親鸞聖人90年の願い「信心獲得せよ」 [親鸞聖人]
破天荒の肉食妻帯・三大諍論 [親鸞聖人]
親鸞聖人の教えの一枚看板「平成業成」とは!? [親鸞聖人]
多くの仏教宗派がある中で、なぜ「親鸞聖人の教え」なのでしょう? [親鸞聖人]
それは、阿弥陀仏に実際に救われているからです。
その他有名な僧や有名でもない僧たちは、
死んでから救われるのではないかとか、
方便として存在しているとしか思えないので、
(お釈迦さまの御心は、阿弥陀仏の本願に値(あ)わせて、
未来永遠、無上の幸福にさせること、それ以外にはありません)
介護で知らされる「悪人正機」の真の意味 [親鸞聖人]
親鸞聖人の教えといえば「悪人正機」。
あまりに有名です。
「正機」とは「人間の正しい機ざま」の意であり、
「本当の人間の相(すがた)」ということですから、
「悪人正機」とは、すべての人間は悪人正機である、
ということです。
その悪人こそが救われる教えが親鸞聖人の教えなのです。
“えっ、私が悪人?”と
最初は戸惑う人も多いでしょう。
悪人と聞けば、
法律や倫理道徳に背いている人のこと、
と皆思っているからです。
前科もないし、
周りからもいい人と言われている私の
どこが悪人か、と。
ところが仏法を聞き、
教えのとおりに光に向かっていくと、
知らなかった自分に出会うことになる。
その時、聖人の仰る「悪人」の真の意味が知らされるのです。
私が出会う「私の知らない私」とは、どんな相(すがた)なのでしょう?
今回は「介護問題」を通して、
自己の「心」を見つめましょう。
母親を介護しているある女性の手記を紹介します。
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(とどろきの読者の体験手記をはさみます)
母はつらいベッドの上で
私に教えてくれた
滋賀県 西川 博美さん(仮名)
母は若い頃から仏法熱心で、
弥陀の本願を喜んでいました。
(阿弥陀仏に救われていたということです。)
顔を合わせれば九割九分は仏法の話で、
私たち姉妹にも、
「今聞かせてもらうんやで」
といつも言っていました。
ところが私は、そんな母に反発ばかり。
親に逆らって思いのままに始めた結婚生活は、
案の定うまくいきませんでした。
苦しみもがく私に、
母は何度も分厚い手紙をくれたのです。
「博美、お母ちゃんは体がなくなっても
心は阿弥陀さまから賜った無量の命で、
すぐに博美のそばへやってきて、
お母ちゃんと同じ心になるまで
二世でも三世でも親子にならせてもらいますよ。
おまえが苦しければともに涙し、
法を聞いておまえが喜んでくれるまで
(弥陀の本願に救われるまでという意味です。)
お母ちゃんの心は博美に密着よ」
便箋の表も裏も縦も横も、
あふれる母の思いで埋め尽くされていました。
その母が体調を崩し、入院することになったのです。
私の仏縁を念じ続けてくれたせめてもの恩返し、
私は仕事をやめ、
「母を必ず支えてみせる」と自信一杯で、妹や娘の家族と看病を始めました。
病室に泊まり込み、付きっきりの食事や入浴、
排泄の介助は大変でしたが、
母の手足となれるのがうれしかった。
誰の目もはばからず母のそばにいられる
キラキラ輝く幸せな時間でした・・・。
“母のために”のはずが・・・
半年ほどたった頃、母の体力は目に見えて衰えていました。
私たちは一時もそばを離れたくなくて、
ベッドのすぐ脇に自分の布団を敷き、
母の寝息を聞きながら横になりました。
母が寝返りを打つ、わずかな物音でも目を覚まし、
夜中も心は休まりません。
そんなある日の深夜、
トイレの回数が頻繁になった母に、
「またかー。30分前に行ったやろ」。
こんな心が動いたのです。
愕然としました。
私は何のためにここにいるのか。
母を支えるためではないのか。
それなのに、自分が楽したいいっぱいで
母を邪魔に思うとは。
こんな心しかない自分だと気づかせるために、
母はつらいベッドの上で毎日を重ねてくれていたのか!
「ごめんお母ちゃん、こらえてなあ、
お母ちゃん、真心込めた看病ができると
うぬぼれていました」
斉藤 静子さん(仮名)の手記
「立派に母を介護してみせる」
しかし現実は・・・
私は5年前から仏教を学んでいる50代の主婦です。
実家で認知症の母親を介護して2年になります。
夫と社会人の息子のいる自宅まで車で2時間弱ですが、
今は週に一度戻るのがやっとの状態です。
母は、若くして夫に先立たれ、
女で一つで私を育ててくれました。
80を過ぎても畑仕事に精を出し、病院とは無縁の生活でした。
それが二年前に、外出先で転倒して骨折。
2ヶ月の入院生活を余儀なくされたのです。
以来、足腰は見る見る弱り、軽い認知症も出始めました。
退院後、実家で母を世話することに、私は何の迷いもありませんでした。
永らく介護の仕事をしていたので知識もある。
「お母さんには今まで苦労をかけたもの。
今度は私が世話する番よ」
と自信いっぱい、意気揚々と介護を始めたのです。
●病気なのだから・・・
頭では分かっているけど
ところが、その自信はあっけなく打ち砕かれました。
ある日、歩行訓練をしようとした時のことです。
私「さあ、今日も歩く練習をしよう」
母「足が痛いからイヤ!」
私「このままじゃ歩けなくなっちゃうよ」
母「じゃあ、歩けなくてもいい」
私「そんなワガママ言わないで、ちゃんと練習しなくちゃだめ!やればできる!」
病気なのだから無理もないと頭では分かっているのに、
いざ母を目の前にすると、きつい口調になってしまうのです。
母は料理上手だったのに、
得意な肉じゃがも作れなくなりました。
服を着るにも、どこに手を通せばよいか分からず、
一人で着替えができません。
家中は貼り紙だらけ。
「このプラグ抜いちゃだめ」
「このスイッチは押さないで」等々。
それでもテレビのプラグを抜いてしまい、
抜いたことすら忘れて「テレビがつかない。壊れた、壊れた」
と大騒ぎするのです。
日常の簡単なことすら次々とできなくなっていく母。
私は無力感に襲われました。
仕事なら、どんなにつらくても仕事と割り切れる。
しかし実の親の介護となると全く勝手が違いました。
●“早く楽になりたい・・・”
そう思うのは私だけ?
最近もこんなことがありました。
買い物に出かけている間に、携帯の着信が30回。
留守番にも「早く帰ってきて」と母の怒りの声。
急いで帰宅し、すぐ夕食の支度をしました。
母はテレビばかり見ています。
ムッとした私はつい、
「箸ぐらい準備してよ!」。
言ってから「しまった」と思っても手遅れです。
母は急に不機嫌になり、ベッドに潜り込んでしまいました。
何度呼んでも起きてきません。
仕方なく独りで食べ、後片づけも終えた頃、
母は起きてきて何事もなかったように
お菓子を食べ始めました。
もう私は怒る気力すら萎えてしまうのでした。
精神的に不安定だと、母が夜中にわめいたり、
物を投げつけてくることも少なくありません。
「いい加減にして!」
私はいつしか、手を上げるようにもなってしまいました。
もう嫌だ、こんな日々、いつまで続くのだろう・・・。
お釈迦さまが『仏説父母恩重経』に
親の恩の重いことを教えられているのに、
私はそのお話をお聞きしているのに、
母に対してひどいことを言い、叩いてしまう。
私には親の恩に報いようという気持ちがないんだ。
自分が楽になることしか考えていない。
何てあさましいんだろう。
毎日そんなことばかり考えていた頃、
『とどろき』の読者にも似た境遇の方がおられることを知ったのです。
●やってみて
初めて知らされる
ああ、西川 博美さんと同じだ。
私も真心込めた介護ができるとうぬぼれていた!
ふと、以前に「聞法のつどい」に参加した時のノートを取り出し、
ページをめくってみました。
そこには、親鸞聖人の『末灯鈔』のお言葉がありました。
「親をそしる者をば五逆の者と申すなり」
(末灯鈔)
大恩ある親を殺すのは、
仏教で「五逆罪」といわれる重罪です。
だが手にかけて殺すばかりが親殺しではない。
「うるさい」「あっちへ行け」などと
ののしるのも五逆罪なのだよ、と親鸞聖人は教えられている。
また仏教では、行為といっても、
身・口・心の三つの行為をいいますが、
中でも最も重く見られるのが、心の行いです。
「殺るよりも、劣らぬものは、思う罪」
といわれるように、最も恐ろしいのは「心で殺す罪」。
心で親を邪魔者扱いする五逆罪は、
「無間業」といわれる大変恐ろしい罪だと教えられているのです。
都合が悪くなると、心で母を邪魔だなあと思う・・・。
これも五逆罪に間違いない。
そんな恐ろしいことを思い続けながら、
上辺(うわべ)はいかにも親の恩を感じているように
取り繕っている。
誰にも言えぬ、こんな罪深い私はどうして救われようか。
私、絶対に幸せになんかなれない!
やってみて初めて知らされる己の心に、
恐れおののきました。
ところが親鸞聖人は、
「そんな極悪人こそが、
阿弥陀仏の正客(お目当て)なのだよ」
と仰るのです。
「無明長夜の灯炬なり
智眼くらしとかなしむな
生死大海の船筏なり
罪障おもしとなげかざれ」
(阿弥陀さまは、苦悩の根元・無明の闇を
必ず破ってくださるから、決して悲しむことはない。
どんな悪人も、苦しみの海から必ず大船に救いあげてくださるから、
罪の重さを嘆かなくていいんだよ)
希望の光を与えてくださった方は、
やはり親鸞さまでした。
手記はここで終わります。
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闇夜に光 唯一の灯炬
すべての人を
必ず救う大船あり
お釈迦さまは
「父母の大恩 山より高く 海より深い」
と教えられています。
その厚恩に報いようと努めていくと、
知らされる自己の醜さ。
そんな私に救いはあるのでしょうか。
父母なくして、
私がこの世に生まれることはできなかった。
そんな大恩ある方なのに、
いざ親が寝込むと介護は大変だから、
できればしたくない、
誰かにやってもらいたいと思いがちです。
しかし、仏法を求める人にとって、親の介護は、
いかんともしがたい己の心を知らされる、
貴重な体験ともなりましょう。
本当の自己を知ることは、最も幸せに近いのです。
お釈迦さまは、
「仏教は法鏡なり」
と仰っています。
「法鏡」とは“法”は真実、私の真実を映し出す鏡である、
ということです。
7000余巻の一切経の中で、
親鸞聖人は
「それ真実の経を顕さば(あらわさば)、すなわち
『大無量寿経』これなり」
(教行信証)
と断定されています。
その『大無量寿経』には、
私たちの実相がこのように説かれています。
心常念悪(しんじょうねんあく・心常に悪を念じ)
口常言悪(くじょうごんあく・口常に悪を言い)
身常行悪(しんじょうぎょうあく・身常に悪を行じ)
曽無一善(ぞうむいちぜん・かつて一善もなし)
(大無量寿経)
すべての人間は、心も口も身も、
常に悪ばかりで、いまだかつて一つの善もしたことがない。
法律や倫理道徳では、身の行いや、
口から出た言葉で善悪を判断され、
心で何を思っているかは、ほとんど問題にされません。
しかし仏教は、心を一番重視するところが、
全く違うのです。
私の姿とは、私の心の相(すがた)。
自分の心が分からなければ、
幸せな心にはなれませんから、
仏教は私の心の実態を教えられているのです。
●心をのぞけば
何が見える
一体、私たちの心は、
日々どんなことを思っているでしょう。
貪欲(とんよく)・瞋恚(しんい)・愚痴(ぐち)の塊で、
常に悪を思い続けていると、
お釈迦さまは、教えられます。
貪欲とは、金が欲しい、金が欲しい、物が欲しい、
男が欲しい、女が欲しい、褒められたい、
認められたいとお金や異性や名声に手を伸ばし、
どれだけかき集めても満たされず、
もっと欲しいと求める心です。
「財色(ざいしき)を貪狼(とんろう)す」
飢えたオオカミが獲物を貪るようだとお経には説かれています。
外見は紳士・淑女を演じながら、内心は喉から出そうな欲望の手を
必死に抑えているのが私ではないでしょうか。
こんな話がありました。
病気の老父が、面倒を見てくれていたヘルパーさんと
再婚したいと息子に切り出した。
しかし、息子夫婦は父の遺産の半分が
結婚相手に渡ってしまうのを阻止したい。
事業も傾きかけていた息子らが
「結婚しても、相手に苦労かけるから」と言って、結婚に猛反対。
親の死を計算し、自分の欲ばかり考える子供に、
父親はどんな思いがしたことでしょうか。
欲望のままにならないと、噴出するのが瞋恚(怒り)です。
積み上げた学問も修養も一瞬で焼き尽くし、
人を傷つけ、恨み憎しみの愚痴となってはトグロを巻く。
テレビや新聞で報道される犯罪に驚かぬ日はありませんが、
どれも皆、人間の心の仕業です。
すべての人間の心に貪欲・瞋恚・愚痴の鬼がすむのだと、
仏さまはスッパ抜かれています。
親鸞聖人は、ご自身の激しい罪悪をこう懺悔されています。
「悪性さらにやめがたし
こころは蛇蠍(じゃかつ)のごとくなり
修善も雑毒なるゆえに
虚仮の行とぞなづけたる」
(悲歎述懐和讃)
(悪性がやめがたく、
ヘビやサソリのような恐ろしい心だ。
こんな心でやる善行だから、
毒の混じった、ウソ偽りの善といわれて当然である)
「無明煩悩しげくして
塵数(じんじゅ)のごとく遍満(へんまん)す
愛憎違順(あいぞういじゅん)することは
高峯岳山(こうぶがくさん)にことならず」
(正像末和讃)
(欲や怒りや愚痴の煩悩は体一杯、
激しく毒を噴き、自分の思い通りになる者は
かわいく思って近づけるが、
反する者には憎悪の念が噴き上がり、
嫌って遠ざける。
そんな心が大きな山ほどあるのが親鸞だ)
●分かっちゃいるけどやめられない
善に励み、悪をやめようと努めるほど、
この悪性の根深さを知らされます。
「悪業をば恐れながらすなわち起し、
善根をばあらませども得ること
能わざる凡夫なり」 (口伝鈔)
(悪を造らぬようにと恐れながら犯し、
善をしようと欲しながら、できないのが人間である)
法律家が法を犯し、警察官が万引きをし、
教師が盗撮で逮捕される。
理性や教養では、どうにも止められない人間の悪性を、
お釈迦さまは2600年前から、教えられているのです。
罪業が重く、一生不善の我々人間は、
大宇宙の諸仏方に見捨てられたと、
蓮如上人は『御文章(御文)』に記されています。
「十悪・五逆の罪人も、
空しく皆十方・三世の諸仏の悲願に洩れて、
捨て果てられたる我等如きの凡夫なり」
十悪とは、欲や怒り、愚痴の心、
ウソや悪口、殺生(生き物を殺す)
偸盗(ちゅうとう・他人の物を盗む)
邪淫(邪な男女関係)などの十の悪をいいます。
五逆とは、大恩ある親を殺す罪で、
十悪よりも恐ろしい無間業(無間地獄へ堕ちる種まき)だと
教えられます。
真剣に親孝行しようとして初めて、
親不孝ばかりの己(おのれ)に泣かされる。
真心尽くして親を介護しようとして初めて、
噴き上がる己の悪性に愕然とさせられるのです。
「悪人を浮かばせる
大船あり」
こんな極悪人は救いようがないと、
十方諸仏にも見放された我々を
「私が必ず救ってみせよう」
とただ一人、立ち上がられたのが、
諸仏の本師・師匠である阿弥陀仏です。
「ここに弥陀如来と申すは、
三世十方の諸仏の本師・本仏なれば、
今の如きの諸仏に捨てられたる末代不善の凡夫をば
弥陀にかぎりて、
『われひとり助けん』という超世の大願を発して」
(御文章二帖目八通)
智慧の眼(まなこ)がなく、
罪業の鎖に縛られて苦悩から逃げ出せぬ私たちを、
本師本仏の阿弥陀仏だけが“誰が見捨てても、
我は見捨てぬ、必ず助けてみせる”
と今も呼び続けられているのです。
真っ暗な人生の海に、
明々(あかあか)と灯炬を掲げ、
苦海を渡す大船を造られ
「おまえを必ず乗せて極楽浄土へ連れていくぞ」
と阿弥陀さまは誓われているのです。
その大船に乗せていただくには、
どうすればよいのでしょう。
「仏法は聴聞に極まる」
聴も聞も、きくということですから、
仏法を聞く一つで助かるのです。
仏法を聞かねば、
地獄行きのタネしか持たぬ極悪の身とも知らず、
そのまま救う弥陀の大船には乗れませんから、
助かりません。
生死の大海を渡す大船に乗せていただき、
苦難の波が、
歓喜の法悦と転じる人生を
歩ませていただきましょう。
無明長夜の灯炬なり
智眼くらしとかなしむな
生死大海の船筏なり
罪障おもしとなげかざれ
(正像末和讃)
後生の一大事を解決するには、真実の宗教を選びとらなければならない! [親鸞聖人]
●真の幸福はどこに
すべての人は幸福を求めて生きています。
これに異論を唱える人はないでしょう。
汗水流して働くのも、苦しみを辛抱して頑張るのも、
嫌な勉強に全力を傾ける学生も、果ては自殺をする者ですら、
幸福を望むからにほかなりません。
政治も経済も、科学も医学も、芸術も道徳も、
その他あらゆる人間の営みは、
この目的達成のために生まれたものです。
ところが文明の日進月歩に逆比例して、
人心はますます不満と不安・苦悩に襲われ、
おののいているのではないでしょうか。
この平和な日本で、年間三万人前後の人が自殺している事実が、
それを端的に物語っています。
親が子を虐待し、子が親を殺す。
強盗、殺人、詐欺、汚職など、
殺伐とした事件を耳にせぬ日はありません。
ストレス、心身症、アルコール依存症などの言葉が
広く知られるようになって久しくたちます。
これらは明らかに、金や物が豊かになれば、
科学や医学が発達すれば、人間は必ず幸福になれる、
という多くの人の抱いている深い迷信を、根底から覆すものです。
もちろん、政治や経済、科学や医学は必要です。
地位や名誉を得て、家庭を守り、
よりよい仕事をすることも大切なことでしょう。
ただ、それだけで人間が、不安、苦悩、不満を征服して
真の幸福になれるのではないのです。
●人類最大の悩み
苦しくても生きねばならぬ理由は何か
室町時代の禅僧・一休が、
「人生は食てねて起きて糞たれて、
子は親となる子は親となる」
と歌ったように、私たちは毎日同じことを繰り返し、
「世の中の娘が嫁と花咲いて、
嬶(かかあ)としぼんで婆(ばば)と散りゆく」
と、後戻りできぬ道をどんどん進んでいきます。
古今東西、変わらぬ人生の裸形(らぎょう)ではないでしょうか。
やがて、どうすることもできぬ死の怪物が
目の前に立ちはだかります。
結局、
「人生は タライよりタライへうつる 五十年」
産湯につかったタライより、棺桶というタライへの旅路が、
人生にほかなりません。
この実相を凝視する時、深刻な悩みが頭をもたげます。
「悲惨な最期に向かって、なぜ生きねばならないのか」
「一体、私とは何者なのか。どこから来て、どこへ行くのか」
「自分が今一生懸命やっていることに、
どんな意味があるというのか」
「苦労して生きるより、サッサと死んだほうがマシなのではないだろうか」
これほどの大問題は、ほかにないでしょう。
“仕事や趣味など、社会とのつながりの中で生き甲斐を見いだしなさい”
“生きる意味は自分でつくるもの”
“生きていれば、いいことだってあるよ”
と気休めを聞かされても、
天下をわがものにした太閤秀吉でさえ、
「難波のことも夢のまた夢」
と、むなしく死んでいったではありませんか。
家康も、
「人の一生は、重荷を負うて、遠き道を行くがごとし」
と、死ぬまで重荷を下ろせぬ人生を告白しています。
「花のいのちはみじかくて、苦しきことのみ多かりき」
と言い残したのは、自由奔放に生き、
作家として名を成した林芙美子でした。
『正信偈』には、本当の幸せに導く道が端的に説かれている。 [親鸞聖人]
「きみょうむりょうじゅーにょーらい」
で始まる、親鸞聖人の『正信偈』。
編集部には毎月、『正信偈』に引かれて
仏教を学びたくなったという声が
多く寄せられます。
七文字百二十行の『正信偈』の中には
何が教えられ、私の人生にとって
どんな意味を持つのでしょうか。
初めて触れる方も、よく親しんでいる方も、
ぜひ知りたいことでしょう。
今月は「正信偈」という名前の意味から、
その答えをひもといてみたいと思います。
・・・・・・・・・・・・・・
家事や仕事に追い立てられ、
毎日が慌ただしく過ぎゆく。
同じことの繰り返しの中で、
ふと気がつけば、人生のたそがれが目前に迫っている。
あなたは何をするために、
人間としてこの世に生を受けられたのでしょうか。
ただ“食て寝て起きて金ためて”子育てのに励むためなのか。
心の底から「生まれてきてよかった」という生命の歓喜を
味わうことができる人生とは、
どうすればよいのでしょうか。
最近、仏前で心静かに『正信偈』を拝読する人が増えています。
この朝夕の「勤行(おつとめ)」は、
人としての「日々のたしなみ」です。
昔は食事の前に家族そろって勤行する家庭も多く、
「勤行しないと、ご飯を食べさせてもらえなかった」
と懐かしむ方もあるでしょう。
一方で、あるきっかけで『正信偈』を読み始める人が多いのです。
それは「大切な人との別れ」です。
本誌読者の園田ヨシコさん(仮名)は、
3年前の秋、、50年連れ添った最愛の夫を亡くした。
医師として多忙だった夫を支える園田さんの周囲には、
いつも多くの人の出入りがあった。
だが葬式が終わると、サーッと引いて、
急に独りぼっちになった。
「ドカーンと、落ち込みました」
音がないと心が沈む。
見もしないテレビをつけ、
自分が吹き込んだ歌をテープレコーダーでかけ、
部屋を音で満たして気を紛らわそうとした。
「独りぼっちになっても寂しくないように、
と続けてきたお茶やお花も、孤独な心には、
何の役にも立たないことが分かりました」
ほとんど出歩くことができぬまま、
仏前で『正信偈』をあげる毎日が続く。
半年が過ぎた頃、新聞折込で仏教勉強会の案内を目にした。
「何かある」と直感し、会場へ足を運ぶ。
仏教のイロハからの分かりやすい解説に
「ひび割れた土がグングン水を吸収するように、
続けて聞かずにおれなくなりました」。
以来、光に向かって、聞法人生を歩み始めた。
園田さんと接した講師は、
その心情をこう語っています。
「大切なご主人を亡くされ、お仏壇の前に座る。
『喪失』という言葉を超えた寂しさを埋める方法は、
それしかなかったのでしょう。
しかし、ただ座っていることは耐えられない。
そこで『正信偈』を読み始めました。
そして生きながら死んだような状態から、
少しずつ、少しずつ心が力を取り戻していかれたのです」
お釈迦さまは「諸行無常」と説かれ、
この世に変わらないものはないと教えられました。
「大切な人も死ぬことがある」と、
頭では理解していても、
身近な人の死ほど受け入れるのは容易ではありません。
妻を亡くし、「残りの人生は供養のみ」
と語る中高年男性も多くありますが、
“実は供養しているのは
「最も大切なものを失った亡骸のような自分」ではないか”
と言う人がありました。
愛する人は自分の一部であり、
伴侶の死は、自分の一部が死んだも同じ。
「このつらい経験は、私にとってどんな意味があるのか」
皆、その答えを求めて仏前に座るのでしょう。
そして、その答えにたどり着いた時、
初めて人は迷える自分自身の追悼を終える、
といえるのかもしれません。
「この『正信偈』の中に答えがあるかもしれない」
そんなせつない、すがるような思いが、
阿弥陀如来のご方便となって、
多くの人を仏法へと向かわせるのでしょう。
『正信偈』に、明らかな私たちの生きる道が
説かれていると知った園田さんは、
「夫を失った悲しみは今も癒えないけれど、
光に向かう道に導かれたこと、感謝せずにおれないのです」
と語っています。
●『正信偈』には
何が教えられているのか
『正信偈』とは「正しい信心のうた」という意味です。
「信心」と聞くと、無宗教の自分には関係ないと思う人がありますが、
神や仏を信じるだけが信心ではありません。
心で何かを信じていれば、それは、その人の信心なのです。
「信じる」とは、言葉を換えれば、
頼りにし、支えにし、愛すること。
何かを信じなければ、人は生きてはいけません。
生きるとは、信ずることですから、皆、
必ず何らかの信心を持っているのです。
例えば「明日も明後日も、家族みんな、元気でいられる」
と思って生きています。
それは「自分の死」や「健康」「家族」を
「信じている」ということです。
家や貯蓄、持てる才能や技術を、
あて力にしている人もあるでしょう。
「信じている」という自覚さえないほどに私たちは、
それらに頼り切って生きています。
それが如実に知らされるのは、その幸せが揺らいだ時です。
東日本大震災から5年が過ぎた4月14日、
熊本や大分を中心に、九州全域を襲った地震では、
不気味な余震が千回以上も続き、
倒壊の危険のある自宅に戻れず、
多くの方が避難所生活を余儀なくされました。
昨日までの平穏が一夜にして暗転し、
どれだけの方が、信じ、支えにしていた幸福に裏切られ、
肩を落とし、今も苦しんでおられることでしょう。
「私の住む地域は地震がないから大丈夫」
と思っている方も、他人事ではありません。
「人生には3つの坂がある。上り坂、下り坂、まさか」
と言った人がありますが、人生は、
「まさか、こんなことに・・・」
という驚きの連続でしょう。
初孫を抱き上げようとしたら腰の辺りに激痛が走り、
リハビリ生活、「まさか、ギックリ腰に・・・」
かわいい息子が助けを求めてきたと思って
大金を振り込んだら、実は振り込め詐欺だった。
「まさか、自分が・・・」
何でもハイハイ従う、おとなしくていい妻だと思っていたら、
定年後に三行半を突きつけられて熟年離婚。
「まさか、俺の女房が・・・」
健康診断でガンが見つかった人が、
足下が崩れるようなショックを受けるのも、
信じていた健康に裏切られたから。
子供に虐待されて苦しむのは、
命として信じて育てたわが子に裏切られたからです。
「2年前に突発性難聴になり、片耳が聞こえなくなりました。
さらに母がガンで余命3ヶ月の宣告を受け、
受け入れられず、苦しんでいます」
「息子に『金だけ残して死ね』と言われ、
ウツになりました。何のためにいきるのか、
毎日考えています」
こんな愁嘆の声が、世の中にはあふれています。
私たちの苦しみの悩みは、どこから起きるかといえば、
自分が信じ、支えにしているものに
裏切られる時に起きるのです。
「私は別に苦しみなんてないよ」と言うのは、
幸いにもまだ信心が崩れていないからでしょうが、
遅かれ早かれ、その時はやってきます。
無防備に深く信じていればいるほど、
その衝撃は大きくならざるをえないでしょう。
だからこそ、本当に幸せになろうとする時には、
今の私は、何をどう信じているかをよくよく吟味し、
絶対変わらない、裏切られないものを信じなければならないと、
仏教では教えられるのです。
●絶対裏切られない信心
“浄土往生に碍りなし”
しかし、この肉体さえ焼いて滅びていくのに、
そんな不滅の幸福など、どこにあるのか。
親鸞聖人は「一切の滅びる中に、滅びざる幸せが、
ただ一つだけある」と教えられました。
それこそが、阿弥陀仏の本願に誓われている「絶対の幸福」です。
この弥陀より賜る絶対の幸福を「正しい信心」といわれ、
それを明らかにされたのが『正信偈』なのです。
この正しい信心を獲得した時、
「人間に生まれてよかった・・・。
このための人生だったのか」
と、どんな人もハッキリいたします。
では、絶対の幸福とはどんな幸せでしょうか。
想像もできぬその世界を、親鸞聖人は、
かの有名な『歎異抄』に、「無碍の一道」と喝破されています。
「念仏者は無碍の一道なり。
そのいわれ如何とならば、信心の行者には、
天神・地祇も敬伏し、魔界・外道も障碍することなし。
罪悪も業報も感ずることあたわず。
諸善も及ぶことなきゆえに、無碍の一道なり、と云々」
(歎異抄七章)
“弥陀に救われ念仏する者は、
一切が障りにならぬ絶対の幸福者である”
ここで言われる「念仏者」とは、
ただ口で「南無阿弥陀仏」と称えている人のことではなく、
弥陀に救われ、お礼の念仏を称えずにおれなくなった人のこと。
すぐ後に「信心の行者」と言い換えられていることでも
明らかでしょう。
「碍りだらけのこの世にあって、
弥陀に救い摂られた人は、
一切が碍りとならぬ絶対の幸福者になれる」
親鸞さまの断言です。
澄み渡る無碍の一道の爽快さを、
「天神・地祇も敬伏し、魔界・外道も障碍することなし」
と仰っています。
神といえば、普通は私たちがおそれて頭を下げるもの。
ところが弥陀より信心を賜った者には、
天地の神々が敬って頭を下げ、
幸せをぶち壊す悪魔や外道の輩も一切、
妨げることができなくなるのだとの確言です。
ここで「碍りにならぬ(無碍)」といわれる碍りとは、
「浄土往生の碍り」のこと。
弥陀に救い摂られれば、たとえいかなることで、
どんな罪悪を犯しても、
“必ず浄土へ往ける金剛心”には全く影響しないから
「罪悪も業報を感ずることあたわず」。
この世のいかなる善行を、
どんなに励んだ結果も及ばぬ幸せだから
「諸善も及ぶことなし」と、宣言されています。
それでは、この世の苦しみや悲しみは一切なくなるのか。
どんな目に遭っても、誰を失っても笑っている人間になるのか、
と思われるかもしれませんが、そうではありません。
無碍の一道に出たならば、
この世の災禍がいかに襲ってこようとも、
浄土往生は微塵も変わらず、苦しみがそのまま楽しみに転ずる。
つらい事実も幸せの種に変わるという、
全く常識破りの世界です。
「私ほど不幸な者はない」
と他人に恨み世を呪っていた人が、
その涙の種が幸せ喜ぶ種となり、
逆境に微笑し、輝く世界が拝める不思議。
「シブ柿の シブがそのまま 甘味かな」
流れた苦しい年月も過去形で語れる至福です。
これを「転悪成善」の幸せといいます。
転悪成善の不思議さを、聖人はこんな例えで説かれています。
「罪障功徳の体となる
水と氷のごとくにて
氷多きに水多し
障り多きに徳多し」(高僧和讃)
(大きな氷ほど、解けた水が多いだろう。
罪や障りの氷が多いほど、
幸せよろこぶ水が多くなるのだ)
ひとたび弥陀より絶対の幸福を賜れば、
渦巻く現実のままが光明の広海と転じ、
泣いても曇らず、笑ってもふざけず、
富んでもおごらず、貧しくても卑屈にならず、
憎まれてもすねず、ウラミと呪いの人生を、
感謝と法悦で乗り切らせていただく魂の自由人となるのです。
29歳の御時、この弥陀の救いにあずかられた聖人は、
「如来大悲の恩徳は
身を粉にしても報ずべし
師主知識の恩徳も
骨を砕きても謝すべし」。(恩徳讃)
こんな広大無辺な世界に救いたもうた阿弥陀如来の大恩は、
身を粉にしても報いずにおれないぞ。
お釈迦さまはじめ、この弥陀の救いを伝えてくだされた方々のご恩も、
骨を砕いてもお返しせずにおれない。
どんな悪人も不可思議な弥陀の本願力で、
今ハッキリ絶対の幸福になれるから、
あなたも早く弥陀の本願を聞信し、
親鸞と同じ心になってくれよ!と念じて筆を染められたが、
『正信偈』百二十行となったのです。
この親鸞聖人の教えを聞き求め、ともに無碍の一道、
絶対の幸福に向かって進ませていただきましょう。
正しい信心を獲得した時、悲しみも苦しみも、
全て通らねばならぬ道だったと知らされ、
如来のご方便に感謝せずにいられなくなるでしょう。
あなたの大切な方も、きっとそれを願っていられるはずですよ。
弥陀に救われると何故、熱火のご恩報謝の気持ちが起こるのか!? [親鸞聖人]
如来大悲の恩徳は
身を粉にしても報ずべし
師主知識の恩徳も
骨を砕きても謝すべし
阿弥陀如来の洪恩は、
身を粉にしても報い切れない。
その弥陀の大悲を伝えてくだされた方々のご恩も、
骨を砕いても済みませぬ
『恩徳讃』を拝読しますと、
熱火の法悦からあふれ出る親鸞聖人の報恩の情を強く感じます。
身を粉にしても、骨砕きても相済まないほどの報謝の念は、
どなたから、どのようなご恩を受けて湧き出るのでしょう。
まず「如来大悲」と言われています「如来」とは、
阿弥陀如来のことです。
釈迦如来でもない、大日如来でもない、
ここで言われる「如来」は大慈大悲の本師本仏、阿弥陀如来です。
「本師本仏」とは、大宇宙にまします数え切れない仏方の
「先生」という意味。
最高無上の仏さまですから、
親鸞聖人は特に晩年、阿弥陀仏のことを、
「無上仏」とばかり言われています。
そう言わずにいられなかったのでしょう。
阿弥陀如来から受けた洪恩は、
命懸けても報い切れないほど大きいのだ、
と親鸞聖人は仰っています。
●『正信偈』冒頭にあふれる「弥陀救済への喜び」
阿弥陀如来に救われた喜びを、親鸞聖人は『正信偈』冒頭に、
帰命無量寿如来 (無量寿如来に帰命し)
南無不可思議光 (不可思議光に南無したてまつる)
と記されています。
無量寿如来も、不可思議光も、阿弥陀如来の別名です。
本師本仏の阿弥陀如来には、
さまざまなお徳(力)に応じたお名前があるのです。
「帰命」は昔の中国の言葉、「南無」は昔のインドの言葉で、
ともに「救われた」ということ。
ですから、この二行は
“阿弥陀如来に親鸞、救われたぞ。
阿弥陀如来に親鸞、助けられたぞ”
という意味ですから、同じ言葉が二回繰り返されているのは、
どれだけ言っても言い足りぬ、
書いても書いても書き尽くせぬ“救われた喜び、感謝”
が込められているからです。
このように『正信偈』も、
「身を粉にしても返しきれない阿弥陀仏の大恩」
から始まっています。
「如来大悲の恩徳」とは、
“阿弥陀如来の大慈悲心によって救われたご恩”であり、
「身を粉にしても報ずべし」とは、
“身命を賭してもお返しできない”という熱いお気持ちなのです。
日々の生活で、それほどのご恩を感じることが
私たちにあるでしょうか。
「命の恩人」という言葉があります。
どの医者にも見放された難病を治してもらった時、
「あの医師は私の命の恩人です」
と言います。
確かに、この肉体の命を助けてもらった喜びは特別ですが、
死ななくなったのではありません。
寿命を何年か延ばしてもらったということです。
ですから、たった一つのその命を捨ててまで、
医師の恩に報いようとまでは思えないでしょう。
一体、親鸞聖人は、何から救われて、
「身を粉に、骨砕きても」という気持ちになられたのか。
「救われた」「助かった」といっても、いろいろあります。
道を教えてもらって「助かりました」とも言うし、
倒産しかけた事業を立て直してもらって、
「助かった」とも言います。
山で遭難し、死を覚悟していた時に救助され、
「九死に一生を得た」と涙する人もあるでしょう。
これら皆「救われた」「助かった」といえましょうが、
親鸞聖人がここで言われている「救われた」とは
「後生の一大事」から救われたことなのです。
では「後生の一大事」とは何でしょう。
これが分からねば『恩徳讃』の真意は読めません。
●後生の一大事とは
仏教は後生の一大事を知るところから始まり、
後生の一大事の解決で終わります。
後生の一大事とはどんなことかを知らなければ、
仏法は何十年聞いても分かるものではありません。
「後生」とは、「来世」のこと。
私たちの100パーセント確実な未来です。
トンチで有名な一休さんは、
「門松は 冥土の旅の 一里塚」
と歌った。
「冥土」とは、死んだ後の世界です。
年が明けると、みんな「おめでとう」「おめでとう」と言うが、
私たちは一年たてば一年、
一日生きれば一日、確実に死に近づいています。
死ぬのは嫌じゃ嫌じゃと言いながら、
毎日、墓場へ向かって行進しているのです。
すべての人が、後生へと向かっての旅人なのです。
たとえ地震や津波からは逃げられても、
死から免れることはできません。
早ければ今晩かもしれません。
何かのことで吸った息が吐き出せなければ、
吐いた息が吸えなければ、その時から後生。
一息一息と触れ合っているのが、後生なのです。
実際、御嶽山では、わずか11歳の小学生が亡くなりました。
頂上で記念撮影した笑顔いっぱいの写真が噴火20分前に
母親の携帯電話に送られています。
私たちもいつどうなるか。
一寸先が分かりません。
誰もが、いつ爆発するかしれぬ噴火山上でパーティーをしたり、
あくせく働いたりしているようなものです。
70億の全人類、後生と関係のない人は、一人もありません。
死んだらどうなるのか。
この確実な未来の「後生」がハッキリしていないほどの不安はなく、
こんな一大事はありませんから、
仏教ではこれを「後生の一大事」といわれます。
この「後生」「死」の問題は、かつてはタブー視されてきましたが、
今日、多くの人の関心事となっています。
月刊誌『文藝春秋』では、たびたび「うらやましい『死に方』」とか
「世界の『死に方』と『看取り』」などの大特集を組んで、
“どんな週末を迎えれば、悔いなく人生を閉じられるか”
と問う声に応えようとしています。
自らもガンを患う評論家の立花隆さんが出演したNHKスペシャル
「臨死体験 死ぬとき心はどうなるのか」は高視聴率を記録し、
見た人の中には「ありがとうございました」
とお礼を言う人が何人もあったといいます。
立花さんは、
「最後の旅の中にどうしても残る一定の未知なる部分への不安感」を、
あの番組が「あらかた取り去ってくれた」からではないかと
自己分析し、希望的観測を述べています。
たとえ一時的にでも、後生の不安が薄らいだように思えたのでしょう。
しかし、死の不安は一片の知識で雲散霧消するようなものではありません。
私たちが直面する後生とは、いかに深く、重い問題であるか。
またその解決ができたとは、どれほどすごいことなのか。
後生の一大事が、阿弥陀如来の本願力によって救われた親鸞聖人は、
格調高くその喜びをうたいうたい上げられています。
噫(ああ)、弘誓の強縁は多生にも値(あ)いがたく、
真実の浄信は億功にも獲がたし。
遇(たまたま)行信を獲ば遠く宿縁を慶べ。
若しまたこの廻疑網に覆蔽(ふくへい)せられなば
更りてまた昿劫を逕歴せん。
誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法、
聞思して遅慮することなかれ
(教行信証総序)
ああ・・・何たる不思議か、親鸞は今、多生億劫の永い間、
求め続けてきた歓喜の生命を得ることができた。
これは全く、弥陀の強いお力によってであった。
深く感謝せずにおれない。
もし今生も、弥陀の救いにあえぬままで終わっていたら、
未来永遠、浮かぶことはなかったであろう。
何とか早くこの真実、みんなに伝えねばならぬ、
知らせねばならぬ。
こんな広大無辺な世界のあることを。
「噫(ああ)」という感嘆は、かつて経験したことのない驚きと喜びの、
言葉にならぬ言葉です。
「多生にも値(あ)いがたいことに値えた、
億劫にも獲がたいことが、今、獲られたのだ」
と聖人は仰っています。
「多生」とは仏教から出た言葉で、私たちが人間に生まれる前には
永い過去世があり、種々の世界に生まれ変わり、
死に変わりしてきたのだと教えられています。
これを「多生」といい、昔から
「二十五有生(うしょう)、迷わぬ里もなければ受けぬ形もない」
といわれます。
「二十五有生」とは、仏教で説かれる迷いの世界のことで、
ある時は犬、またある時は猫、鳥や獣に生まれては殺され、
餓鬼に生まれては飢え渇き、
地獄で苦しみにのたうち回っていたこともありましょう。
遠い過去から私たちは、そのいずれの世界にも生まれ、
どんな姿形も受けてきた。
その過去世から現在、未来へと三世を貫いて流れる
永遠の生命が本当の私なのだと、
仏教では教えられます。
ところがそう聞いても、
私たちはこの世に生まれてから死ぬまでの
50年ないし100年の肉体しか分からず、
“そんな過去世なんか信じられるか”という人もあるでしょう。
「セミは春秋を知らず」といわれるように、
永年地中で過ごし、一夏、地上に出て、
わずか一週間で死にゆくセミは、
春も秋も分からず、まして10年、100年など想像も及ばぬ。
だがセミが知らずとも春秋はある。
私たちが「何それ?そんなのあるか」と思っても、
過去・現在・未来の三世は、
一人一人に厳然と存在するのです。
「億劫」とは、仏教で4億3200万年を一劫といいますから、
これも大変な長期間のことです。
気の遠くなる多生・億劫の永きにわたる魂の遍歴の中で、
いまだあったことのない「弘誓の強縁」にあえた、
かつて獲たことのない「真実の浄信」を獲ることができた、
と聖人は叫ばれています。
ここでいわれる「あう」とは、「値う」と書き、
過去無量劫、果てしなく生死を繰り返してきた間にもなかったこと。
そしてこれからも未来永劫、
二度とないことに「値(あ)った」ことをいうのです。
親鸞聖人が値われた「弘誓の強縁」とは何か。
阿弥陀仏の本願のことです。
それは「すべての人を必ず救う」
という弘い誓いであり、ものすごく強いお力ですから、
「強縁」と言われているのです。
また、聖人が獲られた「真実の浄信」とは、
弥陀より賜るまことの心(南無阿弥陀仏)。
それは弥陀如来の浄らかなお心ですから、
浄信と仰るのです。
人間に生まれてきた目的は、
この弥陀の救いに値う以外にありません。
それは実は、人生の目的どころではない。
永遠の生命の多生永劫の目的なのです。
その弥陀のお約束どおりに救われた聖人は、
この世でこんなことがあろうとは、
不可称不可説不可思議に、
心も言葉も絶え果てて「噫」と感嘆されています。
そしてしみじみ、どんな遠い過去からの弥陀のご配慮があったのやらと、
「たまたま、行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ」
と感泣なされ、もし救われることがなかったら、
と後生の一大事に戦慄し、こう嘆息されています。
「若しまたこの廻疑網に覆蔽せられなば更りて
また昿劫を逕歴せん」
もし今生もまた、弥陀の本願に対する疑い(疑網)が破られなかったら、
またしても果てしない迷いを重ねるところであった。
危ないところであったなあ。
まさに、弥陀の救いとは、50年から100年のこの肉体の命のことではない、
永遠の生命の救済であることがお分かりでしょう。
だからこそ、救われたご恩の大きさは比類なく、
この身がたとえ砕かれようと、
報いずにおれなくなってくるのです。
生まれて来たのは、極楽へ渡す弥陀の大船に乗るため! [親鸞聖人]
親が子を虐待し、子が親を殺める。
自殺幇助で稼ぐ者やら、
遊ぶ金欲しさに簡単に強盗殺人を犯す少年。
目を覆うような事件が、報道されない日はありません。
「いのちは尊い」
と、どれだけ連呼されても、
「私なんかガラクタ」
としか感じられないのは、
「なぜ、尊いのか」
分からないからでしょう。
深い闇にさまよう私たちに、
生命の尊厳を明示された方が、
世界の光といわれる親鸞聖人です。
「生死の苦海ほとりなし
久しく沈めるわれらをば
弥陀弘誓の船のみぞ
乗せてかならずわたしける」
今回は、このお言葉に、
真のいのちの輝きをお聞きしましょう。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
生死の苦海ほとりなし
ーーー空と水しか見えない海に
放り出されたら、どうしますか?
初めに「生死の苦海」と言われているのは、
私たちの人生のことです。
人の一生は、苦しみの波の絶えない海に、
おぼれ沈んでいるようなものだと、
親鸞聖人は「生死の苦海」と言われています。
「生死」とは仏教で苦しみのこと、
「ほとりなし」とは、果てしないことですから、
「生死の苦海ほとりなし」
とは、人生は苦しみの連続である、と言われているお言葉です。
この世にオギャッと生まれたのは、例えれば、
太平洋の真ん中に放り出されたようなもの。
見えるのは水と空だけとしたら、どうするでしょう。
泳がねば沈んでしまいますから、泳ぎますが、
では、どこへ向かってでしょうか。
島も陸もない。船も見えないのに。
やみくもに泳げば泳ぐほど、陸地や船の方角と反対に進み、
努力が無駄になることもあります。
泳ぐ前に、まずハッキリさせるべきなのは、島がどこにあるのか。
陸地はどこか。船のある方角でしょう。
そこへ向かって泳いでこそ、泳ぐことに意味があり、
「ここまで泳いできてよかった」
と、泳いだ苦労が報われる時が来るのです。
生きる時に一番の大事は、どこへ向かって生きるのか。
「人生の目的」です。
●生きるために、生きるのか
「生きるために生きるのだ」
という言葉に、勇気づけられる人もあるでしょう。
「あなたは生きている、それだけで意味があるんだよ」
と言われれば、救われた気になります。
しかし本当に、それでいいでしょうか。
「何のために勉強しているのですか」
と聞かれて、
「希望の大学に合格するためです」
という答えなら理解できますが、
「勉強するために勉強しています」
では、意味不明です。
「なぜダンス教室に通っているの」
と尋ねて、
「あのステキな先生と踊れるから」
ならわかりますが、
「通うために、通っている」
では、トートロジー(同意語反復)で、
何も言っていないのと同じです。
「生きるために生きる」のは、ちょっと考えれば、
言葉の意味からもおかしいと、誰でも分かるでしょう。
「泳ぐために泳ぐ」
「とにかく一生懸命泳げばいい」
では、やがて体力尽きて溺死するだけであるように、
生きる方角を知らず
「生きるために生きる」ようなもの。
死ぬほどつらいことはない、と言うように、
私たちが最も恐れ嫌う「死」に向かって生きるのは、
「苦しむために生きる」ことになってしまします。
それでいいと、どうして言えるでしょうか。
ところが、地球上に今、70億人の人がいても、
「まず生きることが大切なんだ」
と、誰も「人生の目的」を問題にせず、知ろうともしていません。
「自殺はダメだ」
と声高に叫んでいる識者も、
「なぜですか」
の素朴な疑問に、納得できる答えを示してはくれません。
それどころか、著名人の自死を賛美する始末。
不可解というほかありませんが、
「人生の目的なんか、考えても分からない」
と、アキラメているのではないでしょうか。
●目的と手段は違う
「いや、私の人生には目的がある。そこに向かって生きている」
という人もあります。
仕事、恋愛、お金、地位、名声、家庭、健康、旅行、趣味・・・などを、
それぞれ「人生の目的」と思ってのことでしょう。
確かにこれらは、それなりの喜びや満足を
与えてくれるに違いありません。
ドキドキ、ワクワク、興奮を味わえることもありますが、
どれだけ続くでしょう。
「人間に生まれてよかった」という生命の歓喜、
不変の満足が得られるでしょうか。
死ぬまで求めても、「求まった」と達成した喜びの、
ないものばかりではないでしょうか。
世界中で、自殺者が絶えません。
ノーベル賞受賞の優秀な人たちも、生涯、
豊かな生活が保証された人も、それでも自ら命を絶つ。
色々な事情があるでしょうが、間違いなくいえるのは、
「幸せではなかったから」でしょう。
ノーベル賞も、人生究極の目的とはいえないようです。
金や財産、地位や名誉、趣味や健康、
これらは「生きる目的」ではなく、
生きるための「手段」。
この「目的」と「手段」の違いを知らず、
混同しているところに、
まことの幸せになれぬ根本原因があるのだと、
親鸞聖人は明言されています。
例えば、お金は使うためにある。
儲けて増やすこと自体が、目的では決してありません。
問題は、お金をどんな目的に使うか、です。
ところが、この平凡な真理に気づかない人が意外に多い。
目的と手段を履き違え、「金を使う」のではなく、
「金に使われる」奴隷になる人が少なくありません。
詐欺も偽装も収賄も、
そのために起きる事件とは言えないでしょうか。
では「生きる目的」と「手段」を、なぜ混同してしまうのでしょう。
真の「人生の目的」を知らないからだと、
親鸞聖人はおっしゃっているのです。
●生きる実態は
「生きる」とは、こういうことだと、一休はいいます。
「人生は
食て寝て起きて糞たれて
子は親となる
子は親となる」
社長だ、教授だ、ニートだ、といっても、
立って半畳、寝て一畳。
基本的にやっていることは、布団の上げ下げであり、
台所とトイレの往復です。
毎日同じことの繰り返しで、代わり映えのしない日常が、
どこまでも続いていく。
そのうち、どこで覚えたやら子を生み親となり、
やがてその子もまた親となる。
これが「生きる」実態だ、の指摘は、
とても否定できません。
しかも、いつまでも生きておれるのではないと、
一休はまた、
「世の中の
娘が嫁と 花咲いて
嬶としぼんで
婆と散りゆく」
とも、人生の裸形(らぎょう)を露出します。
女性で一番良い時が、娘時代。
だから娘と言う字は、女偏に良いと書く。
娘が結婚して家に入ると、嫁になる。
嫁さんが、子供を生みますと嬶という。
「女は弱し、されど母は強し」といわれるように、
新婚当時はおしとやかでも、
お母さんになると鼻が高くなりますので、
女偏に鼻と書く。
嬶の次はお婆さん。
額に波が寄ってきますので、女の上に波と書くのだそうです。
これが女性の一生ですが、男性でも呼び名が違うだけで、
すべて同じコースをたどります。
何十億の人がいても、例外なし。
いつまでも娘ではいられませんし、
お婆さんが娘に戻ることはできませんね。
「この間まで自分は娘だと思っていたのに、
もう息子が嫁をもらって孫ができた。
いやぁ、月日のたつのは早いなぁ」
と言っているように、女は、娘から嫁、嫁から嬶、お婆さんへと、
どんどんどんどん進んでいく。
一休が「婆と散りゆく」と言っているのは、
そうしてみんな死んでいくからです。
その間、歓楽哀情、悲喜こもごもでしょうが、
作家の林芙美子さんは、
「花の命は短くて
苦しきことのみ多かりき」
と歌っています。
医学によって、たとえ10年、20年、寿命が延びたとしても、
あっという間。
一秒に地球を7周り半進む光の速さでも、
百何十億年かかる、という大宇宙の生命に比べれば、
人生80年といっても瞬きする間もありません。
花のように儚い命、一体、何のために生まれてきたのでしょうか。
それが分からぬままの人生の結末では、
悲しすぎます。
これほどの問題が、ほかにあるでしょうか。
地球温暖化、核の拡散、原油価格の高騰、
医療崩壊、鳥インフルエンザ・・・
早急に対処すべき事柄が山のようにあっても、
根底にあるのは「死」の不安です。
あらゆる人間によって、死ぬこと以上の大問題はないから、
これを仏教で「生死の一大事」といわれるのです。
●死後は、
どうなっている?
さて、死んだその先は有るのか、無いのか、
どうなっているのでしょうか。
現代人の多くは、「死んだ後は何も無くなる」と言い、
それを「科学的態度」だと自負しています。
では、わが子や親が死んでも、
「一個体としての生命化学反応が、
止まっただけ」
と割り切れるでしょうか。
「燃焼したら骨と皮。成分のほとんどはカルシウムである」
などと、火葬場で冷静に分析していられるはずがない。
物質でない何かが、どこかに残っているとしか思えないから、
「千の風になった」と思いたいし、
「冥福」を祈らずにおれないのです。
「冥福」とは「冥土の幸福」のことで、
「冥土」は死後のこと。
故人に向かって
「静かにお眠りください」
「安らかに成仏してください」
と、「死後の幸せ」を願うことを「冥福」を祈るという。
「慰霊」も同じで、死者の霊を慰める行為です。
これらは、死んだ後が有り、
しかも、苦しいのではなかろうかと思うからこそ、
せずにいられないのです。
では、私が死んだらどうなるのか。
死後はあるのか、無いのか、有るとしたら、
どんな状態であるのか。
いずれでも、ハッキリすれば安心できるのですが、
ただ、ぼんやりしています。
この「死んだらどうなるのか、ハッキリしない心」を、
仏教で「無明の闇」といわれ、この
「死後に暗い心」こそが、
人間の苦しみの根元なのだと、
親鸞聖人は断言されているのです。
●「死んだら死んだ時」か?
こんな大きな問題なのに、その「死」を誰も見ようとしない。
避けているのは、どうしたことでしょう。
「未来のことより、今が大事だからさ」
とまことしやかに答える人が、
しっかり「老後」のために貯蓄する。
「年金はどうなる」「介護はどうする」
というのも、老後の問題。
やがて行く道だから、準備せずにいられないのでしょう。
若くして死ぬ人には、老後はありませんが、
死ぬのは百パーセント確実。
とすると、「有るやら無いやら分からない老後」のことは
心配して準備しているのに、
「百パーセント確実な死」は誰も問題にしていない、
ということになります。
火災保険でも、火事には滅多に遭わないが、
それでも、もしもの時のために加入する。
「万が一」の火災になら真剣に対処しているのに、
「万が万」訪れる「死」は想定外に押しやっているのは、
おかしくないでしょうか。
日頃は“論理一貫性”を重んじながら、です。
「そんなこと考えたって、どうなるもんじゃないよ」
「死んだら死んだ時だ」
と、アキラメてるのでしょう。
何のためにこの世に来たか、死んでどこへ行くのか、
来し方行く末も分からず、悩み絶えない私たちの人生を、
親鸞聖人は、
「生死の苦海ほとりなし」
と言われ、それはこの世の50年や100年の間だけではなく、
果てしない過去からさまよい続けてきたことを、
「久しく沈めるわれら」
とおっしゃっているのです。
●弥陀の本願まこと
親鸞聖人の証言
「生死の苦海ほとりなし
ひさしく沈めるわれらをば
弥陀弘誓の船のみぞ
乗せてかならずわたしける」
そんな古今東西の全人類を、
「弥陀弘誓の船のみぞ
乗せてかならずわたしける」
と、次に宣言されています。
「弥陀弘誓」とは、
「阿弥陀仏の本願」のこと。
「阿弥陀仏」とは、大宇宙に無数にまします
仏方(三世十方の諸仏)の先生であり、
指導者の仏さまなのだと、蓮如上人は、
「弥陀如来と申すは、三世十方の諸仏の本師本仏なり」
(御文章)
と教えられています。
「本願」とは、誓願ともいわれ、
分かりやすくいうと約束のことですから、
「阿弥陀仏の本願」とは、
本師本仏の阿弥陀仏のなされているお約束のことです。
その内容を、一言で申しますと、
「どんな人をも
必ず助ける
絶対の幸福に」
というものです。
私たちの知っている幸せは、
海に浮かぶ丸太ん棒や板切れのように、
やがてひっくり返って必ず裏切る、
金や財、地位名誉などの「相対の幸福」です。
だから不安から離れられない私たちを、
永遠に崩れない「絶対の幸福」に救い摂ってみせる、
という凄い約束ですから、
親鸞聖人はその「阿弥陀仏の本願」を、
苦海を楽しく渡す船に例えて「弥陀弘誓の船」と言われたのです。
しかも、全く阿弥陀仏のお力によって、
乗せていただく船だから、「乗って」でなく
「乗せて」と言われ、「かならずわたしける」とは、
苦悩の根元である無明の闇をぶち破り、
“いつ死んでも浄土往き間違いない”
大安心の身に救い摂ってくだされるのだ、
ということです。
乗船には時間はかかりません。
何十億分の一秒よりも短い「一念」。
その一念で、弥陀弘誓の船に乗せられた体験を親鸞聖人は、
「誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法」
(教行信証)
“弥陀の本願まことだった。絶対の幸福、本当だった”
と証言され、有名な『歎異抄』の冒頭には、
「『弥陀の誓願不思議にたすけられ参らせて
往生をば遂ぐるなり』と信じて
『念仏申さん』と思いたつ心の発(おこ)るとき、
すなわち摂取不捨の利益にあずけしめ給うなり」
と仰せられています。
「摂取不捨の利益」とは、
“ガチッと一念で摂め取って永遠に捨てぬ不変の幸福”のこと。
生きてよし、死んでよし、こんなもの凄い世界があるぞ、
このための人生だから命は無限に尊いのだ、
早くこの弥陀の大船に乗ってまことの幸せになってくれよ、
と今も聖人は叫び続けておられるのです。
釈迦の本意を明らかに [親鸞聖人]
2600年前、釈尊は、全人類の救われる道を、
説き明かされていかれた。
それが、仏教である。
その釈尊の本意を明らかにされた方が、
日本にお生まれになった親鸞聖人である
仏教にはいろいろな宗派があります。
浄土真宗もその一つで、
親鸞聖人が独自に解釈し、
作られた教えだろうと思っている人が、
世間には少なくありません。
しかし、聖人は常にこう仰せであります。
「更に親鸞珍しき法をも弘めず、
如来の教法をわれも信じ人にも教え聞かしむるばかりなり」
「更に親鸞珍しき法をも弘めず」
とは、
「親鸞は、今まで誰も教えたことのない新しい、
珍しい教えを伝えているのではない」
ということです。
では、誰の教えを伝えられたのか。
「如来の教法をわれも信じ人にも教え聞かしむるばかりなり」
と言われています。
「如来の教法」とは、
約2600年前、インドに現れた釈迦如来(お釈迦さま)の教え、
仏教のことです。
その釈迦如来の教えを自らも深く信じ、
皆さんにも伝えているだけなのだと仰っています。
お釈迦さまの教えを、私見を交えず、
そのまま伝えていかれた方だったことが分かります。
では、お釈迦さまの教えとはどんな教えでしょうか。
それは、全人類の救われるただ一本の道を、
説き明かされたものでした。
お釈迦さまは、一国の王子シッダルタとして生まれ、
29歳で城を出て、修行のために山へ入られた。
地位や財産、名誉など、全てを捨てての出城でした。
なぜ、独りご修行なされたのでしょう。
●逃げられぬ4つの苦しみ
お釈迦さまは、人生には、逃れられぬ4つの苦しみが
あることを知られました。
その4つとは、生苦・老苦・病苦・死苦。
まず生苦。
人は、生きるために衣食住を求め、
嫌でも毎日歩かねばならない。
今日一日生きるのも、簡単ではありません。
若い時はどんなに頑丈で美しい肉体も、
だんだんと容姿や体の機能が衰え、
自分の体が自分で思うようにならなくなるのが老苦です。
次に病苦。
風邪や肺炎、糖尿病、心臓や腎臓病など、
体一つで幾千の病と闘わねばなりません。
治っても、また別の病に苦しみます。
最後に死苦。
死ぬほどつらいことはない。
地震や津波、エボラウイルスなどの対策に懸命なのは、
誰しも死にたくないから。
しかし、人は100パーセント死なねばなりません。
宝くじを当て、マイホームを建てた喜びも、
死の前には無力です。
人は皆、苦を厭い、幸せを願いながら、
苦しみから逃れられず、得られた幸せも、
老いと病、ついには死によって総崩れになってしまいます。
この万人の生死の大問題を解決し、
本当の幸せになる道を、釈迦は求められたのです。
●すべての人の救われる道
仏覚をさとられたお釈迦さまは、
どうにもならぬ苦悩の人生を、
必ず絶対の幸福に救う、阿弥陀仏という仏の本願があると、
教えられました。
この釈迦一代の教えを記された一切経を、
何度も読み破られた親鸞聖人は『正信偈』に、
「如来(釈迦)世に興出したまう所以は、
唯弥陀の本願海を説かんとなり」
と説かれています。
釈迦如来がこの世に生まれ、
仏教を説かれた目的は、
阿弥陀仏の本願一つを説かれるためであった、
との断言です。
この阿弥陀仏の救いを、親鸞聖人は、
“苦海の人生に大船あり”
と教えられました。
大船とは、阿弥陀仏の本願のこと。
お釈迦さまの本意を明らかになされたのが
今日「世界の光」と仰がれる親鸞聖人だったのです。