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子は大人の鏡 [因果の道理]

 

 

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少子化で子供の教育に関心が集まっています。
よりよく生きるには、勉強はとても大事ですが、
学問だけが教育ではありません。
「健やかに、真っすぐに生きてほしい」
このすべての親の願いを満足するには、
何を拠り所に子供に接し、
育んでいけばいいのでしょう?

・・・・・・・・・・・・・・・・
●“私自身がまず正す”ーーある親の述懐

「“もう、パパったら・・・”
人形でママごと遊びをしている娘の口調が妻そっくりで、
正直、ドキッとしました。
恥ずかしいやら、ほほえましいやら。
思わず家内と顔を見合わせました。

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幼い女児を持つ、ある父親の述懐です。
知らず知らず、自分の行いを子供がマネている。
こんな経験を持つ親御さんは多いでしょう。
ある大学教授はこう振り返っています。

「5歳の息子が、以前はだれが呼んでも
元気よく“ハイ”と返事をしたのに、
このごろ、とんとしなくなりました。
よく考えてみると、どうも私自身に原因があったらしい。
仕事に忙殺され、妻が呼んでもつい黙って
仕事を続けてしまう。
それを見習って子供は、返事をしなくなったようです。
そこで何とかこれを正そうとしたが、
さっぱり効果が表れない。
最後に、そして気がついたのです。
私自身がまず、ハッキリ返事をするのが一番と。

すると子供は、“ハイ”と元気に答えるようになり、
再び家の中に、明るさを取り戻すことができました」
まさに「子は親の鏡」
わが子の未来を思えば、まず親が行いを正す
大切さが分かります。


それは社会全般でもいえることでしょう。
昨年も食品関連など、多くの企業や団体のウソや不正が
噴出しました。
中でも大分県の教員試験での点数操作や増収賄は、
子供を預かる教育者による犯罪。
(平成21年のとどろきです)
その実態に暗澹たる気持ちになった人も
少なくないでしょう。
また、飲酒運転を取り締まる部署の責任者が、
酒酔い運転で検挙された事件もありましたが、
身を正し、模範となるべき人が、
種々の誘惑に負けてしまうのは情けない限り。
もちろんどの世界でも、立派に職務を
果たしている人がほとんどでしょうが、
不祥事は記憶に残りやすく、
子供への影響も大きいものです。

●勉強させるのだけが「教育」!?

そんな中、私たちが目の色を変えて取り組む
「教育」はどんなものでしょうか。
近ごろはビジネス誌の出版社が父親をターゲットに
教育誌を創刊していますが、
「あの有名校の評判は?」など、
メインの企画の多くは入試対策です。
ある期間、目標を定めて努力する受験は、
子供にも大切な経験になりますが、
学力だけにこだわると思わぬ結果を招くおそれもあります。

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昔から「知育」「体育」「徳育」の三つのバランスが、
子の生育に大切だといわれます。

特に徳育は、行動のもととなる心を育むもの。
知育や体育を支える人間の基礎です。
ところが、昨年の有名大学生による大麻使用や、
相撲部屋でのリンチ殺人など、
その基礎に、昨今はひずみが目立ちます。
「約束を守る」
「挨拶や返事をキチンと」
「正直に。ウソや不正をしない」
「相手を思いやり、親切に」
という心掛け、善い生活習慣を身につけることは、
多くの人が大切だと認識していますが、
一方で、なぜウソや不正はいけないのか、
どうして正直が大事なのか。
悪をやめ、善を心がける理由は何か、
の根本問題には、
なかなか目が向けられないようです。

もし子供にその意味を問われたら、
どう答えるでしょう。
心を清め、身を正そうとすることが、
自身の幸せとどんな関係にあるのか。

それを知ることが、頑張って生きる
原動力となるに違いありません。

●なぜ悪いことはいけないか。

悪事はなぜいけないのか、について考えてみましょう。
お店に行って欲しいものを見た時、
実際に手を出さないのは、
「店の人に叱られる」
「警察に捕まってしまう」
からでしょう。
ほかにも、
「親や大切な人が悲しむ」
「人の迷惑になることは、とにかくいけない」
などの理由を挙げ、“だから悪いことはできない”
と抑えます。
これらは一応、だれもが納得する考え方です。

しかし、それでは「バレず」「捕まらず」
「だれも悲しまない」なら、
何をしてもいいのか。
人に見られなければ、
行いはその場で消えてしまい、
悪行の報いは来ないのでしょうか。

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 昨年10月、大阪で、無断借用した会社の車を
飲酒運転し、はねた男性を3キロも引きずって
死なせた22歳の男が逮捕された事件や、
インターネットや携帯電話で
級友を中傷するいじめが横行し、
自殺者が出るほどになっているのも、
「知られなければいい。どうせバレやしないから」
という思考が始まりだと分かります。

確かに録画でもしなければ、
過去の行為を確かめられません。
しかし、人の目の有無で、悪の報いが来たり、
来なかったりするものでしょうか。

世の中には、だれも見ていないはずの悪事が露呈して、
苦しんでいる人がたくさんいます。
いかに周到に隠蔽しても、「頭隠して尻隠さず」
で馬脚は必ず現れる。
ことわざにも、
「天網恢恢(てんもうかいかい)にして漏らさず」
と、悪業は必ず報うことがいわれています。
古人の経験をもとに作られた至言ですが、
これには根拠があるのです。

●仏教の根幹 因果の道理

人類最高の偉人とたたえられ、2600年前、
インドで活躍されたお釈迦さまは、
私たちの行為と幸不幸には、
大変深い関係があるのだと、「因果の道理」
を教えられました。

「因果」とは「原因」と「結果」のこと。
すべての結果には例外なく原因があるということです。
いい成績を取る、思いどおりの仕事に就けるという幸せも、
ケガをする、人に嫌われるという災いも、
原因なしに起きた結果は、万に一つも、億に一つもありえない。
日常のどんなささいな事象にも、
原因が必ずあり、何か原因を作れば必ず結果が生じる、
と教えられています。

次に「道理」とは、「いつでも」「どこでも」間違いのないこと。
悠久の過去から永遠の未来に至るまで、
変わらぬ真理をいいます。
時代や国、地域によって違う憲法や法律、常識などは、
だから道理とはいえません。
因果の道理とは、原因があれば必ず結果が現れる、
すべての結果には必ず原因がある、
といういつでもどこでも変わらぬ真理なのです。
これを釈尊は、

善因善果
   (善いタネをまけば善い結果が現れる)
悪因悪果
   (悪いタネをまけば悪い報いが現れる)
自因自果
   (善も悪も、皆自分のタネまきによって果報が現れる)

と説かれています。
ここで「因」とは、私たちの「行為」をいい、
「果」とは「運命」(本来、仏教では使われない言葉ですが)
のことです。
善いことをすれば喜ばしい結果が、
悪いことをすればイヤな報いが来る。
善いのも悪いのも、自分に現れる運命はすべて、
過去の自己の行いによるのだ、と教えられます。

その「行為」に三つあると、仏教では教えられています。
これを「三業」といわれます。

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「業」とは行為のことで、
三業とは、
身業(身体の行い)
口業(口で言うこと)
意業(心で思うこと)
の三つをいいます。

私たちには、口や身体は容易に分かりますが、
心で思うことも「行為」であり、
自身にさまざまな果報をもたらすことは、
なかなか分からないことです。

しかし仏教では、口や身体は心の命ずるまま
動いているのであり、
心を火の元とすれば、口や身体は火の粉。
心の行いが最も重いのだと説かれています。

 殺(や)るよりも
劣らぬものは
   思う罪

実際、手にかけて殺すことは大変恐ろしいことですが、
それ以上に恐ろしいのは、思う罪なのだ、
ということです。

因果の道理に寸分の狂いもなく、
行為の果報は必ず自身に現れますから、
人に「見える」「見えない」は関係ありません。
たとえだれからも褒められず、とがめられなくても、
行為は目に見えない力となって残り、
応じた結果となって現れると
仏教では説かれているのです。

この教えをしれば、「バレなければ、何をやっても問題ない」
という誤った見解も、
「何を頑張ってもムダ」という自暴自棄な思いも
粉砕されるでしょう。

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  あれを見よ
深山(みやま)の桜 咲きにけり
 真心尽くせ 
  人知らずとも

深山に咲く桜が、「だれも見ていないから」
と手を抜くことなく、
力の限り花を咲かせているように、
人目の有無にかかわらず、
何事も真心尽くさねばならない。
因果の道理に従っていけば、
裏表無く努力する高潔な人格が
形成されるでしょう。

また、ズルや不正をして思い通りの結果を
得ればいいと思う人もあるでしょうが、
ズルや不正は悪い行いですから、
その報いは必ず受けねばならないのです。

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●悪を恐れ、
  善に向かう心がけ

だれも皆、不幸を恐れ、幸せを求めています。
それには大宇宙の真理である
因果の道理に従って
「悪を慎み、善を心がけなさい」
と廃悪修善を教えられているのが仏教なのです。

これを教えられたエピソードを紹介しましょう。

 

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昔、中国に、いつも樹上で座禅瞑想していた
鳥窠という僧がいた。
ある日、儒者で有名な白楽天が、
その樹下を通った。
奇妙な僧がいるので、ひとつ冷やかしてやろうと、
「坊さんよ、そんな高い木の上で、
目をつむって座っていては危ないではないか」
「そういう貴殿こそ、危ないぞ」
と切り返した。
この坊主、相当偉いのかもしれぬ、
と見て取った白楽天は、
「私は名もなき白楽天という儒者だが、
貴僧の名を承りたい」
「私は鳥窠という名もなき坊主だ」
高名な鳥窠禅師と知った白楽天は、
かねてから仏教に関心を持っていたので、
「いいところで貴僧に会った。
一体、仏教とはどんなことを教えているのか、
一言でお聞きしたい」
と頭を下げた。鳥窠は即座に、
「もろもろの悪をなすことなかれ。
つつしんで善を修めよ、と教えるのが仏教である」
と答えた。白楽天、いささかあきれて、
「そんなことくらいなら、3歳の子供でも知っている」
と冷笑すると、鳥窠すかさず、
「三歳の童子もこれを知るが、八十の翁もこれを行うは難し」
と大喝している。

鳥窠禅師の大喝を、私たち大人は
どう聞けばよいのでしょう。
本当の幸せを知り、求めていくうえで、
「廃悪修善」は大切な心掛けです。
仏教を深く知らされるほど、
この「廃悪修善」の心は強くなります。

すべての人が幸せになれる真実の教えに従い、
悪を遠ざけ、光に向かう。

親が身をもってその心掛けを示すことが、
何よりの「こころの教育」でしょう。

この「因果の道理」は、お釈迦さまの説かれた
7000余巻といわれる膨大な
一切経を貫く、仏教の根幹であり、
大宇宙の真理なのです。
常に心にとどめ、生きる指針といたしましょう。


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「死んだら何もかもおしまい」じゃないよ [因果の道理]

「死んだら
何もかもおしまい」
    じゃないよ ーカルマ(業)の法則

「まいたタネは必ず生える」といわれますが、
今、私のまいているタネ(業・カルマ)が生きている間に
結果を現さなかったら、タネは消えてしまうのでしょうか。
その疑問にお答えします。

●「逃げ得」ということもある?

中国の顔回という人は孔子の門弟で最高の人格者でしたが、
極貧の生活で、しかも夭折した。
一方、盗跖(とうせき)という大泥棒は悪事の限りを尽くしましたが、
生涯、富貴栄華を極めて死んだ。
2人の人生を対照して孔子は「ああ、天われを亡ぼせり、
天われを亡ぼせり」(一体どうなってるんだ!)
と嘆いています。
実際、幾ら真面目に仕事をしているからといっても
必ず成功するものでもないし、
悪人だからといって、必ず不成功に終わるとも言い切れません。
善人の失敗者も多いですが、悪人の成功者も少なくありません。
罪を犯しても一生逃げ通せば「逃げ得」もあるのか、
仏教ではどう教えるのでしょう。

●三世を知れば、ナゾが解ける

お釈迦さまはこのような疑問に対して、
過去、現在、未来の「三世」の実在を説き、
それを貫く因果の法則を示されています。
私たちの生命は、とうとうと流れる大河のようなものだと
仏教では説かれています。
永遠の生命の流れから見れば、80年~100年の人生は、
大河にポッとできた泡がしばらく流れて
パッと消えていくのに例えられるでしょう。
その果てしない生命の流れの中で、
人間に生まれる前を「過去世」(前世)といい、
生まれてから死ぬまでを「現在世」(現世)、
死んだあとを「未来世」(来世・後生)といわれます。
この三世にわたって説かれているのが、
仏教の「因果の道理」です。

●未来の結果を知りたければ・・・

「過去世や未来世なんて、本当にあるの?」
と思われる方もあるでしょう。
しかし私たちが生まれたということは、紛れもない結果です。
しかも地球上、70億の人はあっても、生まれた時も所も、
容姿も才能も同じ人は一人もいません。
その運命の違いは何によって決まったのでしょうか。
これについてもお釈迦さまは、こう説かれています。
「汝ら、過去の因を知らんと欲すれば現在の果を見よ。
未来の果を知らんと欲すれば現在の因を見よ」
(過去、どんなタネまきをしてきたかを知りたければ、
現在の結果をみなさい。
未来、どんな結果が現れるか知りたければ、
現在のタネまきを見なさい。分かるであろう)

●肉体が滅んでも続くものがある

このお釈迦さまの教えによれば、
一人一人の生まれた結果が異なるのは、
70億人それぞれに、生まれる前の人それぞれ
異なる原因があったからです。
私たちの過去世のタネまきが現在の私たちの結果を生み出したのです。
当然、過去世があるように、未来世もあります。
私たちのまいたタネ(業・カルマ)は、
永遠の生命の大河を流れ、肉体が生まれ変わっても、
業は相続されていくのです。
その不滅の業力(業因)が、死んだあとも残り、
縁に触れて結果を引き起こすのですから、
この世で悪事を造って、たとえ現世で悪果が現れなかったとしても、
その報いは死後に必ず受けなければならないのです。


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不平等な運命を、仏教ではどう教えられているのですか? [因果の道理]

(質問)不平等な運命を、仏教では
              どう教えられているのですか?

「人はみな平等だ」といわれますが、
とてもそうは思えません。
裕福な家に生まれ、
容姿端麗でスポーツも勉強もできる優秀な人と、
貧しい家庭に育ち才能もない自分とは、
明らかに差別があります。
努力してもどうにもならぬことがあるように思いますが、
これも運命とアキラメるしかないのでしょうか。
こういうことについて親鸞聖人は、
どう教えられているのでしょうか。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

(答え)
「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず」
人間は平等であることを福沢諭吉は喝破しました。
白人も黒人も有色人も、
富豪も大臣もホームレスも、
一皮はいだら同じ人間であることに、
なんら違いはありません。

けれども現実は、人間ほど、
不平等、差別の激しいものはありません。
生まれながらの賢愚美醜、強弱貧富などの差別や、
各人の身に起きる様々な事象など、
千差万別、億差兆別、実に複雑怪奇であることは
認めざるをえない事実です。

金持ちの家に生まれる者もあれば、
手から口へのその日暮らしの家に生まれる者もあります。
頭の良い人、悪い人、健康な者、病弱な者、
同じ学校を出ても大學の教授になる人、
会社の部長、家業を経営する人、職業を転々と変わる者、
事業に失敗して自殺する者、妻を亡くする人、
交通戦争の犠牲になる人など雑多です。

このようにすれば、間違いなく、
こうなるだろうと思ってやったことが、
とんでもない結果になって、
この後どうすればよいか、
途方に暮れることもしばしばあるでしょう。
いくら真面目に仕事をしているからといっても、
必ず成功するというものでもないし、
悪人だからといって、必ず不成功に終わるとも言い切れません。
善人の失敗者も多いですが、
悪人の成功者も少なくありません。

●正直者はばかを見る?

中国の顔回(がんかい)は、
孔子の門弟で最高の人格者でしたが、
極貧の生活で、しかも夭折(ようせつ)しました。
盗跖(とうせき)という大泥棒は、
悪事の限りを尽くしましたが、
生涯、富貴栄華を極めて死にました。

この2人の人生を対照して孔子は、
「ああ、天われを亡ぼせり、天われを亡ぼせり」
と嘆息しています。

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このようなことは、
私たちの身辺にもいくらでもあって、
「正直者はばかをみる、やりたい放題やりちらせ」
と、自暴自棄になる人やら、
「これはどうにもならない運命なのか」
と、アキラメ主義になる人もいます。
また、自分が不幸になると「あいつが悪い」から、
「社会が悪い」からと、
それらを怨む人も多いのです。

むろん、本人の注意や努力、環境や社会機構なども、
大いに私たちの運命に関係を持っています。
世の中の仕組みを変えることによって、
少なくすることもできるし、
無くすることのできる悲運もあるでしょう。

しかし、持って生まれた知能指数や性格など、
どうすることもできないものも多々あります。
なぜ、障害を持って生まれなければならなかったのか。
なぜ日本に生まれたのか。
なぜ昭和に生まれたのか。
なぜ、この親の子供として生まれなければならなかったのか、
なぜ、こんな子供を産まなければならなかったのかと、
悲運の原因を模索していますが、
結局は「分からない」とアキラメてしまいます。

三世を知るか否か

ここに仏教は、過去、現在、未来の三世の実在を説き、
それを貫く因縁果の大道理を示します。

私たちの現実は、限りなき時間と限りなき空間の上に成り立ち、
因縁果の道理に従って、過去、現在、未来と続くのですが、
現世だけしか知らない人間の目の届く範囲は
ごく限られています。
だから、現世だけの結果を見ただけでは、
原因のつかみようがないのです。

ただ、間違いないことは、
蒔かぬタネは絶対に生えぬということです。
結果があれば、必ず、
そうなる因と縁とがあってのことなのです。

頼山陽(らいさんよう)は、
釈迦と孔子と相撲をとって負かされている画を描いて、
仏教者の雲華院大含(うんげいんだいがん)に
「この絵に、賛をしてくれ」
と依頼した。
すると大含は、しばらく考えて、
孔子、三世を知らず、
釈迦顛倒(てんどう)して、これを笑う

と揮毫(きごう)したといいます。

人生を、今生だけにとらえて、
道徳倫理生活のみを強調する人も、
親鸞聖人の教えよりすれば、
無知蒙昧(むちもうまい)といわざるをえないでしょう。

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自利利他で行こう!しあわせの種まき [因果の道理]

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自利利他で行こう
     しあわせの種まき

プロローグ★しあわせのスイッチ

夜八時を少し回ったこと、
お店には、女性たちのにぎやかな笑い声が響いていた。
“疲れたおとなの充電基地”をうたい文句に、
家庭料理と飾らない居心地のよさが評判の、
和風ダイニング『ダンナ屋』。

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照明を落とした店内をぐるりと見渡したマリ子は、
奥のテーブルで手を振るケンジを見つけた。
「ごめんなさい。遅くなって」
「いや、ボクも今来たばかり」
ほとんど空のグラスを見ればウソと分かったが、
ケンジの言い方がおかしくて、自然と口元が緩んだ。
ケンジは学生時代の先輩であり、
よき相談相手でもある。

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「今日もまた何かあったのかい?」
「分かりますかぁ」
マリ子は向かいに腰掛け、近づいてきた店員に、
冷たいゴーヤ茶を注文した。
「いっつもトラブルが起きるんです。
すごくイヤな人がいて・・・」
「そうか、大変なんだね」
「ケンジさんの周りは、そういうことないんですか。
いい人ばかりで、うらやましいな」
そうでもないよ。ま、ボクはなるべく
幸せのスイッチを入れるようにしてるだけ

「何ですか、それ」
ケンジはすぐには答えず、問いかけた。
例えば一日の中で、他人のことを考えている時間の割合、
考えたことある?」
「ないですけど、半分ぐらいかな」
「じゃ、その中で相手に何かしてあげようと思ってる時間と、
腹を立ててる時間は?」
「うーん。九割方、怒ってるかも」
「つまり、相手に何かしてあげようと思っている時間は一割未満?」
「まあ、そうなります

ケンジはぐっとマリ子のほうに顔を近づけて、ささやいた。

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毎日ちょっとでも多く、人に何か与えられないか考える。
それが幸せのスイッチ

えー、よく分からないけど、と言って、
マリ子は首をかしげた。
ゴーヤ茶が運ばれてきた。
店員は、手際よく次の注文をとって立ち去る。
とりあえず二人はグラスを重ねた。
で、さっきの続きだけど。
お釈迦さまがね、“幸せになりたければ、
相手に与えることを考えなさい。
もらうこと、取ることばかり考えていたら不幸になりますよ”
と仰っているんだよ

「えっ、お釈迦さま?」
ここからの時間は君にプレゼント、と言いながら、
ケンジは手帳とペンを取り出して、
さらさら書き始めた。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
  しあわせの
     原因と結果の関係

どうすれば幸せになれるのか。
私たちが一番知りたい、
運命の原因と結果の関係を教えられたのが、

善因善果
悪因悪果 
自因自果

という、お釈迦さまのお言葉です。
「善因善果」とは、善い種をまけば善い結果が現れる。
「悪因悪果」とは、悪い種をまけば悪い結果が引き起こる。
「自因自果」とは、善いのも悪いのも、
自分の現れる結果のすべては、
自分のまいたものばかり、ということです。

ここで「因(タネ)」とは、私たちの行いのこと。
「果」とは幸福や不幸の運命です。
幸福という運命は、善い行いが生み出したものであり、
不幸や災難は、悪い行いが引き起こしたものである。

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神というものがいて運命を造ったのでもなければ、
先祖のたたりで不幸になるのでもない。
自分の運命のすべては、
自分の行為が生み出したものなのだ

と、お釈迦さまは教えられているのです。
まかぬ種は生えませんが、まいた種は必ず生える。
善因は善果、悪因は悪果。
一度まいた種(行い)が消えることは絶対ありません。
私の人生をつくっているのは、
私の行為であり、因が変われば果も変わる。
運命は自分で変えられる、ということです。

幸せの種まき
    六度万行と布施

では、どんな種をまけばよいのでしょう。
お釈迦さまは、たくさんの善(諸善万行)を
教え勧められています。

しかし、あれも善、これも善と並べられても、
私たちはどれから手をつけてよいか迷いますね。
ちょうど、服を一着だけ買いに行ったのに、
何百着も並んでいると目移りして選べません。
そんな時、店員さんが気を利かせて、
数着候補を並べてくれると選びやすいでしょう。

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私たちが実行しやすいように、
お釈迦さまが、いろいろな善を六つにまとめられたのが、
六度万行(六波羅密ともいう)です。

その六つを挙げ、現代語で表現すると次のようになります。

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この六つに、数え切れぬほどの善がおさまっています。
しかも、どれか一つ実行すれば、
六つ全部したのと同じになるのが、六度万行の特長です。

中でも私たちがいちばんしやすいのが布施ですから、
お釈迦さまは、六度万行の最初に挙げられています。

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布施とは「施す、与える」こと。
広い意味で「親切」です。

布施を大きく分けると、財施と法施の二つになります。
財施とは、財を施す。
つまり、お金や物を人にあげることです。

恵む人は恵まれる。
生かす人は生かされる。
「幸せになりたければ、布施しなさい。
もらうこと、取ることばかり考えていたら、
善果はきませんよ」
とお釈迦さまは仰います。

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「与えたら自分の分が減るではないか」と思うでしょうが、
違うんです。
あげた人も、もらった人も、ともに幸せになれる。
やってみれば分かりますよ。

もちろん、これだけ与えればこれだけ返ってくるだろう、
と計算してやるのは、
商売であって布施ではありません。

お釈迦さまは、布施の心掛けとして、
「三輪空(さんりんくう)」を教えられています。

「私が(施者)」
「だれだれに(受者)」
「何々を(施物)」
この三つを忘れるように努めよ、ということです。

相手の幸せだけを考えて種をまくのです。
心が大切なんですよ。

お金や財を持たない人でも、
気持ちさえあれば七つの布施ができますよ、
とお釈迦さまは「無財の七施」を教えられています。

無財の七施

眼施(げんせ)
優しい温かい眼差しで周囲の人々を
明るくすること。「目は心の鏡」。
和やかな光をたたえた目は、どんなに人を慰め、
励ますことでしょう。

和顔悦色施(わげんえっしょくせ)
優しい笑顔で人に接すること。
笑顔は周囲を和ませ、
トゲトゲしい対人関係もスムーズにしますね。

言辞施(ごんじせ)
優しい言葉をかけること。
例えば事故や災害に遭った人に、
心から「命が無事で幸いでしたね」
と気遣う人もあれば、
「修理費いくら?うわーバカみたい」
と傷に塩を塗る人もある。
あなたはどんな言葉をかけていますか。

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身施(しんせ)
肉体を使って人のため、
社会のために働くこと。
いわゆるボランティアです。
知人が車に大きめのゴミ箱を置いていた。
道路にゴミが落ちていたら拾うためという。
普通なら「だれか片付けるだろう」と思うところ。
「みんなのために、自分に何かできることはないか」
という心が行動に表れます。

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心施(しんせ)
心から感謝の言葉を述べること。
「ありがとう」
「すみません」
たった5字の音声が、職場や家庭を明るくする。
反対に、その一言がなくて
信頼を失ったことはありませんか。

床座施(しょうざせ)
場所や席を譲り合う親切。
乗り物の座席の取り合いや、
権力の座の奪い合いを見ると、
いかに床座施が必要か知らされます。
「他人に譲る気持ちを持つようにしよう」
といわれますね。

房舎施(ぼうしゃせ)
求める人、訪ねて来る人があれば
一宿一飯の施しを与え、
その労をねぎらうことです。

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このように心がけさえあれば、
どんな人でも、いつでもできる善が布施なのです。

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ただし、誰にでも与えればよいのではありません。
えば放蕩息子に金銭を与えればますます堕落しますし、
泥棒の手助けをしてよいはずがありません。

お釈迦さまは、布施の相手を「三福田」
と説かれています。

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最も敬うべき、ご恩を受けているお方は、
私たちを未来永遠に幸せにしてくださる阿弥陀如来です。

そして親鸞聖人や蓮如上人など、
その阿弥陀如来の御心を伝えてくださった方々。

また、生み育ててくださったご両親や学校の先生、
他にも陰に陽にお世話になっている方もあるでしょう。

悲田(ひでん)は、病やケガ、災害や貧困などで
苦しんでいる人のことです。

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農家の人が田んぼに種をまくのを見て、
あいつは馬鹿だなあ、
あんなところに種を捨てて、と思う人はないでしょう。
やがて芽が出て成長し実を結んだ秋の収穫は、
すべて農家のものになるからです。

ちょうどそのように、布施をすれば、
その福徳は布施をした人のものになり、
やがて大きな幸せの実を結ぶから、

布施の相手を田んぼに例えられているのです。

欲深い私たちは、金でも物でも、
与えるとつい損をしたように思いますが、
逆だと教えられます。

布施の功徳は、幸せとなって必ず布施した本人に
現れるのですね。

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法施とは法を施す。
つまり、人に仏法を伝えることです。
財は一代の宝、法は末代の宝」といわれ、
金や財は生きている間の喜びですが、
仏法には未来永遠の幸せが説かれていますから、
それを伝えることは財施に勝るしあわせの種まきだと、
お釈迦さまは教えられています。


思う存分話ができなくても、
仏法が説かれる場所へ人を誘ってあげれば、
それも法施です。

「こんな尊い教え、自分だけ聞いているのはもったいない。
みんなに聞いてもらいたい」
と、わが家を開放して法話を開いたり、
聞法道場をつくる。
これは、財施と同時に法施もすることになり、
その功徳は計り知れません。
昔から、自分の家で法座を勤めると、
その家の屋根に留まった鳥から、
床下の虫まで尊い仏縁を結ぶといわれています。

財施も法施も、ともにしあわせの種まき。
まいた種はほかのだれでもない、
全部あなたのものになるのですから。

●エピローグ★自利利他で行こう

「何だか幸せになれそうな気がしてきた」
そう言ってマリ子は笑った。
店に入ってきた時の疲れ顔は、
もうどこかへ消えてしまったようだ。
ケンジはほほえみながら、最後にこう付け加えた。
仏教では、自分さえよければ他人はどうでもいい、
という考え方を最も嫌われるんだ。
我利我利亡者といってね。
我利我利とは、自分さえ助かればいい。
他人はどうでもいい、という心。
そんな人が愛され、慕われ、
恵まれるはずがないでしょ?

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仏教は自利利他。
他人を幸せにする(利他)ままが、
自分の幸せ(自利)となる。
他人も生かし、自分も生きる。

これが自利利他の道なんだよ
「自利利他、か。ステキな言葉ね」
マリ子は弾んだ声で答えた。
ちょうど熱々の料理が運ばれてきた。
「お待たせしました。
揚げ出し豆腐のほっこり煮と
『ダンナ屋』特製桜ご飯のセットでございます」
「うわっ、おいしそっ!」
おいしいですよー、と言いながら、
店員は二人の前にお膳を据えた。
「じゃ、改めて」
ケンジがグラスを手に取る。
マリ子もならった。
「自利利他で行こう!」
「乾杯!」
カラン、と、グラスの中で氷が揺れた。

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・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
体験手記

無常を教えてくれた
    父のメッセージ
「いつまでも幸せが続くと思っていたのに、
無常の嵐が、何の前触れもなく吹いたのです」
清水さんが仏法を聞くきっかけとなったのは、
幼いころの悲しい出来事でした。
   石川県  清水 浩一さん(22・仮名)

「それ、人間の浮生(ふしょう)なる相(すがた)を
つらつら観ずるに、凡そはかなきものは、
この世の始中終、幻の如くなる一期なり」
蓮如上人の書かれた「白骨の御文章」の冒頭です。
18歳の時、私は初めてこのお言葉を聞き、
心を打たれました。
そして、胸にしまっていたあの出来事を、
思い出さずにはいられなかったのです。

6歳の夏、その日は。父と私、3歳の弟とで
海水浴を楽しんでいました。
とても高い飛び込み台から、父は繰り返し頭から飛び込んでいました。
何度目だったでしょう。
飛び込んだ父が、海面からなかなか上がってきません。
最初は、私や弟を驚かそうとしているのだと思いましたが、
いつまでたっても上がってこないのです。
にわかに周囲が騒然とし、大人たちが海に潜って、
父を捜し始めました。
言いようのない不安。
私はどうしていいか分からず、
ただ待つしかありませんでした。
やがて、2、3人に抱きかかえられ、
海から上げられました。
人々が取り囲み、心臓マッサージがなされている。
救急車のサイレンが鳴り響きました。
「さてしもあるべき事ならばとて、
野外に送りて夜半の煙と為し果てぬれば、
ただ白骨のみぞ残れり」  (白骨の章)
190センチもあった父は、ひとつまみの白骨に変わり果てたのです。
「大好きなお父さんは、もういない。
二度と会えない。一体、何が起きたのか」
幼かった私には、とても理解できないことでした。
一つだけ分かったのは、母の狂わんばかりの悲しみ。
泣き叫ぶその姿は、今も忘れることができません。

●衝撃的な出遇い

事故から12年後、大学生になった私は、
高校の友人に誘われて、初めて仏法を知りました。
そこで聞いたのが「白骨の御文章」です。
衝撃的な蓮如上人のお言葉は、
私の胸に深く刻まれました。
営々と築き上げたどんな成果も、
人生の幕切れで、ぐしゃりと握りつぶされる。
残るはひとつまみの白骨のみ。
31歳の父が、姿にかけて教えてくれたのは、
この仏説まことだったのです。
「一度きりの人生、後悔だけはしたくない」
そう強く願って生きてきた私が、
“人生で果たすべき唯一の目的”
を教える仏法に出遇えたのです。
仏縁に恵まれ、今の私があるのも、
母のおかげです。
父亡きあと、いちばん悲しみ、苦労してきた大切な母にこそ、
この素晴らしい聖人の教えを伝えたい。
離れて暮らす母に何度も手紙を書き、
『とどろき』を送りました。
けれども、なかなか伝わりません。
“人一倍苦労し、ずっと応援し続けてくれたのに、
なぜ伝えることができないんだ。どうしたらいいのか”
もどかしさを抱えながら、
気がつけば3年が過ぎていました。

●「聖人の教えは、最高よ」

ところが昨年の秋、
「あなたから、話を聞くようにするよ」。
母の突然の言葉に耳を疑いました。
「職場の先輩から言われたの。
『親鸞聖人の教えは最高よ。息子さんがどんな話を聞いているか、
あなたも聞いてみなさい』って」
母は職場で、ある女性の先輩をとても尊敬し、
悩み事を何でも相談しています。
その先輩の机に、ある日、『とどろき』が置かれていたそうです。
実は20年来の読者で、
しかも、よく仏法を聞きに行っていることが分かりました。
信頼する方の言葉が縁となり、
11月、母と祖母が初めて聞法会場に足を運びました。
その日は『歎異抄』第7章についてでした。
「難しいお話だったね」
と言いながらも母は、
「浄土真宗では、どなたに手を合わせるの?」
と尋ねてきました。
「阿弥陀仏だよ」
と答え、阿弥陀仏とお釈迦さまの関係は
先生と弟子であることなどを話しました。
家族で肩を並べて聴聞し、法を語り合う、
夢のような幸せな時間でした。
“お母さん、22年間、苦労して育ててくれてありがとう。
お母さんの子供に生まれて、本当によかった”
仏法に出遇い、心からそう言えます。
身をもって無常の真実を伝えてくれた
父のメッセージを心に刻み、
家族で光に向かって進ませていただきます。


タグ:自利利他

因果の道理を説かれた本当の目的とは!? [因果の道理]

 (minsukeが書きました)

皆さん、前回の記事「因果の道理」に関しては、
読んでいただけたでしょうか?
(読まれていない人は、「幸せの選択、不幸の選択、あなたはどっち!?」 )
お釈迦さまが因果の道理を説かれたのは、
この世、幸福に生きるにはどうすればいいかを
教えたかったからではありません。
この世の50年、100年など、
あっという間に過ぎ去ってしまいます。
無量寿の仏さまからすれば、
人間の寿命などカゲロウのようなものです。
仏さまであるお釈迦さまが地球にお出ましになられたのは、
そんな50年、100年の崩れるような幸せではなく、
未来永遠の崩れない幸福があるということを
教えるためだったのです。

1000年後も、1万年後も、
未来永遠に幸福になる方法を教えに来たのです。
つまり「阿弥陀仏の本願」に救われれば、
未来永遠の大生命をいただけることを
教えたかったのです。

因果の道理は三世(過去世・現在世・未来世)を貫きます。
この世だけで終わらないのです。
お釈迦さまは、我々の本当の姿を大無量寿経に
説かれています。

心常念悪(心は常に悪をおもい)
口常言悪(口は常に悪を言い)
身常行悪(身は常に悪を行い)
曾無一善(かつて一善もなし)


心で、口で、体で、悪ばかり行い、
かつて一善もやったことがないのが
我々だと言われているお言葉です。
そんな者が一息切れたらどうなるでしょうか。

私たちのやった行為は
目に見えない力・業力となって残り、
決してなくなりません。
悪ばかりやっていて、その業力が我々の本当の心である
阿頼耶識に蓄えられていくのです。

死ねば、その悪業が悪縁と結びついて、因果の道理により、
悪因悪果で我々に返ってくると教えているのです。

だから、必堕無間と言われ、
死んだら八万劫中、大苦悩の地獄に
堕ちるのだと説かれたのです。

(一劫とは4億3千2百万年。八万劫とは、その八万倍の長年月。
お釈迦さまの言われたのは1000年や10000年どころではないのですよ!
人間界は、悪縁がそれほどないので苦しまずにすむだけです。)

それを解決する方法は、
阿弥陀仏に救われるしかないのだ、
だから今生で、弥陀の本願を聞き抜けと
教えに来られたのです。

阿弥陀仏は、生きている今、
もう崩れない絶対の幸福に救い摂り、
死ねば極楽に往生させ仏にしてみせると、
命を懸けて誓われています。

「若不生者 不取正覚」と、
弥陀の18願に誓っておられるのです。
それも聞く一つで救ってみせると誓われているのです。
(なぜ聞く一つで救うと誓われたのか、
それは条件などつけたら誰も救えないからです。
悪しかできない、真実のかけらもない我々には何もできないことなど、
とっくの昔に見抜かれているのです)

我々は阿弥陀仏に救っていただくしか、
死後の地獄を解決する方法はないのです。

地上に出て1週間しか生きられないセミには、
10年、100年が分かりません。
我々は仏さまから見れば、セミのようなもので、
我々の生命は、始まりがなく終わりがないものと
教えられてもピンときません。
地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上界の
心が作り出す迷いの世界を巡っていて、
しかも、三悪道(地獄・餓鬼・畜生界)ばかりで
苦しんできたことなど、知る由もありません。

(『涅槃経』には、
「人趣に生まるるものは、爪の上の土のごとし。
三途に堕つるものは、十方の土のごとし」
人間に生まれるものは、爪の上の砂のように少なく、
三悪道(地獄・餓鬼・畜生に苦しみの世界)に堕つる者は、
大宇宙の砂の数ほど多いと教えています。)

それは人間界に生を受けて、
その時にできた頭で考えるから分からないのだと、
お釈迦さまは教えられます。

仏とは、さとりの52段の一番上の仏覚を悟られた方です。
悟りとは、一段違えば我々凡夫と虫けらよりも
知恵が違うといわれます。
お釈迦さまは、我々とは52段も違うのです。
仏の知恵を体得されたから、我々が六道輪廻し、
生死を繰返し苦しみ続けているのが分かるのです。

(今回、参考に以下の記事を案内しておきます。
心の行いが一番重要なのです。
口や身体に命令をくだすのは心だからです。
口や身体は心の奴隷に過ぎないからです。

我々はみな極悪人である!
地獄行きの本性


運命を決めるものは何?釈迦が説き明かす因果の道理 [因果の道理]

運命を決めるものは何か、
       
釈迦が説き明かす、因果の道理

「因果の道理」を読んだ時、今の苦しみは、
自分の種まきが生み出したものと知りました。
結婚したのは自分であり、妻は縁、
“そうか、自分の種まきの結果なら、
受けていかなければ”
と思ったら、心が楽になったのです。


静岡県の寺井肇(仮名)さんの手記です。
寺井さんは、昨年二月に亡くなった妻・道子さの介護を
七年間続けました。
当初は、認知症の夫人の世話にすっかり疲れ切り、
“いっそ、一緒に死のうか”などと
恐ろしい考えもよぎったとか。
そんな寺井さんの心が、「因果の道理」を知り、
大きく変わったというのです。

この体験手記に、多くの読者から反響が寄せられました。
いくつかを紹介します。

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「介護とまではいかないが、入院した妻を、
毎日見に行き元気づけている。
『とどろき』を読み、なお一層、因果の道理が身にしみる」
            (兵庫県・60代男性)

「因果の道理がよく分かりました。
今の生活は過去にまいた種が生えてきたと思って、
つらい時は自分が刈り取って、
これから少しでもよい行いをして、
人生を送りたいと思います」
            (島根県・80代女性)

寺井さんの心を変えた「因果の道理」とは、
どんな教えなのでしょうか。


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いつでもどこでも変わらぬ真理

因果の道理は「仏教の根幹」です。
仏教とは、仏の説かれたみ教えをいいます。
2600年前にインドで活躍されたお釈迦さまが、
35歳の12月8日に大宇宙最高の仏というさとりを開かれ、
80歳でお亡くなりになるまでの45年間、
説いていかれたみ教えを、
今日、仏教といわれます。

その根幹とは、仏教を一本の木とすれば、
根や幹にあたる教えです。
根や幹が枯れれば、木は倒れてしまう。
因果の道理が分からなければ、
仏教は全く分からなくなる

ということです。

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まず、「道理」とは、三世を貫き、
十方を遍く(あまねく)真理をいいます。
「三世」は、過去世、現在世、未来世のこと。
「いつでも」という意味です。
2600年前のお釈迦さまの時代も、現代も、千年後も、
いつでも変わらないことを「三世を貫く」といわれます。
「十方」とは、東西南北上下四唯のことで、
「どこでも」ということです。
インドでも、中国でも、日本でも通用する。
たとえほかの星や宇宙の果てに行っても変わらないことを、
「十方を遍く」といいます。
このように、いつでも、どこでも変わらない真理を
「道理」といわれるのです。


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次に「因果」は、原因と結果のことで、
すべての結果には必ず原因がある。
原因なしに起きる結果は、
万に一つ、億に一つもないと
仏教では教えられています。

大海原に飛行機が墜落し、
機体が回収不能になった場合でも、
“この事故には原因がなかった”ということはありえません。
乱気流の影響や操縦ミスなど、
必ず原因があったのですが、
究明できないので、原因不明となっただけ。
「原因が分からなかった」ということと、
「原因がなかった」ということとは、
全く違うのです。

すべてのことには、
必ず原因があって結果があるという、
いつの世、いかなる所でも変わらぬ真理が
「因果の道理」なのです。


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●原因と結果の関係

科学をはじめ、あらゆる学問は、
この因果の法則に立脚している
のですが、
特に仏教では、私たちの最も知りたい
幸福や不幸の原因と結果の関係を教えられています。
その原因と結果の関係について、
お釈迦さまは次のように教えられています。


善因善果 
悪因悪果 
自因自果


「善因善果、悪因悪果」とは、
善い種をまけば善い結果。
悪い種をまけば、悪い結果が現れる、
ということです。


分かりやすく植物のことで例えれば、
畑にダイコンの種をまけばダイコンが、
キュウリの種をまけばキュウリが出てくる。
ダイコンの種をまいてキュウリが生えることも、
キュウリの種をまいてダイコンが出ることもありません。

まいた種と同じものしか生えてはこないのです。
ダイコンの種をまきながら、
“何が生えてくるのかな”という農家の人もないし、
キュウリが出たのを見て、“あの時、何をまいたかな?”
と迷う人もないでしょう。
まいたものを知れば、何が出てくるか分かるし、
出てきたものを見れば、まいた種が分かるからです。

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次に、「自因自果」とは、まかぬ種は生えぬ、
刈り取らなければならぬ一切は、
自分のまいたものばかり、

ということです。

自分が酒を飲めば自分が酔う。
友達が一生懸命、勉強しても、自分の成績は上がりません。
自ら努力して勉強しなければ、成績は上がらない。
まいたその人に結果が現れるのであって、
他人のまいた種の結果が
自分に現れたり(他因自果)、
自分のまいた種の結果が
他人に出る(自因他果)こともありません。


この場合、「原因」とは私たちの「行為」。
「結果」とは、本来、仏教では使わない言葉ですが、
分かりやすく言えば、「運命」のことです。
「善因善果、悪因悪果、自因自果」。
善い行いは、善い運命(幸福)を、悪い行いは、
悪い運命(不幸)を生み出す
、ということです。
善いことをして、悪い運命が引き起こることもなければ、
悪いことをしたのに、善い運命が現れることもない。
善いのも悪いのも、
自分に現れる運命のすべては、
自分の行いが生み出したものなのだ

と仏教では教えられているのです。

だれもが、知らず知らず、この因果の道理を信じて
生活しているのではないでしょうか。

受験生が勉強に励むのは、志望の大学に合格し、
将来、少しでもいい仕事に就くためでしょう。
望む職を得たら、一生懸命、働く。
仕事のやりがいや、より多くの収入、
ゆとりのある生活を求めてのことです。
まじめに努力することが、よりよい人生を生み出すと
信じているからです。
どんな場合も、行為に応じた結果が現れる因果の道理を、
無意識にでも信じているのです。


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自因自果と思えない・・・

ところが一方で、
そう思えないことも世の中には多くあります。
あるところに、家事や育児もよくこなしている
非の打ち所のない周囲も認める奥さんがいた。
ところが主人ときたら、朝から仕事もせずに飲んだくれ、
妻の収入をギャンブルで使い果たし、
果ては暴力まで振るう、とんでもない男。
「気の毒な奥さん、あんなご主人さえいなければ、
これほど苦しまなくてもいいのにねえ・・・」
周囲も口々に言い、奥さん自身も思っている。
だれもが彼女に同情しますが、
これも自因自果なのでしょうか。

仏教ではやはり、奥さん自身が生み出した結果だと
教えられるのです。
どうしてでしょう。
確かに、夫は悪い男で、“彼さえいなければ”
と思うのも無理からぬことです。
しかし落ち着いて考えれば、周囲の人々の中で、
このように苦しんでいるのはこの女性一人。
ほかの人にない原因が、彼女だけにあったのです。
それはこの夫を好きになって、
結婚したということです。
こんな男が存在していても、結婚さえしなければ、
今の苦しみは生じなかったはず。
苦悩の原因を突き詰めれば、
ほかに男性はいくらでもいたのに、
よりによってこの男を好きになり、
結婚した奥さん自身の行為にほかなりません。

では、この夫は何の関係もないのか。
もちろんそうではありません。
ここで知っていただきたいのは、
「因果の道理」とは、正確には、
因縁果の道理」であるということです。


例えば、米という結果の因はモミダネですが、
畳の上にまいたのでは芽は出ません。
モミダネが米になるには、
土や水、日光、空気、肥料などの助けが必要です。
これらを縁といいます。
また逆に、土や水などの縁があっても、
モミダネがなければ米は得られません。
因だけでも、縁だけでも、果は生じない。
因縁が和合して初めて、結果が生じるのです。



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この夫は大変な悪縁です。
ですから言動を正すよう、働きかけることが大切なのは
言うまでもありませんが、
あくまでも原因は、彼を好きになって結婚した
奥さん自身にあるのです。



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また、こんな場合はどうでしょうか。
広い優先道路を帰宅中のAさんの車に、
交差する狭い道から一時停止もせずに
飛び出してきたBの車が衝突し、
Aさんは大ケガをした。
こんな時、“全面的に悪いのは、Bではないか”
と思う人は多いでしょうが、
これもやはり自因自果なのです。
なぜでしょう。
Aさんの前後には、多くの車がこの道を走っていた。
しかし、Bの車とぶつかったのはAさんのみ。
わずか数秒でもずれていれば衝突は免れたはずなのに、
なぜよりによってAだけが事故に遭わねばならなかったのか。
暴走車が突っ込んでくる瞬間に、
そこにいなければならなかった原因を、
Aさんだけが持っていたからであり、
自身の種まきによって、その時、
その場所に引きずり出されたのです。

狭い道から、一時停止せずに飛び出してきたBは悪い縁。
そのような悪縁をなくすよう、
厳重な取り締まりが必要なのは、
言うまでもありません。
しかし、事故に遭った直接の原因は、
あくまでもAさん自身にあった、ということです。


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●ナワをうらむ泥棒

私たちは、思わぬお金が儲かったり、
人から褒められたりと、
善い運命が訪れた時は、
「そうそう、オレが頑張ったからさ」
と因果の道理を素直に認めることができます。
ところが不幸な目に遭ったらどうでしょう。
「こんな目に遭ったのは、アイツのせいだ」
と怒り、周囲を恨んだり、のろったりしないでしょうか。

あまりにも不幸な時は、
「自因自果」とは思えずに、
「他因自果」と思う心が噴きあがります。

昔からそれを、
ナワをうらむ泥棒
といわれます。
御用となった泥棒がナワで縛られ苦しんでいる。
彼は、“オレを苦しめているのは、このナワだ”と考え、
恨んでいる。
果たしてその考えは正当か。
愚かで滑稽だとだれでも思うでしょう。
泥棒を苦しめているのは、
彼自身の犯した悪事にほかならないからです。
ところが、目先のことしか分からぬ泥棒は、
自分を苦しめているのはナワだと思い、
過去に犯した悪の行為の結果とは、
夢にも気づかない。
世の中にナワがどれだけあっても、
縛られるような悪事を働かなければよかったのに、
そうとは思えないのです。
しかし、この泥棒を笑える人はどれだけあるでしょうか。

今年2月、滋賀県の34歳の女性が、
娘の友人である幼稚園児2人を刺殺するという
衝撃的な事件がありました。
(平成18年のことです。)
「自分の子供が周囲になじめないのは、
ほかの子供のせい」
女性は動機をこう語ったそうです。
自身の苦しみの原因を、いたいけな子供に転嫁して、
殺してしまうとは、
まさに「ナワをうらむ泥棒」の姿そのものです。
「こんなところに嫁に来たから苦しいのだ。
隣の家ならよかった。仲人が悪い」
「あの時、あの人があんなことを言ったから、
今こんなふうに苦しんでいるんだ」
などと運命をのろい、他人を憎んでいる心はないか。
とんでもないものを恨んだり、
腹を立てたりしていないでしょうか。
因果の大道理を知らぬ愚か者はだれか。
振り返らずにおれません。


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●いつの時代でも

時代や立場が変わっても、
これは変わらぬ人間の姿でしょう。
お釈迦さまの時代にも、
こんなことがありました。

当時、四隣(しりん)に覇をふるった
マガダ国のビンバシャラ王は、
釈尊から教えを受けていたが、
ある時、あろうことか生んだ我が子・アジャセ太子によって
牢屋に入れられ、大変な苦しみを受けていた。
苦しむ王の心の声を察知なされ、
お釈迦さまは弟子のフルナと目蓮を遣わされる。

王は彼らに切々と訴えた。
「フルナ様。わが子のために、
なぜこんな仕打ちを受けねばならぬのか。
私、分かりませぬ。
あれほどあの子のことを案じ続けてきたのに。
今は憎しみばかりわいてくる。
どうしてこんなことになったのか。分かりませぬ。
私には、どうしても・・・」
「ビンバシャラ王殿、静かに、
お釈迦さまのご説法を、思い出してくだされ。
お釈迦さまは常にお説きくださいました。
『善因善果 悪因悪果 自因自果』。
まかぬ種は生えぬ。
刈り取らねばならぬすべては、
自分のまいたものばかり。
私たちの身に起きる一切は、
私たちのやった行為の結果であると。
深く、過去の行いを振り返ってみようではありませんか」
フルナ尊者の言葉に、王は思い出してみるが、
どうしても分からない。
フルナは言った。
「ビンバシャラ王殿。
よくよく思い起こしてくだされ。
子供欲しさに、韋提希夫人と修行者を
殺害したのはだれか。」
「ああ・・・」
ようやく王は気づく。
かつて永らく実子に恵まれなかった時、
妻・韋提希とともに迷った王は、
“奥山の修行者が死ねば太子が生まれる”との占いを信じて、
殺してしまう。
やがて身ごもった韋提希が、
修行者のたたりを恐れたため、
今度は生まれてくる子供を剣の林に
生み殺そうとしたのである。

一部始終を思い出した王に、フルナ尊者は語りかけた。
「ビンバシャラ王殿。
まかぬ種は生えませぬ。
今の地獄は、あなた自身が造られたもの。
それ以外のものではありませぬ」
「ああ、そうだったのか・・・。
いつも、お釈迦さまから
お聞かせいただいていたことなのに。
己のまいた種を忘れておりました・・・。
教えの通りであった。
今にして、お釈迦さまのみ教えが、身にしみ入りまする」
大地に五体を投げだし、王はさめざめと懺悔した。

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●幸せな未来は
   現在の自己が造るもの

今、自分が受けている結果のすべては、
過去の自分の種まきが生み出したものと知れば、
善果には感謝となり、悪果は反省、
向上の得難い勝縁になりましょう。

冒頭の寺井さんの手記にも、
“自因自果に間違いない”と知らされた時、
“心が楽になった”
とあります。
この真理に気づかれたからこその、
心の転換だったのです。


真実の仏法を知らされ、
因果の道理を信じている人は、
悪い運命に遭えば、
自己の過去の行為を懺悔し、
善い運命に恵まれれば、
より努力精進して無限の向上に
努めずにおれなくなってきます。
成功も栄達も皆、その人の努力精進の結果です。

厳正な因果の理法を知らず、
不平や愚痴を並べる者には破滅あるのみ。

現在の運命はかつての自己が創造し、
未来は今からの自己が造る
と分かれば、
乱暴な自暴自棄も、無気力なアキラメも吹き飛んで、
過去を反省し、よりよき明日に全力を挙げる、
強くたくましい人生が開けるのです。



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タグ:因果の道理

どうしたら幸せになれる、釈迦が説き明かした因果の道理 [因果の道理]

「六月に結婚すれば幸せになれる」
ジューンブライド(六月の花嫁)は西洋からの伝承ですが、
日本では古くから、結婚式といえば、
「大安」といわれてきました。
ふだんはそんなことを全く気にしない人でも、
結婚という人生の大事になると、
とたんに心配になってくるのでしょう。
幸せになりたい。
だれもがそう願っています。

ではどうしたら幸せになれるか。
幸福という運命は、何によって得られるのか。
みんなの最大の関心事にはっきりと答えられたのが、
お釈迦さまなのです。






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●ロケット打ち上げも神頼み

平成十七年二月、種子島の宇宙センターから、
日本の国産ロケットが打つ上げられ、
見事に成功しました。
前回の失敗から、一年三ヶ月ぶりのことです。
打ち上げの前日、関係者たちが、成功を祈願して、
島内の三つの神社を回ったと報道されていました。

実は、前回の打ち上げ前も、
同じ神社に行ったそうですが、
失敗したので、
今回は、回る順番を変えたといいます。

ロケット打ち上げの関係者といえば、
科学の最先端を行っている人たち。
しかし、今度失敗したら後がない、
という追いつめられた状況になると、
まさに、“困ったときの神頼み”で、
すがらずにおれなくなるのでしょう。

ふだんは、「信仰なんて自分には関係ないよ」
と言っている高校生も、大学受験が目前に迫ると、
神妙な面もちで、神社に行って、
柏手(かしわで)を打っています。
入りたい大学に合格できるか、
大学生になれるかの不安を
和らげようとしているのでしょう。

●占い産業が、盛んな訳

婚約が決まり、結婚式が近づくにつれて
深刻な不安に襲われる人が多く、
その心の状態をマリッジブルーといわれます。
本当に幸せになれるのかなあ、と心配になり、
中には、血液型、星座などで相手との相性を占って、
安心しようとする人もあります。
仕事で大きな決断を迫られた時、
社長や一国の大統領でも、
占い師に相談する人があるようです。
科学が発達しても、
占い産業は衰えるどころか、
ますます盛んになっています。

テレビをつければ、朝から星座別の運勢が流れ、
雑誌に占いのページを入れると
販売部数が増えるともいわれる。
最近は、占い付きの炭酸飲料や、
開運をうたう芳香剤なども、
売り上げが伸びています。
ここ数年間で、インターネットのホームページ上に、
動物占いや家電占いなど、
さまざまな種類の占いが氾濫するようになりました。

血液型占いによる性格判断の影響で、
学校のいじめが始まったり、
大人同士でも、人間関係が損なわれている、
という苦情も出ているほど。

根拠のない迷信だよ、と言いながら、
何となくほうっておけず、
テレビに流れる今日の運勢が気になってしまう。

それだけ未来が不安で、
幸せになるにはどうすればいいか
知りたいのでしょう。
しかし、未来の分からない暗い心は、
時にとんでもないものを信じてしまいます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

あるところに、恵まれた三人の子宝が皆、娘で、
何とか息子が欲しい夫婦があった。
妊娠した妻の元に、ふと訪ねてきた男が、
「今度は、男と女、どちらをお望みですか」
と聞く。
「ぜひとも男の子」
正直に告白すると、
「私は神様のお力を得ている。
お気の毒だが、今度も女の子です。
しかし、今のうちに、神様に祈祷すれば、
男に変わらぬものでもない。
一回五千円、神様のお礼を。
だいたい、四、五回で済みましょう」
と言う。
半信半疑ながら、夫も喜ぶことだからと、
誰にも内緒で祈祷を頼んだ。

いよいよ満願の日、
いつものように夫の出勤後、祈祷師がやってきた。
ところが、忘れ物で途中で帰宅した夫、
見かけぬ男が妻の腹の上に御幣をのせて、
一心に呪文のようなものをとなえているので驚いた。

妻の打ち明け話を、黙って聞いていた夫は、
ちょっと外出すると言って、
まんじゅうのアンを抜いて牛糞を詰めて帰ってきた。
「これでもどうぞ」
どんな大波乱が、と案じていた男、
ホッとしてか、まんじゅうをがぶりとほうばった。
思い切り牛糞を食わされて激怒する祈祷師を、
「まんじゅうのカワ一枚中さえ、
分からなかったのか」
と夫婦ともに笑った。
男はコソコソと逃げ去ったという。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

たわいもない迷信に惑うのは、
心に光のない悲しさです。


運命が何によって決まるのか、
お釈迦さまは、
どのように教えられているのでしょうか。



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●七千余巻の教典を貫く真理

私たちの運命の法則を教えられたのが、
「因果の道理」です。

因果の道理は、仏教の根幹。
根幹とは、根であり、幹である、ということです。
仏教を木に例えますと、
因果の道理は、根っこであり幹にあたります。
根っこが無ければ木は枯れてしまいますし、
幹を切ったら、木は倒れてしまいます。
ですから、因果の道理が分からなければ、
仏教は一切分かりません。
仏教は七千余巻の一切経に
すべて書き残されていますが、
それら一切経を貫いている教えが、
因果の道理なのです。


「道理」とは、三世を貫き、
十方をあまねくものをいいます。
「三世」とは、過去世・現在世・未来世のことで、
三世を貫くとは、“いつでも”ということ。
「十方」とは、東西南北上下四惟のことですから、
十方をあまねくとは、“どこでも”ということです。
いつでもどこでも変わらないものを、
道理といわれます。

明治時代は正しいといわれていたが、
平成の今日では間違いとされるようなものは、
道理とはいいません。
また日本では正しいけれども、
アメリカや中国に行くと通用しない、
というものも、道理とはいえません。
いつの時代でも、
どこへ行っても変わらない事実を、
「道理」といいます。

仏教はそんな道理を、
二千六百年前から教え続けられているのです。
ですから、「世の中がこれだけ変わったのだから、
仏教も変えなければ」
という人が時々いますが、
その人は、仏説の何たるかを知らないのでしょう。
仏教には、いつでもどこでも変わらない
普遍の道理が説かれています。


●まいた種は、必ず生える

次に、「因果」とは、原因と結果ということです。
仏教では、どんなことにも必ず原因がある、
原因なしに起きる結果は、
万に一つ、億に一つもないと
教えられています。


例えば、列車が脱線した、というのは結果ですが、
これには必ず原因があります。
スピードの出し過ぎとか、
線路の異常とか、必ず原因があって、
脱線という結果が起きたのです。
原因なしの脱線など、絶対にありませんから、
二度と事故が起こらないよう、
原因を徹底的に調査究明するのは当然のことです。

もちろん、原因が分からない、
ということはあります。
例えば、太平洋の底深く沈んでしまった飛行機を
引き上げることができず、
墜落の原因をそれ以上、調査できない、
ということはあるでしょう。
しかし、原因が分からないことと、
原因がないということとは、全く異なります。
この世のことはすべて、どんな小さな結果にも、
必ず原因がある。

財布を落としたという結果にも、
ポケットに穴が開いていたとか、
ボーッと歩いていたからとか、原因があります。

科学が、今日のように長足の進歩を遂げたのも、
原因追究の努力のたまものでしょう。
「結果には必ず原因がある」という因果律が、
科学の大前提なのです。

世間ではよく、「偶然こうなった」と、
原因なしに結果だけあらわれたように
言う場合がありますが、
それらも、そうなった原因を
見極めることができないだけであって、
因なくして成った果ではありません。

原因なしに起きる結果は絶対にないし、
原因があれば必ず結果が生じる。
平たい言葉で言いますと、
まかぬ種は絶対に生えませんが、
まいた種は必ず生える、ということです。


世の中にはさまざまな因果関係がありますが、
特に仏教では、私たちにとって、一番知りたい、
幸福の原因と結果の関係が、
詳しく教えられています。



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●運命はどのように決まるのか 
      お釈迦さまの解答

では、原因と結果には、
どのような関係があるのでしょうか。
お釈迦さまは次のように説かれています。

善因善果 
悪因悪果 
自因自果


「善因善果」とは、善い原因は善い結果、
「悪因悪果」とは、悪い原因は悪い結果を引き起こす、
ということです。

善い種まきをすれば善い結果があらわれ、
悪い種まきをすれば悪い結果が起きる。
善い種をまいて悪い結果が起きることもなければ、
悪い種をまいて善い結果があらわれることもありません。

分かりやすく言いますと、
ダイコンの種をまけばダイコンが、
カボチャの種をまけばカボチャが出てくるということです。
ダイコンの種をまいてカボチャが出てきたり、
ナスビの種をまいてスイカが出てくることは絶対にない。

まいた種と同じものしか、生えてこないのです。
ですから、まいた種をみれば、何が出てくるか分かりますし、
出てきたものを見れば、何の種をまいたかが分かります。

次に「自因自果」とは、自分のまいた種は、
自分が刈り取らねばならない、
ということです。
他人のまいた種の結果が
私にあらわれるという
「他因自果」もないし、
私のまいた種の結果が
他の人に行くという
「自因他果」も絶対にないと、
教えられています。


●行為が運命を生み出す

ここでお釈迦さまが「因」といわれているのは
「行い」のことであり、
「果」とは「運命」のことです。

自分が勉強すれば、自分の成績が上がる。
勉強したら他人の成績が上がる、と思えば、
努力がバカバカしくなるでしょう。
酒を飲んで酔っぱらって怪我するのは、
飲んだ本人であって、
隣にいる人がフラフラになるということは
絶対にありません。

幸福という善い運命は、
善い行いが生み出したものであり、
不幸や災難という悪い運命は、
悪い行いが引き起こしたものなのです。
善いのも悪いのも、自分の運命のすべては、
自分のやった行為が生み出したものであり、
それは万に一つも例外はない

と教えられています。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
※三業
●身業・・体でやる行い
●口業・・口でやる行い
●意業・・心でやる行い

このうち、仏法では心が最も重視されます。
心はあらゆる行為の元であり、
心で思ったことを、
体が行い、口で言うからです。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

●私が苦しいのは夫のせい?

しかし、世の中には、自分の種まきの結果とは思えず、
人のせいで苦しんでいるのではないか、
と見えるようなこともあります。

例えば、こんな夫婦がいたらどうでしょう。
働き者の奥さんは、家事や育児もソツなくこなし、
愛想もいい、近所でも評判の良妻賢母。
ところが、夫はろくに働きもせず、酒を飲み、
ギャンブルに明け暮れて、
妻の稼いだ分まで持っていく。
そのために奥さんが、
地獄のような苦しい生活を送っている。

このような場合、奥さんは悪くない。
夫のせいで苦しんでいるのではないか、
と言いたくなります。
他人のせいで自分が苦しむ、
他因自果のように思えますが、
果たしてそうでしょうか。
こんなひどい男がいても、
世間中の他の女性たちは、
この奥さんのような苦しみはありません。
つまり、この奥さんと他の女性たちとは、
結果が違うということです。

それは原因が違うからです。
この奥さんだけにあって、他の女性にはない原因があった。
そう、この男と結婚したということです。

世の中に、たとえこんなひどい男がいても、
結婚さえしなければ、
この奥さんは苦しむことはなかったでしょう。
周囲には、ほかにも男性はたくさんいたのに、
どうして、この男性を選んだのか。
奥さんは、こんな男を好きになって結婚した、
という自らの種まきによって、苦しんでいるのです。

もちろん、この夫は、奥さんの苦しみに全く無関係、
というわけではありません。
夫は、悪縁であったのです。


縁とは何かといいますと、
因が結果を生じるのを助けるものをいいます。

米を例に考えてみますと、まかぬ種は生えませんから、
米はモミ種なしには、生えてきません。
しかし、モミ種をいくら畳や床の上にまいていても、
米は取れません。
土や水、日光が必要でしょう。
空気や肥料などの助けがあって初めて、
米が収穫できるのです。
この場合、モミ種は因であり、土や水分、
日光などを縁というのです。


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すべてのものは、因と縁が和合して、
結果を生じます。
因があっても縁がなければ、
結果は起きません
から、
悪縁を減らす努力も必要でしょう。
しかし飽くまでも、因は自分にあり、
自因自果の道理には、寸分の狂いもありません。
自分の運命のすべては、
自分の行為の生み出した結果なのです。


●「縄をうらむ泥棒」 
     笑えるのはだれ?

私たちは、善い運命が来たときは、
「善因善果 自因自果」だと思いますが、
悪い運命がやってくると、
「悪因悪果 自因自果」とは思えず、
「こんな目に遭ったのは、アイツのせいだ」と、
他人を恨む心が出てきます。


「縄をうらむ泥棒」という言葉があります。
捕まって縄に縛られ、苦しんでいる泥棒が、
「オレが今苦しんでいるのは、
この縄のせいだ」と恨んでいる、
バカな姿を言った言葉です。

なぜ愚かなのか。
世の中にはいくら縄があっても、
他人の物を盗みさえしなければ、
縛られることはありません。
泥棒が恨むべきは、縄ではなく、
自分の悪い行いでしょう。

しかしこの泥棒を笑える人はあるのでしょうか。
「あの人のせいで、こんなに苦しんでいる」
「子供のために」「親があんなことを言ったから」
「こんな世の中だから」「社会が悪い」
などと恨んでいるのは、みんな縄を恨んでいる姿です。


私たちは、不幸な運命が来ると、
「私がいつ、
こんな目に遭わねばならないことをしたか」
と思いがちですが、
過去の種まきを忘れているだけなのです。

「火の車 造る大工は なけれども
     己(おの)が造りて 己が乗りゆく」
という歌がありますが、
火の車(苦しい状態)は、他人が造ったのではなく、
自分が造って、自分が乗っていくのです。

因果の道理に狂いはなく、
他因自果は万に一つもない、
と教えられるのが仏教です。

●光に向かって進む
      たくましい人生に

私の運命は、
神が造ったものでなければ、
印鑑や手相の善し悪しで
決まるものでもありません。

現在、受けねばならぬ一切の運命は、
自己がかつて創造したものであり、
未来の運命は、
これから自己が創造していくものです。


大安、仏滅などと書き込まれたカレンダーはありますが、
日に善悪があるのではありません。

お釈迦さまは、
「如来の法のなかに
吉日・良辰(りょうしん)をえらぶことなし」
“日に善悪はないのだ”と断言されています。
常に光に向かえば、「日々是好日(ひびこれこうじつ)」
と毎日がよい日になる。
逆に心がけが悪ければ、悪い日にもなるのです。
努力もせず待っていて
幸福がやってくるのではありません。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


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こんな話があります。

ある人が、十月の初めごろ、旅に出て東の国を通った。
涼しい風が、そよそよと稲穂を渡り、よく実って、
見渡す限りの黄金の波。
そばには農夫がニコニコ顔で、
のんきに仕事をしていた。
その後、またその国を通ると、
黄金の波は米俵と変わって、
家々の軒下に山と積まれている。
どの家からも、楽しそうな談笑が聞こえてくる。
旅人は、
「東の国は極楽だ。
苦労もしないで、あんなにたくさんの収穫があるのだ」
と、うらやましがった。
これを聞いた隣の人は、
「そんな国なら、一度行ってみたいものだ」
と、五月の初めごろ、東の国へと旅に出た。
すると、みんな泥だらけになって、
汗水流して働いている。
意外に思いながら、六月の終わりごろにも通ると、
頭から焼け付くような日に照らされ、
滝のように汗をだくだく流し一生懸命に働いていたが、
黄金の波も、山と積まれた米俵も見られなかった。
「隣の人にだまされた。
東の国は極楽どころか苦労為損(しぞん)の地獄だ。
ばかばかしい。」
プンプン怒りながら帰ってきたという。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

成功の裏には涙あり。
幸福な運命の裏には、
本人の涙ぐましい努力があるのです。
それを知らずに、結果だけを見て、
他人をうらやましがるのは、愚かなことです。

因果の大道理が分かれば、悪果が来たら、
自分の行いを反省し、改めようとします。
善果を得たいから、
全力で光に向かうようになるでしょう。
廃悪修善に努めずにはおれなくなります。
そして、迷信などに惑わされず、
過去を反省し、未来に向かって努力する、
たくましい人生を歩むことができるのです。




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死後の世界はどうなる!? [因果の道理]

お釈迦様1.jpg


前回はどうして運命は決まるのか!?について書きました。

今回は、死後、どんな世界に生まれるのか?についてです。

お釈迦様はそれをはっきり分からせるためにまず因果経で三世因果を教えています。

続きを読む


運命はどうして決まるのか!?(2部) [因果の道理]

zen003-1.jpg


我々は幸福を求めて生きています。

幸せになりたければ、今から善に励むしかありません。

しかしそれでも不幸はやってきます。

それは今までにやってきた行いが縁と結びついて

遅れて結果となって表れてきたものです。

それが分かれば、自業自得だから仕方ないなと思えて、

気持ちが楽になると思います。





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運命はどうして決まるのか!? [因果の道理]

お釈迦様1.jpg

我々はどうしたら幸せになれるか、

どうしたら不幸な目に遭わずに済むか、

それが一番の関心事ではないでしょうか。


その運命はどう決められるのかについて今回は書きたいと思います。

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