釈迦の説かれた「業力不滅」 [因果の道理]
「順次業」とは、現在世のタネまきが次の生で現れるもの。
施しは生きる力の元と知れ [因果の道理]
平凡な人生を輝くダイヤと転じよう! [因果の道理]
因果応報を味方につける! [因果の道理]
幸せの花ひらく「因果の道理」を身につける [因果の道理]
どんな人も絶対の幸福にする弥陀の強縁 [因果の道理]
(さとるとは、阿弥陀仏に救われたということです)
何が私の運命を決めるのか!? [因果の道理]
人の数だけ生きざまがあります。
順風満帆の人生を謳歌する人もあれば、
迷走しているようにしか思えず、
悶々と過ごす人もある。
いずれにしても、「人生不可解なり」
を痛感する人は多いでしょう。
一体、自分の運命を生み出しているのは何か。
その謎を解く答えを、今回は仏教に学びます。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
「どうしてこんなに不公平なの?」
運命の違いはなぜ生じるか
「小学生の頃、背が低いのがイヤで、
親に苦情を言いました。
中学や高校になれば自然に伸びると言われ、
自分でもできるだけの努力はしましたが、
結局、大人になっても小さいまま。
もう少し背が伸びれば違った人生が送れたのでは、
と今でも思います」
「友達の家族旅行はいつも豪華なのに、
家は経済的に厳しくて、
日帰り旅行さえ行けない。
親には悪いと思いながら、
どうしてこの家に生まれたのかと思っていました」
人間誰でも、さまざまな劣等感を抱いて生きています。
生まれた時から差別があり、
自分より恵まれた人を見ては、
不公平感を味わうからです。
こんな運命の違いは一体、どこから生じるのでしょう。
その謎のカギを解くのが、
お釈迦さまの説かれた因果の道理です。
●答えは仏教に
お釈迦さまは、2600年前、インドに現れられた。
35歳でさとりの最高位である仏覚を成就され、
80歳で涅槃に入られるまでの45年間、
説かれた教えを仏教という。
今日、7000余巻の一切経となって書き残されています。
その膨大な一切経の根幹が「因果の道理」です。
根がなければ木は枯れ、
幹を切れば倒れてしまうように、
仏教を一本の木とすれば、
根幹の「因果の道理」が分からねば、
仏教は絶対に分からないし、
親鸞聖人の教えも全く分からなくなるのです。
「因果」とは、原因と結果のこと。
どんな結果にも必ず原因があり、
原因なしの結果は万に一つもない。
たとえ太平洋の真ん中に墜落、
沈没した飛行機の事故原因が
究明できなくても、
原因不明とは言っても、原因なしとは言いません。
どんな結果にも例外はなく、原因はあるのです。
次に「道理」は三世を貫き
十方をあまねく真理をいいます。
三世は過去、現在、未来「いつでも」ということ。
千年前も今も、何万年後も変わらぬことを「三世を貫く」
といいます。
十方は東西南北上下四維のあらゆる方角をいい、
「どこでも」ということです。
(※四維とは、北東、北西、南東、南西のこと)
地球上、どの国に行っても、たとえ宇宙へ飛び出しても
不変なのが「十方をあまねく」ものです。
時空を超越して間違いのない真理を道理といい、
この道理に立脚して仏教は説かれています。
とりわけ仏教の因果律は、
私たちの運命に関する
因果関係を教示されているのです。
善因善果(善い原因は善い結果を生み出す)
悪因悪果(悪い原因は悪い結果を生み出す)
自因自果(自分のまいた因は、自分が刈り取らねばならぬ)
スイカの種をまけばスイカが生え、
大根の種をまけば大根ができる。
スイカの種から大根が出てきた国は聞いたことがないし、
そんな時代もありえない。
いつでもどこでも種に応じた結果が現れる。
これが「善因善果、悪因悪果」です。
「自因自果」は、善いも悪いも、
自己に現れる結果の一切は、
皆、自己がまいた種によるのだ、
ということです。
一般に「自業自得」ともいいます。
●運命を生み出す原因とは
ここでいう原因や結果とは何でしょう。
原因とは我々の行為であり、
結果は一人一人の運命をいいます。
私の運命を決めるのは、
ほかでもない私の行為なのです。
行為と聞けば、一般には身体の行いと思いますが、
仏教では心と口と身体の三通りあると教えます。
この身口意によって造る行為(三業)が、
目に見えない力(業力、業因)となって、
私たちの阿頼耶識というところに蓄えられます。
阿頼耶識はインドの言葉で「蔵」のこと。
阿頼耶識とは、私の業力を全て蓄える蔵のような心です。
過去、現在、未来にわたって続く永遠不滅の生命の流れ、
と教えられ「暴流(ぼうる)のごとし」と説かれています。
暴流とは滝のことです。
遠くから眺めれば、
一枚の白い布を垂らしたように見える滝も、
実際には無数の水滴が激しく変化しながら
流れ落ちています。
そのように阿頼耶識は、
私たちの身口意の行為を
次から次と業力としておさめ蓄え、
絶えず変化しながら続いていくのです。
この三世を流れる阿頼耶識に蓄積された業因が
縁と和合し、結果を現します。
縁とは業因が結果となるのを助けるものをいいます。
例えば米という結果の直接的な原因はモミダネですが、
それだけで米はできません。
土や水、空気、陽気や農家の方の手間ひまなどがそろって、
ようやく実りを手にできるのです。
これらを縁といいます。
“そんなバカな・・・行いが力となって残るなんて”
と思う人もあるでしょうが、
見えない業力に、縁が加わって
目に見える結果となることを、
古歌を通してこう教えられています。
年毎に
咲くや吉野の 山桜
木を割りてみよ
花のありかは
桜の名所といえば奈良の吉野山。
ある人が冬に花見をしに出掛けたが、
枯れ木のような桜が突っ立っているだけ。
“花はどこだ”と木を一分刻みに砕いてみても、
一片の花びらも出てはこなかった。
しかし、それらの木が春の陽気に触れると一斉に開花し、
山全体が桜に彩られるのです。
冬の間は、花を咲かせる力として桜の木にあった、
その色も形もない力が、
春の陽気という縁と結びついた時、
桜花と現れたのです。
我々の運命も同様に、各人の阿頼耶識に
蓄えられた目に見えない業因に、
縁が結びついた時、
結果となって現れることをよく知ってください。
●火の車(苦境)を
つくっているのは誰?
さて、この因果の道理に例外が一切ありません。
幸せも不幸も全ては
自分のまいたタネ(行為)の結果なのです。
どんな苦しみも、自因自果にほかならぬことが、
こんな歌にも詠まれています。
火の車
造る大工は なけれども
己が造りて
己が乗りゆく
「あの家の台所は火の車だ」と言うように、
苦しい状態を火の車といいます。
そんな火の車(苦境)を造って
私に与える大工(他者)はいない。
そうなる業因が私にあったから、
そういう結果が私に起きたのだと教えられるのです。
●「現在」に
「過去」と「未来」がおさまる
この因果の道理を深く知れば、
必ず「廃悪修善」の心が起きます。
「廃悪」とは悪をやめること、
「修繕」は善に向かうことです。
誰もが不幸を厭い、明るい未来を求めて
生きていますから、
幸せを得るには善を実行しなさい
と教えられるのです。
この廃悪修善の心の強弱が、
仏教を本当に分かっているか否かの
バロメーターだといえるでしょう。
冒頭の疑問にも通じることですが、
自分に現れる結果の一切は、
過去の自らの行為が生み出したもの。
未来、私が受ける運命の原因は、
今、私がつくり続けているのです。
これをお釈迦さまは、
「汝ら
過去の因を知らんと欲すれば現在の果を見よ。
未来の果を知らんと欲すれば現在の因を見よ」
(因果経)
と説かれています。
過去の種まきを知りたければ、現在の結果を見よ。
未来が知りたければ、現在の種まきを見ればよい。
これは、この世だけでなく、
各人の三世を貫いていることです。
三世と聞くと、親、子、孫の三世代のことと
思う人がありますが、
仏教では、一人一人に過去世、現在世、未来世の
三世があると教えています。
今の自分に分かるのは今生だけですが、
それぞれが違った運命(結果)を背負って生まれてきたのは、
それを生み出した過去世が間違いなくあったからです。
それを表す、こんなエピソードが経典に説かれています。
●過去の私が
現在の私をつくった
釈尊(釈迦)の十大弟子で「多聞第一」と
うたわれた阿難尊者は、
お釈迦さまに随行すること25年に及んだ。
多聞第一とは、最も数多く聞いたという意味でなく、
釈尊の説法を正確に聴聞し、
一言も忘れなかったということである。
頭脳の明晰さ、記憶の確かさに他の弟子たちは驚き、
それはなぜかお聞きすると、
過去世に次のようなことがあったからだと、
お釈迦さまは仰せられている。
昔、ある僧が一人の修行者に教育していた。
僧は非常に厳格で、毎日時間を定めて修行させ、
もし彼が日課どおりにしないと、すぐに厳しい訓戒を加えた。
修行者にはそのほかに、毎日、村々を托鉢し、
師匠と自分の生活の糧を求めねばならぬ、という仕事があった。
日課どおりに修行できねば厳しく叱られ、
托鉢もできないので、修行者は大変だった。
ある時も、師匠からひどく叱られ、
泣きながら歩いていると、一人の富豪に出会った。
修行者の様子に不審をもった富豪が訳を尋ねると、
苦しさのあまり、彼は次第を打ち明ける。
ふびんに思った富豪はこう提案した。
「よろしい、そんなことで苦労しているのなら、
明日からお師匠様とあなたの食べ物は、
全部私が供養しよう。
だから、あなたは安心して、一生懸命修行されるがよい」
富豪の言葉に彼は慶喜し、
直ちに帰って話したところ、師僧も大変感激し、
師弟ともにいよいよ修行に励んだのであった。
お釈迦さまはこう話されてから、
「その時の師匠の僧は定光仏であり、修行者は私の前身である。
そして、2人供養し続けた富豪こそ、
実に阿難の前身である。
その時の布施の功徳で今、多聞第一の評価を得たのである」
と教えられている。
万人を驚かせる徳とは、一朝一夕の努力で
備わるものではありません。
遠い過去世からの精進あってこそです。
このように、過去世の種まきによって
今生(この世)の運命が決まり、
この世の種まきによって未来世が作られるのです。
この仏教の「三世因果」の道理が正しく理解されますと、
いかに「現在」が大切かが知らされましょう。
ゆえに、親鸞聖人の教えを聞き、
真実の仏法を知らされたならば、
よりよい未来を求め、一層、
光に向かって進まずにおれなくなるのです。
“どんなに頑張っても無意味だよ”
とか“適当にやり流せ”というような退廃的なアキラメ主義は、
そこからは出てきようがありません。
常に全力主義、努力主義で、
光に向かって無限に向上進歩できるのです。
では、何が善か。
どのような言動が幸せの種まきになるのでしょう。
それをお釈迦さまは詳しく教えられています。
それが仏法です。
教えのとおりに実践するには聞法が大事ですから、
より一層、真剣に仏法を聞いていくことが
何より大切なのです。
Q&A
「こんなことも自因自果なの?」
前章で学んだように
「善因善果 悪因悪果 自因自果」
の因果の道理は、億に一つも例外はありません。
しかし、いざ不幸や災難に直面すると、
なかなかそうは思えないものです。
本当に例外はないのか。
ここからは読者の質問を通して、
より深く、因果の道理を学んでみましょう。
Q1.親の因果が子に報いるのでは?
五歳くらいまでの子供は無心で生きていると思いますが、
よい親に恵まれる子供もいれば、
悪い親に育てられる子供もいます。
このような場合、因果の法則は適用されるのでしょうか。
むしろ親の因果が子にたたっているように思えますが。
(福岡県・88歳男性)
(回答)
先日、新聞でベトナムのドクちゃんの記事を読みました。
ベトナム戦争でまかれた枯葉剤の影響で結合双生児として
生まれてきたベトちゃんとドクちゃんは、
ベトナムと日本の医師による共同手術で足の分離に成功。
その後、ベトちゃんは亡くなりましたが、
ドクちゃんは成人して結婚し、
2人の子供に恵まれ、元気に暮らしています。
日本に対する感謝から、子供には富士山と桜を意味する
名前がつけられたと記事にはありました。
人間の運命ほど分からないものはありません。
中でも、どんな親の元に生まれ育てられるかは、
その後の人生に大きな影響を与える一つでしょう。
さまざまな苦しみから、
「なぜ、こんな家に生まれたのか」
と親を恨んでいる人もあるでしょう。
私が生まれた因縁は?
私が人間に生まれたのは、一つの結果です。
この結果は、どんな因縁によって生じたのでしょうか。
常識的には、父を因とし、母を縁として私がうまれたと
思われるでしょうか。
実はそうではありません。
全く同じ因縁からは、同じ結果しか現れないはずですが、
同じ両親から生まれた兄弟でも、
顔や体型がまるで違うことがよくあります。
一卵性の双子で顔や背丈は一緒でも、
性格や好みは随分違うものです。
もちろん、その後の人生は、その人の行動によって
まるで変わってきます。
仏教では、私たちは過去の行い(宿業)を因とし、
父母を縁として、この世に生を受けたのだと教えられます。
このような両親の元に、このような私として生まれた因は、
過去に私自身がまいた種にあったのです。
父母は縁であり、決して「親の因果(種まき)が子にたたって」
いるのではありません。
「五歳くらくまでの子供は無心で生きているのでは」
と仰いますが、どっこい私たちの魂の歴史は非常に古く、
子供といっても過去無量劫(果てしなく長い間)の業を
もっているのです。
生まれた時から、兄弟でも驚くほど性格が
バラバラで嗜好も千差万別なのは、
皆、本人が背負ってきた宿業の違いによるのです。
その過去の業を因とし、今の両親を縁とし、
私たちはこの世に生を受けたのです。
無論、両親という縁が私の運命に与える影響は大きなもので、
決して親は無関係ということではありません。
また、親が造った業の結果は、
親自身が受けていかねばならないことは
言をまちません。
親もまた因果の法則の中で生きているのですから。
この機会に、私が生まれた因と縁とを、
深く考え直してみてはいかがでしょう。
Q2.交通事故の場合はどうなの?
自因自果はよく理解できましたが、
交通事故による死傷はどのように考えるのでしょうか。
自分では管理できないことだと思います。
(大阪府・70歳男性)
(回答)
こちらは法定速度を守って優先道路を走っていたのに
脇道から一時停止無視の車が飛び出してきて衝突したり、
歩道を歩いていた児童の列に
暴走車が突っ込むという痛ましい事件が、
時々耳に入ってきます。
「被害者に何の非があるか。
こんなことも自因自果なのか?」
と、やる方ない気持ちになるのもよく分かります。
事故の責任は暴走車にあることは間違いありませんし、
運転手の犯した罪が許されるはずはありません。
ではなぜ、これらも自因自果なのでしょうか。
衝突事故の例で考えてみますと、
私の前にも後にも車は走っていましたが、
それらの車は事故に遭わなかった。
私が事故に遭った原因は、無謀運転の車が飛び出す、
ちょうどその時その場所を通ったという、
私の行為そのものなのです。
その時、そこを通る「業」があった
ではなぜ、その時その場所を私は通らねばならなかったのか。
それは、そんな「業」を私がもっていたからにほかなりません。
無謀運転の車はこの場合、悪い縁です。
同じ道を走りながら事故を免れた前後の車は、
幸いにして縁がなかったといえるでしょう。
では、そんな悪縁と結びついて
事故を引き起こした「業」とは何なのか、
と考えてみても、
私たちは過去にまいた自分の種まきを、
ほとんど忘れています。
しかし、結果が起きたということは、
それ相応の原因を過去において
自ら造ったことに間違いないのです。
遅い、早いの違いはあっても
お釈迦さまは、まいた種が生える時期には前後があることを
「順現業」「順次業」「順後業」と説示されています。
順現業とは、現在世でまいた種の結果が
現在世ですぐに現れるもの。
順次業とは、現在世の種まきが次の生で現れるもの。
順後業は、現在世でまいた種の結果が、
ずっと後の生で現れるものをいいます。
おととい食べた夕食さえなかなか思い出せないのに、
私たちの永遠の生命に蓄えられている業は
過去無量劫からのもの。
記憶にないのも当然ですが、
たとえ覚えていなくとも、原因は厳しく結果を開く。
遅い早いの違いはあっても、
まいた種は必ず生えるのです。
まいた種によって結果の出る時期は違う
○順現業・・・現在世でまいた種の果が現在世で現れる
○順次業・・・現在世の種まきが次の生で現れる
○順後業・・・現在世でまいた種の果がずっと後の生で現れる
さらに、まいた種の生え方に二通りあると、
お釈迦さまは教示されています。
一つは「等流因等流果」。
これは、まいた種(因)と現れる結果が同質のものをいいます。
例えば、「殴ったら、殴り返された」
「悪口を言ったら、悪口を言われた」などです。
これは分かりやすい。
もう一つは「異熟因異熟果」。
これは、因と果が異質なもので、
例えば「悪口を言ったら、財布を落とした」
「泥棒したら、家が火事に遭った」など、
単純には因と果の関係が分からないものをいいます。
まいた種の生え方
○等流因等流果・・原因と結果が同質なもの
「殴ったら殴られた」
「盗んだら盗まれた」など
○異熟因異熟果・・原因と結果が異質なもの
「悪口言ったら財布を落とした」
「泥棒したら火事に遭った」など
「なぜ私がこんな目に?」と思うのは、
異熟因異熟果の場合が多いでしょう。
しかし結果が同質であれ異質であれ、
善因には善果、悪因には悪果を生み出すことに
変わりはありません。
「さるべき業縁の催せば、如何なる振舞もすべし」
(歎異抄)
“縁さえ来れば、どんなことでもする親鸞だ”
の聖人の告白は「もたぬ悪業はない」
という深刻な自覚であり、
どんな悪果を受けても文句の言えぬ私が、
こんなに恵まれるとは不思議の中の不思議・
ゆえに、善果が来た時は仏祖のご加護と感謝し、
悪果が現れた時は過去の自分の種まきと懺悔し、
反省努力するのが、因果の道理を深信する
真の仏法者であると教えられているのです。
心で思ったことが運命を決定づけている! [因果の道理]
(真実の仏法を説かれている先生の書かれた「とどろき」より載せています)
競争社会にもまれながら、
たくましく生き遂げる人、
転落の人生をたどる人。
その差はどこで生じるのでしょう。
実は、たった一つのボタンのかけ違いから
始まっているのかもしれません。
イヤなことが起きた時、
あなたは「幸せの選択」をしていますか。
それとも、「不幸の選択」を・・・。
「ボク」と弁護士の物語から、
お釈迦さまの説かれた
「因果の道理」を学びましょう。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
■プロローグ
「共通の特徴」
ボクがその弁護士に出会ったのは、
ある傷害事件がきっかけだった。
当時、仕事も恋愛もうまくいかず、
やけを起こしたボクは、
若い店員の態度にカッとなり、
突き飛ばして大ケガを負わせたのだった。
相手はだれでもよかった。
ただ世間を恨み、のろっていた。
本当はボクが苦しんでいることを、
だれかに分かってもらいたかったのかもしれない。
ひとしきり事情を聞き終えた彼女は
説教するふうでもなく、こんな話をしてくれた。
「例えば事業で借金を抱えた時、
立ち直る人と立ち直れない人には、
共通の特徴があるの。
立ち直れないのは、
『国が悪い、法律が悪い、景気のせいだ』
と不満をぶちまけるだけの人が多い。
でも立ち直る人は、そういった状況を認めながら、
では自分にできることは何か、
と次の一手を打ち始めるんです」
「ふーん・・・。
他人や世の中のせいにしないってことですか」
小さくうなずいて彼女は続けた。
「他人のせいにする。
イヤなことが起きた時、だれもが陥る思考ね。
でもその一歩が、運命の方向を決定づけるのよ。
自分でも気づかぬ最初の一歩。
けれど一度踏み出したら容易には抜け出せない、
不幸の選択を・・・。
もっとも、私もあんまり偉そうなことは言えないけど、ね」
そう言って彼女は優しくほほえんだ。
「不幸の選択?
じゃあ、そこで別の選択をしたら・・・」
「そう。運命は決して偶然に
決まるわけじゃないんです。
お釈迦さまの説かれた
『因果の道理』って知っているかしら」
ボクは首を横に振った。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
あなたが最も知りたくて、最も分からないもの、
それは「運命のしくみ」ではないでしょうか。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
一本早い電車に乗って事故に遭うこともあれば、
わずか数秒乗り遅れて命拾いすることもある。
地震で家の下敷きになる人もあれば、
慌てて飛び出し、車にはねられる人もある。
「運命のいたずら」といわれますが、
人間の運命ほど不可解なものはありません。
どうすれば幸福な運命が得られるのか。
不幸や災いは、どうして起きるのか。
その法則を明らかにされたのが、
お釈迦さまの説かれた「因果の道理」なんです。
■因と縁が和合して果を生じさせる
「因果」とは、原因と結果ということ。
「どんな小さな結果にも、必ず原因がある。
原因なしに起きる結果は、
万に一つ、億に一つも絶対にない」
これはいつの時代、
いかなる場所でも変わらぬ真理であると、
お釈迦さまは教えられています。
だから何の原因もなしに結果が生じるという意味の
「偶然」や「奇跡」を仏教は認めません。
すべて必然であり、一つとして例外はないのです。
当たり前のようですが、ここは大切なところなので、
忘れないでください。
そこで、もっと詳しく、
結果の生じる仕組みを聞いてみましょう。
因果の道理は、
正確には「因縁果の道理」といわれます。
原因なしに起きる結果は絶対ありませんが、
因だけでは結果は生じません。
因に縁が結びついて、初めて結果が現れると
お釈迦さまは説かれています。
お米を例に考えてみましょう。
米はモミ種から作られますから、
米の因はモミ種です。
しかし、いくらモミ種があっても、
畳の上にまいていては何十年待っても、
米という結果は得られませんね。
土や温度、水や空気など、
いろいろな条件がそろって初めて、
お米が取れます。
仏教では、これらのものを縁といいます。
すべてのことは、因と縁が和合して、
初めて結果が現れる。
これを「因縁果の道理」といい、
「因果の道理」は縁を因に含んだ言い方なのです。
■行為(業力)が運命をつくる
因とは、私たちの行いのことです。
「行為が運命を生み出す」
これがお釈迦さまの明らかになされた真理です。
どうして、行いが運命を生み出すのでしょうか。
その仕組みは、こうです。
行為のことを仏教では「業」といいます。
私たちのやった行為は
目に見えない力・業力となって残り、
決してなくなりません。
その不滅の業力はすべて、
私の本当の心に蓄えられる。
そして縁と結びついた時、
目に見える結果(幸・不幸)となって現れるのです。
パソコンには容量に限度がありますが、
私たちの本当の心には容量は限界がありません。
そこに、毎日造り続けている数え切れないほどの業力が
蓄えられているのです。
この本心は、遠い過去からはるかな未来へと
流れていく不滅の生命です。
80年か100年で滅びる肉体は、
永遠の生命の流れから見れば、
滔々と流れる大河の水面にポツンと生じ、
パッと消え去る泡のようなものにすぎません。
この不滅の生命に蓄えられた業力が、
縁と結びつき、私のさまざまな運命を生み出すことを、
仏の智慧によって明らかにされたのが、
お釈迦さまです。
あなたの運命は、あなた自身の行い(業力)が
生み出したものであり、
ほかのだれが与えたものでもないのです。
■行為に三つある。
中でも重いのが「心で思うこと」
一口に「行い」といっても、
仏教では三つあると教えられます。
「身、口、意の三業」といいます。
身業とは身体でやる行い。
口業とは口で話すこと。
普通「行い」と聞いて思い浮かべるのはこの二つですね。
ところが仏教ではもう一つ、意業を教えられています。
意業とは、心でいろいろ思うこと。
これも行いであるとお釈迦さまは説かれています。
例えば、外面には出さなくても深い悩み事で
体調を崩したり、好悪の感情が相手に
伝わったりすることがあるでしょう。
「思う」ことには「力」があるのです。
しかも仏法で最も重視するのは、
身体や口の行いよりも心の行いです。
なぜでしょうか。
心で思ったことを身体で行い、口が言う。
心はあらゆる行為の元だからです。
火事に例えれば、心が火の元であり、
口や身体は火の粉。
口や身体は心の奴隷であり、
責任は心にこそあるからです。
心で日々思っていることこそ、
私たちの運命を大きく左右していると
知らねばなりません。
お釈迦さまは、業力は大象100頭に勝ると教えられ、
何ものもあらがえなぬ強い力だと言われました。
親鸞聖人が尊敬されている中国の善導大師という方は、
自己の「心」を凝視され、こうおっしゃっています。
「一人一日のうちに八億四千の憶いあり」
一日に八億四千回心が変わり、
いろいろなことを思っている。
それらすべて目に見えない業力となって、
あなたの本心におさまり、ぐいぐい、ぐいぐいと、
あなたの運命を生み出しているのです。
毎日心で何を思っているかを克明に振り返ることが、
この先の運命を知る大事な手がかりといえるでしょう。
■イヤなことが起きた時、
他人のせいにする人はますます苦しむ
因と果について、お釈迦さまは、
「善因善果
悪因悪果
自因自果」
「よい行いは、よい結果(幸せ)を、
悪い行いは、悪い結果(不幸や災難)を生み出す。
よいのも悪いのも、自分に現れる結果のすべては、
自分の行いが生み出したものである」
と教えられます。
私たちは、よい結果がきた時は
「善因善果、自因自果」と素直に認められます。
では悪い結果がきた時はどうでしょう。
他因自果のように思うのは縁を恨んでいるのです。
最初にお話した「因縁果の道理」を思い出してください。
「オレが苦しんでいるのは、あいつのせいだ」
「社会が悪い」「世間が悪い」と恨んでいる
「他人」や「世間」は全部、縁です。
もちろん悪縁を避け、改善する努力は大切ですが、
運命はあくまでも、私の行為(業力)が因となって
生み出されることを忘れてはいけません。
そうやって他人を恨み、のろっている心も
業力となってあなたの本心におさまり、
それが口や身体の行いとなれば、
その業は善いタネでしょうか。
悪いタネでしょうか。
「秋葉原で人を殺します」
6月8日、東京・秋葉原の歩行者天国で、
無差別に17人を殺傷する史上最悪の
通り魔事件を起こした犯人は、
犯行に至る心の道程をつぶさに
携帯サイトにつづっていました。
(平成20年のとどろきより載せています)
家庭環境、雇用不安、格差社会、希薄な人間関係。
さまざまに原因は論じられますが、
未曾有の凶行まで彼を引きずり込んだのは、
彼自身のつくった業力に違いありません。
苦しみを他人のせいにする。
自分でも気づかぬ最初のその一歩が、
運命の方向を決めるものです。
しかも一度踏み出したら容易には抜け出せません。
男は自分の否定的な感情や不満を、
何千と携帯サイトに書きつづり、
慰めを求めました。
ところが結果は逆。
ほとんどが無視か挑発で、心の傷口を広げ、
さらに吐いた言葉が自分を縛る。
ネットが悪縁となり、ますます孤独を深めた
彼の思考と行動はエスカレートし、
最後とんでもないところまで行き着きます。
「惑業苦(わくごっく)」という言葉を知っていますか。
「惑い」が「業」(悪い行い)を生み、
「業」が「苦しみ」を生む。
その「苦しみ」がまた「惑い」を生み、
さらに悪の「業」を造る。
このような輪をぐるぐる回って
地獄まで堕ちていくことを
仏教で「惑業苦」と言うんです。
無差別事件に及んだ若者も、
まさに惑業苦で苦しみが増幅され、
制御不能になっていったのではないでしょうか。
●イヤなことが起きた時、
自分を反省し行いを変える人は幸せになる
反対に、苦しみがやってきた時、
過去の己のタネまきを反省し、
行いを変える人は必ず未来が開けてくるでしょう。
言うまでもなくそれは「自虐主義」とは違います。
「全部オレが悪いんだ。オレはダメな人間だ」
と自分を責め、落ち込むことではありません。
悪いタネまきをやめ、よいタネをまいていく。
向上に努力する。
身口意の三業を前向きに転じていく。
それが自分の行いを反省し、
行いを変えるということです。
ある会社の研修では、毎日の日誌「感謝」
という二字を入れる決まりがあるそうです。
ほんのささいなことでも、毎日何かに感謝する人と、
だれかを恨み続ける人。
結果が同じはずはありません。
かりに秋葉原の犯人が、携帯サイトに毎日、
ちょっとでもいい、
前向きな言葉を書き込み続けていたら
どうなっていたでしょうか。
全く別の人生が開けていたのではないでしょうか。
あなた自身の三業、特に心の中の思いが、
あなた自身の運命を生み出しているのです。
幸せの選択をするか、不幸の選択をするか。
すべては、あなた自身にゆだねられていると
いってよいでしょう。
■エピローグ
「ありがとう」
その日から、ボクの人生は少しずつ変わっていった。
イヤなことが起きるたび、
ボクは自分の言動を振り返り、
どんな小さなことでも改善点を見つけていった。
努力することが楽しくなった。
あの時、ボクに因果の道理を教えてくれた彼女の心を、
後で人づてに聞いた。
「もちろん、失意の人を励まし、
法的に支援するのが私の大切な仕事よ。
でもね、『自分の行いが自分の運命を生み出す。
あなたの未来はあなた自身が切り開いていくんですよ』
というメッセージは、
それ以上にその人を助けることになると
信じています」
ありがとう。
ボクは心の中で、何度も繰り返した。
運命のしくみと仏法 [因果の道理]
(真実の仏教を説かれている先生の書かれた「とどろき」から載せています)
本誌編集部には、毎月多くの感想や質問が寄せられます。
今回は、昨年11月号の特集
「因果の道理~何が運命を決めるのか」
を読まれた方から届いた二通のお便りを通して、
より深く「運命のしくみ」について学びましょう。
(感想1)
「因果の道理」について分かりやすくまとめてあり、
よく理解できていなかったことも、
ストンと心に落ちました。
ですが、つらく苦しいことが重なると、
「どんな悪いことをしたっていうの!?」
と、泣きたくなることもあります。
身に起きる苦難を、どう受け止め、
乗り越えていけばよいでしょうか。
(広島県・44歳女性)
(感想2)
私は過去にたくさんの過ちを犯してきました。
『とどろき』で「因果の道理」を知らされ、
現在の苦しみは、その結果と受け止めることができ、
心が楽になりました。
しかし業の深い私は、
未来にもっと大きな苦しみがあるのではないかと、
不安も感じています。
こんな私でも幸せになれるでしょうか。
(岐阜県・28歳女性)
どちらも、昨年11月号の内容を
真摯に受け止められての感想です。
この号とご縁のなかった方もあるでしょうから、
まず、「因果の道理」についておさらいしましょう。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
因果の道理とはどんな教え?
「因果の道理」は、仏教の根幹です。
「仏教」とは、約2600年前、インドに出現された
お釈迦さまの一代の教えです。
「根幹」とは、根であり、幹のこと。
仏教を一本の木に例えたならば、
因果の道理は根や幹に当たります。
根や幹がなくなれば、木は倒れてしまいます。
釈迦一代の教えは、7000余巻の一切経に
全て書き残されています。
その一切経を貫いている根幹の教えが因果の道理ですから、
この因果の道理が分からねば、
仏教も親鸞聖人の教えも毛頭、分かるものではありません。
因果とは、「原因」と「結果」のこと。
どんなことにも必ず原因があり、
原因なしに起きる結果は絶対にありません。
まかぬ種は絶対に生えませんが、
まいた種は必ず生える。
これが「因果」ということです。
道理とは、仏教で、三世十方を貫くものをいいます。
いつでも(三世)、どこでも(十方)変わらぬ真理です。
時や場所によって異なるものは、
道理とはいいません。
いつの世も、どの国でも変わらない。
地球上のみならず、たとえ宇宙に飛び出しても
間違いないことが「道理」です。
仏教の因果の道理は、
特に私たちの幸福についての原因と結果の関係を
詳しく教えられています。
私たちが最も知りたいのは、
どうすれば幸福になれるか、ということでしょう。
幸福こそすべての人の願いであり、
人生の目的だからです。
これらについて、
お釈迦さまは次のように教示されます。
善因善果(善い因をまけば、善い結果が現れる)
悪因悪果(悪い因をまけば、悪い結果が現れる)
自因自果(自分のまいた因の結果は自分に現れる)
因とは、我々の行為のこと、
果とは、我々に現れる種々の運命をいいます
(仏教では本来、運命とはいいませんが)。
私の身に起きる禍・福(幸・不幸)は、
すべて私の行為が生み出したものであり、
これに万に一つも例外はない。
これが仏教の説く因果の道理です。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「私がどんな悪いことをしたの?」
つらい目に遭うと必ずこう思うけど・・・
寄せられた疑問1
つらく苦しいことが重なると
「私がどんな悪いことをしたっていうの!?」
と、泣きたくなることもあります。
身に起きる苦難を、どう受け止め、
乗り越えていけばよいでしょうか。
■ ■ ■
共感される人は多いでしょう。
苦しいことが立て続けに起きると、
「どうして私ばかりこんな目に?」「自因自果とは思えない」
と思う気持ちはよく分かります。
しかし、私に無関係なことが
私に起きる道理はありません。
しかも私のまいた種の結果が他の人へ行く「自因他果」や、
他人のまいた種の結果が私に現れる「他因自果」は絶対にない、
とお釈迦さまは教えられています。
受験戦争や就職難を勝ち抜くには、
自分が勉強し、面接を受けねばなりません。
周囲を励まし、応援も大切ですが、
当の本人の努力なしに、
合格も採用もありえないのは当然でしょう。
フーテンの寅さんに、こんなセリフがあります。
「おまえと俺とは別な人間なんだぞ。
早え話がだ、俺がイモ食って、
おまえの尻からブッと屁が出るか?」
(松竹映画『男はつらいよ』第1作より)
歌手の西城秀樹さん(59)は、
脳梗塞からの過酷なリハビリの心境を、
次のように告白しました。
「リハビリは全部つらいですよ。
体が鉛のように重いから、歩くだけでもつらい。(中略)
リハリビ中は根気しかない。
こんだけ根気あって、こんだけ努力するんだったら、
東大でもどこでも受かっちゃうよ(笑)」
苦痛に耐えて朝7時に起き、
最低1時間は公園を歩いた。
トレーニングに励むのも、ほかならぬ自分のため。
つらいからといって、他人にお金を出して
やってもらっても意味がありません。
オリンピックでのメダル獲得は、
選手自身が何年も練習に汗を流したたまものでしょう。
だから、自己の行為が自身の運命を生み出す
「自因自果」「自業自得」と
誰でも一応は納得していますが、
ひとたび不幸に見舞われた途端、
受け入れられなくなるのです。
どう考えても
「あいつのせい」としか思えない・・・・
例えば、こんな場合。
いつも飲んだくれのばくち打ち、
家庭内暴力を振るう夫によって、
気立てのよい奥さんが毎日苦しめられている。
彼女自身も、周囲の人たちも、
「あの夫のせいでひどい目に遭っている。
『他因自果』ではないか」
と思います。
しかし、これも間違いなく自因自果。
なぜでしょう。
まず、因果の道理は正確には、
「因縁果の道理」であることを、知らねばなりません。
「一切法(万物)は、因縁生なり」(釈尊)
「全てのものは、因と縁が結合して生じたもの」
と、お釈迦さまは仰せです。
例えば携帯電話なら、一台あたり約600個の部品(因)と、
それらの組み合わせる作業(縁)によって完成(果)するように、
全ては「因」と、それを助ける「縁」がそろって
初めて生まれています。
私たちの運命も同じです。
どんな悪い男がいても、結婚さえしなければ、
奥さんの現在の不幸はありません。
そんな男の妻になったのは、
彼女自身が「好きになって結婚した」から。
その行為が原因で、今の不幸という結果となった。
夫は大変な悪縁ですが、原因はあくまで、
奥さん本人にあるのです。
「そんなの、結婚するまで分からないでしょ。
運が悪かったのよ」
と身の不遇を恨み、嘆き、
あきらめてしまう人は多いかもしれません。
しかしその「運」とは何か。
誰が決めているのか。
運命の原因は過去の自己の業(行為)なのだ。
そのわが身のまいた因を明らかに見なさいと
仏教はおしえられているのです。
他の女性は、その男のために苦しんでいないのですから、
その奥さんだけが持つ原因があって、
不幸を生み出しているのです。
では、悪い夫は無罪放免なのか。
もちろんそうではありません。
このようなダメ夫(悪縁)は、
種々働きかけて更正させる努力が必要なのは当然です。
どうにも無理なら、遠ざけたり、
いっそ縁を絶つ(離婚)方法もありましょう。
「他因自果ではないか」と思う人のほとんどは、
因と縁とを混同している場合が多いようです。
ここが分からないと、筋違いな恨みや呪いを抱いて
一生を棒に振る人もありますから、
よくその違いを知っていただきたいと思います。
●悪い種まき
忘れていませんか?
また、自因自果と思えぬもう一つの理由に、
過去の悪い種まきを忘れていることが挙げられます。
「善い種をまいているのに、不幸ばかりやってくる」
と不満を漏らす前に、
自分のまいた種を静かに振り返ることが大事、
と仏教では教えられるのです。
アメリカの政治家、ベンジャミン・フランクリンに、
「貸し手は借り手より常に記憶がよい」
という格言があります。
お金を貸したほうは、
「あなたに、○年○月○日、○時○分、
あの場所で○円貸した」
と、死ぬまで覚えています。
ところが借りたほうは、
「あれ、そんなお金借りたっけ?」
と忘れがちです。
人間は、自分の都合のよいこと(善因)は、
しっかり覚えていても、
都合の悪いこと(悪因)は忘れやすい。
しかし、たとえ忘却しても、
まいたタネは必ず生えるのが因果の鉄則です。
私たちの肉体は、食べ物によって作られる。
食べた物(原因)の結果は、
5年も10年も後に現れるといわれる。
「簡単で、安く、おいしい」インスタント食品や
ファーストフードは好まれますが、
食品添加物が多く、害も多い。
安易にこれらを口にしては、すぐには体調不良にならずとも、
将来の病気の種にはなります。
ところが私たちは先週食べたものさえよく覚えていないので、
生活習慣病が発覚すると、
「なぜ、オレがこんなことになったのか」
と、診断結果に当惑するのです。
全ては自分の種まきに違いない。
他人が食べた物のせいでないのは明らかです。
そういうイヤな結果を変えたければ、
原因を変えよと因果の道理では教えられます。
「善因善果 自因自果」
は間違いありませんから、
努めて善い種まきに励みましょう。
誰でもすぐに実践できる善い種まきを一つ紹介します。
仏教で教えられる「和顔愛語(わげんあいご)」です。
にこやかな笑顔と明るい挨拶が世の中を楽しくする、
と言われます。
わずかな心がけで、誰でもできる種まきから
始めてはどうでしょうか。
「そんなささいな種まきで、幸せになれるものか」
といぶかる人に、お釈迦さまはこんな例えで教導されています。
多根樹という大樹で有名な村へ、
お釈迦さまが赴かれた時のこと。
柔和な釈尊のお姿に接した貧しい主婦が、
昼食のために用意していた一握りの
「麦焦がし」を差し上げた。
釈尊は弟子の阿難に向かって、
「この女は今の善根によって、やがてさとりを開くであろう」
と仰った。
そばで聞いた女の夫が腹を立て、
「そんな出任せ言って麦焦がしを出させるな。
取るに足らぬ布施でどうしてそんな果報が得られるか」
と食ってかかる。
釈尊は静かに、
「あなたは世の中で、
これは珍しいというものを見たことがあるか」
と聞かれると、男は得意になって言った。
「あの多根樹ほど不思議なものはない。
一つの木陰に500両の馬車をつないでも、
まだ余裕があるからだ」
「そんな大きな木だからタネは、ひきうすぐらいあるだろう。
それとも飼い葉おけぐらいかな」
「とんでもない。そんな大きなものではない。
ほんのケシ粒の四分の一ほどしかない」
と男は答える。
「そんな小さなタネから、
そんな大木になるとは誰一人信じないだろう」
と仰ると、男はムキになり、
「誰一人信じなくても俺は信じている」
と大声で反発した。
ここで釈尊は言葉を改められ、
「どんな麦焦がしの小さな善根でも、
やがて強縁に助けられて、
ついにはさとりを開くこともできるのだ」。
当意即妙の対機説法を聞いた夫婦は、
直ちに仏弟子になり真実に生きたという。
(※対機説法とは、相手に応じて教えを説くこと)
「千里の道も一歩から」というではありませんか。
ちょっとした種まきの積み重ねで、
人生は大きく変わっていくものです。
「和顔愛語」以外にも、
仏教ではたくさんの善が勧められています。
教えをよく聞き、日々よい種まきに努めれば、
待つ春の慈光(じこう)に浴して、
満開の花があなたの心にも咲くでしょう。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「こんな私でも幸せになれる?」
「縁」の大切さを学ぶ
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
前半では、未来を変えるために
すぐ実践できる善い種まきを学びましたが、
すでにまかれた多くの悪因に
悩んでいる人もあるかもしれません。
しかし、
「どうせ、なるようにしかならない。これが人生よ」
と自暴自棄になる必要はありません。
ここでしっかり反省することが、「禅定」という、
これも善い種まきなのです。
過去を変えることはできませんが、
過去の種まきを反省し、正しい教えに従って、
ただ今から善い因(たね)を根気よく一生懸命まけば、
必ず人生は好転するのだよと、
お釈迦さまは励ましてくださいます。
次の質問から、特に縁の大切さについて話をしましょう。
寄せられた疑問2
業の深い私は、未来にもっと大きな苦しみが
あるのではないかと不安もあります。
こんな私でも幸せになることができるのでしょうか。
この疑問にお釈迦さまは、
どう教えられているのでしょう。
前述の通り、「因果の道理」とは、
詳しくは「因縁果の道理」で、
私たちの因が縁と結びついて結果を表すということです。
私たちの行為(因)を変えることによって
結果は大きく変わりますが、
縁によっても結果は大変わりします。
例えば、コシヒカリという名のモミダネを
新潟県の魚沼地方で育てますと、
全国でも有名で高値のつくおいしいお米になる。
ところが、そのコシヒカリのモミダネを
乾燥した国外へ持っていって育てても、
同じコシヒカリかと思うほど、
味が落ちてしまいます。
湿度や日照時間、水や土の質など育つ条件(縁)が変われば、
結果がガラリと変わるのです。
ある学習塾の先生が、中学生ほどの学力もない女子高生を、
難関の慶応大学へ合格させ話題を呼びました。
女子高生は「聖徳太子」を「せいとくたこ」
と読むような状態でしたが、
その先生の指導によって、
学力が一気にアップしたといいます。
先生によって、勉強が好きになったり、
嫌いになったりした経験のある方も多いでしょう。
スポーツや芸術でも、指導者によって随分変わってきます。
本人の才能や努力はもちろん大切ですが、
その才能を育てる人(縁)もまた重要なのです。
学力アップを切望する人は、
教え上手な先生の塾に通ったり、
切磋琢磨するライバルがたくさんいる学校を選んだり、
スポーツ選手なら、コーチやチームなど、
向上できる環境を選ぶのです。
「朱に交われば赤くなる」。
親鸞聖人は、悪人には近づくなと
教誡(きょうかい)されています。
「『悪をこのまん人には、慎みて遠ざかれ、
近づくべからず』とこそ説かれて候え。
『善知識・同行には親しみ近づけ』
とこそ説きおかれて候え」 (末灯鈔)
(「悪を好む人には、できるだけ近づくな、
善知識や同行には親しみ近づくがよい」と説かれている)
好んで悪に走る人からは遠ざかり、
本当の仏教を説かれている先生(善知識)や、
ともに仏法の話ができる法友は
大いに親しみ近づきましょう。
縁によって、結果が驚くほど変わってしまうものに
炭素という物質があります。
地球上に無尽蔵にある炭素は、
常温・常圧の下では、炭です。
ところが、大変な高温と高圧の下では、
なんと地上で最も硬く、高価なダイヤモンドと輝くのです。
元は全く同じ炭素とは、とても思えないでしょう。
縁次第で結果が大変わりする好例です。
●人生も縁次第
価値のない、無味乾燥に思える私たちの人生も、
縁次第で無限に輝く人生となる。
ヘエ、そんな縁があるのかと、疑問に思う人もあるでしょう。
親鸞聖人は、
「ある」と断言され、それは「弘誓の強縁」だ、
と仰っています。
主著『教行信証』の冒頭のお言葉です。
「噫、弘誓の強縁は多生にも値(もうあ)いがたく、
真実の浄信は億劫(おっこう)にも獲がたし」
(ああ・・・、親鸞は今、多生億劫の永い間、
求めてきた歓喜の生命を得ることができた)
「弘誓の強縁」とは、
「どんな人も 必ず 絶対の幸福に救う」
と誓われた、阿弥陀仏という仏さまの本願のこと。
私もあなたも一人も漏らさず、
すべての人と交わされた約束ですから
「弘誓(ひろい誓い)」と言われているのです。
人智を超えたその弥陀の本願には、
「幾多の生(多生)を経てもあえなかったが、今値えた。
気の遠くなるような長い間(億劫)にも得がたい絶対の幸福を、
今獲たぞ!」
と歓喜なされています。
幸せを求めながら悪業によって不幸へ突っ走る私たちを、
阿弥陀仏は、どこまでも追いかけ「堕としはしないぞ」と、
ものすごいお力で絶対の幸福に救い摂ってくださいます。
その阿弥陀仏の本願力は絶大ですから「強縁」と
親鸞聖人は仰り、その弥陀のお力をこうも讃嘆されています。
「願力無窮(がんりきむきゅう)にましませば
罪業深重もおもからず
仏智無辺にましませば
散乱放逸も捨てられず」(正像末和讃)
(どんなに罪や悪が重くとも、心が散り乱れても、
阿弥陀仏の願力は無限だから、必ず救い摂られるのだ)
例えば、石は必ず水に沈みますが、
どんな大きな石でも、それを浮かばせることのできる
巨大な船に乗せれば、
水に浮かびます。
阿弥陀仏の本願の大船は、
どんな煩悩の巨魁・罪悪深重の私でも、
そのまま絶対の幸福に浮かばせてくださるのです。
弥陀の本願は弥陀の大慈悲心によって
つくられた船ですから聖人は、
「大悲の願船」とも記されています。
その「大悲の願船」に乗られた親鸞聖人は
「大悲の願船に乗って、光明の広海に浮かんだ」
と仰り、
どんな業の深い人も弥陀弘誓の強縁にあえば、
天に踊り地に踊り、一息一息が大安心・大満足でるのだと、
不思議な弥陀の本願力を私たちに伝えてくださいました。
では、どうすれば、そんな素晴らしい身に
生かされるのでしょう。
親鸞聖人のお答えは、
「聞思して遅慮することなかれ」
こんな私でも本当に助かるのだろうか、
阿弥陀さまのお力でも無理ではなかろうかなどと、
迷い計らい、もたもたせずに、
仏法をひたすら聞き抜きなさいよと、
聴聞の一本道を示されています。
「仏法は足で聞け」
と教えられます。
人生の幸せ、不幸せを左右する仏縁ですから、
遠くへ足を運んででも仏法は聞きなさいということです。
そのうち聞くつもりだ、
この仕事が終わったら聞こうなどと思っていたら、
あっという間に人生は終幕を迎えます。
いつ悪縁に引かれて聞けなくなるか分かりません。
今、すぐにでも聞法会場へ体を運び、
まことの弥陀の本願を大切に聞き求めましょう。
・・・・・・・・・・・・・・・・
手記
厳しい「因果の道理」のバックには
弥陀の大慈悲がありました。
山森 貴さん(62・仮名)
誠実な人柄と、40年にわたる堅実な仕事ぶりを見込まれて、
経営者に抜擢されたという。
自宅には、500年前からのお仏壇があり、
蓮如上人直筆の御名号本尊がご安置されている。
ガソリンスタンドの経営者として多忙の中、
聞法に励んでいる山森 貴さん。
親鸞聖人のみ教えに出遇うまでは、
「人知れず消えてしまいたい。
そんなことばかり考えていた」
といいます。
一体、何があったのでしょうか。
年間約3万人ほどの日本の自殺者の中に入っていたはずの私が、
一枚のチラシを縁に、親鸞聖人と出会うことができました。
島根県雲南市の山奥に生まれました。
私が8歳の時、山で兄の切った大木が母の頭部を直撃。
頭の皮が剥がれ、悲惨な姿で、
私の目の前で母は息絶えました。
それから家の中は、母を亡くした父の悲しみと、
母を死なせた兄の苦しみで、
まるで鉛を抱えたような毎日でした。
母の死から五年、苦しみ抜いた兄は25歳で、
ある朝突然亡くなりました。
父も急な病で逝ってしまい、
私は20歳で天涯孤独となってしまったのです。
独りぼっちの私でしたが、やがて妻と出会い、
家を建て、3人の子供に恵まれました。
やっと人並みの幸福を手に入れたと思っていた矢先、
妻が腎臓を患い入院、7年の闘病の末、先立ってしまったのです。
末っ子が成人式を迎えた年でした。
妻と2人で過ごす老後、そんな夢ははかなく消え、
再び鉛のような重苦しいものが私の心を覆い、
自殺へと誘います。
「なぜ私だけこんなひどい目に。
どうせ私はみんなを不幸にする悪魔なんだ。
だから、今すぐ死んだほうがいい。
でも死ぬのは恐ろしい・・・」
鉛を抱えて13年、「もう限界」と思っていたその時、
一枚のチラシが届いたのです。
忘れもしません。
3年前の7月でした。
チラシの案内に従い、恐る恐る出かけた会場で、
アニメの親鸞聖人に出会いました。
「明日ありと 思う心の 仇桜(あだざくら)
夜半に嵐の 吹かぬものかは」
ああ親鸞さまも、お父様、お母様と
悲しい別れをなされたのですね・・・。
●鉛の心も
私が生み出していた
翌月も聞法に出掛け、初めて「因果の道理」を
聞かせていただきました。
「自分の運命の全ては、
自分の行為が生み出したものである」
と仏教では教えられます。
えーっ、この鉛のような寂しさも苦しさも、
全部、私が生み出したと言われるんですか!
午前中の話があまりに身にこたえ、
「もうその話はやめてください!」
と、何度、手を挙げて叫ぼうかと思ったかしれません。
しかし、それに耐えて続けて聞かせていただくにつれ、
不思議なことに、永年抱えてきたあの鉛の心が、
まるで太陽に照らされた雪のように消えていったのです。
厳しい「因果の道理」のバックには、
温かい阿弥陀如来の大慈悲がありました。
聞法の場が、まるで母の懐にいるような、
懐かしい、温かい所となりました。
こんな幸せな日が来るなんて、
全く予想もしていませんでした。
今、母と父と兄と妻に、
心から感謝の言葉を贈りたいと思います。
「ありがとう、身をもって教えてくれたんだね。
私の後生の一大事を」
死ぬことばかり考えていた私が、
「なぜ生きる」の答えをハッキリ知らされました。
鉛の心を、聞法の喜びに変えてくださった阿弥陀如来、
親鸞聖人に心より感謝せずにおれません。
この阿弥陀如来の大慈悲を、何としても多くの人に
伝えなければなりません。
かつて私のように鉛の心を抱えた人が、
すぐそばにも、きっといるはずだからです。
苦しいのは誰のせい!? [因果の道理]
苦しいのは
誰のせい?
新聞に人生相談が掲載され始めて100年がたつといわれます。
それだけロングランを記録するのは、
世の中がいかに様変わりしても、
次々やってくる人生苦悩の波は果てしないからでしょう。
苦しむために生まれたのか、そんなはずはない、
じゃあ何のために生きるのか。
見つからぬ答えに落胆し、アキラメながらも、
問い続けずにおれないのです。
そんな嘆きが、新聞紙上の人生相談から、
かいま見えます。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
▲ある20代女性の悩み
容姿が悪く、学校ではいじめられ、
職場でもうまくいきません。
母は私に過干渉で、父はすぐ感情的に私を怒る。
こんな暗い性格になったのも両親のせいだと思う。
世の中は女性を容姿で判断し、
それで人生が決められてしまうからつらい。
人生にはこうした悩みが多く寄せられています。
なぜ自分はこんなつらい運命を背負って生きねばならないのか。
両親のせい?
学校のせい?
職場のせい?
それについて仏教はどう教えられているのでしょうか。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
●人の運命と因果の理法
仏教とは、約2600年前、
インドに現れたお釈迦さまが説かれた教えです。
仏教とも、仏法ともいわれます。
「仏教は因縁を宗とす。
一切法を説くに因縁の二字を出でざるを以てなり」
(維摩経)
釈迦一代の教えを貫く根幹は、
因果の理法であるとハッキリ教えられています。
「まかぬタネは生えぬ」
原因なしに結果が現れることは絶対になく、
「まいたタネは必ず生える」。
原因は厳しく結果を開くと教えられています。
人生の幸福と不幸という運命は一つの結果であり、
それには必ず原因があります。
では何が原因で人は幸福になったり、
不幸になったりするのか?
誰もが知りたいことでしょう。
それについて仏教では、
自因自果
と教えられています。
これは自業自得ともいわれ、自分のやった行為(業)が、
自分の幸・不幸という一切の運命を決定するということです。
しかも原因(行為)と結果(運命)の関係は
善因善果
悪因悪果
自因自果
と厳然と説き切られます。
善い行いをすれば、善い運命(幸福)に恵まれ、
悪い行為は、悪い運命(不幸)を引き起こすということです。
ですから仏教では、幸せになりたいなら善行に励みなさい、
不幸や災難など悪い運命が嫌なら悪い行為は慎みなさいと、
「廃悪修善」を一貫して説かれるのです。
●因果の理法が
「分かる」とは
この因果の道理については何度も本誌に掲載してきましたので
「 善因善果
悪因悪果
自因自果」
「廃悪修善」と幾度も聞けば、
「もう分かったし、覚えている。
他の話はないのか」
と思われる読者があるかもしれません。
「仏教ではそのように教えられていると分かった」
というのも「分かった」ですが、
それは一つの知識として知っているにすぎません。
仏教では、教えのとおり実践するようになって初めて、
本当に「分かった」というのです。
因果の道理を自己の人生に引き当てて、
そのとおり実践するのは容易ではありません。
だからこそ、お釈迦さまは45年間、
7000余巻ものお経を説き続けられたのです。
昔、儒教で有名な白楽天が鳥窠禅師に、
仏教とはいかなる教えか問うた話は有名です。
鳥窠禅師がそれは
「廃悪修善」と答えると白楽天は、嘲笑しました。
「そんなことなら3歳の子供でも知っている」
すると鳥窠禅師は、
「3歳の童子もこれを知るが、
80歳の翁も、行うこと難し」
と即座に答えています。
「行うこと難し」
とは、因果の道理を受け入れ実践する難しさを示したものでしょう。
●因果の道理を
受け入れられない
まかぬタネは絶対に生えぬが、
まいたタネは必ず生える。
自身に起きた一切の結果は、
善いのも悪いのも、全て自分のまいたタネの結果なのです。
これをただの話として聞く分には、
誰も否定はしないでしょうが、
いざわが身に不幸や災難が降りかかった時、
自らまいたタネと本当に思えるでしょうか。
自因自果と受け入れられず、
「あいつのせいだ」
「こいつのせいだ」
と、苦しめた犯人探しをして、
その相手を恨み呪ってはいないでしょうか。
次に挙げるのは本誌読者Mさん(80代男性)の体験談です。
Mさんは、子供の頃、寺の日曜学校で覚えた
『正信偈』の意味を知りたいと、
ずっと求めておられた。
本屋を探してもよい本に巡り会えなかったが、
14年前本誌を知り
「親鸞聖人のみ教えがこんなに分かりやすく教えてもらえるとは・・・」
と喜ばれ、それから熱心に聞法されるようになった。
ところがある日、Mさんは病魔に襲われた。
手術は成功したが、なぜか微熱が続く。
再度診察を受けると、医師は“すぐに入院してください”
と言うばかり。
詳しいことを教えてほしいと問いただすと、
麻酔注射の際、注射針からばい菌が脊髄に入ったようだった。
症状は次第に悪化。
レントゲン写真では脊髄が真っ白に写るほどうみがたまり、
激痛で天井を向いたまま動くこともできない。
夜も眠れず、地獄の日々は三ヶ月に及んだ。
揚げ句の果てに歩行障害が残り、
Mさんは病院に対して、怒りと恨みで燃えたぎった。
病院側が謝罪したが、腹の虫は収まらぬ。
訴訟を起こし、病院側と徹底的にやり合うつもりだったという。
しかし、ふとMさんは思った。
何千人もいる患者の中で、
なぜ自分だけがこんな目に遭ったのだろう?と。
病院側にミスさえなければ、
自分が今、障害者となって苦しむという結果はなかった。
だから、不幸の原因は病院のミスにある、
と誰しも思うだろう。
しかし、それだけではその不幸が今、
自分に起きた、という運命の原因としては、
不十分であることに気づいたのです。
たとえ、病院側に落ち度があったにせよ、
もし自分がこの病院を選ばなければ、
被害者とはならなかった。
自分にとっては、ある事件の一つにすぎなかったろう。
なのになぜ、それが今、自分の身の上に起きたのか?
医療事故自体は、病院側に責任があるから、
徹底的にミスの原因を究明してもらわなければならない。
しかし、その原因が分かっても、
私が被害者となった原因は分からない。
病院が私だけを狙ったのではないのだから。
医療事故に原因が必ずあるように、
その事故が私の身に起きたのにも原因があったはず。
それは何か?
私自身の過去の行いという原因と、
病院のミスという縁が結びついて、
「今」「ここに」このような結果が起きたのだと
「自因自果」の仏説にようやく思い至ったといいます。
●一切の事象に「因」と「縁」がある
これを「因縁和合」と説かれます。
因果の道理とは、正しくは因縁果の道理といい、
因と縁がそろって結果が生じます。
一例を挙げれば、田んぼに米ができるのは、
春先にまかれたモミダネが因。
しかし、モミダネだけでは秋になっても米にはならぬ。
モミダネに土をかぶせ、水をやり、
日光を当て、適度に温度など、
もろもろの条件がそろってモミダネが米となる。
この土や水や日光に当たるのが縁です。
因だけでも結果は起きず、縁だけでも結果は起きません。
因と縁が結びついて、初めて結果が生じるのです。
自分に因がなければ、
自身の上に結果が現れることは絶対にありません。
「病院さえミスしなければ、私はこんな体にならなかった」
と恨みたくなるのは、心情的に分かりますが、
それは縁と因をごっちゃに考えているからなのです。
●「自因自果」と知らされ
心がスーと和らいだ
Mさんは言われます。
「医療事故の原因は、病院側にあったとしても、
その被害者が、なぜ私だったのか?
その原因は病院側には求めようもない。
こんな結果を受けねばならなかった訳が、
自分自身にあったはず。
それが業というものなのでしょう。
自分の業が、今、このように現れたに違いない。
『私が悪かったのか・・・』
そう思った時、病院や医者への恨みで張り裂けそうだった心が、
ウソのように和らいだのです」
さらに、
「訴訟を起こし賠償金を得ても、
弁護士に多額のお金を払えば、わずかなお金が手元に残るだけ。
それで苦しみが解消するわけもなく、
そのためにかかる時間や労力が無駄に思えました。
こんな体で裁判に臨んでも命を縮める。
残された体力と時間、お金で仏法を聞き、
人生の目的を果たすことにかけようと思ったんです」。
訴訟の取り下げを家族に伝えると、
家族は仏法に関心を持たれたそうです。
Mさんは言います。
「今思えば、私が最初に仏縁を結んだ『とどろき』には
三世因果の道理が書かれてありました。
私は親鸞聖人の教えに救われたのです。
残された人生、今度こそ真剣に聞かせていただきます」
◆ ◆
今現に起きている苦しい結果は、
過去のタネまきにほかならず、
それはMさんのように、明らかに見るよりほかありませんが、
これから先は今からのタネまきで、
どうにでも変わっていきます。
因果の道理を深く知らされるほど、
善い結果が現れた時は、仏祖のご加護と感謝し、
一層善果が来るよう努力するようになります。
また、不幸が来ても、恨んだり呪ったりせず、
もちろん泣き寝入りするのでもなく、
これまでの自己の言動や心の持ちようを反省・懺悔して、
明るい未来に向かって努力精進するようになるのです。
順境には感謝と努力、逆境には懺悔。
順逆どちらでも、Mさんのように、
人生の真の目的に向かって一層聞法精進する勝縁としたいものです。