なぜ死んではいけないの? [なぜ生きる]
毎日、九十人もの人が、
自らの命を絶っていることになります。
「こんなに苦しいのなら、死んだ方がましだ」と
考えている自殺予備軍は、その何倍いるか分かりません。
「死なないで。頑張って生きよう」と言われます。
では、何故死んではならないのでしょう。
生きて、本当に幸せになれるのでしょうか。
親鸞聖人にお聞きしましょう。
●私の命が尊いと思えない
なぜ、命は大切なの?
命は大切だ。命を大切に。
そんなこと何千回何万回言われるより
「あなたが大切だ」
誰かがそう言ってくれたら
それだけで生きていける。
(公共広告機構のCM)
テレビで流れるこの言葉にドキッとした人も
多いのではないでしょうか。
「かけがえのない命を粗末にしてはいけない」
とよく言われます。
しかし、心から、「私の命は大切だ」
と実感している人は、
一体どれだけいるのでしょうか。
『朝日新聞』に、こんな投書が寄せられました。
「着たくもない窮屈な制服着せられて、
受けたくもないつまらない授業を受けさせられて、
やりたくもない部活をやらされて、
家に帰っても宿題とか家事とかいっぱいあって、
だーれも生きた心地なんてしていないのに、
『命の大切さ』なんて口先だけで教えられたって
実感なんて持てない」
(高校生17歳 千葉県)
自殺や人命軽視の事件が起きるたび、
「命の尊さを伝えなければ」と繰り返されています。
ところが、「命を大事にしよう」「自殺してはダメ」
と生徒に広言していた校長先生や、
大衆に訴えていた著名人までもが、
自身が耐えがたい困難に直面した時、死を選ぶ。
「あれは建前だったの?」
と子供でも思ってしまいます。
夫を自殺で亡くしたある女性は、
「夫は私に、『自殺は絶対にいけないことだ』
と言っていた人だったから、
絶対に立ち直ってくれると思っていました。」
と書いています。
他人の自殺を止めている人も、
「だから命は大切だ」という明確な解答を
持ち合わせてはいないようです。
自殺する人を止める人も、
命の重さが分からない。
地球より重い私の命だと納得できれば、
自ら捨てようとはしないはずです。
一億円の宝くじの当選券を大事にするのは、
一生働いても得られない価値があると思うからでしょう。
ハズレくじなら、ゴミ箱へ直行、
割れたコップや修理の利かないパソコンなどと同様に、
価値のないものは捨てられます。
自分の命が地球よりも重いと知れば、
「ハズレくじ」を捨てるようにビルから身を投げたり、
「一人じゃ寂しいから」と他人を誘ってまで自殺することも、
できるはずがありません。
なぜ命は尊いのか。
死を急ぐ人たちが最も知りたいのは、
尊厳なる生命の理由でしょう。
●生まれてよかった、という喜びはどこに?
自分の命が大事だと思えないのは、
「生きてきてよかった」
という喜びがないからではないでしょうか。
親鸞聖人は、人生を海に例えて、
「難度海」とか、「苦海」と言われています。
苦しみの悩みが絶えない、渡り難い海だということです。
生きることは、確かにつらい。
私たちは生まれた時、人生の荒波に投げ込まれ、
その瞬間から絶えず泳ぐことを強いられます。
学生時代は必死に勉強、社会に出れば、死ぬ気で働く。
学歴競争、出世競争は激しく、出世どころか、
リストラの嵐で職場に生き残ることさえ難しい。
子どもの数が減って進学しやすくなったはずなのに、
大学入試までの教育費は増えているという。
晩婚化、少子化が進んだのは、
結婚、子育ての厳しい現実と
無縁ではないでしょう。
また、家庭や職場でのいざこざ、
成績不振、思わぬ病気や事故、
愛する人との突然の別離、金銭トラブルなど、
一つの苦しみを乗り越えても、
すぐに別の苦しみがやってくる。
時には、同時に幾つもの大波が襲ってきて、
「ああ、もう嫌だ」と投げ出したくなる。
「こんな人生なら、いっそ死んだほうが」
と一度も考えたことのない人はいるのでしょうか。
今、地獄のようなつらさを味わっている人にとって、
「死ぬな」「頑張って生きよ」の連呼は、
「もっと苦しめ」というのろいの言葉としか
聞こえないのではないでしょうか。
●教えて、生きる理由を
ネット自殺者の叫び
平成十年十月、集団ネット自殺で女性の友人を亡くした
フリーライターの渋井哲也さんは、事前に自殺の計画を
打ち明けられながら、止めることができなかった。
と告白しています。
(NHK教育テレビ『ネット自殺を追う』より)
彼が自殺を思いとどまらせようとした時、
その女性は、
「楽しいことがないのに、
どうして生きる理由があるの?」
と問います。
その疑問に満足の行く答えを返せなかったことを、
彼は悔やみました。
別の女性は、
「なぜ死にたいのか」
という質問に、
「なぜ死にたいか、ではなく、
なぜ生きなければならないのか、という気持ち」
と答えています。
苦しみに耐えて、なぜ生きねばならないか。
皆、その答えを切望しているのです。
どう自殺を止めるのか、
景気の回復、うつ病の早期発見・治療、
相談機関の増設などの手段は論じられていますが、
「なぜ死んではならないのか」という根本の確認は、
少しもなされていないようです。
肝心の「苦しくても生きねばならない理由」が抜け落ちた
議論が続くだけでは、
適切な防止策も立てようがないでしょう。
「もしあの時、死んでいたら、
この幸せにはなれなかった」
という身になってこそ、
「死ななくてよかった」と
心から喜べるのではないでしょうか。
「人生には、素晴らしい目的がある。
どんなに苦しくても生き抜かなければ」
と、人生の目的が鮮明になってこそ、
生命の尊厳が知らされるのです。
あらゆる困難を乗り越えて、
「よし、生きよう」
という心の力がわいてくるのです。
(親鸞聖人)
●人生の目的
親鸞聖人の宣言
たとえ、汗と涙で築いた全財産を失い、
最愛の人と別れ、重い病に倒れても、
`人間に生まれてよかった。
この身になるための人生だった。’
と知らされる生命の歓喜はあるのでしょうか。
生きる目的は何か。
親鸞聖人の解答は、
揺るがぬ確信と勇気に満ちています。
「難思の弘誓は難度海を度する大船、
無碍の光明は無明の闇を破する慧日なり」
(教行信証)
“阿弥陀仏の誓願(難思の弘誓)は、
私たちの苦悩の根源である無明の闇を破り、
苦しみの波の絶えない人生の海を、
明るく楽しくわたす大船である。
この船に乗ることこそが人生の目的だ。”
「苦海をわたす大船に乗ること」とは、
「苦悩の根源を破られ、`よくぞ人間に生まれたものぞ'
と生命の大歓喜を得ること」です。
これこそ、親鸞聖人九十年のご生涯を貫くメッセージであり、
今日、聖人が世界の光と讃仰(さんごう)される理由なのです。
●生命の大歓喜
人身受け難し、今已受く
「人間に生まれたのは、これ一つのためだった」と
人生の目的を果たさせていただいた時こそ、
「死んだほうがましだ、と何度思ったことか。
でも生きてきてよかった」
という心からの喜び、満足が起きるのです。
二千六百年前、仏教を説かれたお釈迦さまは、
「人身受け難し、今已受く。
仏法聞き難し、今已聞く」
`生まれ難い人間に生まれてよかった。
聞き難い仏法を聞けてよかった'
とおっしゃっています。
仏法を聞き求め、
人生の目的を達成させていただいた時にこそ、
生命の大歓喜がわき上がるのだと
教えられているのです。
親鸞聖人は、その感動を次のように叫び上げられています。
(親鸞聖人)
「噫、弘誓の強縁は多生にも値(もうあ)いがたく、
真実の浄心は億劫にも獲がたし。
遇行信(たまたまぎょうしん)を獲ば、
遠く宿縁を慶べ。
もしまたこのたび疑網(ぎもう)に覆蔽(ふくへい)せられなば
更(かえ)りてまた昿劫(こうごう)を逕歴(きょうりゃく)せん。
誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法、
聞思して遅慮することなかれ。」
(教行信証)
ああ・・・何という不思議、
親鸞は今、多生億劫の永い間、
求め続けてきた歓喜の生命を
得ることができた。
これは全く、阿弥陀仏の強いお力によってであった。
深く感謝せずにはおれない。
もし今生も、無明の闇の晴れぬままで
終わっていたら、
未来永遠、浮かぶことはなかったであろう。
何とか早くこの真実、みんなに伝えたい。
知らせねばならぬ。
こんな広大無辺な世界のあることを。
「ああ!」というのは、
かつて体験したことのない驚きと喜びの、
言葉にならぬ感嘆です。
「弘誓の強縁」とは、
何としても苦しみの根元を断ち切り、
人生の目的を果たさせたい。
という阿弥陀仏の誓願をいい、
その誓いどおりに、
苦しみの根元が断ち切られて、
人生の目的成就した歓喜の生命を、
「真実の浄心」と言われています。
それはもう、
百年や二百年で求められる
ちっぽけな幸せではなかった、
と知らされるから、
「多生にもあえないことにあえた、
億劫にも獲がたいことをえた」
と言われているのです。
一生や二生どころではない、
限りない生死を繰り返し、
億劫という果てしのない遠い過去から、
求め続けてきたものが今、獲られた。
「ああ!」と驚嘆されたのも当然でしょう。
そして、しみじみ、どんな遠い過去からの阿弥陀仏の
ご配慮があったのやらと、
「遇(たまたま)行信を獲ば遠く宿縁を慶べ」
と感泣せずにはおれなかったのです。
「もしまたこのたび疑網(ぎもう)に
覆蔽(ふくへい)せられなば
更(かえ)りてまたこう劫を
きょう歴(きょうりゃく)せん」
「疑網」とは、苦悩の根元である無明の闇のことです。
“もしまた、無明の闇に晴れぬまま人生を終わっていたら、
未来永劫、苦しみ続けていたに違いない。
危ないところであったなぁ”
とおっしゃっています。
この世だけでない。
遠い過去から未来永遠にわたって、
私たちを苦しめる元凶が、無明の闇。
その無明の闇を破っていただければ、
人生の醍醐味を心行くまで味わうことができるのだから、
絶対に自殺してはいけない。
この目的を果たすまで、生き抜きなさいよ、
と言われているのです。
「誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法、
聞思して遅慮することなかれ」
“まことだった。皆さん、聞いてもらいたい、
この親鸞が生き証人です。
早く、弥陀の誓願まことを知ってもらいたい。”
阿弥陀仏のお力によって、人生の目的を果たさせていただいた、
美しい感激に満ちた表明です。
●生きるって、なんと素晴らしいのか!
「人生には意味があるのか」
「苦しくとも生きる価値があるのか」
大人も子どもも、生きる喜びを感じられず、
現代は混迷の度を深めています。
そんな中、`何と生きることは素晴らしいことなのか・・・。'
八百年の時を超え、親鸞聖人の御声が聞こえてきます。
こんな生命の尊厳さを知れば、
なぜ自殺してはならないのか、
なぜ人命は地球よりも重いのか、
人間存在の真の意義が理解でき、
感謝と懺悔に生かされた、
明るくたくましい人生が開かれるのです。
なぜ、生きることは苦しいのでしょう [なぜ生きる]
お釈迦さまが説かれた「絶対の幸福」 [なぜ生きる]
すべての人の生きる意味とは!? [なぜ生きる]
『正信偈』と
おとぎ話と真実の仏法(浦島太郎に秘められた意味) [なぜ生きる]
おとぎ話と真実の仏法
「葬式仏教」、それは本当の仏教じゃない! [なぜ生きる]
「葬式仏教、それは本当の仏教じゃないのよ」
「葬式仏教」といわれて久しく、
僧侶の務めは「葬式や法事」と考える人も多いでしょう。
そんな仏教観を持つ人に、
仏さまの教えをよく知る人は訴えます。
「それは本当の仏教じゃない」
では、真実の仏法とは何を教えられているのでしょう。
親鸞聖人からお聞きします。
真実の仏法は「平生業成」
●「仏法嫌い」は
どうしてなの?
「いいかげんにその歌やめろ!
坊主に何を吹き込まれたのか知らんが、
あいつらは金の亡者だぞ。
おっとうが死んだ時も
『たくさん金を払えば長いお経をあげてやる』だの、
『極楽に行ける』だのなんて言いやがったんだ!」
普段から熱心に聞法し、
「恩徳讃」を口ずさむ妻・千代に、
こうまくしたてる仏法嫌いの了顕。
“それは・・・”と言いかけた千代を遮り、さらに言う。
「本堂が雨漏りするとか、門が壊れたとか、
何だかんだと言って門徒から金を集めるそうじゃないか。
断ったら『墓を持っていけ』と脅された奴もいるらしいぞ」
「それは本当の仏教ではないのよ。
あなたも、蓮如さまのお話を聞けば分かるわ」
千代の言葉にも、了顕は承服しなかった。
約500年前、浄土真宗を日本全国に弘められた蓮如上人と、
その弟子、本光房了顕の史実を描いた
アニメーション映画『なぜ生きる・・・蓮如上人と吉崎炎上』
冒頭の一場面です。
幼くして父親を失った了顕は、
葬儀の際の僧侶の一言で、「坊主は大嫌い」になりました。
「僧侶は葬式や法事で金儲けする者」との思いを、
彼はここで吐露しています。
今日も、仏教に同様のイメージを持っている人は多いでしょう。
●批判される仏教界
“教えを説かない僧侶たち”
最近、流通王手のアマゾンが民間業者と提携して、
葬儀・法事への僧侶の手配のチケットを販売し、
イオングループなども同様の安価なサービスを展開して
好評を得ています。
注目されるのは、今まであいまいだった
「お布施」の金額を明確に打ち出した点です。
ところがこれに、全日本仏教会が、
「お布施本来の宗教性を損なう」と苦言を呈し、
議論の的となりました。
様々な意見が見られます。
“アマゾンの試みは、よくも悪くも
法要や戒名の金額の不透明さに一石を投じている”
と語る人は、こんな経験をしたそうです。
父親の49日が終わって納骨の時、
僧侶が挨拶もそこそこに左手を出してお礼を要求してきた。
しかも彼は、もらうものをもらったら遺族を急がせ、
読経が終わるやそそくさと帰宅。
思い出話も法話もなかったといいます。
一方で、アマゾンのようなサービスは心が失われており、
葬儀や法事はそんなもんじゃないと感じる、
という人も。
中には仏教のあり方を問う、こんな意見もありました。
“そもそも仏の教えを伝えない人を
仏教者(僧侶)と見なすことはできない。
人々に教えが届いていれば、こうはならない。
大衆が知りたいのは仏教界の論理ではなく、
仏の教え、心の救いだ。
何もしない人にお金を渡すことに異を唱えるのは仕方がない”
ここで言われているように、
問題は「教えを説かずに布施を要求すること」です。
仏教を説かれたお釈迦さまは、死者のための葬式をされたことは
一度もなかったといわれます。
常に、生きた人間に救いの法を説かれたのです。
葬儀や法事は本来、親しい人の無常をご縁に仏法を聞かせていただくために
開くのであり、その説法へのお礼が「お布施」なのです。
「教えの有無」が大事であり、正しい教えを聞いた人ならば
「布施」の心がおのずと起きるものです。
●本当の仏教とは何でしょう?
正しい教えを知らずに腹を立てる了顕に、
妻の千代は、
「それは本当の仏教じゃないのよ」
と諭していますが、本当の仏教とはどんな教えなのでしょうか。
映画のご説法で、蓮如上人は第一声、こう仰います。
蓮如上人 「皆さん、親鸞聖人の教えはただ一つ。なぜ生きる、
『なぜ生きる』の答えでした」
私たちが人間に生まれてきたのは何のためか。
その答え一つを説かれたのが親鸞聖人であると明言されています。
親鸞聖人はそれを、主著『教行信証』冒頭に
「難度の海を度する大船」に乗ること、
とズバリ仰っています。
●釈迦の金言
「人生は苦なり」
「難度の海」とは、苦しみの絶えない人生を、
荒波の絶えない海に例えられているのです。
フランスの思想家、ルソーは、
「人生の最初の四分の一はその使い道もわからないうちに過ぎ去り、
最後の四分の一はまたその楽しさを味わえなくなってから過ぎていく。
しかもその間の四分の三は、睡眠、労働、苦痛、束縛、
あらゆる種類の苦しみによって費やされる」と言い、
ノーベル文学賞の戯曲家、イギリスのバーナード・ショーは、
「人生は苦しみである。そして2人の人間の唯一の相違は、
その人の味わっている苦しみの程度の差に過ぎない」
と語っているように、
多くの著名人も人生は苦しいところだと述べています。
仏のさとりを開かれた大聖釈迦牟尼世尊(お釈迦さま)は、
「人生は苦なり」
(人は生まれてから死ぬまで、苦しみ続けなければならぬ)
と道破なされ、その実態を「四苦八苦」で教えられています。
次の八つです。
初めの「生苦」とは生きてゆく苦しみ。
これを「愛別離苦」「怨憎会苦」「求不得苦」と
具体的に教えられています。
「愛別離苦」とは愛するものと別離する苦しみをいいます。
政治資金の不在使用で辞職した前東京都知事は、
週刊誌で始まった追求から世論が高まり、
恋々と固執した知事のイスを追われた。
身から出たサビとはいえ、
泣くほど愛着した地位から引き離されるのは辛かったでしょう。
大切な人や物を失う痛みは、筆舌に尽くし難いもの。
永年連れ添った伴侶や親、子との別れを味わって、
悲嘆されている方もあるでしょう。
次の「怨憎会苦」とは、怨み憎むものと会わねばならぬ苦しみ。
イヤな奴、と聞けば、幾人かの顔がすぐに浮かぶ。
そんな相手と会う不快さです。
「亭主元気で留守がいい」と笑い飛ばせたのは過去のこと。
夫の在宅がイヤでイヤで高血圧やうつなど
体調を壊す妻が多くあるようです。
「主人在宅ストレス症候群」なる病名までついています。
一方、NHKの「クローズアップ現代+」によると、
“すぐキレる妻が怖い”という夫がなんと47パーセント。
妻は自分が働いているのに、家事や子育てを手伝わない夫に
イライラしているのですが、夫は妻が何を怒っているのか
分からないので会話もできず、退社後も帰宅せずに繁華街を、
何時間もさまよう。
そんな夫が増えているといいます。
愛した人がストレスの元とは、まさに愛情一如。
その人にとっては結婚が「怨憎会苦」の始まりだったのかも。
「求不得苦」は、求めているものが得られない苦しみのことです。
女性3人のアイドル「パフューム」が
“最高を求めて終わりなき旅をするのは、私たちが生きているから。
夢に向かって遠い先まで、前を見て進もう”
という内容の応援歌を発表した時、
メンバーの一人がこう紹介しています。
「今回の新曲は一言で言うと、ものすごい苦しい歌です。
勇気が出るといえば、出るんですが・・・」
有名になり、多くの曲をヒットさせているパフュームですが、
これからは日本だけでなくアジア、欧米へ進出する。
大きな夢を追い求める、その厳しい過程を思うと
「ものすごい苦しい歌」という本音が思わず出たのでしょう。
「世の中は
一つかなえば また二つ
三つ四つ五つ 六つかしの世や」
七つ、八つ・・・もっともっとと、
死ぬまで「夢のまた夢」に取りつかれ、
私たちは“六つか(難)し”の「難度の海」を泳いでいるのです。
●「死ぬまで求道」がいい?
スポーツや音楽、科学、医学、芸術など、
人間の全ての営みに完成はありません。
それを「死ぬまで求道」といいます。
多くの人は礼賛する言葉ですが、よく考えれば、
100パーセント求まらぬものを、
死ぬまで求め続ける、というおかしなことにならないでしょうか。
求めるのは「求まる」ことが前提のはず。
死ぬまで求まらぬと知りながら求め続けるのは、
去年の宝くじを買い続けるようなもの。
“それでいい”とどうして言えるのでしょうか。
「求める」のは苦しいこと。
「死ぬまで求道」の人生は、そのまま死ぬまで
苦しみの絶えない難度の海なのです。
しかも人生には、すべての人が避けられぬ
「老苦」「病苦」「死苦」が必ず訪れます。
「老苦」は肉体が古びていく苦しみ。
若いつもりがいつの間にやら随所に衰えが来ます。
幼い頃、なぜ祖父母が眼鏡を外して小さい文字を見るのか、
全く理解できなかったが、自分が老眼になるとよく分かる。
老いの嘆きは1000年以上前の『古今集』の時代から、
いずこでも常に変わらないのだと知らされます。
「老いらくの
来んと知りせば 門鎖して
なしとこたえて 会わざらましを」
(このように「老い」が来ると知っていたら、門を閉ざし
「用のある者はない」と言って会わぬようにしたものを)
「とどめあえず
むべもとしとは 言われけり
しかもつれなく 過ぐる齢か」
(とどめられず、まさに「疾し(年)」とはよく言ったもの。
かように人の気も知らず、「齢」は過ぎゆくものだなぁ)
長寿がかなった高齢社会の現代は、
老老介護や老後破産など、老苦はより深刻になっていようです。
「病苦」は病の苦しみです。
「やまいだれ」に「丙」と書くのは、
どんな病気も当事者には甲乙つけがたい苦痛だから、といわれます。
6月に亡くなったボクシング元世界ヘビー級チャンピオン、
モハンメド・アリさんは、“蝶のように舞い、蜂のように刺す”
華麗な戦いが多くの人を魅了しましたが、
彼の引退後の半生は、42歳から晩年まで
パーキンソン病との闘いでした。
並外れた身体能力も病一つで奪われ、
歩行もままならなかったといいます。
「死苦」は問答無用、「死ぬほどつらい」とよく口にしますが、
この100パーセントの未来が、
私たちの人生を巨大な不安で覆っているのです。
蓮如上人はこう仰せです。
「未だ万歳の人身を受けたりという事を聞かず。
一生過ぎ易し」(白骨の章)
どこにも千年万年、生きている人を聞かない。
人生は実に短い。
「朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり。
既に無常の風来たりぬれば、即ち二つの眼たちまちに閉じ、
一の息ながく絶えぬれば、紅顔むなしく変じて桃李の装を失いぬるときは、
六親・眷属集まりて歎き悲しめども、更にその甲斐あるべからず」
(白骨の章)
朝元気な人が、夜にはポックリ死んでしまうこともよくあること。
次の世に旅立つ時は、妻も子供も兄弟も連れにはなってくれない。
この世のもの何一つ、持ってはいけないのです。
●「絶対の幸福に救う大船あり」
親鸞聖人の断言
親鸞聖人は「こんな四苦八苦の難度の海に苦しむ私たちを、
そのまま乗せて絶対の幸福に救い摂り、
極楽浄土まで渡す大船があるのだよ」
と断言なされています。
阿弥陀仏の本願によってつくられた船ですから、
「大悲の願船」と聖人は仰っています。
阿弥陀仏とは、お釈迦さまが紹介された仏さまです。
大宇宙には地球のような世界が無数に存在し、
それぞれに仏さまがまします。
その大宇宙の諸仏方が異口同音に、
「われらの本師本仏である」
「最高無上の師の仏だ」
と仰ぐお方が阿弥陀仏です。
阿弥陀仏が、
「どんな人をも
必ず絶対の幸福に助ける」
という本願(約束)を建てておられます。
このお約束を果たすために、
阿弥陀仏がつくられたのが大悲の願船なのです。
この大悲の願船に乗せられ、絶対の幸福になるために、
私たちは生まれてきた。
これが「なぜ生きる」の答えであります。
●「永遠の命が救われる」
では、大悲の願船に乗せられる、とはどんなことでしょうか。
映画『なぜ生きる』で蓮如上人はこう仰います。
蓮如上人 「阿弥陀仏の救いは、肉体の救いとは比較にならぬ、
永遠の命が救われるご恩ですからね、
無限に大きくて深いものなのですよ」
大悲の願船に乗せていただけば、
四苦八苦に蹂躙される肉体の救いではなく、
「永遠の命が救われる」と言われています。
このことについて親鸞聖人からお聞きしましょう。
ご自身が大悲の願船に乗せられた時の歓喜と感謝を述べられた
『教行信証』総序のお言葉です。
「噫、弘誓の強縁は多生にも値いがたく、
真実の浄信は億劫にも獲がたし。
遇行信を獲ば遠く宿縁を慶べ。
若しまたこの廻疑網に覆蔽せられなば
更りてまた昿劫を逕歴せん。
誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法、
聞思して遅慮することなかれ」
(ああ・・・何たる不思議か、親鸞は今、多生億劫の永い間、
求め続けてきた歓喜の生命を得ることができた。
全くこれは、弥陀の強いお力によってであった。
深く感謝せずにおれない。
もし今生も、弥陀の救いにあえぬままで終わっていたら、
未来永遠、幸せになることはなかったであろう。
何とか早くこの真実、みんなに伝えねばならぬ、知らせねばならぬ。
こんな広大無辺な世界のあることを)
「噫」という感嘆は、かつて体験したことのない驚きとよろこびの、
言葉にならぬ言葉です。
「弘誓の強縁」とは阿弥陀仏の本願のこと。
“難度の海に苦しむ人々を、必ず大船に乗せて絶対の幸福に救う”
という強烈なお約束をいい、
その誓いどおりに、大船に乗ったことを、
「真実の浄信」と言われています。
それはもう、100年や200年求めて得られる、
ちっぽけな幸せではなかった、と知らされますから、
「親鸞、果てしない過去から、生まれ変わり死に変わり、
生死生死を繰り返してきた。
永い間迷い苦しみ、救いを求めてきたのだ。
その多生にもあえなかった弥陀の救いに今、あえた、
億劫にも獲がたいことを今、獲たのだ」
と言われているのです。
ここでいわれる「あう」は「値う」と書き、
過去無量劫、果てしない魂の歴史の間にも、
かつてなかったこと。
これから未来永劫、二度とないことに「値った」ことをいいます。
多生億劫の間求めても値えなかったことに値えたから
『噫』と驚嘆せずにいられなかったのでしょう。
山高ければ谷深し、救い摂られた山が高いほど、
後生の一大事に戦慄し、こう嘆息もされています。
「若しまたこの廻疑網に覆蔽せられなば
更りてまた昿劫を逕歴せん」
弥陀の大船を疑って乗らぬ心を、ここでは「疑網」と言われ、
「もしまた今生も、大悲の願船を疑い、
乗船せぬままで終わっていたら、未来永劫、
苦しみ続けていたに違いない。危ないところであったなぁ」。
合掌瞑目し、法悦に包まれる聖人が、
まぶたに浮かぶようです。
「誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法、
聞思して遅慮することなかれ」
「まことだった!本当だった。絶対の幸福に救い摂り、
必ず極楽浄土に渡してくださる弥陀の願船、ウソではなかった。
皆々、乗船してもらいたい、この親鸞が生き証人だ。
早く、大悲の願船の厳存を知ってもらいたい」
弥陀の救いはこの世の肉体の問題ではない。
まさしく「永遠の命を救っていただいた」という美しい感激に
満ちた告白であることが知らされます。
だからこそ、「身も粉に、骨砕きても」という恩徳讃の心になるのです。
●平生の一念に乗せられる
この大悲の願船には、いつ乗せていただけるのでしょう。
映画で蓮如上人は、こう教えられています。
蓮如上人 「それは、平生、生きている、今のことですよ。
今この大船に乗せていただき、どんなことがあっても
変わらぬ絶対の幸福になることを、
『平生業成』と親鸞聖人は言われています」
「平生業成」とは親鸞聖人の教えを漢字四字で表した言葉です。
「平生」とは死後ではない、「生きている今」のこと。
「業」とは人生の大事業。
これこそ「なぜ生きる」の答えであり、
大悲の願船に乗じて絶対の幸福(往生一定)になることです。
私たちに、これ以上大切なことはありません。
「成」とは「完成、達成する」ということです。
“人生には、これ一つ果たさねばならないという大事な目的がある、
それは現在、完成できる。だから早く完成しなさいよ”
と親鸞聖人は教えられていますから、
「平生業成」は聖人の教えの一枚看板といわれるのです。
「仏教」と聞くと、地獄や極楽などの死後物語ばかりと
思われているのが悲しい現実です。
その誤解を正し、弥陀の救いは“今”であることを
鮮明になされた方が親鸞聖人なのです。
「漂泊とは、たどりつかぬことである。
たとえ、それがどこであろうとも、われわれに夢があるあいだは、
『たどりつく』ことなどはないだろう」 (旅の詩集)
作家・寺山修司が言うように、果てなき夢を求めて
難度の海を漂泊する者は、
どこにでも「たどりつく」ことはない。
ゴールなき「死ぬまで求道」では永遠に救いがありません。
親鸞聖人は、「なぜ生きる」の答えがある、
この世でハッキリ絶対の幸福に救われる時がある、
と断言されているのです。
弥陀の大船には平生の一念に、乗せていただけるのですから、
こんな水際だった鮮やかな救いは、
阿弥陀仏の本願にしかありません。
真剣によくよく弥陀の本願を聞いて、
一日も早く「平生業成」の身にならせていただきましょう。
お釈迦さまが説かれた「なぜ生きる」の答え [なぜ生きる]
裏切るものを信ずるから苦しむ、裏切らないものとは! [なぜ生きる]
平成十一年、日本最高の知性ともいわれた江藤淳氏が、
六十六年の生涯に自ら終止符を打ちました。
慶子夫人が病に倒れた三ヶ月後、
「家内の死と自分の危機とを描き切りたい」
と筆をとった『妻と私』が、事実上の遺書といわれます。
病床に伏す妻を最後まで支えたい。
決して家内を一人にしない。
それが江藤氏の「生きる目標」でした。
「一卵性夫妻」とよばれるほど、
それはいい仲だったのです。
最愛の妻の命が終われば、すべては終わってしまう。
やるせない哀感が描かれます。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
誰にいうともなく、家内は
「もうなにもかも、みんな終わってしまった」
と呟いた。
その寂寥に充ちた深い響きに対して、
私は返す言葉がなかった。
実は私もまた、どうすることもできぬまま
「みんな終わってしまった」ことを、
そのとき心の底から
思い知らされていたからである。(中略)
薬のせいで気分がいいのか、
家内が穏やかな微笑を浮かべて、私を見つめ、
「ずいぶんいろいろな所に行ったわね」と言った。(中略)
「本当にそうだね、
みんなそれぞれに面白かったね」
と、私は答えたが、
「また行こうね」とはどうしてもいえなかった。
そのかわりに涙がほとばしり出てきたので、
私はキチネットに姿を隠した。
(江藤淳『妻と私』)
夫人が亡くなり、生きる目標がなくなって残ったのは、
死を待つだけの無意味な時間でした。
家内の生命が尽きていない限りは、
生命の尽きるそのときまで一緒にいる、
決して家内を一人ぼっちにはしない、
という明瞭な目標があったのに、
家内が逝ってしまった今となっては、
そんな目標などどこにもありはしない。
ただ私だけの死の時間が、私の心身を捕らえ、
意味のない死に向かって刻一刻と
私を追い込んで行くのである。
(江藤淳『妻と私』)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
江藤淳氏の自殺は、衝撃とともに報じられました。
「先立たれた愛妻の後を追ったのでしょう」
「耐え難い病苦だったのですね」
など、哀悼の辞とともに、
原因が取りざたされました。
氏の伴侶を失った苦悩、
心身の不自由による不安は、想像に余りあります。
それらの痛苦も、要因の一つでしょう。
しかし本質的には、
「苦しくても生きるのはなぜか」が、
その明晰な知性をもってしても、
分からなかったからではないでしょうか。
●真実の仏法に遇えぬ悲劇
経典にはこう説かれています。
「学問をして善知識に遇わずんば、
いずくんぞ天下に大道(仏教)あるを知らんや。
船に乗りて池泉小流に遊んで、
いずくんぞ天下の江海あるを知らんや。
仏教は江海の如し、
一切世間の経書は皆仏経より出ず。」
才知すぐれ、勉学に励んだ人でも、
仏法を正しく教えてくださる
善知識に会えなければ、
経典のあることも分からず、
そこに明示されている
人生の目的を知ることはできません。
苦しみばかりの生涯を終えるしかないのです。
日本で年間三万人の自殺者も、やはり、
真実の仏法に遇えなかったための
悲劇といえましょう。
●人生の目的は「無明の闇を破ること」
「人は何のために生まれ、生きているのか」
お釈迦さまの教法を、
自分の考えを一切入れずに
そのまま正しく伝えた親鸞聖人は、
こう喝破されました。
「已能雖破無明闇」(正信偈)
(すでによく無明の闇を破すといえども)
無明の闇を破ることこそ、
人生の究極の目的だと明示されたのです。
「無明の闇」とは「後生暗い心」を言います。
死後があるのかないのか、
あるとすればどんな世界か、
はっきりしない心です。
百パーセント確実な未来後生が
はっきりしないから、
現在も不安なのです。
平生に、この無明の闇を破って、
いつ死んでも浄土往生間違いない、
絶対の幸福になることが、
人間に生まれてきた目的です。
親鸞聖人は、二十九歳の御時に、この幸せになられ、
「無碍の一道に出たぞ」と仰いました。
聖人の主著『教行信証』には、
その慶びが随所に記されています。
一つあげてみましょう。
●弥陀の本願の大地に心を樹(た)てた喜び
「慶ばしき哉(かな)。心を弘誓の仏地に樹て」
なんと喜ばしいことか、とまず、
心からわき上がる喜びを率直に表明されています。
何をそんなに喜ばれたのか。
「心を弘誓の仏地に樹て」たことです。
「心を弘誓の仏地に樹て」の「弘誓」とは
「阿弥陀仏の本願」です。
大宇宙には数え切れないほどの仏方がましますと、
お釈迦さまは説かれています。
その中で、「本師本仏」と仰がれる仏様が阿弥陀仏です。
「本師本仏」とは、すべての仏の師匠の意。
釈尊も仏様のお一人ですから、
お釈迦様の先生が、阿弥陀如来なのです。
「本願」とは、お約束です。
阿弥陀仏は、
「すべての人の無明の闇を破り、
絶対の幸福に救い摂ってみせる」と、
誓っておられます。
この阿弥陀仏の本願を大地にたとえられ、
「仏地」と仰ったのです。
阿弥陀仏に救い摂られ、
無明の闇が破られると、私たちの心は、
阿弥陀仏の本願の大地に樹ちます。
心が本願に樹つとは、阿弥陀仏のお約束通り、
絶対の幸福になることです。
「親鸞は、阿弥陀仏の本願に心を樹てたぞ。
なんと慶ばしいことか」
と、人生の目的を達成した喜びを仰っているのです。
無明の闇が破れ、生命の歓喜あふるる世界に、
平生、出させていただける時があるのです。
●生きることは信ずること
人は何かを信じなければ生きてはいけません。
何かに心を樹(た)てているのです。
親は子供を信じ、子供は親をあて力にし、
あるいは、金や財産、名誉、地位、健康と、
いろいろなものを頼りにして生きています。
ところが、崩れるもの、滅んでいくものに
心を樹てていると、
必ず裏切られる時がきます。
建築物は基礎がしっかりしていないと、
どんな立派な御殿を建てても、
基盤が崩れると同時に建物も崩壊してしまいます。
同様に、私たちの心という建物をどこに建てるかによって、
幸・不幸が左右されるのです。
私たちはどんなものの上に心を樹てているでしょうか。
無常なものの上に心を樹てていると、
それらが崩れた時、裏切られ、苦しまなければなりません。
親を頼りにしていても、その力が持続する保証もなく、
いつまでも生きていてはくれません。
子供をあて力にしていても、
やがて自分から離れ、独立していきます。
老人ホームに入れられ、
「こんなことなら生まなければよかった」
と愚痴を言っている人もあります。
子供に樹てていた心が崩れてしまったのです。
健康に心を樹てていると、病気になったとき、
昨日までの喜びは吹き飛んでしまいます。
名誉とか地位に心が樹っている時は、
華やかに見えても、一度これらを失うや、
急坂を転げ落ちるような惨状になってしまいます。
江藤氏の自殺も、妻や健康に樹てていた心が
崩れた末の悲劇ではないでしょうか。
必ず崩れる無常のものに心を樹てていると、
その幸福も崩れてしまいます。
親鸞聖人は、四歳で父君と、八歳で母君と死別され、
「世の中にあてになるものは何もないなあ」
と身をもって知らされました。
その聖人が絶対に崩れない阿弥陀仏の本願に
心を樹てられた時の驚き、
喜びはどれほどだったでしょう。
「慶ばしき哉」の喜びは、永遠に変わらない、
なくてはならない喜びなのです。
●自殺者は愚かの中の愚か者
苦しみの根源である、無明の闇の闇をぶち破り、
「心が弘誓の仏地に樹つ」、
絶対の幸福に生かされて、
いつ死んでも極楽往生間違いない身に
救い摂られることこそ、人生究極の目的です。
最も大切な、生きる目的を知らず、
無明の闇を抱えたまま死に急いでも、
幸せにはなれません。
釈尊はそれを、
「従苦入苦 従冥入冥」
(苦より苦に入り、やみよりやみに入る)
と『大無量寿経』に説かれています。
真っ暗な心のまま死ねば、
後生もまた暗黒なのです。
苦しみの世界へ自ら進んで飛び込んでゆくのは、
愚かの中の愚かな行為です。
まさに、飛んで火に入る夏の虫。
自ら火中に身を投じ、
さらに大きな苦しみを受けるのは、愚の骨頂です。
何のために生まれてきたのか、
深く知らなければなりません。
人生の目的は、「破無明闇」ただ一つ。
人間に生まれてよかった!と喜べる世界があることを
親鸞聖人は生涯叫んでいかれたのです。
親鸞聖人が教えられたほんとうの「大往生」 [なぜ生きる]
親鸞聖人が教えられた
ほんとうの「大往生」
浄土真宗では毎年、親鸞聖人のご命日(11月28日)を
中心に「報恩講」が開かれます。
誰もが知りたい「なぜ生きる」の答えを、
明示してくだされた聖人のご恩に報いる集まりです。
真宗の年間行事でも、特に大事なご法縁ですから、
古来、篤信(とくしん)な人は、他の用事を差し置いても
必ず参詣していました。
今日、平成の私たちが聖人の深きご恩を知り、
感じ、報いるには、まず教えをよく知ることが大事です。
今回は報恩講をご縁に、
聖人の教えを聞かせていただきましょう。
●死ねば誰でも
「往生」できるのですか?
世界的なヒット曲『上を向いて歩こう』(歌・坂本九)
の作詞者として知られる永六輔さんが、
7月に亡くなりました。
永さんといえば、約20年前、
200万部超えのベストセラーとなった『大往生』が有名です。
その執筆動機を、「まえがき」にこう述べています。
かつて回答者を務めていたラジオの
「子供電話相談室」で、
「どうせ死ぬのに、なぜ生きるの」と質問され、
絶句したことがある。
その子の疑問に答える本にしたい、と。
そして本の最後に、
「人は死にます
必ず死にます
その時に
生まれてきてよかった
生きていてよかったと思いながら
死ぬことができるでしょうか
そう思って死ぬことを
大往生といいます」
と記しています。
“生まれてきてよかった”という喜びと感謝で
人生を終えるのが「大往生」であり、
質問した子への答えだと言いたかったのでしょう。
●「往生」の誤解いろいろ
それほど売れた『大往生』ですが、
20年たった今も、往生の本当の意味を知らない人がほとんどです。
例えば、「隣のお婆さん、今朝往生したそうな」
「台風で電車が立ち往生した」
「車が突然、故障して、往生した」
など、「死ぬ」「動けなくなる」「困る」の意味で
使う人が少なくないのです。
本来「往」にも「生」にも、
そんなマイナスな意味はありません。
「往生」とは、阿弥陀仏の浄土へ「往(ゆ)」き、
仏に「生」まれること。
これは親鸞聖人の教えの重要なキーワードですから、
よく知っていただきたいと思います。
終末期患者の心のケアの重要性を、
8月下旬、NHKの『クローズアップ現代+』が
「“穏やかな死”を迎えたい~医療と宗教 新たな試み~」
というタイトルで特集していました。
死に直面すると、
「死んだらどうなるのか」
「私の人生の意味は?」
という切実な問いが、患者の心に湧き起ってきます。
これを「スピリチュアルペイン」といいます。
「生命の根元にかかわる深い痛み」であると、
本誌2月号で、真野鋭志医師のコメントとともに取り上げました。
この深刻な「スピリチュアルペイン」を、
患者はこれまで、“家族に心配をかけたくない”
“医師の手を煩わせたくない”などの理由で、
なかなか口に出せなかったといいます。
それが今、人生の最も重要な問題として、
正面から取り上げられつつあるのです。
仏教では「死んだらどうなるか分からぬ心」を、
「無明の闇」とか「後生暗い心」といわれ、
苦しみの根本と教えられています。
真の往生は、この暗い心が破られ、
「後生明るい心」にならなければできません。
番組では、このような終末期患者の心を専門的にケアする
「臨床宗教師」の取り組みを通して、
すべての人に宗教が必要であると訴えていました。
しかし、患者の死後のイメージに同調することで、
死の不安や恐怖を和らげることはあっても、
肝心の“どうすれば往生できるのか”に、
明らかな答えは示されませんでした。
●「往生」は今、定まる
これについては親鸞聖人は、
こう断言されています。
“どんな人でも、大宇宙最尊の本願に救い摂られれば、
必ず無量光明土(極楽浄土)に往生できるのだよ”と。
阿弥陀仏とは、大宇宙にまします
諸仏方の本師本仏(先生)である仏さまのこと。
本願とはお約束のことで、
阿弥陀仏は、次のように誓われています。
「すべての人を
必ず絶対の幸福に助ける」
「絶対の幸福」とは、現在ただ今、
いつ死んでも浄土往生間違いなし(往生一定)と
ハッキリ定まった大安心のこと。
浄土に往生するのは肉体の死後ですが、
往生が確定するのは、この世で弥陀の本願に救い摂られた時なのです。
それを親鸞聖人は、
「信心の定まるとき往生また定まるなり」
(末灯鈔)
と教示されています。
この阿弥陀仏の本願を聖人は、主著『教行信証』の冒頭に、
「難度海を度する大船」と仰っています。
●荒波絶えぬ人生の海
「難度海」とは、苦悩の波の絶えない私たちの人生を、
親鸞聖人が、荒波の絶えない海に例えられたお言葉です。
人生、苦悩の波間から、こんな嘆きの声が聞こえてきます。
「10年前に妻をガンで亡くし、65歳で退職、今は独り暮らしです。
2年前に私も宣告を受けました。
手術は成功しましたが、余命は少ないので、
趣味があってもむなしく、毎日の食事、ガランとした自宅にも嫌気が差し、
マンションから下を見れば飛び込みたい気持ちになることも・・・」
「人間関係、親子関係、孫の教育などで、
胃が痛くなるほど苦しく、パニックになりそうです。
『なぜ生きる』と考えると涙が出ます」
私たちは生まれると同時に、
空と水しか見えない大海原へ放り出されたようなもの。
30年以上、助産婦を務めたある女性が、こう語っていました。
「赤ん坊が生まれて、私たちがまずするのは、
お母さんの体内から出たばかりの赤ちゃんの顔を覆っている
ヌルヌルのものをきれいに拭き取ること。
そして息ができるようにするのです」
ヘソの緒を切ると、母親から酸素が来なくなりますから、
赤ん坊は自分で呼吸しなければならない。
オギャーと泣きながら、赤ん坊は必死に呼吸し、生きようとする。
荒海を泳ごうとしているのです。
しかし、どこへ向かって泳ぐのか。
どんなに一生懸命に泳いでも、方角の立たぬまま、
むやみやたらに泳いでいれば、
やがて心身ともに力尽き、土左衛門になるのは明らかです。
ここで、映画『なぜ生きる』の蓮如上人のご説法をお聞きしましょう。
蓮如上人「みなさん。私たちはやがて必ず、土左衛門にならねばならぬのに、
どう泳げばよいのか。泳ぎ方しか、考えておりません。
私たちは生まれると同時に、どう生きるかに一生懸命です。
少しでも元気がないと『頑張って生きよ』と、
励ますでしょう。
だが、少し考えてみれば、おかしなことです。
やがて必ず死なねばならないのに、
なぜ苦しくても生きねばならないのでしょうか。
おかしな話ではありませんか。
この私たちの、最も知りたい疑問に答えられたのが、
親鸞聖人なのですよ。
親鸞聖人はね。どんなに苦しくても、生きなばならぬのは、
私たちには、とっても大事な目的があるからだと、
懇ろに教えられています。
その肝心の、生きる目的を知らなければ、
生きる意味がなくなるではありませんか、みなさん」
●「あなたの生きる目的は?」
ここで蓮如上人が仰る、
「生きる目的を知らなければ、生きる意味がなくなる」
とはどんなことなのでしょう。
そもそも私たちは、何を目的だと思って生きているでしょうか。
「あなたの生きる目的は?」
と聞かれたらどう答えますか。
例えば子供なら、学校に通って勉強するとか、
友だちと遊ぶことだと思っているでしょう。
中にはいじめられて、学校に行きたくない、いっそ、
「早く卒業したら幸せになれる」と思って
ガマンしている子も少なくないようです。
現在、不登校は全国で12万人に上るといわれています。
〝子供は無邪気〟“気楽でいいよな〟と大人は思っていますが、
子供は子供なりに苦しみ悩みながら生きているのです。
ようやく学校を出て、青年になると、
関心は「異性」に向く。
勉強、趣味、遊び、どんな時も、
男は好きな女の前ではカッコよくふるまいたくなる。
多くの小説やドラマが恋愛をテーマにしているのも、
誰もが
「恋人ができたら幸せになれる」
と思っているからでしょう。
適齢期になると、いよいよ「婚活」に力が入る。
「結婚したら幸せになれる」
と金剛のごとく信じ、気の合う相手を求め、
“キミと一緒なら、金も財産も、何も要らない”
とのろけてプロポーズ。
結婚して子供が生まれれば、今度は育児中心の人生に。
母親だけでなく、育児能力の高い父親「イクメン(育児男子)」
が最近は増えました。
「子供が立派に育ったら幸せになれる」
と夫婦で一心に我が子の成長を願い、
子育てに手間、ヒマ、お金をかける。
教育費のために仕事に励み、マイホームを夢みて今度は、
「家が持てたら幸せになれる」
と、さらに仕事に熱中していきます。
そうして家族や会社に身をささげて退職。
加齢で身体が衰えると、
健康維持や病気の快癒に心を砕くようになる。
「健康になったら幸せになれる」
とリハビリに精を出す。
いよいよ最後は、
「子孫に財産を遺せたら、オレの人生も意味があったのかな」
と、一生を総括しようとする。
●人生には
いろんな「坂」がある
このように人生が進むにつれ、
「生きる目的」と思っているものも変わってきますが、
求める苦労は坂道を上るように続くと、
都はるみさんは「夫婦坂」で歌っています。
「この坂を 越えたなら
しあわせが 待っている
そんなことばを 信じて
越えた七坂 四十路坂」
人生にはいろいろな坂がある。
その都度、上り切った満足や安心はありましょうが、
喜びは一時のもので、すぐまた新たな急坂を、
ヨロメキながらも上っていかねばなりません。
どこまで頑張って坂を越えたら、
本当の幸せが待っているのでしょうか。
キリのない登坂の人生を古歌に、
「越えなばと
思いし峰に きてみれば
なお行く先は 山路なりけり」
と歌っています。
このように、時の経過とともに変化するものは「生き方」「生きる手段」であって、
人生の真の「目的」ではないと、仏教では教えられます。
難度海でいえば、丸太や板切れを求める「泳ぎ方」の問題なのです。
蓮如上人が先のセリフで、
「私たちはやがて必ず、土左衛門にならねばならぬのに、
どう泳げばよいのか。
泳ぎ方しか、考えておりません。
私たちは生まれると同時に、どう生きるかに一生懸命です」
と喝破されているのはこのことです。
本当の生きる目的は「なぜ生きる」の答えを知らぬ私たちが、
常に問題にしているのは、より大きな丸太に
“どうたどり着くか”坂なら“どう上るか”、
人生なら“どう生き延びるか”の方法・手段なのです。
その生き方の指南役が、政治や経済、科学や医学、
芸術やスポーツなどといえましょう。
人は皆、「どう生き延びるか」に全知全能を傾けているのです。
●生きることは
“ムダな抵抗”か
しかし、私たちが忘れてならないのは、
すべての人は、どんな生き方をしても、
やがて必ず死なねばならぬということです。
立て籠もり犯の周囲を取り囲んで、刑事が説得する。
「おまえは包囲されている。
無駄な抵抗はやめて出てきなさい」
もう逃げ場はない。早くアキラメて投降せよ、と。
私たちの営みは、つまるところ「生き延びる」ための努力ですが、
勝ち切ることのできない、必ず「死」によって敗北する闘いです。
この厳粛な事実にぶち当たった時、
冒頭で紹介した子供の質問、
「必ず死ぬのに、なぜ生きるの?」
に、大人も絶句するのです。
苦労して坂道を上り続けた人生の終末が、
「ああ、苦労の連続だったなぁ。報われない人生だった」
で幕が下りては、何と悲しいことでしょう。
それは人生の「目的」と「手段」を取り違えたがゆえの悲劇です。
では真の人生の「目的」とは何か。
この問いに、明らかな解答を示されている方が、
親鸞聖人なのです。
「大悲の願船に乗じて
光明の広海に浮かびぬれば、
至徳の風静かに、
衆禍の波転ず」
(教行信証)
聖人の顕示された大悲の願船(阿弥陀仏の本願)に、
今、乗せていただき、「ああ、なんと素晴らしいことなのか」
と生命の歓喜を獲得する。
これが「なぜ生きる」の答えであり、唯一絶対、
万人共通の人生の目的なのです。
この目的を知って初めて、
「生きる」という手段に意味が生じますから、
映画の中で蓮如上人は
「肝心の、生きる目的を知らなければ、生きる意味がなくなる」
と仰っているのです。
●願うべき未来は「浄土往生」
はかない人生の実相が身にしみて知らされた人は何を感ずるか。
蓮如上人は『御文章』に、こう仰せです。
「それ、秋も去り春も去りて、年月を送ること昨日も過ぎ今日も過ぐ。
いつの間にかは年老の積るらんとも、覚えず知らざりき。
然るに、其の中には、然りとも或いは、
花鳥・風月の遊びにも交わりつらん、
また歓楽・苦痛の悲喜にも遇いはんべりつらんなれども、
今にそれとも思い出すこととては一もなし。
ただ徒に明し、徒に暮らして、
老の白髪となり果てぬる身の有様こそ悲しけれ。
されども、今日までは無常の烈しき風にも誘われずして、
我が身ありがおの体をつらつら案ずるに、
ただ夢の如し。
今に於いては、生死出離の一道ならでは、願うべき方とては、
一もなく、また二もなし」
(御文章4帖目4通)
目指すは「生死出離の一道」のほかにありません。
死ぬことを「旅立つ」「他界する」とよくいわれます。
今生の旅を終え、後生(来世)へ旅立つことです。
仏教では、私たちの肉体はこの世限りだが、
三世を貫いて流れている不滅の生命があると説かれています。
「三世」とは過去世、現在世、未来世のこと。
過去世は親、現在世は私、未来世は子供という三世代の意味ではなく、
私たち一人一人の生命が三世を貫いているのです。
日頃は、“来世などあるものか”と言っている人も、
いよいよ死が近づくと、とても無になってしまうとは思えず、
死後の世界を否定できないのは、
深い人間性からくるものです。
来世を認めぬはずの共産思想家の周恩来が臨終、
肉体の苦痛にあえいでいると、
盟友の毛沢東が見舞って励ました。
周は、“今は苦しいが、もうすぐマルクスに会える”
と言ったといいます。
自らの信条に従えば、出ようのない言葉ですが、
死の巌頭に立ち、後生を予感して、
こう言わずにおれなかったのでしょう。
私たちが人間に生まれてきた目的は、
この世だけでなく、三世にわたって変わらぬ多生の目的なのです。
「噫(ああ)、弘誓の強縁は多少にも値(もうあ)いがたく、
真実の浄信は億劫にも獲がたし」
(教行信証)
(ああ・・・何たる不思議か、親鸞は今、
多生億劫の永い間、求め続けてきた
歓喜の生命を得ることができた。これは
全く弥陀の強いお力によってであった)
かつて体験したことのない驚きと歓喜を、
「噫」と感嘆されています。
「弘誓の強縁」とは、“すべての人を絶対の幸福に救う”
熱烈な弥陀のお力をいいます。
弥陀の救いは、この世、一生だけの問題ではなかった、
過去無量劫、果てしなく生死生死を繰り返し、
未来永遠に流れていく不滅の生命の根本解決であったと知らされるから、
「多生にも値(もうあ)いがたし」「億劫にも獲がたし」と言われているのです。
これは決して夢物語ではない。
弥陀の強縁によって、誰もがその身に救われるのだと、
聖人ご自身が大悲の願船に乗じられて仰ったお言葉を、
最後にもう一度、お聞きしましょう。
「大悲の願船に乗じて、光明の広海に浮かびぬれば、
至徳の風静に、衆禍に波転ず。
即ち無明の闇を破し、速やかに無量光明土に到りて、
大般涅槃を証し、普賢の徳に遵うなり。知るべし」
(教行信証行巻)
大悲の願船に乗せていただいたら、
つらく苦しい人生が、千波万波きらめく光明の広海に浮かぶ人生に、
ガラリと転じ変わった。
一念で無明の闇(死んだらどうなるかハッキリしない、後生暗い心)
が照破され、後生明るい心になって、
一息切れると同時に、無限に明るい極楽浄土に往生し、
弥陀同体の仏になるのだ、と仰っています。
この世で絶対の幸福に救われた人だけが、
本当の「大往生」ができるのです。
その身に早くなるよう、
真剣に阿弥陀仏の本願を聞かせていただきましょう。
それが親鸞聖人の深いご恩に報いる真の報恩講となるのです。
そうだ、お盆には仏教を聞こう。 [なぜ生きる]
そうだ、
お盆には
仏教を聞こう
“お盆”は仏教なの?
日本の夏といえば「お盆」。
古来、この季節には先祖の霊が帰ってくるといわれます。
お盆とは仏典の『仏説盂蘭盆教』から転じた言葉です。
各地に残っている迎え火や送り火、
墓参りや盆踊りなど種々の風習も、
仏教から出たものと考えられており、
日本人の仏教観にも大きく影響しています。
お盆とはどんなことか、
私たちはどう過ごせばいいのでしょうか。
親鸞聖人にお聞きしましょう。
・・・・・・・・・・・
ある人からこんな話を聞きました。
毎年、お盆の前には父に連れられて、
先祖代々の墓に家紋入りの灯篭を立てに行きました。
「お父さん、何でこれ立てるの?」
「わが家の墓はここだぞ、という目印だ。
死んだじいさんや、ばあさんの霊が迷わんようにな」
「ふーん」
そんなもんかと思って聞いていました。
お盆の間、灯篭は明々とともり、
終われば、また片付けに行ったものです。
お盆の前には迎え火をたき、
最終夜は盆踊りや送り火をする。
地方によってスタイルや呼び名は違いますが、
こんなやり取りが、日本の夏の風物詩となっているようです。
それらの慣習の根底には、先祖や死者の霊が、
お盆の期間中は帰ってくる、という考えがあります。
そして“これが仏教”と多くの人は思っています。
ところが、お釈迦さまや親鸞聖人、蓮如上人の教えを聞かせていただくと、
こうした風習と仏教の教えとは、
相いれない部分があると分かってきます。
事実、前記のような慣習は、
浄土真宗には本来ありません。
なぜなら、平生、弥陀に救われている人は、
死ねば必ず浄土へ生まれて大活動するから、
「我が歳きわまりて、安養浄土に還帰す」
(親鸞、死ねば弥陀の浄土に還る)
と聖人も御臨末に仰って、
墓の下には戻ってこないのだ、と教えられています。
また、弥陀に救われていなければ、
善因善果、悪因悪果、自因自果の因果の道理によって、
まいた因に応じた結果を、後生、
永く受けなければなりません。
ですから親鸞聖人や蓮如上人は、
死者の霊が墓に帰ってきたり、
また出かけて行ったりできるものでは絶対ないと、
これらの俗信を打ち破っていられるのです。
●無常を念ずる勝縁に
ならば墓参りは一切不必要で、無意味なのかといえば、
心構えさえ正しければ故人をしのび、
自身の無常を念じる得難いご縁となりますから、
弥陀の救いに値う勝縁となりましょう。
この「無常を念ずる」とは、どんなことでしょうか。
「無常」とは「常が無い」と書き、
絶えず変化することをいいます。
私や私を取り巻く一切は、
一時として常住しないものばかりです。
五月に話題になった「金環日食」は
数百年に一度、見られるか否かの天体イベントでしたが、
太陽をはじめ宇宙が刻々と変動している証でしょう。
外界のみならず、私の肉体も心も、同様に無常ですが、
とりわけ生きている私の最大の変化は「死」ですから、
無常の「死」の意味で使われるのです。
●切々たる無常観
「死」を、自己の確実な未来とみていく無常観は、
仏法の原点です。
室町時代に活躍された蓮如上人は、
有名な『白骨の御文章』に、
人の世の無常を切々と訴えられました。
「それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、
凡そはかなきものは、この世の始中終、幻の如くなる一期なり」
(浮草のような人間の一生をよくよく眺めてみると、
人生とは何と儚く、幻のようなものか)
人の一生を、まず「浮生(浮いた草)」と仰っています。
根っこのない浮き草が
風に流され漂っているようなものということです。
この世のどんな成功者も、
財や物に恵まれている人も、
人生の本質は皆浮生だと教えられます。
「火宅無常の世界は、万のこと皆もって
空言・たわごと・真実あることなし」
有名な『歎異抄』の親鸞聖人の仰せです。
「火宅」とは火のついた家。
隣から出た猛火が、まさに自宅のひさしに燃え移った時、
のんびり晩酌しながらテレビを見ていられるでしょうか。
人生が火宅のような不安に覆われているのは、
一切が無常だからです。
健康、金や財産、地位や名誉、家族や恋人など、
私たちが日々求めている全ては、
今日あって明日なき幸せ。
太陽や月が刻々と動いているように、
絶えず変転しています。
手に入れた瞬間から、滅びに向かっていくものばかりですから、
「万のこと皆もって空言・たわごと・真実あること無し」とも
「浮生」ともいわれるのです。
今なお、毎年多くの交通事故死があります。
京都で無免許運転の少年が居眠りして
通学中の子供の列を襲い、
格安高速バスの運転手が早朝、
居眠り運転で壁に突っ込む。
多くの命が犠牲となりました。
思わぬ自然災害も起きています。
5月、茨城で突然竜巻が発生し、
自宅にいた中学生が亡くなりました。
コンクリートの基礎ごと巻き上げられた家が、
逆さまに地面にたたきつけられたといいます。
自宅にいてさえも、突発的に命を落とす。
まさに「朝に紅顔、夕に白骨」で、
この世のどこに、100パーセント安全な場所がありましょうか。
●後生の一大事
心にかけよ
誰もが逃れがたい無常を教えられた『白骨の章』の最後を、
蓮如上人はこう締めくくられています。
「誰の人も、はやく後生の一大事を心にかけて、
阿弥陀仏を深くたのみまいらせて、念仏申すべきものなり」
(死は万人に訪れる。だから、何人<なんびと>も早く、
後生の一大事を心にかけて阿弥陀仏の救いを頂きなさい)
仏法を求める目的は、実にこの「後生の一大事」の解決にあり、
それは万人共通の問題なのだよと示されています。
では、「心にかけよ」と言われる
「後生の一大事」とはどんなことなのでしょうか。
人生を飛行機の旅に例えるならば、
誕生した時が離陸の時。
二十歳の人は20年前に、六十歳なら60年前に飛び立ったということです。
ひとたび飛び立った飛行機は一刻も止まらず、
猛スピードで飛び続けねばなりません。
では、人生という飛行機はどこへ向かって飛んでいるのでしょう。
「世の中の 娘が嫁と 花咲いて
嬶としぼんで 婆と散りゆく」
禅僧・一休は女性の一生をこう詠んだ。
若くて楽しい娘時代。
箸が転んでもおかしい年頃ですから、
女偏に良いと書きます。
やがて見初められて花開く結婚、
家に入って嫁となります。
子を産み、どっしりたくましくなれば、
鼻高々と嬶です。
婆さんを待たずに病死や事故死する人もありますが、
幸せに生き延びても、必ず死を迎えることは変わりません。
男も呼び方が違うだけで、誰もが同じ道をたどります。
生きるとは、死に向かっていくということにほかならず、
飛行機なら必ず降りねばならぬ、ということなのです。
ところが、そんな飛行機に乗っている私たちは、
「いずれ降りねばならないことは、分かっているけど・・・」
と言いながら、どこに向かい、どこに降りるのかハッキリせぬまま、
人生のフライトを続けています。
「差し当たり今は公私ともに順調。
そこそこ快適だし、このまま飛んでいけばいいんじゃないの?」
ところが、そんな快適な旅の最中に、
こんなアナウンスが流れたらどうでしょう。
「皆様、当機は現在、上空1万メートルを航行中です。
しかし、目的地は分からず、着陸地も見当たりません。
燃料はあと5時間でございます。
それまでの間、皆様、映画やお食事、ゲームやショッピングなど
快適な空の旅を、ゆっくりお楽しみください・・・」
こんなナンセンスな飛行機に、誰が乗り込むでしょう。
しかし、どこに向かって生きるか分からない人生は、
こんな不条理な飛行機の旅と、どこが違うでしょうか。
この「どこに向かって生きるか分からぬ不安」を
後生の一大事といいます。
「死期はついでを待たず。
死は前よりしも来らず、かねて後ろに迫れり。
人皆死あることを知りて、待つこと、
しかも急ならざるに、覚えずして来る」
(徒然草)
(死の時期は順番を待たない。
死は前からだけ来るのではない。
いつの間にか背後に迫っているものだ。
人は皆、自分もいずれ死ぬと知りながら、
そうとは思わぬうちに、突然死んでいかねばならないのである)
兼好法師が言うように、死は前後だけでなく、
上からも下からも、いつどこから襲ってくるか分かりません。
「あと○日」と余命宣告を受けた人だけが死んでいくのではありません。
生に酔いしれている私たちが、思っていないとき、
突然ドカドカと土足で座敷に上がり込んでくるのが死というものなのです。
●釈迦の結論は?
降りる場所のない飛行機のような不安を抱えた私たちが、
真に救われる道を、お釈迦さまはどう教えられているのでしょう。
それが仏教の結論である
「一向専念 無量寿仏」
の教えです。
「無量寿仏」とは、大宇宙の諸仏方に
本師本仏と仰がれている阿弥陀仏のこと。
その阿弥陀仏は、
「全ての人を、いつ死んでも
往生一定(必ず浄土往生できる身)に救う」
と誓われています。
この弥陀の本願(お約束)によらねば、
我らの後生の一大事助かる道は二つも三つもないのだ。
だから弥陀一仏を信じよ、とお釈迦さまは勧められているのです。
「阿弥陀如来を一筋にたのみたてまつらずば、
末代不善の凡夫、極楽に往生する道、
二つも三つもあるべからざるものなり」
(御文章二帖)
「心を一にして、阿弥陀仏を深くたのみまいらせて、
更に余の方へ心をふらず、一心一向に、
『仏助けたまえ』と申さん衆生をば、
たとい罪業は深重なりとも、
必ず弥陀如来は救いましますべし」
(御文章五帖)
阿弥陀仏をたのめば、どんな罪悪深重の者でも
必ず浄土往生できるのです。
そこで、肝心の「阿弥陀仏をたのむ」とは、
どんなことなのでしょう。
「たのむ」は今日「お願いする」の意味で使われますが、
「御文章」の「たのむ」は、
そんな祈願請求の意味ではありません。
「憑む」と書いて「あてにする」「たよりにする」「うちまかせる」
という意味なのです。
「私の後生の一大事、助けてくだされる方は、
大宇宙でただお一人、阿弥陀仏だけであった」
と自力のはからいを全て捨てて、
弥陀にまかせ切ったことを、「阿弥陀仏をたのむ」といわれているのです。
「ただ一念に弥陀をたのむ衆生は、
皆ことごとく報土に往生すべきこと、
ゆめゆめ疑う心あるべからざるものなり」
(御文章五帖)
朝から晩まで、はからい満足のために欲に追い回されて、
静かに自己の脚下を見る時がない。
忙しくなればなるほど、人生を振り返る間が必要です。
一年に一度、静かにお盆の墓前にぬかずくことは、
人生を見つめる得難い機会になることは間違いありません。
「オレも、必ず死なねばならぬのか」
と、生死の一大事に触れて、厳粛な思いがするでしょう。
酔生夢死で終わってはならぬ。
必ずこの法を聞き抜くぞ、と、
聞法の勝縁とするならば、有意義なお盆となるでしょう。