SSブログ
なぜ生きる ブログトップ
前の10件 | -

なぜ死んではいけないの? [なぜ生きる]

動画を観られるとよく分かると思います。

(真実の仏法を説いてくださっています)

 また、真実の仏法は慈悲でいっぱいなので癒されますし、

 生活の指針にもなるので役立ちます。

 そういう意味でも見られるといいですよ。


 【なぜ自殺してはいけないのか】.世の中によくある3つの答えと仏教の答え


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



日本の自殺者は毎年三万人前後います。
毎日、九十人もの人が、
自らの命を絶っていることになります。
「こんなに苦しいのなら、死んだ方がましだ」と
考えている自殺予備軍は、その何倍いるか分かりません。
「死なないで。頑張って生きよう」と言われます。
では、何故死んではならないのでしょう。
生きて、本当に幸せになれるのでしょうか。
親鸞聖人にお聞きしましょう。


●私の命が尊いと思えない
        なぜ、命は大切なの?

命は大切だ。命を大切に。
そんなこと何千回何万回言われるより
「あなたが大切だ」
誰かがそう言ってくれたら
それだけで生きていける。

          (公共広告機構のCM)

テレビで流れるこの言葉にドキッとした人も
多いのではないでしょうか。

「かけがえのない命を粗末にしてはいけない」
とよく言われます。
しかし、心から、「私の命は大切だ」
と実感している人は、
一体どれだけいるのでしょうか。


『朝日新聞』に、こんな投書が寄せられました。

着たくもない窮屈な制服着せられて、
受けたくもないつまらない授業を受けさせられて、
やりたくもない部活をやらされて、
家に帰っても宿題とか家事とかいっぱいあって、
だーれも生きた心地なんてしていないのに、
『命の大切さ』なんて口先だけで教えられたって
実感なんて持てない

              (高校生17歳 千葉県)

自殺や人命軽視の事件が起きるたび、
「命の尊さを伝えなければ」と繰り返されています。
ところが「命を大事にしよう」「自殺してはダメ」
と生徒に広言していた校長先生や、
大衆に訴えていた著名人までもが、
自身が耐えがたい困難に直面した時、死を選ぶ。

「あれは建前だったの?」
と子供でも思ってしまいます。


夫を自殺で亡くしたある女性は、
「夫は私に、『自殺は絶対にいけないことだ』
と言っていた人だったから、
絶対に立ち直ってくれると思っていました。」
と書いています。

他人の自殺を止めている人も、
「だから命は大切だ」という明確な解答を
持ち合わせてはいないようです。

自殺する人を止める人も、
命の重さが分からない。

地球より重い私の命だと納得できれば、
自ら捨てようとはしないはずです。


一億円の宝くじの当選券を大事にするのは、
一生働いても得られない価値があると思うからでしょう。
ハズレくじなら、ゴミ箱へ直行、
割れたコップや修理の利かないパソコンなどと同様に、
価値のないものは捨てられます。

自分の命が地球よりも重いと知れば、
「ハズレくじ」を捨てるようにビルから身を投げたり、
「一人じゃ寂しいから」と他人を誘ってまで自殺することも、
できるはずがありません。



なぜ命は尊いのか。
死を急ぐ人たちが最も知りたいのは、
尊厳なる生命の理由でしょう


●生まれてよかった、という喜びはどこに?

自分の命が大事だと思えないのは、
「生きてきてよかった」
という喜びがないからではないでしょうか。


親鸞聖人は、人生を海に例えて、
「難度海」とか、「苦海」と言われています。
苦しみの悩みが絶えない、渡り難い海だということです。
生きることは、確かにつらい。
私たちは生まれた時、人生の荒波に投げ込まれ、
その瞬間から絶えず泳ぐことを強いられます。


学生時代は必死に勉強、社会に出れば、死ぬ気で働く。
学歴競争、出世競争は激しく、出世どころか、
リストラの嵐で職場に生き残ることさえ難しい。
子どもの数が減って進学しやすくなったはずなのに、
大学入試までの教育費は増えているという。
晩婚化、少子化が進んだのは、
結婚、子育ての厳しい現実と
無縁ではないでしょう。
また、家庭や職場でのいざこざ、
成績不振、思わぬ病気や事故、
愛する人との突然の別離、金銭トラブルなど、
一つの苦しみを乗り越えても、
すぐに別の苦しみがやってくる。

時には、同時に幾つもの大波が襲ってきて、
「ああ、もう嫌だ」と投げ出したくなる。
「こんな人生なら、いっそ死んだほうが」
と一度も考えたことのない人はいるのでしょうか。

今、地獄のようなつらさを味わっている人にとって、
「死ぬな」「頑張って生きよ」の連呼は、
「もっと苦しめ」というのろいの言葉としか
聞こえないのではないでしょうか。


●教えて、生きる理由を
      ネット自殺者の叫び

平成十年十月、集団ネット自殺で女性の友人を亡くした
フリーライターの渋井哲也さんは、事前に自殺の計画を
打ち明けられながら、止めることができなかった。
と告白しています。
            (NHK教育テレビ『ネット自殺を追う』より)

彼が自殺を思いとどまらせようとした時、
その女性は、
「楽しいことがないのに、
どうして生きる理由があるの?」
と問います。
その疑問に満足の行く答えを返せなかったことを、
彼は悔やみました。


別の女性は、
「なぜ死にたいのか」
という質問に、
「なぜ死にたいか、ではなく、
なぜ生きなければならないのか、という気持ち」

と答えています。

苦しみに耐えて、なぜ生きねばならないか。
皆、その答えを切望しているのです。

どう自殺を止めるのか、
景気の回復、うつ病の早期発見・治療、
相談機関の増設などの手段は論じられていますが、
「なぜ死んではならないのか」という根本の確認は、
少しもなされていないようです。

肝心の「苦しくても生きねばならない理由」が抜け落ちた
議論が続くだけでは、
適切な防止策も立てようがないでしょう。


「もしあの時、死んでいたら、
この幸せにはなれなかった」
という身になってこそ、
「死ななくてよかった」と
心から喜べるのではないでしょうか。
「人生には、素晴らしい目的がある。
どんなに苦しくても生き抜かなければ」
と、人生の目的が鮮明になってこそ、
生命の尊厳が知らされるのです。
あらゆる困難を乗り越えて、
「よし、生きよう」
という心の力がわいてくるのです。





6_bannen_shonin
(親鸞聖人)


●人生の目的
     親鸞聖人の宣言

たとえ、汗と涙で築いた全財産を失い、
最愛の人と別れ、重い病に倒れても、
`人間に生まれてよかった。
この身になるための人生だった。’
と知らされる生命の歓喜はあるのでしょうか。
生きる目的は何か。
親鸞聖人の解答は、
揺るがぬ確信と勇気に満ちています。


「難思の弘誓は難度海を度する大船、
無碍の光明は無明の闇を破する慧日なり」

           (教行信証)

阿弥陀仏の誓願(難思の弘誓)は、
私たちの苦悩の根源である無明の闇を破り、
苦しみの波の絶えない人生の海を、
明るく楽しくわたす大船である。
この船に乗ることこそが人生の目的だ。”


「苦海をわたす大船に乗ること」とは、
「苦悩の根源を破られ、`よくぞ人間に生まれたものぞ'
と生命の大歓喜を得ること」です。

これこそ、親鸞聖人九十年のご生涯を貫くメッセージであり、
今日、聖人が世界の光と讃仰(さんごう)される理由なのです。

●生命の大歓喜
      人身受け難し、今已受く

「人間に生まれたのは、これ一つのためだった」と
人生の目的を果たさせていただいた時こそ、
「死んだほうがましだ、と何度思ったことか。
でも生きてきてよかった」
という心からの喜び、満足が起きるのです。


二千六百年前、仏教を説かれたお釈迦さまは、
人身受け難し、今已受く。
仏法聞き難し、今已聞く

`生まれ難い人間に生まれてよかった。
聞き難い仏法を聞けてよかった
'
とおっしゃっています。

仏法を聞き求め、
人生の目的を達成させていただいた時にこそ、
生命の大歓喜がわき上がるのだと
教えられているのです。

親鸞聖人は、その感動を次のように叫び上げられています。


20130303053853
(親鸞聖人)


「噫、弘誓の強縁は多生にも値(もうあ)いがたく、
真実の浄心は億劫にも獲がたし。
遇行信(たまたまぎょうしん)を獲ば、
遠く宿縁を慶べ。
もしまたこのたび疑網(ぎもう)に覆蔽(ふくへい)せられなば
更(かえ)りてまた昿劫(こうごう)を逕歴(きょうりゃく)せん。
誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法、
聞思して遅慮することなかれ。」

                 (教行信証)

ああ・・・何という不思議、
親鸞は今、多生億劫の永い間、
求め続けてきた歓喜の生命を
得ることができた。
これは全く、阿弥陀仏の強いお力によってであった。
深く感謝せずにはおれない。
もし今生も、無明の闇の晴れぬままで
終わっていたら、
未来永遠、浮かぶことはなかったであろう。
何とか早くこの真実、みんなに伝えたい。
知らせねばならぬ。
こんな広大無辺な世界のあることを。


「ああ!」というのは、
かつて体験したことのない驚きと喜びの、
言葉にならぬ感嘆です。
「弘誓の強縁」とは、
何としても苦しみの根元を断ち切り、
人生の目的を果たさせたい。
という阿弥陀仏の誓願をいい、
その誓いどおりに、
苦しみの根元が断ち切られて、
人生の目的成就した歓喜の生命を、
「真実の浄心」と言われています。
それはもう、
百年や二百年で求められる
ちっぽけな幸せではなかった、
と知らされる
から、
「多生にもあえないことにあえた、
億劫にも獲がたいことをえた」
と言われているのです。

一生や二生どころではない、
限りない生死を繰り返し、
億劫という果てしのない遠い過去から、
求め続けてきたものが今、獲られた。

「ああ!」と驚嘆されたのも当然でしょう。
そして、しみじみ、どんな遠い過去からの阿弥陀仏の
ご配慮があったのやらと、
「遇(たまたま)行信を獲ば遠く宿縁を慶べ」
と感泣せずにはおれなかったのです。

「もしまたこのたび疑網(ぎもう)に
覆蔽(ふくへい)せられなば
更(かえ)りてまたこう劫を
きょう歴(きょうりゃく)せん」
「疑網」とは、苦悩の根元である無明の闇のことです。
“もしまた、無明の闇に晴れぬまま人生を終わっていたら、
未来永劫、苦しみ続けていたに違いない。
危ないところであったなぁ”

とおっしゃっています。

この世だけでない。
遠い過去から未来永遠にわたって、
私たちを苦しめる元凶が、無明の闇。
その無明の闇を破っていただければ、
人生の醍醐味を心行くまで味わうことができるのだから、
絶対に自殺してはいけない。
この目的を果たすまで、生き抜きなさいよ

と言われているのです。

「誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法、
聞思して遅慮することなかれ」
“まことだった。皆さん、聞いてもらいたい、
この親鸞が生き証人です。
早く、弥陀の誓願まことを知ってもらいたい。”

阿弥陀仏のお力によって、人生の目的を果たさせていただいた、
美しい感激に満ちた表明です。




●生きるって、なんと素晴らしいのか!

「人生には意味があるのか」
「苦しくとも生きる価値があるのか」
大人も子どもも、生きる喜びを感じられず、
現代は混迷の度を深めています。

そんな中、`何と生きることは素晴らしいことなのか・・・。'
八百年の時を超え、親鸞聖人の御声が聞こえてきます。

こんな生命の尊厳さを知れば、
なぜ自殺してはならないのか、
なぜ人命は地球よりも重いのか、
人間存在の真の意義が理解でき、
感謝と懺悔に生かされた、
明るくたくましい人生が開かれるのです。


なぜ、生きることは苦しいのでしょう [なぜ生きる]

(真実の仏教を説かれている先生ご執筆の『とどろき』より載せています)


IMG_20221030_0001.jpg-5.jpg

 

なぜ、生きることは苦しいのでしょう

 

親鸞聖人は、苦しみの絶えない私たちの人生を、

荒波の絶えない海に例えられ、「難度の海」(教行信証)と

仰っています。

難度とは、苦しみのことです。

なぜ、人生は「難度海」になるのか。

それは、「煩悩具足の凡夫が、火宅無常の世界に

生きているからだよ」と、聖人はいわれています。

 

煩悩具足の凡夫・火宅無常の世界は、

万(よろず)のこと皆もって空事・たわごと・真実(まこと)

あること無し」     (歎異抄)

 

「煩悩」とは、欲や怒り、妬み・そねみなど私たちを

煩わせ苦しめるもの。

一人一人に108あるといわれます。

「煩悩具足の凡夫」とは、そうした煩悩でできた私たち

人間のことです。

 

そんな私たちが住む世界を、「火宅無常の世界」と

教えられます。

「火宅」とは、火のついた家のこと。

もし、住んでいる家のひさしに火がついたとしたら、

どんな気持ちでしょうか。

テレビを見てのんびりしたり、おいしい食事を楽しんだり

しているわけにはいきません。

ボヤボヤしていたら、死んでしまう。

そんな不安なところが、私たちの住む世界と

教えられているのです。

なぜ不安なのかといえば、「無常」の世の中だからです。

あらゆるものに常がなく、続かない。

苦労して築き上げた家や財産、地位、名誉も、

早い遅いはあれ、いつか必ず私から離れていく時がくるのです。

 

財産も 名誉も一時の 稲光

あとに残るは ユメのタメ息

 

例えば、サラリーマンの人生を見てみましょう。

どれほどバリバリ仕事をこなし、飛ぶ鳥を落とす勢いの人も、

しばらくの間のこと。

たとえ大過なく過ごしても、やがて「定年」を迎えます。

 

●「定年」は「生前葬」!?

 

定年を迎えたサラリーマンの悲哀を描いた映画『終わった人』

(主演・館ひろし)が今年6月に公開され、

話題を呼びました。

(2018年12月の『とどろき』から載せています)

原作となった内舘牧子さんの同名小説は、

衝撃的な書き出しで始まります。

「定年って生前葬だな」

そして、こう続きます。

「俺は専務取締役室で、机の置き時計を見ながらそう思った。

あと20分で終業のチャイムが鳴る。

それと同時に、俺の40年にわたるサラリーマン生活が

終わる。63歳、定年だ。

明日からどうするのだろう。

何をして1日をつぶす、いや、過ごすのだろう」

会社生活で手に入れてきたものから切り離され、

言いようのない不安に直面する「定年」。

定年は「生前葬」という主人公の独白に、

共感を覚える人も少なくないのではないでしょうか。

IMG_20221030_0003.jpg-5.jpg

 

●命の切り売り

 

この秋、首都圏の劇場では、往年の名作『セールスマンの死』

が上演されています。

米国の劇作家、アーサー・ミラーの代表作で、

1949年にニューヨークで初演され、

ピュリッツァー賞を受賞。日本でも人気作となりました。

セールスマンの主人公、ウイリー・ローマンは、

住宅ローンの返済や、日用品の修理や買い直しで

生活は手一杯。

寄る年波には勝てず、業績が落ちるにつれて給料も下がり、

ある時、妻にこんなことを漏らします。

考えてみるとだね、一生働きつづけて

この家の支払いをすませ、やっと自分のものになると、

誰も住む者はいないんだな

ボロボロになるまで働いて、ウイリーは苦難の生涯を閉じます。

私たちも多くの場合、30年、40年の住宅ローンを組んで、

その返済のためにあくせくと働いています。

人によって、仕事で売るものは異なりますが、

共通するのは、「命」を売っているということでしょう。

今の日本人なら、生まれた時に80年の命を受け取り、

その後、この命を切り売りして、欲しいものを手に入れている

ということになります。

ウイリーの嘆きは、大方のサラリーマンの嘆きともいえましょう。

 

●「えっ、

   あと10年の人生?」

 

昨年刊行された『定年後ーー50歳からの生き方、終わり方』

(楠木新・著)という本には、次のようなエピソードが

紹介されています。

 

定年に近い5人の社員が居酒屋で話し合った。

60歳で定年退職するか、継続雇用を選ぶか。

それぞれの生活を思い描いて会話は盛り上がっていたが、

やがて、妻の希望から60歳以降も働くというAさんがこう言った。

「自分の親は60代後半で亡くなった。

それを考えると残りはあと10年だ」

その瞬間、皆が静まり返った。

それぞれの頭に浮かんだのは「えっ、あと10年?

残りの人生はそんなに短いのか」という共通した思いだった。

「妻が許さないから」「健康にいいから」といった理由で

とりあえず会社に残る選択が、残りの人生の短さに

見合ったものではないことを各自が感じ取ったのである。

定年退職にせよ、継続雇用にせよ、人生のたそがれどき、

悲哀に沈む道に至ることをどうにも否定できません。

災害や事故を逃れ、無事に定年を迎え花束で送られても、

しばらくすれば、全てのものから切り離される「終末」を

迎えます。

1年を振り返ると、「まさか、あの人が」というような有名人が

雨だれのように亡くなっています。

女優の樹木希林さん、漫画『ちびまる子ちゃん』の

作者・さくらももこさん、歌手の西条秀樹さん、

大横綱の輪島大士さんーー。

(2018年12月のとどろきです)

 

蓮如上人は、こうした私たちの人生を

次のように述懐されています。

 

それおもんみれば、人間はただ電光・朝露の夢・

幻の間の楽(たのしみ)ぞかし。

たといまた栄華・栄耀に耽りて思うさまの事なりというとも、

それはただ五十年乃至百年のうちの事なり。

もし只今も無常の風きたりて誘いなば、

いかなる病苦にあいてか空しくなりなんや

 

誰もが「素晴らしき人生」を願いますが、

現実には、苦難や災難、病気の難が次々を訪れます。

この様々な「難」を逃れるために、悪戦苦闘する人生。

たとえ、これらの難をうまく乗り越えられたとしても、

どうしても逃れられないのは死ぬことです。

私たち人間の死亡率は100パーセントという事実です。

 

●苦しみから「無碍の一道」へ

 

果たして、私たち煩悩具足の凡夫がこのような無常の世界で、

幸せになれることはあるのでしょうか?

一生涯、困難や災難にも遭わず、

病にならないことはありえません。

しかしもし、本当の幸せがあるとすれば、

それは、どんな幸福でしょうか。

いかなる災難や病気に遭ったとしても崩れることのない

幸せでなければならないでしょう。

それこそ、絶対の幸福といえるものです。

その「絶対の幸福」という世界があるぞ、

生きている時にその身になることができるのだよ、

と生涯、伝えていかれた方が親鸞聖人なのです。

親鸞聖人は、その「絶対の幸福」を

次のお言葉で教えられています。

 

念仏者は無碍の一道なり

 

無碍の「碍」とは、さわりのことです。

無碍の一道とは、どんな苦難・困難・災難も

さわりとならない世界のことです。

中でも、最大のさわりは、人生の終末に迎える「死」です。

真の幸せを知らなければ、死を迎えて人は何を思うでしょう。

「もっと金を儲けておけばよかった」

「もっと出世を」

「もっと家を大きくしておけば」

という人もあるでしょうか。ばかだった、

ばかだった、求めるものが間違っていた。

なぜ死に臨んでも、崩れないものを求めていなかったのか

と後悔することでしょう。

親鸞聖人は、たとえ死が来ても微動だにもしない「絶対の幸福」

の世界を「無碍の一道」と教えられているのです。

このお言葉は、唯円という親鸞聖人のお弟子が書き残した

『歎異抄』という書物の中に記されています。

 

念仏者は無碍の一道なり。そのいわれ如何とならば、

信心の行者には天神地祇(てんじんちぎ)も

敬伏(きょうぶく)し、魔界外道(まかいげどう)も

障碍(しょうげ)することなし

 

弥陀に救われ念仏する者は、一切が障りにならぬ

幸福者である。なぜならば、弥陀より信心を賜った者には、

天地の神を敬って頭を下げ、悪魔や外道の輩も妨げることが

できなくなる

 

「バカな、あるはずないよ」

と一笑に付する人もあるかもしれません。

しかし、

「えー、そんな世界が本当にあるの?

あるなら知りたい」

と思われる幸せな方も少なくないでしょう。

では、「無碍の一道」とはどんな世界なのか、

どうしたら無碍の一道に雄飛することができるのでしょうか。

これについては、次回更新時に載せたいと思います。

nice!(26) 
共通テーマ:資格・学び

お釈迦さまが説かれた「絶対の幸福」 [なぜ生きる]

(真実の仏教を説かれている先生ご執筆の『とどろき』より載せています)

IMG_20221022_0001.jpg-5.jpg


●12月8日は、

  お釈迦さまが「仏」になられた日

 

12月8日は、釈迦成道(仏のさとりを開かれた)の日として

知られています。

今から2600年前、インドでお釈迦さまが、

35歳の12月8日に仏のさとりを開かれてから、

80歳でお亡くなりになるまでの45年間、

私たちに教えてくだされたのは、

「どんな人も本当の幸福になる道」でした。

仏教を聞けば、あなたも心に最高の宝を獲て、

世界で最も幸せな「心の長者」になれるのだよ、

とお釈迦さまは、教導されているのです。

今日でも「長者番付」などと使われるように、

お金や物に恵まれた人を「長者」といいますが、

「そんな長者に3とおりある」

とお釈迦さまは教えられています。

1つには「家の長者」、2つに「身の長者」、

3つめは「心の長者」といいます。

それぞれどのようなことなのでしょうか。

 

①家の長者

   財やお金に恵まれた人

 

家の長者とは、家や財産、お金や物に恵まれ、

豊かな暮らしをしている、いわゆる、

私たちが「長者」と聞いて思い浮かべる人のことです。

戦後の焼け野原から今の日本を築くため、

私たちの先輩たちは、大変な苦労をしてきました。

かつて子供の憧れは、「巨人・大鵬・卵焼き」の3つでした。

野球は「巨人」、力士なら「大鵬」、そして、最後は

「卵焼き」。

今や豊富に売られる「卵」は、どこのスーパーでも

1パック200円ほど。しかし当時は高価で、

なかなか子供の口には入らなかったのです。

1950年代、「三種の神器」といわれた白黒テレビ、洗濯機、

冷蔵庫。

それが60年代には、カラーテレビ、クーラー、自動車が

「三種の神器」となった。

豊かになると、持てる物も変わってきます。

今日では、子供から大人までほとんどの人が

スマホを持ち、テレビは大きく薄型、高画質。

洗濯機はボタン一つで乾燥まで。

車は一人1台という家庭もあり、私たち日本人は、

世界でも有数の「家の長者」といえましょう。

懸命に働いて、こんな便利で恵まれた社会を作り上げてくれた

先人たちに、心から感謝せずにおれませんね。

IMG_20221022_0002.jpg-5.jpg

 

「はたらく」とは「傍(はた・周囲の人々)を楽にする」

ことだから、本来「人の幸せのために努力する」こと。

そんな、「自利利他(自分以外の人を幸せにするままが、

自分が恵まれること)」に生きる人こそ、

「家の長者」となれるのでしょう。

 

②身の長者

  健康で元気な人

 

どんな病気であっても、その苦しみは

「甲乙つけ難い」から、「病」は、病だれに「丙」と

書くともいわれます。

健康は、失った時、そのありがたさがしみじみと知らされるもの。

お釈迦さまは、2番目に「身の長者」を挙げて、

健康という宝に恵まれた人は、大変に幸せなのだよと

教えられています。

イスに座ってのデスクワークは、毎時22分、

寿命を縮めるとする研究結果が報告され、

最近は立って会議やパソコンに向かい、

仕事のあとに公園でウオーキングしたり、

ジムに通って体力作り。

コラーゲン、コンドロイチン、オルニチン、グルコサミン、

などさまざまなサプリメントを服用する人も増えています。

自分が運動し、身体によい物を食べなければ、

健康は手に入りません。

IMG_20221022_0003.jpg-5.jpg

 

いつも穏やかに、明るく過ごすことが、

体にもいい影響を及ぼすことは、

一般にもよく知られています。

仏教で説かれる「和顔愛語(わげんあいご・和やかな笑顔と、

相手を気遣う優しい言葉)」を心がける人は、

他人に幸せを振りまく人だから、

必ず幸せが巡ってくるのだよとお釈迦さまは、

教えられています。

「因果の道理(自分の行為が、自分の運命を生み出す)」

に従って生きる人こそ、「身の長者」と恵まれましょう。

 

③心の長者

  生命の歓喜を獲た人

 

最後にお釈迦さまは、「家の長者」、「身の長者」も

素晴らしいが、いちばんよいのは心に最高の宝を獲た、

「心の長者」だと教えられます。

「人間に生まれてよかった、生きてきてよかった、

この身になるための人生だったのか」

と生命の歓喜、永遠の魂の喜びを獲た人だからです。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

●「無常の世」にあって、

    「真実の幸福」を

       求められたお釈迦さま

 

世に3種の長者ありと説かれ、中でも「心の長者」を

勧められたお釈迦さまは、約2600年前、インドのカピラ城主・

浄飯王(じょうぼんのう)とマーヤー夫人の元、

4月8日に太子として誕生され、悉達多(しったるた)と

名づけられた。

幼少から文武ともに優秀で、健康にも恵まれ、

まさに「家の長者」「身の長者」の代表のような方であった。

ところが、そんな太子が成長するにつれ、

深刻な物思いにふけられるようになっていく。

 

心配した王は、何とか明るい太子にしてやりたいと、

19歳で国一番の美女といわれたヤショダラ姫と結婚させ、

さらに、春夏秋冬の季節ごとに御殿を造らせ、

500人の美女をはべらせたが、太子の暗い表情は、

一向に変わらなかった。

心配する両親にも太子は、一向にその悩みを

打ち明けようとされない。

ところがある日、意を決した太子は、夫王に手を突いて、

〝城を出て、まことの幸福を求めさせてください〟

と頼まれた。驚いた浄飯王、

「一体、何が不足でそんなことを言うのか。

おまえの望みは何でもかなえてやろう」。

それでは父上、申しましょう。私の願いは3つです

「3つの願いとは何か」

不審そうに浄飯王が聞くと、悉達多太子は、

キッパリとこう答えられた。

私の願いの1つは、いつまでも今の若さで年老いないことです。

望みの2つは、いつも達者で病気で苦しむことのないことです。

3つめの願いは、死なない身になることです

それを聞いた浄飯王は、

「そんなことになれるものか。無茶なことを言うものではない」

と、あきれ返って立ち去ったといわれます。

IMG_20221022_0004.jpg-5.jpg

 

「健康、財産、地位、名誉、妻子、才能などに恵まれていても、

やがて全てに見捨てられる時が来る、

どんな幸福も続かないではないか・・・」

この現実を深く知られた太子は、

心からの安心も満足もできなかったのでしょう。

 

「この無常の世にあって、どうしたら本当の幸福に

なることができるのか」

そんな思いを日々深めておられた太子が、

ついに夜中ひそかに城を抜け出し、

山奥深く入られたのは、29歳2月8日のことでありました。

そして私たちの想像もできない厳しい修行を、

6年間なされ、35歳の12月8日、

ついに仏覚を成就なされたのです。

以来、80歳でお亡くなりになるまでの45年間、

仏として、すべての人に、早く「心の長者」になれよ、

と勧めていかれた教えが、仏教です。

 

●お釈迦さまの説かれた

    「心の長者」とは

 

仏教書で最大のベストセラー『歎異抄』。

『歎異抄』は読めば読むほど「真実のにおいがする」

と書いた有名な歴史小説家・司馬遼太郎も、

その妙なる香りを感じ取ったのでしょう。

親鸞聖人の言葉が流れるような名文で記され、

中でも重要な第1章には、お釈迦さまの説かれた

「心の長者」とは、「摂取不捨の利益(りやく)」を獲た人だと、

示されています。

仏教で「利益(りやく)」とは、幸せのこと。

「摂取不捨」とは、ガチッと摂(おさ)め取られて、

捨てられないことですから、「心の長者」になった人は、

永遠に色あせることのない「絶対の幸福」になるのだ、

と言われているのです。

 

今年もあっという間に12月。

平成30年をはるか先に感じた方もあったでしょうが、

もう目の前です。

(2017年12月のとどろきから載せています)

ちょうどそのように私たちの人生も、

振り返ってみれば「一炊の夢」のごときはかないもの。

「夢」という字の「くさかんむり」は十を2つ書いて20代の青年期。

その下の「四」が40代で壮年期。

暮れゆく「夕」は老年期を表すそうです。

 

俳聖・松尾芭蕉は、岩手県平泉を訪ねたおり、

夏草や 兵(つわもの)どもが 夢の跡

と詠みました。

栄耀を誇った奥州藤原氏が、一たび頼朝と義経・弁慶の

争乱に巻き込まれるや、一身を懸けて駆け抜け争い、

築き上げて守らんとしたが、彼らの100年の栄華は、

たちまち滅んでしまった。

今や茫々(ぼうぼう)たる夏の野に、

芭蕉は夢の浮世を見たのでありましょう。

 

どんな栄耀栄華も、「ほんのささやかな、一瞬の幸せ」。

そんなシャボン玉のように、フワフワ浮いてパチンと消える

幸せではなく、永遠不滅の幸福をお釈迦さまは求められたのです。

 

この80~100年の肉体とは比較にならぬ永遠の生命が、

どんな財宝も及ばぬ最高の宝を獲れば、

「心の長者」と生かされ、

「ああ、私は大宇宙で最高の幸福者だ」と喜べる

「絶対の幸福」になれるのです。

 

そんな「絶対の幸福」とはどんな幸福なのか、

どうしたらなれるとお釈迦さまは教えられているのか、

次回更新時に載せたいと思います。

nice!(39) 
共通テーマ:資格・学び

すべての人の生きる意味とは!? [なぜ生きる]

(真実の仏教を説かれている先生ご執筆の『とどろき』より載せています)
『正信偈』と

   『歎異抄』に示された、

         すべての人の

             生きる意味

 

 

「『正信偈』って何?」という人も

「きみょう~むりょう~じゅにょらい~」

と聞けば、耳になじみがあるのではないでしょうか。

葬式や法事の祭に、最も読まれているためか、

『正信偈』は大変多くの人に知られています。

漢字ばかりなので「お経」だと思っている人もありますが、

『正信偈』はお経ではありません。

お経は、「仏説○○経」とあるように、

仏であるお釈迦さまの説法を書き残したもの。

『正信偈』は親鸞聖人が書かれたものですから、

お経とはいいません。とはいえ、1行7文字、

120行の『正信偈』には、仏教の全てが収まっているのです。

この『正信偈』の意味が分かれば、世界の科学者、

哲学者たちが仏教を称賛せずにはおれなかったのも

うなずけるでしょう。

 

●生きるとは信ずること

 

まず、偈とはうたのことですから、『正信偈』とは、

〝正しい信心(正信)のうた〟ということ。

親鸞聖人は「正しい信心」を、親しみやすい歌にして

教えられているのです。

 

一般に「信心」と聞くと、「私は観音様を信心しています」

というように、ほとんどの人が、仏や菩薩や神を

信ずることだと思っています。だから、

「信心なんて、自分とは関係ない」

と思っている人が少なくありません。

無宗教の自分は「信心」など無関係と思うのでしょう。

ところが「信心」とは、「心で何かを信ずる」ことですから、

神や仏でなくても、何かを信じていれば、

それはその人の信心です。

信じるとは、あて力にする、頼りにする、支えにする、

といってもいいでしょう。

IMG_20221008_0001.jpg-5.jpg

 

例えば、床屋でひげをそってもらう時、

鋭いカミソリが喉元や顎の下をなでているというのに、

すやすやと寝ている人があります。

どうしてそんなに無防備でいられるのか?

「よもや床屋さんが、カミソリで首を切るようなことはしまい」

と床屋さんを信じ切っているです。

 

毎日の食べ物の中に、毒が入っているかもしれないと

思ったら何も食べられません。

そんなことは絶対ないと、信じ切って食べています。

医者からもらった薬を躊躇なくポーンと口に放り込むのも同じで、

医者を信じているからです。

明日は、来月は、来年は、と計画を立てるのは、

自分の命がまだまだ続くと信じてのことでしょう。

どれだけニュースで天災・人災を見聞きしても、

自分がその当事者になることは想定外で、

手帳に先々のスケジュールを記しています。

 

今年、岡山県を豪雨が襲った時のこと。

浸水していく町に、独り残る父を避難させようと、

息子がやってきた。

「お父さん、早く逃げないと大変だ」

せかす息子の呼びかけに

「家電を2階に上げてからや」

と返す父。

「急がないと、死ぬよ!」

と叫ぶも、

「死にゃーせん」

と父は、電化製品を持って悠々と階段を上がっていく。

「そんなこと言ってた人が、どれだけ亡くなったか!」

息子は強引に父を連れ出し、道に出ると、

水は腰までのみ込み、足を取られぬように進むのがやっとだった。

「こんなになっていたとは・・・」

と父の表情は一変し、命からがら避難したそうです。

命の危険がすぐそこまで迫っていても、

昨日まで大丈夫だったから今日も大丈夫と、

ほとんどの人はただ盲目的に信じて生きているのです。

 

家族を信じ、お金を信じて生きている。

健康第一と思っている人は健康信心。

「科学の進歩が人類に幸福をもたらす」

と思っているのは、科学信心。

「宗教は要らない」と言っている共産主義者は、

共産思想こそが人間を幸せにすると信じている人たちです。

「私は誰も、何も信じない」

という人があれば、そんな人は床屋もスーパーも、

病院にも行けず、電車やタクシーにも乗れませんし、

何を求めて生きればよいか分からず、

人生の方角が全く立ちません。

何かを信じないと、人は生きてはいけないのです。

だから「生きる」とは「何かを信じている」ことです。

命として信じているものが、その人の「生きる目的」となり、

人生そのものとなるのです。

IMG_20221008_0002.jpg-5.jpg

 

●信心は人それぞれでいい?

 

何を信じるかは、一人一人違いますが、

問題は何を信じて生きるかです。

何を信じようが自分の勝手だから、好きにすればよいと

いうわけにもいきません。

なぜなら、人間の苦しみは、信じているものに

裏切られた時に起きるからです。

 

「そんな男と一緒になってはダメ」と親が忠告しても、

「誰を好きになろうが私の勝手でしょ」と娘は言う。

「あの人とは〝赤い糸〟で結ばれているの」と

幸せな未来を信じて突進しますが、

人生経験豊かな親の予感は的中。

やがて、〝赤い糸〟は〝鎖〟だったと知らされ、

逃げられない苦しみに、浅はかだったことを後悔する例が

絶えません。

 

愛情を注いで育てれば、自分も幸せになれると

思っていた親が、子供に裏切られて苦しんでいます。

映画やテレビ、CMに、引っ張りだこだった大女優が、

息子の覚醒剤所持による度重なる逮捕で仕事は激減。

ストレスで体を壊し、10億円の豪邸も手放し、

「親としてはもう力及ばず」と悲痛な心境を吐露していました。

深く信じているほど、裏切られた悲しみや怒りは大きい。

親にとって子供は命ですから、わが子の裏切りほど

つらいことはないでしょう。

 

事故や病気で身体が不自由になった苦しみは、

健康に裏切られたから。

ガンで余命幾ばくと宣言されたら「何で私が」

「まさかこの若さで」と、夜も眠れない。

それは、いつまでも健康で生きていられると

固く信じていたからです。

会うも別れの始めなり。ときめきの出会いも、

いつか別離の日が来ます。

子供とも離れる時が訪れます。

分かりきったことなのに、現実になると、嫌だ!

受け入れられない、と苦しみもだえます。

自分の身体も、いつまでも元気ではない。

やがて動かせなくなる。

「その時」を少し先に延ばすことはできても、

止めることはできません。

 

お釈迦さまは「諸行無常」と仰せです。

「諸行」とは全てのもの、「無常」は続かないということです。

一切はやがて滅びゆく。この世に変わらないものは、何もない。

これに例外はありません。

信ずる心も無常ですから、何をどう信じても、

やがて必ず裏切られることになるのです。

親鸞聖人のお言葉が記されている『歎異抄』に、

 

煩悩具足の凡夫・火宅無常の世界は、万(よろず)のこと

皆もって空事・たわごと・真実(まこと)あること無し

                     (後序)

火宅のような不安な世界に住む、煩悩にまみれた人間の

すべては、そらごと、たわごとばかりで、真実は一つもない

 

とあるとおりです。

 

●阿弥陀仏の本願のみぞまこと

 

その親鸞聖人

本当の幸福になりたければ、絶対に裏切られない信心を

獲なさいよ

と教えられているのですが、絶対に裏切らない信心など

あるのでしょうか。

聖人は、前述の『歎異抄』の続きに、こう断言されています。

 

ただ念仏のみぞまことにて在(おわ)します

ただ阿弥陀仏より賜った本願念仏のみが、まことである

 

ここで念仏と言われているのは、「阿弥陀仏の本願」のことです。

この「阿弥陀仏の本願」こそ、私たちを絶対の幸福にする、

三世十方を貫くまことだと教えられているのです。

 

阿弥陀仏とは、弥陀ともいい、大宇宙の無量の仏方の王様であり、

本師・師匠と仰がれる仏さまです。

 

阿弥陀仏は、諸仏の中の王なり、光明の中の極尊なり、

光明の中の最明無極なり

                   (大阿弥陀経

 

と、お釈迦さまは言われています。

次に本願とは、誓願ともいい、お約束のこと。

阿弥陀仏の約束は、お経には漢字36字で書かれていますが、

現代の平易な言葉でいうと、

「どんな人も必ず、絶対の幸福に救い摂り、

無量光明土に生まれさせる」

というお約束です

「どんな人も」とは、老少・善悪・男女・賢愚・貧富・美醜など

一切関係ない、すべての人のこと。

『歎異抄』にはこれを、

 

弥陀の本願には老少善悪の人をえらばず(第1章)

 

と記されています。

阿弥陀仏は

「すべての人を、全く差別なく、必ず絶対の幸福に救う」

と誓われています。

ところが、この世は無常、一切は時々刻々変わりゆくものばかり。

私たちは、そんなはかないものしか知りませんから、

「絶対の幸福にしてみせる」

と聞いても

「そんな幸せになれるはずがない」

と、まことの弥陀の本願をはねつけています。

そらごと・たわごとばかりで、まことの心のない私たちは、

まことを信ずる心も念ずる心もないのです。

 

●弥陀より賜る他力信

 

そこで阿弥陀仏は、「まことの心」が私たちにないのなら、

「まことの心」を与えて絶対の幸福に救おう、

と誓われています。

阿弥陀仏より賜るまことの心で、

まことの阿弥陀仏を信ずる。

これを「他力の信心」といいます。

親鸞聖人が本当の幸せになれる「正しい信心」と言われるのは

この他力の信心のことなのです。

他力とは阿弥陀仏から賜ることです。

阿弥陀仏から頂いた信ずる心も「まこと」、

信ずる阿弥陀仏も「まこと」。

だからこの「他力の信心」は、絶対に崩れることも、

裏切られることもありません。

阿弥陀仏は、阿弥陀仏を信ずる「まことの心」を、

南無阿弥陀仏の「南無」に収められ、

その南無阿弥陀仏の名号を与えて、

信ずる心も念ずる心もない私たちを絶対の幸福に救う、

と約束なされているのです。

「南無阿弥陀仏」を阿弥陀仏から頂くことを

「信心獲得(しんじんぎゃくとく)」といいます。

信心獲得して初めて私たちは、何があっても絶対に裏切られない

安心・満足を獲て、

「人間に生まれてよかった!!」

と、絶対の幸福に生かされるのです。

IMG_20221008_0003.jpg-5.jpg

 

親鸞聖人は、信心獲得した喜びを『正信偈』の冒頭に

 

帰命無量寿如来

南無不可思議光

(親鸞は、阿弥陀仏に救われた、

 親鸞は、阿弥陀仏に助けられた)

 

と仰っています。同じ意味のことを繰り返し書かれているのは、

どれだけ言っても言い足らない、どんなに書いても書き尽くせない

喜びの表現です。

このように親鸞聖人は、自ら他力の信心(南無阿弥陀仏)を

獲得され、皆さんも早く、親鸞と同じ大安心・大満足の幸福に

なりなさいよ、と『正信偈』に勧められているのです。

これがすべての人の生まれてきた目的であり、

「なぜ生きる」の答えなのだよと親鸞聖人は仰っています。

 

ではどうすれば、この他力の信心(南無阿弥陀仏)を

獲得できるのでしょうか。

南無阿弥陀仏は「聞く一つ」で受け取れるように

完成されていますから阿弥陀仏は、

「聞く一つで救う」

と約束されているのです。これを

「聞其名号 信心歓喜」

とお釈迦さまは教示されています。

蓮如上人は、

「仏法は聴聞に極まる」

と言われています。

南無阿弥陀仏を聞く一つで受け取れば、

「弥陀の本願まことであった」

と疑い晴れる。それは平生の一念です。

(一念・・・1秒よりも短い時間の極まり)

その瞬間に、来世の浄土往生もハッキリいたします。

生きては絶対の幸福、死しては無量光明土。

まさしく生きてよし、死んでよしの広大無辺な世界がひらかれる。

そこまで真剣に聞き抜きなさいと、

お釈迦さまも、親鸞聖人も、蓮如上人も勧められているのです。

苦労をいとわず、聞法の場に足を運んで、

一筋に進ませていただきましょう。

nice!(30) 
共通テーマ:資格・学び

おとぎ話と真実の仏法(浦島太郎に秘められた意味) [なぜ生きる]

(真実の仏教を説かれている先生ご執筆の『とどろき』より載せています)

おとぎ話と真実の仏法

 

  浦島太郎に

    秘められた意味

 

読書の秋です。

活字離れが言われて久しい今日、

子供たちに本を読んで聞かせる

「読み聞かせ」の動きが広まっています。

古きよき日本の心を知らない子供たちに、

秋の夜長、語り継がれた「浦島太郎」の

おとぎ話を読み聞かせてみてはどうでしょう。

だれもが知っているようで、実はこの話には、

大きな、なぞが隠されています。

子供のおとぎ話と思っていたことが、

実は、人生の大事を教えた

真実の仏法そのものになるのです。

IMG_20221003_0001.jpg-5.jpg

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「昔昔、浦島は助けた亀に連れられて・・・」

の軽快なメロディーにのって歌われる浦島太郎の物語。

日本人なら知らない人はないでしょう。

大体のストーリーは、こうです。

 

漁師の浦島太郎が浜へ漁に出掛けると、

一匹の大きな亀が、大勢の子供たちにいじめられている。

かわいそうに思った浦島太郎は、再三再四、

逃がしてやるように説得したが、子供たちは一向に

聴き入れない。

そこで情け深い浦島太郎は、子供たちに銭を与えて

亀を買い取り、海へ放した。

幾度も礼を言って亀は海中に姿を消した。

数日後、舟を浮かべて漁をしていた浦島太郎のところへ、

先日助けた亀がポッカリ浮かぶ。

「この前のご恩返しに、

今日はよい所へご案内いたしましょう」と、

竜宮城へ連れて行かれた。

乙姫様に迎えられた浦島太郎は、

山海の珍味でもてなされ、限りない楽しみを味わった。

故郷に帰った浦島太郎は、乙姫様から贈られた玉手箱を開くと、

モクモクと白煙が立ち昇り、たちまち白髪の老翁になってしまった。

IMG_20221003_0002.jpg-5.jpg

 

親や教師は、この話をしたあとで、

「だから皆さんも、浦島太郎のような、

情け深い、生物をかわいがる心の優しい人になりなさいよ」

と教えてくれたものです。

知らず知らずのうちに、

〝善い因(たね)をまけば、善果が返り、

悪い因(たね)をまけば悪果があらわれ、

自分のまいたものは自分が刈り取らねばならぬ〟

という因果の大道理を教えられていたのです。

 

●幸せの法則・因果の道理

 

因果の道理とはどんな事でしょか。

仏教では、私たちの幸不幸の運命は、

因果の道理にしたがって決まると教えられ、

その法則は、次のように説かれています。

 

善因善果 

悪因悪果 

自因自果

 

「善因善果」とは、善い原因は善い結果をもたらす。

「悪因悪果」とは、悪い原因は悪い結果を引き起こす、

ということです。

善い種をまいて悪い結果が起きることも、

悪い種をまいて善い結果があらわれることもありません。

まいた種に応じた結果しか生えてこないのです。

「自因自果」とは、自分のまいた種は、

自分が刈り取らねばならない、ということです。

他人のまいた種の結果が私にあらわれる「他因自果」もなければ、

私のまいた種の結果が他の人に行く「自因他果」も絶対にないと、

教えられています。

お釈迦さまがここで、「因」と説かれているのは

「行為」のことであり、「結果」とは「運命」のことです。

幸福という善い運命は、善い行いが生み出したものであり、

不幸や災難という悪い運命は、悪い行いが引き起こしたもの。

善いのも悪いのも、自分の運命のすべては

自分の行為が生み出したものですよと、

教えられているのです。

 

亀を助けた浦島太郎は、竜宮城の乙姫様のもてなしを受け、

夢のような楽しみを味わうことができました。

因果の理法には、万に一つも狂いはありません。

 

●浦島太郎が、本当に善人ならば、

  まず、魚釣りざおを、

     たたき折るべきだった

 

しかし、ここで一つの疑問が起きてきます。

善因善果、悪因悪果、自因自果の因果の教訓は尊いですが、

果たして浦島太郎は、本当に生き物をかわいがる、

情け深い、心の優しい善人なのでしょうか。

多くの人は、浦島太郎の言動に、大きな矛盾のあることに、

気づいてはいないようです。

 

子供たちに銭まで与えて、亀を助けた浦島太郎の肩には、

何百何千の魚の命を奪った、また、今から奪うであろう

魚釣りざおが担(かつ)がれていたのです。

この場合、亀も魚も、同じ意味に扱われているのですから、

大変な矛盾といわなければなりません。

本当に浦島太郎が、一切の生命を愛する善人ならば、

まず、彼の魚釣りざおを、たたき折るべきでしょう。

一方で何百何千の殺生を平気でやりながら、

たまたま1匹の命を助けたといって、

いかにも情け深い善人に見せ掛けるのは、

あまりに見え透いた偽善といわなければなりません。

では浦島太郎は、彼の生活を支えている魚釣りざおを

折ることはできるでしょうか。

それは彼にとって到底、不可能なこと。

なぜならばそれは、彼の自殺を意味するからです。

 

ここに、善人たらんとする浦島太郎の限界があります。

一つの生物の命を助けることはできても、

その何十何百、何千倍の生物の生命を奪わずしては

生きていけない、人間、浦島太郎の

ギリギリいっぱいの姿があるのです。

同時に、それはそのまま、すべての人間の姿にほかなりません。

私たちは、自覚のないところで、どれだけ悪を造っているか、

三思三省(さんしさんせい)させられます。

 

●教師も悪人?

  ーーある布教師と校長の会話

 

大正時代の有名な布教使・西村法剣にこんな話があります。

 

ある寺で、説法していた時のこと。

大の仏法嫌いであった、村の小学校長が、参詣していた。

「仏教は、すべての人間は悪人であると説くから気に入らぬ。

有名な僧侶が来るなら、一度行って、懲らしめてやろう」

との腹である。

そうとは知らぬ法剣は、いつものように、

「仏さまの眼(まなこ)から、ごらんになれば、

善人は一人もありません。皆、悪人なのですよ」

と力説した。

 

説法後、控え室を訪ねた校長は、早速、

「あなたは今、人間は皆悪人と説法されましたが、

まことに困ります。

そんなことを認めたら、教師も皆悪人ということになり、

教育が成り立たんではありませんか。

今後、かようなことは言わないようにしてもらいたい」

と、カンカンになって抗議した。

すると法剣、即座に校長の下座に下がり、

土下座して謝った。

「いやー、これは、あなたのような方がお参りとはつゆ知らず、

とんでもないことを申し上げました。

何とぞご容赦ください」

あまりの意外な反応に、校長は薄気味悪くなってきた。

なにしろ大正の一休とまでいわれ、歯に、

きぬ着せぬ物言いをする法剣が、

一言も反論せずに謝り果てているのである。

「まあまあ、そんなにまでしてもらわなくても、

あのような説教さえ、してもらわねばよいのです」

そう言って校長は、早々に退散しようとした。

「じゃあ、私はこれで」

靴を履き、校長が玄関を去ろうとした時、

「先生、ちょっとお待ちください」。

法剣が声をかけた。

「何か?」

「先ほどあなたは、この世には善人もいれば

悪人もいると言われましたな」

「はい、そう申しました」

「では校長先生、一つお尋ねしますが、

あなた自身は、その善人でいらっしゃいますか。

それとも悪人でいらっしゃいますか」

答えにくい質問である。

今更、悪人とは言えない。

さりとて、善人と答えるのもはばかれる。

校長が返答に窮していると、

「他人のことを聞いているのではありません。

あなた自身のことです。なぜ答えられないのですか。

なら質問を変えましょう。

あなたは学校で、うそは善だと教えられていますか。

悪だと教えておられますか」。

「もちろん、うそは泥棒の始まり。

悪いことだと教えています」

「では校長先生は、これまでにうそをつかれたことは

ありませんか」

校長ならずとも、だれにも身に覚えのあることである。

「では、喧嘩はどうですか。善悪、いずれだと教えられますか」

「悪に決まっています」

「では、校長先生は今までに夫婦喧嘩をなされたことは

一度もないのでしょうか」

これまた日常茶飯事。

「生き物を殺すことは、いかがですか。

子供たちに善だと教えますか。悪だと教えますか」

「言うまでもない。悪だと教えます」

「それならば、あなたは、一切生き物を

殺しておられないのですか。

また、肉や魚は食べられないのですか」

「それは・・・」

力なく答える校長に法剣は、

それならばあなたは、うそも喧嘩も殺生も、

皆、悪だと知りつつ、

毎日それを繰り返しているのではありませんか」。

 

日常、何とも思わずに重ねている悪を一つ一つ

指摘されるうちに、さすがの校長も反省の心が起きてきた。

ついには玄関に座り込み、

「先ほどは座敷で失礼なことを申し上げてしまいました。

よくよく考えてみると、気づかぬところでどれだけ悪を

造っているかしれません。

ご無礼をお許しください」。

 

校長はそれ以来、熱心に仏法を聞くようになったという。

IMG_20221003_0003.jpg-5.jpg

 

●心は常に悪を念じ、口は常に悪を言い、

 身は常に悪を行い、かつて一善も無し

 

汝ら、心は常に悪を念じ、口は常に悪を言い、

身は常に悪を行い、未だ曽て一善も無し

お釈迦さまは、『大無量寿経』に喝破なされています。

心と口と体で、私たちは日々、

どのような悪を造っているでしょうか。

 

①貪欲

なければないで欲しい、あればあるで、もっと欲しいと

際限なく広がる欲の心。

欲を満たすために私たちは、数々の悪を造る。

 

②瞋恚(しんい)

怒りの心。欲が、邪魔されると出てくる。

心の中で他人を切り刻む恐ろしい心。

 

③愚痴

勝るをねたむ心。他人の不幸を見て喜ぶ心。

 

④綺語

心にもないおべっか。

 

⑤両舌

二枚舌。離間語(仲の良い友を離そうとする言葉)。

 

⑥悪口(あっこう)

人の悪口を言うこと。

 

⑦妄語

うそをつくこと。

 

⑧殺生

生き物を殺すこと。他人に命じて殺すのも、

他人が殺生しているのを見て一緒に楽しむのも、

殺生罪である。

 

⑨偸盗(ちゅうとう)

盗み。身分不相応なものを身につければ偸盗罪になる。

 

⑩邪淫

よこしまな男女関係。

 

これらをまとめて十悪といいます。

貪欲、瞋恚、愚痴の三つが心で造る悪。

綺語、両舌、悪口、妄語が口。

殺生、偸盗、邪淫の三つが体で造る悪です。

「生きるためにはしかたがない」「皆がやっていること」

の反論が聞こえてきそうですが、

それはあまりに自己中心的な考えと言わざるをえません。

人間の都合で、悪因悪果、自因自果の、

宇宙の真理を曲げることはできないのです。

静かに自己を振り返ってみれば、いずれもいずれも

思い当たる事ばかりではないでしょうか。

 

●玉手箱を開けた時、

  なぜ浦島太郎は、

 一瞬にして白髪の翁になったのか

 

亀を助けた一方で、何百何千という魚たちの命を

奪った浦島太郎は、果たして乙姫様の恩人だったのでしょうか。

故郷に帰った太郎は、竜宮城での饗宴を、

手放しに喜ぶことはできなくなりました。

「浦島太郎」の歌にはこう歌われています。

 

「帰ってみれば、こはいかに、元居た家も

村も無く 路に行きあう人々は 顔も知らない者ばかり」

「心細さに蓋とれば あけて悔しき玉手箱

中からばっと白煙 たちまち太郎はお爺さん」

 

この物語の最大の疑問、玉手箱を開けた時、

なぜ、一瞬にして浦島太郎は、

白髪の翁になってしまったのでしょう。

これは、悪しかなしえない我々が、その自覚もなく、

よいことをしているとうぬぼれて、

フワフワ浮いたかひょうたんで過ぎ去る一生の早さを

教えたものなのです。

IMG_20221003_0004.jpg-5.jpg

 

蓮如上人は有名な「白骨の御文章」に、

それ、人間の浮生なる相(すがた)をつらつら観ずるに、

凡そはかなきものは、この世の始中終、

幻の如くなる一期なり

と仰っています。

生きる目的も知らず、刹那の享楽を求めて生きる人々に、

「危ないぞ、危ないぞ」と警告しておられるのです。

 

●小さなコオロギのような

   はかない人生

 ーーー時代に翻弄されたラストエンペラー

 

人生は夢幻のごとし。

これは、どんな劇的な人生も、変わりません。

88年に公開された「ラストエンペラー」は、

約300年にわたって、中国を支配してきた

清王朝最後の皇帝・愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ)の、

激動の生涯を描き、アカデミー賞を受賞しました。

第二次世界大戦の中、時代に翻弄されながら彼は、

他に類の無い、数奇な運命をたどります。

映画のシーンから彼の一生を追ってみましょう。

IMG_20221003_0005.jpg-5.jpg

 

西太后の命により、わずか3歳で溥儀(ふぎ)は、

清王朝の皇帝になる。就任式で、側近からもらったコオロギの

入った小さな筒を、大切そうに玉座(ぎょくざ)の下に隠すような、

まだ無邪気な子供だった。

玉座に就いた幼帝に、何百人もの重臣たちがひれ伏した。

溥儀は王朝の象徴である、紫禁城(しきんじょう)の中で、

英国人の家庭教師に学びながら、物質的には何不自由ない

少年時代を送る。

しかし、彼が成長するにつれ、世界は互いに覇権を争う

激動の時代に突入した。

中国にも革命に波が押し寄せる。

1911年、辛亥革命により、ついに清王朝は崩壊。

紫禁城は革命軍に占拠され、溥儀は城を追放された。

 

しばらくは革命軍の手を逃れ、

天津の租界地で気ままに暮らしていた溥儀だが、

やがて日本軍の招きにより、中国北方に独立した

満州国の皇帝になる道を選ぶ。

再び満州族の国家を樹立し、皇帝に返り咲いたが、

その栄光もつかの間、実態は日本の傀儡(かいらい)で、

溥儀に実権はなかった。

 

1945年、日本の敗戦が決すると、溥儀は戦犯として

捕らえられた。護送中ハルビン駅で手首を切り、

自殺を図ったが失敗。

戦犯管理センターに送られ、人間改造を強いられる。

かつての家臣とも同等に扱われ、屈辱的な囚人生活を

送っていたが、9年後、53歳の時、模範囚として釈放される。

 

平民となり、庭師として生活していた溥儀は、

数年後、すでに観光地と化したかつての居城・紫禁城に赴く。

懐かしそうに広場を抜けて、立ち入り禁止のロープを越え、

玉座への階段を上り始めた。

すると一人の男の子が、駆け寄ってくる。

「僕は守衛の子供だ。この城に住んでいる」

すると、溥儀は、

「私もここに住んでいた。そしてその椅子に座っていたんだ」。

「証拠は?」

尋ねる少年に溥儀は、何かを思い出したように、

にっこりほほえみ、玉座の下から取り出した筒を、

少年に手渡した。

皇帝に即位した日に隠した、あの筒である。

少年が、けげんそうにふたを開けると、中から、

生きているはずのない、あの時のコオロギが

ぴょんと飛び出してきたのである。

少年が振り返ると、もうそこには溥儀の姿はなかった。

 

人生は、はかなく、一瞬に過ぎ行く。

どんなドラマチックな生涯も、悠久の歴史と比べれば、

わずか1,2ヶ月のコオロギの一生と、

何の違いがあるでしょう。

溥儀の60年の人生が、まるで一瞬であったかのように、

ぴょんと現れた小さな命には、

そんなメッセージが込められていたのかもしれません。

IMG_20221003_0006.jpg-5.jpg

 

●夢の世は罪を罪とも知らねども

 思い知る時がやってくる

 

豊臣秀吉の辞世の歌を出すまでもなく、

私たちが必死に集めた、金や財や名誉は、

臨終に夢幻と消えていきます。

しかし、たとえ手にした一切が夢と消えても、

それらを得るために造った罪は、夢ではありません。

例えていえば、居酒屋で飲んでいる時、私たちは、

酔い心地に任せて次々と注文します。

ところが支払いの段になって、手渡された勘定書きに、

一気に夢心地を破られてしまうことがあるでしょう。

同じように、人生の夢から覚め、すべてが幻と消えても、

造った罪だけは担っていかなければならないのです。

 

●夢の世は 罪を罪とも知らねども

    報わんときや 思い知られん

 

私たちは日々、数え切れないほどの悪を重ねながら、

その自覚もなく、パッと白煙が立ち昇る一瞬の人生に驚いた時は、

だれもが、人生の終着駅に着いているのです。

このように知らされると、子供のおとぎ話と思っていた

浦島太郎の物語も、実は、真実の人間の相(すがた)を教え、

早く信心決定(しんじんけつじょう)し、

絶対の幸福を獲得せよ、の真実の仏法そのものになるのです。

蓮如上人が、

「誰の人も早く後生の一大事を心にかけて、

阿弥陀仏を深くたのみまいらせて、念仏申すべきものなり」

と、繰り返し警鐘を鳴らしておられるのも、

早く信心決定せよのお勧めにほかなりません。

 

●この一瞬の人生をいかに生くべきか、

     いかに死ぬべきか。

 これこそ一生参学の大事である

 

阿弥陀仏は、その本願(約束)に、

「われを信ずる者は、必ず絶対の幸福に助ける」

と誓っておられます。

もちろん、死後のことではありませんから、

これを平生業成(へいぜいごうじょう)というのです。

現在ただいま、苦悩渦巻く人生を

光明輝く生活のできるようにしてやろう、

というお約束です。

こんな素晴らしい誓願は、2つとありませんから、

親鸞聖人は『正信偈』に、

「無上殊勝の願を建立し、

希有の大弘誓を超発せり」

とも仰っています。

その約束どおりに、私たちが絶対の幸福に助かった時を、

他力信心を獲たとか、信心決定したとかいうのです。

人生50年、いや、寿命が延びて、男78歳、女85歳と

長寿世界一を喜んでいるといっても、

悠々たる大宇宙の生命と比べたら、

私たちの一生は、まことにはかない、ホンの一瞬にすぎません。

この一瞬の人生をいかに生くべきか、

いかに死ぬべきかは、

これこそ一生参学の大事でなければならないでしょう。

光陰矢のごとし。

夢幻のように過ぎ行く人生と知らされれば、

まことに永劫の迷いを断ち切り、絶対の幸福を

獲得するために生まれてきたことが、

ひしひしと身証されるではありませんか。


nice!(41) 
共通テーマ:資格・学び

「葬式仏教」、それは本当の仏教じゃない! [なぜ生きる]

「葬式仏教、それは本当の仏教じゃないのよ」


「葬式仏教」といわれて久しく、
僧侶の務めは「葬式や法事」と考える人も多いでしょう。
そんな仏教観を持つ人に、
仏さまの教えをよく知る人は訴えます。
「それは本当の仏教じゃない」
では、真実の仏法とは何を教えられているのでしょう。
親鸞聖人からお聞きします。



  真実の仏法は「平生業成」


●「仏法嫌い」は
     どうしてなの?


「いいかげんにその歌やめろ!
坊主に何を吹き込まれたのか知らんが、
あいつらは金の亡者だぞ。
おっとうが死んだ時も
『たくさん金を払えば長いお経をあげてやる』だの、
『極楽に行ける』だのなんて言いやがったんだ!」
普段から熱心に聞法し、
「恩徳讃」を口ずさむ妻・千代に、
こうまくしたてる仏法嫌いの了顕。
“それは・・・”と言いかけた千代を遮り、さらに言う。
「本堂が雨漏りするとか、門が壊れたとか、
何だかんだと言って門徒から金を集めるそうじゃないか。
断ったら『墓を持っていけ』と脅された奴もいるらしいぞ」
「それは本当の仏教ではないのよ。
あなたも、蓮如さまのお話を聞けば分かるわ」
千代の言葉にも、了顕は承服しなかった。


IMG_20161111_0001.jpg-1.jpg


約500年前、浄土真宗を日本全国に弘められた蓮如上人と、
その弟子、本光房了顕の史実を描いた
アニメーション映画『なぜ生きる・・・蓮如上人と吉崎炎上』
冒頭の一場面です。



幼くして父親を失った了顕は、
葬儀の際の僧侶の一言で、「坊主は大嫌い」になりました。
「僧侶は葬式や法事で金儲けする者」との思いを、
彼はここで吐露しています。
今日も、仏教に同様のイメージを持っている人は多いでしょう。


●批判される仏教界
   “教えを説かない僧侶たち”


最近、流通王手のアマゾンが民間業者と提携して、
葬儀・法事への僧侶の手配のチケットを販売し、
イオングループなども同様の安価なサービスを展開して
好評を得ています。
注目されるのは、今まであいまいだった
「お布施」の金額を明確に打ち出した点です。
ところがこれに、全日本仏教会が、
「お布施本来の宗教性を損なう」と苦言を呈し、
議論の的となりました。
様々な意見が見られます。


“アマゾンの試みは、よくも悪くも
法要や戒名の金額の不透明さに一石を投じている”
と語る人は、こんな経験をしたそうです。
父親の49日が終わって納骨の時、
僧侶が挨拶もそこそこに左手を出してお礼を要求してきた。
しかも彼は、もらうものをもらったら遺族を急がせ、
読経が終わるやそそくさと帰宅。
思い出話も法話もなかったといいます。
一方で、アマゾンのようなサービスは心が失われており、
葬儀や法事はそんなもんじゃないと感じる、
という人も。
中には仏教のあり方を問う、こんな意見もありました。
“そもそも仏の教えを伝えない人を
仏教者(僧侶)と見なすことはできない。
人々に教えが届いていれば、こうはならない。
大衆が知りたいのは仏教界の論理ではなく、
仏の教え、心の救いだ。
何もしない人にお金を渡すことに異を唱えるのは仕方がない”
ここで言われているように、
問題は「教えを説かずに布施を要求すること」です。
仏教を説かれたお釈迦さまは、死者のための葬式をされたことは
一度もなかったといわれます。
常に、生きた人間に救いの法を説かれたのです。

葬儀や法事は本来、親しい人の無常をご縁に仏法を聞かせていただくために
開くのであり、その説法へのお礼が「お布施」なのです。
「教えの有無」が大事であり、正しい教えを聞いた人ならば
「布施」の心がおのずと起きるものです。


●本当の仏教とは何でしょう?


正しい教えを知らずに腹を立てる了顕に、
妻の千代は、
「それは本当の仏教じゃないのよ」
と諭していますが、本当の仏教とはどんな教えなのでしょうか。
映画のご説法で、蓮如上人は第一声、こう仰います。


蓮如上人 「皆さん、親鸞聖人の教えはただ一つ。なぜ生きる、
       『なぜ生きる』の答えでした


私たちが人間に生まれてきたのは何のためか。
その答え一つを説かれたのが親鸞聖人であると明言されています。
親鸞聖人はそれを、主著『教行信証』冒頭に
「難度の海を度する大船」に乗ること
とズバリ仰っています。


●釈迦の金言
  「人生は苦なり」


「難度の海」とは、苦しみの絶えない人生を、
荒波の絶えない海に例えられているのです。
フランスの思想家、ルソーは、
「人生の最初の四分の一はその使い道もわからないうちに過ぎ去り、
最後の四分の一はまたその楽しさを味わえなくなってから過ぎていく。
しかもその間の四分の三は、睡眠、労働、苦痛、束縛、
あらゆる種類の苦しみによって費やされる」と言い、
ノーベル文学賞の戯曲家、イギリスのバーナード・ショーは、
「人生は苦しみである。そして2人の人間の唯一の相違は、
その人の味わっている苦しみの程度の差に過ぎない」
と語っているように、
多くの著名人も人生は苦しいところだと述べています。
仏のさとりを開かれた大聖釈迦牟尼世尊(お釈迦さま)は、
人生は苦なり
(人は生まれてから死ぬまで、苦しみ続けなければならぬ)
と道破なされ、その実態を「四苦八苦」で教えられています。
次の八つです。


IMG_20161111_0002.jpg-1.jpg


初めの「生苦」とは生きてゆく苦しみ。
これを「愛別離苦」「怨憎会苦」「求不得苦」と
具体的に教えられています。


愛別離苦」とは愛するものと別離する苦しみをいいます。
政治資金の不在使用で辞職した前東京都知事は、
週刊誌で始まった追求から世論が高まり、
恋々と固執した知事のイスを追われた。
身から出たサビとはいえ、
泣くほど愛着した地位から引き離されるのは辛かったでしょう。
大切な人や物を失う痛みは、筆舌に尽くし難いもの。
永年連れ添った伴侶や親、子との別れを味わって、
悲嘆されている方もあるでしょう。


次の「怨憎会苦」とは、怨み憎むものと会わねばならぬ苦しみ。
イヤな奴、と聞けば、幾人かの顔がすぐに浮かぶ。
そんな相手と会う不快さです。


IMG_20161111_0002.jpg-2.jpg



「亭主元気で留守がいい」と笑い飛ばせたのは過去のこと。
夫の在宅がイヤでイヤで高血圧やうつなど
体調を壊す妻が多くあるようです。
「主人在宅ストレス症候群」なる病名までついています。
一方、NHKの「クローズアップ現代+」によると、
“すぐキレる妻が怖い”という夫がなんと47パーセント。
妻は自分が働いているのに、家事や子育てを手伝わない夫に
イライラしているのですが、夫は妻が何を怒っているのか
分からないので会話もできず、退社後も帰宅せずに繁華街を、
何時間もさまよう。
そんな夫が増えているといいます。
愛した人がストレスの元とは、まさに愛情一如。
その人にとっては結婚が「怨憎会苦」の始まりだったのかも。


求不得苦」は、求めているものが得られない苦しみのことです。
女性3人のアイドル「パフューム」が
“最高を求めて終わりなき旅をするのは、私たちが生きているから。
夢に向かって遠い先まで、前を見て進もう”
という内容の応援歌を発表した時、
メンバーの一人がこう紹介しています。
「今回の新曲は一言で言うと、ものすごい苦しい歌です。
勇気が出るといえば、出るんですが・・・」
有名になり、多くの曲をヒットさせているパフュームですが、
これからは日本だけでなくアジア、欧米へ進出する。
大きな夢を追い求める、その厳しい過程を思うと
「ものすごい苦しい歌」という本音が思わず出たのでしょう。


「世の中は
一つかなえば また二つ
三つ四つ五つ 六つかしの世や」
七つ、八つ・・・もっともっとと、
死ぬまで「夢のまた夢」に取りつかれ、
私たちは“六つか(難)し”の「難度の海」を泳いでいるのです。


●「死ぬまで求道」がいい?


スポーツや音楽、科学、医学、芸術など、
人間の全ての営みに完成はありません。
それを「死ぬまで求道」といいます。
多くの人は礼賛する言葉ですが、よく考えれば、
100パーセント求まらぬものを、
死ぬまで求め続ける、というおかしなことにならないでしょうか。
求めるのは「求まる」ことが前提のはず。
死ぬまで求まらぬと知りながら求め続けるのは、
去年の宝くじを買い続けるようなもの。
“それでいい”とどうして言えるのでしょうか。

「求める」のは苦しいこと。
「死ぬまで求道」の人生は、そのまま死ぬまで
苦しみの絶えない難度の海なのです。
しかも人生には、すべての人が避けられぬ
「老苦」「病苦」「死苦」が必ず訪れます。



老苦」は肉体が古びていく苦しみ。
若いつもりがいつの間にやら随所に衰えが来ます。
幼い頃、なぜ祖父母が眼鏡を外して小さい文字を見るのか、
全く理解できなかったが、自分が老眼になるとよく分かる。
老いの嘆きは1000年以上前の『古今集』の時代から、
いずこでも常に変わらないのだと知らされます。


IMG_20161111_0003.jpg-1.jpg


「老いらくの
来んと知りせば 門鎖して
なしとこたえて 会わざらましを」
(このように「老い」が来ると知っていたら、門を閉ざし
「用のある者はない」と言って会わぬようにしたものを)



「とどめあえず
むべもとしとは 言われけり
しかもつれなく 過ぐる齢か」
(とどめられず、まさに「疾し(年)」とはよく言ったもの。
かように人の気も知らず、「齢」は過ぎゆくものだなぁ)
長寿がかなった高齢社会の現代は、
老老介護や老後破産など、老苦はより深刻になっていようです。


病苦」は病の苦しみです。
「やまいだれ」に「丙」と書くのは、
どんな病気も当事者には甲乙つけがたい苦痛だから、といわれます。
6月に亡くなったボクシング元世界ヘビー級チャンピオン、
モハンメド・アリさんは、“蝶のように舞い、蜂のように刺す”
華麗な戦いが多くの人を魅了しましたが、
彼の引退後の半生は、42歳から晩年まで
パーキンソン病との闘いでした。
並外れた身体能力も病一つで奪われ、
歩行もままならなかったといいます。


死苦」は問答無用、「死ぬほどつらい」とよく口にしますが、
この100パーセントの未来が、
私たちの人生を巨大な不安で覆っているのです。

蓮如上人はこう仰せです。


未だ万歳の人身を受けたりという事を聞かず。
一生過ぎ易し」(白骨の章)
どこにも千年万年、生きている人を聞かない。
人生は実に短い。


朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり。
既に無常の風来たりぬれば、即ち二つの眼たちまちに閉じ、
一の息ながく絶えぬれば、紅顔むなしく変じて桃李の装を失いぬるときは、
六親・眷属集まりて歎き悲しめども、更にその甲斐あるべからず
                  (白骨の章)


朝元気な人が、夜にはポックリ死んでしまうこともよくあること。
次の世に旅立つ時は、妻も子供も兄弟も連れにはなってくれない。
この世のもの何一つ、持ってはいけないのです。


●「絶対の幸福に救う大船あり」
     親鸞聖人の断言


親鸞聖人は「こんな四苦八苦の難度の海に苦しむ私たちを、
そのまま乗せて絶対の幸福に救い摂り、
極楽浄土まで渡す大船があるのだよ

と断言なされています。
阿弥陀仏の本願によってつくられた船ですから、
「大悲の願船」と聖人は仰っています。


IMG_20161111_0004.jpg-1.jpg


阿弥陀仏とは、お釈迦さまが紹介された仏さまです。
大宇宙には地球のような世界が無数に存在し、
それぞれに仏さまがまします。
その大宇宙の諸仏方が異口同音に、
「われらの本師本仏である」
「最高無上の師の仏だ」
と仰ぐお方が阿弥陀仏です。

阿弥陀仏が、
どんな人をも
必ず絶対の幸福に助ける

という本願(約束)を建てておられます。
このお約束を果たすために、
阿弥陀仏がつくられたのが大悲の願船なのです。


この大悲の願船に乗せられ、絶対の幸福になるために、
私たちは生まれてきた。
これが「なぜ生きる」の答えであります。


●「永遠の命が救われる」


では、大悲の願船に乗せられる、とはどんなことでしょうか。
映画『なぜ生きる』で蓮如上人はこう仰います。


蓮如上人 「阿弥陀仏の救いは、肉体の救いとは比較にならぬ、
        永遠の命が救われるご恩ですからね、
        無限に大きくて深いものなのですよ


大悲の願船に乗せていただけば、
四苦八苦に蹂躙される肉体の救いではなく、
「永遠の命が救われる」と言われています。

このことについて親鸞聖人からお聞きしましょう。
ご自身が大悲の願船に乗せられた時の歓喜と感謝を述べられた
『教行信証』総序のお言葉です。


噫、弘誓の強縁は多生にも値いがたく、
真実の浄信は億劫にも獲がたし。
遇行信を獲ば遠く宿縁を慶べ。
若しまたこの廻疑網に覆蔽せられなば
更りてまた昿劫を逕歴せん。
誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法、
聞思して遅慮することなかれ
ああ・・・何たる不思議か、親鸞は今、多生億劫の永い間、
求め続けてきた歓喜の生命を得ることができた。
全くこれは、弥陀の強いお力によってであった。
深く感謝せずにおれない。
もし今生も、弥陀の救いにあえぬままで終わっていたら、
未来永遠、幸せになることはなかったであろう。
何とか早くこの真実、みんなに伝えねばならぬ、知らせねばならぬ。
こんな広大無辺な世界のあることを


「噫」という感嘆は、かつて体験したことのない驚きとよろこびの、
言葉にならぬ言葉です。
「弘誓の強縁」とは阿弥陀仏の本願のこと。
“難度の海に苦しむ人々を、必ず大船に乗せて絶対の幸福に救う”
という強烈なお約束をいい、
その誓いどおりに、大船に乗ったことを、
「真実の浄信」と言われています。
それはもう、100年や200年求めて得られる、
ちっぽけな幸せではなかった
、と知らされますから、
親鸞、果てしない過去から、生まれ変わり死に変わり、
生死生死を繰り返してきた。
永い間迷い苦しみ、救いを求めてきたのだ。
その多生にもあえなかった弥陀の救いに今、あえた、
億劫にも獲がたいことを今、獲たのだ

と言われているのです。
ここでいわれる「あう」は「値う」と書き、
過去無量劫、果てしない魂の歴史の間にも、
かつてなかったこと。
これから未来永劫、二度とないことに「値った」ことをいいます。
多生億劫の間求めても値えなかったことに値えたから
『噫』と驚嘆せずにいられなかったのでしょう。
山高ければ谷深し、救い摂られた山が高いほど、
後生の一大事に戦慄し、こう嘆息もされています。
若しまたこの廻疑網に覆蔽せられなば
更りてまた昿劫を逕歴せん
弥陀の大船を疑って乗らぬ心を、ここでは「疑網」と言われ、
もしまた今生も、大悲の願船を疑い、
乗船せぬままで終わっていたら、未来永劫、
苦しみ続けていたに違いない。危ないところであったなぁ
」。
合掌瞑目し、法悦に包まれる聖人が、
まぶたに浮かぶようです。
誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法、
聞思して遅慮することなかれ
まことだった!本当だった。絶対の幸福に救い摂り、
必ず極楽浄土に渡してくださる弥陀の願船、ウソではなかった。
皆々、乗船してもらいたい、この親鸞が生き証人だ。
早く、大悲の願船の厳存を知ってもらいたい

弥陀の救いはこの世の肉体の問題ではない。
まさしく「永遠の命を救っていただいた」という美しい感激に
満ちた告白であることが知らされます。
だからこそ、「身も粉に、骨砕きても」という恩徳讃の心になるのです。


●平生の一念に乗せられる


この大悲の願船には、いつ乗せていただけるのでしょう。
映画で蓮如上人は、こう教えられています。


蓮如上人 「それは、平生、生きている、今のことですよ。
       今この大船に乗せていただき、どんなことがあっても
       変わらぬ絶対の幸福になることを、
       『平生業成』と親鸞聖人は言われています」


「平生業成」とは親鸞聖人の教えを漢字四字で表した言葉です。
「平生」とは死後ではない、「生きている今」のこと。
「業」とは人生の大事業。
これこそ「なぜ生きる」の答えであり、
大悲の願船に乗じて絶対の幸福(往生一定)になることです。
私たちに、これ以上大切なことはありません。
「成」とは「完成、達成する」ということです。
人生には、これ一つ果たさねばならないという大事な目的がある、
それは現在、完成できる。だから早く完成しなさいよ

と親鸞聖人は教えられていますから、
「平生業成」は聖人の教えの一枚看板といわれるのです。
「仏教」と聞くと、地獄や極楽などの死後物語ばかりと
思われているのが悲しい現実です。
その誤解を正し、弥陀の救いは“”であることを
鮮明になされた方が親鸞聖人なのです。


「漂泊とは、たどりつかぬことである。
たとえ、それがどこであろうとも、われわれに夢があるあいだは、
『たどりつく』ことなどはないだろう」 (旅の詩集)
作家・寺山修司が言うように、果てなき夢を求めて
難度の海を漂泊する者は、
どこにでも「たどりつく」ことはない。
ゴールなき「死ぬまで求道」では永遠に救いがありません。
親鸞聖人は、「なぜ生きる」の答えがある、
この世でハッキリ絶対の幸福に救われる時がある、
と断言されているのです。

弥陀の大船には平生の一念に、乗せていただけるのですから、
こんな水際だった鮮やかな救いは、
阿弥陀仏の本願にしかありません。
真剣によくよく弥陀の本願を聞いて、
一日も早く「平生業成」の身にならせていただきましょう。


nice!(31)  トラックバック(0) 
共通テーマ:資格・学び

お釈迦さまが説かれた「なぜ生きる」の答え [なぜ生きる]

苦しみが

 幸せに変わる!

  お釈迦さまが説かれた

    「なぜ生きる」の答え

 

もうすぐ秋のお彼岸。

彼岸は、秋分の日を中日とした7日間をいい、

「暑さ寒さも彼岸まで」ともいわれるように、

厳しい暑さも和らぐ季節の変わり目です。

お彼岸には、おはぎを作ってお仏壇に供えたり、

読経や墓参りなど、彼岸会といわれる仏事を

毎年勤めている家庭もあるでしょう。

「彼岸」とは仏教由来の言葉ですが、

その意味を考えたことはあるでしょうか?

この「彼岸」を正しく知ったならば、

私たちが生きるうえでいかに大切な言葉か分かります。

お釈迦さまからお聞きしましょう。

 

●「彼岸」とは向こう岸。

〝こちらの岸〟はどんなところ?

 

「彼岸」とは字のとおり、彼の岸、向こう岸ということです。

向こう岸があるなら、当然、こちらの岸(此岸)もある。

仏教で「此岸(しがん)」とは私たちの生きている世界をいい、

「娑婆世界」ともいわれます。

娑婆(しゃば)はインドの言葉で、「堪忍土(かんにんど)」と訳されます。

堪忍とは「こらえ、しのぶ」と書きます。

今年の夏は、国内最高気温も更新するような猛暑続きで、

まさに〝堪え忍んだ〟堪忍土でした。

 

また、「ならぬ堪忍、するが堪忍」で、

家庭でも職場でも、耐え難くて怒りを爆発させたい時も、

ぐっとこらえねば、お互い生きてはいけません。

全国紙に載っている悩み相談で、

多いのはやはり「人間関係」。

近い関係であるほど悩みも多く、

一つ屋根の下で暮らす夫婦は、とりわけ大変です。

違う環境で育ってきた者同士なので、

生活習慣の違いが出てくるのは当然。

新婚当初はまず食事の味付けの違いに戸惑います。

夫の電気の消し忘れや、妻の長風呂が気になる。

ささいなことでは、洗濯物の畳み方がいつもと違うだけでも、

ストレスを感じるものです。

やがて、年数がたつと、夫婦はもともと他人だったことを

忘れてしまい、言動に遠慮がなくなりますから、

余計に腹が立ちます。

でも、いちいちケンカしてもいられないので、

ぐっとこらえる。

長く夫婦を続けている人にコツを聞くと、

「ガマンよ。結婚生活はガマンが大事」。

笑い話で済む程度の堪忍ならいいのですが、

近頃は、パートナーの言動への不満が積もりに積もって、

めまいや頭痛、不眠など心身に不調を来す人が増えており、

ある大学教授が「夫源病(ふげんびょう)」

「妻源病(さいげんびょう)」と命名したそうです。

こうなると、笑い話では済みませんね。

IMG_20220915_0001.jpg-5.jpg

 

●苦しみに耐えて

  頑張ってきたのに

 報われた感じが

  しないのは、なぜ?

 

人間関係に限らず、私たちには日々、

さまざまな苦難がやってきます。

一難去ってまた一難。

それらを堪え忍びながら、

〈こんなことが、いつまで続くのだろう〉

〈人生ってこんなものかなあ〉

と、ふと疑問を感じることはないでしょうか。

はた目からは成功し恵まれていると見える人でも、

実態は変わらないようです。

 

「いずくとも

身をやるかたの 知られねば

うしと見つつも ながらうるかな」

(どこに向かって生きればよいか分からないまま、

住みづらいと思いながらも、この世に生きながらえています)

 

こう詠んだのは、平安時代の才媛・紫式部でした。

当時、宮中で爆発的な人気を誇った長編小説『源氏物語』の

作者として、人も羨む才能、地位、名誉に恵まれていた女性ですが、

「向かうべき【方角】が分からぬまま堪え忍んで生きている」

と告白しています。

これが彼女の本音だったことは、

自ら編纂した歌集の最後にこの和歌を選んでいることからも

分かります。

 

同様の声は現代にもあふれています。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

34年間、看護職に従事し、2年前に退職しました。

その後は、同居の義母の介護をしていましたが、

昨年亡くなり、子供たちはすでに独立をしているので、

夫婦だけの生活になりました。

今までひたすら走り続けてきたのが、

急に止まったように感じており、

これから何をしようか考えています。

             (50代女性)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

定年になり、趣味などに自由に過ごせると思っていた時に

大病し、体が不自由になりました。

家族の介護を受けながら人生が終わるのか、

自分は今まで何をしていたのか・・・

              (60代男性)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

主人が亡くなり、生きる目標をなくしました。

人生が終わったようで、心の方向をどこに

持っていけばいいのか悩んでいます。

              (70代女性)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

ダンテは『神曲』の冒頭に、

「人生の旅のなかば、正しい道を見失い、

私は暗い森をさまよった」

と書いていますが、共感する人が多いのではないでしょうか。

 

●まず「方角」を確かめる

 

誰もが、その時その時、頑張ってきたはずなのに、

人生の旅の半ばで「ああ幸せだ」「これで満足」

「堪忍の日々が報われた」と感じられないでいる。

そこで、〈それは、まだまだ努力が足りないからだろう〉

と思い、さらなる努力を続けようとするのです。

しかし、努力する前に、ちょっと立ち止まって考えてみましょう。

それは、【方角】を間違えたら、

どんな努力も報われないことがある、

ということです。

IMG_20220915_0002.jpg-5.jpg

 

例えば、海の真ん中に放り出された時、

あなたならどちらへ向かって泳ぎだすでしょう。

陸や島の方角に向かっていけば、

泳げば泳ぐほど近づきますから、

やがては陸地に着いて助かるということがあります。

しかし、陸や島とは反対方向に泳いでいたなら、

沖に向かうばかり。

頑張って泳げば泳ぐほど助からないことになってしまいます。

ですから、泳ぐ前にまず確かめねばならないのは、

正しい【方角】です。

 

人生も同じことが言えるでしょう。

〈私の人生、このまま進んでいって、

本当に幸せになれるのか?〉

生きる方角を間違えて、進んでいった先を、

仏教ではこう教えられています。

 

まことに死せんときは、

予(かね)てたのみおきつる妻子や財宝も、

わが身には一つも相添うことあるべからず。

されば死出の山路のすえ、三途の大河をば、

唯一人こそ行きなんずれ

             (御文章1帖目11通)

いよいよこの世の別れとなれば、

かねてから、頼りにしていた妻子も財宝も、

何ひとつあて力になるものはない。

みんな剥ぎ取られて、独りでこの世を去らねばならぬのである

苦しみに耐えながら頑張って、いよいよ最期、

全てと別れてたった独りで旅立たねばならない。

だとすれば、一体、私たちは何のために生きるのでしょうか。

 

●彼岸に向かって進めば

   人生が劇的に変わる

 

そんな私たちに、正しい方角を示してくださる方が

お釈迦さまです。

「本当の幸せになりたければ、この方角に向かって

進みなさい」

とお釈迦さまが指し示されているのが、

此岸ではなく、「彼岸」なのです。

「彼岸」とは何か。それは釈迦の先生である阿弥陀仏の

極楽浄土のことです。

「阿弥陀経」というお経には、

「これより西方、十億万の仏土を過ぎて世界有り、

名(なづ)けて極楽と曰う」

と説かれています。

お釈迦さまは、具体的に「西」という方角を示され、

阿弥陀仏の極楽浄土の存在を明言なさっています。

浄土に生まれた人には、一切苦しみはなく、

ただいろいろの楽しみだけがあるので「極楽」という、

と『阿弥陀経』には説かれ、

その幸せが言葉を尽くして表現されています。

限りなく明るい世界ですから、

親鸞聖人は「無量光明土」とも仰っています。

こう聞くと、

〈浄土?死んだ後の極楽参りの話か〉

〈死んだ後のことなんか、死んでみなけりゃ分からんだろ〉

と思う人もあるでしょう。

ところが親鸞聖人は、

「浄土へ往けるかどうか、死んでから分かるのではない。

此岸にいる現在ただ今、浄土(彼岸)に往けることが

ハッキリするのだよ」

と教えられているのです。

確実な未来が限りなく明るい無量光明土とハッキリすれば、

われ生きるしるしありと現在が輝き、

生きてよし、死んでよしの大安心・大満足の

絶対の幸福に生かされます。

これを「平生業成」といいます。

「平生」とは、現在のこと。

「業」は絶対の幸福、「成」は成るということ。

この平生業成の身になることが、

仏教に明らかにされている「なぜ生きる」の答えなのです。

娑婆(この世)にいる限り、

苦しみや災難は変わらずやってきますが、

絶対の幸福に救われれば、

娑婆(しゃば)の苦しみ悩みは全て喜びに転じ変わり、

人生の醍醐味を心行くまで満喫できます。

ある女性が、「阿弥陀如来を殿御(とのご)に持てば、

娑婆の貧乏苦にならぬ」

と言ったのは、その喜びでしょう。

なぜそんな幸せになれるのか?

またどうすればなれるのか?

それは、前々回の記事を読んでくださればと思います。



年2回、春分と秋分は、太陽が真西に沈む日です。

西に沈む夕日を見ながら、

極楽浄土に思いをはせるようになったことから、

お彼岸といわれるようになったのでしょう。

せっかくの休日、お釈迦さまの説かれた

「なぜ生きる」の答えを聞く日にしたいものです。


IMG_20220915_0003.jpg-5.jpg

nice!(24) 
共通テーマ:資格・学び

裏切るものを信ずるから苦しむ、裏切らないものとは! [なぜ生きる]

 

平成十一年、日本最高の知性ともいわれた江藤淳氏が、
六十六年の生涯に自ら終止符を打ちました。
慶子夫人が病に倒れた三ヶ月後、
「家内の死と自分の危機とを描き切りたい」
と筆をとった『妻と私』が、事実上の遺書といわれます。

病床に伏す妻を最後まで支えたい。
決して家内を一人にしない。
それが江藤氏の「生きる目標」でした。

「一卵性夫妻」とよばれるほど、
それはいい仲だったのです。
最愛の妻の命が終われば、すべては終わってしまう。
やるせない哀感が描かれます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

誰にいうともなく、家内は
「もうなにもかも、みんな終わってしまった」
と呟いた。
その寂寥に充ちた深い響きに対して、
私は返す言葉がなかった。
実は私もまた、どうすることもできぬまま
「みんな終わってしまった」ことを、
そのとき心の底から
思い知らされていたからである。(中略)
薬のせいで気分がいいのか、
家内が穏やかな微笑を浮かべて、私を見つめ、
「ずいぶんいろいろな所に行ったわね」と言った。(中略)
「本当にそうだね、
みんなそれぞれに面白かったね」
と、私は答えたが、
「また行こうね」とはどうしてもいえなかった。
そのかわりに涙がほとばしり出てきたので、
私はキチネットに姿を隠した。

                        (江藤淳『妻と私』)

 

夫人が亡くなり、生きる目標がなくなって残ったのは、
死を待つだけの無意味な時間でした。


 家内の生命が尽きていない限りは、
生命の尽きるそのときまで一緒にいる、
決して家内を一人ぼっちにはしない、
という明瞭な目標があったのに、
家内が逝ってしまった今となっては、
そんな目標などどこにもありはしない。
ただ私だけの死の時間が、私の心身を捕らえ、
意味のない死に向かって刻一刻と
私を追い込んで行くのである。

                       (江藤淳『妻と私』)                              
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


江藤淳氏の自殺は、衝撃とともに報じられました。
「先立たれた愛妻の後を追ったのでしょう」
「耐え難い病苦だったのですね」
など、哀悼の辞とともに、
原因が取りざたされました。
氏の伴侶を失った苦悩、
心身の不自由による不安は、想像に余りあります。
それらの痛苦も、要因の一つでしょう。
しかし本質的には、
「苦しくても生きるのはなぜか」が、
その明晰な知性をもってしても、
分からなかったからではないでしょうか。

 


真実の仏法に遇えぬ悲劇

経典にはこう説かれています。
「学問をして善知識に遇わずんば、
いずくんぞ天下に大道(仏教)あるを知らんや。
船に乗りて池泉小流に遊んで、
いずくんぞ天下の江海あるを知らんや。
仏教は江海の如し、
一切世間の経書は皆仏経より出ず。」

才知すぐれ、勉学に励んだ人でも、
仏法を正しく教えてくださる
善知識に会えなければ、
経典のあることも分からず、
そこに明示されている
人生の目的を知ることはできません。
苦しみばかりの生涯を終えるしかないのです。

日本で年間三万人の自殺者も、やはり、
真実の仏法に遇えなかったための
悲劇といえましょう。

 

人生の目的は「無明の闇を破ること」

「人は何のために生まれ、生きているのか」
お釈迦さまの教法を、
自分の考えを一切入れずに
そのまま正しく伝えた親鸞聖人は、
こう喝破されました。

「已能雖破無明闇」(正信偈)
(すでによく無明の闇を破すといえども)

無明の闇を破ることこそ、
人生の究極の目的だ
と明示されたのです。

「無明の闇」とは「後生暗い心」を言います。
死後があるのかないのか、
あるとすればどんな世界か、
はっきりしない心です。
百パーセント確実な未来後生が
はっきりしないから、
現在も不安なのです。

平生に、この無明の闇を破って、
いつ死んでも浄土往生間違いない、
絶対の幸福になることが、
人間に生まれてきた目的です。

親鸞聖人は、二十九歳の御時に、この幸せになられ、
「無碍の一道に出たぞ」と仰いました。
聖人の主著『教行信証』には、
その慶びが随所に記されています。
一つあげてみましょう。


10066778674_5a43721211_o.jpg


弥陀の本願の大地に心を樹(た)てた喜び

「慶ばしき哉(かな)。心を弘誓の仏地に樹て」 

なんと喜ばしいことか、とまず、
心からわき上がる喜びを率直に表明されています。
何をそんなに喜ばれたのか。
「心を弘誓の仏地に樹て」たことです。
「心を弘誓の仏地に樹て」の「弘誓」とは
「阿弥陀仏の本願」です。

大宇宙には数え切れないほどの仏方がましますと、
お釈迦さまは説かれています。
その中で、「本師本仏」と仰がれる仏様が阿弥陀仏です。
「本師本仏」とは、すべての仏の師匠の意。
釈尊も仏様のお一人ですから、
お釈迦様の先生が、阿弥陀如来なのです。
「本願」とは、お約束です。
阿弥陀仏は、
「すべての人の無明の闇を破り、
絶対の幸福に救い摂ってみせる」と、
誓っておられます。

この阿弥陀仏の本願を大地にたとえられ、
「仏地」と仰ったのです。

阿弥陀仏に救い摂られ、
無明の闇が破られると、私たちの心は、
阿弥陀仏の本願の大地に樹ちます。
心が本願に樹つとは、阿弥陀仏のお約束通り、
絶対の幸福になることです。
親鸞は、阿弥陀仏の本願に心を樹てたぞ。
なんと慶ばしいことか

と、人生の目的を達成した喜びを仰っているのです。

無明の闇が破れ、生命の歓喜あふるる世界に、
平生、出させていただける時があるのです。

 

生きることは信ずること

人は何かを信じなければ生きてはいけません。
何かに心を樹(た)てているのです。
親は子供を信じ、子供は親をあて力にし、
あるいは、金や財産、名誉、地位、健康と、
いろいろなものを頼りにして生きています。

ところが、崩れるもの、滅んでいくものに
心を樹てていると、
必ず裏切られる時がきます。

建築物は基礎がしっかりしていないと、
どんな立派な御殿を建てても、
基盤が崩れると同時に建物も崩壊してしまいます。
同様に、私たちの心という建物をどこに建てるかによって、
幸・不幸が左右されるのです。

私たちはどんなものの上に心を樹てているでしょうか。
無常なものの上に心を樹てていると、
それらが崩れた時、裏切られ、苦しまなければなりません。

親を頼りにしていても、その力が持続する保証もなく、
いつまでも生きていてはくれません。
子供をあて力にしていても、
やがて自分から離れ、独立していきます。
老人ホームに入れられ、
「こんなことなら生まなければよかった」
と愚痴を言っている人もあります。
子供に樹てていた心が崩れてしまったのです。
健康に心を樹てていると、病気になったとき、
昨日までの喜びは吹き飛んでしまいます。
名誉とか地位に心が樹っている時は、
華やかに見えても、一度これらを失うや、
急坂を転げ落ちるような惨状になってしまいます。
江藤氏の自殺も、妻や健康に樹てていた心が
崩れた末の悲劇ではないでしょうか。

必ず崩れる無常のものに心を樹てていると、
その幸福も崩れてしまいます。

親鸞聖人は、四歳で父君と、八歳で母君と死別され、
「世の中にあてになるものは何もないなあ」
と身をもって知らされました。
その聖人が絶対に崩れない阿弥陀仏の本願に
心を樹てられた時の驚き、
喜びはどれほどだったでしょう。
「慶ばしき哉」の喜びは、永遠に変わらない、
なくてはならない喜びなのです。

 

自殺者は愚かの中の愚か者

苦しみの根源である、無明の闇の闇をぶち破り、
「心が弘誓の仏地に樹つ」、
絶対の幸福に生かされて、
いつ死んでも極楽往生間違いない身に
救い摂られることこそ、人生究極の目的です。

最も大切な、生きる目的を知らず、
無明の闇を抱えたまま死に急いでも、
幸せにはなれません。

釈尊はそれを、
「従苦入苦 従冥入冥」
(苦より苦に入り、やみよりやみに入る)

と『大無量寿経』に説かれています。

真っ暗な心のまま死ねば、
後生もまた暗黒なのです。

苦しみの世界へ自ら進んで飛び込んでゆくのは、
愚かの中の愚かな行為です。
まさに、飛んで火に入る夏の虫。
自ら火中に身を投じ、
さらに大きな苦しみを受けるのは、愚の骨頂です。
何のために生まれてきたのか、
深く知らなければなりません。

人生の目的は、「破無明闇」ただ一つ。
人間に生まれてよかった!と喜べる世界があることを
親鸞聖人は生涯叫んでいかれたのです。
 


タグ:江藤淳
nice!(30)  トラックバック(0) 
共通テーマ:ネットコミュニティ

親鸞聖人が教えられたほんとうの「大往生」 [なぜ生きる]

親鸞聖人が教えられた
      ほんとうの「大往生」

浄土真宗では毎年、親鸞聖人のご命日(11月28日)を
中心に「報恩講」が開かれます。
誰もが知りたい「なぜ生きる」の答えを、
明示してくだされた聖人のご恩に報いる集まりです。

真宗の年間行事でも、特に大事なご法縁ですから、
古来、篤信(とくしん)な人は、他の用事を差し置いても
必ず参詣していました。
今日、平成の私たちが聖人の深きご恩を知り、
感じ、報いるには、まず教えをよく知ることが大事です。
今回は報恩講をご縁に、
聖人の教えを聞かせていただきましょう。

●死ねば誰でも
     「往生」できるのですか?

世界的なヒット曲『上を向いて歩こう』(歌・坂本九)
の作詞者として知られる永六輔さんが、
7月に亡くなりました。
永さんといえば、約20年前、
200万部超えのベストセラーとなった『大往生』が有名です。
その執筆動機を、「まえがき」にこう述べています。
かつて回答者を務めていたラジオの
「子供電話相談室」で、
「どうせ死ぬのに、なぜ生きるの」と質問され、
絶句したことがある。
その子の疑問に答える本にしたい、と。
そして本の最後に、
「人は死にます
必ず死にます
その時に
生まれてきてよかった
生きていてよかったと思いながら
死ぬことができるでしょうか
そう思って死ぬことを
大往生といいます」
と記しています。
“生まれてきてよかった”という喜びと感謝で
人生を終えるのが「大往生」であり、
質問した子への答えだと言いたかったのでしょう。

●「往生」の誤解いろいろ

それほど売れた『大往生』ですが、
20年たった今も、往生の本当の意味を知らない人がほとんどです。
例えば、「隣のお婆さん、今朝往生したそうな」
「台風で電車が立ち往生した」
「車が突然、故障して、往生した」
など、「死ぬ」「動けなくなる」「困る」の意味で
使う人が少なくないのです。
本来「往」にも「生」にも、
そんなマイナスな意味はありません。
「往生」とは、阿弥陀仏の浄土へ「往(ゆ)」き、
仏に「生」まれること。

これは親鸞聖人の教えの重要なキーワードですから、
よく知っていただきたいと思います。

IMG_20161024_0001.jpg-1.jpg

終末期患者の心のケアの重要性を、
8月下旬、NHKの『クローズアップ現代+』が
「“穏やかな死”を迎えたい~医療と宗教 新たな試み~」
というタイトルで特集していました。
死に直面すると、
「死んだらどうなるのか」
「私の人生の意味は?」
という切実な問いが、患者の心に湧き起ってきます。

これを「スピリチュアルペイン」といいます。
生命の根元にかかわる深い痛み」であると、
本誌2月号で、真野鋭志医師のコメントとともに取り上げました。
この深刻な「スピリチュアルペイン」を、
患者はこれまで、“家族に心配をかけたくない”
“医師の手を煩わせたくない”などの理由で、
なかなか口に出せなかったといいます。
それが今、人生の最も重要な問題として、
正面から取り上げられつつあるのです。
仏教では「死んだらどうなるか分からぬ心」を、
「無明の闇」とか「後生暗い心」といわれ、
苦しみの根本と教えられています。

真の往生は、この暗い心が破られ、
「後生明るい心」にならなければできません。

番組では、このような終末期患者の心を専門的にケアする
「臨床宗教師」の取り組みを通して、
すべての人に宗教が必要であると訴えていました。
しかし、患者の死後のイメージに同調することで、
死の不安や恐怖を和らげることはあっても、
肝心の“どうすれば往生できるのか”に、
明らかな答えは示されませんでした。

●「往生」は今、定まる

これについては親鸞聖人は、
こう断言されています。
どんな人でも、大宇宙最尊の本願に救い摂られれば、
必ず無量光明土(極楽浄土)に往生できるのだよ
”と。
阿弥陀仏とは、大宇宙にまします
諸仏方の本師本仏(先生)である仏さまのこと。
本願とはお約束のことで、
阿弥陀仏は、次のように誓われています。

「すべての人を
   必ず絶対の幸福に助ける」

「絶対の幸福」とは、現在ただ今、
いつ死んでも浄土往生間違いなし(往生一定)と
ハッキリ定まった大安心のこと。
浄土に往生するのは肉体の死後ですが、
往生が確定するのは、この世で弥陀の本願に救い摂られた時なのです。

それを親鸞聖人は、
信心の定まるとき往生また定まるなり
             (末灯鈔)
と教示されています。
この阿弥陀仏の本願を聖人は、主著『教行信証』の冒頭に、
「難度海を度する大船」と仰っています。

●荒波絶えぬ人生の海

「難度海」とは、苦悩の波の絶えない私たちの人生を、
親鸞聖人が、荒波の絶えない海に例えられたお言葉です。
人生、苦悩の波間から、こんな嘆きの声が聞こえてきます。
「10年前に妻をガンで亡くし、65歳で退職、今は独り暮らしです。
2年前に私も宣告を受けました。
手術は成功しましたが、余命は少ないので、
趣味があってもむなしく、毎日の食事、ガランとした自宅にも嫌気が差し、
マンションから下を見れば飛び込みたい気持ちになることも・・・」
「人間関係、親子関係、孫の教育などで、
胃が痛くなるほど苦しく、パニックになりそうです。
『なぜ生きる』と考えると涙が出ます」
私たちは生まれると同時に、
空と水しか見えない大海原へ放り出されたようなもの。
30年以上、助産婦を務めたある女性が、こう語っていました。
「赤ん坊が生まれて、私たちがまずするのは、
お母さんの体内から出たばかりの赤ちゃんの顔を覆っている
ヌルヌルのものをきれいに拭き取ること。
そして息ができるようにするのです」
ヘソの緒を切ると、母親から酸素が来なくなりますから、
赤ん坊は自分で呼吸しなければならない。
オギャーと泣きながら、赤ん坊は必死に呼吸し、生きようとする。
荒海を泳ごうとしているのです。
しかし、どこへ向かって泳ぐのか。
どんなに一生懸命に泳いでも、方角の立たぬまま、
むやみやたらに泳いでいれば、
やがて心身ともに力尽き、土左衛門になるのは明らかです。

ここで、映画『なぜ生きる』の蓮如上人のご説法をお聞きしましょう。

IMG_20161024_0002.jpg-1.jpg

蓮如上人「みなさん。私たちはやがて必ず、土左衛門にならねばならぬのに、
どう泳げばよいのか。泳ぎ方しか、考えておりません。
私たちは生まれると同時に、どう生きるかに一生懸命です。
少しでも元気がないと『頑張って生きよ』と、
励ますでしょう。
だが、少し考えてみれば、おかしなことです。
やがて必ず死なねばならないのに、
なぜ苦しくても生きねばならないのでしょうか。
おかしな話ではありませんか。
この私たちの、最も知りたい疑問に答えられたのが、
親鸞聖人なのですよ。
親鸞聖人はね。どんなに苦しくても、生きなばならぬのは、
私たちには、とっても大事な目的があるからだと、
懇ろに教えられています。
その肝心の、生きる目的を知らなければ、
生きる意味がなくなるではありませんか、みなさん」

●「あなたの生きる目的は?」

ここで蓮如上人が仰る、
生きる目的を知らなければ、生きる意味がなくなる
とはどんなことなのでしょう。
そもそも私たちは、何を目的だと思って生きているでしょうか。
「あなたの生きる目的は?」
と聞かれたらどう答えますか。
例えば子供なら、学校に通って勉強するとか、
友だちと遊ぶことだと思っているでしょう。
中にはいじめられて、学校に行きたくない、いっそ、
「早く卒業したら幸せになれる」と思って
ガマンしている子も少なくないようです。
現在、不登校は全国で12万人に上るといわれています。
子供は無邪気“気楽でいいよな〟と大人は思っていますが、
子供は子供なりに苦しみ悩みながら生きているのです。
ようやく学校を出て、青年になると、
関心は「異性」に向く。
勉強、趣味、遊び、どんな時も、
男は好きな女の前ではカッコよくふるまいたくなる。
多くの小説やドラマが恋愛をテーマにしているのも、
誰もが
「恋人ができたら幸せになれる」
と思っているからでしょう。

適齢期になると、いよいよ「婚活」に力が入る。
「結婚したら幸せになれる」
と金剛のごとく信じ、気の合う相手を求め、
“キミと一緒なら、金も財産も、何も要らない”
とのろけてプロポーズ。
結婚して子供が生まれれば、今度は育児中心の人生に。
母親だけでなく、育児能力の高い父親「イクメン(育児男子)」
が最近は増えました。
「子供が立派に育ったら幸せになれる」
と夫婦で一心に我が子の成長を願い、
子育てに手間、ヒマ、お金をかける。
教育費のために仕事に励み、マイホームを夢みて今度は、
「家が持てたら幸せになれる」
と、さらに仕事に熱中していきます。
そうして家族や会社に身をささげて退職。
加齢で身体が衰えると、
健康維持や病気の快癒に心を砕くようになる。
「健康になったら幸せになれる」
とリハビリに精を出す。
いよいよ最後は、
「子孫に財産を遺せたら、オレの人生も意味があったのかな」
と、一生を総括しようとする。

●人生には
    いろんな「坂」がある

このように人生が進むにつれ、
「生きる目的」と思っているものも変わってきますが、
求める苦労は坂道を上るように続くと、
都はるみさんは「夫婦坂」で歌っています。

「この坂を 越えたなら
しあわせが 待っている
そんなことばを 信じて
越えた七坂 四十路坂」

IMG_20161024_0003.jpg-1.jpg

人生にはいろいろな坂がある。
その都度、上り切った満足や安心はありましょうが、
喜びは一時のもので、すぐまた新たな急坂を、
ヨロメキながらも上っていかねばなりません。
どこまで頑張って坂を越えたら、
本当の幸せが待っているのでしょうか。
キリのない登坂の人生を古歌に、

「越えなばと 
思いし峰に きてみれば
なお行く先は 山路なりけり」

と歌っています。
このように、時の経過とともに変化するものは「生き方」「生きる手段」であって、
人生の真の「目的」ではないと、仏教では教えられます。
難度海でいえば、丸太や板切れを求める「泳ぎ方」の問題なのです。
蓮如上人が先のセリフで、
私たちはやがて必ず、土左衛門にならねばならぬのに、
どう泳げばよいのか。
泳ぎ方しか、考えておりません。
私たちは生まれると同時に、どう生きるかに一生懸命です

と喝破されているのはこのことです。
本当の生きる目的は「なぜ生きる」の答えを知らぬ私たちが、
常に問題にしているのは、より大きな丸太に
“どうたどり着くか”坂なら“どう上るか”、
人生なら“どう生き延びるか”の方法・手段なのです。
その生き方の指南役が、政治や経済、科学や医学、
芸術やスポーツなどといえましょう。
人は皆、「どう生き延びるか」に全知全能を傾けているのです。

●生きることは
     “ムダな抵抗”か

しかし、私たちが忘れてならないのは、
すべての人は、どんな生き方をしても、
やがて必ず死なねばならぬということです。

立て籠もり犯の周囲を取り囲んで、刑事が説得する。
「おまえは包囲されている。
無駄な抵抗はやめて出てきなさい」
もう逃げ場はない。早くアキラメて投降せよ、と。
私たちの営みは、つまるところ「生き延びる」ための努力ですが、
勝ち切ることのできない、必ず「死」によって敗北する闘いです。
この厳粛な事実にぶち当たった時、
冒頭で紹介した子供の質問、
「必ず死ぬのに、なぜ生きるの?」
に、大人も絶句するのです。

苦労して坂道を上り続けた人生の終末が、
「ああ、苦労の連続だったなぁ。報われない人生だった」
で幕が下りては、何と悲しいことでしょう。

それは人生の「目的」と「手段」を取り違えたがゆえの悲劇です。
では真の人生の「目的」とは何か。
この問いに、明らかな解答を示されている方が、
親鸞聖人なのです。

 「大悲の願船に乗じて
光明の広海に浮かびぬれば、
至徳の風静かに、
衆禍の波転ず

    (教行信証)

聖人の顕示された大悲の願船(阿弥陀仏の本願)に、
今、乗せていただき、「ああ、なんと素晴らしいことなのか」
と生命の歓喜を獲得する。
これが「なぜ生きる」の答えであり、唯一絶対、
万人共通の人生の目的なのです。

この目的を知って初めて、
「生きる」という手段に意味が生じますから、
映画の中で蓮如上人
肝心の、生きる目的を知らなければ、生きる意味がなくなる
と仰っているのです。

●願うべき未来は「浄土往生」

はかない人生の実相が身にしみて知らされた人は何を感ずるか。
蓮如上人は『御文章』に、こう仰せです。
「それ、秋も去り春も去りて、年月を送ること昨日も過ぎ今日も過ぐ。
いつの間にかは年老の積るらんとも、覚えず知らざりき。
然るに、其の中には、然りとも或いは、
花鳥・風月の遊びにも交わりつらん、
また歓楽・苦痛の悲喜にも遇いはんべりつらんなれども、
今にそれとも思い出すこととては一もなし。
ただ徒に明し、徒に暮らして、
老の白髪となり果てぬる身の有様こそ悲しけれ。
されども、今日までは無常の烈しき風にも誘われずして、
我が身ありがおの体をつらつら案ずるに、
ただ夢の如し。
今に於いては、生死出離の一道ならでは、願うべき方とては、
一もなく、また二もなし」
             (御文章4帖目4通)

目指すは「生死出離の一道」のほかにありません。
死ぬことを「旅立つ」「他界する」とよくいわれます。
今生の旅を終え、後生(来世)へ旅立つことです。
仏教では、私たちの肉体はこの世限りだが、
三世を貫いて流れている不滅の生命があると説かれています。

「三世」とは過去世、現在世、未来世のこと。
過去世は親、現在世は私、未来世は子供という三世代の意味ではなく、
私たち一人一人の生命が三世を貫いているのです。
日頃は、“来世などあるものか”と言っている人も、
いよいよ死が近づくと、とても無になってしまうとは思えず、
死後の世界を否定できないのは、
深い人間性からくるものです。

来世を認めぬはずの共産思想家の周恩来が臨終、
肉体の苦痛にあえいでいると、
盟友の毛沢東が見舞って励ました。
周は、“今は苦しいが、もうすぐマルクスに会える”
と言ったといいます。
自らの信条に従えば、出ようのない言葉ですが、
死の巌頭に立ち、後生を予感して、
こう言わずにおれなかったのでしょう。
私たちが人間に生まれてきた目的は、
この世だけでなく、三世にわたって変わらぬ多生の目的なのです。

噫(ああ)、弘誓の強縁は多少にも値(もうあ)いがたく、
真実の浄信は億劫にも獲がたし

            (教行信証)
ああ・・・何たる不思議か、親鸞は今、
多生億劫の永い間、求め続けてきた
歓喜の生命を得ることができた。これは
全く弥陀の強いお力によってであった

かつて体験したことのない驚きと歓喜を、
「噫」と感嘆されています。
「弘誓の強縁」とは、“すべての人を絶対の幸福に救う”
熱烈な弥陀のお力をいいます。
弥陀の救いは、この世、一生だけの問題ではなかった、
過去無量劫、果てしなく生死生死を繰り返し、
未来永遠に流れていく不滅の生命の根本解決であったと知らされる
から、
「多生にも値(もうあ)いがたし」「億劫にも獲がたし」と言われているのです。
これは決して夢物語ではない。
弥陀の強縁によって、誰もがその身に救われるのだと、
聖人ご自身が大悲の願船に乗じられて仰ったお言葉を、
最後にもう一度、お聞きしましょう。

大悲の願船に乗じて、光明の広海に浮かびぬれば、
至徳の風静に、衆禍に波転ず。
即ち無明の闇を破し、速やかに無量光明土に到りて、
大般涅槃を証し、普賢の徳に遵うなり。知るべし

             (教行信証行巻)

大悲の願船に乗せていただいたら、
つらく苦しい人生が、千波万波きらめく光明の広海に浮かぶ人生に、
ガラリと転じ変わった。
一念で無明の闇(死んだらどうなるかハッキリしない、後生暗い心)
が照破され、後生明るい心になって、
一息切れると同時に、無限に明るい極楽浄土に往生し、
弥陀同体の仏になるのだ、と仰っています。
この世で絶対の幸福に救われた人だけが、
本当の「大往生」ができるのです。

その身に早くなるよう、
真剣に阿弥陀仏の本願を聞かせていただきましょう。

それが親鸞聖人の深いご恩に報いる真の報恩講となるのです。


nice!(14)  トラックバック(0) 
共通テーマ:資格・学び

そうだ、お盆には仏教を聞こう。 [なぜ生きる]

 

そうだ、
   お盆には
     仏教を聞こう
 

 

“お盆”は仏教なの?
日本の夏といえば「お盆」。
古来、この季節には先祖の霊が帰ってくるといわれます。
お盆とは仏典の『仏説盂蘭盆教』から転じた言葉です。
各地に残っている迎え火や送り火、
墓参りや盆踊りなど種々の風習も、
仏教から出たものと考えられており、
日本人の仏教観にも大きく影響しています。
お盆とはどんなことか、
私たちはどう過ごせばいいのでしょうか。
親鸞聖人にお聞きしましょう。

・・・・・・・・・・・
ある人からこんな話を聞きました。

毎年、お盆の前には父に連れられて、
先祖代々の墓に家紋入りの灯篭を立てに行きました。
「お父さん、何でこれ立てるの?」
「わが家の墓はここだぞ、という目印だ。
死んだじいさんや、ばあさんの霊が迷わんようにな」
「ふーん」
そんなもんかと思って聞いていました。
お盆の間、灯篭は明々とともり、
終われば、また片付けに行ったものです。

IMG_20150527_0002.jpg-1.jpg

お盆の前には迎え火をたき、
最終夜は盆踊りや送り火をする。
地方によってスタイルや呼び名は違いますが、
こんなやり取りが、日本の夏の風物詩となっているようです。
それらの慣習の根底には、先祖や死者の霊が、
お盆の期間中は帰ってくる、という考えがあります。
そして“これが仏教”と多くの人は思っています。

ところが、お釈迦さまや親鸞聖人、蓮如上人の教えを聞かせていただくと、
こうした風習と仏教の教えとは、
相いれない部分があると分かってきます。

事実、前記のような慣習は、
浄土真宗には本来ありません。
なぜなら、平生、弥陀に救われている人は、
死ねば必ず浄土へ生まれて大活動するから、
「我が歳きわまりて、安養浄土に還帰す」
(親鸞、死ねば弥陀の浄土に還る)
と聖人も御臨末に仰って、
墓の下には戻ってこないのだ、と教えられています。
また、弥陀に救われていなければ、
善因善果、悪因悪果、自因自果の因果の道理によって、
まいた因に応じた結果を、後生、
永く受けなければなりません。
ですから親鸞聖人や蓮如上人は、
死者の霊が墓に帰ってきたり、
また出かけて行ったりできるものでは絶対ないと、
これらの俗信を打ち破っていられるのです。

●無常を念ずる勝縁に

ならば墓参りは一切不必要で、無意味なのかといえば、
心構えさえ正しければ故人をしのび、
自身の無常を念じる得難いご縁となりますから、
弥陀の救いに値う勝縁となりましょう。

この「無常を念ずる」とは、どんなことでしょうか。
「無常」とは「常が無い」と書き、
絶えず変化することをいいます。
私や私を取り巻く一切は、
一時として常住しないものばかりです。
五月に話題になった「金環日食」は
数百年に一度、見られるか否かの天体イベントでしたが、
太陽をはじめ宇宙が刻々と変動している証でしょう。
外界のみならず、私の肉体も心も、同様に無常ですが、
とりわけ生きている私の最大の変化は「死」ですから、
無常の「死」の意味で使われるのです。

●切々たる無常観

「死」を、自己の確実な未来とみていく無常観は、
仏法の原点です。
室町時代に活躍された蓮如上人は、
有名な『白骨の御文章』に、
人の世の無常を切々と訴えられました。
「それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、
凡そはかなきものは、この世の始中終、幻の如くなる一期なり」
(浮草のような人間の一生をよくよく眺めてみると、
人生とは何と儚く、幻のようなものか)

人の一生を、まず「浮生(浮いた草)」と仰っています。
根っこのない浮き草が
風に流され漂っているようなものということです。
この世のどんな成功者も、
財や物に恵まれている人も、
人生の本質は皆浮生だと教えられます。
火宅無常の世界は、万のこと皆もって
空言・たわごと・真実あることなし

有名な『歎異抄』の親鸞聖人の仰せです。
「火宅」とは火のついた家。
隣から出た猛火が、まさに自宅のひさしに燃え移った時、
のんびり晩酌しながらテレビを見ていられるでしょうか。
人生が火宅のような不安に覆われているのは、
一切が無常だからです。

健康、金や財産、地位や名誉、家族や恋人など、
私たちが日々求めている全ては、
今日あって明日なき幸せ。

太陽や月が刻々と動いているように、
絶えず変転しています。
手に入れた瞬間から、滅びに向かっていくものばかりですから、
「万のこと皆もって空言・たわごと・真実あること無し」とも
「浮生」ともいわれるのです。

IMG_20150527_0003.jpg-10.jpg

今なお、毎年多くの交通事故死があります。
京都で無免許運転の少年が居眠りして
通学中の子供の列を襲い、
格安高速バスの運転手が早朝、
居眠り運転で壁に突っ込む。
多くの命が犠牲となりました。
思わぬ自然災害も起きています。
5月、茨城で突然竜巻が発生し、
自宅にいた中学生が亡くなりました。
コンクリートの基礎ごと巻き上げられた家が、
逆さまに地面にたたきつけられたといいます。
自宅にいてさえも、突発的に命を落とす。
まさに「朝に紅顔、夕に白骨」で、
この世のどこに、100パーセント安全な場所がありましょうか。

●後生の一大事
    心にかけよ

誰もが逃れがたい無常を教えられた『白骨の章』の最後を、
蓮如上人はこう締めくくられています。

「誰の人も、はやく後生の一大事を心にかけて、
阿弥陀仏を深くたのみまいらせて、念仏申すべきものなり」

死は万人に訪れる。だから、何人<なんびと>も早く、
後生の一大事を心にかけて阿弥陀仏の救いを頂きなさい

仏法を求める目的は、実にこの「後生の一大事」の解決にあり、
それは万人共通の問題なのだよと示されています。

では、「心にかけよ」と言われる
「後生の一大事」とはどんなことなのでしょうか。

人生を飛行機の旅に例えるならば、
誕生した時が離陸の時。
二十歳の人は20年前に、六十歳なら60年前に飛び立ったということです。
ひとたび飛び立った飛行機は一刻も止まらず、
猛スピードで飛び続けねばなりません。
では、人生という飛行機はどこへ向かって飛んでいるのでしょう。

「世の中の 娘が嫁と 花咲いて
 嬶としぼんで 婆と散りゆく」
禅僧・一休は女性の一生をこう詠んだ。
若くて楽しい娘時代。
箸が転んでもおかしい年頃ですから、
女偏に良いと書きます。
やがて見初められて花開く結婚、
家に入って嫁となります。
子を産み、どっしりたくましくなれば、
鼻高々と嬶です。
婆さんを待たずに病死や事故死する人もありますが、
幸せに生き延びても、必ず死を迎えることは変わりません。
男も呼び方が違うだけで、誰もが同じ道をたどります。
生きるとは、死に向かっていくということにほかならず、
飛行機なら必ず降りねばならぬ、ということなのです。

IMG_20150527_0004.jpg-1.jpg

ところが、そんな飛行機に乗っている私たちは、
「いずれ降りねばならないことは、分かっているけど・・・」
と言いながら、どこに向かい、どこに降りるのかハッキリせぬまま、
人生のフライトを続けています。

「差し当たり今は公私ともに順調。
そこそこ快適だし、このまま飛んでいけばいいんじゃないの?」
ところが、そんな快適な旅の最中に、
こんなアナウンスが流れたらどうでしょう。
皆様、当機は現在、上空1万メートルを航行中です。
しかし、目的地は分からず、着陸地も見当たりません。
燃料はあと5時間でございます。
それまでの間、皆様、映画やお食事、ゲームやショッピングなど
快適な空の旅を、ゆっくりお楽しみください・・・

こんなナンセンスな飛行機に、誰が乗り込むでしょう。
しかし、どこに向かって生きるか分からない人生は、
こんな不条理な飛行機の旅と、どこが違うでしょうか。

この「どこに向かって生きるか分からぬ不安」を
後生の一大事といいます。

IMG_20150527_0005.jpg-1.jpg

「死期はついでを待たず。
死は前よりしも来らず、かねて後ろに迫れり。
人皆死あることを知りて、待つこと、
しかも急ならざるに、覚えずして来る」
        (徒然草)
死の時期は順番を待たない。
死は前からだけ来るのではない。
いつの間にか背後に迫っているものだ。

人は皆、自分もいずれ死ぬと知りながら、
そうとは思わぬうちに、突然死んでいかねばならないのである

兼好法師が言うように、死は前後だけでなく、
上からも下からも、いつどこから襲ってくるか分かりません。
「あと○日」と余命宣告を受けた人だけが死んでいくのではありません。
生に酔いしれている私たちが、思っていないとき、
突然ドカドカと土足で座敷に上がり込んでくるのが死というものなのです。

●釈迦の結論は?

降りる場所のない飛行機のような不安を抱えた私たちが、
真に救われる道を、お釈迦さまはどう教えられているのでしょう。

それが仏教の結論である
「一向専念 無量寿仏」
の教えです。

「無量寿仏」とは、大宇宙の諸仏方に
本師本仏と仰がれている阿弥陀仏のこと。

その阿弥陀仏は、
「全ての人を、いつ死んでも
往生一定(必ず浄土往生できる身)に救う」
と誓われています。

この弥陀の本願(お約束)によらねば、
我らの後生の一大事助かる道は二つも三つもないのだ。
だから弥陀一仏を信じよ、とお釈迦さまは勧められているのです。

阿弥陀如来を一筋にたのみたてまつらずば、
末代不善の凡夫、極楽に往生する道、
二つも三つもあるべからざるものなり

         (御文章二帖)
心を一にして、阿弥陀仏を深くたのみまいらせて、
更に余の方へ心をふらず、一心一向に、
『仏助けたまえ』と申さん衆生をば、
たとい罪業は深重なりとも、
必ず弥陀如来は救いましますべし

         (御文章五帖)
阿弥陀仏をたのめば、どんな罪悪深重の者でも
必ず浄土往生できるのです。

そこで、肝心の「阿弥陀仏をたのむ」とは、
どんなことなのでしょう。

「たのむ」は今日「お願いする」の意味で使われますが、
「御文章」の「たのむ」は、
そんな祈願請求の意味ではありません。
「憑む」と書いて「あてにする」「たよりにする」「うちまかせる」
という意味なのです。

「私の後生の一大事、助けてくだされる方は、
大宇宙でただお一人、阿弥陀仏だけであった」
と自力のはからいを全て捨てて、
弥陀にまかせ切ったことを、「阿弥陀仏をたのむ」といわれているのです。

「ただ一念に弥陀をたのむ衆生は、
皆ことごとく報土に往生すべきこと、
ゆめゆめ疑う心あるべからざるものなり」
           (御文章五帖)
朝から晩まで、はからい満足のために欲に追い回されて、
静かに自己の脚下を見る時がない。
忙しくなればなるほど、人生を振り返る間が必要です。

一年に一度、静かにお盆の墓前にぬかずくことは、
人生を見つめる得難い機会になることは間違いありません。
「オレも、必ず死なねばならぬのか」
と、生死の一大事に触れて、厳粛な思いがするでしょう。
酔生夢死で終わってはならぬ。
必ずこの法を聞き抜くぞ、と、
聞法の勝縁とするならば、有意義なお盆となるでしょう。


nice!(17)  トラックバック(0) 
共通テーマ:資格・学び
前の10件 | - なぜ生きる ブログトップ