SSブログ

新興宗教とどこが違うのか!? [Q&Aシリーズ]

 (真実の仏教を説かれている先生の書物「とどろき」から載せています。 )

「無明の闇を破るお力がある方は、
大宇宙広しといえども阿弥陀仏だけ」との説明は、
新興宗教の「わが教祖だけしか信じていけない」
というのと変わらないように思えるのですが。
            (茨城県・60代男性)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

(答え)
世間にはおかしな宗教がたくさんあって
迷惑されている人が多いので、

親鸞聖人は、「九十五種(仏教以外の宗教)世をけがす」
と仰っています。

ところで「無明の闇を破るお力があるのは
阿弥陀仏だけである」
と教えられたのは、仏のさとりを開かれ、
三世十方を貫く真理を体得された
“お釈迦さま”です。

仏陀・釈迦牟尼世尊(しゃかむにせそん)
と仰がれるように、

今日まで地球上に現れた人類の中で、
最も偉大なお方といっていいでしょう。

決して得体の知れない“教祖サマ”ではありませんよ。
お釈迦さまだけではありません。
大宇宙の無数の仏方が、
大絶賛されていることなのです。

無明の闇を破するゆえ、智慧光仏となづけたり
一切諸仏三乗衆 ともに嘆誉したまえり

阿弥陀仏の光明、智慧は無量で、
十方の諸仏が見捨てた私たちを
救うお力、智慧を持っていられるから、
一切の諸仏や菩薩方は
阿弥陀仏を智慧光仏といって、
褒め称えていられるのである

その仏教の真髄を
更に親鸞珍らしき法をも弘めず、
如来の教法(仏教)をわれも信じ
人にも教え聞かしむるばかりなり

と明らかにされたのが、親鸞聖人です。
隣のおじさんや新興宗教の言うこと(珍らしい教え)とは
全く違うのですよ。

 


nice!(17)  トラックバック(0) 
共通テーマ:ネットコミュニティ

私の人生観は間違いか [Q&Aシリーズ]

(真実の仏教を説かれている先生の書物「とどろき」から載せています。

(質問)私の人生観は間違いか

仏教では無常を見つめよと教えられますが、
毎日死ぬ死ぬと思っていては不安で楽しく生きられません。
私は死をなるべく考えないように生きたいと思っています。
こんな私の人生観は間違っていますか。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(答え)
あなたのような人生観を持っている人は
決して少なくないでしょうが、
真面目な人生観とは思えません。

「死や死後」の問題を近代合理主義は、
「知りえざるもの」として否定しましたが、
死滅しませんでした。
かえって、この問題は内攻して
近代人の大きな痛みとなっております。
死病にかかると不治だということを、
本人には知らせないことになっています。

近親者は「大丈夫です、すぐよくなると
先生はおっしゃっていますよ」
と口をそろえます。
この世の終わりに、
近親者から最大のウソをつかれて
死んでゆくのです。

それほど死は残酷なものだからでしょう。
だからあなたが死ぬ死ぬと思っていては、
楽しく生きられないとおっしゃるのはよく分かりますが、
どんなに死を考えないようにして
明るく生きようとしても、
百パーセントやってくる「死」からは、
完全に目をそむけることはできません。

●死を見つめ
  真に明るい人生を

麻酔薬は、一時、苦痛をやわらげてはくれますが、
麻酔が覚めたら苦痛と対面しなければならないように、
やがて、ゴマカすことのできない自分の死と、
自分だけで対面しなければなりません。

それで親鸞聖人は、

呼吸の頃(あいだ)すなわちこれ来生なり。
一たび人身を失いぬれば万劫にも復らず(かえらず)。
この時悟らざれば、仏、衆生を如何したまわん。
願わくは深く無常を念じて、
徒に後悔を胎す(のこす)ことなかれ

                 (教行信証行巻)

吸った息が吐けなかったら、
吐いた息が吸えなかったら来世である。
後生は遠い話ではない。
死ねば、二度と同じ人身に戻ることは
永遠にないのである。
今、この一大事を解決しなければ、
いつできるであろうか。
永遠のチャンスは、今しかないのだ。
されば、刻々と迫る無常を凝視して、
決して後悔を残すことがあってはならない

と教えられています。
一切の苦悩の根元である、
後生の一大事を解決して、
無碍の世界に雄飛しない限り、
私たちの求める光明の人生は開けないのです。
それは、弥陀の本願力によらなければ、
絶対果たし得ない大事業なのです。
この大事業を成就して、
死んでよし生きてよしの、
真に明るい人生を生きましょう。


 


nice!(7)  トラックバック(0) 
共通テーマ:ネットコミュニティ

そもそも仏教って何ですか? [Q&Aシリーズ]

仏教とはそもそも何ですか?

EPSON006.jpg-0.jpg

①仏教とは仏の説かれた教え

仏教とは、仏の教えと書くように
「仏さまが説かれた教え」をいいます。
では、この仏とは、どなたのことでしょうか。
世間では、「死ねば皆、仏」だと思い、
亡くなった人のことを「仏さま」と呼んでいますが、
もし仏=死人なら、仏教は、「死人が説いた教え」
になってしまいます。
死んだ人が、教えを説けるはずがありませんから、
これは大間違い、と分かりますね。
仏とは、
「仏のさとりを開かれた方」
をいうのです。

EPSON006.jpg-1.jpg

②最高のさとりを仏覚という

一口にさとりといっても、低いさとりから高いさとりまで、
五十二の位があり、これを
「さとりの五十二位」といわれます。

ちょうど相撲取りでも、下はふんどしかつぎから上は大関、
横綱までいろいろあるように、
さとりにも、ピンからキリまで全部で五十二の位があり、
それぞれ名前がついています。
その五十二のさとりの、最高の位を仏覚(仏のさとり)といい、
これ以上のさとりはありませんから無上覚ともいわれます。

さとりが一段違っても、
人間と虫けらほど境界(きょうがい)の差が
あるといわれますから、
五十二段の仏覚がいかに尊いものか、
分かるでしょう。

EPSON007.jpg-0.jpg

③さとりとは何をさとるの?

さとりとは何をさとるのかといえば、
大宇宙の真理です。

真理といっても、数学的真理や科学的真理ではなく、
すべての人が本当の幸福になれる真理です。
物は豊かになり、暮らしはずいぶん変わりましたが、
私たちは幸福になったでしょうか。
昔は大家族が多く、嫁と姑が人間関係の苦しみの代名詞でした。
今は核家族化が進みましたが、
職場や育児のストレスなどでやはり苦しんでいます。
平和な日本の空の下、イラク戦争より多くの人が毎日、
自殺しています。
これら苦しみの根本を解決し、
本当の幸せになれる道をさとられた方が、
仏さまです。

EPSON007.jpg-1.jpg

④地球上でただ一人の仏さま

さとりを開くことを山登りに例えますと、
一合目より二合目、二合目より三合目と、
登れば登るほど見える景色は広がっていき、
最後、頂上まで登り詰めた時、
辺り一面を見渡すことができるように、
仏覚まで到達した方だけが、
大宇宙の真理すべてを体得できます。

今日まで、仏のさとりを開かれた方は、
この地球上ではお釈迦さましかおられません。

約2600年前、インドで活躍されたお釈迦さまが、
35歳で仏のさとりを開かれてから
80歳でお亡くなりになるまでの45年間、
仏として説いていかれた教えを今日、
「仏教」といわれるのです。

EPSON008.jpg-0.jpg

EPSON008.jpg-1.jpg


nice!(7)  トラックバック(0) 
共通テーマ:資格・学び

死んだら何も無くなるのでは? [Q&Aシリーズ]

(質問)死んだら何も無くなるのでは?

・・・・・・・・・・・・・・・・・
(答え)「死んだ後なんかないよ」と言い続けている人も、
知人や友人が死ぬと、
「ご霊前で」とか「ご冥福を祈ります」と言います。
「霊前」は故人の霊の前であり、
「冥福」は冥土(死後)の幸福のことですから、
いずれも死後を想定してのことです。
死後を否定し切れないものがあるのでしょう。
「社交辞令だよ」と笑って済ませられるのは、
肉親などの死別にあわない、
幸せな時だけに違いありません。

死後の幸福を願うのは、
深い人間性からくるもので、
「死後はない」という一片の知識で、
否定できるものではありません。

EPSON166.jpg-1.jpg


(質問)死んだら何もなくなるのでは?

(答え)ある所に、死後を否定し、
「オレが死んだら葬式など、
無駄なことは一切やるな」
といつも公言していた、
仏法の大嫌いな男がいました。

ところが、この世は老少不定。
不幸にも、その男より先に、
かわいがっていた一人息子が急死したのです。
悲しみにうちひしがれた男は、
大嫌いだった寺へ行き、
盛大な葬式を依頼して、
遺骨を墓地に納めました。
その日は雪でした。
墓にやってきた男は、墓石に積もった雪を
手できれいに払いのけ、
持参したミカンやお菓子を供えて手を合わせ、
「息子よ、さぞかし寒かろう。
さあ、お上がり」
と生ける者に話しかけるように、
いつまでも墓前を去ろうとしなかったといいます。

EPSON167.jpg-1.jpg

(質問)お釈迦さまは、「死後はない」という考えについて
どう教えられていますか?

(答え)
釈尊は、「死後はない」という考え方を
「断見外道」といわれ、
間違いだと教えられています。

その理由を『阿含経』には、
「因果応報なるが故に来世なきに非ず」
と説かれています。

例えば、人を1人殺したら死刑という結果を
受けるとします。
では10人殺した人は、後の9人分の報いを
いつ受けるのでしょうか。
死後がないとすれば、何人殺しても一緒だという
自暴自棄的な考えに賛同することになるでしょう。


しかし釈尊は、三世を貫く因果の道理を説き、
後の報いは未来世(死後の世界)で、
必ず受けていかなければならないと
教えられているのです。

EPSON167.jpg-2.jpg

(質問)「親鸞聖人は死後の浄土のことは教えられなかった」
と言う人がありますが?

(答え)
いいえ、とんでもない。
親鸞聖人がこの世と死後の浄土を
ハッキリ区別され、
弥陀の救いは二度あることを示された
お言葉はたくさんあります。

一例を挙げれば、
この身は今は歳きわまりて候えば、
定めて先立ちて往生し候わんずれば、
浄土にて必ず必ず待ちまいらせ候べし

“親鸞、いよいよ今生の終わりに近づいた。
必ず浄土へ往って待っていようぞ。
間違いなく来なさいよ”

と、『末灯鈔』におっしゃっています。
私たちも、一日も早く、
弥陀の本願を聞き開き(信心獲得)、
いつ死んでも浄土往生間違いない身と
ならせていただきましょう。

EPSON168.jpg-1.jpg

 


nice!(9)  トラックバック(0) 
共通テーマ:ネットコミュニティ

親鸞聖人は、人間は死んだらどうなると教えているのか!? [Q&Aシリーズ]

 


(問)親鸞聖人は
    人間死んだら、どうなると
       教えられているか


私は人間の生命活動は、全て物質現象だと思っています。
心も脳が生み出したものであり、
物質以外に「精神」や「魂」があるとは信じられません。
だから死後はないと思いますが、
親鸞聖人はどう教えられているのでしょうか。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(答)
あなたのような考えは、古代からあったもので、
決して珍しいものではありません。
人間の脳は、一千億以上のニューロン(神経細胞)が、
網の目状に結合して複雑なネットワークを形成しています。
唯物論者は心といっても、
この複雑なニューロンの働きにすぎないと主張します。

それに対して、ニューロンの研究で1963年に
ノーベル生理学・医学賞を受賞したエックルスは、
精神世界のすべてをニューロン活動のパタンにより
究極的に説明できる」と唱える唯物論は、
「迷信の部類」に入ると詳細に批判しています
(『脳の進化』)。
そして私たちの心は、肉体が滅びた後も残る
非物質的な不滅の存在だと主張しています。

また、世界的に著名な脳外科医ペンフィールドは、
患者の露出された脳に直接、電気刺激を与えて
何を感じたかを聞くという、特異な実験を繰り返し
二十世紀の脳研究に画期的な成果を残しました。


覆された唯物論


彼ほど生きた脳に触った人はいないといわれたペンフィールドは、
生涯、「心」は全てニューロンの働きで説明できるという
「唯物論」の立場で研究を続けてきました。
しかし最後に彼は、脳と心は別だと考えるほうが、
合理的だという結論に達しています。

「脳の神経作用によって心を説明するのは、
絶対に不可能だと私には思える。(中略)
私は、長い研究生活を通じて、
なんとかして心を脳で説明しようと試みてきた。
そして今、これまでに得られた証拠を最終的に検討しているうちに、
人間は2つの基本要素から成るという説の方が
合理的だと考えられることを発見して、
驚異の念に打たれているのである」
(『脳と心の正体』)

ペンフィールドは、私たちの心は、
ちょうど古くなった車を乗り換えるように、
数え切れないほどの「脳」を乗り換えてきたのだろうと、
こう想像しています。
「心は脳にある特定の仕組みの働きと結びついている。
そして、数え切れないほどの世代にわたって、
心はどの人間でもこのように脳と結びついてきたのであり、
心の性格はある世代から次の世代へと
連綿と受け継がれていくことを示す有力な証拠がある」


私の奥にひそむ私


脳の研究に生涯を懸けた第一級の科学者が、
脳だけで心は説明できないと言っています。

世間では、人間の行動を大脳の働きのみに帰結して、
物事を割り切って考える人がありますが、
そんな人は五体が健全で、各器官の働きが正常で単調なために、
その裏側にある自意識を超えた働きを、
のぞきみるチャンスがないからです。
器官の働きを支える背景にまで、
思いが回らないのです。
今日の心理学でいう深層心理より、
もっと深い奥に潜む「本当の私」が分からないからです。

もし人間が、自意識の統制できる範囲のなかでのみ
生きていると思っていられるとしたら、
それは余りにも無知といわなければなりません。

もっと深く生命の実相を学び凝視してください。


私の未来を教える仏法


私たちの肉体は80年か100年の「借り物」ですが、
「真の私」は肉体が滅びた後も、
永遠に続くと仏法では教えられています。

“人間死んだら、どうなるか”
親鸞聖人の答えは、弥陀の救いに値わねば永く苦患に沈みますが、
平生、弥陀に救われれば、必ず、
無量光明土に生まれると常に明快に教えられています。

(無量光明土とは、弥陀の浄土)


nice!(75)  トラックバック(0) 
共通テーマ:資格・学び

どんな気持ちで聴聞すればよいのか!? [Q&Aシリーズ]

(真実の仏教を説かれている先生のご著書「とどろき」より載せています。) 

(質問)どんな気持ちで聴聞すればよいのか

大変皆さんがお聞きになりたいことでありましょう。
釈尊出世本懐経である『大無量寿経』には、
大火有りて三千大千世界に充満せんに、
要(かなら)ず当にこれを過ぎてこの経法を聞き・・・・

と教えられ、これを受けて親鸞聖人は、
たとい大千世界に
みてらん火をもすぎゆきて
仏の御名をきくひとは
ながく不退にかなうなり

蓮如上人は、
火の中を分けても法は聞くべきに、
雨風雪はもののかずかは

と、仏法は聴聞に極まるとおっしゃっておられます。
骨折ってきけ、衣食忘れてきけ、間断なくきけ
と教えた先徳もあります。

いずれもいずれも真剣な聴聞をお勧めになっているのは、
それだけ後生は一大事だからでありますが、

私たちは一匹の蚊ほどにも後生を一大事と思ってはいません。
一匹の蚊が攻撃してきても気になって眠れないのに、
後生が苦になって眠れなかったということがないのです。

他人の後生ではあるまいに、
なぜ、必ずぶち当たらねばならぬ己(おのれ)の一大事に、
こんなに鈍感で真剣に求めきらないのでしょうか。

その原因は2つあります。
まだまだ死なないと無常を遠くに眺めていることと、
地獄へ堕ちるような悪いことはやっていないと
己の罪悪に気がつかないからです。

無常と罪悪

道綽禅師は『安楽集』に次のような喩えを説いておられます。
たとえば、人有りて空昿(くうこう)の
はるかなる処に於て怨賊、
刀を抜き勇をふるいて直ちに来りて殺さんと欲するにあい、
此人ただちに走りみるに一河を度すべし。
未だ河に到らざるに即ちこの念を作さく。
我河岸に至らば衣を脱ぎて渡るとせんや、
衣を著(つ)けて浮んとせんや、
若し衣脱ぎて渡らんには唯ひまなきを恐る。
若し、衣をつけて浮かんには、また領全くし難きを畏る。
そのとき但一心に河を渡る方便をなすありて、
余の心想間雑(しんそうけんぞう)することなきが如し。
行者またしかり。
阿弥陀仏を念ずる時また彼人の渡るを念う(おもう)て
念々相次ぎ余の心想間雑することなきが如くせよ

後ろから剣を抜いて追いかけてくるとは無常の風の激しさを喩え、
前を見れば渦巻く怒涛で一歩も行かれない。
こんな人間が居眠りなんかしておれようか。
アメ玉なめていられようか。
この人の気持ちで仏法は聞かなければなりませんよ、
と教えられたものです。
衣を脱ごうとすれば帯が堅くて脱ぐことはできないとは、
にっちもさっちも動きのとれない罪悪に苦しんでいることを
喩えてあります。
そのまま飛び込めば溺れ死ぬことは明らかですから
地団駄踏まずにおれません。
このように無常と罪悪に責め立てられたものでなければ、
信心決定できないことを教えられたものです。
(※信心決定とは、弥陀に救われること)

世間の常識は習慣と経験とから生まれますが、
仏教ではこの習慣の中に常楽我浄(じょうらくがじょう)
の四つの迷いがあると指摘します。
(※常楽我浄の迷いとは、
無常なのに常があると思っていること、
人生苦なのに楽だと思っていること、
無我なのに我があるとおもっていること、
不浄なのに清らかな心があると思っていること、
我々の心には真実のカケラもないため、正しく見ることができない。)
自己に後生の一大事如何と反省していくのは
「常に我あり」の常識を破っていくのです。
出る息は入る息を待たずと自己に問い詰めて、
一念一念恐怖のどん底をたたいて聴聞するのです。

心を凝視する

また、仏教は結果よりも原因をやかましくいいます。
於因説果(おいんせっか)といって、
原因の中に結果を論じます。
仏法を聞いても本を読んでも他人事として聞かず、
自己の上に照らして聞くことです。

そして、自分の心の動きに注意していくのです。
一日の中に何回も「ちぇっ」と不足に思う心が起きましょう。
その心の動きを凝視し、自分を掘り下げていくのです。

未来の結果は現在造りつつあるのですから、
この現在当体(とうたい)の一念に
後生の一大事如何と反省していくのです。

これを蓮如上人は、
誰の人も、はやく後生の一大事を心にかけて、
阿弥陀仏を深くたのみまいらせて、
念仏申すべきものなり
」(白骨の章)
とおっしゃっていられるのです。


タグ:聴聞
nice!(3)  トラックバック(0) 
共通テーマ:資格・学び

他力になるまで聞き抜いてください! [Q&Aシリーズ]

親鸞聖人の教えを聞き、
阿弥陀仏のお力(他力)によって
往生一定の身に救われることが
人生の目的と知りました。
そこで、さあ次のステップにと思って
努力している自分にふと思いました。
自分の努力に「自力のはからい」
があることを見たからです。
「他力」の救いなのに、これでよいのでしょうか。
                (東京都・40代男性)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

(答え)
この方と同じように「『とどろき』を読んで、
人生の目的は弥陀に救われることだと分かりましたが、
どうすれば弥陀の救いにあえるのですか

という質問も、よく届きます。
親鸞聖人は「なぜ生きる」の答えを、
生死の苦界ほとりなし ひさしく沈めるわれらをば
弥陀弘誓の船のみぞ 乗せてかならずわたしける

苦しみの波の果てしない海に、
永らくさまよい続けてきた私たちを、
弥陀の願船だけが、必ず乗せて渡してくださるのだ

と明示されています。
「乗せて」とありますように、
私たちが船まで泳いでいき、
はじごをよじ上って乗るのではなく、
阿弥陀仏のほうから、
溺れかかっている私たちを一念で船に乗せ、
必ず浄土へ渡してくださるのです。


このように
「全く阿弥陀仏のお力によって救われる、
無条件(ただ)の救い」と聞きますと、
「求めるのは自力だからダメではないか」と
思われるかもしれません。
それなら何もせず、ただボーッとしていれば助かるのか、
となりますが、それは「他力」ではなく、「無力(むりき)」です。


そこで、他力に救われるとはどんなことか、
ますます分からなくなりますね。
これについて昔から、
三通りの「ただ」があると教えられています。
一つは仏法を聞き始めの頃。
「阿弥陀さまは“ただ”で助けてくださるそうな」
と聞いて合点している「ただ」です。
ところが仏法を真剣に聞いていきますと、
お尋ねのように、
「阿弥陀さまは“ただ”で助けてくださるというが、
“ただ”とは、どうなった“ただ”だろうか。
“ただ”が分からん」
となってきます。

聞けば聞くだけ、求めれば求めるだけ、
聞き切らない自己に驚き、火の中を突破しても、
ここ一つはと思わずにおれなくなるのです。

そして、自力間に合わなかったと、
助かる望みが断ち切られて、
無間のドン底へたたき堕とされた時、
十劫以来、呼び続けてくだされていた阿弥陀仏の御声が、
五臓六腑を貫くのです。

「“ただ”の“ただ”もいらん“ただ”であったか、
他力とは、こんな楽な世界とは知らなんだ知らなんだ」
と躍り上がるのです。

そこまで聞かせていただかなければ、
本当の「ただ」は分かりません。

弥陀はどんな者を、どのように救うと誓われているのか。
その弥陀の御心を聞かせていただくのが聴聞です。
「仏法は聴聞に極まる」
他力になるまで、他力を聞き抜かせていただきましょう。

EPSON067.jpg-1.jpg


タグ:他力
nice!(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:資格・学び

後生の一大事とは!? [Q&Aシリーズ]

(質問)後生の一大事とは、どんなことか

蓮如上人の『御文章』を拝読しますと、
後生の一大事といっても一つではないように
思われますが、
後生の一大事とは、どんなことなのでしょうか。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

EPSON038.jpg-1.jpg
(答え)
「後生の一大事」という意味から説明しましょう。
仏教では、来世を後生といいます。
誰しも、やがて死なねばなりませんが、
死ねば来世であり後生です。
死ねばどうなるか、“後生はどうなるか”は、
万人の大問題ですから、一大事といわれます。

その「後生の一大事」について、
阿弥陀仏の救いの前・後によって大きく分かれます。

往生浄土の一大事

弥陀に救われている人の「後生の一大事」は、
来世「弥陀の浄土に往き、仏に生まれる」という
一大事をいいます。

この後生の一大事が書かれている『御文章』のご文は、
次のようなものです。

他力の信心ということを詳しく知らずは、
今度の一大事の往生極楽は、
真に以てかなうべからずと、
経・釈ともに明らかに見えたり

         (『御文章』二帖)

今生で弥陀に救われねば、
来世に弥陀の浄土に生まれるという
一大事は成就できないが、
平生、弥陀に救われれば、
必ず、後生は極楽浄土に往生できると、
どの経典や経釈にも明らかに説かれている

EPSON039.jpg-0.jpg

信心決定して、その信心の趣を弟子にも教えて、
諸共(もろとも)に今度の一大事の往生を、
よくよく遂ぐべきものなり

          (『御文章』一帖)
平生に弥陀に救われて、皆にも、
弥陀の不可思議の救いを伝えて、
ともに極楽浄土へ往き、
仏に生まれる一大事を成し遂げねばならない

これらのご文は、
今生で弥陀に救われた人の後生(来世)の
一大事を言われたものです。

阿弥陀仏を深くたのめ

もう一つは、弥陀に救われていない人の
「後生の一大事」

『御文章』のご文で挙げますと、
次のようなものです。

後生という事は、ながき世まで地獄におつる事なれば、
いかにもいそぎ後生の一大事を思いとりて、
弥陀の本願をたのみ、
他力の信心を決定(けつじょう)すべし

               (『帖外御文』)

後生の一大事とは、
未来、永く地獄に堕ちて苦しむことだから、
急いで一大事の解決を心にかけて、
阿弥陀仏の救いに値わねば(あわねば)ならない

EPSON039.jpg-1.jpg

この「後生の一大事」について蓮如上人が、
切々と詳述されているのが有名な「白骨の章」といわれる
『御文章』です。

その最後に、こう慈誨(じかい)されています。
されば、人間のはかなき事は
老少不定のさかいなれば、
誰の人も、はやく後生の一大事を心にかけて、
阿弥陀仏を深くたのみまいらせて、
念仏申すべきものなり
」 (『御文章』五帖)


nice!(75)  トラックバック(0) 
共通テーマ:資格・学び

冥福とはどんなことか [Q&Aシリーズ]


(真実の仏教を説かれている先生の書かれた「とどろき」より載せています)

 (質問)人が亡くなった時に「冥福を祈る」と
よくいわれますが、冥福とは、どんなことでしょか。

■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■

冥福という言葉は、本来、仏教から出たものです。
いわゆる、冥土の幸福ということを略したものです。

冥土というのは、禅僧一休の「門松や 冥土の旅の 
一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」
の有名な歌にもありますように、
死後の世界をいいます。
なぜ、死後の世界を冥土というのかといいますと、
冥には、片あかりという意味があります。
ちょうどスダレのように、
片方からはよく見えるが、
反対方向からは見えないということです。
死後の世界からは、この世の有様はよく分かりますが、
この世の私たちには、死後の世界が分かりませんから、
死後を冥土といわれるのです。

ですから、冥福を祈るということは、
亡くなった人の幸福を祈るということです。

肉親や知人、友人が亡くなった時には、
ほとんどの人が使用する言葉といってもよろしいでしょう。

●死後はないと言う人も

面白いことには、平生は死後の世界なんかあるものかと、
せせら笑っている人でも、
肉親や知人が亡くなると、たちまち殊勝そうな顔をして、
「あなたのご冥福を祈ります」とか言い出します。

かつて、共産主義国の北ベトナムの大統領、
ホー・チミンが亡くなった時も、
北ベトナムはもちろん、当時のソ連、中国などの
共産圏の人たちでさえ、
その葬儀の日には半旗を掲げて、
ホー大統領の冥福を祈っております。
共産主義を信奉している人たちは、
死後の世界を認めないはずですが、
このような言動をとらずにおれないのは、
思想的矛盾といわれるかもしれません。
日本でも、インテリを自認している人たちは、
概して、死後の世界を否定します。
否、死後を否認することが知識人なのだという、
迷信を持っている人が多いのですが、
それらの人でも、一たび肉親や知人、
友人などの死に遭うと豹変して、

「あなたのご霊前で謹んで申し上げます」
とか、「心からご冥福を祈る」とか、
弔詞(ちょうじ)をよんで平気でいます。

中には、泣きながら「静かに、お眠りください」
とか、「草葉のカゲで、見ていてください」
などと呼びかける人もあります。

また、肉親が殺されて、犯人が捕らえられない時は、
「これでは、娘の霊が浮かばれません」とか、
犯人が捕まった時は、
「これで、娘の霊も浮かばれましょう」
とか言います。

しかも、言っている人も聞いている人も、
何の疑問も不審もたてません。
死後もなければ、死ねば何も残るものがないとすれば、
霊前もなければ、冥土の幸福を祈る必要もなく、
全くナンセンスになってしまいます。

また、死ねば何もかも無になってしまうのならば、
「安らかに眠る」ものもなければ、
「草葉のカゲで見る」ものもないはずですし、
浮かばれるとか、浮かばれないとかいって、
嘆いたり喜んだりすること自体、
滑稽といわなければなりません。

●否定しきれぬ死後

こういう明らかな思想的矛盾に、
少しも気づかず平然としておれるということは、
驚くべきことであると同時に、
悲しむべき現象であると思わずにおれません。

人間の一片の知性によって、
いくら死後の世界を否定してみても、
否定しきれない死後の実存を、
私たちの霊性は鋭く感じているのでしょう。
理屈からはおかしいと思いながらも、
そう思わずにおれないということは、
そう思わせる実存があるからだという、平凡な真理を
私たちはよく噛みしめてみなければなりません。

 


nice!(64)  トラックバック(0) 
共通テーマ:ネットコミュニティ

現代人には宗教や信心など要らないのではないのか。 [Q&Aシリーズ]


(真実の仏教を説かれている先生の書かれた「とどろき」より載せています)

(質問)現代人には宗教や信心など要らないのではないのか。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

信心はなぜ必要なのかといわれますが、
私たちは何かを信じなければ生きていけないからです。
信心とは、何かを心で信じることです。
信じるということは言葉を換えれば頼りにする、
あて力にするということです。

生きることは
      信ずること

私たちは何かを頼りにし、
あて力にしなければ生きてはいけません。
すなわち、何かを信じなければ生きておれないのです。
妻は夫を信じ、夫は妻を信じ、
親は子供を頼りにし、子供は親をあて力にして
生きております。
その他、自分の身体や生命、財産や金銭、
家や名誉や社会的地位など、
何かをあて力にして人間は生きております。
だから生きるということは信じることなのです。

神や仏を信じることだけが信心ではありません。
昔から鰯の頭も信心からといわれますが、
つまらぬものでも信じていればその人の信心です。
だからすべての人は、
何らかの信心を持っているのです。

苦しみはどこから
    やってくるのか


ところが私たちは、ただ生きているのではありません。
幸福を求めて生きている人ばかりです。
そして一切の苦しみ悩みをいとうております。
苦しみ悩みはどこから起きるのか考えてみますと、
信じているものに裏切られた時に起きてくるのです。

病人の苦悩は健康に裏切られたからであり、
家庭の悲劇は夫を信じ切っていた妻が、
夫に裏切られたからです。
子供に裏切られた親、親に裏切られた子供。
うちの子供に限ってと深く信じていればいるほど、
裏切られた時の親の苦悩や悲しみ、怒りは大きいのです。

これで分かるように我々は何かを信じなければ
生きてはいけませんが、
やがて我々を裏切ることのあるものを
信じて生きるということは、ばかげたことです。

では、この世で生命を懸けて信じても後悔のない、
いわゆる、絶対に裏切ることのないものはあるでしょうか。
結論を急ぎましょう。
何もないのです。
この世の一切は死ぬ時には何のあて力にもなりません。

この肉体さえ焼いていかねばなりませんから。

今死ぬという時でも変わらぬもの、
それは三世諸仏をして成仏せしめた
本師本仏の阿弥陀仏あるのみです。
このみ仏を信ずるものこそ、
永遠不滅の無上絶対の幸福で
生き抜くことができるのです。
(※み仏を信ずるとは、信じようとすることではなく、
南無阿弥陀仏と一体化し絶対の幸福に救われていること)

 

 


nice!(80)  トラックバック(0) 
共通テーマ:ネットコミュニティ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。