、私たちに、たった一つの尊い目的がある」と、
釈尊は道破せられた。
私たちも同じように、生きる目的を持っている。
後生の一大事を解決し、
絶対の自由の世界に生かされることだ。

宇宙の真理である因果の道理に従って、
悪しかできぬ自己を徹見せねばならない。
後生の一大事の解決という大目的に向かってこそ、
一瞬の人生が、真に意義あるものとなる。

美しい星空が、悠遠な彼方より全人類へ、
生きた説法をしているのだ。


●2600年前、驚異の仏知見
    仏教の大宇宙観


古来、人々が夜空を見上げ、
輝く星々に思いをはせてきた大宇宙は、
我々の想像をはるかに絶する広大さである。
現在なら小学生でも知っているような銀河や銀河団などの知識も、
決して、昔からあったものではない。
概して言えば、近代科学が誕生した
16世紀以降の天文学者らによって得られたものだ。
だが、この天文学的知識を、
2600年前の昔に知見されていた方があった。
物理学者や天文学者らが驚嘆するような卓越した宇宙観を、
釈尊はすでに展開されていたのだった。

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ここで仏教の宇宙観を述べる前に、
人類の歴史を少し顧みよう。
近代科学は、ニコラウス・コペルニクスやガリレオ・ガリレイらが
活躍した16世紀のヨーロッパで生み出された。
当時の西洋世界は、
キリスト教が人も思想も支配する社会であった。
当時の宇宙観は天動説(地球中心説)に立脚していた。
すなわち地球は宇宙の中心であり、
太陽などは、その周囲を回るという考えである。
この説は、『聖書』の字句に合致する理由で、
多くのキリスト教に信じられてきた。
ところが、科学が進歩し、望遠鏡が発明されると、
地動説を唱える天文学者が現れはじめ、
教会は、権力で彼らを徹底的に弾圧した。
コペルニクスの唱えた地動説に深く傾倒したジョルダノ・フルーノは、
宗教裁判のかけられ、7年間、投獄された後、
焚刑に処せられている。
同様に、宗教裁判で、ガリレオ・カリレイは地動説の放棄を命じられた。
しかも、残る生涯をフィレンチェ郊外アルチェトリにある自宅で
幽閉の身となって過ごさなければならなかった。
このように、教会の激しい抵抗を受けたのである。
しかし、今では、誰も地動説を疑う人はいない。


●天文学者も驚嘆


次に、仏教の宇宙観を示そう。
仏教では、人間の生息する世界(地球のような惑星)を、
須弥世界という。
その須弥世界が、千(無数の意)集まった世界を、
小千世界という。
その小千世界の千集まった世界が中千世界であり、
中千世界の千集まった世界が大千世界である。
これら小千世界、中千世界、大千世界を、
三千大千世界と称するのである。
さらに釈尊は大宇宙を、十方微塵世界と説かれている。
略して、十方世界ともいう。
例えば、
「設い我仏を得んに、十方世界の無量の諸仏
悉く咨嗟して我が名を称せずば、正覚を取らじ」
           (大無量寿経)
「光明偏く十方世界を照らし
念仏の衆生を摂取して捨てたまわず」
         (観無量寿経)
などと用いられる。
ここで十方とは何か。
東西南北の四方に、北東、北西、南東、南西を加えて八方、
さらに上方と下方を加えると十方となる。
一般的に、東西南北上下四唯と呼んでいるものだ。
次に、微塵とは、文字通りに、微かな塵の意。
つまり、大宇宙は、東西南北上下四唯の十方に、
前述の三千大千世界が、
空中に塵が浮くように存在していると説かれているのだ。
何とも広大なスケールではないか。


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ここで対比のため、現代天文学による宇宙観を述べよう。
太陽の回りを、水星、金星、地球、火星などが、
それぞれの周期で回っている。
これを太陽系宇宙という。
太陽系は、自ら光を放って位置を変えない太陽のような恒星、
地球のように、その回りを公転する惑星、
さらには惑星の周囲を回る衛星(月)などで構成されている。
太陽系を直径200メートルの円とすれば、
地球は1ミリに満たぬ粒に過ぎない。
人類は、月に氷があるらしいとようやく分かったり、
せいぜい火星の表面を撮影しているに過ぎず、
太陽系さえも、未知なる世界である。
ところがさらに、地球109個分の直径をもつ太陽を
直径1センチの球とすると、
最も近い恒星(隣の太陽)ケンタウルス座アルファ星までの距離は、
約290キロ(東京~名古屋間)になる。
これだけでも、宇宙がいかに果てしないか、分かるだろう。
この広大無辺な宇宙空間で、
星は、一様に分布していない。
無数の星々が集まり、銀河と呼ばれる集団を作っている。
大宇宙には、アンドロメダ銀河や大マゼラン雲のほかにも、
無数の銀河が存在する。
我々の太陽系が属する銀河系も、その中の一つだ。
我々の銀河系は、直径10万光年で、
その中には、太陽のような恒星が2000億個ある。
さらに、銀河は集まって銀河団を作っている。
また、銀河群より大きな銀河集団の名称として、銀河団がある。
これら銀河群や銀河団は集合して、
直径3億光年ほどの超銀河団を形作っている。
しかしながら、150億光年といわれる大宇宙の広がりには、
まだほど遠い。
現代天文学は、仏教の宇宙論に酷似していると知らされる。
釈尊が、この大宇宙について説かれたとき、
当時、何人が理解できただろうか。

今日、目覚ましい観測機器の発展で、
ようやく十方微塵世界の概念が認識できたかどうかと思われる。

物理学者や天文学者が、
仏説の深遠さを驚嘆せざるを得ない理由は、ここにある。


●釈尊の師
   阿弥陀如来


次いで釈尊は、十方衆生と十方諸仏を説いておられる。
これらは、科学では、いまだ未確認の分野であろう。
十方衆生とは、十方微塵世界の衆生の意である。
人類が地球に住むように、大宇宙には、
無数の惑星があり、我々と同じような生命が存在すると説かれる。
また大宇宙には、ガンジス河の砂の数ほどの仏がましまして、
真実を叫んでおられる。

経典には、大日如来、薬師如来、仏方の名前が多く見られ、
これらの仏方を十方諸仏という。
釈尊といえども十方諸仏の中の一仏に過ぎず、
十方諸仏が皆、本師本仏(先生)と仰ぐ仏が、
阿弥陀仏なのだ。

人類史上最高の偉人である釈尊が、
合掌礼拝される仏である。

本師本仏の阿弥陀仏は、悪因悪果で必堕無間の十方衆生を
必ず救い摂ると誓願を建てておられる。

どのようなお約束であろうか。


●歴代の善知識方も涙
      弥陀五劫思惟の願


親鸞聖人は29歳の御時、阿弥陀仏に救い摂られ、
「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば
ひとえに親鸞一人がためなり」
       (歎異抄)
と、五劫思惟のご苦労に感涙なされた。
五劫思惟とは弥陀が法蔵菩薩であられた時、
4億3200万年の五倍という長年月をかけて
思惟に思惟を重ねて建立された本願、
お約束のことであり、誓願ともいわれる。
親鸞聖人の師・法然上人も、
「弥陀五劫思惟の願」に涙しておられる。
法然上人は阿弥陀仏に救い摂られた43歳以降、
『大無量寿経』を読まれる時、
いつも弥陀五劫思惟の御文のところで
落涙しておられたという。
ある時、弟子がいぶかしく思って尋ねてみると、
「この愚痴の法然、十悪の法然を助けんがために
阿弥陀仏が法蔵菩薩となられて
五劫思惟というほどのご苦労をしてくだされたかと思えば
広大なお慈悲のほどが身にしみて涙がこぼれる」
と仰せられたという。


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阿弥陀仏に救われた人は皆、
法然上人や親鸞聖人が涙を流された
「五劫思惟」のご苦労を知らされ、
御恩に報いようと恩徳讃の心になる。


「如来大悲の恩徳は
身を粉にしても報ずべし
師主知識の恩徳も
骨を砕きても謝すべし」
      (親鸞聖人)
インドでは龍樹菩薩、天親菩薩、中国では曇鸞大師、
道綽禅師、善導大師、日本では源信僧都、法然上人、
真宗で七高僧と仰ぐこれらの方々も親鸞聖人と同じく
「弥陀五劫思惟の願」に救われ、
それが真実であることを生涯叫び抜かれた歴史の生き証人である。


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●罪悪深重の十方衆生
     大宇宙の諸仏も力及ばず


では弥陀五劫思惟の願とはいかなるものか。
蓮如上人はそれを『御文章』に述べておられる。
「十悪五逆の罪人も、五障三従の女人も、
空しく皆、十方三世の諸仏の悲願に洩れて、
捨て果てられたる我等如きの凡夫なり」
          (御文章二帖八通)
「十悪五逆の罪人・五障三従の女人」とは
罪悪を造り通しの我等十方衆生のことである。
仏教で十方微塵世界といわれる大宇宙には、
地球のような惑星は無限にある。
そこには我々のように苦悩に喘ぎながら
この世もジゴク、未来も地獄、
と苦から苦の綱渡りをしながら生きている衆生が限りなくいる。

これを十方微塵世界の衆生、十方衆生という。
そんな我々を大宇宙にまします無数の諸仏が
大慈悲心を起こして何とか助けてやりたいと
立ち上がってくだされた。
しかし、残念なことに我々の罪悪が余りにも重く、
諸仏の力では到底助けることは不可能だったのだ。

「捨て果てられたる我等如きの凡夫なり」
と蓮如上人が仰せられるように
諸仏に見捨てられてしまったのが我々、十方衆生である。
諸仏は我々の「屍の心」にアキレテしまわれたのだ。
「屍の心」とは、地獄と聞いても驚かず、
無常と聞いてもあわてない、
悪を悪とも思わず、罪を罪とも感じない、
真実の仏法に向かってはウンともスンとも反応のない心である。

大宇宙の諸仏に見捨てられたままならば、
十方衆生は永遠に生死の苦海を流転輪廻するしかない。


●法蔵菩薩の願い


ところが、諸仏が見捨てたならばなお放置していけないと
立ち上がってくだされた方がおられたのである。

蓮如上人は仰せられる。
「しかれば、ここに弥陀如来と申すは、
三世十方の諸仏の本師本仏なれば、
久遠実成の古仏として、
今の如きの諸仏に捨てられらる末代不善の凡夫、
五障三従の女人をば弥陀に限りて、
『われ一人助けん』という超世の大願を発して、
われら一切衆生を平等に救わんと誓いたまいて、
無上の誓願を発して、
すでに阿弥陀仏と成りましましけり」
         (御文章二帖八通)
阿弥陀如来は、十方無量の諸仏の王であり、
師匠であられるから、弟子の諸仏が見捨てた極悪人なら、
なおさら捨ててはおけぬと、大慈悲を起こして、
十方衆生救済に立ち上がってくだされたのである。

そのために、仏の位から、菩薩の位に下りられ(従果降因という)、
法蔵菩薩と名乗られた。
ある時、法蔵菩薩は師匠の世自在王仏に自らの願いを申し出られた。
「師の仏よ、私にあの苦しみ悩む十方衆生を助けさせてください」
「法蔵よ、そなたの願いは誠に尊い。
だが、それを許すことはできない」
「何故でございましょうか」
「法蔵よ、そなたは十方衆生が、
どれほどに罪悪深重であるか知っているのか。
五逆罪、謗法罪という重罪を造り続け、
その上、地獄と聞いても驚かず、
無常を無常とも思わず、悪を悪とも思わない。
死骸の如き心の持ち主だ。
かつて十方諸仏も、大慈悲を起こして一度は助けようとしたが、
十方衆生の罪悪の重さに、救うことは不可能と、
背走を見せて逃げているのだ。

そなたに諸仏と同じような無駄な苦労をさせる訳にはゆかぬ」
「諸仏が見捨てた者ならば、
なおさら誰かが助けねば、
十方衆生は、永遠に苦しむだけではありませんか。
私は、どんなに苦難に身を沈めても後悔致しません。
どうか、助けさせてください」
法蔵菩薩よ、あの十方衆生を助けることは、
大海の水を一人の人間が升でくみ取り、
大海をカラにして、海底にある宝物を
体を濡らさずに取ってくるほどに難しいことだ。

しかし、そなたが、それほどの決心をもって、
真心をこめて、一心不乱に道を求め止まぬならば、
必ず、その目的を果たしとげ、
如何なる願いも成就せぬものはないであろう」
大海の水を汲み干し、海底の宝を体をぬらさずに手に入れる、
それほどの難事であると示されながら、
世自在王仏が許されたとき、
法蔵菩薩は心から礼を述べられておられる。


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助けてくださる方が
「助けさせてください」と頭を下げておられる。
普通は救いを求めるものが
「助けてください」と頭を下げて当然なのだ。
ある妙好人が、
「よくよくお慈悲を聞いてみりゃ、
助くる弥陀が手を下げて、まかせてくれよの仰せとは、
ホンに今まで知らなんだ」
と言ったのはこのことだ。


●絶対の幸福に救う妙薬
      南無阿弥陀仏の大功徳


世自在王仏の許可を得られた法蔵菩薩は、
どのようにしたら、十方諸仏があきれて逃げた
罪悪深重な十方衆生(我々)を、助けることができるのか。
思惟に思惟を重ねられ、その年月は五劫に及んだ。
一劫が4億3200万年、五劫思惟とは、
その5倍の年月、考えに考え抜かれたということだ。

「大海の水をすべて升でくみ取り、
海底の宝を体をぬらさずに手に入れる」
それを実行するには、どうしたらよいか。
聞いただけで「それは不可能」と無量の諸仏方が、
サジを投げてしまったことなのだ。
十方衆生を病人に例えるなら、
あらゆる医者が、助ける手段はない、
と見捨ててしまった重病人だ。
それを、阿弥陀仏のみが、「我一人助けん」と、
難病の原因とその治療法、解決法を
開発して助けようとしてくだされたのだ。
五劫の思惟をなされた結果、
ついに、いかなる薬を製造したらよいか、
その方策を確立なされた。
それは善根功徳のかたまりである、
南無阿弥陀仏の名号という薬を造り、
それを衆生に与えれば、苦悩の根源を破って、
大安心大満足の絶対の幸福に救うことができる、
というものであった。


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法蔵菩薩は、そのような名号大功徳を完成させるために
さらにそれから兆載永劫というご修行をなされた。

兆載永劫とは、量り知れない長年月である。
ご自身のためではなく、一切衆生を助けるために、
兆載永劫というご修行をしてくだされ、
ついに、今を去ること十劫の昔に、
我々を助ける能力を有する名号六字を完成してくだされたのである。
それが本願の名号、南無阿弥陀仏であり、

それを阿弥陀仏から賜った瞬間に、
凡夫がさとりの五十二位中の五十一段に相当する、
正定聚に入る
から、親鸞聖人は、
「本願の名号は正定の業なり」
          (正信偈)
と仰せられる。


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さらに死後には浄土往生させていただき、
弥陀同体の覚りを開かせていただく。

29歳の御時、阿弥陀仏に救い摂られた親鸞聖人は、
「五濁悪世の衆生の
選択本願信ずれば
不可称不可説不可思議の
功徳は行者の身に満てり」
      (高僧和讃)
と記されている。
言うことも説くことも、想像もできない
「不可称不可説不可思議の大功徳」とは
勿論名号の大功徳のことであり、
それが身に満ち満ちてしまうとは、
救われた世界の実感である。
「功徳の大宝海に帰入すれば」
         (正信偈)
「功徳の大宝海」も名号大功徳のことだ。
親鸞聖人の曾孫・覚如上人も、
「本願や名号、名号や本願、本願や行者、行者や本願」
          (執持鈔)
と、本願の名号と、行者が一体になった喜びを記しておられる。

妙好人・おかる同行もまた名号と一体になった体験を
次のように述べている。
「頭叩いても南無阿弥陀仏、
手を叩いても南無阿弥陀仏、
足を叩いても南無阿弥陀仏、
お尻叩いても南無阿弥陀仏、
座った姿も南無阿弥陀仏、
立った姿も南無阿弥陀仏、
歩く姿も南無阿弥陀仏、
本願や行者、行者や本願」
救われれば誰もが叫ばずにおれないのである。
釈尊一代の仏教は、畢竟この阿弥陀仏の本願と
その名号の大功徳を明らかにされるためであった。

「如来所以興出世
唯説弥陀本願海」
      (親鸞聖人・正信偈)
(如来、世に興出したもう所以は、唯
弥陀の本願海を説かんとなり)


●万人の終帰、弥陀の本願海


ここで親鸞聖人は、本願を海に例えておられる。
海の特徴は広くて深い。
さらに地上に降った水が、最後に行き着く所である。
これを終帰という。

広い本願・・・大宇宙のすべての衆生を助ける、
という広い誓いであるから弘誓願ともいわれる。
深い本願・・・どんな罪悪深重の衆生をも助けるという本願。
終帰・・・山の頂上に降った雨水は、渓流を下り、
湖に流れても、やがて川を下って大海に流れ込む。

苦悩の衆生はキリスト教やマホメット教などに救いを求めるが、
真の救いは得られない。
最後は、阿弥陀仏の本願によらねば、
完全な救いにあずかることはできない。
弥陀の本願に救われ、
南無阿弥陀仏の六字の名号という宝の主となり、
苦悩から離れるチャンスは、
仏法を聞ける人間界の今しかない。


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法然上人や親鸞聖人のように、
阿弥陀仏の五劫思惟、兆載永劫のご苦労に、
心から報恩の涙を流せる身に一日も早くならせていただこう。
それには、どうすればよいのか。
「たとい大千世界に
みてらん火をも過ぎゆきて
仏のみ名を聞く人は
永く不退にかなうなり」
      (親鸞聖人)
真剣な聞法あるのみである。


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