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釈迦の説かれた「業力不滅」 [因果の道理]


動画を観られるとよく分かると思います。

(真実の仏法を説いてくださっています)

 

また、真実の仏法は慈悲でいっぱいなので癒されますし、

 

生活の指針にもなりますので、役立ちます。

 

そういう意味でも見られるといいですよ。

 

なぜブッダは「死後の世界はある」と説いたか。カルマから読み解く



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(真実の仏教を説かれている先生ご執筆の『とどろき』より載せています)

人知れず まいたタネも

   やがて花ひらく

 

        釈迦の説かれた

           「業力不滅」

 

●モラルの低下している世の中

 

最近世の中では、モラルが低下して、悪いことをしても、

誰も見ていなければかまわないと考える人が増えています。

匿名だからと、ネット上に他人の悪口を書いたり、

見つからなければ平気でスピード違反や

違法駐車をしている人もあります。

所詮は人相手で、「バレなければ何をしてもいい」のでしょうか?

また逆に、善いことをしても人が見ていなければ

何にもならないので、人が見ていないところでは、

善いことはしないほうがいいのでしょうか?

しかし、それでは余計苦しむことになりますよ、

と教えられているのが、仏教に説かれる「因果の道理」です。

 

●自業自得が納得できないのは

   2つのことを知らないから

 

因果の道理を端的にいうと

善いのも悪いのも、自分のまいたタネ(行い)が

自分の運命を決める、自業自得である」ということ。

大体のことは自己責任と了解していても、

それでも「こんなことは自業自得と思えない」と、

感じることも多いと思います。

それは2つのことを知らないからです。

その2つとは、まいたタネが生える時期と、生え方です。

お釈迦さまは、まいたタネが生える時期には前後があることを

順現業」「順次業」「順後業」と教えられています。

「順現業」とは、現在世でまいたタネの結果が現在世で現れるもの。
「順次業」とは、現在世のタネまきが次の生で現れるもの。

「順後業」とは、現在世でまいたタネの結果が、

ずっと後の生で現れるものをいいます。

仏教では、私たち一人一人に、悠久の過去と永遠の未来があり、

これを「三世」と教えられています。

「過去世」「現在世」「未来世」のことです。

「過去世」とは私たちが人間に生まれる以前の全ての過去のこと、

「現在世」とは、この世に生を受けてから死ぬまでのこと、

「未来世」とは、永遠の死後をいいます。

「三世」と聞くと、親、子、孫の3世代のことだと

思う人もありましょうが、仏教の「三世」は、

一人一人に過去・現在・未来の三世を貫く

生命があるということで、この三世を通じて変わらない真理が

「因果の道理」である、と説かれています。

私たちは過去世の記憶はありませんが、

たとえ覚えていなくても、「善因善果 悪因悪果 自因自果」は

寸分の狂いもありません。

遅い早いの違いはあっても、まいたタネは必ず生えるのです。

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●まいたタネの2とおりの生え方

 

もう一つお釈迦さまが教えられているのは、

まいたタネの生え方に2とおりあることです。

1つは「等流因等流果(とうるいんとうるか)」です。

これは、まいたタネと同じような生え方をするものをいいます。

例えば、「殴ったら、殴り返された」

「悪口言ったら、悪口を言われた」という生え方です。

もう1つは「異熟因異熟果(いじゅくいんいじゅくか)」です。

これは、まいたタネと異なった生え方をするもので、

例えば「悪口を言ったら、財布を落とした」「泥棒したら、

家が火事に遭った」という生え方です。

そして、「等流因等流果」より「異熟因異熟果」のほうが

はるかに多くあります。

ですから複雑なものほど、原因と結果の関係を知るには

深い反省が必要ですが、因果の道理に狂いはないのです。

では、なぜ行いが運命を生み出すのでしょうか。

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●1度やった行いは決して消えない

 

前回の記事でお話ししたように、仏教では、

行為のことを「業」といいます。

身体でやる行いが身業(しんごう)、

口で話す行いが口業(くごう)、

心でいろいろのことを思う行いが意業(いごう)です。

これらの心と口と身体の行いを「三業」といいます。

中でも仏教では、心を最も重く見ます。

口や身体を動かしているのは心だからです。

これらの三業は、いずれも目に見えない「業力」となって残り、

決してなくなりません。

これを「業力不滅」といいます。

その不滅の業力は全て、「阿頼耶識」という心に

蓄えられるのだと仏教では教えられます。

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●あなたの行いを蓄える秘密の蔵

 

阿頼耶識(あらやしき)」の、「アラヤ」とは

昔のインドの言葉で蔵のこと。

「識」は心のことですから、

阿頼耶識とは蔵のような心ということです。

肉体の命は、約80年ですが、この阿頼耶識は、

悠久の過去から永遠の未来へと流れていく

不滅の生命であり、私たちの本心です。

この永遠の生命の流れから見れば、約80年の人生は、

とうとうと流れる大河の水面にポツンと生じ、

やがてパッと消え去る水泡のようなものです。

不滅の業力を蓄える阿頼耶識こそ、肉体が滅びても、

滅びない永遠の生命なのです。

しかし阿頼耶識は、固定不変の霊魂ではありません。

変化しながら続いていきます。

これを「暴流(ぼうる)のごとし」と教えられています。

「暴流」とは滝のようなものです。

滝は遠くから見ると1枚の布のように見えますが、

実際は激しく流れていて、いっときとして同じ水ではありません。

阿頼耶識は私たちの造る業力をおさめて、

絶えず変化しながら続いていくのです。

この阿頼耶識に、私たちが日々造り続けている

業力が蓄えられ、やがて縁が来た時に、

未来の運命を生み出すのです。

縁とは、業力が結果になるのを助ける条件のようなものです。

 

●縁が来ると目に見えない力が

  目に見える運命を生み出す

 

目に見えない業力が、縁が来た時に運命を生み出すことを、

このような歌で分かりやすく教えられています。

 

年毎に

咲くや吉野の 山桜

木を割りてみよ 花のありかは

 

「吉野」とは、奈良県の吉野山です。

毎年春になると、山全体が桜で覆われる名所ですが、

冬に訪れると、枯れ木のような木々が立っているだけ。

一体どこに花びらを隠しているのだろうと

木の枝を刻んでみても、桜の花はどこにも見つかりません。

ところが木の中には、目に見えない精力が蓄えられていて、

春の陽気という縁に触れると、満開の花を現すのです。

同じように、業力も目には見えませんが、

縁が来た時に目に見える運命を生み出します。

その業力の強さは大象100頭に勝ると教えられています。

縁が来るのに早いか遅いかの違いはありますが、

誰も業力を止めることはできません。

善い行いは、目には見えませんが善業力となって

やがて必ず幸せな運命を生み出し、

悪い行いは、悪業力となって必ず悪い運命を引き起こすのです。

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●幸せを生み出す方法

 

ですから、バレなければ何をしてもいいということは

全くありません。

人が見ていなくても、悪いことをすれば悪業力となって

阿頼耶識に蓄えられ、やがて必ず不幸や災難を

引き起こします。

逆に、人が見ていなければ善いことをしても

何にもならないということもありません。

善い行いをすれば、目に見えない善業力となって、

縁が来ると必ず幸せな運命が花開きます。

正直者がバカを見ることは絶対にないのです。

出てこないのはまだ縁が来ていないだけです。

縁が来れば結果が現れますので、

今は思いどおりにならなくても腐らず、

できることから1歩ずつ、日々の努力を重ねていくことが

大事なのです。

 

●お釈迦さまが仏教を説かれた目的

 

お釈迦さまが仏教を説かれた目的は、

阿弥陀仏の本願を説いて、生きている時に、

極楽往き間違いなしの絶対の幸福に救うことでした。

その絶対の幸福に導くために、因果の道理を説かれ、

善い行いをしなさいと勧められているのです。

最も大切なのは、仏法をよく聞くこと(聴聞)ですが、

日常、聞くご縁のない時は、教えのとおりに実行し、

光明輝く浄土へ向かって精進いたしましょう。


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施しは生きる力の元と知れ [因果の道理]

    施しは

     生きる力の

       元と知れ

 

         布施のこころ

 

経済大国日本で、心の貧しさを象徴する事件が

日々報道されています。

警察白書によると、刑法犯は過去10年間で100万件増加し、

戦後最悪の記録を更新中。

とりわけ路上強盗やひったくりは10年前の4~5倍に上っています。

(2004年2月のとどろきです)

その要因として、多くの識者は〝他人を思いやる心、

我慢する心を持ち合わせない青少年の増加〟を挙げ、

自己中心的な人が増えていることを警告しています。

 

2600年前、布施の大切さを説かれた釈尊。

自分の損得ばかりを考えている我利我利亡者は、

決して恵まれませんよ。

他人を喜ばせよう、幸せにしようとする利他の心を持ちなさい、

と仏教では教えられます。

 

物は豊かになりましたが、目に見えないところで、

大切な何かが、急速に失われつつあるのではないでしょうか。

いつの時代も、だれにとっても大切な「布施のこころ」を

学びましょう。

 

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●仏教を一貫する廃悪修善の勧め

 

昔、中国に、いつも樹上で、座禅瞑想していた

鳥窠(ちょうか)という僧がいた。

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ある日、儒者で有名な白楽天が、その樹下を通って、

ひとつひやかしてやろうと思った。

「坊さんよ、そんな高い木の上で、目をつむって座っていては、

危ないではないか」

鳥窠は、

「そういう貴殿こそ、危ないぞ」

と切り返す。

この坊主、相当偉いのかもしれぬ、と見て取った白楽天は、

「私は名もなき白楽天という儒者だが、

貴僧の名を承りたい」

と尋ねると、

「私は鳥窠という名もなき坊主だ」。

これが有名な鳥窠禅師と知った白楽天は、

かねてから仏教に関心を持っていたので、

「いい所で貴僧に会った。一体、仏教とは、

どんなことを教えているのか、一言でお聞きしたい」

と頭を下げた。

鳥窠は即座に、

もろもろの悪をなすことなかれ、

謹んで善を修めよ、と教えるのが仏教である

と答える。

白楽天、いささかあきれて、

そんなことくらいなら、三歳の子供でも知っている

と冷笑すると、鳥窠すかさず、

三歳の童子もこれを知るが、八十の翁もこれを行うは難し

と大喝しています。

 

●仏教の根幹は因果の道理

 

仏教を一貫するものは、因果の道理です。

 

善因善果 

悪因悪果 

自因自果

 

因とは私たちの行為のこと。果は果報、

つまり、私たちの受ける幸福や不幸という運命です。

幸福という運命は、善い行いが生み出したものであり、

不幸や災難は、悪い行いが引き起こしたものなのです。

神というものがいて運命を造ったのでもなければ、

先祖のたたりで不幸になるのでもありません。

自分の運命のすべては、自分の行為が生み出したもの

であると教えられます。

これは三世十方を貫く真理です。

この真理に立って、廃悪修善を勧めているのが仏教です。

 

●あらゆる善を六つにまとめると

          六度万行

 

では、何をすればいいでしょうか、

という私たちの疑問に釈尊は、

たくさんの善を教え勧められています。

これが諸善万行です。

しかし、あれも善、これも善と並べられても、

私たちはどれから手をつけてよいか迷います。

ちょうど、服を買いに行っても、何百着も並んでいると、

目移りして選択できません。

そんな時、店員さんが気を利かせて、

数着候補並べてくれると選びやすいでしょう。

私たちが実行しやすいように釈尊が、

善を六つにまとめられたのが、

六度万行(六波羅密・ろっぱらみつ)です。

その六つを挙げ、現代語で表現すると次のようになります。

 

○布施・・・親切

○持戒・・・言行一致

○忍辱・・・忍耐

○精進・・・努力

○禅定・・・反省

○智慧・・・修養

 

この六つに数え切れぬほどの善がおさまっています。

しかも、どれか一つでも実行すれば、

六つ全部したと同じことになるのが六度万行の特色です。

中でも私たちがいちばんしやすいのは布施ですから釈尊は、

六度万行の最初に挙げられています。

 

●与えられるより、与える人が幸せの実を結ぶ

             財施

 

布施は、施すものによって、大きく財施と法施の2つに

分けられます。

財施とは、財を施す、つまりお金や物を人に上げることです。

名利のために千金を投げ出すは、髭をなでるより易く、

慈悲のために一銭を出すは、生爪はがるるよりも痛し

といわれるように、欲一杯の私たちが、命の次に大事にしている

金や財を人に上げるのはつらいことでしょう。

しかしそれを乗り越え、施すことが大きな善なのです。

因果の道理に狂いはありません。

まいたタネの結果は、その人自身に必ずもたらされます。

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●長者の万灯よりも貧者の一灯

       ーー大切なのは心

 

〝それは金や財に恵まれた人のことだろう〟

と思う人があるかもしれません。

しかし財施の功徳は決して、その量の多少で

決まるものではありません。

心こそ大切だと教えられます。

 

釈尊在世中、ナンダという貧女がいました。

街中の人が釈尊に灯を布施するのを見て、

自分も何とかしたいと、ある日、わずかな金を

恵まれたのを持って、油屋へ走った。

彼女の尊い布施の心に感激した油屋の主人は、

不足分を足して一灯分の油をくれました。

彼女は何とかそれで釈尊に一灯を布施することができ、

大変喜びました。

彼女の布施した一灯は、万灯の中に赤々と燃え、

明け方に万灯が皆消えたあとも、

ナンダの布施した一灯だけは、

なぜか消えません。

当番であった目蓮尊者は、どうしてもその火が消えないので、

不思議に思って釈尊に尋ねると、

「おまえの力では、とてもあの灯を消すことはできない。

四大海水を注ごうとも燃え続けるだろう。

なぜならあれは、四大海水よりも、なお大きな広済の心から

布施された灯火であるからだ」

と仰っています。

金持ちが万の灯を布施することも尊いが、

貧しい人が心から布施する一つの灯は、

もっと尊いことなのだと教えられているのです。

ここから、

長者の万灯よりも貧者の一灯」といわれます。

布施はお金や物の多寡(たか)ではなく、

心こそ最も大切なのです。

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●3つのことを

  忘れるほど功徳は大きい

     ーー施す時の心掛け「三輪空」

 

また、布施の心掛けとして釈尊は、「三輪空」を

教えられています。

分かりやすく言いますと、

 

○私が(施者)

○だれだれに(受者)

○何々を(施物)

 

この3つを忘れるように努めなさい、ということです。

そうしないと、

〝私があんなに苦労したのに〟

〝あの人、いつになったら礼を言うのか〟

〝あんな高価な物を上げたのに〟

と、腹を立て、罪を造ることになります。

3つを忘れれば忘れるほど、布施の功徳は大きいのだよ、

と教えられているのです。

 

●施しは、田畑に

   タネをまくがごとし

     ーー布施の相手「三福田(さんふくでん)」

 

ただしここで注意しなければならないことは、

相手構わずだれにでも優しく親切にしたり、

施しをすればよいのではありません。

例えば、放蕩息子に金銭を与えれば、

ますます堕落していくだけでしょう。

泥棒の手助けをしてよいはずがありません。

釈尊は布施の相手を「三福田」と説かれています。

 

○敬田(きょうでん)・・敬うべき徳を備えられた方

○恩田(おんでん)・・ご恩を受けた方

○悲田(ひでん)・・気の毒な人

 

最も敬うべき、計り知れないご恩を受けている方は、

無上仏の阿弥陀如来です。

この世も未来も、私たちの魂を救い切ってくださる方は

ほかにありません。

次いで親鸞聖人や蓮如上人など、その弥陀の救いを

命懸けで伝えてくだされた善知識方です。

また、両親や学校の先生など、陰に陽にお世話になっている方々。

病人や怪我人、災害や貧困で苦しむ人など、

気の毒な方に布施することも、大いにしなさいよと、

釈尊は教えられています。

ここでなぜ、布施の相手を田んぼに例えられるのでしょうか。

それはちょうど、田畑がまいたタネを

何倍もの収穫にして返してくれるように、

三福田に布施をすれば、その福徳は布施した人のものになり、

やがて大きな幸せの実を結ぶからです。

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●麦こがしと多根樹のタネ

       ーー布施の功徳

 

仏典にこんな話があります。

 

ある時、柔和な釈尊のお姿に貧しい主婦が、

昼食のために用意していた一握りの「麦こがし」を

差し上げました。

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釈尊は弟子の阿難に向かって、

「この女は今行った善根によって、

やがてさとりを開くであろう」

と仰いました。

そばで聞いていた主人が腹を立て、

「そんな出任せを言って麦こがしを出させるな。

取るに足らぬ布施で、どうしてそんな果報が得られるか」

と食ってかかる。

静かに釈尊は、

「あなたは世の中で、これは珍しいというものを

見たことがあるか」

と聞かれると男は得意になって、

「あの多根樹ほど不思議なものはない。

一つの木陰に500両の馬車をつないでも、

まだ余裕があるからだ」

と言う。

「そんな大きな木だからタネは、挽き臼ぐらいはあるだろう。

それともかいば桶ぐらいかな」

「とんでもない。そんな大きなものではない。

ほんのケシ粒の四分の一ぐらいしかない」

と答える。

「そんな小さなタネから、そんな大きな木になるとは

だれ一人信じないね」

と仰ると、男はムキになり、

「だれ一人信じなくともおれは信じている」

と大声で反発する。

ここで釈尊は言葉を改められ、

どんな麦こがしの小さな善根でも、

やがて強縁に助けられてついにはさとりを

開くことがもできるのだ」。

当意即妙の説法に、夫婦は直ちに仏弟子となったといいます。

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●焼けもせず、流されも、盗まれもしない不滅の宝

               ーー法施

 

もう一つの法施について説明しましょう。

法施とは、法を施す、つまり仏法を人に教えてあげることです。

財施も尊い善ですが、

「財は一代の宝、法は末代の宝」

といわれ、法施は財施に勝る功徳があると、

釈尊は教えられています。

お金や財は、生きている間は相手を喜ばせるものですが、

死ぬ時には輝きを失ってしまいます。

ところが、仏法は未来永遠の幸福に導く教えですから、

焼けもせず、流されも、盗まれもしない、

不滅の宝を施すことになるのです。

それはたとえ、自分で仏法を話すことができなくても、

真実の仏法が説かれる場所に人を誘って、

聞かせてあげることも尊い法施です。

また財を、仏法を広めるために使えば、

法施と財施の両方をすることになります。

こんな素晴らしい教えを、

自分だけ聞いているのはもったいない。

ぜひ皆さんにも聞いてもらいたいと、わが家を開放して

講師を招きご法話を開いたり、

聞法道場を建立するために財施をする。

これは、財施と同時に法施もすることになりますから、

その功徳は大変なものです。

昔から、自分の家で法座を勤めると、

その家の屋根に留まった鳥から、

床下の虫まで尊い仏縁を結ぶといわれているほどです。

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●「その土地を欲しいだけ

      黄金で埋めなさい」

       祇園精舎建立のドラマ

 

お釈迦様と巡り会い感激した給孤独長者という

富豪がありました。

ぜひ自分の国にも仏法を広めたいと、

精舎(寺院)を建立し寄進するため、

土地を探しました。

国中を回り、理想的な樹林を発見しましたが、

そこは祇陀太子(ぎだたいし)の所有地でした。

そこで祇陀太子に土地を譲ってもらうために、

八方手を尽くして懇願しましたが、

どうしても太子は承知しません。

しかも、長者があまりに熱心なので、

太子は難題をふっかけ断念させようとしました。

それでは、その地を欲しいだけ黄金で埋めなさい。

その分の土地を、その金と引き換えに売ろう

ところが長者は逆に大喜び、早速、その土地に

金貨を敷き詰めていったのです。

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驚いたのは祇陀太子。

土地の半ばまで黄金色に染まった時、

長者よ、待ってくれ。あなたは、そこまでしてだれに、

この土地を寄進するつもりなのか」。

お釈迦さまが仏のさとりを開かれ、

万人の救われる教えを今、説いておられます。

私は、この国に仏法を伝えたい。金や財は一時の宝。

真実の法は永久に輝く不滅の宝です。悔いはありません

太子の心は大きく動きました。

ああ、あなたがそれほど尊敬される釈尊とは、

どれほど偉大な方なのでしょうか。

もう金貨はけっこうです。残りの土地はお譲りします。

私にも布施の善を求めさせていただきたい。

この樹林の立ち木を精舎建立の用材に寄進します

こうして落成した壮大な建物が、有名な祇園精舎です。

ここで『阿弥陀経』『玉耶経』はじめ、多くの経典が説かれ、

仏法興隆に大きな役割を果たしました。

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●さん然と輝く、

    親鸞聖人のご一生

 

仏法を広める功徳の広大さを知れば、法施に生きる人が、

恵まれ生かされるのもうなずけます。

 

「まことに一人なりとも信をとるべきならば

身を捨てよ、それはすたらぬ」

           (御一代記聞書)

蓮如上人は、たとえ一人でも、信心決定したいと

仏法を求める人あれば、己の生活など顧みず、

命を懸けて説法しなさい。

決して生活できぬことなどない、必ず生かされる、

と仰っています。

法を受け取った人がほっておかないからです。

何億円でも買えぬ尊い教えを聞かせていただいたと

分かれば、財施せずにおれません。

生活の心配は要らぬどころか、恵まれすぎるほど恵まれ、

無上の道を歩ませていただくことができるのです。

あのたくましき親鸞聖人や蓮如上人を見れば明らかでしょう。

法施一筋の人生は、さん然と輝いているではありませんか。

 

財施も法施もともに善。

因果の道理に狂いなし。

まいたタネの結果は、他人のものにはなりません。

すべて、実行した人のものです。

恵む人は恵まれる。

生かす人は生かされる。

慕われ、愛され、幸福な人生を歩むことができるのです。

 

「施しは

  生きる力の 

    元と知れ」


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平凡な人生を輝くダイヤと転じよう! [因果の道理]

(真実の仏教を説かれている先生ご執筆の『とどろき』より載せています)

   平凡な人生を

     輝くダイヤと転じよう

 

      誰でも絶対の幸福になれる

        驚きの法とは?

 

今月は仏教に説かれる「運命の法則」を解説しています。

「因果応報」という言葉は、

「行為(因)に応じて、善悪の結果が現れる」

ということですが、過去の行為が運命を生み出す、と聞くと、

「運命は決まってしまって、もう変えられないのでは?」

「悪因を造ってしまえば取り返しがつかないのか」

と考える人もあるでしょう。

しかし私たちの運命は、「因」だけでなく「縁」がなければ

現れない、と仏教では説かれています。

お釈迦さまはこれを、

 

一切法(万物)は因縁生(いんねんしょう)なり

(全ては、因と縁が結合して生じたものである)

 

と仰っています。

因だけでは結果は生じないし、縁だけでも生じない。

この世の森羅万象は因と縁とが和合して

現れたものばかりなのです。

 

因と縁の関係について、米の栽培で説明しましょう。

米はモミダネからできます。

モミダネがなければ、米は絶対できませんから、

米の因はモミダネです。

しかし、モミダネだけあっても米はできない。

土や水、空気、陽気や農家の人の手間ヒマなど、

これらの縁がモミダネと和合して、

米という結果が生じるのです。

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昨今は米の「銘柄」や「産地」が宣伝されていますが、

「銘柄」は因の違いを、

「産地」は縁の違いをアピールしています。

果報が現れるには、因と縁が不可欠なのです。

 

●因だけで幸せな結果は現れない

 

大相撲で大関に昇進した高安関は、父親に勧められ、

15歳で角界入りした。初めは相撲一つに心が決まらず、

相撲部屋から7度の「脱走」。

逃げ帰った彼を、いつも父が送り届けていたという。

師匠の鳴戸親方は、そんな高安にあえて優しく応対していた。

「厳しくされていたら、今の自分がなかったかもしれない。

師匠はよく見ていてくれました」

と、その親方の心遣いに高安は感謝している。

入門の2年後、父の病気をきっかけに、

相撲に本気になり、同門の先輩、現・横綱、稀勢の里と

猛稽古を重ねて頭角を現していった。

(2017年7月のとどろきです)

相撲部屋に入門するのは相応の素質に恵まれた人たちです。

しかし彼らは、才能や努力(因)だけで

世に出られるわけではありません。

周囲で支えてくれる人たち(縁)があってこそでしょう。

特に、よき指導者との出会いは、

どの分野でも成功への大きな要素です。

野球やサッカーなどのチームスポーツでは、采配を振るう

監督の影響力は大きい。

勉強でも、成績最下位の学生が、優秀な塾講師と出会い、

現役で難関大学に合格した実話もあります。

また、スポーツでも勉強でも、ライバルがいれば、

互いに切磋琢磨して、より向上できる、ともいいます。

「孟母三遷」という言葉は、孟子の母親が子供の教育のために、

住まいを3度移った、という故事成語です。

墓地のそばに住んだ頃、幼い孟子は葬式の真似をし、

市場の近くでは商人の真似をした。

次に学校のそばに住むと、孟子は勉強するようになった。

「こここそ、わが子の住むべき場所である」と

母は満足したという。

このような環境や指導者を「縁」といい、

幸せな運命を開くには大切なことです。

仏教では縁を重要視して、こう教えられます。

善知識・同行には親しみ近づけ」(親鸞聖人・末灯鈔)

仏教を聞き求める時、一人では弱い心に流されがちになるが、

仏法を正しく説いてくださる師(善知識)や法の友(同行)と

接すると、徐々に心が前向きに調えられていく。

縁は選択できますから、真の幸福に向かう縁に

自ら近づいていくことが大切だと説かれているのです。

 

●因と縁の違いをよく知ることが大事

 

善い運命に恵まれると、因と縁の関係はよく納得できるでしょう。

ところが、悪果が現れた場合、因と縁を混同してしまうことが

往々にしてあります。

どういうことか、こんな例えで考えてみましょう。

 

ある夫婦の話。妻は人当たりもよく、

子供のしつけもキチンとして、夫にもよく尽くす良妻賢母。

ところが夫はささいなことでキレて暴力を振るう。

酒癖も稼ぎも悪く、挙げ句の果てにギャンブルで使い込む。

こんな夫に苦しむ妻を見て、周囲は〝ああ、お気の毒に・・・

奥さんはいい人なのにねぇ〟と言い、

悪いのは全面的に夫だと思う。

奥さん自身も、そのように考えるでしょう。

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でも、この妻の不幸の原因は本当に夫なのでしょうか。

そもそもこんな悪い男がいても、

関わらなければ実害はありません。

世の中に多くの女性がいても、

この男のせいで苦しんでいるのは、奥さんだけ。

他の女性にはなくて、この奥さんだけが持っている

原因があるのです。

それは何か。彼女がこの男と「結婚」したということです。

当初、〝あの男はやめたほうがいい〟

と忠告する人もありましたが、

なぜか彼女のほうから好きになり、結ばれた。

この「好きになる」というのは、理屈では

どうにも説明できないものがあります。

そんなダメ男を好きになる何かが、奥さんにあったのだと

仏教では教えられます。

夫はあくまでも「縁」なのです。

運命を生み出す原因は過去の自分の行為、と説かれていますが、

これをもう少し詳しく言うと、身、口、意の三業が、

目に見えない不滅の力(業力)となって残り、

その業因が縁と和合すると、目に見える運命となって

私たちに現れる、ということです。

夫婦の事例でいえば、妻が過去に造った業因が、

ダメ男を好きになる力となって結婚し、

現在、その暴力夫(縁)によって苦しむという

結果を生み出しているのです。

これは決して、この夫に責任がないというのではありません。

夫は実際に妻に迷惑をかけ、苦しめていますから、

彼に反省を促して矯正するのは当然です。

このことは、今の自分に落ち度はなくても、

過去に悪業を造っていれば、こんな悲劇は幾らでも

起こりえることを示しています。

たとえ自分の業因でも、

目に見えませんから、自分には分かりません。

そこで、目に見える加害者(悪縁)ばかりを

責めたくなるのでしょうが、それは無理からぬこと。

しかし、大切なのは、因縁果の理法に従って、

確かに自分に現れた幸不幸の因縁を

よく弁(わきま)えることです。

 

●縁が変われば運命が変わる

 

運命は因縁和合して現れる。

過去に造った業因は変えられませんが、

縁を変えることで、運命は大きく変わります。

すべての人が生まれた目的は、今あって明日なき、

はかない幸せではなく、いつまでも変わらぬ

「絶対の幸福」になるためです。

この絶対の幸福には、「弘誓の強縁」にあえば、

誰でもなれると、親鸞聖人は教えられています。

「弘誓の強縁」とは、大宇宙のすべての仏方の

本師本仏(先生)と仰がれる阿弥陀仏の本願(お約束)のこと。

阿弥陀仏は、「どんな人も 必ず絶対の幸福に救う」

と約束なされています。

この弥陀の本願力(弘誓の強縁)によって、

私たちは絶対の幸福になれるのです。

それはどういうことか。

こんな例えでお示ししましょう。

縁によって、結果が驚くほど変わってしまうものに

炭素という物質があります。

地球上に無尽蔵にある炭素ですが、

常温・常圧の下では、真っ黒な炭。

ところが大変な高温・高圧の下では、地上で最も美しく、

高価なダイヤモンドとなります。

元は同じ炭素(因)なのに、これほど違うのは、

温度や圧力(縁)が異なるからです。

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阿弥陀仏はすべての人を「煩悩具足の凡夫(煩悩の塊の人間)」

と見て取られ、そんな煩悩いっぱいの者を必ず絶対の幸福にする、

と約束されました。

その絶大なお力(本願力)によって、

絶対の幸福になられた時、親鸞聖人は、

〝弥陀の本願は何と強烈な縁(弘誓の強縁)であったのか〟

とこう宣言されています。

 

噫(ああ)、弘誓の強縁は多生にも値(もうあ)いがたく、

真実の浄信は億劫にも獲がたし。

遇(たまたま)行信を獲ば遠く宿縁を慶(よろこ)べ

                  (教行信証)

ああ・・・不思議なるかな、親鸞は今、多生億劫の

永い間、求め続けてきた絶対の幸福を得ることができた。

これは全く、弥陀の本願力によってであった。

深く感謝せずにおれない

 

〝阿弥陀仏の本願の強縁にあわずして、誰一人、

真の幸福にはなれない〟と明らかに知らされた親鸞聖人は、

仏教はこの阿弥陀仏の本願一つを説かれたのだと断言され、

ご自身も弥陀の本願一つを生涯、伝えられたのです。

 

では、弥陀の本願の強縁にあい、絶対の幸福に救われるには

どうすればいいのでしょう。

阿弥陀仏は、

「聞く一つで絶対の幸福にしてみせる」

と約束なさっています。

だから、阿弥陀仏の本願を「聞く一つ」です。

何の修行も要りません。

また、修行ができるような私たちではありません。

阿弥陀仏の本願聞く一つで、

どんな人も必ず絶対の幸福になれるのですから、

真剣に弥陀の本願を聞かせていただくことが肝要なのです。

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因果応報を味方につける! [因果の道理]

(真実の仏教を説かれている先生ご執筆の『とどろき』より載せています)


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  70歳からでも人生は変えられる

 

「今日の運勢は・・・」

朝一番のテレビから聞こえてくると、

ちょっと知りたくなります。

〝運命はどうして決まるのか〟は

どんな人もいちばん知りたいことでしょう。

その最大関心事について、仏教は実に論理的に

説かれていることをご存じですか。

19世紀ドイツの哲学者、ニーチェも、

仏教についてこう称賛しています。

「仏教は、歴史的に見て、ただ一つのきちんと

論理的にものを考える宗教と言っていいでしょう」

仏教では、今の自分の運命は過去の自分の行為が

生み出したものであり、今の行為が未来の運命を

生み出すのですよ、と教えられています。

 

  カーネルおじさんが

   教えてくれたこと

 

ところがそう聞いても、

「理屈はそうだけど、今更行いを変えたって

人生はそう変わるものじゃないよ」

という方もあるでしょう。

そんな思いは全く不要です。

老若男女、貧富貴賤など全く関係なく、

まいたタネ(行い)は、正直に結果を現しますから、

何歳になっても人生を変えることができるのです。

 

町で見掛けるケンタッキー・フライドチキン(KFC)の

入り口に、白いタキシードを着た

おじさん(カーネル・サンダース)の人形が立っています。

 

彼は40歳で、幹線道路沿いにガソリンスタンドをオープンし、

その一角に物置を改造した6席のレストラン・コーナー

「サンダース・カフェ」を始めた。

途中で息子の死、火災に遭うなどの困難を乗り越え、

51歳の時には、147席のレストランを再建。

客席を回り「私の料理がもしおいしくなかったら、

お代は要りません」と意見を聞きながら、

フライドチキンのオリジナル・レシピを完成させた。

ところが65歳の時、町外れに高速道路が通ると、

車と人の流れが変わって、客が来なくなり、

閉店を余儀なくされた。

無一文になったサンダースは、ワゴン車で寝泊まりしながら

各地を回り、フライドチキンのレシピを売り、

1本売るごとに幾らかの利益をもらう

ビジネス(フランチャイズ)契約を取りに回った。

1009回の断りを受け続けたが、73歳までにサンダースの

フライドチキンを提供する店は600店舗以上になった。

その後、自分の調理法が正しく行われ、

きちんと提供されているか、年間数十万キロの移動もいとわず

世界の店舗を見て回った。

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現在、ケンタッキー・フライドチキンは世界で

約1万8000店舗あります。

6歳で父が亡くなり、女手一つで3人の子供を養う

母を助けるために、家族にパンを焼いて大喜びされたのが7歳の時。

「おいしいもので人を幸せにしたい」との熱い思いが、

フライドチキンとなって世界中に広まったのです。

「人生は自分でつくるもの。

遅いということはない」(サンダース)

 

幾つになってもあきらめなければ、必ず道は開けるのです。

 

因果応報

  因(行い)に応じた果(幸・不幸)が現れる

 

その運命の法則を仏教では「因果応報」という言葉で

表しています。

「因果応報」は、仏教の根幹の教えである「因果の道理」から

出た言葉です。

根幹とは、根や幹ということ。

仏教を1本の木とすると、根っこがなければ、木は枯れ、

幹を切ったら、木は倒れてしまいます。

ですから根幹の「因果の道理」が分からなければ、

仏教の教えは一切分かりません。

では「因果の道理」とはどんなことでしょう。

「因果」とは、原因と結果ということ。

どんな結果にも、必ず原因がある、

原因なく結果が現れるということは、

万に一つもない。

飛行機が墜落して海底深く沈んでしまった場合など、

原因がわからないことはありますが、

原因が〝ない〟のではありません。

それは、「運命が、何によって決まるのか」という

誰もが知りたい問いについて例外ではありません。

 

「あの人は運がいい」とか、

「あいつは運が悪い」とよく言いますが、

運命というのは何の原因もなく、

ただの偶然で決まるものではないのです。

運命の原因と結果についてお釈迦さまは、

このように教えられています。

 

善因善果 

悪因悪果 

自因自果

 

ここで因とは行い、果は運命を表しています。

善い行いは善い運命となり、悪い行いは悪い運命を引き起こす。

例えば植物なら、ダイコンのタネをまけばダイコンが、

スイカのタネからは、スイカが出てくるということです。

これは、いつの時代でも、どこの場所でもそうでしょう。

江戸時代には、ダイコンのタネからカボチャの芽が出たはずだ、

とは誰も思いません。

同様に私たちの運命も、いつでもどこでも

必ず原因(行為)に応じた結果が現れるということです。

そして善いのも悪いのも、自分のまいたタネ(行為)は

自分が刈り取らねばならないのだよ(自因自果)、

とお釈迦さまは教えられました。

これを「因果応報」ともいうのです。

 

●幸せになれる6つのタネまき・・六度万行

 

では、どんなタネをまけば善果が得られるのでしょう。

お釈迦さまは、たくさんの善を、具体的に

誰にでもできる6つにまとめて教えています。

これを「六度万行」といわれます。

次の6つです。

 

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この6つの善行が、運命を好転させる行いであり、

このうちの、どれか1つを行うと、他の5つ全てを

修めたことになると教えられています。

お釈迦さまは自分ができそうな善を、

まず実行しなさいと勧められました。

今回はその最初に挙げられる「布施」について

解説します。

布施」には大きく分けると、お金や物、

無償の労働などを施す「財施」と、

正しい教えを説く「法施」がありますが、

最も身近で、物やお金を持たなくても、

誰もが心がけ一つでできる和顔愛語(わげんあいご)という

布施行を紹介します。

和やかな顔で接し、優しい言葉をかけることです。

高齢になり、施設に入って元気のなかったおばあさん。

朝、施設の職員が部屋の窓を開けると、

通学途中の子供が元気に笑顔で挨拶してきた。

その子供たちに心を開いたおばあさん、

毎朝、窓を開けて自分からも挨拶することを楽しみにし、

リハビリにも積極的になって、施設職員をも

喜ばせたという話があります。

子供の笑顔が、おばあさんを元気にし、

おばあさん自身も笑顔で挨拶することで健康を回復させ、

周りの人も幸せにしたのですね。

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ある元警察官は、毎朝、庭から道行く人に挨拶をしています。

それは、近所の人と心を通わせるだけでなく、

犯罪を抑止して安心を得るためだそうです。

泥棒が犯行をあきらめる一番の理由は

「近所の人に声をかけられた」「近所の人に顔をみられた」から。

あるホームセンターでは、店員がお客さんに笑顔で

挨拶するようにしたところ、年間の万引き被害額が

30パーセント減ったといいます。

どんな対策も、思うように効果が上がらず頭を抱えていた犯罪が、

笑顔と挨拶で減らせるようになったのですから、

善因善果、自因自果、和顔愛語の力が知らされます。

相手を思って声をかければ、犯罪を犯すような

ささくれだった心をも癒やすのでしょう。

 

  小さな善行を続ければ

   人生が変わる

 

「そんなささいなことで、変わるもんじゃないよ」

という声が聞こえてきますが、

小さなタネでもやがて大きな結果となります。

樹齢2000年ともいわれる屋久杉の縄文杉は、

大人十数人が手をつないでようやく囲めるほど、

太く大きい幹のものがあります。

しかしそのタネは米粒よりも小さなタネ。

そんな小さなタネから、時間がたつと考えられないほどの

大きな樹木に育つのです。

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ほんの少しの笑顔や挨拶、優しい言葉をかけることは、

ささいなことのようですが、そのタネまきは人生を大きく

飛躍させる可能性を持つのですね。

いつでもどこでも変わらない因果の道理を深く信じ、

従って、どんな小さな善でも心がけていけば、

必ず善果が現れ、幸せな毎日が送れるようになる。

「因果応報」を味方につけるとは、このようなことです。

だから今日から、否、ただ今から、

少しでも善いタネまきを実践していきましょう。

 

●縁を選ぶことも大事


ところで、原因が結果となって現れるには

」というものが必要です。

原因が結果となって現れるのを助けるものが縁です。

簡単な例を紹介すれば、コシヒカリという品種の

おいしい米のモミ種でも、育てる地域によっては、

米の味は変わります。

同じタネでも縁によって結果は大きく変わりますから、

縁を選ぶことも大事なこと。

詳しくは、次回更新時に解説いたします。

運命の一切は自分のまいたもの、

まかぬタネは生えぬと反省し、一つ一つ誠心誠意、

できることから着実に対応していけば、人生、

思わぬ道が開けてくるものです。

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幸せの花ひらく「因果の道理」を身につける [因果の道理]

    明日を変える 

      心のタネまき

 

                 幸せの花ひらく

           「因果の法則」を

             身につける

 

「実りある人生に」とは

誰もが願うことですが、

思うようにならないのも人生。

「七転び八起き」といわれても、

なかなか結果が出ないと、

「これも自分の運命か」

「私なんか、どうせダメ」

などとアキラメてしまうことも

少なくないのではないでしょうか

でも、お釈迦さまは

「どんな人も、

アキラメル必要はないのだよ。

人間に生まれてよかった、という

本当の幸福になれるのですよ」

と教えられています。

そのために説かれたのが仏教であり、

その根幹である運命の法則が

「因果の道理」です。

これを知ることで、今から

本当の幸福への道が開かれます。

未来は、自分の手でいくらでも

変わるのです。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

●「アキラメル」

     本来は前向きな意味だった!?

 

アキラメルという言葉は今日、消極的な意味で使われていますが、

元は仏教に由来することをご存じでしょうか。

仏教では「諦観(たいかん)」と書き、

「アキラカニミル」と読みます。

「因果の道理」を明らかに見よ、ということです。

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そうすれば、不幸や災難に遭っても、

迷信におびえたり、占いや霊能者にすがったりするような

生き方ではなく、反省すべきポイントをつかんで、

改善、進歩する、すがすがしい道が必ず開けます。

「明らかに見る」が縮まって「アキラメル」となったのですが、

本来、前向きな意味なのです。

その「因果の道理」とは、どんなことなのでしょうか。

 

●運命の法則「因果の道理」は

      仏教の根幹

 

仏教を1本の木に例えると、因果の道理は、「根」であり、

「幹」に当たります。

根がなければ木は枯れ、幹を切れば木は倒れます。

7千巻に上るお釈迦さまの一切経を貫いている教えが、

因果の道理なのです。

 

●「道理」とは変わらぬ真理

 

「道理」とは、三世十方を貫くもの。

「三世十方を貫く」とは、「三世」とは過去世、現在世、

未来世のことで、「いつでも」ということ、

「十方」とは東西南北上下四唯で、「どこでも」ということです。

(四唯・・北西、南西、南東、北東)

いつでも、どこでも変わらない真理を「道理」といわれます。

時代や場所によって異なるものは、道理とはいいません。

地球上だけでなく、たとえ宇宙に飛び出しても間違いないのが

「道理」です。

因果の道理は「道理」ですから、いつの時代、

どこの国の人にも当てはまります。

それは、現代日本の私たちも例外ではありません。

それはどんな法則なのでしょうか?

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●運命には原因がある

 

因果の道理の「因果」とは、「原因」と「結果」のことです。

因果の道理とは「全ての結果には必ず原因がある、

原因なしに起きる結果は万に一つもない」ということです。

例えば飛行機が海に墜落したという結果にも、

必ず原因があります。

原因なしに墜落することはありませんから、

多額の費用がかかっても、機体を引き上げ、原因を調査します。

もちろん原因不明ということはあります。

飛行機が海底深く沈んでしまえば、

墜落の原因を知ることはできないでしょうが、

原因が分からないことと、原因が無いこととは全く異なります。

エンジンが故障したとか、乱気流に巻き込まれたとか、

必ず何か原因があるのです。

この世のこと全て、どんな小さなことにも必ず原因があります。

中には、ほとんどの人が関心を持たない、

どうでもいいこともありますが、

私たちが最も知りたいのは、自分の将来の運命と、

その原因でしょう。

それさえ分かれば、未来の運命を

よいものにすることができるからです。

その運命の原因と結果の関係を教えられたのが、

仏教の「因果の道理」なのです。

 

●「行い」が「運命」を生み出す

 

私たちの運命と、その原因にどのような関係があるのか。

仏教では、こう教えられています。

 

善因善果 

悪因悪果 

自因自果

 

善因善果、悪因悪果」とは、

善いタネをまけば、善い結果が現れる。

悪いタネをまけば、悪い結果が現れる

ということです。

植物で例えれば、ダイコンの種をまけばダイコンが、

キュウリの種をまけばキュウリが出てくる。

ダイコンの種をまいてキュウリが生えることも、

キュウリの種をまいてダイコンが出てくることもない。

まいた種と同じものしか生えてはこないのです。

だから、まいたものを知れば何が出てくるか分かるし、

出てきたものを見れば、まいた種も分かります。

ここでお釈迦さまが「因」といわれているのは、

私たちの「行い」のこと。

「果」とは「運命」のことですから、

善い行いは善い運命(幸福)を、悪い行いは

悪い運命(不幸)を生み出す。

善いことをして悪い運命が引き起こることもなければ、

悪いことをしたのに、善い運命が現れることもない。

ですから苦しみを逃れるには、悪い行いをやめ、

幸せになるには、善い行いをすればいいのです。

 

●成功も失敗もすべて「自業自得」

 

最後の「自因自果」とは、

まかぬ種は生えぬ。刈り取らねばならぬ一切は、

自分のまいたものばかり

ということです。

いつまでも寝ていたいのに、起きて仕事に出掛けるのは、

自分が働けばそれだけ収入が得られるし、

サボればクビになるからでしょう。

自分が一生懸命勉強すれば、自分の成績が上がるのであって、

友達が勉強しても自分の成績は上がりません。

毎日、添加物の多い物やお菓子ばかり食べていれば、

体を壊すのは本人で、他人が病気になることはない。

まいたタネは必ず自分に現れます。

これを「自業自得」ともいいます。

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世間では「それは自業自得だ」といえば、

悪い結果ばかりに使われますが、本来は、そうではありません。

善いことにも悪いことにも「自業自得」といえるのです。

善いのも悪いのも、自分に現れる運命は全て自業自得です。

100パーセント自分の行為が生み出したものであり、

それは万に一つも例外はないのだと、

お釈迦さまは教えられています。

ですから、もし悪い結果が起きたなら、

そこにはそれ相応のタネまきがあったからです。

悪いことを人のせいにしていても何も変わりませんが、

悪い結果を引き起こした自分の行いを反省して、

それを改善すれば、必ず結果はよくなるのです。

仏教というと、雨にも負けず、風にも負けず、

何か悪いことが起きても、

何も反応せずに静かに笑っているイメージがあります。

不幸や災難をひたすら堪え忍ぶのみの、アキラメ主義のように

誤解されがちですが、「アキラメル」とは、

本来、仏教から出た言葉。

初めに述べたように「諦観」と書いてアキラカニミルと読み、

〝因果の道理を明らかに見よ〟ということです。

自業自得の因果の道理を諦観すれば、

自分の悪い行いを反省し改善しますから、

無限に進歩向上できるのです。

 

●心で思うことも「行い」!?

 

運命は自分の行いが生み出したもの、

とお話しました。「行い」と聞くと一般に、

身体を動かしたり、口で言うことと思いますが、

それだけでなく、心で思うことも行いだと、

仏教では教えられます。

身体の行いを「身業(しんごう)」、

口の行いを「口業(くごう)」、

そして心の行いを「意業(いごう)」といい、

これを「三業」といわれます。

中でも特に心の行い(意業)を重視します。

なぜなら、言ったり、やったり、

口や身体を動かしているのは心だからです。

心掛けを変えると身体や口の行いが変わるのは、

心が「元」だからです。

心掛けをほんの少し変え、

実行することで毎日が変わっていくのです。

 

●心が変われば、人生が変わる

 

私たちの日常生活の中でも、これは実感できることでしょう。

アメリカ出身の心理学者で、哲学者でもある

ウィリアム・ジェームズは次の言葉を残しています。

 

心が変われば行動が変わる。

行動が変われば習慣が変わる。

習慣が変われば人格が変わる。

人格が変われば運命が変わる

 

心掛けの変化は、必ず行動に表れ、善い行動の積み重ねは、

やがて習慣化し、人格となってにじみ出てくるもの。

人格が変われば、その人の人生は全く新しいものに

生まれ変わることでしょう。

 

●「ネタミ」と「感謝」

   心のタネまきの差で運命は大違い

 

心掛けの大切さは、スポーツ界の話題の中にも

見ることができます。

昨年、カヌー日本選手権で優勝した選手が、

ドーピング検査で陽性反応が出て

資格停止処分を受ける問題が起きた。

ところがその後、処分を受けた選手の飲み物の中に、

他の選手が禁止薬物を混入させていたことが発覚。

今度は、この選手が8年間の資格停止処分を

受けることになりました。

「東京オリンピックに出場できないかもしれないという焦り」から、ライバルを引きずり下ろしたいという、

ネタミ、ソネミの心のタネまきが結局、

自らの不幸な結果を生んでしまいました。

 

一方、今年2月に行われた平昌オリンピックのスピードスケートで、

(2018年のとどろきです)

金・銀のメダルを分かち合った小平奈緒選手(日本)と

イ・サンファ選手(韓国)は、猛烈なライバル意識を持ちながらも、互いに尊敬し合っていた。小平選手は

「サンファはいつも親切です。3年前、ソウルのワールドカップで

私が初優勝した時、悔しいはずなのに、

飛行機の出発が迫る中、リンクから空港までのタクシーを

呼んでくれ、お金も出してくれた。

それがすごくうれしかった」

と言い、イ・サンファ選手も

「彼女とレースをして悪い気持ちになったことは

一度もない。彼女のライバルであることを誇りに思う」

と話しています。

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ライバルを「邪魔者」と見てネタむか、

「向上させてくれる恩人」と見て感謝の心で努力するか。

心のタネまきによって、その人に現れる結果、

いわゆる「運命」も180度変わってしまうのです。

 

●家庭や職場から変えよう

 

何事も実行なしでは、結果は現れません。

では、私たちは、どんなことから始めたらいいのでしょうか。

まず、身近なことから着手してみてはどうでしょう。

例えば、家族に対して。

家族と永年一緒にいると、「○○してくれて当たり前」となり、

これが家庭不和の元でもあります。

「夫は給料を運んで当たり前」

「妻は食事を作って当たり前」・・・。

でも、そんな時、「○○してくれてありがとう」と、

心のタネまきを変えてみてはどうでしょう。

日常のささいな出来事にも喜びを感じられるようになります。

職場でも、部下には「○○の仕事をしてくれてありがとう」。

上司には「忙しい中、○○してくださってありがとうございます」

などと心のタネまきを変えると、

人間関係もスムーズになり、仕事も順調に進むようになってきます。「面と向かっては、伝えにくい」という人には、

「間接的に伝える」という方法もあります。

会社の食堂や休憩室などで同僚と会話している時、

「○○さんは、厳しいことも言うけど、

仕事をきっちりする人だよね」などと、

その場にいない人を大いに褒めるのです。

うわさ話は回り回って必ずその人の耳に。

相手からの印象はグッとよくなります。

ただし、心から褒めることが大切です。

小さなタネと軽く見てはいけません。

1粒のモミダネから出る芽は1本でも、

枝分かれしてやがて何百もの実をつけます。

実行が未来を大きく変えるのです。

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●誰も見ていないタネまきでも、

   運命は変わるの?

 

さて、ここまでの話を読んで、

こんな疑問を持つ人もあるのではないでしょうか。

確かに、心のタネまきは大切だろう。

でも、誰も見ていないところでコツコツとタネまきしていても、

結果は来るのだろうか?

正直者は馬鹿を見る、とも言うし」・・・。

確かに、人知れずタネまきを続けることは容易ではありません。

だから何事も続かず、挫折する人が多いのでしょう。

「どうせ私なんか、何をやっても・・・」

とアキラメてしまうのです。

では、お釈迦さまは、私たちのこんな疑問に、

どう答えられているのでしょうか。

 

●行いは、消えない

 

「私たちの行い(業)は、決して消えることはないよ。

残って未来の運命を生み出していくのだ。

だから、他人が見ていようと見ていまいと、

善いタネまきを続けていくことが大切なのだよ」

と教えられているのです。

 

あれを見よ

みやまの桜 咲きにけり

真心つくせ 人しらずとも

 

という古歌もあります。

因果の道理を「明らかに見る」ことで、

アキラメの人生に別れを告げ、元気な「アキラメない心」を

手に入れることができるのです。


因果の道理について、もっと深く知りたい方は、

次の更新までお待ちください。


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どんな人も絶対の幸福にする弥陀の強縁 [因果の道理]

(真実の仏教を説かれている先生ご執筆の『とどろき』より載せています)


どんな人も

  絶対の幸福にする強縁

 

大阪府の会社社長・小川誠さん(仮名)は数年前に仏縁を結び、

会社と、大阪のシンボル・通天閣を望む高層マンションの

11階にある自宅で勉強会を開いています。

「社員も聞いていますよ。仕事仲間に、

ゼニじゃ買えん幸福があることを伝えたいんです」

と語るナニワの社長に、仏法とのどんな出遇いがあったのでしょう。

小川さんの手記を通して今月は、仏教の根幹・因果の道理

学びます。

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「仏法は

 めっちゃええ教え

    聞かな損や」

       大阪府 小川誠さん

 

●賭け事に振り回されて

 

18年前、結婚まで考えていた彼女が末期ガンで入院しました。

何とか治ってほしいと、両親の影響で幼い頃から信じていた、

ある新興宗教にすがったのです。

どんな病も治す神サマがおって、両親も熱心に信じとるから、

効く人には効くんやろうと、信じておったんです。

ところが願いもむなしく、彼女は27歳の若さで、

私の手を握ったまま亡くなったのです。

もう、宗教なんか二度と信じるか、と思いました。

 

無類の博打好き、ギャンブル依存症だった私は、

彼女の死後、寂しさからさらにのめり込みました。

一回の賭けに数百万円をつぎ込み、

大負けして多額の借金を作ったことも。

バカなもので、そうなるとますます大博打で勝とうとして

傷を広げるんです。

給料で返せないほど借金が膨れ上がり、

悩んだ挙げ句、会社を辞めて独立。

仕事は真面目だったので順調に借金も返済し、

貯金もできましたが、依然、博打打ちは治りません。

やがて、商売よりも博打につぎ込む額が桁違いになり、

貯金は再び借金に逆戻り。

そしてある時、ボロ負けして仕事の業者への支払いが

できなくなってしまいました。

その時、悪友の誘いに乗り、人の道まで踏み外してしまったのです。

後悔と懺悔の日々、周囲の厚意で立ち直り、

しばらくは真面目に働き、借金も返済、

再び貯金ができました。

ところが、数年後にはまたしても

博打を繰り返してしまっていたのです。

 

●仏法との出遇い

 

その頃、ふとしたことで知り合った人に誘われて

仏教講座に参加しました。

「宗教なんて・・・」と思っていましたが、

理路整然とした因果律の教えを聞き、

「さすがお釈迦さまや。これは他の宗教とはちゃう。

聞かな損や」

と続けて聞きたくなったのです。

しばらくして親鸞聖人の、

「さるべき強縁の催(もよお)せば、

如何なる振舞もすべし」   (歎異抄)

というお言葉を学びました。

親鸞さまでさえ、縁が来れば「どんな恐ろしいことでもする」と

仰っている。

よくないと知りつつ、賭博や借金を重ね、

悪に手を染めてきた己の過去を思い出し、

メモを取る手が止まり、あふれる涙を抑えられませんでした。

 

●「ホンマ、縁って大事やなぁ」

 

そして、ギャンブル依存症だった私が、

いつしか続けて聞法せずにいられなくなったのです。

一方で聞法のご縁がないと〝聞きたくない〟弱い心になる。

親鸞聖人の尊敬される中国の善導大師が

「白道(聞法心)四、五寸」と言われ、

仏法に向かう聞法心が細く、弱い善導だと仰っていることを

知りました。

善導大師のような偉い方でもそうなら、自分は、

なおさらよい環境を求めねばならぬと、

自宅と会社で勉強会を開くようになったのです。

常に法友に囲まれ、博打を打つ心も時間もなくなりました。

そして今度は、自分が身近な人と仏法を結ぶ縁になりたい、

今まで苦労かけた両親に仏法を伝えたいと思ったのです。

仏教講師から、〝言葉で話をするよりも言動を改め、

ひたすら感謝の言葉をかけ続けなさい〟と教わり、

優しく接したり、母の日にプレゼントしたところ、

「仏教を聞き始めて、百八十度変わった。

よかったね」

と両親から喜んでもらえました。

また仏法では、挨拶や返事、時間や約束、

整理整頓など、よい習慣を身につけることが

大切だと教えられます。

それがその人の徳となり、生きる力となるのです。

そこで会社で早速、整理整頓の大切さを伝え、

皆で掃除をしたところ、社員も感心して話に耳を

傾けるようになりました。

仏法はめっちゃええ教えやから、

多くの人に聞いてもらいたい。

ホンマ、縁って大事やなあ、と思います。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

  仏教は「自業自得の教え」

 

小川さんが感動した仏教とはどんな教えなのでしょうか。

仏教とは、2600年前、インドで活躍されたお釈迦さまの

教えです。

仏法ともいい、三世十方を貫く道理が説かれています。

三世十方を貫くとは、いつでも(三世)どこでも(十方)

変わらないこと。

どの国に行っても、たとえ宇宙に飛び出しても

間違いのない真理で、それは仏教の根幹である

因果の道理であります。

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因果の道理とは一口で言えば、人間の運命は全て「自業自得

であると説く教えです。

これはよく耳にする言葉でしょう。

「彼があんな目に遭ったのは、ふだんの行いが悪いせい。

自業自得だ」

などと言います。

悪い事例にばかり使われますが、

本来は善いのも悪いのも、人間の全ての運命は

「自業自得」にほかなりません。

因果の道理は、私たちが最も知りたい運命の原因と

結果の関係を教えられているのです。

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ここで因とは行為のこと。

果は運命(仏教では本来、使わない言葉ですが)。

私の禍・福(幸・不幸)は全て、

私の行為が生み出したもので、万が一にも例外はない、

と教えられています。

行為(業)と聞けば、一般には身(からだ)の行いと思いますが、

仏教では心と口と身の3とおりあると教えます。

この身口意で造る行為(三業)が、目に見えない力(業力、業因)

となって、私たちの阿頼耶識という永遠の生命に

蓄えられるのです。

阿頼耶とは、インドの言葉で「蔵」の意。

阿頼耶識とは、私の業力を全て蓄える蔵のような心です。

過去、現在、未来にわたって続く永遠不滅の生命であり、

その実体は「暴流のごとし」と説かれています。

暴流とは滝のこと。

滝は遠くからは一枚の白布を垂らしたように見えますが、

実際は無数の水滴が激しく変化しながら流れています。

阿頼耶識は、私たちの毎日の身口意の行為(業力)を

全ておさめ、蓄え、絶えず変化しながら、

過去から現在、そして未来へと続いていくのです。

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●現在におさまる「三世」とは?

 

自分に現れる結果の一切は、私の過去の行為が生み出したもの。

未来、私が受ける運命の原因は、現在、

私がつくり続けているのです。

これをお釈迦さまは、

 

汝ら、過去の因を知らんと欲すれば

現在の果を見よ。

未来の果を知らんと欲すれば

現在の因を見よ

                 (因果経)

と説かれています。

〝過去の種まき(行為)を知りたければ、

現在の結果を見なさい。

未来の運命が知りたければ、

現在の種まきを見なさい。

分かりますよ〟

これは、現在を見れば過去も未来も、皆分かる。

現在は過去と未来を包含しているのだよ、との教導です。

ここで言われる「過去」とは、吐いた息であり、

昨日であり、去年であり、

もっと広げれば生まれる前の過去世のこと。

「現在」とは、今の一息であり、今日であり、

今年であり、今生の現在世です。

「未来」とは吸う息であり、明日であり、来年であり、

もっと開けば死後、未来世のことです。

過去と未来は現在の一息におさまり、

広げれば過去世、現在世、未来世の三世となります。

因果の道理は今生だけでなく、

三世を貫く「三世因果の理法」なのです。

三世と聞くと、親、子、孫の三世代のことと思う人がありますが、

仏教では、一人一人に、人間として生まれる前の過去世、

今生きている現在世、死後の未来世と、

三世の実在が厳然と教えられています。

このように、過去の種まきによって現在の運命が決まり、

現在の種まきによって未来の運命が作られる、

とお釈迦さまは教えられているのです。

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この因果の道理を知った小川さんは、

未来を変えたいと、両親への優しい心遣いや会社の掃除など、

自身の言動を大きく変えていきました。

お釈迦さまの教導は皆、善の勧めですから、

その実践は全て幸せの種まきとなります。

 

●すべては因縁あってのこと

 

もう一つ、小川さんが痛感したのが

「縁の大事さ」だといいます。

 

縁とは原因が結果となるのを助けるものをいいます。

一切法(万物)は因縁生なり

全ては、因と縁が結合して生じたもの

と、お釈迦さまは仰せです。

例えば米という結果の原因はモミダネ。

このモミダネがなければ、絶対に芽が出ません。

しかし、モミダネだけでも米はできない。

土や水、空気、陽気や農家の方の手間隙(てまひま)が

あってようやく実りを手にできる。

これらを縁というのです。

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種々の運命が私たちの上に現れるのは、

三世を流れる阿頼耶識(永遠の生命)に

蓄積された業因が縁と和合してのことです。

今秋、世界を沸かせたラクビーワールドカップでの

日本代表の躍進は、エディー・ジョーンズ監督の

厳しい指導によるところが大きいといわれます。

(2015年のとどろきです)

この場合、監督の指導という縁によって、

世界一過酷といわれる練習を重ね、

その努力(因)がワールドカップ3勝という

空前の結果となったのです。

同じチームでも、指導者や環境などによって結果は

大変わりしますから、縁の重要性が知らされます。

 

「善知識・同行に親近せよ」

 

仏法を求める時には、善知識(先生)・同行(友達)という

縁が大切です。

小川さんは、そのありがたさをこう述懐しています。

「朝夕の勤行(おつとめ)が大事だと教えてもらった時、

仕事のつきあいで夜中まで飲んだりする自分には

難しいなと思いました。

ところが初めに誘ってくれた法友が毎朝、

私の会社に来て、一緒に勤行してくれたのです。

おかげで毎日勤行ができたんです。

とてもありがたかった」

自己の弱い心と向き合えば、

法友や環境に親近する大切さも知らされ、

一歩一歩光に向かっていくのです。

 

この「善知識・同行に親近せよ」の教導がいかに大事か。

悪師に翻弄されながら、お釈迦さまと出会って

生まれ変わった仏弟子から学びましょう。

 

釈尊(お釈迦さま)が生存中、コーサラ国の、

ある外道の弟子に、才知、弁舌、体力ともに優れた

オークツマラという美青年がいた。

彼の師の妻は、その魅力に引かれ、

あろうことか夫の不在を計って密通を迫った。

物堅い彼は、断固その誘惑を拒み、

彼女の不倫をいさめる。

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女の身の恥ずかしさ口惜しさに打ちしおれ、

すごすごと彼女はその場を立ち去ったが、

やがて狂わんばかりの愛恋は激しい憎悪となって、

恐ろしい復讐を企んだ。

たまたま夫の帰宅を見計らい、自らの着衣を引き裂き、

下半身あらわな姿で床の上に打ち倒れたまま、

不在中のオークツマラに不倫の恋を強いられ、

こんな辱めを受けたと涙ながらに訴えたのである。

愕然とした夫は、激しい嫉妬に燃え、

平凡な一時的な復讐よりも自滅に仕向け、

永遠の辛酸(しんさん)をなめさせてやろうと考えた。

そこでさりげなく彼を呼んで、こう命じる。

「おまえはもう、ワシの全ての教えを修得した。

後はただ一つ、この剣で街の辻に立って100人を殺し、

一人一人より一本の指を切り取って、

首飾りとするがよい。

さすれば、おまえのさとりの道は成就するであろう」

と一口の剣を渡した。

意外な残忍な行為を命じられ、彼は一時躊躇したが、

師命に逆らうことはできなかった。

憤然と意を決して街頭に立ち、

阿修羅のごとく道行く老少男女を問わず殺害し、

それらの指を切ってつなぎ、

見る見るうちに紅に染まった鬘(かずら・首や身体の飾り)を

作り上げ、ついに99人までになる。

この噂はたちまち四方に伝わり、

誰言うとなく彼をオークツマラ(指鬘・しまん)と呼んだ。

狂気のごとくあと一人を狙っていた時、

100人目に現れたのがなんと〝生みの母〟と

〝お釈迦さま〟であった。

誰からともなくわが子の恐ろしいふるまいを聞いた母が、

驚いてやってきたのだ。

彼はもはや、誰彼の見境もなかったが、

釈尊目掛けて猛然と襲いかかった。

ところがどうしたことか、一歩も前進できない。

彼は焦って鋭く叫ぶ。

「沙門(しゃもん)よ、止まれ!」

お釈迦さまは、静かに応じられる。

「我は止まれり。止まらざるは汝なり」

不可解な答えに、彼は驚いてワケを尋ねる。

そなたは邪教にだまされて、

みだりに人命を奪おうと焦っている。

だから少しも身も心も安らかになれぬのだ。

私を見よ。生死を超えて何ら煩うところがない。

惑(まど)える者よ。早く悪夢より覚めて無上道に入れ

お釈迦さまの尊容と無上の威徳に接して、

さしもの悪魔外道も慟哭し、たちまち敬虔な仏弟子となっている。

「わが弟子の中、法を聞いて早くさとること、
(さとるとは、阿弥陀仏に救われたということです)

指鬘(しまん)のように勝れた者はなし」

とお釈迦さまは言われたという。

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●弥陀の救いと因果の道理

 

ではお釈迦さまが宇宙の真理である因果の道理を説かれ、

廃悪修善(悪い行いをやめて善を修めよ)の教えを

勧められた真の目的は何でしょう。

親鸞聖人は『正信偈』にズバリ、

 

如来所以興出世 唯説弥陀本願海

釈迦が仏教を説かれたのは、

「阿弥陀仏の本願」唯一つを説くためであった

 

と明らかにされています。

阿弥陀仏の本願とは、大宇宙にまします仏方の

本師本仏(先生)である阿弥陀仏が、

「どんな人も

必ず絶対の幸福に救う」

と命懸けで誓われたお約束です。

親鸞聖人は、釈迦一代の教えは、

この弥陀の本願を明らかにするためだったと断言され、

その教えに従ってご自身も、

弥陀の本願一つを生涯、明らかにされたのです。

 

因果の道理を信じ、真剣に修善に向かうと、

知らされるのは、まことの善のできない自己の姿。

こんな者は弥陀の本願によらねば毛頭救われないことが

知らされてきます。

そして弥陀の本願に明らかに救い摂られた時、

本当の自分とはどんな者であったのか、

ハッキリ知らされます。

 

さるべき業縁の催せば、如何なる振舞もすべし

縁さえあれば、どんなことでもやる親鸞である

 

これは阿弥陀仏の光明によって照らし抜かれた自身の姿を、

親鸞聖人が告白なされたお言葉です。

「縁さえ来れば、どんなことでもする」

とは、「どんな業因(ごういん)でも持っている」ということ。

遠い過去世から生死を繰り返しながら、

私たちはいかなる行いをもし、

あらゆる業因を造ってきた。

だから縁次第ではいかなることもしでかし、

どんな結果も受けるだろう、と親鸞聖人は仰るのです。

これは聖人だけのことではありません。

阿弥陀仏は十方衆生(すべての人)を

「煩悩具足の凡夫(煩悩の塊の人間)」とか

「一生造悪(死ぬまで悪しか造れぬ)の者」と

見て取られ、そんな極悪の者を、

「一念に絶対の幸福(往生一定)に救う」と誓われています。

弥陀の本願は何と値(あ)い難く、

強い縁(強縁)であったのか、どれだけの生死を経ても

毛頭あえぬ救いにあえた、と親鸞聖人は

 

「噫(ああ)、弘誓(ぐぜい)の強縁は

多生にも値(もうあ)い難く、

真実の浄信は億劫にも獲がたし」

(ああ・・・不思議なるかなや、親鸞は今、

多生億劫の永い間、求め続けてきた

歓喜の生命を得ることができた。

これは全く、弥陀の強いお力によってであった。

深く感謝せずにおれない)

 

と高らかに宣言なさっています。

このご本願を聞き求める以上の尊い仏縁はなく、

この強縁にあわずして、誰一人、真の幸福にはなれません。

弥陀の本願に救われるには「聴聞に極まる」。

仏法は聞く一つですから、

〝こんな私が本当に助かるのだろうか〟

と疑い計らってモタモタせずに、

真剣に弥陀の本願を聞きなさいと勧められています。

尊き仏縁を求めて、真剣に弥陀の本願を

聞いていただきたいと思います。

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何が私の運命を決めるのか!? [因果の道理]

人の数だけ生きざまがあります。
順風満帆の人生を謳歌する人もあれば、
迷走しているようにしか思えず、
悶々と過ごす人もある。
いずれにしても、「人生不可解なり」
を痛感する人は多いでしょう。
一体、自分の運命を生み出しているのは何か。
その謎を解く答えを、今回は仏教に学びます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・
「どうしてこんなに不公平なの?」
      運命の違いはなぜ生じるか

「小学生の頃、背が低いのがイヤで、
親に苦情を言いました。
中学や高校になれば自然に伸びると言われ、
自分でもできるだけの努力はしましたが、
結局、大人になっても小さいまま。
もう少し背が伸びれば違った人生が送れたのでは、
と今でも思います」
「友達の家族旅行はいつも豪華なのに、
家は経済的に厳しくて、
日帰り旅行さえ行けない。
親には悪いと思いながら、
どうしてこの家に生まれたのかと思っていました」

人間誰でも、さまざまな劣等感を抱いて生きています。
生まれた時から差別があり、
自分より恵まれた人を見ては、
不公平感を味わうからです。
こんな運命の違いは一体、どこから生じるのでしょう。
その謎のカギを解くのが、
お釈迦さまの説かれた因果の道理です。

●答えは仏教に

お釈迦さまは、2600年前、インドに現れられた。
35歳でさとりの最高位である仏覚を成就され、
80歳で涅槃に入られるまでの45年間、
説かれた教えを仏教という。
今日、7000余巻の一切経となって書き残されています。

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その膨大な一切経の根幹が「因果の道理」です。
根がなければ木は枯れ、
幹を切れば倒れてしまうように、
仏教を一本の木とすれば、
根幹の「因果の道理」が分からねば、
仏教は絶対に分からないし、
親鸞聖人の教えも全く分からなくなるのです。

「因果」とは、原因と結果のこと。
どんな結果にも必ず原因があり、
原因なしの結果は万に一つもない。
たとえ太平洋の真ん中に墜落、
沈没した飛行機の事故原因が
究明できなくても、
原因不明とは言っても、原因なしとは言いません。
どんな結果にも例外はなく、原因はあるのです。

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次に「道理」は三世を貫き
十方をあまねく真理をいいます。

三世は過去、現在、未来「いつでも」ということ。
千年前も今も、何万年後も変わらぬことを「三世を貫く」
といいます。
十方は東西南北上下四維のあらゆる方角をいい、
「どこでも」ということです。

(※四維とは、北東、北西、南東、南西のこと)
地球上、どの国に行っても、たとえ宇宙へ飛び出しても
不変なのが「十方をあまねく」ものです。
時空を超越して間違いのない真理を道理といい、
この道理に立脚して仏教は説かれています。

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とりわけ仏教の因果律は、
私たちの運命に関する
因果関係を教示されているのです。

善因善果(善い原因は善い結果を生み出す)
悪因悪果(悪い原因は悪い結果を生み出す)
自因自果(自分のまいた因は、自分が刈り取らねばならぬ)

スイカの種をまけばスイカが生え、
大根の種をまけば大根ができる。
スイカの種から大根が出てきた国は聞いたことがないし、
そんな時代もありえない。

いつでもどこでも種に応じた結果が現れる。
これが「善因善果、悪因悪果」です。

「自因自果」は、善いも悪いも、
自己に現れる結果の一切は、
皆、自己がまいた種によるのだ、
ということです。

一般に「自業自得」ともいいます。

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●運命を生み出す原因とは

ここでいう原因や結果とは何でしょう。
原因とは我々の行為であり、
結果は一人一人の運命をいいます。
私の運命を決めるのは、
ほかでもない私の行為なのです。

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行為と聞けば、一般には身体の行いと思いますが、
仏教では心と口と身体の三通りあると教えます。

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この身口意によって造る行為(三業)が、
目に見えない力(業力、業因)となって、
私たちの阿頼耶識というところに蓄えられます。

阿頼耶識はインドの言葉で「蔵」のこと。
阿頼耶識とは、私の業力を全て蓄える蔵のような心です。
過去、現在、未来にわたって続く永遠不滅の生命の流れ、
と教えられ「暴流(ぼうる)のごとし」と説かれています。
暴流とは滝のことです。
遠くから眺めれば、
一枚の白い布を垂らしたように見える滝も、
実際には無数の水滴が激しく変化しながら
流れ落ちています。
そのように阿頼耶識は、
私たちの身口意の行為を
次から次と業力としておさめ蓄え、
絶えず変化しながら続いていくのです。

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この三世を流れる阿頼耶識に蓄積された業因が
縁と和合し、結果を現します。

縁とは業因が結果となるのを助けるものをいいます。
例えば米という結果の直接的な原因はモミダネですが、
それだけで米はできません。
土や水、空気、陽気や農家の方の手間ひまなどがそろって、
ようやく実りを手にできるのです。
これらを縁といいます。

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“そんなバカな・・・行いが力となって残るなんて”
と思う人もあるでしょうが、

見えない業力に、縁が加わって
目に見える結果となることを、
古歌を通してこう教えられています。

年毎に
咲くや吉野の 山桜
木を割りてみよ
花のありかは

桜の名所といえば奈良の吉野山。
ある人が冬に花見をしに出掛けたが、
枯れ木のような桜が突っ立っているだけ。
“花はどこだ”と木を一分刻みに砕いてみても、
一片の花びらも出てはこなかった。

しかし、それらの木が春の陽気に触れると一斉に開花し、
山全体が桜に彩られるのです。

冬の間は、花を咲かせる力として桜の木にあった、
その色も形もない力が、
春の陽気という縁と結びついた時、
桜花と現れたのです。

我々の運命も同様に、各人の阿頼耶識に
蓄えられた目に見えない業因に、
縁が結びついた時、
結果となって現れることをよく知ってください。

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●火の車(苦境)を
       つくっているのは誰?

さて、この因果の道理に例外が一切ありません。
幸せも不幸も全ては
自分のまいたタネ(行為)の結果なのです。

どんな苦しみも、自因自果にほかならぬことが、
こんな歌にも詠まれています。

火の車
造る大工は なけれども
己が造りて
己が乗りゆく

「あの家の台所は火の車だ」と言うように、
苦しい状態を火の車といいます。
そんな火の車(苦境)を造って
私に与える大工(他者)はいない。
そうなる業因が私にあったから、
そういう結果が私に起きたのだと教えられるのです。

●「現在」に
      「過去」と「未来」がおさまる

この因果の道理を深く知れば、
必ず「廃悪修善」の心が起きます。
「廃悪」とは悪をやめること、
「修繕」は善に向かうことです。
誰もが不幸を厭い、明るい未来を求めて
生きていますから、
幸せを得るには善を実行しなさい
と教えられるのです。

この廃悪修善の心の強弱が、
仏教を本当に分かっているか否かの
バロメーターだといえるでしょう。

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冒頭の疑問にも通じることですが、
自分に現れる結果の一切は、
過去の自らの行為が生み出したもの。
未来、私が受ける運命の原因は、
今、私がつくり続けているのです。

これをお釈迦さまは、

汝ら 
過去の因を知らんと欲すれば現在の果を見よ。
未来の果を知らんと欲すれば現在の因を見よ

                                  (因果経)

と説かれています。

過去の種まきを知りたければ、現在の結果を見よ。
未来が知りたければ、現在の種まきを見ればよい。
これは、この世だけでなく、
各人の三世を貫いていることです。

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三世と聞くと、親、子、孫の三世代のことと
思う人がありますが、
仏教では、一人一人に過去世、現在世、未来世の
三世があると教えています。

今の自分に分かるのは今生だけですが、
それぞれが違った運命(結果)を背負って生まれてきたのは、
それを生み出した過去世が間違いなくあったからです。

それを表す、こんなエピソードが経典に説かれています。

過去の私が
       現在の私をつくった

釈尊(釈迦)の十大弟子で「多聞第一」と
うたわれた阿難尊者は、
お釈迦さまに随行すること25年に及んだ。
多聞第一とは、最も数多く聞いたという意味でなく、
釈尊の説法を正確に聴聞し、
一言も忘れなかったということである。
頭脳の明晰さ、記憶の確かさに他の弟子たちは驚き、
それはなぜかお聞きすると、
過去世に次のようなことがあったからだと、
お釈迦さまは仰せられている。

昔、ある僧が一人の修行者に教育していた。
僧は非常に厳格で、毎日時間を定めて修行させ、
もし彼が日課どおりにしないと、すぐに厳しい訓戒を加えた。
修行者にはそのほかに、毎日、村々を托鉢し、
師匠と自分の生活の糧を求めねばならぬ、という仕事があった。
日課どおりに修行できねば厳しく叱られ、
托鉢もできないので、修行者は大変だった。
ある時も、師匠からひどく叱られ、
泣きながら歩いていると、一人の富豪に出会った。
修行者の様子に不審をもった富豪が訳を尋ねると、
苦しさのあまり、彼は次第を打ち明ける。
ふびんに思った富豪はこう提案した。
「よろしい、そんなことで苦労しているのなら、
明日からお師匠様とあなたの食べ物は、
全部私が供養しよう。
だから、あなたは安心して、一生懸命修行されるがよい」
富豪の言葉に彼は慶喜し、
直ちに帰って話したところ、師僧も大変感激し、
師弟ともにいよいよ修行に励んだのであった。

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お釈迦さまはこう話されてから、
「その時の師匠の僧は定光仏であり、修行者は私の前身である。
そして、2人供養し続けた富豪こそ、
実に阿難の前身である。
その時の布施の功徳で今、多聞第一の評価を得たのである」
と教えられている。

万人を驚かせる徳とは、一朝一夕の努力で
備わるものではありません。
遠い過去世からの精進あってこそです。
このように、過去世の種まきによって
今生(この世)の運命が決まり、
この世の種まきによって未来世が作られるのです。

この仏教の「三世因果」の道理が正しく理解されますと、
いかに「現在」が大切かが知らされましょう。
ゆえに、親鸞聖人の教えを聞き、
真実の仏法を知らされたならば、
よりよい未来を求め、一層、
光に向かって進まずにおれなくなるのです。
“どんなに頑張っても無意味だよ”
とか“適当にやり流せ”というような退廃的なアキラメ主義は、
そこからは出てきようがありません。
常に全力主義、努力主義で、
光に向かって無限に向上進歩できるのです。
では、何が善か。
どのような言動が幸せの種まきになるのでしょう。
それをお釈迦さまは詳しく教えられています。
それが仏法です。
教えのとおりに実践するには聞法が大事ですから、
より一層、真剣に仏法を聞いていくことが
何より大切なのです。

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Q&A
「こんなことも自因自果なの?」

前章で学んだように
「善因善果 悪因悪果 自因自果」
の因果の道理は、億に一つも例外はありません。
しかし、いざ不幸や災難に直面すると、
なかなかそうは思えないものです。
本当に例外はないのか。
ここからは読者の質問を通して、
より深く、因果の道理を学んでみましょう。

Q1.親の因果が子に報いるのでは?

五歳くらいまでの子供は無心で生きていると思いますが、
よい親に恵まれる子供もいれば、
悪い親に育てられる子供もいます。
このような場合、因果の法則は適用されるのでしょうか。
むしろ親の因果が子にたたっているように思えますが。
             (福岡県・88歳男性)

(回答)
先日、新聞でベトナムのドクちゃんの記事を読みました。
ベトナム戦争でまかれた枯葉剤の影響で結合双生児として
生まれてきたベトちゃんとドクちゃんは、
ベトナムと日本の医師による共同手術で足の分離に成功。
その後、ベトちゃんは亡くなりましたが、
ドクちゃんは成人して結婚し、
2人の子供に恵まれ、元気に暮らしています。
日本に対する感謝から、子供には富士山と桜を意味する
名前がつけられたと記事にはありました。
人間の運命ほど分からないものはありません。
中でも、どんな親の元に生まれ育てられるかは、
その後の人生に大きな影響を与える一つでしょう。
さまざまな苦しみから、
「なぜ、こんな家に生まれたのか」
と親を恨んでいる人もあるでしょう。

     私が生まれた因縁は?

私が人間に生まれたのは、一つの結果です。
この結果は、どんな因縁によって生じたのでしょうか。
常識的には、父を因とし、母を縁として私がうまれたと
思われるでしょうか。
実はそうではありません。
全く同じ因縁からは、同じ結果しか現れないはずですが、
同じ両親から生まれた兄弟でも、
顔や体型がまるで違うことがよくあります。
一卵性の双子で顔や背丈は一緒でも、
性格や好みは随分違うものです。
もちろん、その後の人生は、その人の行動によって
まるで変わってきます。
仏教では、私たちは過去の行い(宿業)を因とし、
父母を縁として、この世に生を受けたのだと教えられます。
このような両親の元に、このような私として生まれた因は、
過去に私自身がまいた種にあったのです。
父母は縁であり、決して「親の因果(種まき)が子にたたって」
いるのではありません。
「五歳くらくまでの子供は無心で生きているのでは」
と仰いますが、どっこい私たちの魂の歴史は非常に古く、
子供といっても過去無量劫(果てしなく長い間)の業を
もっているのです。

生まれた時から、兄弟でも驚くほど性格が
バラバラで嗜好も千差万別なのは、
皆、本人が背負ってきた宿業の違いによるのです。
その過去の業を因とし、今の両親を縁とし、
私たちはこの世に生を受けたのです。
無論、両親という縁が私の運命に与える影響は大きなもので、
決して親は無関係ということではありません。
また、親が造った業の結果は、
親自身が受けていかねばならないことは
言をまちません。
親もまた因果の法則の中で生きているのですから。
この機会に、私が生まれた因と縁とを、
深く考え直してみてはいかがでしょう。

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Q2.交通事故の場合はどうなの?

自因自果はよく理解できましたが、
交通事故による死傷はどのように考えるのでしょうか。
自分では管理できないことだと思います。
        (大阪府・70歳男性)

(回答)
こちらは法定速度を守って優先道路を走っていたのに
脇道から一時停止無視の車が飛び出してきて衝突したり、
歩道を歩いていた児童の列に
暴走車が突っ込むという痛ましい事件が、
時々耳に入ってきます。
「被害者に何の非があるか。
こんなことも自因自果なのか?」
と、やる方ない気持ちになるのもよく分かります。
事故の責任は暴走車にあることは間違いありませんし、
運転手の犯した罪が許されるはずはありません。
ではなぜ、これらも自因自果なのでしょうか。
衝突事故の例で考えてみますと、
私の前にも後にも車は走っていましたが、
それらの車は事故に遭わなかった。
私が事故に遭った原因は、無謀運転の車が飛び出す、
ちょうどその時その場所を通ったという、
私の行為そのものなのです。

      その時、そこを通る「業」があった

ではなぜ、その時その場所を私は通らねばならなかったのか。
それは、そんな「業」を私がもっていたからにほかなりません。
無謀運転の車はこの場合、悪い縁です。
同じ道を走りながら事故を免れた前後の車は、
幸いにして縁がなかったといえるでしょう。
では、そんな悪縁と結びついて
事故を引き起こした「業」とは何なのか、
と考えてみても、
私たちは過去にまいた自分の種まきを、
ほとんど忘れています。
しかし、結果が起きたということは、
それ相応の原因を過去において
自ら造ったことに間違いないのです。

      遅い、早いの違いはあっても

お釈迦さまは、まいた種が生える時期には前後があることを
「順現業」「順次業」「順後業」と説示されています。

順現業とは、現在世でまいた種の結果が
現在世ですぐに現れるもの。
順次業とは、現在世の種まきが次の生で現れるもの。
順後業は、現在世でまいた種の結果が、
ずっと後の生で現れるものをいいます。
おととい食べた夕食さえなかなか思い出せないのに、
私たちの永遠の生命に蓄えられている業は
過去無量劫からのもの。
記憶にないのも当然ですが、
たとえ覚えていなくとも、原因は厳しく結果を開く。
遅い早いの違いはあっても、
まいた種は必ず生えるのです。

まいた種によって結果の出る時期は違う
○順現業・・・現在世でまいた種の果が現在世で現れる
○順次業・・・現在世の種まきが次の生で現れる
○順後業・・・現在世でまいた種の果がずっと後の生で現れる

さらに、まいた種の生え方に二通りあると、
お釈迦さまは教示されています。

一つは「等流因等流果」。
これは、まいた種(因)と現れる結果が同質のものをいいます。
例えば、「殴ったら、殴り返された」
「悪口を言ったら、悪口を言われた」などです。
これは分かりやすい。
もう一つは「異熟因異熟果」。
これは、因と果が異質なもので、
例えば「悪口を言ったら、財布を落とした」
「泥棒したら、家が火事に遭った」など、
単純には因と果の関係が分からないものをいいます。

まいた種の生え方
○等流因等流果・・原因と結果が同質なもの
         「殴ったら殴られた」
         「盗んだら盗まれた」など
○異熟因異熟果・・原因と結果が異質なもの
         「悪口言ったら財布を落とした」
         「泥棒したら火事に遭った」など


「なぜ私がこんな目に?」と思うのは、
異熟因異熟果の場合が多いでしょう。
しかし結果が同質であれ異質であれ、
善因には善果、悪因には悪果を生み出すことに
変わりはありません。
「さるべき業縁の催せば、如何なる振舞もすべし」
               (歎異抄)
“縁さえ来れば、どんなことでもする親鸞だ”
の聖人の告白は「もたぬ悪業はない」
という深刻な自覚であり、
どんな悪果を受けても文句の言えぬ私が、
こんなに恵まれるとは不思議の中の不思議・
ゆえに、善果が来た時は仏祖のご加護と感謝し、
悪果が現れた時は過去の自分の種まきと懺悔し、
反省努力するのが、因果の道理を深信する
真の仏法者であると教えられているのです。

 


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心で思ったことが運命を決定づけている! [因果の道理]

 (真実の仏法を説かれている先生の書かれた「とどろき」より載せています)  

競争社会にもまれながら、
たくましく生き遂げる人、
転落の人生をたどる人。

その差はどこで生じるのでしょう。
実は、たった一つのボタンのかけ違いから
始まっているのかもしれません。

イヤなことが起きた時、
あなたは「幸せの選択」をしていますか。
それとも、「不幸の選択」を・・・。

「ボク」と弁護士の物語から、
お釈迦さまの説かれた
因果の道理」を学びましょう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

■プロローグ
「共通の特徴」

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ボクがその弁護士に出会ったのは、
ある傷害事件がきっかけだった。
当時、仕事も恋愛もうまくいかず、
やけを起こしたボクは、
若い店員の態度にカッとなり、
突き飛ばして大ケガを負わせたのだった。
相手はだれでもよかった。
ただ世間を恨み、のろっていた。
本当はボクが苦しんでいることを、
だれかに分かってもらいたかったのかもしれない。
ひとしきり事情を聞き終えた彼女は
説教するふうでもなく、こんな話をしてくれた。

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「例えば事業で借金を抱えた時、
立ち直る人と立ち直れない人には、
共通の特徴があるの。
立ち直れないのは、
『国が悪い、法律が悪い、景気のせいだ』
と不満をぶちまけるだけの人が多い。
でも立ち直る人は、そういった状況を認めながら、
では自分にできることは何か、
と次の一手を打ち始めるんです」
「ふーん・・・。
他人や世の中のせいにしないってことですか」
小さくうなずいて彼女は続けた。
「他人のせいにする。
イヤなことが起きた時、だれもが陥る思考ね。
でもその一歩が、運命の方向を決定づけるのよ。
自分でも気づかぬ最初の一歩。
けれど一度踏み出したら容易には抜け出せない、
不幸の選択を・・・。
もっとも、私もあんまり偉そうなことは言えないけど、ね」
そう言って彼女は優しくほほえんだ。
「不幸の選択?
じゃあ、そこで別の選択をしたら・・・」
「そう。運命は決して偶然に
決まるわけじゃないんです。
お釈迦さまの説かれた
『因果の道理』って知っているかしら」
ボクは首を横に振った。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
あなたが最も知りたくて、最も分からないもの、
それは「運命のしくみ」ではないでしょうか。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

一本早い電車に乗って事故に遭うこともあれば、
わずか数秒乗り遅れて命拾いすることもある。
地震で家の下敷きになる人もあれば、
慌てて飛び出し、車にはねられる人もある。
「運命のいたずら」といわれますが、
人間の運命ほど不可解なものはありません。

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どうすれば幸福な運命が得られるのか。
不幸や災いは、どうして起きるのか。
その法則を明らかにされたのが、
お釈迦さまの説かれた「因果の道理」なんです。

■因と縁が和合して果を生じさせる

「因果」とは、原因と結果ということ。
どんな小さな結果にも、必ず原因がある。
原因なしに起きる結果は、
万に一つ、億に一つも絶対にない

これはいつの時代、
いかなる場所でも変わらぬ真理であると、
お釈迦さまは教えられています。

だから何の原因もなしに結果が生じるという意味の
「偶然」や「奇跡」を仏教は認めません。

すべて必然であり、一つとして例外はないのです。
当たり前のようですが、ここは大切なところなので、
忘れないでください。
そこで、もっと詳しく、
結果の生じる仕組みを聞いてみましょう。

因果の道理は、
正確には「因縁果の道理」といわれます。

原因なしに起きる結果は絶対ありませんが、
因だけでは結果は生じません。
因に縁が結びついて、初めて結果が現れると
お釈迦さまは説かれています。


お米を例に考えてみましょう。
米はモミ種から作られますから、
米の因はモミ種です。
しかし、いくらモミ種があっても、
畳の上にまいていては何十年待っても、
米という結果は得られませんね。
土や温度、水や空気など、
いろいろな条件がそろって初めて、
お米が取れます。
仏教では、これらのものを縁といいます。

すべてのことは、因と縁が和合して、
初めて結果が現れる。

これを「因縁果の道理」といい、
「因果の道理」は縁を因に含んだ言い方なのです。

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■行為(業力)が運命をつくる

因とは、私たちの行いのことです。
「行為が運命を生み出す」

これがお釈迦さまの明らかになされた真理です。
どうして、行いが運命を生み出すのでしょうか。
その仕組みは、こうです。
行為のことを仏教では「業」といいます。
私たちのやった行為は
目に見えない力・業力となって残り、
決してなくなりません。
その不滅の業力はすべて、
私の本当の心に蓄えられる。
そして縁と結びついた時、
目に見える結果(幸・不幸)となって現れるのです。

パソコンには容量に限度がありますが、
私たちの本当の心には容量は限界がありません。

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そこに、毎日造り続けている数え切れないほどの業力が
蓄えられているのです。

この本心は、遠い過去からはるかな未来へと
流れていく不滅の生命です。
80年か100年で滅びる肉体は、
永遠の生命の流れから見れば、
滔々と流れる大河の水面にポツンと生じ、
パッと消え去る泡のようなものにすぎません。

この不滅の生命に蓄えられた業力が、
縁と結びつき、私のさまざまな運命を生み出すことを、
仏の智慧によって明らかにされたのが、
お釈迦さまです。

あなたの運命は、あなた自身の行い(業力)が
生み出したものであり、
ほかのだれが与えたものでもないのです。

■行為に三つある。
中でも重いのが「心で思うこと」

一口に「行い」といっても、
仏教では三つあると教えられます。
「身、口、意の三業」といいます。
身業とは身体でやる行い。
口業とは口で話すこと。
普通「行い」と聞いて思い浮かべるのはこの二つですね。
ところが仏教ではもう一つ、意業を教えられています。
意業とは、心でいろいろ思うこと。
これも行いであるとお釈迦さまは説かれています。
例えば、外面には出さなくても深い悩み事で
体調を崩したり、好悪の感情が相手に
伝わったりすることがあるでしょう。
「思う」ことには「力」があるのです。
しかも
仏法で最も重視するのは、
身体や口の行いよりも心の行いです。

なぜでしょうか。

心で思ったことを身体で行い、口が言う。
心はあらゆる行為の元だからです。
火事に例えれば、心が火の元であり、
口や身体は火の粉。
口や身体は心の奴隷であり、
責任は心にこそあるからです。

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心で日々思っていることこそ、
私たちの運命を大きく左右していると
知らねばなりません。

お釈迦さまは、業力は大象100頭に勝ると教えられ、
何ものもあらがえなぬ強い力だと言われました。

親鸞聖人が尊敬されている中国の善導大師という方は、
自己の「心」を凝視され、こうおっしゃっています。

一人一日のうちに八億四千の憶いあり

一日に八億四千回心が変わり、
いろいろなことを思っている。
それらすべて目に見えない業力となって、
あなたの本心におさまり、ぐいぐい、ぐいぐいと、
あなたの運命を生み出しているのです。

毎日心で何を思っているかを克明に振り返ることが、
この先の運命を知る大事な手がかりといえるでしょう。

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■イヤなことが起きた時、
他人のせいにする人はますます苦しむ

因と果について、お釈迦さまは、
善因善果
 悪因悪果
 自因自果

よい行いは、よい結果(幸せ)を、
悪い行いは、悪い結果(不幸や災難)を生み出す。
よいのも悪いのも、自分に現れる結果のすべては、
自分の行いが生み出したものである

と教えられます。
私たちは、よい結果がきた時は
「善因善果、自因自果」と素直に認められます。
では悪い結果がきた時はどうでしょう。
他因自果のように思うのは縁を恨んでいるのです。

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最初にお話した「因縁果の道理」を思い出してください。
「オレが苦しんでいるのは、あいつのせいだ」
「社会が悪い」「世間が悪い」と恨んでいる
「他人」や「世間」は全部、縁です。

もちろん悪縁を避け、改善する努力は大切ですが、
運命はあくまでも、私の行為(業力)が因となって
生み出されることを忘れてはいけません。

そうやって他人を恨み、のろっている心も
業力となってあなたの本心におさまり、

それが口や身体の行いとなれば、
その業は善いタネでしょうか。
悪いタネでしょうか。

「秋葉原で人を殺します」
6月8日、東京・秋葉原の歩行者天国で、
無差別に17人を殺傷する史上最悪の
通り魔事件を起こした犯人は、
犯行に至る心の道程をつぶさに
携帯サイトにつづっていました。
(平成20年のとどろきより載せています)
家庭環境、雇用不安、格差社会、希薄な人間関係。
さまざまに原因は論じられますが、
未曾有の凶行まで彼を引きずり込んだのは、
彼自身のつくった業力に違いありません。
苦しみを他人のせいにする。
自分でも気づかぬ最初のその一歩が、
運命の方向を決めるものです。
しかも一度踏み出したら容易には抜け出せません。

男は自分の否定的な感情や不満を、
何千と携帯サイトに書きつづり、
慰めを求めました。

ところが結果は逆。
ほとんどが無視か挑発で、心の傷口を広げ、
さらに吐いた言葉が自分を縛る。

ネットが悪縁となり、ますます孤独を深めた
彼の思考と行動はエスカレートし、
最後とんでもないところまで行き着きます。

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「惑業苦(わくごっく)」という言葉を知っていますか。
「惑い」が「業」(悪い行い)を生み、
「業」が「苦しみ」を生む。
その「苦しみ」がまた「惑い」を生み、
さらに悪の「業」を造る。
このような輪をぐるぐる回って
地獄まで堕ちていくことを
仏教で「惑業苦」と言うんです。

無差別事件に及んだ若者も、
まさに惑業苦で苦しみが増幅され、
制御不能になっていったのではないでしょうか。

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●イヤなことが起きた時、
自分を反省し行いを変える人は幸せになる

反対に、苦しみがやってきた時、
過去の己のタネまきを反省し、
行いを変える人は必ず未来が開けてくるでしょう。

言うまでもなくそれは「自虐主義」とは違います。
「全部オレが悪いんだ。オレはダメな人間だ」
と自分を責め、落ち込むことではありません。
悪いタネまきをやめ、よいタネをまいていく。
向上に努力する。
身口意の三業を前向きに転じていく。
それが自分の行いを反省し、
行いを変えるということです。

ある会社の研修では、毎日の日誌「感謝」
という二字を入れる決まりがあるそうです。
ほんのささいなことでも、毎日何かに感謝する人と、
だれかを恨み続ける人。
結果が同じはずはありません。
かりに秋葉原の犯人が、携帯サイトに毎日、
ちょっとでもいい、
前向きな言葉を書き込み続けていたら
どうなっていたでしょうか。

全く別の人生が開けていたのではないでしょうか。
あなた自身の三業、特に心の中の思いが、
あなた自身の運命を生み出しているのです。

幸せの選択をするか、不幸の選択をするか。
すべては、あなた自身にゆだねられていると
いってよいでしょう。

■エピローグ
「ありがとう」

その日から、ボクの人生は少しずつ変わっていった。
イヤなことが起きるたび、
ボクは自分の言動を振り返り、
どんな小さなことでも改善点を見つけていった。
努力することが楽しくなった。
あの時、ボクに因果の道理を教えてくれた彼女の心を、
後で人づてに聞いた。

「もちろん、失意の人を励まし、
法的に支援するのが私の大切な仕事よ。
でもね、『自分の行いが自分の運命を生み出す。
あなたの未来はあなた自身が切り開いていくんですよ

というメッセージは、
それ以上にその人を助けることになると
信じています」

ありがとう。
ボクは心の中で、何度も繰り返した。

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運命のしくみと仏法 [因果の道理]

 

(真実の仏教を説かれている先生の書かれた「とどろき」から載せています)


本誌編集部には、毎月多くの感想や質問が寄せられます。
今回は、昨年11月号の特集
「因果の道理~何が運命を決めるのか」
を読まれた方から届いた二通のお便りを通して、
より深く「運命のしくみ」について学びましょう。

(感想1)
「因果の道理」について分かりやすくまとめてあり、
よく理解できていなかったことも、
ストンと心に落ちました。
ですが、つらく苦しいことが重なると、
「どんな悪いことをしたっていうの!?」
と、泣きたくなることもあります。
身に起きる苦難を、どう受け止め、
乗り越えていけばよいでしょうか。
         (広島県・44歳女性)

(感想2)
私は過去にたくさんの過ちを犯してきました。
『とどろき』で「因果の道理」を知らされ、
現在の苦しみは、その結果と受け止めることができ、
心が楽になりました。
しかし業の深い私は、
未来にもっと大きな苦しみがあるのではないかと、
不安も感じています。
こんな私でも幸せになれるでしょうか。
         (岐阜県・28歳女性)

どちらも、昨年11月号の内容を
真摯に受け止められての感想です。
この号とご縁のなかった方もあるでしょうから、
まず、「因果の道理」についておさらいしましょう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
因果の道理とはどんな教え?

「因果の道理」は、仏教の根幹です。
「仏教」とは、約2600年前、インドに出現された
お釈迦さまの一代の教えです。
「根幹」とは、根であり、幹のこと。
仏教を一本の木に例えたならば、
因果の道理は根や幹に当たります。
根や幹がなくなれば、木は倒れてしまいます。

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釈迦一代の教えは、7000余巻の一切経に
全て書き残されています。
その一切経を貫いている根幹の教えが因果の道理ですから、
この因果の道理が分からねば、
仏教も親鸞聖人の教えも毛頭、分かるものではありません。

因果とは、「原因」と「結果」のこと。
どんなことにも必ず原因があり、
原因なしに起きる結果は絶対にありません。
まかぬ種は絶対に生えませんが、
まいた種は必ず生える。
これが「因果」ということです。

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道理とは、仏教で、三世十方を貫くものをいいます。
いつでも(三世)、どこでも(十方)変わらぬ真理です。
時や場所によって異なるものは、
道理とはいいません。

いつの世も、どの国でも変わらない。
地球上のみならず、たとえ宇宙に飛び出しても
間違いないことが「道理」です。

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仏教の因果の道理は、
特に私たちの幸福についての原因と結果の関係を
詳しく教えられています。

私たちが最も知りたいのは、
どうすれば幸福になれるか、ということでしょう。

幸福こそすべての人の願いであり、
人生の目的だからです。

これらについて、
お釈迦さまは次のように教示されます。

善因善果(善い因をまけば、善い結果が現れる) 
悪因悪果(悪い因をまけば、悪い結果が現れる)
自因自果(自分のまいた因の結果は自分に現れる)

因とは、我々の行為のこと、
果とは、我々に現れる種々の運命をいいます

(仏教では本来、運命とはいいませんが)。
私の身に起きる禍・福(幸・不幸)は、
すべて私の行為が生み出したものであり、
これに万に一つも例外はない。

これが仏教の説く因果の道理です。

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・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「私がどんな悪いことをしたの?」
  つらい目に遭うと必ずこう思うけど・・・

寄せられた疑問1
つらく苦しいことが重なると
「私がどんな悪いことをしたっていうの!?」
と、泣きたくなることもあります。
身に起きる苦難を、どう受け止め、
乗り越えていけばよいでしょうか。

        ■      ■      ■

共感される人は多いでしょう。
苦しいことが立て続けに起きると、
「どうして私ばかりこんな目に?」「自因自果とは思えない」
と思う気持ちはよく分かります。

しかし、私に無関係なことが
私に起きる道理はありません。

しかも私のまいた種の結果が他の人へ行く「自因他果」や、
他人のまいた種の結果が私に現れる「他因自果」は絶対にない、

とお釈迦さまは教えられています。

受験戦争や就職難を勝ち抜くには、
自分が勉強し、面接を受けねばなりません。
周囲を励まし、応援も大切ですが、
当の本人の努力なしに、
合格も採用もありえないのは当然でしょう。

フーテンの寅さんに、こんなセリフがあります。
「おまえと俺とは別な人間なんだぞ。
早え話がだ、俺がイモ食って、
おまえの尻からブッと屁が出るか?」

      (松竹映画『男はつらいよ』第1作より)

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歌手の西城秀樹さん(59)は、
脳梗塞からの過酷なリハビリの心境を、
次のように告白しました。
「リハビリは全部つらいですよ。
体が鉛のように重いから、歩くだけでもつらい。(中略)
リハリビ中は根気しかない。
こんだけ根気あって、こんだけ努力するんだったら、
東大でもどこでも受かっちゃうよ(笑)」
苦痛に耐えて朝7時に起き、
最低1時間は公園を歩いた。
トレーニングに励むのも、ほかならぬ自分のため。
つらいからといって、他人にお金を出して
やってもらっても意味がありません。
オリンピックでのメダル獲得は、
選手自身が何年も練習に汗を流したたまものでしょう。

だから、自己の行為が自身の運命を生み出す
「自因自果」「自業自得」と
誰でも一応は納得していますが、
ひとたび不幸に見舞われた途端、
受け入れられなくなるのです。

どう考えても
「あいつのせい」としか思えない・・・・

例えば、こんな場合。
いつも飲んだくれのばくち打ち、
家庭内暴力を振るう夫によって、
気立てのよい奥さんが毎日苦しめられている。
彼女自身も、周囲の人たちも、
「あの夫のせいでひどい目に遭っている。
『他因自果』ではないか」
と思います。
しかし、これも間違いなく自因自果。
なぜでしょう。

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まず、因果の道理は正確には、
「因縁果の道理」であることを、知らねばなりません。
「一切法(万物)は、因縁生なり」(釈尊)
「全てのものは、因と縁が結合して生じたもの」
と、お釈迦さまは仰せです。

例えば携帯電話なら、一台あたり約600個の部品(因)と、
それらの組み合わせる作業(縁)によって完成(果)するように、
全ては「因」と、それを助ける「縁」がそろって
初めて生まれています。
私たちの運命も同じです。

どんな悪い男がいても、結婚さえしなければ、
奥さんの現在の不幸はありません。

そんな男の妻になったのは、
彼女自身が「好きになって結婚した」から。
その行為が原因で、今の不幸という結果となった。
夫は大変な悪縁ですが、原因はあくまで、
奥さん本人にあるのです。

「そんなの、結婚するまで分からないでしょ。
運が悪かったのよ」
と身の不遇を恨み、嘆き、
あきらめてしまう人は多いかもしれません。
しかしその「運」とは何か。
誰が決めているのか。

運命の原因は過去の自己の業(行為)なのだ。
そのわが身のまいた因を明らかに見なさいと
仏教はおしえられているのです。

他の女性は、その男のために苦しんでいないのですから、
その奥さんだけが持つ原因があって、
不幸を生み出しているのです。

では、悪い夫は無罪放免なのか。
もちろんそうではありません。
このようなダメ夫(悪縁)は、
種々働きかけて更正させる努力が必要なのは当然です。
どうにも無理なら、遠ざけたり、
いっそ縁を絶つ(離婚)方法もありましょう。
「他因自果ではないか」と思う人のほとんどは、
因と縁とを混同している場合が多いようです。
ここが分からないと、筋違いな恨みや呪いを抱いて
一生を棒に振る人もありますから、
よくその違いを知っていただきたいと思います。

悪い種まき
 忘れていませんか?

また、自因自果と思えぬもう一つの理由に、
過去の悪い種まきを忘れていることが挙げられます。

「善い種をまいているのに、不幸ばかりやってくる」
と不満を漏らす前に、
自分のまいた種を静かに振り返ることが大事、
と仏教では教えられるのです。

アメリカの政治家、ベンジャミン・フランクリンに、
「貸し手は借り手より常に記憶がよい」
という格言があります。
お金を貸したほうは、
「あなたに、○年○月○日、○時○分、
あの場所で○円貸した」
と、死ぬまで覚えています。
ところが借りたほうは、
「あれ、そんなお金借りたっけ?」
と忘れがちです。
人間は、自分の都合のよいこと(善因)は、
しっかり覚えていても、
都合の悪いこと(悪因)は忘れやすい。
しかし、たとえ忘却しても、

まいたタネは必ず生えるのが因果の鉄則です。

私たちの肉体は、食べ物によって作られる。
食べた物(原因)の結果は、
5年も10年も後に現れるといわれる。
「簡単で、安く、おいしい」インスタント食品や
ファーストフードは好まれますが、
食品添加物が多く、害も多い。
安易にこれらを口にしては、すぐには体調不良にならずとも、
将来の病気の種にはなります。
ところが私たちは先週食べたものさえよく覚えていないので、
生活習慣病が発覚すると、
「なぜ、オレがこんなことになったのか」
と、診断結果に当惑するのです。
全ては自分の種まきに違いない。
他人が食べた物のせいでないのは明らかです。

そういうイヤな結果を変えたければ、
原因を変えよと因果の道理では教えられます。
「善因善果 自因自果」
は間違いありませんから、
努めて善い種まきに励みましょう。

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誰でもすぐに実践できる善い種まきを一つ紹介します。
仏教で教えられる「和顔愛語(わげんあいご)」です。

にこやかな笑顔と明るい挨拶が世の中を楽しくする、
と言われます。
わずかな心がけで、誰でもできる種まきから
始めてはどうでしょうか。

「そんなささいな種まきで、幸せになれるものか」
といぶかる人に、お釈迦さまはこんな例えで教導されています。

多根樹という大樹で有名な村へ、
お釈迦さまが赴かれた時のこと。
柔和な釈尊のお姿に接した貧しい主婦が、
昼食のために用意していた一握りの
「麦焦がし」を差し上げた。
釈尊は弟子の阿難に向かって、
「この女は今の善根によって、やがてさとりを開くであろう」
と仰った。
そばで聞いた女の夫が腹を立て、
「そんな出任せ言って麦焦がしを出させるな。
取るに足らぬ布施でどうしてそんな果報が得られるか」
と食ってかかる。

釈尊は静かに、
「あなたは世の中で、
これは珍しいというものを見たことがあるか」
と聞かれると、男は得意になって言った。
「あの多根樹ほど不思議なものはない。
一つの木陰に500両の馬車をつないでも、
まだ余裕があるからだ」
「そんな大きな木だからタネは、ひきうすぐらいあるだろう。
それとも飼い葉おけぐらいかな」
「とんでもない。そんな大きなものではない。
ほんのケシ粒の四分の一ほどしかない」
と男は答える。
「そんな小さなタネから、
そんな大木になるとは誰一人信じないだろう」
と仰ると、男はムキになり、
「誰一人信じなくても俺は信じている」
と大声で反発した。

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ここで釈尊は言葉を改められ、
どんな麦焦がしの小さな善根でも、
やがて強縁に助けられて、
ついにはさとりを開くこともできるのだ
」。
当意即妙の対機説法を聞いた夫婦は、
直ちに仏弟子になり真実に生きたという。

(※対機説法とは、相手に応じて教えを説くこと)

「千里の道も一歩から」というではありませんか。
ちょっとした種まきの積み重ねで、
人生は大きく変わっていくものです。

「和顔愛語」以外にも、
仏教ではたくさんの善が勧められています。
教えをよく聞き、日々よい種まきに努めれば、
待つ春の慈光(じこう)に浴して、
満開の花があなたの心にも咲くでしょう。

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・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「こんな私でも幸せになれる?」
       「縁」の大切さを学ぶ

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

前半では、未来を変えるために
すぐ実践できる善い種まきを学びましたが、
すでにまかれた多くの悪因に
悩んでいる人もあるかもしれません。
しかし、

「どうせ、なるようにしかならない。これが人生よ」
と自暴自棄になる必要はありません。

ここでしっかり反省することが、「禅定」という、
これも善い種まきなのです。

過去を変えることはできませんが、
過去の種まきを反省し、正しい教えに従って、
ただ今から善い因(たね)を根気よく一生懸命まけば、
必ず人生は好転するのだよと、
お釈迦さまは励ましてくださいます。

次の質問から、特に縁の大切さについて話をしましょう。

寄せられた疑問2
業の深い私は、未来にもっと大きな苦しみが
あるのではないかと不安もあります。
こんな私でも幸せになることができるのでしょうか。


この疑問にお釈迦さまは、
どう教えられているのでしょう。
前述の通り、「因果の道理」とは、
詳しくは「因縁果の道理」で、
私たちの因が縁と結びついて結果を表すということです。
私たちの行為(因)を変えることによって
結果は大きく変わりますが、

縁によっても結果は大変わりします。

例えば、コシヒカリという名のモミダネを
新潟県の魚沼地方で育てますと、
全国でも有名で高値のつくおいしいお米になる。
ところが、そのコシヒカリのモミダネを
乾燥した国外へ持っていって育てても、
同じコシヒカリかと思うほど、
味が落ちてしまいます。
湿度や日照時間、水や土の質など育つ条件(縁)が変われば、
結果がガラリと変わるのです。

ある学習塾の先生が、中学生ほどの学力もない女子高生を、
難関の慶応大学へ合格させ話題を呼びました。
女子高生は「聖徳太子」を「せいとくたこ」
と読むような状態でしたが、
その先生の指導によって、
学力が一気にアップしたといいます。

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先生によって、勉強が好きになったり、
嫌いになったりした経験のある方も多いでしょう。
スポーツや芸術でも、指導者によって随分変わってきます。
本人の才能や努力はもちろん大切ですが、
その才能を育てる人(縁)もまた重要なのです。

学力アップを切望する人は、
教え上手な先生の塾に通ったり、
切磋琢磨するライバルがたくさんいる学校を選んだり、
スポーツ選手なら、コーチやチームなど、
向上できる環境を選ぶのです。


「朱に交われば赤くなる」。
親鸞聖人は、悪人には近づくなと
教誡(きょうかい)されています。

「『悪をこのまん人には、慎みて遠ざかれ、
近づくべからず』とこそ説かれて候え。
『善知識・同行には親しみ近づけ』
とこそ説きおかれて候え」
  (末灯鈔)
(「悪を好む人には、できるだけ近づくな、
善知識や同行には親しみ近づくがよい」と説かれている

好んで悪に走る人からは遠ざかり、
本当の仏教を説かれている先生(善知識)や、
ともに仏法の話ができる法友は
大いに親しみ近づきましょう。

縁によって、結果が驚くほど変わってしまうものに
炭素という物質があります。

地球上に無尽蔵にある炭素は、
常温・常圧の下では、炭です。
ところが、大変な高温と高圧の下では、
なんと地上で最も硬く、高価なダイヤモンドと輝くのです。

元は全く同じ炭素とは、とても思えないでしょう。
縁次第で結果が大変わりする好例です。

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人生も縁次第

価値のない、無味乾燥に思える私たちの人生も、
縁次第で無限に輝く人生となる。

ヘエ、そんな縁があるのかと、疑問に思う人もあるでしょう。
親鸞聖人は、
「ある」と断言され、それは「
弘誓の強縁」だ、
と仰っています。

主著『教行信証』の冒頭のお言葉です。

噫、弘誓の強縁は多生にも値(もうあ)いがたく、
真実の浄信は億劫(おっこう)にも獲がたし」
(ああ・・・、親鸞は今、多生億劫の永い間、
求めてきた歓喜の生命を得ることができた

「弘誓の強縁」とは、
「どんな人も 必ず 絶対の幸福に救う」
と誓われた、阿弥陀仏という仏さまの本願のこと。

私もあなたも一人も漏らさず、
すべての人と交わされた約束ですから
「弘誓(ひろい誓い)」と言われているのです。

人智を超えたその弥陀の本願には、
「幾多の生(多生)を経てもあえなかったが、今値えた。
気の遠くなるような長い間(億劫)にも得がたい絶対の幸福を、
今獲たぞ!」
と歓喜なされています。

幸せを求めながら悪業によって不幸へ突っ走る私たちを、
阿弥陀仏は、どこまでも追いかけ「堕としはしないぞ」と、
ものすごいお力で絶対の幸福に救い摂ってくださいます。

その阿弥陀仏の本願力は絶大ですから「強縁」と
親鸞聖人は仰り、その弥陀のお力をこうも讃嘆されています。

願力無窮(がんりきむきゅう)にましませば
罪業深重もおもからず
仏智無辺にましませば
散乱放逸も捨てられず
」(正像末和讃)
どんなに罪や悪が重くとも、心が散り乱れても、
阿弥陀仏の願力は無限だから、必ず救い摂られるのだ

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例えば、石は必ず水に沈みますが、
どんな大きな石でも、それを浮かばせることのできる
巨大な船に乗せれば、
水に浮かびます。

阿弥陀仏の本願の大船は、
どんな煩悩の巨魁・罪悪深重の私でも、
そのまま絶対の幸福に浮かばせてくださるのです。

弥陀の本願は弥陀の大慈悲心によって
つくられた船ですから聖人は、
「大悲の願船」とも記されています。
その「大悲の願船」に乗られた親鸞聖人は
「大悲の願船に乗って、光明の広海に浮かんだ」
と仰り、
どんな業の深い人も弥陀弘誓の強縁にあえば、
天に踊り地に踊り、一息一息が大安心・大満足でるのだと、

不思議な弥陀の本願力を私たちに伝えてくださいました。

では、どうすれば、そんな素晴らしい身に
生かされるのでしょう。

親鸞聖人のお答えは、
「聞思して遅慮することなかれ」
こんな私でも本当に助かるのだろうか、
阿弥陀さまのお力でも無理ではなかろうかなどと、
迷い計らい、もたもたせずに、
仏法をひたすら聞き抜きなさいよ
と、
聴聞の一本道を示されています。
「仏法は足で聞け」
と教えられます。
人生の幸せ、不幸せを左右する仏縁ですから、
遠くへ足を運んででも仏法は聞きなさいということです。
そのうち聞くつもりだ、
この仕事が終わったら聞こうなどと思っていたら、
あっという間に人生は終幕を迎えます。
いつ悪縁に引かれて聞けなくなるか分かりません。
今、すぐにでも聞法会場へ体を運び、
まことの弥陀の本願を大切に聞き求めましょう。

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手記

厳しい「因果の道理」のバックには
弥陀の大慈悲がありました。

山森 貴さん(62・仮名)
誠実な人柄と、40年にわたる堅実な仕事ぶりを見込まれて、
経営者に抜擢されたという。
自宅には、500年前からのお仏壇があり、
蓮如上人直筆の御名号本尊がご安置されている。

ガソリンスタンドの経営者として多忙の中、
聞法に励んでいる山森 貴さん。
親鸞聖人のみ教えに出遇うまでは、
「人知れず消えてしまいたい。
そんなことばかり考えていた」
といいます。
一体、何があったのでしょうか。


年間約3万人ほどの日本の自殺者の中に入っていたはずの私が、
一枚のチラシを縁に、親鸞聖人と出会うことができました。

島根県雲南市の山奥に生まれました。
私が8歳の時、山で兄の切った大木が母の頭部を直撃。
頭の皮が剥がれ、悲惨な姿で、
私の目の前で母は息絶えました。
それから家の中は、母を亡くした父の悲しみと、
母を死なせた兄の苦しみで、
まるで鉛を抱えたような毎日でした。
母の死から五年、苦しみ抜いた兄は25歳で、
ある朝突然亡くなりました。
父も急な病で逝ってしまい、
私は20歳で天涯孤独となってしまったのです。

独りぼっちの私でしたが、やがて妻と出会い、
家を建て、3人の子供に恵まれました。

やっと人並みの幸福を手に入れたと思っていた矢先、
妻が腎臓を患い入院、7年の闘病の末、先立ってしまったのです。
末っ子が成人式を迎えた年でした。
妻と2人で過ごす老後、そんな夢ははかなく消え、
再び鉛のような重苦しいものが私の心を覆い、
自殺へと誘います。
「なぜ私だけこんなひどい目に。
どうせ私はみんなを不幸にする悪魔なんだ。
だから、今すぐ死んだほうがいい。
でも死ぬのは恐ろしい・・・」
鉛を抱えて13年、「もう限界」と思っていたその時、
一枚のチラシが届いたのです。
忘れもしません。
3年前の7月でした。
チラシの案内に従い、恐る恐る出かけた会場で、
アニメの親鸞聖人に出会いました。
「明日ありと 思う心の 仇桜(あだざくら)
  夜半に嵐の 吹かぬものかは」
ああ親鸞さまも、お父様、お母様と
悲しい別れをなされたのですね・・・。

●鉛の心も
      私が生み出していた

翌月も聞法に出掛け、初めて「因果の道理」を
聞かせていただきました。
「自分の運命の全ては、
自分の行為が生み出したものである」
と仏教では教えられます。
えーっ、この鉛のような寂しさも苦しさも、
全部、私が生み出したと言われるんですか!
午前中の話があまりに身にこたえ、
「もうその話はやめてください!」
と、何度、手を挙げて叫ぼうかと思ったかしれません。
しかし、それに耐えて続けて聞かせていただくにつれ、
不思議なことに、永年抱えてきたあの鉛の心が、
まるで太陽に照らされた雪のように消えていったのです。
厳しい「因果の道理」のバックには、
温かい阿弥陀如来の大慈悲がありました。
聞法の場が、まるで母の懐にいるような、
懐かしい、温かい所となりました。
こんな幸せな日が来るなんて、
全く予想もしていませんでした。 

今、母と父と兄と妻に、
心から感謝の言葉を贈りたいと思います。
「ありがとう、身をもって教えてくれたんだね。
私の後生の一大事を」
死ぬことばかり考えていた私が、
「なぜ生きる」の答えをハッキリ知らされました。
鉛の心を、聞法の喜びに変えてくださった阿弥陀如来、
親鸞聖人に心より感謝せずにおれません。
この阿弥陀如来の大慈悲を、何としても多くの人に
伝えなければなりません。
かつて私のように鉛の心を抱えた人が、
すぐそばにも、きっといるはずだからです。

 

 


 


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苦しいのは誰のせい!? [因果の道理]

苦しいのは
   誰のせい?

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新聞に人生相談が掲載され始めて100年がたつといわれます。
それだけロングランを記録するのは、
世の中がいかに様変わりしても、
次々やってくる人生苦悩の波は果てしないからでしょう。
苦しむために生まれたのか、そんなはずはない、
じゃあ何のために生きるのか。
見つからぬ答えに落胆し、アキラメながらも、
問い続けずにおれないのです。

そんな嘆きが、新聞紙上の人生相談から、
かいま見えます。

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▲ある20代女性の悩み

容姿が悪く、学校ではいじめられ、
職場でもうまくいきません。

母は私に過干渉で、父はすぐ感情的に私を怒る。
こんな暗い性格になったのも両親のせいだと思う。
世の中は女性を容姿で判断し、
それで人生が決められてしまうからつらい。

人生にはこうした悩みが多く寄せられています。
なぜ自分はこんなつらい運命を背負って生きねばならないのか。
両親のせい?
学校のせい?
職場のせい?

それについて仏教はどう教えられているのでしょうか。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
●人の運命と因果の理法

仏教とは、約2600年前、
インドに現れたお釈迦さまが説かれた教えです。
仏教とも、仏法ともいわれます。

仏教は因縁を宗とす。
一切法を説くに因縁の二字を出でざるを以てなり

             (維摩経)

釈迦一代の教えを貫く根幹は、
因果の理法であるとハッキリ教えられています。

「まかぬタネは生えぬ」
原因なしに結果が現れることは絶対になく、
「まいたタネは必ず生える」。
原因は厳しく結果を開くと教えられています。

人生の幸福と不幸という運命は一つの結果であり、
それには必ず原因があります。
では何が原因で人は幸福になったり、
不幸になったりするのか?
誰もが知りたいことでしょう。

それについて仏教では、

自因自果

と教えられています。
これは自業自得ともいわれ、自分のやった行為(業)が、
自分の幸・不幸という一切の運命を決定するということです。

しかも原因(行為)と結果(運命)の関係は

善因善果 
悪因悪果 
自因自果

と厳然と説き切られます。

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善い行いをすれば、善い運命(幸福)に恵まれ、
悪い行為は、悪い運命(不幸)を引き起こすということです。

ですから仏教では、幸せになりたいなら善行に励みなさい、
不幸や災難など悪い運命が嫌なら悪い行為は慎みなさいと、
「廃悪修善」を一貫して説かれるのです。

●因果の理法が
    「分かる」とは

この因果の道理については何度も本誌に掲載してきましたので
「 善因善果 
  悪因悪果 
  自因自果」
「廃悪修善」と幾度も聞けば、
「もう分かったし、覚えている。
他の話はないのか」
と思われる読者があるかもしれません。
「仏教ではそのように教えられていると分かった」
というのも「分かった」ですが、
それは一つの知識として知っているにすぎません。
仏教では、教えのとおり実践するようになって初めて、
本当に「分かった」というのです。

因果の道理を自己の人生に引き当てて、
そのとおり実践するのは容易ではありません。
だからこそ、お釈迦さまは45年間、
7000余巻ものお経を説き続けられたのです。

昔、儒教で有名な白楽天が鳥窠
禅師に、
仏教とはいかなる教えか問うた話は有名です。
鳥窠禅師がそれは

「廃悪修善」と答えると白楽天は、嘲笑しました。
「そんなことなら3歳の子供でも知っている」
すると鳥窠禅師は
3歳の童子もこれを知るが、
80歳の翁も、行うこと難し

と即座に答えています。
「行うこと難し」
とは、因果の道理を受け入れ実践する難しさを示したものでしょう。

●因果の道理を
    受け入れられない

まかぬタネは絶対に生えぬが、
まいたタネは必ず生える。

自身に起きた一切の結果は、
善いのも悪いのも、全て自分のまいたタネの結果なのです。

これをただの話として聞く分には、
誰も否定はしないでしょうが、
いざわが身に不幸や災難が降りかかった時、
自らまいたタネと本当に思えるでしょうか。

自因自果と受け入れられず、
「あいつのせいだ」
「こいつのせいだ」
と、苦しめた犯人探しをして、
その相手を恨み呪ってはいないでしょうか。

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次に挙げるのは本誌読者Mさん(80代男性)の体験談です。
Mさんは、子供の頃、寺の日曜学校で覚えた
『正信偈』の意味を知りたいと、
ずっと求めておられた。
本屋を探してもよい本に巡り会えなかったが、
14年前本誌を知り
「親鸞聖人のみ教えがこんなに分かりやすく教えてもらえるとは・・・」
と喜ばれ、それから熱心に聞法されるようになった。
ところがある日、Mさんは病魔に襲われた。
手術は成功したが、なぜか微熱が続く。
再度診察を受けると、医師は“すぐに入院してください”
と言うばかり。
詳しいことを教えてほしいと問いただすと、
麻酔注射の際、注射針からばい菌が脊髄に入ったようだった。
症状は次第に悪化。
レントゲン写真では脊髄が真っ白に写るほどうみがたまり、
激痛で天井を向いたまま動くこともできない。
夜も眠れず、地獄の日々は三ヶ月に及んだ。
揚げ句の果てに歩行障害が残り、
Mさんは病院に対して、怒りと恨みで燃えたぎった。
病院側が謝罪したが、腹の虫は収まらぬ。
訴訟を起こし、病院側と徹底的にやり合うつもりだったという。
しかし、ふとMさんは思った。
何千人もいる患者の中で、
なぜ自分だけがこんな目に遭ったのだろう?と。
病院側にミスさえなければ、
自分が今、障害者となって苦しむという結果はなかった。
だから、不幸の原因は病院のミスにある、
と誰しも思うだろう。
しかし、それだけではその不幸が今、
自分に起きた、という運命の原因としては、
不十分であることに気づいたのです。

たとえ、病院側に落ち度があったにせよ、
もし自分がこの病院を選ばなければ、
被害者とはならなかった。

自分にとっては、ある事件の一つにすぎなかったろう。
なのになぜ、それが今、自分の身の上に起きたのか?
医療事故自体は、病院側に責任があるから、
徹底的にミスの原因を究明してもらわなければならない。
しかし、その原因が分かっても、
私が被害者となった原因は分からない。
病院が私だけを狙ったのではないのだから。
医療事故に原因が必ずあるように、
その事故が私の身に起きたのにも原因があったはず。
それは何か?

私自身の過去の行いという原因と、
病院のミスという縁が結びついて、
「今」「ここに」このような結果が起きたのだと
「自因自果」の仏説にようやく思い至ったといいます。

●一切の事象に「因」と「縁」がある

これを「因縁和合」と説かれます。
因果の道理とは、正しくは因縁果の道理といい、
因と縁がそろって結果が生じます。
一例を挙げれば、田んぼに米ができるのは、
春先にまかれたモミダネが因。
しかし、モミダネだけでは秋になっても米にはならぬ。
モミダネに土をかぶせ、水をやり、
日光を当て、適度に温度など、
もろもろの条件がそろってモミダネが米となる。
この土や水や日光に当たるのが縁です。
因だけでも結果は起きず、縁だけでも結果は起きません。
因と縁が結びついて、初めて結果が生じるのです。
自分に因がなければ、
自身の上に結果が現れることは絶対にありません。

「病院さえミスしなければ、私はこんな体にならなかった」
と恨みたくなるのは、心情的に分かりますが、
それは縁と因をごっちゃに考えているからなのです。
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●「自因自果」と知らされ
     心がスーと和らいだ

Mさんは言われます。
「医療事故の原因は、病院側にあったとしても、
その被害者が、なぜ私だったのか?
その原因は病院側には求めようもない。
こんな結果を受けねばならなかった訳が、
自分自身にあったはず。
それが業というものなのでしょう。

自分の業が、今、このように現れたに違いない。
『私が悪かったのか・・・』
そう思った時、病院や医者への恨みで張り裂けそうだった心が、
ウソのように和らいだのです」

さらに、
「訴訟を起こし賠償金を得ても、
弁護士に多額のお金を払えば、わずかなお金が手元に残るだけ。
それで苦しみが解消するわけもなく、
そのためにかかる時間や労力が無駄に思えました。
こんな体で裁判に臨んでも命を縮める。
残された体力と時間、お金で仏法を聞き、
人生の目的を果たすことにかけようと思ったんです」。

訴訟の取り下げを家族に伝えると、
家族は仏法に関心を持たれたそうです。
Mさんは言います。
「今思えば、私が最初に仏縁を結んだ『とどろき』には
三世因果の道理が書かれてありました。
私は親鸞聖人の教えに救われたのです。
残された人生、今度こそ真剣に聞かせていただきます」

    ◆       ◆

今現に起きている苦しい結果は、
過去のタネまきにほかならず、
それはMさんのように、明らかに見るよりほかありませんが、
これから先は今からのタネまきで、
どうにでも変わっていきます。
因果の道理を深く知らされるほど、
善い結果が現れた時は、仏祖のご加護と感謝し、
一層善果が来るよう努力するようになります。
また、不幸が来ても、恨んだり呪ったりせず、
もちろん泣き寝入りするのでもなく、
これまでの自己の言動や心の持ちようを反省・懺悔して、
明るい未来に向かって努力精進するようになるのです。
順境には感謝と努力、逆境には懺悔。
順逆どちらでも、Mさんのように、
人生の真の目的に向かって一層聞法精進する勝縁としたいものです。


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