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なぜ、我々を救えるのは阿弥陀仏だけなのか [源信僧都]

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 「源信」とは、約1000年前の日本の人で、
有名な『往生要集』を書かれた源信僧都のことです。
親鸞聖人は、この源信僧都を、
インド・中国・日本の七高僧の6番目に挙げて、
「源信僧都のお導きがあったなればこそ、
親鸞は、弥陀に救われることができたのだ」
と、正信偈に次の2行で褒めたたえておられます。

源信広開一代教(源信広く一代の教を開きて)
偏帰安養勧一切(偏えに安養に帰して一切を勧む)

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「広く」とは、「徹底的に」ということ。
「一代の教」とは、今から2600年前、インドに現れたお釈迦さまが、
80歳でお亡くなりになられるまで教えていかれた、
釈迦一代の教え、今日の仏教のことです。
釈迦一代の教えは、すべて書き残され、その数は7000冊以上に上り、
一切経といわれています。
源信僧都は、その7000余冊の一切経を幾たびも読み破られ、
「後生の一大事の解決できる教えが、どこかに説かれていないか」
と、必死に探し求められたことを、
「源信、広く一代の教を開きて」
と、言われています。
その結果、
「極悪の源信の救われる道は、偏に安養に帰する以外に無かった」
と知らされたことを、
「偏に安養に帰して」
とおっしゃっているのです。
「安養」とは、阿弥陀仏のことですから、
「偏に安養に帰す」とは、
「私の後生の一大事を助けたもう仏は、ただ弥陀一仏しかなかった」
と言われています。

すでにお釈迦さまは、
「無量寿仏に一向専念せよ」
とおっしゃっています。
「無量寿仏」とは、阿弥陀仏のことですから、
「弥陀一仏に向き、弥陀のみを信じよ。
その他にすべての人の救われる道はないのだ」

と言われているのです。
次の、
「一切を勧む」
とは、それから源信僧都がこの真実の教えを、一切の人々に、
「皆さんも、偏に弥陀一仏を信じなさいよ」
と、終生、教え勧めていかれたことを、親鸞聖人は、
「偏に安養に帰して一切を勧む」
と言われているのです。

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●阿弥陀仏は本師本仏

釈迦の「無量寿仏に一向専念せよ」の教えについて、
親鸞聖人から聞かせていただきましょう。
釈迦が35歳で成仏してから、
80歳で入滅するまでの45年間の教えが仏教ですが、
一体、釈迦は何を説くのが目的であったのでしょうか。

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親鸞聖人は、『教行信証』に、

それ真実の教を顕さば、すなわち『大無量寿経』これなり

と喝破なされています。
釈迦一代の教えは、真実の経・『大無量寿経』唯一つを
説かんがための方便であったのだ

と断言なされているお言葉です。
では『大無量寿経』には、何が説かれているのでしょうか。
それは唯、すべての人々が本当に幸福に救われる
「阿弥陀仏の本願」のみが説かれています。

ゆえに親鸞聖人は、『正信偈』に、

如来所以興出世(にょらいしょいこうしゅつせ)
唯説弥陀本願海(ゆいせつみだほんがんかい)

「釈迦如来がこの世に生まれられた目的は、
唯、弥陀の本願のみを説かんがためなり」

と仰せになっております。
釈迦は、阿弥陀仏の使いの者として、
この世に出て阿弥陀仏の本願を説かれたのです。
これを聖人は、

久遠実成阿弥陀仏(くおんじつじょうあみだぶつ)
五濁の凡愚(ぼんぐ)をあわれみて
釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)としめしてぞ
迦耶城(がやじょう)には応現する
  (和讃)

とおっしゃっています。

また、親鸞聖人の仰せのとおり、
釈迦は一切経に阿弥陀仏のことばかり褒めたたえていられます。
「阿弥陀仏の威神光明は最尊第一にして、
諸仏の光明の及ぶこと能わざる所なり」(大無量寿経)とか、
「十方無辺不可思議の諸仏如来、阿弥陀仏を称讃せざるはなし」(同)
とか、
「諸仏の中の王なり、光明の中の極尊なり」(大阿弥陀経)
とか、挙げれば切りがありません。
ゆえに、
「諸経に讃ずるところ、多く弥陀にあり」
と、天台宗の荊渓(けいけい)でさえ驚いているのです。

では、なぜ阿弥陀仏を一切の仏方が称賛し礼拝されるのか。
その理由は、『般舟経(はんじゅきょう)』に明らかに説かれています。

三世の諸仏は
弥陀三昧(みだざんまい)を念じて
等正覚(仏)に成る

これは、
「一切の諸仏は、最後は阿弥陀仏のお力によって、
仏になった」
ということです。
大日如来も薬師如来もそうであるように、
釈迦もその例に漏れません。

ですから、あらゆる仏は阿弥陀仏には頭が上がらないのです。
「本師本仏」と崇めたてまつる道理ではありませんか。
三世十方の諸仏たちでさえそうなのですから、
ましていわんや私たちは、「一向専念無量寿仏」で、
阿弥陀仏一仏を一向に信じたてまつるより、
後生の一大事助かる道は毛頭ないのだよと、
親鸞聖人は徹底していかれたのです。

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●阿弥陀仏の、特に勝れたお徳ーーー光明無量

阿弥陀仏は、光明無量・寿命無量、
智慧と慈悲の如来であることは多くの経典に明らかですが、
中でも阿弥陀仏の勝れたお徳は、
光明(智慧)無量であることだと、
親鸞聖人は讃歎なされています。

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光明といいますと、何か太陽か電灯の光線のように
誤解する人もありますが、
仏法では仏の念力、仏力をいつも光明と表現いたします。
私たちの目に見えない如来の大願業力、大念力、智慧をいうのです。
私たち人間でも、その方面の修練を積めば、
ある程度の念力を持つことができることは今日、
催眠術や超能力などによって周知のとおりです。
これらは一種の人間の精神力であり、
念力といわれるものの働きであることは、
科学的に説明されるようになりました。
念写などによれば、念力は目には見えませんが、
光線と同じような働きや性質があることが知らされています。
例えば、遠方の暗室に置いてある印画紙に向かって、
ある人が一心に何かを念ずると、その念じたものが瞬時にして、
遠方の印画紙に写るということは、念力は光のような速度を持ち、
光のような作用を持っていることが分かります。
それにしても2600年以前において、すでに釈迦は、
念力や精神力を光明という言葉で表現なされた智慧には、
今更ながら驚嘆せずにはおれません。
散乱放逸の私たち人間でさえ、
ある修練を積めば相当の念力を持つことができるのですから、
仏の念力、業力は私たちの想像を絶するものです。

仏は光明と寿命、智慧と慈悲の覚体だといわれるのは、
私たちを救わんとする大念力を体得していられることをいうのですが、
阿弥陀仏が本師本仏と崇められ、諸仏の王とされるのは、
すでに述べましたように、阿弥陀仏の光明智慧が、
諸仏に超過して、私たちを救済する力がズバ抜けているからです。

それは同時に、極悪最下の私たちを救済できる仏は、
阿弥陀仏以外には断じてないことを、
暗示なされた釈迦のご金言でもあります。

果たして釈迦は最後に“一向専念無量寿仏”と、
その真意を説破(せっぱ)なされているのです。

これは、
あらゆる諸仏、諸菩薩、諸神を捨てて、
一心一向に専ら(もっぱら)阿弥陀仏一仏を信ずる以外に、
一切の人々の助かる道は絶対に無い

と明言なされたものです。

●浄土真宗の肝要

一向専念の義は、往生の肝腑(かんぷ)、自宗の骨目なり

とまで断言なされています。
「阿弥陀仏一仏を一心一向に礼拝し念ずることが、
我々の救われる最も大事なことで、浄土真宗の肝要だ」

ということです。
釈迦の真意を酌み取られ(くみとられ)、忠実に実行なされ、
私たちにも教えられたのが、浄土真宗を開かれた親鸞聖人でした。
その親鸞聖人の教えを、一器の水を一器に移すがごとく
正確に伝えられた蓮如上人は、
「諸仏菩薩を捨てて、弥陀一仏を一心一向にたのむべし」
「更に余の方に心をふらず」
「その外には何れの法を信ずというとも、
後生の助かるということ、ゆめゆめあるべからず」
とまで断定なされているのも、
当然と言わなければなりません。

また、
「一心一向とは阿弥陀仏以外に二仏を並べないことで、
ちょうど、忠臣は二君に仕えず、
貞女は二夫を並べないのと同じだ」
とまでおっしゃっています。
あまりにも厳しいので、世間の人々は浄土真宗のことを
「一向宗」とまでいうようになったのです。
江戸中期の有名な儒者に
太宰春台(だざいしゅんだい)という人がありますが、
この人の著書には、
「一向宗の門徒は、弥陀一仏を信ずること専らにして、
他の仏神を信ぜず、如何なる事ありても、祈祷などすること無く、
病苦ありても呪術・符水(ふすい)を用いず、
愚かなる小民・婦女・奴婢(ぬび)の類まで、
皆然なり、是親鸞氏の教えの力なり」と驚嘆しています。
これによっても真宗の人たちは、
一切の迷信行為をしなかっただけではなく、
阿弥陀仏一仏以外は、絶対に礼拝したり信ずることがなかったことも、
お分かりになるでしょう。

「一向専念無量寿仏」は、時代によって変わることのない、
また絶対に変えてはならない釈迦のご金言であり、
三世十方を貫く真実の教えであることを、
親鸞・蓮如両聖人は、一生涯明らかになされたのです。


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源信僧都、母への臨終説法! [源信僧都]

(源信僧都)

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今回は、源信僧都について書かれた記事を
載せたいと思います。

「釈迦の説かれた一切経に
いかにすごい弥陀の誓願が説かれていても、
正しく伝えてくださる方がなかったならば親鸞、
弥陀に救い摂られることはなかったであろう。」

親鸞聖人はインド、中国、日本の七人の高僧のお名前を挙げて、
その広大なご恩に感謝しておれらます。
そのお一人が、日本の源信僧都です。

七高僧とは、
①龍樹菩薩(インド)
②天親菩薩(インド)
③曇鸞大使(中国)
④道綽禅師(中国)
⑤善導大師(中国)
⑥源信僧都(日本)
⑦法然上人(日本)

源信僧都の幼少期

源信僧都は、平安時代の中頃に、
大和国(現在の奈良県)に生まれられ、
幼名を千菊丸(せんぎくまる)といった。
千菊丸、七歳の時のことである。

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一人の旅の僧が、村に托鉢に訪れた。
昼になり、川原の土手に腰を下ろして、
弁当を食べ始めた。
いつの間にか、周囲の村の子供たちが集まり、
物欲しそうな眼差しで、僧を見つめている。
子供たちの格好はいかにも貧乏そうで、
ボロ着に荒縄の腰ひも、
髪の毛は汚れて乱れたまま
無造作にもとどりを結わえてある。
浅黒い顔に鼻汁を垂れている者もいる。
中に一人だけ、鼻筋の通った、
いかにも利発そうな子がいるのに気がついた。
千菊丸である。

やがて食事を終えた僧侶は、
川原で弁当箱を洗い始めた。
前日からの雨で、水が濁っている。
構わず洗っていると、
千菊丸が近づいて言った。
お坊さん、こんなに濁った水で洗ったら、汚いよ。
わずか六、七歳の子供に、
もっともらしく注意されて、
“何を生意気な”と内心思ったが、
あらわにするのも大人げない。

平静を装って、こう諭す。

坊や、浄穢不二(じょうえふに)ということを知ってるかい。
世の中には、きれいなものも、穢いものも、ないのじゃよ。
それをこれは浄い、これは穢いと差別しているのは、
人間の迷いじゃ。
仏の眼からご覧になれば、
きれいも穢いも、二つのことではない、浄穢不二なのだよ。

そう聞いて千菊丸、即座に反問した。
浄穢不二なら、なぜ弁当箱を洗うの?
当意即妙とはこのことだろう。

僧侶は二の句を継げず、あぜんとした。
“こざかしい小僧!”
わずか七つの子供に、
自分の持ち出した仏語を逆手にとられ、
何とも気持ちが治まらない。
一方、千菊丸は何事もなかったように、
すぐ川原に行っては、
他の子供たちと石投げをして遊んでいる。
“あんな子供に!”
何とか一矢報いてやらねば立ち去れぬ。

“よし、これだ!” と一策を思いついた僧は、
無邪気に戯れている千菊丸に近づいていった。
おい坊や、お前さんは大層利口そうだが、
十まで数えられるかい

うん、数えられるよ、お坊さん
それなら数えてごらん
いいよ、一つ、二つ、三つ、・・・九つ、十
僧侶はわざわざ十まで数えさせてから、
坊や、今おかしな数え方をしたな。
一つ、二つと皆、
つをつけていたのに、
どうして十のときだけ十つと言わんのじゃ

と底意地の悪い質問をした。

“どうじゃ、今度は答えられんじゃろ”
と内心ほくそえんだ次の瞬間、
そりゃ坊さん、五つの時に、
イツツとツを一つ余分に使ったから、
十のときに足りなくなったんだよ。

“なんと・・・・、”
またしても完敗である。
あまりにも鮮やかな反撃に、
もはや憎らしいの思いは失せていた。

惜しい。こんな優れた子を田舎に置いておくのは。
出家させたらどれほどの人物になるかも知れぬ。”

とすっかり千菊丸の才気に惚れ込んでしまった僧侶は、
「そなたは大層賢いのぉ。
ご両親にお会いして、ぜひとも頼みたいことがある。
案内してもらえんか。」

すでに千菊丸には父はいないということなので、
村はずれのあばら屋に母親を訪ね、懇願した。
私は比叡山で天台宗の修業をするもの。
今日たまたま会ったお子さんの、
あまりに利発なことに驚きました。
失礼ながら、これほどの才能を田舎に埋もれさせてしまうのは、
いかにも惜しくてなりません。
どうか私に預けてくだされませんか。
出家の身となられれば、
さぞや立派な僧侶となられることでしょう。」

結果、千菊丸は、
その僧侶の師・良源の弟子になる決心をして、
九歳の時に、比叡山に入った。

以来、閑静な仏教の聖地・叡山にて、
千菊丸、後の源信は、
一心不乱に天台教学の研鑽に励まれるのである。

叡山時代

元来、才知卓抜な源信が、
よき環境に包まれて学問修業を
続けられたのだから、
その上達ぶりは目覚ましたかった。
全国から俊秀が結集した叡山においても、
なお頭角を現し、
十五歳のころには
叡山三千坊に傑出した僧侶として、
源信の名を知らぬ者はないほどになった。

そのころ、時の村上天皇から叡山に勅使が下り、
「学識優れた僧侶を内裏に招いて、講釈を聞きたい」
という天皇の意志を伝えてきた。
当時の仏教界は、
国家権力の手厚い保護のもとに発展を
約束されていたから、
天皇の機嫌はそのまま叡山盛衰の動向に
連なっていた。
ために、
派遣すべき僧侶の人選は慎重を極めたが、
一山の首脳の衆議の結果、
白羽の矢が立ったのが、源信であった。

源信は光栄に感激しつつ、
全山の期待を担って村上天皇のもとに赴いた。
そして群臣百官の居並ぶ前で堂々と、
『称讃浄土経』(阿弥陀経の異訳本)を講説したのである。


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年若い源信の、豊かな才覚と巧みな弁舌に
感嘆した村上天皇は、
「見ればまだ若いが、そなたはいくつか」
と尋ねたが、十五と聞いてさらに驚嘆した。

美として、七重の御衣や金銀装飾の香炉箱など、
多くの物を与えられ、
さらに「僧都」という高位の称号を受けられたのである。

使命を全うして帰山する源信に、
叡山は惜しみない賛辞を送った。
一躍僧都となり、
天下に名声を博した源信の喜びと得意は、
察するに余りあろう。
母を思う源信は、自身の出世をどんなにか
喜んでくださるに違いないと、
早速、事の始終を手紙にしたため、
褒美の品々とともに郷里へ送った。

ところが、である。
しばらくしてから荷物が、
封も切られないまま突き返されてきた。
しかも、添えられた母の歌は、
実に意外だった。

後の世を 渡す橋とぞ 思いしに
             世渡る僧と なるぞ悲しき

源信は、母の心が瞬時に分かった。
「お前を仏門に入らせたのは、苦悩の人々に、
後生救われる道を伝える僧侶になってもらいたい。
それ一つのためでした。
ところが今のお前はどうでしょう。
名利を求め、処世の道具に仏法を使うとは、
何と浅ましい坊主に成り果ててしまったことか。
天皇とて仏の眼からご覧になれば、
迷いの衆生。
そんな者に褒められて有頂天になっているとは、
情けない限りです。
なぜに仏に褒められる身にこそ、
なろうとしないのですか。」
浮かれる心を見透かされた母君の、
恐ろしいまでの叱責に、
迷夢から覚める思いであった。

道を踏み外したわが子を悲しまれる
鉄骨の慈愛に、
翻然として己の非を悟った源信は、
たちどころに褒美の品々を焼却し、
僧都の位をも返上したのである。
名利を求める心を固く戒めて、
決意新たに後生の一大事、解決を求めた。

いつの世も、子供の社会的な成功を願い、
実現して家や車をプレゼントされようものなら、
泣いて喜ぶ親が多いのではなかろうか。
出世を誇るわが子を、
心を鬼にして叱りつけた母。
その母心に敏感に猛省した源信。
いずれにも驚かずにはいられない。

「この母にして、この子あり」とは、
これを言うのだろう。

弥陀の誓願のみ

死に物狂いで魂の解決に向かった源信が、
峻烈な修業を重ねるほどに思い知らされてくることは、
その厳しさに自惚れる恐ろしい心、
煮ても焼いても食えぬ、
お粗末な自己の本性だった。

身につけた天台の教学は、
良源門下三千人の中でも他の追随を許さず、
主な聖教は暗誦するほどであったが、
学問を極めるほど、
その深さをひそかに誇るという有り様。
捨てたはずの名利の心は、
少しもやむことはなかった。
無常迅速のわが身、悪業煩悩の自己、
理においては充分すぎるほど分かっていながら、
本心においては少しも後生の一大事に驚く心がない。
愚かというか、アホというか、
迫り来る一大事を前にしてなお、
仏法を聞こうという心を持ち合わせていない。
その悪を懺悔する心もない。
こうなればただの悪人ではなくて、
極重の悪人というべきか。
道心堅固な聖者には進みえても、
私のような頑魯(がんろ)の者には
とても後生の解決は達せられない。

※頑魯・・・頑固で愚かな者

どうすればいいのか。
ついに源信僧都は、
叡山北方の森厳たる谷間の地、
横川の草庵にこもって、
極重悪人の救われる道を、
求めるようになったのである。

横川の草庵においても、
源信の煩悶の日々は続いた。
来る日も来る日も、
寝食忘れて経典やお聖教をひもとき、
一大事の解決を求めた。

やがて歳月は容赦なく流れ、
四十歳を過ぎたころ、

たまたま目にした中国の善導大師の著書に、
深い感銘を受ける。
大師のご指南に従って、
阿弥陀仏の本願こそが、
万人の救われる唯一の道であることを知らされ
ついに、弥陀の誓願不思議に救い摂られたのである。


母への臨終説法

母にもこの真実を伝えたい。
すぐさま故郷の大和国(やまとのくに)を
目指して旅立った。
ところが、すでに母は年老いて病床の身となって、
明日をも知れぬ容体であった。

使いの者より母の病状を知り、
夜を日に継いで家路を急いだ。


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ようやく三十年ぶりのわが家へ
たどりついた源信僧都は、
今まさに臨終を迎えようとしている母に、
精魂込めて説法する。
母上、どうかお聞きください。
後生救われる道は、
本師本仏の阿弥陀仏に一心に帰命するより
他はないのです。
後生暗い心をぶち破ってくださる仏は、
阿弥陀仏しかましまさぬのです。

やがて母君も、弥陀の本願を喜ぶ身となり、
浄土往生の本懐を遂げたといわれている。

源信僧都は、母の往生に万感極まり、
こう述懐されている。

我れ来らずんば、恐らくは此の如くならざらん。
嗚呼、我をして行を砥(みが)かしむる者は母なり。
母をして解脱を得しめし者は我なり。
この母とこの子と、互いに善友となる。これ宿契なり。

※宿契・・・遠い過去世からの不思議な因縁

母の野辺送りのあと僧都は、
横川の草庵に帰り、
母の往生を記念して一冊の書物を著された。
世に有名な『往生要集』である。

以後、源信僧都は、
『往生要集』とともに浄土仏教の先達として、
後世にも多大な影響を与え、
七十六歳にて生涯を閉じられたのである。


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源信僧都、母への臨終説法 [源信僧都]

(源信僧都)

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今回は、源信僧都について書きたいと思います。

「釈迦の説かれた一切経にいかにすごい弥陀の誓願が説かれていても、
正しく伝えてくださる方がなかったならば親鸞、
弥陀に救い摂られることはなかったであろう。」

親鸞聖人はインド、中国、日本の七人の高僧のお名前を挙げて、
その広大なご恩に感謝しておれらます。
そのお一人が、日本の源信僧都です。

七高僧とは、
①龍樹菩薩(インド)
②天親菩薩(インド)
③曇鸞大使(中国)
④道綽禅師(中国)
⑤善導大師(中国)
源信僧都(日本)
⑦法然上人(日本)

●源信僧都の幼少期

源信僧都は、平安時代の中頃に、大和国(現在の奈良県)に生まれられ、
幼名を千菊丸(せんぎくまる)といった。
千菊丸、七歳の時のことである。

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