救われてハッキリする自己の真実 [人間の実相]
善いことをすると腹が立つ [人間の実相]
幸せの扉は、本当の「私」を知れば、ひらく! [人間の実相]
真実の自己の姿を映し出す鏡
トルストイも驚嘆した、釈迦の説く「人間の実相」 [人間の実相]
(真実の仏法を説かれている先生の書かれた「とどろき」より載せています)
なぜ仏法は聞かねばならないのでしょうか?
「聞くも聞かないのも本人の自由でしょ」と思う人にとっては、
こんな問いは、押しつけがましく感じるかもしれません。
しかしお釈迦さまは、
何人も否定しようのないある有名な例えで、
この問いの答えを示されています。
●お釈迦さまの説かれた人間の真実
「人間とは何か」を追求した大文豪家・トルストイは、
この例え話を読んで、
「大きな衝撃を受けた」と語っています。
トルストイをして、
「これ以上、人間の姿を赤裸々に表した話はない。
単なる作り話でなく、誰でも納得のゆく真実だ」
と言わしめた「お釈迦さまの例え話」とは、
何だったのでしょう。
それは「仏説譬喩経」に記されている
「人間の実相」の例えです。
ある日、お釈迦さまのご説法に、一人の王様が参詣しました。
名を、勝光王といいます。
初めて仏法を聞く勝光王に、
お釈迦さまは、
「人間とは、どんなものか」を例えで教えられたのです。
●絶体絶命の旅人
偽らざる私の姿
王よ、それは今から幾億年という昔、
ぼうぼうと草の生い茂った、果てしない広野を、
独りトボトボ歩いていく旅人があった。
木枯らしの吹く寂しい秋の夕暮れである。
ふと旅人は、急ぐ薄暗い野道に、
点々と散らばっている白い物を
発見して立ち止まった。
いったい何だろうと、白い物を一つ拾い上げて驚いた。
なんとそれは、人間の白骨ではないか。
どうしてこんな所に、多くの人間の白骨があるのか、
と不気味な不審を抱いて考え込んだ。
すると間もなく前方の闇の中から、
異様なうなり声が聞こえてきた。
闇を透かして見ると、
彼方から飢えに狂った獰猛な大虎が、
こちらめがけて、まっしぐらに突進してくるではないか。
旅人は、瞬時に白骨の意味を知った。
この広野を通った旅人たちが、
あの虎に食われていったに違いない。
同時に自分もまた、同じ立場にいることを直感した。
驚愕した旅人は無我夢中で、
今来た道を逃げたのである。
しかし、所詮は虎にはかなわない。
やがて猛虎の恐ろしい鼻息を身に感じて、
もうだめだと旅人が思ったその時、
どう道を迷って走ったのか、
断崖絶壁で行き詰まってしまったのだ。
絶望した直後、幸いにも断崖に
生えていた木の根元から
一本の藤蔓が垂れ下がっているのを発見した。
その藤蔓を伝ってズルズルズルーと
下りたことはいうまでもない。
九死に一生を得た旅人が、ホッとするやいなや、
せっかくの獲物を逃した猛虎は断崖に立ち、
無念そうに、ほえ続けている。
「やれやれー、この藤蔓のお陰で助かった。
まずは一安心」
と旅人が、足下を見たときである。
旅人は思わず「あっ」と叫んだ。
底知れぬ深海の怒濤が絶えず
絶壁を洗っているではないか。
それだけではない。
波間から三匹の大きな龍が、真っ赤な口を開け、
チロチロと舌を伸ばしながら自分の落ちるのを
待ち受けているのを見たからである。
旅人は、あまりの恐怖に、
再び藤蔓を握り締め身震いした。
しかし、人間の感情は続かないもの。
やがて旅人は空腹を感じて
周囲に食を探して眺め回した。
その時である。
旅人は、今までのどんな時よりも、
最も恐ろしい光景を見たのである。
藤蔓の元に、白と黒のネズミが現れ、
藤蔓をガリガリと交互にかじりながら
回っているではないか。
やがて白か黒のネズミに、
藤蔓がかみ切られることは必至である。
もはや絶体絶命!
旅人の顔は青ざめ、
歯はガタガタと震えて止まらない。
だがそれすら長くは続かなかった。
なぜなら藤蔓の元に巣を作っていたミツバチが、
甘い五つの蜜の滴りを彼の口に落としたからである。
旅人は、たちまち現実の恐怖を全て忘れ去って、
陶然と蜂蜜に心を奪われてしまったのである。
釈迦がここまで語られると、勝光王は驚いて立ち上がり、
「世尊、その話は、もうこれ以上、しないでください」
と叫んだ。
「どうしたのか」
「その旅人は、何とバカな、
愚かな人間でしょうか。
それほど危ない所にいながら、
なぜ、五滴の蜜ぐらいに、
その恐ろしさを忘れるのでしょうか。
この先どうなるかと思うと、
恐ろしくて聞いておれません」
「王よ、この旅人をそんなに愚かな人間だと思うか。
実はな、この旅人とは、そなたのことなのだ」
「えっ、どうして、この旅人が私なのですか」
「いや、そなた一人のことではない。
この世の、すべての人間が、この愚かな旅人なのだ」
お釈迦さまの言葉に、
聴衆一同は驚いて総立ちになったといいます。
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(この例え話の意味を解説します。)
①人はどこから来て、どこへ行くのだろう
●生きるとは旅すること
「旅人」とは、「すべての人」のことです。
「生きることは旅すること 終わりのないこの道」
と歌にもあり、
オバマ大統領の二期目の就任演説の中でも、
繰り返し「我々の旅は終わらない」
という比喩が使われていました。
作家の吉川英治氏も「人生は片道切符の旅である」と、
こう書き記しています。
「発車駅の東京駅も知らず、横浜駅も覚えがない、
丹那トンネルを過ぎた頃に薄目をあき、
静岡辺りで突然“乗っていること”に気づく、
そして名古屋の五分間停車ぐらいから
ガラス越しの社会へきょろきょろしはじめ
『この列車はどこへ行くのか』と慌て出す。
もしそういうお客さんが一人いたとしたら、
辺りの乗客は吹き出すに決まっている。
無知を憐れむに違いない。
ところが人生列車は、全部の乗客がそれなのだ」
(『忘れ残りの記』)
発車駅の「東京」は生まれた時、
「横浜」は幼児期、
「静岡」は三、四歳頃でしょうか。
吉川氏はこうも言っています。
“オギャー”と生まれた時が、
人生の旅の始発駅であるならば、
ウーンと言って死ぬ時が、
人生という旅の終着駅である。
我々は、この人生という旅において、
しばしば道中、道連れを作る。
小学校、中学校、高校の同級生、
隣近所の人々、勤め先の仲間、取引先の人々、
全てこれ人生という旅の道連れである。
そして、それらの中で、一番縁の深いのは、
夫であり、妻であるという道連れである。
気がつけばこの世に生まれ、生きていた。
書くことや読むことを習い、
社会に出て懸命に働いてきた。
でも自分がどこへ向かっているのかは知らない。
こうした無知な乗客同士が、級友や同僚、
あるいは家族という道連れを作って、
行き先の知らない旅へと向かっています。
生きることは決して楽ではありません。
病気、仕事の過酷なノルマ、
リストラの不安、夫婦間の不和、
子供の非行、返済不能な借金、親の介護など、
「こんなにしてまで、なぜ生きるの」
と思うことが周囲に満ちています。
ある政治家が、終末期医療の会議で、
「いい加減、死にてぇなあと思っても、
『とにかく生きられますから』
なんて生かされたんじゃあ、かなわない」
と発言し、物議を醸しました。
しかし、もし人生というこの旅に、
何の目的もないのなら、
「長生きして苦しむだけなら、さっさと死にたい」
というのも一理あるでしょう。
でも私たちは、無意味に生まれ、
苦しむために生きているのではないはずです。
「生まれてよかった、死なずに生きてきてよかった」
といえる、人生の目的地が
なければならないのではないでしょうか。
それが明らかになってこそ、
「このために生きるのだ」
とすべての行為が意味を持ち、
どんな苦難も乗り越えて進む力が湧いてくるのです。
●なぜ私たちは寂しいのか
次に、この旅人が広野を歩いていたのは、
「秋の夕暮れ」でした。
これは、人生には底知れぬ寂寥感が
漂っていることを示しています。
人はなぜそんなに寂しいのか。
それは、一人旅をしているからです。
「独生独死 独去独来」(大無量寿経)
(独り生まれ独り死に、独り去り独り来る)
始めから終わりまで、人生は独りぼっちだよ、
とお釈迦さまは仰っています。
そんなことはない。親も兄弟もいる、
妻も友達もいると思っていますが、
お釈迦さまが仰る「独り」とは、
こうした肉体の連れではありません。
魂の連れがないということです。
「どんなことでも話せば分かる」と言われても、
現実にどれだけ話しても
分からないことが多くあります。
男は女の気持ちが分からず、
女は男の気持ちが分からない。
男は足し算、女は掛け算と言われます。
2と3を見て男は「5だ」と言い、
女は「違うわ、6でしょ」と言う。
どこまで行っても交わらない平行線です。
たとえ「あの人には何でも言える」
という人があっても、
言えるところまでは何でも言えるということで、
本当に心を洗いざらい言えるわけではありません。
「なぜ分かってくれないの!」と、
相手を責めることはありますが、
自分は他人のことを本当に
理解できているでしょうか。
自分だけ理解せよと
相手に望むのは無茶というものです。
誰にも明かせない、理解されたいと願っても
絶望的な心を、
私たちは一人一人抱えています。
心の深奥(しんおう)の秘密の箱は、
固くカギがかけられ、
誰にも開かれることはありません。
我々の魂は、ずっと独りぼっちで
孤独に震えているのです。
そんな魂の奥底まで全てご承知のうえで、
「われにまかせよ、必ず助ける」と
抱き締めてくださる弥陀の誓願(本願)があることを、
お釈迦さまは生涯かけて唯一つ説かれたのです。
②白骨の野原 その先にあるもの
●拾って初めて知る“重み”
これは文字どおり、「白骨を拾って驚いた」
というある人の手記です。
〈永らく闘病していた母が、息を引き取った。
窓の外が明らむ頃だった。
病室のベッドに横たわる姿からは、
すやすやと寝息が聞こえてきそうで思わず、
“おはよう。そろそろ起きる時間だよ”
と声をかけた。
葬儀場に移り、真っ白な着物に
着せ替えられた母が、棺に入れられた。
病でやつれた頬も、薄化粧でパッと華やいだ。
これからどこに出掛ける、
そんな雰囲気すら感じられた。
式は粛々と行われ、火葬場へ。
やがて、変わり果てた母の遺骨が戻ってきた。
心はまるで凍結したように、
何も感じることはできなかったが、
竹の箸で骨を拾い上げたとき、
初めてハッとしたのである。
「あの母が、これなのか?」
どんなに容姿がよくても、
どんな立派な生き方をしてきても、
人間は等しく、最後はひとつまみの骨になる。
ショックで私は、声もなく泣き続けた。
涙も涸れるほどに〉
テロや災害、事故や戦争・・・
毎日、「死」のニュースが流れない日はありません。
新聞の「お悔やみ欄」にも
毎日たくさんの名前が並んでいます。
私たちの周囲には、
いつも“白骨”が散らばっているのです。
けれども私たちは日々忙しく、
先に進むことに必死で、
そんな白骨には目もくれず、
突っ走っているのではないでしょうか。
やがて自分も、その中の一つになるというのに。
〈私は“それなりに死を考えてきた”つもりでしたが、
実は、どこか遠い世界の話のように、
ウツロに眺めていただけだったのです。
現実に母を亡くしてみてそう思いました。
顔を合わさなくても、ただいてくれるだけで安心できた、
そんな母の存在の大きさも、亡くしてみて分かりました〉
と手記の作者は述べています。
そんな両親にもう二度と会えない・・・。
人生行路を進むほど、
「近頃、喪服を着る機会が多いな・・・」
とつぶやきたくなってきます。
私たちの周りは白骨の野原なのです。
●平穏な日常と
隣り合わせの死
旅人の後ろから、
猛然と追いかけてくる「飢えた虎」とは、
「無常(自分の死)」です。
死は、私にも激しく襲いかかってくるのです。
今年一月、大相撲初場所の最中に、
元横綱・大鵬の死去が報じられました。
歴代最多の幕内優勝三十二回を誇り、
「巨人・大鵬・卵焼き」の流行語は有名ですが、
一代を築いた名横綱でも、
無常の虎から逃れることはできないのです。
厚生労働省の人口動態統計(平成二十二年)によると、
日本での年間死亡者数は、およそ119万7000人。
平均すると一日3200人弱の人が、
日本のどこかで命を落としていることになります。
一週間にすれば、二万人を越える。
あの“未曾有”といわれた東日本大震災の死者、
行方不明者が18580人といいますから、
あの震災の一週間後には
それ以上の人が亡くなっているということです。
しかし、そのことを取り立てて大騒ぎする人はありません。
もちろん、大津波で死ぬのと、
静かに毛布の上で亡くなるのでは、
大きく異なりますが、
「命を失う」という悲劇の本質に、
変わるとこはないでしょう。
とすれば、私たちの“平穏な日常”というものも、
実は大変な悲劇と常に隣り合わせと
いえるのではないでしょうか。
親鸞聖人が大変尊敬されている、
中国の善導大師は仰せです。
(善導大師とは、唐の時代の高僧。)
「人間そうそうとして衆務を営み、年命の日夜に去ることを覚えず。
灯火の風中にありて滅すること期し難しが如し。
忙々(もうもう)たる六道に定趣なし。
未だ解脱して苦海を出ずることを得ず。
云何(いかん)が安然(あんぜん)として恐懼(きょうく)せざらん」
(すべての人は、日々忙しそうに朝から晩まで、
どう生きるかに必死で、
刻々と命が消滅していることには無頓着である。
一陣の風で消え去る灯(ともしび)のような
存在を全く知らないように。
事故や災害などで亡くなる人が、
明日の我が身と何人が想定したことか。
果てしない迷いの旅路に終焉がなく、
苦しみの難度海から脱出できないでいる。
なのに安閑(あんかん)として、
どうして驚かないのだろう)
旅人がしがみついている「藤蔓」は、
人間の寿命を表しています。
しかもその藤蔓を「白と黒のネズミ」が
交互にかじり続けているのは、
「昼」と「夜」とが交互に来て、
私たちの寿命が確実に
縮まっていることを表しています。
最後、白か黒のネズミに、
旅人のぶら下がっている藤蔓はかみ切られます。
昼間亡くなる方は、白ネズミに最後かみ切られ、
夜亡くなる人は、黒ネズミにかみ切られたということです。
かみ切られたその時が、寿命の尽きた時です。
旅人のこの状況は、古今東西、
すべての人の姿ではないでしょうか。
誰か否定できる人がありましょうか。
だとすれば、
藤蔓をかみ切られたらどうなるか。
それが旅人の火急の問題であるように、
死ねばどうなるか、それは全人類の、
最大の問題ではないでしょうか。
③足下に広がる暗い海と三匹の毒龍
●まいた種ははえる
どんな種まきをしているか
藤蔓が切れると同時に旅人は、
三匹の毒龍がいる、
底知れぬ深海へと落ちていきます。
これをお釈迦さまは、
「後生の一大事」と言われました。
後生とは来世(死後)のこと。
「生あるものは必ず死に帰す」といわれるように、
「来世」は私たちの確実な未来ですから、
自分の後生がどうなってるかは、
誰もが知りたいことでしょう。
それにはまず、
仏教の根幹である因果の道理を
知らなければなりません。
どんなことにも、必ず原因があり、
原因なしに起きる結果は万に一つ、
億に一つもありません。
原因と結果の関係を、お釈迦さまは
「善因善果 悪因悪果 自因自果」
と教えられています。
善いタネをまけば善い結果が現れる、
悪いタネをまけば悪い結果が現れる、
自分のまいたものは自分に現れる。
これが仏教で説かれる因果の道理で、
ここでタネといわれているのは私たちの行為、
結果とは運命のことです。
「蒔(ま)けば生え、
蒔かねば生えぬ よしあしの
人はしらねど 種は正直」
の歌の通り、人知れずまいたタネも、
やがて正直に結果を現す。
まいたタネに応じた結果しか
現れてこないのです。
お釈迦さまは、この因果の道理から
次のように教えられています。
「汝ら、過去の因を知らんと欲すれば現在の果を見よ。
未来の果を知らんと欲すれば現在の因を見よ」
(因果経)
現在を見れば、過去のタネまき(行為)も、
未来の結果(運命)も分かる。
現在は過去と未来を解くカギであると。
では私たちの一息切れた後、後生はどうなるか、
それは現在のタネまき(行為)を明らかに見れば分かる、
ということなのです。
●未来を生み出す心の行い
私たちは、日々どんなタネまき(行為)をしているでしょう。
行為のことを仏教では、業といいます。
仏教では私たちの行為を、
身と口と心の三方面から教えられ、
それぞれ、身業・口業・意業といいます。
この身・口・意の三業の中でも、
最も重くみるのが意業です。
「殺るよりも
劣らぬものは 思う罪」
といわれるように、
身(からだ)で殺すことより、
もっと恐ろしいのは、身を動かす心の罪です。
暴力を振るったり、相手を傷つけるような暴言を吐くのは、
必ず心がそうさせるのです。
ウソをつくのも心の仕業。
「ある人に命じられて殺った」といっても、
その人の言葉に従おうと思った心が
原因ではないでしょうか。
私たちの行いの元は全て心にあるのです。
ところが私たちは、
驚くほど心に目が向いていないのです。
確かに、身や口の行いは、
人に危害を加えないよう取り締まる
必要があります。
しかし心で思う分には、誰に迷惑をかけるわけでもなく、
他人には分かりませんから、
取り締まりようもありません。
それをいいことに私たちの心は治外法権で、
他人に言えないようなことを平気で、
思いたい放題思っています。
しかし、そんな私たちの心を仏教では、
身や口の行いより、重く見るのです。
●私を苦しめる三つの猛毒
旅人の足下には三匹の毒龍がいますが、
毒は大変危険なもの。
蛇や虫、フグなどの毒で命を落とす人が、
毎年何万人とあります。
青・赤・黒の三匹の毒龍は、
それぞれ私たちの欲・怒り・愚痴を
例えられています。
欲は、無ければ無いで欲しい、
有れば有ったでもっと欲しくなる、
底なしのものです。
怒りは、自分の欲に反した時、カアッと腹立つ心です。
愚痴とは自分の不幸を他人のせいにして恨み、
自分より優れた人や美しい人を見ては妬み、嫉妬して、
引きづり下ろそうとしたり、不幸にして喜ぶ醜い心です。
この欲と怒りと愚痴の三つは
私たちを苦しめる猛毒を持っていますから、
仏教で三毒の煩悩といいます。
しかし、これが猛毒を持っているといわれても、
自覚して人は少ないでしょう。
欲がなければ生きられない、
怒りも表に出さねばよかろう、
愚痴だって皆思っていることではないかと、
恐ろしい心とはなかなか受け止めれません。
しかし、欲のために殺生し、欲のためにウソをつく。
時には人を傷つけ殺し合う。
武器で脅し、要求を押し通そうとするのは、
欲しいものを買ってもらえないと「学校行かない」と、
親にだだをこねる子供と変わりありません。
欲望も程々に、とは思いますが、
程々に抑えるのは容易ではありません。
抑えたつもりが、ズブズブと、
ますますのめり込んでいくのです。
「世の中は
一つかなえば また二つ
三つ四つ五つ 六つかしの世や」
食べられればよい、と思っていたのが、
余裕ができるとオシャレをしたいと服を買い、
結婚したい、子供が欲しい、
それには家も車も要る、
たまには海外旅行も、
と欲には際限がありません。
そのためにお金が欲しい、暇が欲しい、
楽してお金や時間を得る方法がないかと、
宝くじや株で一攫千金を夢見る。
それが裏目にでると大損してイライラ。
その腹立ちを家族にぶつければ、
家族も怒りの毒に苦しみます。
怒りを発散できなければ、
恨みや妬みの愚痴となり、
心の中でドロドロに渦巻きます。
我慢すれば身に毒が回って胃を壊し、
白髪は増え、
シワが深くなる。
憂さ晴らしにタバコや酒、やけ食いすると、
身も心もボロボロになっていく。
如何ともしがたいこの三毒の煩悩が、
苦しみの世界を現出するのです。
「火の車
造る大工は なけれども
己が造りて 己が乗りゆく」
火の車に乗せられ苦しみを生み出したのは、
ほかならぬ、己自信だと、昔の人も歌っています。
●すべての人の心のすがた
「みな人の
心の底の 奥の院
探してみれば 本尊は鬼」
私たちは心の奥に棲む
青・赤・黒の鬼(欲と怒りと愚痴)に、
毎日動かされています。
お釈迦さまは『大無量寿経』に
こう教えられています。
「心は常に悪を念い(おもい)
口は常に悪を言い
身は常に悪を行い
曽て(かつて)一善も無し」
心の鬼の命じるままに動かされる
口も身も悪ばかり。
親鸞聖人は、自己の姿を教えの光に照らされて、
お釈迦さまの仰るとおりだったと有名な『歎異抄』に、
こう告白されています。
「いずれの行も及び難き身なれば、
とても地獄は一定すみかぞかし」
微塵の善もなく、悪ばかりの親鸞だから、
地獄よりほかに行き場がない。
こんな極悪の親鸞一人を助けんがための
弥陀のご本願であったと、
「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、
ひとえに親鸞一人が為なりけり、
されば若干(そくばく)の業を
もちける身にてありけるを、
助けんと思し召したちける
本願のかたじけなさよ」
(弥陀が五劫という長い間、
熟慮に熟慮を重ねてお誓いなされた本願を、
よくよく思い知らされれば、
全く親鸞一人がためだった。
こんな量り知れぬ悪業をもった親鸞を、
助けんと奮い立ってくだされた本願の、
なんと有り難くかたじけないことなのか)
と聖人は感激されています。
阿弥陀仏の本願こそが、欲と怒り、
愚痴にまみれた私たちを、
そのまま絶対の幸福に救い摂ってくださる
唯一無二の妙法なのです。
④万人の問題 後生の一大事とその解決の道
●全てを忘れさせる
魅惑のハチミツ
旅人は今にも切れそうな藤蔓に
ぶら下がりながら、
足下の深海も三匹の毒龍も忘れて
蜂蜜に夢中になっている。
この蜂蜜とは、私たちが日々追い求めている
楽しみを例えています。
食欲、財欲、色欲、名誉欲、睡眠欲の五欲がそれです。
“行列のできる店”と聞けば、美味を求めて何時間も並び、
食べ放題の店では、はち切れるほど食べ、
夏の祭りは、ビヤホールで浴びるほど飲む。
「食べるのだけが楽しみ」と豪語する人もあるほど、
食欲は強烈です。
財欲とは「貯める楽しみ」
死ぬ時は一円も持っていけないと理屈は分かっていても、
命を削って金儲けに狂奔するのは、
それだけ財産を増やすことが楽しいからでしょう。
色欲も、幾つになっても消えません。
小説やTVドラマに必ず色気の要素が入ってくるのは、
それがないと読者や視聴者が満足しないからでしょう。
名誉欲は人から褒められたい、
認められたい心です。
命がけで努力するのも詰まるところ
他人より優位に立つため、
かなえば心が満たされるから、
名誉のためなら、命まで捨てる人もあるのです。
睡眠欲とは眠る楽しみ。
“世の中に、寝るより楽はなかりけり。
起きて働くアホがおるかい”という心です。
考えてみると、
私たちの日常は、こうした快楽を得るためだけに
費やされているのではないでしょうか。
ただ、そうしている間にも、藤蔓はネズミによって
かみ切られようとしています。
刻一刻、死へと近づいている私たちなのに、
この旅人のように一大事を忘れ、
五欲の蜂蜜に酔いしれている。
これほど恐ろしい姿はありません。
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未来は無量光明土へ
早く弥陀をたのめ
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
古今東西すべての人が、この旅人であれば、
この一大事、どうしたら解決することができるのでしょうか。
親鸞聖人は、『歎異抄』の冒頭に、
「弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて
往生をば遂ぐるなり」
と仰っています。
ここに「助けられ」とあるのは、後生の一大事を
助けられたということです。
「不思議な弥陀の誓願に後生の一大事を助けられ、
極楽往生できるとハッキリした」
と仰っているのです。
この親鸞聖人のみ教えを、
正確に日本中に伝えられた蓮如上人もまた、
有名な「白骨の御文」の中に、
「誰の人も、はやく後生の一大事を心にかけて、
阿弥陀仏を深くたのみまいらせて、
念仏申すべきものなり」
と仰っています。
後生の一大事は万人の問題ですから
「誰の人も」と言われます。
「心にかけて」とは、お釈迦さまの例え話のとおり、
こんな危ういところにぶら下がっている己であることを、
心にかけよということです。
そして「阿弥陀仏を深くたのめ」
この後生の一大事は、
阿弥陀仏のお力によらなければ、
絶対に解決できないのだから、
一日も早く、阿弥陀仏に助けていただきなさい。
それには、十方世界の功徳のおさまっている
南無阿弥陀仏を頂き、
浄土往生間違いない身になりなさい、
そして、お礼の念仏を称えられるようになりなさいよと
お勧めになっているのです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
この例え話は、日本のみならず、アメリカ・ロサンゼルスの大学生たちも、
あるいはブラジル・サンパウロ州の片田舎の一軒家で聞いた人もあります。
言葉も文化も、生活習慣も、まるで異なる人々ですが、
このお釈迦さまの例えを聞くと一様に、身をのり出し、
食い入るように真剣に聞いていました。
それは、トルストイが言うようにこの話が、
社会や思想がどう変わろうと、決して変わることのない、
人間の真実を教えられたものだからです。
この人間の実相が真に知らされれば、
「なぜ仏教を聞かなければならないのか」
どころではない、
「人は仏教を聞くためにこそ生まれてきたのだ」
ということがよく理解できるでしょう。
阿弥陀仏の救いはだれのため? [人間の実相]
苦しみの人生を明るく楽しく渡す大船あり
仏教で蓮の花が大切にされるのはなぜ? [人間の実相]
仏教で蓮華が
大切にされるのはなぜ?
梅雨が明け、夏が匂い立ち始めるころ、
薄桃色の蓮華が、可憐に咲き乱れます。
蓮は、仏教と深い因縁のある花です。
法事や仏事で目にするさまざまな仏具に
描かれているのは、蓮の花ばかり。
阿弥陀仏の極楽浄土には、桜でも菊でもなく、
清浄な蓮の花が咲いていると経典に説かれ、
親鸞聖人も『正信偈』に極楽浄土のことを
「蓮華蔵世界」と書かれています。
・・・・・・・・・・・・・・
阿弥陀仏の極楽浄土の様子を、
お経にはこのように説かれています。
舎利弗、極楽国土には
七宝の池有り。
八功徳水其の中に充満せり、(乃至)
池の中には蓮華あり、大(おおき)さ車輪の如し。
青き色には青き光あり、
黄なる色には黄なる光あり、
赤き色には赤き光あり、
白き色には白き光ありて、
微妙香潔なり。
(仏説阿弥陀経)
●大切なのは体?心?
アカデミー賞を受賞した映画『おくりびと』
は、世界中の注目を集めました。
故人に死に化粧を施し、旅装束を着せ、
死者を次の世界へ送り出すという、
納棺師の仕事ぶりが描かれています。
映画の中で、一人の納棺師(佐々木)が、
ある民家で、まだ若い主婦の遺体を扱う、
こんな場面があります。
・・・・・・・・・・・・
死に化粧(しにげしょう)を始めると、
いつの間にか遺族たちが集まり、
もの珍しそうに佐々木の手元をのぞき込んでいる。
佐々木は丁寧な手つきで口紅のふたを開けて
スティックを回し、
色を失った遺体の唇に塗っていく。
ほおには紅が差され、
闘病生活でやつれ果てていた死者の顔は、
再び生気を吹き込まれたかのように、
艶を取り戻していく。
「ああ、いい顔になった」
「今にも起き上がりそうじゃ」
「あんた、すごいわ」
口々に感嘆の声を上げながら、
親族たちが思わず手を合わせる。
佐々木が仕事を終えて去ろうとした時、
それまで終始憮然としていた故人の夫が駆け寄り、
神妙に頭を下げた。
「あいつ(故人のこと)、
今まででいちばんきれいでした。
ほんとうにありがとうございました」
・・・・・・・・・・
死者の尊厳を守ろうと努める厳粛さと愛情が、
国境を超えて感銘を与えたのでしょう。
人は愛する人の死に出会うと、
手厚く遺体を葬ることで、
故人の幸福を願わずにおれません。
そうすることが、死者に対する礼儀だと、
多くの人は思います。
しかし、遺体を手厚く葬ることが、
本当に死者を幸せな世界へと
送り出すことになるのでしょうか。
考えてみれば、人の死は、
思い通りにはなりません。
病院や事故や災害で静かに
息を引き取る人ばかりではないでしょう。
不慮の事故や災害で、
無残に変わり果てた姿になる人もあり、
満足の行く形で送り出せないことも多々あります。
そんな人の死後の幸せはどうなるのでしょう。
仏教では、大切なのは、
肉体よりも心だと教えられます。
死後の行く先を決めるのは、
臨終の相(すがた)や遺体の有り様ではなく、
平生の心の有り様であり、
「蓮華のような信心=真実の信心」
を獲得しているか、どうか、なのです。
蓮如上人はそれを、
「往生浄土の為には
ただ他力の信心(真実の信心)ひとつばかりなり」
(御文章)
とおっしゃっています。
●蓮の華が示す、
正しい信心の五つの特徴
では、仏教で教えられる「蓮の花のような信心」
とはどのようなものなのでしょうか。
「信心」と聞くと、古くさい、とか、
特定の神や仏を信ずることだから自分とは関係ない、
と思う人が多いかもしれません。
しかし、私たちは何かを信じなければ
生きてはいけません。
なぜなら、信ずるとは、たよりにする、
あて力にするということだからです。
健康や、お金、家族などを信じ、
たよりとして、すべての人は生きています。
だから、「生きる」とは「信ずる」ことなのです。
何らかの信心を、
だれもが持って生きているのです。
親鸞聖人の教えられる「正しい信心」は、
本師本仏の阿弥陀仏から賜る信心なので、
「他力の信心」ともいわれます。
「他力」とは「弥陀から賜る」こと。
この他力の信心の特徴を、
蓮の花の持つ五つの特徴になぞらえて
教えられたのが、「蓮華の五徳」です。
①淤泥不染の徳(おでいふぜん)の徳
②一茎一花(いっけいいっか)の徳
③花果同時(かかどうじ)の徳
④一花多果(いっかたか)の徳
⑤中虚外直(ちゅうこげちょく)の徳
今回は初めの「淤泥不染の徳」
について説明いたします。
●どんな人の心に
信心の花は咲くか
「淤泥不染」の、淤泥(おでい)とは、どろどろの泥沼のこと。
蓮は、高原陸地には咲かず、泥沼にしか花を開きません。
しかもその花は泥の汚れに染まらず(不染)、
清浄な輝きを放つ、という特徴です。
淤泥に例えられたのは、悪人のこと。
高原陸地とは、善人を例えています。
正しい信心の華は、
善人の心中には開かず、悪人の心に、開くのです。
これは、本当の自分の姿をハッキリ知らされた人の心に、
蓮のような正しい信心が開くことを表しています。
仏教は、この本当の人間の姿を克明に教えられ、
「法鏡」ともいわれます。
法鏡とは真実の私の姿を映し出す鏡のことです。
仏教には、私たちの偽りのない
本当の姿が説かれている。
その教えのとおりの自分であったと
知らされた人の心に信心の花が咲くのです。
その私の姿を「淤泥=悪人」と示されています。
●悪人はだれ?
ある布教使と校長の会話
「私は、そんなに悪いことしているとは
思えないが・・・」
こう思われる人もあるかもしれませんが、
次のようなエピソードを通して考えてみましょう。
・・・・・・・・・
ある有名な布教使が説法していた時のこと、
大の仏法嫌いであった村の小学校長が
参詣していた。
説法後、その校長がカンカンになって
抗議してきたのだ。
「あなたは先ほど、人間は皆悪人と
説法されましたが、まことに困ります。
そんなことを認めたら、教師も皆悪人ということになり、
教育が成り立たんではありませんか」
すると布教使は、やおら校長の下座に回り、
頭を畳にすりつけて言った。
「これはこれは、あなたのような方がお参りとは知らず、
とんでもないことを申し上げました。
何とぞご容赦ください」
高名な布教使の意外な反応に、
校長は薄気味悪くなって、
「まあまあ、あのような説教さえ、
してもらわねばよいのです」
早々に退散しようと玄関まで来ると、
ついてきた布教使が声をかけた。
「先生、ちょっとお待ちください。
先ほどあなたは、この世には善人もいれば
悪人もいると言いましたが、
先生ご自身は、善人でございますか。
それとも悪人でございますか」
何とも答えにくい質問である。
今更悪人とは言えないし、
さりとて、“私は善人”と答えるのも
はばかれる。
返答に窮していると、布教使がさらに尋ねる。
「では、あなたは学校でうそは善だと
教えられていますか。
悪だと教えておられますか」
「もちろん、うそは泥棒の始まり。
悪いことだと教えています」
「では校長先生は、これまでにうそは
つかれたことはありませんか」
だれにも身に覚えのあること。
校長はだまっている。
「では、喧嘩は?」
「悪に決まっています」
「では、校長先生は今までに喧嘩をなされたことは
一度もないのでしょうか」
夫婦ゲンカは日常茶飯事。重ねて布教使は問う。
「生き物を殺すことはいかがですか。
子供たちに善だと教えますか。悪だと教えますか」
「言うまでもありません」
「それならば、あなたは、一切生き物を殺しておられないのですか。
肉や魚、召し上がるでしょう」
「それは・・・」
力なく答える校長に布教使は、
「うそも喧嘩も殺生も、皆、悪だと知りつつ、
毎日それを繰り返しているのが私たちではありませんか」
日常、何とも思わずに重ねている悪を一つ一つ指摘されると、
どれもこれも身につまされることばかり。
さすがの校長もついには玄関に手を突き、
「よくよく考えてみると、皆私のことでした。
気づかぬところでどれだけの悪を造ってきたかしれません。
ご無礼をお許しください」
以来、校長は、熱心に仏法を聞くようになったという。
・・・・・・・・・・・・・・・
何気ない日常を少し注意深く振り返ってさえ、
このように自己に気づかされます。
まして、微塵の悪も見逃されない仏さまの眼(まなこ)から
こらんになれば、すべての人間はどんな姿をしているものか。
お釈迦さまはこうおっしゃっています。
心常念悪(心常に悪を念じ)
口常言悪(口常に悪を言い)
身常行悪(身常に悪を行じ)
曽無一善(かつて一善もなし)
(大無量寿経)
ここで釈尊は、私たちの行いを心、口、身(からだ)の
三方面からごらんになっています。
これを身口意の三業といわれます。
中でも心を最も重視されています。
それは、心が口や身を動かす元だからです。
私たちのあらゆる言動は、心の命じたものなのです。
火事で言えば、心が火の元であり、
口や身に現れるのは火の粉です。
その火の元である心で、
私たちはどのような悪を造っているのでしょう。
お釈迦さまは、貪欲(欲)、愼恚(怒り)、愚痴(ねたみそねみ)
の三つと教えられています。
貪欲とはあればあるで欲しい、
なければないで欲しい欲しいと、
キリも際もなく広がっていく欲の心です。
今年4月、千葉の市長が、土木建築会社から現金約100万円を
受け取り、市発注の道路工事で便宜を図ったとして、
収賄容疑で逮捕されました。(平成21年のことです)
任期満了まであと78日のこと。
わずか100万円のために、3300万円の退職金をフイにし、
人生を棒に振っています。
また私たちは日々、欲のために人をだまし、
悲しませ、傷つけていないでしょうか。
自分を若く見せたいとタレントが年齢詐称したり、
経歴を偽って政治家が謝罪したり、
昨年、多く発覚した食品偽装も、
顧客の健康より儲け優先。
根っこには「自分さえよければ」
の恐ろしい欲の本性が横たわっているのです。
そんな底知れぬ貪欲を妨げられた時起きるのが愼恚(しんい)、
怒りの心です。
「怒」とは心の上に奴と書きます。
「あの奴が邪魔するからだ」「この奴さえいなければ」
と心の中で殺している怒りの激しさは火の如しです。
カッと怒った炎は他を焼き、自らも焼き、
親、兄弟、親友をも平気で蹴落とす恐ろしい心です。
「海苔の保管場所が気に食わない」
「名前を呼び捨てにされた」など、
ささいなきっかけで始まった怒りが、
実際の殺人となって、世を騒がせています。
愚痴は、因果の道理が分からぬ、恨みねたみの心。
他人の幸せをねたみ、人の不幸を喜ぶ悪魔のような心です。
静かに自己を振り返れば、
いずれも思い当たることばかりではないでしょうか。
私たちは、これら欲、怒り、愚痴の心で、
日々、数え切れないほどの悪を造り続けている、
とお釈迦さまは説かれています。
心がそうであれば、心に動かされている口や身も
悪に汚染されています。
過去から今日まで、一つのまことの善もできないのが
私たちなのだ、と仏さまは教えられ、
それを泥沼に例えられています。
阿弥陀仏のお力によって、
このような自己の姿に微塵の疑いもなくなった人の心に開くのが、
蓮の花のような信心なのです。
では、高原陸地に例えた「善人」とは、
どんな人なのでしょうか。
自己の実態が分からず、
「その気になれば善ができる」
「あの人と比べれば私のほうがましだろう」
「悪いことはするけど、反省する心ぐらいはあるわい」
と、うぬぼれている人のことをいわれているのです。
●何ものにも染まらぬ信花
弥陀より賜る信心は淤泥に「染まらない」とは、
蓮華は泥中にありながら、
その泥に汚されることなく美しく咲いています。
また、泥沼は泥沼のままで、
透き通った泉に変わることはありません。
これは、正しい信心を獲ても、欲や怒り、
ねたみ、そねみの心は全く変わらないことを表しています。
これら私たちを煩わせ悩ませる「煩悩」は、
死ぬまでなくなりもしなければ減りもしません。
しかし、阿弥陀如来に救い摂られ、正しい信心を獲得すれば、
いつでもどこでも煩悩いっぱいが、
幸せいっぱいとなる。
これを「煩悩即菩提」といいます。
苦悩がそのまま歓喜となる不思議さを、
親鸞聖人は次のように氷と水に例えて、説かれています。
「罪障功徳の体となる
こおりとみずのごとくにて
こおりおおきにみずおおし
さわりおおきに徳おおし」
(高僧和讃)
“弥陀に救われ、蓮華のような信心を獲得すると、
欲や怒りの煩悩(罪障)の氷が解けて、
幸せよろこぶ菩提の水(功徳の体)となる。
大きな氷ほど、解けた水が多いように、
極悪最下の親鸞こそが、極善無上の幸せ者だ”
シブ柿のシブがそのまま甘みになるように、
煩悩(苦しみ)一杯が功徳(幸せ)一杯となる、
強烈な確信に満ちた、聖人のお言葉です。
蓮のような正しい信心を獲れば、私たちも皆、
親鸞聖人と同じ喜びの世界に出させていただき、
死ねば必ず、極楽浄土に生まれさせていただける身となる。
無限に楽しい明るい人生を送ることができるのです。
仏教は私の真実の姿を見せてくれる鏡である。 [人間の実相]
仏教は
「ありのままの私」を
映す鏡
「ありのままの 姿を見せるのよ
ありのままの 自分になるの」
と高らかに歌うヒロイン
今年大ヒット映画『アナと雪の女王』の
劇中歌です。
この歌が多くの共感を得たのは、
今の私は「ありのまま」の自分じゃない、と
感じている人が多いからでしょう。
「毎日毎日、他人の目を気にして自分を取り繕っている」
「本当はありのままの私を愛してほしい」
と思っても、現実はとても「ありのまま」では
受け入れてもらえないから、
他人の目によく映るよう、
涙ぐましい努力を重ねています。
ところが仏教は、
“ありのままで真実の幸せになれる”道を
教えられているのです。
果たして、どんな教えなのでしょうか。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
●演じなければ
生きられない?
私たちは「他人からどう見られるか」
と常に気を遣い、
朝から晩まで神経をすり減らしてはいないでしょうか?
朝起きたら顔を洗い、髪を整える。
出掛ける前にはヒゲをそったり、
化粧をしたり、服やネクタイを入念に選ぶ。
「いつもステキね」と褒められたい、
少しでも若く見られたい、できる奴と思われたい、
そして一目置かれたい。
いや、そこまででなくても、せめて恥をかかぬよう、
笑い者にならないように、と思うからです。
さっきまでガミガミ子供に当たっていたお母さんが、
電話に出るとたちまち、
「はい、もしもし。
・・・まぁ、オホホホホ」。
声が一オクターブ高くなり、
大女優顔負けの演技をするのも、
少しでもよく見られたいからでしょう。
人は幾つもの仮面をつけて生きている、
と言われます。
会社では有能な社員になり、家庭に帰れば良き夫や妻になる。
子供の前で見せる親の顔、飲み屋で友人に見せる顔、
井戸端会議で近所の奥様方に見せる顔も、
また違う。
子供も子供で、友達によく見られたいと
“いい友達”を演じています。
ある男性読者(30代)は、
自身の学生時代をこう述懐しました。
※ ※
私が何より大事にしたのは、人間関係でした。
他人の目を気にして、衝突しないように、
「どこに行くか」「何をして遊ぶか」は、
皆が決めたとおりにしました。
空気を読む、顔色を見る、気の利いたことを言う。
誰に教わったわけでなく、「嫌われない人」になるために
身につけた術は、「自分の思いを言わないこと」でした。
そんな努力が実を結び、友達に恵まれ、
いわゆる「人気者」でしたが、
本当の自分を知られたら誰もいなくなる気がして、
放課後もできるだけ友達の家に行かず、
自宅にも呼びませんでした。
ボロを出さないよう、心はいつも平穏ではなかったのです。
高校3年の時、クラスで文集を作り、
その中のアンケートで、「あこがれる生き方の人」
「将来、大物になっていそうな人」の一位に選ばれました。
うれしい結果でした。
しかしこれは、他人の目に映った「私」であり、
そんな人間でないことは、
自分が一番分かっていました。
※ ※
常に仮面をつけて“いい人”を演じ続けているうちに、彼は、
「どれが本当の自分か分からなくなった」
と語っています。
一体、ありのままの自分とは、何者なのでしょうか。
●最も身近で、
最も分からない「自分」
「ありのままの私」と聞くと、
“それは自分が一番よく分かっている”
と思いがちですが、
「知るとのみ 思いながら 何よりも
知られぬものは 己なりけり」
(いちばん知っているようで、
最も分からない者が自分自身である)
の歌に、思い当たる節が多々あります。
メガネを額にのせたまま、メガネを探して家族に笑われる。
鳥インフルエンザが発生した養鶏場で、
何万羽もの殺処分っが決まった。
「ニワトリがかわいそう・・・」
とニュースを見ながら食べていたのは、
鶏のから揚げだった。
やはり、自分のことはなかなか分からないのが本当のようです。
自分の幸せを求めながら、その自分自身が分からないでは、
幸せになれる道理がありませんから、
古代ギリシャの時代から、
「汝自身を知れ」
と言われてきたのでしょう。
なぜ私に「私」が分からないのか。
近すぎるからです。
私たちの目は、いろいろなものを見ることができます。
今、目の前で開いている本誌も、
夜空に映える名月も、近いものも、遠いものも、
よく見える。
ところが、目のすぐ隣にある眉や顔が、
直接見られない。
あまりに近すぎるからです。
「目、目を見ることあたわず、
刀、刀を切ることあたわず」
どんなに視力のいい人でも、
自分の目を直接見ることはできない。
どんな名刀も、その刀自身を斬ることは不可能。
はるか宇宙の構造を解明した科学者も、
自分の顔についた飯粒には気づかないようなもので、
どんなに頭のいい人でも、
本当の自分は分からないものなのです。
では近すぎる自己を見るにはどうすればいいのか。
私たちは鏡を使います。
古来、自己を知る「鏡」に、
「他人鏡」
「自分鏡」
「法鏡」
の3枚あると教えられています。
鏡で大事なことは、
私の姿を正しく映すかどうか。
実際より太って見えたり、痩せすぎだったり、
有るものが映らなかったり、無いものを映す鏡では、
困ってしまいます。
果たしてこれら三枚の鏡は、
「本当の私」を映し出してくれる鏡なのか、
詳しく検証してみましょう。
●他人鏡・・・他人の目に映る私
第一は「他人鏡」。
これは他人の目に映る私の姿です。
日々「他人鏡」に少しでもよく映るよう努力しているのは、
それだけこの鏡に大きな信頼を寄せているからです。
皆、他人の言葉に一喜一憂し、振り回され、
きゅうきゅうとしていますが、
果たして他人は私を正しく評価しているのでしょうか。
こんな話を通して、考えてみましょう。
ある奥さんが帰宅すると、泥棒とバッタリ鉢合わせになった。
そこへタイミングよく、巡回中の警察官が通りかかる。
「助かった、地獄で仏とはこのことだわ。
なんて頼もしいお巡りさん」
ところが翌日、その奥さんが、
路上に駐車していた車に乗ろうとすると、
違反の張り紙が。
取り締まっていたのは、昨日助けてくれた警察官であった。
だが、「見逃して」と幾ら頼んでも、
警官は首を横に振るばかり。
「融通の利かない人ね。キライ!」
と腹を立てるのであった。
※ ※
この警察官は、一日で人格が変わったわけではありません。
奥さんの「都合」で評価がガラリと変わったのです。
「正も邪も 勝手に決める わが都合」
誰もが、その時々の都合で他人を評価しますから、
同じ人間が善人にも悪人にもなるのです。
このようなことは茶飯事ですから、
禅僧・一休は、
「今日ほめて 明日悪くいう 人の口
泣くも笑うも うその世の中」
と笑っています。
実際は、
「ブタは褒められてもブタ
ライオンはそしられてもライオン」で、
人の評価はそう簡単に変わるものではないはずです。
見る人の都合でコロコロ変わる「他人鏡」が、
変わらぬ本当の私を映す鏡でないことは、
認めざるをえないでしょう。
もちろん、「他人鏡(他人の評価)など、どうでもいい」
ということではありません。
他人の意見に耳を傾け、欠点を克服する努力は大事ですから、
例えば同じことを3人以上から指摘されたら、
改めるよう努めていきたいものです。
・・・・・・・・・・・・・・・・
●自分鏡・・・自己の良心
三枚の鏡の第二は「自分鏡」。
道徳的良心であり、自己反省のことです。
「一日三省」というように、自己を振り返ることは大切です。
反省がなければ進歩も向上もなく、
同じ失敗を繰り返すばかりでしょう。
しかし、いかに厳しくしようと努めても、
自己反省は往々にして
自分かわいい「欲目」によって甘くなるものです。
それは生んで育てたわが子にもしかり。
万引きをした子供の親に連絡すると、
第一声は決まって
「うちの子に限って・・・」
だそうです。
本当はわが子が首謀者であっても、
親はそう思いたくないし、思えない。
「自分の」子だからです。
子供にさえ欲目を離れられないのだから、
わが身となればなおさらで、
鏡の前で増えた白髪に一時は驚いても、
「年下のあの人よりはマシ」
と他人を引っ張ってきて上に立つ。
私は顔の色は黒いけれど鼻が高いから。
色も黒いし鼻も低いが口が小さいから。
口は大きいけれども色白だ。
しまいには、
「何にもできんが、素直な奴と皆から言われている」
と自分のことは何でも美化してしまう。
うぬぼれ心が私たちの本性だからです。
「自分鏡」も、自己の真実を歪めて見せる鏡にほかなりません。
●法鏡
他人鏡は都合で曲がり、自分鏡は欲目で曲がる。
一体、「ありのままの私」を映してくれる真実の鏡は
どこにあるのでしょうか?
お釈迦さまは、
「仏教は法鏡なり。
汝らに法鏡を授ける」
と遺言なされ、私たちに、
真実の姿を映す鏡を与えてくださいました。
「法」とは、真実であり、三世十方を貫くもの。
三世とは、過去・現在・未来で「いつでも」、
十方とは、東西南北上下四唯で「どこでも」ということ。
時代や場所に左右されず、
いつでもどこでも変わらないものだけを、法といいます。
仏法を聞くとは、法鏡に近づくことですから、
仏法を聞けば、今まで気づかなかった自己が見えてきます。
もちろん、鏡から離れていれば分かりません。
肉体を映す鏡でも、遠目には“まんざらでもない”
とうぬぼれていますが、近づくにつれて“あら、ここにシワがある。
こんなところにアザが。
随分白髪が増えたなあ”と、実態に嘆く。
同様に、法鏡に近づくほど“こんなわが身であったのか”
と、思いも寄らぬ自己の姿に驚くのです。
●ありのままに見る
蓮如上人と一休
大切なのは自分をそのままに見ることです。
こんな話があります。
時は、室町時代。
七曲がり半に曲がった一本の松の木の前に
人だかりができていた。
そこへ蓮如上人が通りかかられる。
「一体、何の騒ぎか」
「これはこれは、蓮如さま。
実は、あの一休和尚が“この松を真っ直ぐに
に見た者には、金一貫文を与える”と、
立て札立てたので、賞金目当てに集まっているのです」
なるほど、ある者は松の木にハシゴをかけ、
ある人は寝転がり、またある人は逆立ちしたりと、
それぞれに工夫を凝らして松を見ている。
だが、真っ直ぐに見たという者がいない。
事情を聞かれた上人は、
「また一休のいたずらか。
わしは真っ直ぐに見たから、一貫文をもらってこよう」
と事もなげに言われたので、
一同仰天した。
「おい、一休いるか」
気心知れた仲だから、呼びかけも屈託ない。
「あの松の木、真っ直ぐに見たから、
一貫文もらいに来たぞ」
出てきた一休さん、
「ああ、蓮如か、おまえはあかん。
立て札の裏を見てこい」
と答える。
実は立て札の裏には、“蓮如は除く”と書かれてあったのだ。
戻られた上人に気づいた人たちが、
「蓮如さま、一体どうやって真っ直ぐに見られたのですか?」
と身を乗り出して尋ねると、
蓮如上人はこう答えられた。
「曲がった松を、『なんと曲がった松じゃのー』と見るのが、
真っ直ぐな見方だ。
曲がった松を真っ直ぐな松と見ようとするのは
曲がった見方。
黒いものは黒。
白いものは白と見よ。
ありのままに見るのが正しい見方なのだ」
「なるほど!さすがは蓮如さま」
一同、感服したという。
●法鏡に映れる
真実の自己
では、法鏡に映し出された、ありのままの自己とは、
いかなる姿でしょう。
お釈迦さまは、
「人間の真実の相は煩悩具足である」
と教えられておられます。
煩悩とは、私たちを煩わせ悩ませるもので、
百八つあります。
具足は塊、ということだから、
煩悩具足とは、“煩悩の塊”ということです。
その百八の煩悩の代表格である
貪欲・瞋恚・愚痴の三つについて
順番にお話しいたしましょう。
貪欲とは、金が欲しい、物が欲しい、男が欲しい、
女が欲しい、褒められたい、認められたい、
楽がしたいという欲の心。
根底には、「何でも自分の思い通りにしたい」
という自己中心的な思いがあります。
これを仏教で“我利我利”といい、
「我さえよければ、他人はどうなってもいい」
というあさましい心です。
ところが「思うままにはならぬ世の中」で、
種々に欲は妨げられる。
すると、イライラ、カリカリ、怒りの炎が燃え上がる。
この怒りの心が「瞋恚」です。
NHKの番組『あさイチ』が行ったアンケート調査によると、
夫婦ゲンカの原因は、家事(炊事・掃除・洗濯)のしかたや、
ちょっとした物の置き場所など、
ささいなきっかけが多いという。
ところが、注意のしかたと受け答えの悪さが
互いの感情を逆なでし、
最後はすっかり大きなものになってしまう。
「怒りは無謀に始まり、後悔に終わる」
といわれるとおりです。
露骨に怒れなかったり、腹立ちの相手が目の前にいなければ、
堰を切ったように愚痴が噴き出します。
「いちばん早く年を取るもの、
それは感謝の心」
とはギリシャのことわざですが、
「してくれて当然」と感謝を忘れると、
恨み呪いの心が出てきます。
先日、ファミリーレストランで食事をしていると、
中年女性が友人に愚痴をこぼしている。
「最近、うちの旦那臭いのよ。
帰ったら入浴してほしいのに。
先に食事するから汗臭いったらありゃしない。
それもよ、脱いだカッターシャツでわざわざ靴下をくるむのよ、
どう思う?シャツがますます臭くなるじゃない!」
その臭い旦那の給料で、
昼間からクーラーの効いたファミレスにいながら、
汗水流して働いているであろう夫をボロクソだ。
「それによ、ソファーに長々と座るから臭いがしみ込んじゃうの。
もっと頭にくるのは、座る場所を変えるから
被害が広がって、もう許せない!」
知らぬところで散々言われている夫も哀れなら、
恨みの黒鬼と化している妻も愚か。
でも、私たちも口にしないだけで、
すぐにカチンときたり、イラッとしたり、
不平、不満をこぼしたりと、
五十歩百歩が実態でしょう。
「さるべき業縁の催せば、
如何なる振る舞いもすべし」
(歎異抄)
(縁さえ来れば、どんな恐ろしいことでもする親鸞だ)
との告白は、万人共通の実相に違いありません。
切羽詰まると何をしでかすか分からないのが
自己の本性ではないでしょうか。
その真実の相を知らされ、親鸞聖人は、
こう懺悔されています。
「悪性さらにやめがたし
こころは蛇蝎のごとくなり」
(悲歎述懐和讃)
(悪はやめがたく、心はヘビやサソリのように恐ろしい)
親鸞さまでさえそうならば、
私たちも言わずもがな。
日々、報道される犯罪に驚かぬ日はありませんが、
これ皆、心に巣食う貪欲の青鬼、瞋恚の赤鬼、
愚痴の黒鬼の成せる業だと、
仏さまはスッパ抜かれているのです。
●聞き間違えてはならない
法律、道徳レベルなら、善人・悪人がありますが、
仏の眼からごらんになると、
人間は皆、極悪人となります。
レントゲンの前では、美人も、醜女(しとめ)も、
富める者も、貧しい者も、
老若男女の違いなく、皆、骨の連鎖であるように、
法鏡に照らし出されると、
煩悩よりほかにない自己と知らされます。
「ならば善に励もうと努力するのは無駄か」
「善はしなほうがいい」
と聞き間違えてはなりません。
そんな誤解をすれば、たちまち悪果に見舞われ、
この世の“自業苦(じごく)”が現出するのは当然のこと。
光に向かわなければ、幸せになれないと、
お釈迦さまは教えていかれたのです。
●ありのままで救う
弥陀の本願
煩悩具足の私たちは、
真実の自己を法鏡に照らし抜かれた一念、
煩悩具足の私をそのまま救ってくださる
阿弥陀仏の本願に遇わせていただくのです。
蓮如上人はこう教えられています。
「それ十悪・五逆の罪人も
空しく皆十方・三世の諸仏の悲願に洩れて、
捨て果てられたる我ら如きの凡夫なり。
然れば、ここに弥陀如来と申すは、
三世十方の諸仏の本師・本仏なれば
弥陀にかぎりて、『われひとり助けん』
という超世の大願を発して」
(御文章)
(大宇宙の一切の仏方〈十方三世の諸仏〉から「救い難き者」と
見捨てられたのがすべての人〈十悪・五逆の罪人〉である。
そんな者を諸仏の師・阿弥陀如来がただお一人、
「私が助けよう」と立ち上がられ、
崇高な超世の誓いを掲げられた)
大宇宙の諸仏があきれて逃げた、十方衆生(すべての人)を、
本師本仏の阿弥陀仏だけが「救わずにおかぬ」
と奮い立ってくだされた。
そんな偉大な阿弥陀仏でも、悪業煩悩の塊を、
どうしたら助けられようか、五劫という気の遠くなる間、
考え抜かれました。
親鸞聖人は弥陀に救われた一念に、
広大な仏恩を信知させられ、こう仰っています。
「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、
ひとえに親鸞一人が為なりけり、
されば若干の業をもちける身にてありけるを、
助けんと思召したちける本願のかたじけなさよ」
(歎異抄)
(弥陀が五劫という永い間、
熟慮に熟慮を重ねてお誓いなされた本願を、
よくよく思い知らされれば、
全く親鸞一人を助けんがためだったのだ。
こんな無量の悪業を持った親鸞を、
助けんと誓い立ってくだされた本願の、
なんと有り難くかたじけないことか)
むろんこれは、聖人だけのことでなく、
一人一人が自己の真実を照らされ、救われた時、
「私一人のための弥陀のご本願であった」
と躍り上がるのです。
見聞知の阿弥陀仏は、私も知らない私を、
骨の髄までお見通しです。
小指のない障害者として生まれてきた五歳の男の子。
親の前でもいじらしく、しきりにその手を隠す。
子供が悩む前から誰よりも、苦しんでいるのは親なのだ。
どんなに隠してもおまえのことは生まれたときから
隅から隅まで分かっている。
何もかも知っている親と早く分かってくれよと、
どれほど親は泣いていることか。
弥陀は「煩悩具足の極悪人」と私をお見抜きのうえで、
「我にまかせよ、そのまま救う」
と誓っておられるのです。
この「ありのままの弥陀の救い」を明らかにされるため、
親鸞聖人は、31歳の時、「肉食妻帯」を断行されました。
公然と僧侶が肉食妻帯する。
当時それは世間でも、また仏教界でも大問題。
ために聖人は、「堕落坊主」「破戒坊主」
「仏教を破壊する悪魔」「狂人」「色坊主」と、
八方総攻撃を受けられたのです。
しかし、色と欲から生まれた人間に、
色と欲を断てという無茶な教えでは誰一人助からぬ。
どんな非難も覚悟で断固なされた理由は、
ひとえに、すべての人間が、
ありのままで絶対の幸福に救われる「真実の仏法」を
明らかになされるためでした。
アニメの中の聖人はご内室の玉日様に、
こう仰っています。
「僧侶も在家の人も、男も女も、
ありのままで、等しく救いたもうのが阿弥陀如来の本願。
その真実の仏法を、今こそ明らかにせねばならぬのだ。
阿弥陀如来の広大なご恩を思えば、
どんな非難も物の数ではない」
“ありのままの私を、そのまま救ってくださる方は、
天にも地にも、弥陀よりほかになかった”
と摂取されるまで仏法を聞かせていただきましょう。
我利我利では幸せになれない! [人間の実相]
●「あなたは何のために生きていますか?」
昨夏から秋にかけて、
南米のチリの鉱山で起きた落盤事故が
世界中の関心を集めました。
地中深く閉じこめられた33人の作業員全員が、
70日ぶりに無事生還したのです。
(平成23年のとどろきの記事を載せています)
救助を待つ間、互いを思いやり、規律正しく過ごした彼らは、
救出用の掘削が完了した時、口々にこう言ったといいます。
「自分は最後でいい。仲間を先に助けてくれ」
一人はみんなのために、みんなは一人のために。
その麗しい友情に世界中が感動し、
“こんな思いやりの輪が世界に広がればいい。
人は一人では生きられないのだから、
互いに助け合い、よりよく生きるのが
私たちの生まれてきた目的だ”
と思った人も多いでしょう。
「なんのために生まれて なにをして生きるのか
こたえられないなんて そんなのはいやだ!」
の主題歌で知られるアニメ『アンパンマン』
は子供に大人気。
この歌詞の答えをアンパンマンは、劇中で
「僕が生まれてきたのは困っているみんなを
助けるためなんだ」
と言い、おなかをすかせた人に
顔のアンパンを与えて助けます。
その利他の精神は子供だけでなく、
大人をも感動させています。
「君を守るために生まれてきたんだ」
「あなたのために生きる」
歌謡曲でよく聞くこんなフレーズも、
そういう人生観を代弁しているといえましょう。
だれかのために生きる。
これこそ生きる意味、と考える人は多いようです。
「私は
だれかの幸せの
ために・・・」
●「自分さえよければいい」
こんな人は幸せになれる?
「自利利他」こそ
一方“自分さえよければいい”という身勝手な考え、
風潮が生きづらさを助長しています。
相手の立場を無視し「オレが」「私が」
と自分優先で互いに怒り、人を悲しませる。
経済が行き詰まり、
生活に明かりが見いだせないような世相が、
図らずもそういう人間の姿を
浮き彫りにしているのかもしれません。
仏教ではこういう言動を「我利我利」といい、
それでは幸せになれませんよ。
「自利利他」、他人の幸せを優先するままが、
自分も幸せになれるのだ、と説かれています。
成功者の多くは、この自利利他を
心がけていたからといえるでしょう。
「若い人たちのために
役に立つような仕事を続けていきたい」
昨年、ノーベル化学賞を受けた
北海道大学の鈴木章名誉教授は、
受賞の喜びとともに後進への貢献を誓いました。
栄誉の根底には、多くの人の役に立った、
という誇りがあるのではないでしょうか。
かりに大きなことはできなくても、
家族や周囲のために自分はある。
目の前のことから着実にやっていけば、
やがて社会はよりよく変わる、
と教育や医療、福祉などの分野で
懸命に努力する人も少なくありません。
少しでも住みよい、平和な世の中を保つには
非常に大切な心がけであり、道徳倫理、
ほとんどの宗教もそう教えています。
しかしここで、もっと深く掘り下げて考えてみたいのは、
私たちは他人のために心底から親切ができるのか、
ということです。
果たして人間は、自分の行う善で真の満足や安心を
得ることができるものなのでしょうか。
●真面目に努めると
見えてくる自分の姿
真摯に精一杯、だれかの幸せのために生きたいと願った、
ある女性読者の体験を聞いてみましょう。
中学生のころ、同じ生きるなら、
自分のためではなく人のために生きたい、
貧困や紛争で苦しむ人たちの助けになりたいと、
国連の職員になろうと思い始めました。
世界を舞台に活躍しようと夢は膨らみましたが、
国連の職員になるには、
高度な語学力に専門分野の職務経験など、
様々な能力と経験が求められます。
またグローバルな問題の解決など、
自分にはとても自信がありませんでした。
人生の羅針盤が欲しいと、
オーストラリアにホームステイしました。
何もかもが新鮮で楽しい日々でしたが、
本当に期待したものをつかむことはできません。
周りの友達は、具体的に目標に向かって進んでいる。
一方、私は向かうべき方角が見いだせず不完全燃焼。
人のために生きたいとは言いながら、
友達の成功をねたましく思う醜い心も知らされました。
こんな身近な人の幸せさえ喜べない者が、
どうして異国で苦しむ人々を幸せにすることなどできようか。
ますます自己嫌悪に陥るばかりでした。
焦りといらだちをぶつけるように、
いろいろな先生や友達にも相談しましたが、
心は晴れません。
そんな私が大学生となり、
巡り遇ったのが親鸞聖人のみ教えでした。
世のため他人のために一生をささげたいと願ったが、
親しい人の幸せさえもねたましく思う自己の姿に気づき、
彼女は自分の限界にぶち当たって悩んだといいます。
真面目に他人に尽くそうとすると、
できぬ心ばかりが見えてきて苦しむことがあります。
真剣に孝行したいと、
親の介護に努めたある人が、
こう述懐しています。
「病気の母を支えてみせる」
と自信をもって家族と看病を始めた私。
ある深夜、トイレの回数が頻繁になった母を前に、
「またかー、30分前に行ったやろ」。
そんな心が動いたのです。
愕然としました。
私は何のためにここにいて、
これほどまでに尽くしているのか。
母を支えるためではないのか。
楽したいいっぱいで母を邪魔に思う、
こんな心しかない自分だと気づいたのです。
「ごめん、お母ちゃん、こらえてなあ、お母ちゃん」
真心込めた看病ができるとうぬぼれていました。
●「罪悪まみれのおまえを救う」
弥陀の救いはどんなものか
人類の幸福に貢献したい、
母の恩に報いたいと尊い願いを起こしても、
真心尽くせない私。
善のでき難い人間の正体を、骨の髄まで見抜かれて、
「そんな罪悪にまみれたおまえを必ず救うぞ」
と誓われたのが、
大宇宙の仏方の本師・師匠であられる
阿弥陀仏の本願です。
親鸞聖人は、この宇宙最尊の阿弥陀仏の本願力によって
救い摂られ、
信知させられたことを、こう仰っています。
小慈小悲もなき身にて
有情利益はおもうまじ
如来の願船いまさずは
苦界をいかでかわたるべき
(悲歎述懐和讃)
「小慈小悲もなき身にて
有情利益はおもうまじ」
“微塵の慈悲も情けもない親鸞に、
他人を導き救うなど、とんでもない”
こんな聖人の告白を聞けば驚く方も多いでしょう。
親鸞さまといえば慈悲の塊、
仏さまの化身のように思われているからです。
事実、聖人が29歳で阿弥陀仏の救いを獲得されてからの
命がけのご苦労は、
迷える人々を救うためにほかなりません。
「どんな人をも必ず救う」
と誓われた阿弥陀仏の救いを明らかにするため、
当時の僧侶の常識を公然と破って、
31歳、肉食し結婚なされました。
まことの仏法を知らぬ人々からは、
大変な非難を浴びましたが、
我利我利亡者の聖人ならば保身に走ったでしょう。
あえていばらの道を歩まれたのは、なぜなのか。
35歳、無実の罪で風雪の越後(新潟)へ
流罪となった聖人のご布教も、
その後、赴かれた関東で、石を枕に雪を褥(しとね)の
日野左衛門の済度も、剣で迫る弁円に「御同朋・御同行」
とかしずかれたのも、
仏の慈悲の顕現としか思えません。
そんな聖人が、
「無慈悲な親鸞、人の幸せなど願う心は微塵もない」
とはどういうことなのでしょう。
これは仏眼に映れた人間の真実の姿を仰ったものです。
弥陀の願力に照らし抜かれて
初めて知らされる自己の本性なのです。
“こんなあさましい者であったか。
少しは他人を憐れみ、
助ける心があると思っていたが、
とんでもない錯覚だった”
と無二の懺悔をなされた聖人は、
“極悪最下の親鸞が、
極善無上の幸福に救い摂られた不思議さよ”
と勇躍して真実開顕の道をひたすら歩まれました。
それはひとえに弥陀のお力以外にはなかったのだと、
「如来の願船いまさずは
苦界をいかでかわたるべき」
“阿弥陀如来の本願の船に乗らずして、
どうしてこの苦悩の人生(苦界)を
渡り切ることができようか
弥陀の大慈悲あればこそ、
すべての人が救われるのである”
こう聖人は確言されています。
“わずかばかりの善のまねごとでうぬぼれ、
自己の本性をごまかしてはなりませんよ。
真剣に光に向かい、弥陀の救いに一刻も
早くあってもらいたい。
往生一定の身に救われることこそが、
万人の生きる目的なのだからね”
と聖人は教導なさっているのです。
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まとめ
●私たちがよりよく生きるには
○我利我利・・・自分さえよければいいという考え
○自利利他・・・他人の幸せを優先するまま、
自分も恵まれること
「我利我利」ではなく「自利利他」でなければならない、
と仏教では教えられています。
●親鸞聖人は一生涯、自利利他の道を歩まれました。
そしてそれは、全く阿弥陀仏の本願力によると仰っています。
私たちは善のでき難い者である、
と仏さまは見抜かれて、
そういう者を必ず救う、とお約束なさっています。
○阿弥陀仏の本願
どんな悪人も信ずる一念で絶対の幸福に救う、
というお約束
(信ずるとは、弥陀の本願にツユチリほどの疑いもなくなったこと。
一般的に使われている信ずるとは意味が違います。)
●この弥陀の救いにあい、
たくましい人生を歩ませていただきましょう。
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体験手記
看護師として30年
「私を変えた
患者さんの“説法”」
【岐阜県】山本 奈津美さん(仮名)
「聞法のつどい」スタッフとして活躍している山本さんは、
3年前まで訪問看護師でした。
「患者さんに叱咤されて、
今、私は聴聞させていただけるんです」
30年の看護師生活で知らされたこととは・・・
幼いころは、何をするにも自信が持てず消極的でした。
ところが家族の看病となると、途端に張り切るのです。
「はい、横になって、熱を測ってね!」
「血が出ているところを強く押さえて」
と大した症状でもないのに、
氷枕や氷のうを作り、包帯を巻いていました。
他人の役に立てる、元気になって感謝される。
何とも言えない充実感に、
夢は小学生の時から看護師一つでした。
看護学校の病院実習で見た先輩看護師の姿は、
今も目に焼き付いています。
植物状態の患者さんにも、
声をかけながら排泄の処理をし、
ちり紙をもんで優しく拭く。
何気ないしぐさですが、
“これこそ患者さんの立場に立ったケアだ”
と感動し、自分もそんな看護がしたい、
と強く思ったのです。
一方、仏法熱心な父・本田孝文さんに連れられ、
小学生のころから聞法していた。
父親がよく暗唱する、蓮如上人の「白骨の御文章」が
好きだった。
仏法を尊く思いながらも、
「阿弥陀さま一つ」
という教えには、
“信仰は人それぞれ。
その人が幸せだと思えばそれで十分では?”
となかなか納得できなかった。
●見せつけられた現実
21歳で看護師の第一歩を踏み出したのですが、
早々に現実の厳しさを知らされました。
将来を有望視されていた大学生に待っていた透析、
かわいい子供が欲しいと願う新婚夫婦を襲った卵巣摘出・・・。
“だれもが普通に願う幸せさえも、
病で握りつぶされる。
どうしてこう、人生は思い通りにならないのだろう”
悶々とした思いが、日を追うごとに膨らんでいったのです。
初めて、患者さんの臨終に立ち会った日。
“さっきまで私と話していたのに・・・。
命はなんて儚いの?”
体の底からの恐怖に、ただ立ちすくむばかりでした。
「朝(あした)には紅顔ありて、
夕(ゆうべ)には白骨となれる身なり。
既に無常の風来たりぬれば、
すなわち二つの眼(まなこ)たちまちに閉じ、
一の息ながく絶えぬれば、
紅顔むなしく変じて桃李の装を失いぬるときは、
六親・眷属集まりて歎き悲しめども、
更にその甲斐あるべからず」
蓮如上人が「白骨の御文章」に
お書きくだされたとおりなのです。
“あの患者さんはどこへ行っちゃったの?
死んだらどうなるの?”
この問いが、わが身の問題となって、
「誰の人も、はやく後生の一大事を心にかけて、
阿弥陀仏を深くたのみまいらせて」(白骨の章)
の仰せどおり、答えは仏法にしかない、
私を救う力があるのは本師本仏の弥陀のみだ、
と思うようになりました。
●真心尽くした看護とは?
答えを求め続けて・・・
看護師が検温する時、排泄の介助をする時、
点滴を交換する時、入院患者さんは、こう言われます。
「忙しいのに悪いねえ・・・ごめんね」
そのたびに、“どうして・・・?”
とやり切れない思いになるのです。
スタッフにさえ気を遣いながらの入院生活、
患者さんはどれほど忍耐されているのだろう。
慣れ親しんだ家で、家族と一緒ならば、
もっと心安らかに療養できるのでは?
こうして“患者の立場に立った看護”
の答えを求めて、
訪問看護師を目指すようになったのです。
結婚し、子供3人を育てながら、
新たな目標に向かい始めた。
だが間もなく、実母が病魔に冒されたことを知る。
これを機に訪問看護師に転向。
午前は働き、午後は介護のために実家へ通った。
入院を拒み続けた母の介護は、
一年半続いた。
知らず知らず、介護の疲労がたまっていたのでしょう。
ある日、
「お母さんもつらいだろうけど、
私もしんどい。もう入院する?」
とつい言ってしまったのです。
翌日、いつもどおり実家へ行くと、
机の上には「入院します」とだけ書かれた紙。
“しまった!私があんなことを言ったばかりに・・・”
病室で横たわる母に、
「お母さん、ごめん」
と心の中で何度も叫びました。
わずか一ヶ月で母は帰らぬ人となりました。
悲しみを思い出すまいと、
訪問看護の仕事と家事に打ち込みました。
訪問看護では、与えられた時間内で、
効率よく要望にこたえることを追求する毎日。
ケアマネジャー、アロマセラピスト、
フットセラピスト等の資格を取得したのもそのためです。
しかし、真心尽くせば尽くすほど、
「これが本当に相手の望んでいることなの?
本当の救いになることがしたい」
●「これがおまえの姿だぞ!」
現場を退いた今は、月に一度、
ボランティアでホスピス(末期ガン患者の病棟)へ赴き、
フットセラピーを行っている。
ボランティアの私たちは、
病院から、「入院患者とは約束をしないように」
と言われています。
次会える保証がないからです。
目の前の患者さんとは、一度きりのご縁。
幼子を心配する若い女性、
パソコンを見せてこれまでの業績を
誇らしげに語る年輩の男性など・・・。
いろんな方の思い出話を聞かせていただきながら、
ひたすら仏縁を念じつつ、
足のマッサージをしています。
私にとっては、これまでに出会ったすべての患者さんが、
姿にかけて“生きた説法”をしてくださる善知識です。
「私を見なさい。これがおまえの未来の姿だぞ。
早く弥陀の救いを求めよ!」
患者さんのお叱りをしっかり受け止め、
光に向かって進みます。