SSブログ
道綽禅師 ブログトップ

弥陀に救われると何が変わるのか!(道綽禅師) [道綽禅師]

(真実の仏教を説かれている先生の書かれた「とどろき」より、正信偈の解説を載せています。)


三不三信誨懇懃(さんぷさんしんけおんごん)


親鸞聖人が大変尊敬しておられる、中国の高僧・道綽禅師

教えられたことを書かれている一行です。

「三不・三信の誨(おしえ)、懇懃(おんごん)にして」

と読みます。

「三不・三信の誨」とは、「三不信」と「三信」の「教え」のこと。

「懇懃にして」とは、その教えを詳しく、

丁寧に教えられた、ということです。

道綽禅師が、三不信と三信の教えを、

懇ろに教えてくだされたおかげで親鸞、弥陀に救われたのだ。

ご恩を喜ばずにおれない

と、褒めたたえておられるお言葉です。


では、「三不信」「三信」とは、どういうことか。

一言で言いますと、

「三不信」とは「弥陀に救われない前の心」、

「三信」は「弥陀に救われた後の心」のこと。

すなわち、

弥陀に救われない前と、救われた後とでは、

どう変わるのか」を明らかにされた教えが、

「三不・三信の誨(おしえ)」です。

そこで、「弥陀に救われる」とはどんなことか。

繰り返し述べてきましたが、

これ以外に仏法はない、という大事なところなので、

重ねて確認しましょう。


●弥陀に救われた、とは


「弥陀に救われた」とは、

弥陀の誓願によって、絶対の幸福に救い摂られたこと

をいわれます。

「弥陀の誓願」とは、本師本仏の阿弥陀仏が、

「すべての人を 必ず助ける 絶対の幸福に」

と誓われている、お約束のことです。

「絶対の幸福」とは、いつ死んでも必ず弥陀の浄土へ往ける、

「往生一定」の身になったこと。

絶対に壊れない大安心、色あせることのない大満足だから、

『歎異抄』には「摂取不捨の利益」と言われています。

「摂取不捨」とは文字どおり“摂め取って捨てぬ”ことであり、

「利益」は“幸福”をいいます。

“ガチッと摂め取られて、捨てられない幸福”を

「摂取不捨の利益」と言われるのです。

私たちは、健康や家族、地位や名誉から

捨てられるのではなかろうかと、

戦々恐々してはいないでしょうか。

「定年を迎えた途端に、

妻から離婚状を突きつけられるんじゃないか」

「家族を犠牲にしてまで働いてきたのに、

会社に捨てられるのではなかろうか」

「大地震が世界各地で起きているが、

今度は自分のところじゃなかろうか」

「歌手の本田美奈子さんが白血病で亡くなった。

38歳だそうだ。最近オレも心臓の辺りが痛むが、

突然倒れたりはしないだろうか」

「小学一年の女の子が殺された。かわいそうになあ。

全く物騒な世の中だ。いつ何どき、

うちの子が事故や犯罪に巻き込まれるか分かったものじゃないな」

などなど、幸福に見捨てられるのではなかろうかと、

薄氷を踏むようにいつも不安におびえている。

捕らえたと思った楽しみも一夜の夢、

握ったと信じた幸福も一朝の幻、

線香花火のように儚いものだと知っているからです。

たとえしばらくあったとしても、やがて、

すべてから見放される時が来ます。


IMG_20220515_0001.jpg

蓮如上人の遺訓を聞いてみましょう。


まことに死せんときは、かねてたのみおきつる妻子も財宝も、

わが身には一つも、相添うことあるべからず。

されば、死出の山路の末・三途の大河をば、

ただ一人こそ行きなんずれ。

              (御文章


今まで頼りにし、力にしてきた妻子や金や物も、

いよいよ死んでゆく時は、何一つ頼りになるものはない。

すべてから見放されて、一人でこの世を去らねばならない。

丸裸で一体、どこへゆくのだろうか

宝くじで四百億円当てた老夫婦が話題を呼びましたが、

後生へは1円玉一つ持って行けません。

天下を取り、栄耀栄華を極めたあの豊臣秀吉も、

死んでいく時には、「難波のことは夢のまた夢」。

夢の中で夢を見ているような、

儚いものでしかなかったと、

寂しくこの世を去っています。

咲き誇った花も散る時が来る。

死の巌頭に立てば、必死にかき集めた財宝も、

名誉も地位も、すべてわが身から離れ、

一人で地上を去らねばなりません。

念々刻々、こんな大悲劇に向かって生きている私たちを、

「必ず“絶対の幸福”に救ってみせる」

と、命を懸けて誓われているお約束が「弥陀の誓願」であり、

その誓いどおりに「絶対の幸福になった」ことを、

「弥陀に救われた」と言うのです。

親鸞聖人は『教行信証』冒頭に、

弥陀に救い摂られた自らの体験を、

こう告白されています。


まことなるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法


まことだった!本当だった。弥陀の誓いにウソはなかった


「摂取不捨の真言」も「超世希有の正法」も、

ともに「弥陀の誓願」のことであり、

「まことなるかなや」とは、

その弥陀の誓願に、露チリほどの疑心もなくなった聖人の、

真情あふれる歓喜の叫びです。

“必ず浄土に往ける”大満足の身になった「往生一定」の

表白です。

この弥陀の救いに遇い、生命の大歓喜を得れば、

どんな地震が起きても崩れない、

津波で流されることもない、火事で焼けることも、

盗まれることもないピンピン輝く無上の幸福に生かされ、

「人身受け難し、今已に受く」(釈尊)

“人間に生まれてよかった。これ一つのための人生だった”

と、人生の目的がハッキリするのです。


このように、

「弥陀の誓願力によって、未来永遠の幸福に救い摂られたこと」

を、仏教で「信心決定(しんじんけつじょう)」といわれ、

「弥陀に救われない前」を「信前」、

「弥陀に救われた後」を「信後」といわれます。

また、信前を「自力」、信後を「他力」の世界ともいわれます。

信前は、飛んでも跳ねても何を思っていても「自力」です。

信後は、死ぬまで他力

未来永遠に「他力」です。

自力は絶対に出てきません。

この鮮やかな、信前信後の変わり目、

自力他力の水際を、道綽禅師が明らかにされた教え、

これが「三不信と三信の誨(おしえ)」なのです。
(自力とは仏教から出た言葉で、無明の闇、死んだらどうなるか分からない心のことです。決して自分の力とか努力を言うのではありません。また他力とは、阿弥陀仏の本願力のことです。)


IMG_20220515_0002.jpg


●弥陀に救われない前・・・三不信


「三不信」とは、「信前(自力)」の心の相を、

三方面からいわれたもの。

「不」とは、欠点・欠陥ということですから、

「自力には三つの欠点がある」ことを、

「三不信」と言われています。それは、

不淳(淳からず)

不一(一ならず)

不相続(相続せず)

の三つであると、親鸞聖人は「ご和讃」に、

次のように教えておられます。


○一つは、信心淳からず 若存若亡するゆえに

○二つは、信心一ならず 決定なきゆえなれば

○三つは、信心相続せず 余念間故とのべたまう


◆不淳(あつからず)

「淳からず」とは、厚くない、薄いということです。

薄いとは、浅いのです。

「浅い」から「若存若亡」するのだと言われています。

若存若亡」とは、「ある時は助かるように思い、

ある時は助からないように思う」ことです。

ある時は弥陀に救われたように思って、

明るい気持ちになりますが、

イヤーな心が出てくると、

「こんなことでは、まだ助かっていないのではなかろうか」

と落ち込む。

仏法をスーッと理解でき、真剣に聞けたと思う時は、

「このままいけばもう少しで信心決定できるのではないか」

と思い、反対に、聞いていてもボーッとしたり、

他の事ばかりが思えてくると、

「これでは死ぬまで求めても助からんのではなかろうか」

「信心決定なんて自分にできるんだろうか」

とフラフラする。

このように、浮かんだり沈んだり、沈んだり浮かんだり。

喜んだり悲しんだり、このままなら極楽へ往けると思ったり、

地獄へ堕ちるのではないかと思ったり。

悲観したり楽観したり。

こんなことが一日の間に何度でも繰り返される。

常に動揺して、心が安らかではない。

不安なのです。安心できないのです。

このような「自力」の欠陥を、

「不淳(あつからず)」と言われているのです。


◆不一(一ならず)


「一ならず」とは、一つでない、ということ。

それは「決定(けつじょう)」がないからだ、

と言われています。

「決定(けつじょう)」とは「ハッキリした」「完成した」

ということですから、

「決定がない」とは「完成した」といいうことがない。

自力の信心決定には、「これで求まった」ということがない。

死ぬまで「卒業」がないから、

「人間に生まれたのは、これ一つであった」という

大満足のないことを、

「不一(一ならず)」と言われているのです。


◆不相続(相続せず)


「相続せず」とは、続かないこと。

信前は、「なんと有り難い」「あら尊い」

という思いが続かない。

「ああ、もったいない」「幸せだなあ」

という喜びが途切れてしまう。

それはいろいろな思い(余念)が間に入るからだ、

と言われているのが「余念間故(よねんけんご)」です。

「寺は照る照る 道々曇る 家に帰れば雨風じゃ」

の歌のごとく、法話を聞いている時は、

「ああ、有り難や」と喜んでいたのに、

帰りの道々、「さっき、何を聞いていたのかなあ」

と曇ってくる。

家に帰ると嫁が、言いつけておいた仕事をしていない。

「何じゃ、嫁は!」と怒りの炎が燃え上がり、

暴風雨のように心が荒れ狂うと、

「こんなことではなあ」と不安が出てきて、

喜びが続かない。

このように自力の信心決定には、

「淳からず(あつからず)」「一ならず(いつならず)」

「相続せず」と、三つの欠点があることを、

「三不信」と教えられているのです。


IMG_20220522_0001.jpg


●弥陀に救われた後・・・三信


これらの心が、弥陀に救われた後は、

煩悩の動いているままがことごとく光明に照らされて、

いつでもどこでも地獄は一定。

見抜かれておりながら噴き出る悪性に随犯随懺

(ずいはんずいさん)、随懺随犯(ずいさんずいはん)、

機に向けば常に懺悔、法に向けば常に歓喜せずにおれない。
(機とは自分自身のこと。法とは仏法のことです。)

堕ちるところは無間のどん底、登るところは五二段の仏覚、

私を離れて弥陀はなし、弥陀を離れて私なし、

堕ちて満足、助かって不思議、懺悔して卑屈にならず、

歓喜して高慢とならず、恵まれすぎていることに

感泣せずにおれなくなるのです。

この「弥陀に救われた後の心」を言われたのが

「三信」です。

「三不信」とはまるっきり反対、


○淳心

○一心

○相続心


の三つです。

「淳心」とは、弥陀に救い摂られて「若存若亡」の無くなった、

大安心のこと。

「一心」とは、「心が一つになった」こと。

信心決定して、「人間に生まれたのは、これ一つであった」

とハッキリしたのが「一心」。

「相続心」とは、永遠に変わらず続くこと。

どんな非難を受けようとも崩れない。

死を前にしても「浄土往生」の確信は微動だにもしない。

他力の信心は何ものも碍りとならない、

金剛不壊であることを「相続心」といわれているのです。


IMG_20220522_0002.jpg


●信前・信後の変わり目は、一瞬


このように「三不信」と「三信」とは、

弥陀に救われない前と、後との違い、

信前と信後の変わり目を、明らかにされた教えです。

親鸞聖人が「正信偈」に、

「三不三信誨懇懃」と言われているのは、

道綽禅師は、三不信と三信を詳しく丁寧に教えられ、

自力の信心と他力の信心の違いを、

ハッキリと教えてくだされたのだ

ということです。

ただここで誤解のないようにお話しておきましょう。

弥陀に救われた時に、「不淳」「不一」「不相続」

の三つの欠点が、この順番でだんだんと無くなっていく、

のではありません。

また、弥陀に救われた後、まず「淳心」になり、

続いて「一心」になり、最後に「相続心」になる、

のでもありません。

弥陀に救い摂られた瞬間に、

「三不信」は三つとも同時にきれいに無くなり、

同時に「三信」になるのです。

それは、「三不信」も体は一つ、

「三信」も体は一つだからです。

「体は一つである」ということは、

例えればこう言えるでしょう。

一人の人物を、横からと前からと、後ろからと、

三方向から撮影したようなもの。

写真は三枚になりますが、被写体は一人です。

三枚の異なる写真があるからといって、

三人の別の人物がいるわけではありません。

同様に、「三不信」は「自力の信心」を三方面から見られたもので、

体は一つ。

「三信」は「他力の信心」を三方面から教えられたもので、

体は一つなのです。

それぞれ、三つの違った心があるのではありません。

親鸞聖人はこれを、

「三つに分けては教えられているけれども、

三つあるとは思いなさるなよ、一つなのだよ」

とおっしゃっています。

IMG_20220522_0003.jpg



●「この世で救われた」ということが、あるのか


親鸞聖人が弥陀に救い摂られたのは、

二十九歳の御時でした。

以来、九十歳でお亡くなりになるまで生涯、

この弥陀の誓願、どうすれば伝えることができるかと、

弥陀の誓願まことだった!本当だった。

皆さん聞いてもらいたい、この親鸞が生き証人だ。

一日も早く、弥陀の誓願まことを知ってもらいたい」と、

寝ても覚めても叫ばずにおれなかったのです。

ところが、叫べば叫ぶほど、

「この世で救われたということなど、あるものか」

「信仰に、卒業や完成などない」

「死ぬまで求道が仏法だ」

と激しい非難攻撃の嵐が巻き起こりました。

その誤りを打ち破られ、

「あの道綽禅師も、救われない前はこうだ、

救われたら心がこう変わると、信前・信後の変わり目を

明らかに教えておられるじゃないか」

と反撃されているお言葉が、

「三不三信誨懇懃」

の一行なのです。

nice!(29) 
共通テーマ:資格・学び
道綽禅師 ブログトップ