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本当の幸福になれる「宝」  南無阿弥陀仏とは! [南無阿弥陀仏]

(真実の仏教を説かれている先生ご執筆の『とどろき』から載せています)

        本当の幸福になれる「宝」

             〝南無阿弥陀仏とは

                       何でしょう?〟

 

あなたの宝物は何ですか?

こう聞かれて皆さんは何と答えるでしょう。

宝とは、幸せになるための金や財、

名誉や地位、家族や健康、信念など。

どんな宝を得れば人生が素晴らしくなるか、

皆、探し求めています。

 

親鸞聖人は、すべての人が

必ず絶対の幸福になれる「宝」があり、

生きている今、それは獲られるのだと

教えられています。

今月は、その聖人ご生誕を祝し、

「人生最高の宝」についてお聞きしましょう。

(2016年5月のとどろきです)

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

名声や家族

    ・・・世の「宝」の現実は?

 

世はグルメブーム。世界中、どこへ行っても、

観光の中心に「食」があります。

特に有名な美食指南の権威「ミシュラン」発行のガイドブックで、

三ツ星の最高評価を受けたスイス人シェフ、

ブノワ・ヴィオリエさんが、今年初め、自ら命を絶ちました。

昨年、フランス政府公認のランキングで、

彼の店は「世界一」になったばかり。

そんな絶頂にある料理人がなぜ?と誰もが思うでしょう。

彼は死の4日前に行われた最後のインタビューで、

〝自分の成功は長続きしないかもしれない〟と語り、

レストランの経営維持に頭を悩ませていたといいます。

〝最高評価に恥じぬ料理を〟。

一皿一皿にかかるプレッシャーは、

他人には分からぬ苦悩だったに違いありません。


「ただ見れば

何の苦もなき 水鳥の

足にひまなき わが思いかな」

水面を軽やかに滑っていく水鳥も、

水面下ではせわしく足を掻き続けているのです。

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「とんでもない過ちを犯してしまいました。

こんな形でテニスのキャリアを終えたくない。

もう一度、試合の場に戻ってきたい」

女子テニスのマリア・シャラポア選手がドーピング検査で

禁止薬物に反応し、自ら会見したのは今年3月。

(2016年5月のとどろきです)

四大大会すべてを制覇し、「生涯グランドスラム」を

成し遂げた一流選手の告白に、世界中が驚きました。

男子世界ランキング6位の錦織圭選手も

〝トップテンに入ってからドーピング検査の量はすごく増えた〟

と述べているように、プロテニスのドーピング検査は

大変厳しいといいます。

抜き打ち検査官は、どこにでもやってくるため、

選手には毎日の予定や滞在先を報告する義務があります。

困るのはトイレを済ませたあとに検査官が来ることで、

クルム伊達公子選手は、就寝直後の午後10時過ぎに訪問を受け、

なかなか規定の量が取れず、

尿検査が午前2時まで続いたといいます。

睡眠不足で、次の日は十分な練習ができなかったと

ブログで憤慨していました。

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身近な宝といえば、何といっても「子宝」でしょう。

〝世界一とか日本一とか、そんな大きな幸せは、

私には必要ないよ。ささやかでも家族が宝〟と皆、

大切にしています。

ところが昨今、その子供が持てない夫婦が多くあり、

不妊を心配するカップルは、

初婚同士の夫婦の約3割ともいわれます。

幸いわが子に恵まれても、今度は育て方に思い煩い、

蝶よ花よと育てた子も、〝嫁をもらうと息子はあなたに

尻を向ける〟。

やがて親離れして巣立っていってしまいます。

「大きな希望の子育てが終わり、子供が疎遠になりつつあります。

子供にとって必要な対象は親ではなくなってきました。

私がさらに年を取って介護が必要になると

迷惑な存在になります。

お金があれば近寄ってきますが、お金だけが必要であって、

だんだんと用事はなくなります」

とは、ある女性の述懐です。

考えてみると人生は、あれも欲しい、これも欲しいと

努力して手に入れ、心の支えにしていた宝が

年を取るごとに一つ、また一つと、私から離れていく。

やがて死ぬ時には全部置いて、独りぼっちで後生に

旅立たねばなりません。

「夢の中

集めた宝 みな置いて

業を荷なうて 独り出て行く」

この世の宝はよりよく生きるのに必要で、

大切なものですが、あくまでもそれは生き甲斐。

真の生きる目的は、死に直面しても変わらぬ無上の宝を得て、

永遠の幸福になることだと、仏教では教示されているのです。

 

 生きる目的は「絶対の幸福」

 

「永遠の幸福」とはどんな幸福なのでしょう。

親鸞聖人は、

「摂取不捨の利益(りやく)」(歎異抄1章)

と教えられています。

「摂取不捨」とは、〝摂(おさ)め取って捨てない〟こと。

「利益(りやく)」とは幸福ですから、〝ガチッと一念で

摂め取って、永遠に捨てられぬ絶対の幸福〟をいわれます。

必死にかき集めた宝を全て手離す死が来ても、

大安心、大満足の命を全うし、

光明の浄土に往くことができるのです。

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そんな身に救われるのは、「どんな人も絶対の幸福に救う」と

誓われた大宇宙最高の仏さま・阿弥陀仏の本願があるからです。

阿弥陀仏とは、2600年前、インドに登場された釈迦が、

「私の本師・師匠である」

と紹介された仏さま。

その阿弥陀仏の本願とは、本師本仏の阿弥陀如来の本当の願い、

本心からの熱い願いのことで、

「すべての人に

無上宝珠の名号を与えて

必ず絶対の幸福に救ってみせる」

という誓願です。

阿弥陀仏はどんな決意でこの本願を建て、

南無阿弥陀仏の「名号」を創られたのか。

経典にはこう説かれています。

 

たとい身を、諸(もろもろ)の苦毒の中に止(おわ)るとも、

我が行は精進にして、忍びて終に悔いじ」 (大無量寿経

たとえどんな苦難にあおうとも、

決して後悔はしないであろう

 

たとい身を諸の苦毒の中に止るとも

とは、阿弥陀仏は、苦しみ悩める群生海(すべての人)を

救うためならば、たとえご自身がどんな苦難にあっても

構わない。

いかなる苦毒も耐え抜いて、必ずわが願いを果たす力のある名号、

南無阿弥陀仏を創り、与えて助けてみせると仰っています。

我が行は精進して」とは、

万人を絶対の幸福にする力のある南無阿弥陀仏を

完成するために、全身全霊、目的に向かってまっしぐらに

精進するぞ、ということ。

忍びて終に悔いじ」とは、

どんなにつらくとも耐えて南無阿弥陀仏を成就し、

すべての人を助け切るまでは努力を怠らぬ、

決して後悔はしないということです。

こんな崇高な願いによって創られた名号だから、

「南無阿弥陀仏」には万人を救う絶大な力、功徳、

働きがあるのです。

名号六字が、どんな病気も治す万能薬に例えられるゆえんです。

この南無阿弥陀仏の宝は、遠い昔すでに弥陀のお手元に

完成しています。

そして今、現に私に与えようと、

阿弥陀仏は力尽くされているのです。

 

わずか100年ほどの人生しか知らぬ者に、

未来永劫変わらぬ最高の幸せに生かす大宝は

想像も及ばない。

しかしそんなすごい宝を阿弥陀仏は、

「おまえのために創ったのだ。どうか、

そのまま受け取ってくれ、絶対の幸福になってくれ」

と惜しげもなく差し出していらっしゃるのです。

 

  名号によって救われる

 

では「南無阿弥陀仏」の宝はどうすれば頂けるのでしょう。

お釈迦さまは、

 

聞其名号 信心歓喜

(その名号を聞いて、信心歓喜する)

 

と阿弥陀仏の御心を解説なさっています。

「聞信」ともいいますが、名号は、

聞く一念に弥陀より賜るのです。

これを「信心獲得(しんじんぎゃくとく)」ともいいます。

弥陀の本願(第18願)に救われることであり、

その本願によって成就した南無阿弥陀仏を賜ることだと、

蓮如上人は『御文章』に教示なさっています。

 

信心獲得すというは、第18の願を心得るなり。

この願を心得るというは、南無阿弥陀仏のすがたを心得るなり

                 (5帖目5通)

当流の安心(あんじん)の一義というは、

ただ南無阿弥陀仏の六字のこころなり

                 (5帖目9通)

色も形もない名号の大功徳を、私の心に頂くので、

これを「仏凡一体」(仏心〈名号〉と凡心〈私の心〉が

一体になったこと)ともいわれます。

 

弥陀をたのめば南無阿弥陀仏の主になるなり。

南無阿弥陀仏の主になるというは、信心をうることなり。

また当流の真実の宝と言うは南無阿弥陀仏、

これ一念の信心なり」    (御一代記聞書)

 

弥陀に救われれば、南無阿弥陀仏の主になるのだ。

南無阿弥陀仏の主になるとは、信心を獲ることである。

浄土真宗で真実の宝とは南無阿弥陀仏だ。

これは弥陀より賜る一念の信心である

 

真実の宝である南無阿弥陀仏の名号を賜って、

絶対の幸福に救われることこそが、

万人の生きる目的であります。

だから私たちが、日々、親近し礼拝する御本尊は

「名号」でなければならないと、親鸞、蓮如上人両聖人は

教えられています。

「本尊」とは字のごとく、根本に尊ぶべきもの。

蓮師(蓮如上人)はこう教えられています。

 

「他流には『名号より絵像、絵像よりは木像』というなり。

当流には『木像よりは絵像、絵像よりは名号』というなり」

                  (御一代記聞書)

(浄土真宗以外の教えでは、本尊は名号よりも絵像、

絵像よりは金ぴかの木像が有り難く拝めるから最もよいと言う。

しかし、浄土真宗の正しい御本尊は名号である、

と親鸞聖人はおしえられている)

 

しかし果たして現今の浄土真宗は、

この教導どおりでしょうか。

「名号」よりも「絵像」や「木像」が圧倒的に多いのが

現状ではありませんか。

「名号を与えて救いたもう」阿弥陀仏の御心を

正しく知らねばなりません。

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生きている今、「心の長者」になれる! [南無阿弥陀仏]

       生きている今、

         「心の長者」に

 

         「南無阿弥陀仏」の宝と

           一つになる幸せ

 

●どうしたら「心の長者」になれるのか?

 

お釈迦さまが、3人の長者の中で、いちばん幸せだと

教えられたのは「心の長者」だと前回の記事で学びましたが、

次に聞きたいのは、それはどんな幸福なのか、

そしてどうしたら、「心の長者」絶対の幸福になれるのか

ということでしょう。

そのことについて、お釈迦さまは次のように教えられています。

 

人々よ、心の頭(こうべ)を垂れて、わが言葉を聞くがよい。

人は、苦をいとい、幸せを求めている。

だが、金は得ても、財を築いても、常に苦しみ、悩んでいる。

王や貴族とて、皆同じである。それはなぜか。

苦しみの原因を正しく知らないからである。

金や名誉で苦しみはなくならぬ。無ければないで苦しみ、

有ればあるで苦しむ。有無同然である。

毎日を不安に過ごしている。

例えば、子供のない時は、ないことで苦しみ、

子供を欲しがる。

しかし、子供があればあったで、その子のために苦しむ。

この苦しみの原因は、どこにあるのか。

それは、己(おのれ)の暗い心にある。

熱病の者は、どんな山海の珍味も味わえないように、

心の暗い人は、どんな幸福も、味わえないのだ

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●暗い心が晴れた時、心の長者になれる

 

お釈迦さまは、王や貴族のように、

どんなお金や財産に恵まれても(家の長者)、

健康で生活できていたとしても(身の長者)、

心の底から、「人間に生まれてきてよかった!」

と生まれてきたことに感謝できないのは、

自分自身の中にある、暗い心が原因であると教えられました。

その暗い心とは、

「生きてきてよかったと思えても一時的で、

ちょっとイヤなことがあると、

生まれたことに感謝できなくなる心」

「生活に不自由はないのに、一人になって、ぼんやりしていると、

どことなくむなしくなってくる心」

「好きなことに、いろいろチャレンジしてみても、

心から満足できない」

と、いろいろな形をとって、私たちの心に影を差す心のことです。

仏教では、この心を、「無明の闇」といわれ、

すべての人の心の底に横たわっていると教えられています。

そして、その心のせいで、どんな幸せに囲まれていても、

真の安心満足を味わうことができないのだよと、

肉体の熱病に例えて、次のように教えられました。

 

熱病の者は、どんな山海の珍味も味わえないように、

心の暗い人は、どんな幸福も、味わえないのだ

この心の病の症状を、有っても無くても喜べない「有無同然」と

経典に説かれているのですが、身に覚えがある人ばかりでは

ないでしょうか。

とりたてて不満はないけれど、一日中、

決まった仕事や家事などに追われ、

〝ああ私、何やってんだろう?〟と思うことがあります。

宅配弁当のコマーシャルで主婦が、

「朝作って、すぐ昼作って、夜のメニュー考えて・・・」

と言っているのを聞いて、

「ホント、一日中食事の準備しているみたい」

と共感する人もあるでしょう。

永年の習慣とはいえ、毎度の食事準備は手間がかかります。

ニンジン一つ細かく切るのも一苦労。

そうして作った料理も食べるのはアッという間。

新婚当時は、「君の作ったものは、みんなおいしいね」

と言ってくれたのに今は、まずい時だけ文句を言う。

食器や鍋を洗うのは面倒くさいけど、誰も手伝ってくれない。

やれやれ終わったと思っていたら、

すぐ次の食事の準備が始まります。

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ある裕福な家の奥さんが、夕方、いつものように

フロ掃除をしていた。

ふと顔を上げて、窓からいつもの夕日を見た時、

突然、止めどもなく涙が頬を伝って流れ落ちた。

このまま老いて、人生終わってしまうのかと思ったら、

いても立ってもおれなくなり、

荷物をまとめて家出したといいます。

たとえ、裕福な環境に住まいし、身体が健やかでも、

ぼんやりと込み上げてくるむなしい心は、

無明の闇の影のようなものです。

 

その無明の闇を、ズバリ、心の病に例えて、

蓮如上人は、『御文章』に「無明業障の恐ろしき病」とも

言われています。

この無明の闇がなくなった時、「有ってよし、無くてよし」

の絶対の幸福(心の長者)になれるのです。

ちょうどそれは、40度の高熱が下がって、病が全快すれば、

梅干し一つで白ご飯を食べていても、

おいしく味わえるようなものです。

 

●暗い心が晴れるのは、平生の一念

 

では、その暗い心が晴れわたり、大安心になるのは、

いつのことでしょうか。

「風邪が治る時のように、いつとはなしに、

だんだんと明るくなってくるのだろう」

「死んでからでしょ?」

こんな誤解が、浄土真宗では特に多いようです。

しかしお釈迦さまも、親鸞聖人も蓮如上人も、

苦しみの元である無明の闇は、

仏法を聞いた、平生の一念で破れる、

と説かれています。

 

親鸞聖人の曾孫(ひまご)、覚如上人が、「無明の闇」を

「自力の迷情」と言い換えて、流麗な筆致で教えられた

次のお言葉を、説明いたしましょう。

 

この娑婆生死の五蘊所成(ごうんしょじょう)の

肉体未だにやぶれずといえども、

生死流転の本源をつなぐ自力迷情、

共発金剛心(ぐうほつこんごうしん)の一念にやぶれて

               (改邪鈔)

 

「娑婆」とは、昔のインドの言葉で、

「堪忍土」と訳され、私たちの住まいしている世界のこと。

「ならぬ堪忍、するが堪忍」と、思いどおりにならず、

怒りを爆発させたいけれども、

ぐっとこらえていかねばならないのが、人の世です。

平凡な生活をしていても、一日に何度も、

ムカッとすることが起きてきます。

最近、高速道路上での運転手同士のトラブルで死亡事故が起き、

「ロード・レイジ」という言葉がよく知られるようになりました。

他の車に割り込まれたり、追い越されたり、

前者のノロノロ運転にいただったドライバーが、

激高し、あおり運転をしたり、進路妨害をしたりすることですが、

ふだんは穏やかな人でも、ハンドルを握ると、

人が変わったようになって、イライラをつのらせることがある。

あおられたほうも、心は穏やかでありません。

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都会の通勤電車に乗れば、肩が触れた、カバンが当たった、

足を踏みつけたと、文句を言われた人もあるでしょう。

人間が集まれば、欲と欲、怒りと怒りがぶつかり合って、

どちらかが我慢せねばならなくなってくる。

そんな忍耐を重ねて、生活していかなければならないこの世界を、

「娑婆」といわれるのです。

その人間界に生まれ、死んでいく私たちの肉体を、

ここで「五蘊所成(ごうんしょじょう)の肉身」

と言われています。

「五蘊所成」とは、「5つのものででき上がっている」

ということです。

それが「未だやぶれず」とは、肉体がまだ元気な時、

「生きている時に」ということです。

次に、苦しみの根元である「無明の闇」を、

ここでは「自力の迷情」と言われ、

それは、「生死流転の本源をつなぐもの」だと説かれています。

「生死流転」とは、生まれ変わり、死に変わりしながら、

果てしなく苦しみ続けてきた、

私たちの遠い過去の姿を言われたものです。

前回、11月号のこのコーナーでも紹介しましたように、

蓮如上人が「過去・未来・現在の三世の業障」

と仰ったのと同じく、三世にわたって、

私たちを苦しめ続けてきた苦悩の根元が、

ほかならぬ「自力の迷情」であり、

それが、生きている一念に「破れる」「なくなる」と

説かれているのです。

「無明の闇」とは、この世だけの苦しみの元ではなく、

実は、私たちを、三世にわたって迷わせ、

苦しめてきた根元であるということが分かります。

その無明の闇がぶち破れ、本当の幸せに救われるのは、

生きている平生のことですから、

これを「平生業成」の教えといわれます。

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●「生命」と「肉体」とは、大河と泡沫

 

「三世」とか「生死流転」と教えられるように、

肉体が滅んでも、私たちの生命は絶えることなく

流れていくと仏教では教えられています。

「袖触れ合うも多生の縁」ということわざがありますが、

この世、電車で隣同士に座り、袖と袖が触れ合った人同士は、

実は、遠い過去世から、深い関係にあった人同士なのだよと

教えられているのです。

過去世の因縁がなければ、この世で、同じ時に、

同じ場所の、しかも隣同士で座るということが

起きるはずがないというのが、仏教の教えです。

例えるならば、私たちの生命は、滔々(とうとう)と流れる

大河のようなもの。

その大河の表面に、ぱっと泡が現れて、しばらく流れ、

またぱっと消えていく、そんな泡沫のようなものが、

私たちの肉体なのです。

お金が儲かった、財産があるから大丈夫、健康だと言っても、

それは全て、この泡の流れている間の出来事です。

医学が私たちの肉体の命を延ばすのも、この泡を、

少しでも消えないようにと苦心している努力にほかなりません。

しかし仏教は、滔々たる永遠の生命の救いを

教えられているのです。

「心の長者」というのは、

「心が豊かになる」「心が明るくなる」と、一応はいえますが、

この肉体ある間の心のことだけではありません。

過去・現在・未来の三世を貫いて流れていく、

私たちの永遠の生命が救われて、

明るく輝いた人のことを言われているのです。

「家の長者」「身の長者」とは比較にならない

「永遠の生命の歓喜」のことだと分かれば、

「あいつと比べれば自分は恵まれているな」

「言われてみれば、感謝しなければならないな」という、

相対的な喜びとは、次元が違う、心の「長者(お金持ち)」

と言われるのも、うなずけるでしょう。

 

●「南無阿弥陀仏」は大宇宙の宝

 

では、どうしたら、苦しみの根元である無明の闇を

破っていただくことができるのでしょうか。

お釈迦さまも親鸞聖人も、「南無阿弥陀仏の名号にこそ、

無明の闇を破る力がある」と教えられています。

 

無碍光如来の名号と

かの光明智相とは

無明長夜の闇を破し

衆生の志願をみてたまう

       (高僧和讃)

 

南無阿弥陀仏の六字を、「名号」とも「無碍光如来の名号」とも

いわれます。

その南無阿弥陀仏には、私たちを、

長い間苦しめてきた「無明の闇」を破って、

人間に生まれてきてよかったという、

絶対の幸福の身にする働きがあるからです。

仏法を聞くのは、この南無阿弥陀仏を獲得して、

無明の闇を破っていただき、絶対の幸福になるためなのです。

そんな、すごい働きが「南無阿弥陀仏」にありますから、

蓮如上人

『南無阿弥陀仏』と申す文字は、

その数わずかに六字なれば、

さのみ功能のあるべきとも覚えざるに、

この六字の名号の中には、

無上甚深の功徳利益の広大なること、

更にその極まりなきものなり

         (御文章5帖13通)

と絶賛されています。

たった6つの文字にしか思えないかもしれないが、

それは、猫に小判、豚に真珠で、

南無阿弥陀仏の功徳を知る知恵が私たちにないからなのだ。

大宇宙に「南無阿弥陀仏」以上の宝はないから、

早く、この「南無阿弥陀仏」に宝を頂いて、

大宇宙一の長者になれよ、と勧められているのが、

親鸞聖人の教えなのです。

 

では、どうしたら、南無阿弥陀仏の名号を

頂くことができるのか?

紙面がありませんので、詳しい説明は改めますが、

仏法は聴聞に極まる

聞く一つで頂くことができるとお釈迦さまも、

親鸞聖人も教示されています。

早く、仏法を聞き開き、南無阿弥陀仏の宝を頂いて、

大宇宙一の心の長者にならせていただきましょう。

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「南無阿弥陀仏」は幸せの特効薬 [南無阿弥陀仏]

「南無阿弥陀仏」は

     幸せの特効薬

  

          光り輝く人生に

             ガラリと変える力とは

 

葬式や法事では、必ずといっていいほどお経が読まれます。

参列者には意味が理解できず、

死者を供養する呪文かまじないのように

思われるかもしれませんが、そうではありません。

お経は、2600年前のインドでお釈迦さまが説かれた教えを

記録したもの。

すべての人が本当の幸福になれる道を説かれた方が

お釈迦さまであり、その教えが仏教です。

葬式や法事で読経がなされるのは、

あくまで参列者のためですから、

そのあとの説法で、お経の内容をよく知ることが大切です。

 

では、お経には何が説かれているのでしょうか。

「お経」という言葉自体、「難解なもの」の

代名詞のように使われていますから、

〝仏教は難しい〟というイメージが定着しています。

しかし、昔から「物に本末あり、事に始終あり」と

いわれるように、どんなことにも必ず本末・始終があって、

本から末、始めから終わりまで、全体を知ることが

物事を理解するうえで大事だと教えられます。

仏教もしかり。

一部分だけ聞いて、「何の事だかサッパリ分からない」と

思うのは当然のこと。

そこで今回は、仏教の全体像を身近な例え話で

お話したいと思います。

 

ここに病で苦しむ人がいる。

放置すれば死んでしまうので、

その病人を助けようという医師が現れた。

医師は病を完治させる薬をつくった。

その薬を病人に与えるとたちまち病気が全快。

苦しみから救われたその人は、

医師に心からお礼を言った。

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ここで「病人」とは私たちすべての人間です。

「医師」とは阿弥陀仏のことです。

その阿弥陀仏が完成なされた「薬」が南無阿弥陀仏。

病の特効薬を私たちが頂くと、

立ちどころに「全快」します。

これを信心決定(しんじんけつじょう)といいます。

全快して医師へ言う「お礼」が念仏です。

この順番で、説明いたしましょう。


①病人 どうして心が満たされないの

 

仏教では、なぜすべての人を「病人」というのでしょうか。

それは心に本当の喜びがないからです。

仏さまの眼に映る古今東西のすべての人は、

何のために生まれてきたのか分からず、

常に不安を抱えて生きる苦悩の衆生です。

今月の巻頭特集に「有無同然」とあったとおり、

どれだけ欲しいものを手に入れても、

心からの幸せ、喜びにはならないのです。

しかし、私たちは決して苦しむために

生まれてきたのではありません。

では、何のために生きているのでしょうか。

「なぜ生きる」の答えが分からない真っ暗な心を仏教で

「無明の闇」と教えられ、

これが人生を苦に染める根元であり、

病の本当の原因であると説かれているのです。


 

②医師 〝一人立ち上がられた〟とは

 

そんな病(無明の闇)に苦しむすべての人を哀れに思われ、

何とかして助けてやりたいと、

一人立ち上がられた名医が阿弥陀如来という仏さまです。

本師本仏と仰がれ、「大医王」とたたえられています。

大宇宙にまします数え切れないほどの仏が、

異口同音に「われらが師匠の仏」と尊敬するのが阿弥陀仏です。

だから釈迦も一切経の中で、「諸仏の中の王なり」とか、

「最尊第一」の阿弥陀如来とか、

言葉を尽くして称賛されているのです。

 

阿弥陀仏は、どうすればすべての人の病(無明の闇)を

完治させることができるか、

五劫という長期間、考えられました。

これを「五劫の思惟」といいます。

弥陀は五劫もの間、病を徹底研究され、

兆載永劫のご苦労の末、ついに病を完治させる働きのある

「南無阿弥陀仏」という妙薬を完成なされたのです。

 

③薬 「南無阿弥陀仏」の効能

 

「南無阿弥陀仏」とは何か。

親鸞聖人は「功徳の大宝海」「真如一実の功徳宝海なり

と仰り、南無阿弥陀仏は善根功徳の大きな宝の海である、

と仰せです。

蓮如上人は「南無阿弥陀仏の名号の中には、無上甚深の

功徳利益の広大なること、更にその極まりなし」、

大宇宙最高の功徳がおさまっているのだよと

教えてくださっています。

 

「お経は長いほうが功徳がある」と思われている方も

少なくありませんから、「南無阿弥陀仏」のわずか六字に

無限の功徳があると言われても、

疑わしく思うに違いありません。

しかし、お釈迦さまご自身が、南無阿弥陀仏の大功徳について、

「私は生涯、この大功徳を説き続けてきたが、

とても説き尽くすことができなかった」

と説かれ、蓮如上人は『御文章』に、

一切の聖教というも、

ただ南無阿弥陀仏の六字を信ぜしめんがためなり

と仰り、お釈迦さまが一生涯、説かれたことは

この南無阿弥陀仏の功徳一つであり、

一切経は南無阿弥陀仏を私たちに受け取らせるためだったと

言われています。

 

ならば、いかなる効能が「南無阿弥陀仏」にあるのか。

それを教えてくだされている親鸞聖人のお言葉が、

次のご和讃です。

 

無碍光如来(むげこうにょらい)の名号と

かの光明智相(こうみょうちそう)とは

無明長夜の闇を破し

衆生の志願をみてたまう」(高僧和讃

 

「無碍光如来の名号」とは、

阿弥陀仏の創られた南無阿弥陀仏のことです。

「かの光明智相」とは、阿弥陀仏の光明のお力、

お働きをいいます。

「無明長夜の闇を破し」とは、

「苦悩の根元である無明の闇を破り」ということ。

「衆生の志願をみてたまう」の「衆生」は私たち、

「志願」とは、望み、願いのことです。

私たちの願望をかなえてくださるかのように思いがちですが、

私たちの願いは「食べたい、儲けたい、楽したい、

認められたい」ばかり。

阿弥陀仏は、私たちの小さな欲望を満たすと仰っているのではなく、

「人間に生まれてよかった、という絶対の幸福に救う」という

弥陀の願いを私たちの身に満たしてくだされる、

といわれているのです。

このようにすべての人の心の闇を破り、

歓喜あふれる輝く人生にガラリと変えてくだされる

南無阿弥陀仏のお働きを「破闇満願」といいます。


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④全快 どうすれば南無阿弥陀仏を頂けるの?

 

この南無阿弥陀仏の名号を、私たちが弥陀より賜った一念に、

無明の闇が破られ、絶対の幸福に救い摂られるのです。

これを「信心決定(しんじんけつじょう)」とか

「信心獲得(しんじんぎゃくとく)」といいます。

いくら阿弥陀仏のお手元に薬ができ上がっていても、

私たちがのまねば効きめは表れず、病は全快しません。

阿弥陀仏が南無阿弥陀仏の名号を創られたのは、

私たちに与えて病を全快させるため。

では、どうすれば頂けるのでしょうか。

このことについて、お釈迦さまは「聞く一つ(聞其名号)」と

教えてくだされています。

聞く一つで名号を与えて絶対の幸福に救うというのが、

阿弥陀仏の御心ですから、最も大事なことは、

真剣によくよく、仏法を聞くことである、と

親鸞聖人も蓮如上人も教え勧められているのです。

 

⑤お礼 救われてからの念仏

 

弥陀より賜った南無阿弥陀仏の特効薬で病が全快し、

絶対の幸福に救い摂られたならば、言わずにおれないのが

お礼の念仏です。

念仏とは、口で「南無阿弥陀仏」と称えることですが、

親鸞聖人は最も勧められた念仏は、弥陀に救い摂られたうれしさに、

称えずにおれない「お礼」の念仏です。

世間でも、人から物を頂くと、お礼を言わずにおれませんが、

その言葉は相手によって変わるでしょう。

日本人なら「ありがとう」、アメリカ人なら「サンキュー」、

中国人なら「謝謝」と言います。

阿弥陀仏に対しては、「南無阿弥陀仏」が、

救われたお礼の言葉なのです。

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蓮如上人は、

その上の称名念仏は、如来わが往生を定めたまいし

御恩報尽の念仏と、心得べきなり」(聖人一流の章)

と、分かりやすく教えられています。

 

このようにお話すると、

「では、念仏を称えているのは、

もう救われているということなのですね」

と思われる方もありましょうが、

それは大変な誤解です。

念仏を称えるのは大変尊いことですが、

念仏を称えている人なら誰でも南無阿弥陀仏の

名号を受け取っているのではありません。

このことを親鸞聖人は、

 

「称名憶念すること有れども、

無明なお存して所願を満てざる者あり」(教行信証信巻)

 

と仰り、念仏を一生懸命に称えてはいても、

無明の闇がいまだなくならず、大安心・大満足に

救われていない人がいる、と言われています。

 

名号を頂いたかどうかは、称える念仏で決まるのではなく、

無明の闇が破られ、往生一定の身になったかどうかで

決まるのです。

 

お釈迦さまが仏教を説かれた目的は、

私たちに南無阿弥陀仏の名号を受け取らせる一つのため。

一日も早く、阿弥陀仏から南無阿弥陀仏の名号を頂き、

絶対の幸福に救われるまで、

仏法を真剣に聞かせていただきましょう。

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どうすれば「南無阿弥陀仏」を受け取れるのか!? [南無阿弥陀仏]

〝生きてよし、

   死んでよし〟

浄土往生間違いない身に

 あなたも必ずなれる

       南無阿弥陀仏の大功徳

 

お釈迦さまは、私たちに西方、極楽浄土(彼岸)を示されて、

「ひたすら西へ進みなさい。必ず幸せになれる」

と教えられました。

極楽往生と聞くと、遠い先の死後のこと、

日常の生活と懸け離れた、おとぎ話のように思われるかもしれません。

しかし一日一日、死に向かって進んでいるのが私たちですから、

来世の問題は避けて通れません。

未来がハッキリしないままか、極楽往生とハッキリするのかで、

人生はガラリと変わります。

今回は、浄土へ往く身にハッキリ救われるとどうなるのか、

どうしたらなれるのか、親鸞聖人からお聞きしましょう。

 

親鸞聖人の教えは、釈迦の説かれた仏教以外にありません。

仏教とは仏の教え。

仏とは、世間でよくいわれるように、〝死んだ人〟のことではなく、

最高無上のさとりである仏覚をさとられた方をいいます。

仏覚までさとられた方は、地球上ではお釈迦さまだけですから、

「釈迦の前に仏なし、釈迦の後に仏なし」

ともいわれます。

そのお釈迦さまの教えは、「一切経」に全て書き残されています。

その数は、7千余巻に上る膨大なものですが、

その中に、何が説かれているのでしょうか。

一切経を何度も読まれた親鸞聖人は『正信偈』に、

「釈迦如来が仏教を説かれたのは、

阿弥陀仏の本願唯一つを教えんがためだった」

と、断言されています。

ですから、阿弥陀仏の本願一つ分かれば、

仏教は全て分かったことになります。

では、その阿弥陀仏の本願とは何でしょうか。

まず阿弥陀仏とは、どんな仏さまか、

お釈迦さまは『大阿弥陀経』に、

「阿弥陀仏は、諸仏の中の王なり、光明の中の極尊なり、

光明の中の最明無極なり」

阿弥陀仏は、大宇宙にまします仏方の王である。

そのお力は、あらゆる諸仏の中で最も強く尊く、

無限である

と教えられ、親鸞聖人の教えをそのまま伝えられた蓮如上人は、

阿弥陀如来と申すは、三世十方の諸仏の本師・本仏なり

                (御文章2帖目8通)

阿弥陀仏は、あらゆる仏の先生、師匠であると教えられています。

 

阿弥陀仏が、諸仏の王様、師匠と褒めたたえられるのは、

大宇宙のどんな仏さまもかなわぬ、

無上最高の本願を建てられたからです。

親鸞聖人は『正信偈』に

「阿弥陀仏は無上殊勝の願(本願)を建立し、

希有の大弘誓を超発せられた」

と仰がれています。

本願とは誓願ともいい、お約束のこと。

『大無量寿経』にはこの阿弥陀仏の本願が、

漢字36文字で記されています。

今日の言葉で表すと、

どんな人も必ず

    絶対の幸福に救う

と誓われています。

 

●人生の難度海に大船あり

 

親鸞聖人は、主著『教行信証』の冒頭に、

この阿弥陀仏の本願をこう仰っています。

「難思の弘誓は難度の海を度する大船」(教行信証)

「難思の弘誓」とはどんな人をも救う阿弥陀仏の弘いお誓い、

本願のことです。

この阿弥陀仏の本願を親鸞聖人は、

大きな船に例えられ、「難度の海」を明るく楽しく渡す

大船と仰っています。

「難度の海」とは、私たちの人生のこと。

人生は〝忍耐、また忍耐〟の堪忍土。

無限に押し寄せる波のように、

つらいことが次々にやってきますから、

「苦海」ともいわれます。

若い時は意気揚々と肩で風切って歩いていても、

仕事・育児と駆け回るうちに、気がつけば中年、

老年になっている。

運動が大事と言われウオーキングに出掛けるが、

立つも座るも痛みを伴う。

ケガでもすれば、危ないからと禁止令。

仕方なく居間のテレビをつければ、

ここは異国かニッポンか?

聞き慣れぬ最近の言葉に戸惑って、

字幕を見ても目は薄く、ボリュームを上げると叱られる。

中学卒業後、50年ぶりの同窓会。

ドキドキしながら出掛けていくと、

「昭和○年度○○中学校同窓会」の立て看板。

「ここだ」と入った会場は、なぜか見慣れぬ人ばかり。

すっかり顔形が変わっていた。

「私、佐藤です・・・あなたは?」

「私、鈴木です。あ、お久しぶり!」

名前を聞いても分からない。

分かった顔して「お久しぶり!」。

それから記憶を捜し出す。

酒宴の会話も聞き取れず、尋ね直しも2回まで。

後は聞こえたふりして隣に合わせて笑ってる。

食後に持参の薬を出せば、病気の話題で盛り上がる。

帰る頃には

「ところで、あなた、お墓どうするの?」。

やっぱり気になるのは、行き先のようです。

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この苦悩の難度海を、現在ただ今、

絶対の幸福に救い摂って、

必ず浄土(彼岸)へ渡してくださる大きな船がある。

その大船に早く乗せてもらいなさいよと、

教え勧められたのが親鸞聖人です。

 

「そんな大船に乗らなくても、大丈夫」

と思う人があるでしょう。

周りを見ても、けっこう楽しそうに生きている。

人生は荒波あってこそと、豪語している人もある。

苦難にチャレンジする人生がいい、

まだまだやりたいことがあるから、

仏法は年を取ってからと思うのでしょう。

そのやりたいこと、心の支えにしていることを親鸞聖人は、

難度海に浮かんだ丸太や板切れに例えられています。

大海を泳ぎ続けるのは大変で、

何かにすがらずにはいられません。

丸太を目掛けて泳ぎ、ようやくすがってヤーレヤレと

安心するのもつかの間、大きな波のパンチを受ければ、

たちまちひっくり返ります。

健康自慢で、ゴルフだ旅行だと楽しんでいた人が、

突然の病に倒れ、

「こんなことになるとは、夢にも思わなかった」

と嘆いている。

大雨や大火事で、水や火が家をのみ込み驚き嘆く人もあります。

 

●生まれて来てよかったと、喜んでみたい

 

「奥さんらはいいですね。

もう、何もかも済んでしまって楽ですわね」

町内会の集まりで大きなおなかをしたお嫁さんが、

思うに任せぬ身体の不自由さと、

近づくお産の不安に顔を曇らせ、

60過ぎの隣の奥さんに、こうささやく。

すると彼女は、とんでもないよと言うように大きく首を振る。

「あんたら若い人はいいよ。私らのようになるともう、

死ぬのを待つばかりよ。

それも楽に死ねたらいいが、長患いでもしてみんなから嫌われ

邪魔者扱いされて、苦しんで死ぬのではなかろうかと、

それが心配で心配でならんのよ」

大学生の娘は試験がなかったら楽なのにとぼやき、

結婚して暴力亭主に苦しむ妻もありで、

人生、どちらに向いても難度海です。

 

あるスポーツ選手が

「苦しい練習をして栄光を勝ち取っても、

一瞬なんですよね、報われるのは」。

そして「こんなものかも・・・」とつぶやいていました。

欲しいと思ったものを、どれだけ手に入れても、

その喜びは続かず、失えば苦しみ悲しみの元になる。

太宰治は、小説『斜陽』の中で、

主人公にこう言わせています。

「幸福の足音が、廊下に聞こえるのを今か今かと

胸のつぶれる思いで待って、からっぽ。

ああ、人間の生活って、あんまりみじめ。

生まれて来ないほうがよかったとみんなが考えているこの現実。

そうして毎日、朝から晩まで、

はかなく何かを待っている。

みじめすぎます。生まれて来てよかったと、

ああ、いのちを、人間を、世の中を、

よろこんでみとうございます」

 

苦しむばかりの人生なら、何のために人間に生まれ、

生きているのか。

なぜ生きなければならないのか分かりません。

生命の歓喜もなく難度海に漂い溺れ、

やがて死んでいかねばならぬ私たちを、

本師本仏の阿弥陀仏は、難度海から救い上げて

大船に乗せ、必ず絶対の幸福にしてみせると、

命を懸けて約束されているのです。

 

●未来がハッキリする絶対の幸福

 

私たちの幸せは、色あせ、崩れてしまうものばかりです。

だから不安、苦悩から離れられません。

では、阿弥陀仏が誓われている絶対の幸福とは、

どんな幸せでしょうか。

仏教の言葉では「往生一定」ということです。

「往生」とは、世間では困ったとか、

死ぬという意味で使っていますが「往生」の「往」も

「生」も困るとか死ぬという意味は、

全くありません。

「往生」とは、往(い)って生まれると読みます。

「往く」とは、阿弥陀仏の極楽浄土へ往く、

「生まれる」とは、阿弥陀仏と同じ仏さまに生まれるということ。

「一定」とは一つに定まる、ハッキリするということです。

ですから「往生一定」とは、いつ死んでも極楽浄土へ往って

仏に生まれることがハッキリするという意味です。

現在ただ今から、生きてよし・死んでよし、

大安心・大満足の無上の幸せに生かされるのです。

未来が明るければ、現在が明るくなります。

どれだけ富や名声に恵まれても、

人生が何となく灰色にくすんで不安なのは、

未来がハッキリしないからです。

死んでどこへ行くのか。

これ以上の大事はありませんから、

仏教では「後生の一大事」といいます。

お釈迦さまは、明日はどうなるか分からない私たちの、

危うい命に警鐘を鳴らされ、はやく後生の一大事を解決して、

未来明るい絶対の幸福になりなさいと言われているのです。

 

親鸞聖人は4歳でお父様、8歳でお母様を亡くされ、

この一大事の後生に驚かれました。

親がいなければ一日も安心できぬ子供にとって、

ご両親を亡くされた心境は計り知れません。

「明日ありと 思う心の 仇桜

  夜半に嵐の 吹かぬものかは」

と歌われ、次に死ぬのは自分の番だと9歳で仏門に入り、

後生の一大事の解決に取り組まれたのです。

その親鸞聖人が29歳の御時、法然上人から

「阿弥陀仏の本願」を聞かれ、

立ちどころに往生一定、絶対の幸福に摂取された。

その歓喜は泉のごとく、90歳でお亡くなりになるまで、

聖人の身にあふれています。

 

●どうすれば絶対の幸福になれるのか

 

ではどうすれば、生きてよし死んでよし、

の絶対の幸福になれるのでしょうか。

お釈迦さまも親鸞聖人も、

「聞く一つ」

と仰っています。何を聞くのか。

「聞其名号 信心歓喜」(その名号を聞きて信心歓喜す)

と教えられています。

「名号」とは「南無阿弥陀仏」の六字のこと。

「南無阿弥陀仏」とは何か、蓮如上人から教えていただきましょう。

 

「南無阿弥陀仏」と申す文字は、その数わずかに六字なれば、

さのみ功能のあるべきとも覚えざるに、

この六字の名号の中には、無上甚深の功徳利益の広大なること、

更にその極まりなきものなり     (御文章5帖目13通)

 

南無阿弥陀仏といえば、字数はわずか六字であるから、

そんな凄い力があるとは誰も思えないだろう。

だがそれは猫に小判、豚に真珠といわれるように、

南無阿弥陀仏〈名号〉の真価を知る知恵がないからである。

本当は南無阿弥陀仏の六字の中には、

どんな人をも無上の幸福にする、

釈迦も説き尽くせなかった計り知れないお力があるのである

 

阿弥陀仏は「どんな人をも必ず絶対の幸福に助ける」

というお約束を果たすために、

すべての人を絶対の幸福(往生一定)にする力のある

南無阿弥陀仏を創られました。

釈迦の七千余巻の「一切経」は、

この南無阿弥陀仏の大功徳一つを説かれたといってもいいのです。

蓮如上人はこうも仰っています。

 

一切の聖教というも、ただ南無阿弥陀仏の六字を

信ぜしめんがためなり     (御文章5帖目9通)

 

ある熱心なおばあさん、住職に尋ねた。

「住職さんは、一切経を何回読まれましたか?」

「一切経?何回って、7千余巻もあるんじゃぞ。

読めるものかい」

「住職さんともあろう人が、情けないですね~」

「情けないって、じゃあ、あんた読んだことあるんか?」

「もちろん、ありますよ」

「えーっ!?]

「毎日の勤行で、何十回も念仏称えています。

一切経をぎゅーっと絞った絞り汁が南無阿弥陀仏の六字ということ、

住職さん、知らんのですか」

 

まさしく南無阿弥陀仏の六文字には、7千余巻の一切経が

収まっているのです。

仏教を聞くとは、

「どんな人も、往生一定、絶対の幸福にする働きのある

『南無阿弥陀仏』の大功徳を聞いて、頂く」

ということ。

それを「聞其名号」と仰っています。

お釈迦さまが「弥陀の浄土(彼岸)へ向かって進みなさい」と

勧められているのは、南無阿弥陀仏の無上甚深の大功徳を聞き、

仏凡一体になりなさい、人間に生まれてよかった、

苦しくても生き抜いてよかった、

いつ死んでも浄土往生間違いなしと、

心から喜べる身になりなさいということです。

「『聞く一つ』で必ずなれるから、なりなさい」

と仰っているのです。

皆さんもぜひ、聞法精進し、この世から未来永遠の

幸せの身にならせていただきましょう。

聞法の場に足を運ぶことが、浄土(彼岸)への第一歩です。

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はかない幸せを求めるより、なぜ未来永遠の幸福を求めないのか!? [南無阿弥陀仏]

(真実の仏教を説かれている先生の書かれた「とどろき」から載せています)


「帰命無量寿仏如来 南無不可思議光」
で始まる『正信偈』は、
親鸞聖人が750年ほど前に書かれたものです。
なんとしても、すべての人に知ってもらいたいことがある。
『正信偈』を書かれた聖人のお気持ちのすさまじさは、
「恩徳讃」に歌われています。

如来大悲の恩徳は
身を粉にしても報ずべし
師主知識の恩徳も
骨を砕きても謝すべし

身を粉にしても、伝えたい。
それは如来大悲の恩徳だ。
骨を砕いても、知らせたい。
それが師主知識の教えなのだ

命を捨てても、伝えたかったこと。
それが一字一涙の『正信偈』となったのです。

親鸞聖人を最も尊敬し、
聖人の教えを信奉する我々は、
朝晩、勤行(おつとめ)で『正信偈』を拝読します。
聖人が、身を粉にしても、
骨を砕いても伝えたかった教えを、
直々に聞かせていただくご縁ですから、
朝晩の勤行がいかに大切か、お分かりでしょう。
しかしせっかく拝読しても、
意味が分からなければ、私たちの大きな損失です。
本願名号正定業」
この一行で聖人は、どういうことを言われているのか、
お話しいたしましょう。

これは、
「本願の名号は、正定の業なり」
と読みます。
「名号」とは「南無阿弥陀仏」の六字のこと。
「業」とは、「働き」。
「正定」は「正定聚」のことです
から、
意味は一言で、こうなります。
本願によってつくられた『南無阿弥陀仏』の名号には、
私たちを正定聚の身にする働きがある

では「正定聚」とは、どんなことでしょうか。

●「正定聚」とは

仏教でさとりといいましても、
一つや二つではありません。
低いさとりから高いさとりまで、
全部で五十二の位があります。

これを「さとりの五十二位」といわれます。
ちょうど、相撲取りといっても、
下はふんどし担ぎから上は大関、横綱まで
いろいろあるようなものです。

中でも最高のさとり、
五十二段目の位を仏覚といい、
これ以上のさとりはありませんから、
無上覚ともいわれます。

この地球上で仏のさとりを開かれた方は、
約2600年前、インドに現れたお釈迦さま、
ただお一人。
だから三大聖人、二大聖人といっても
常に最初に挙げられ、
世界最高の偉人と仰がれています。

「正定聚」とは、仏覚の一段下、
五十一段の位をいわれるのです。

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(等覚=正定聚)

有名な達磨大師は、インドで生まれ、
仏教を伝えようと中国に渡り、
120歳まで生きたと言われます。
達磨には手足がありません。
壁に向かって9年間、座禅を組み、
手足が腐るほどに修行したからです。

その目は、ものすごい形相でにらみつけていますが、
恐ろしい感じがしないのは、
厳しい修行にあきらめようとする自分の心を、
にらみつけている目だからです。
その達磨でも、開いたさとりは
30段ほどであったといわれますから、
仏のさとりまでは遠く及びません。

また、中国で天台宗を開いた、
天台という人がいます。
親鸞聖人が
「天台ほど頭のいい者は聞いたことがない」
と言われるほどの人物ですが、
臨終に、弟子から「師匠は何段までさとられましたか」
と聞かれて、
「五品弟子位(九段目)までしかさとれなかった」
と告白しています。


ところが親鸞聖人は、
「本願の名号は正定の業なり」
本願の名号には、いつ一日、
仏道修行したこともない私たちを、
この世で五十一段高とびさせ、
正定聚の身にする働きがあるのだよ

と、朝晩『正信偈』に、
驚くべきことを言われているのです。

名号に救い摂られた
      聖人の叫び

その名号の働きによって救われた、
自身の喜びを、
親鸞聖人は『正信偈』の初めに、
「帰命無量寿仏如来 南無不可思議光」
「無量寿如来に親鸞、帰命いたしました。
不可思議光に親鸞、南無いたしました」
と叫んでおられます。

「無量寿如来」「不可思議光」とは、
ともに本師本仏の阿弥陀如来のこと。
「帰命」とは中国の昔の言葉、
「南無」はインドの昔の言葉で、意味はいずれも、
「救われた、助けられた」ということ。
「正定聚の身に救われた」ことです。
「阿弥陀如来に親鸞、救われたぞ」
「阿弥陀如来に親鸞、助けられたぞ」
と二度と繰り返されているのは、
何度でも叫びたい、命懸けても伝えずにおれない、
本当の幸福の厳存を、宣言しておられるのです。


●絶対に壊れない幸福

私たちが求めている幸福は、お金が欲しい、
いい人と結婚したい、立派な邸宅に住みたい、
といったことでしょう。
確かに一時満足できますが、
何かしらが忍び寄り、幸せは色あせ、
いつの間にか消えてしまいます。
また、ふとしたことで壊れてしまう
不安がつきまとっています。

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心底、私たちが求めているのは、
絶対崩れない幸福ではないでしょうか。
その絶対の幸福にしてみせる、
と誓われているのが、
「阿弥陀如来の本願」なのです。

「本願」とは、誓願であり、約束のこと。
阿弥陀仏は、無常の幸福しか知らず、
いつもガラスの不安におびえている私たちを、
絶対に壊れない幸福(正定聚)の身にしてみせる、
と誓われている。


だから、その誓いを果たすために作られた名号には、
すべての人を正定聚にする働きがあるのだ”

と言われているのが、
「本願の名号は正定の業なり」
というお言葉です。

正定聚のことを「正定聚不退転」ともいわれます。
「不退転」とは、壊れない、崩れないこと。
弥陀に救い摂られた満足は、
絶対不変ですから、「正定聚不退転」といわれ、
今日の言葉で「絶対の幸福」というのです。

その絶対の幸福に、南無阿弥陀仏の名号によって
救われたのだと、聖人は最初に、
「帰命無量寿如来
南無不可思議光」
ご自身のことを表明し、早く多くの人に、
こんな幸福のあることを伝えねばならぬ、
と筆を執られたのが『正信偈』百二十行なのです。

「南無阿弥陀仏」の名号を、
弥陀から賜るのは「一念」です。
親鸞聖人が「時剋の極促」
と言われるこの「一念」は、
アッという間もない、時間の際まりのこと。
これ以上短い時間はない、
という一念の早技で正定聚の身になれます。


蓮如上人はこれを有名な「聖人一流」の御文章に、
「一念発起・入正定之聚(にゅうしょうじょうしじゅ)」
平生の一念で南無阿弥陀仏を賜って、
正定聚になるのだ

と言われています。
しかも、寿命尽きれば直ちに浄土へ往って、
弥陀と同じ仏のさとりを開くことができる。
「南無阿弥陀仏」には、
そんな偉大なお力があるのです。

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●「われ一人、助けん」

こんな素晴らしい名号を作ることができるのは、
大宇宙広しといえども、
本師本仏の阿弥陀仏だけです。

蓮如上人は、『御文章』にこう仰っています。

それ十悪・五逆の罪人も、五障・三従の女人も、
空しく皆十方・三世の諸仏の悲願に洩れて、
捨て果てられたる我等如きの凡夫んあり。
しかればここに弥陀如来と申すは、
三世十方の諸仏の本師・本仏なれば、
久遠実成の古仏として、
今の如きの諸仏に捨てられたる
末代不善の凡夫・五障三従の女人をば
弥陀にかぎりて、
『われひとり助けん』という超世の大願を発して

大宇宙にまします仏さまは、皆お慈悲な方々ですから、
苦しみ悩んでいる私たちをご覧になられて、
何とか助けようとしてくだされた。
ところが、我々の罪があまりにも重く
助けることができなかった。

私たちは、諸仏に捨てられたのだと、蓮如上人は、
「諸仏の悲願に洩れて」
と言われています。
そこで、すべての仏に見放された罪深い私たちを、
本師本仏の阿弥陀仏だけが、
「ならば私が助けよう」と立ち上がってくだされた
ことを、
「弥陀にかぎりて、『われひとり助けん』という
超世の大願を発して」
と言われているのです。

しかも阿弥陀仏は、本願の中に、こう誓われています。
「若不生者 不取正覚」
“もし生まれずば、正覚を取らじ”

「正覚」は仏のさとりのことで、
仏さまの命ですから、
「もし生まれさせることができなければ、
命を捨てる」
というお言葉です。


例えて言うと、ある女性が、具合がおかしいので
医者に行くと、「間違いなくおめでたです。
ただ、大変な逆子。うちではどうにもなりませんので、
日本一の産婦人科医を紹介します」
大病院に行くと、「色々な子供を取り上げてきましたが、
こんな逆子は初めて。
アメリカに、世界一の医師がいます。
そこへ行くしかありません」
そう言われて、世界一の医者を求めて渡米した。
診察した医師は、やはり、
「今まで見たことない逆子ですね」と言う。
「でも大丈夫。私は一度も失敗したことはない。
必ず無事生まれさせてみせます」
それでも女性は心配そう。
その不安を晴らすために医師が、
奥さん、任せてください。
もし満足に生まれさせることができなければ、
私は医師の資格を捨てる。
医者の命を懸けて、必ず生まれさせてみせます」
と誓われたようなものです。

自覚していませんが、実は私たちは、
腹底に大変な逆子を抱えている。
その名前を蓮如上人は、
無明業障の恐ろしき病
と『御文章』に何回も書かれています。

私たちが本当の幸福になれないのは、
この「無明業障の恐ろしき病」
にかかっているからなのです。

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なぜ有無同然なの?

お釈迦さまは「有無同然」と説かれました。
「有っても無くても、苦しんでいるのは同じ」
ということです。
幸福求めて生きているのに、
山積みの札束も、豪邸暮らしも、
理想の結婚も、心を満たしてはくれません。
無いよりは有ったほうがましだろうと
努力して手に入れても、
心の奥底から、それで本当に幸せか、と問われると、
まあこんなもんだよ、とやり過ごし、
ただ時が過ぎていく。

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見せかけの快楽に、だまし、だまされ、生きています。
合格、就職、出産、栄転、胴上げされて喜んだのも、
ああ、あれは夏の夜の花火・・・。
科学が進歩し、経済が繁栄し、医学の発展で長生きできれば、
幸福になれると思っているのも、幻想です。
あらゆる面で進歩したはずの今日も、
凄惨なニュースがあふれている。
心をなくした文明がどんなに発展しても、
有無同然の苦しみの現実は、変わりありません。

苦しみの元凶は、無明業障の恐ろしき病という
心の病だからです。
ところが、この病にかかっていながら、
そんな自覚は誰もありません。
よくよく仏法を聞かなければ、知らされない、
心の奥底の病なのです。

無明の闇・・・死後に暗い心

無明業障の「無明」とは、明かりがない、暗い心。
この心が問題なのです。

私たちは必ず死んでいかねばなりません。
嫌だ嫌だと言いながら、
死は何人(なにびと)も避けられません。
死ねばどうなるのか。
「何もなくなるよ」と言う人がいますが、
自分の子供や親が死んでも、そう思えるでしょうか。
冥福を祈る。
冥福とは、「冥土の幸福」ということで、、
冥土とは死んだ後の世界です。
死後があると思うから、
その幸福を祈るのでしょう。
しかも、幸福になっているのなら、
冥福を祈る必要もない。
どうも苦しんでいるのでは、と感ずるからこそ、
冥福を祈らずにおれないのです。
各地で慰霊をする。
慰めるべき霊がなければ、
慰霊の意味がないのですから、
死後も続く何かがあり、しかも慰めなければならない
状態だと思えばこその儀式です。
冥福を祈るのも、慰霊するのも、
死んだ人が私たちより苦しんでいるという
心情からではないでしょうか。

みな老後を心配して、年金問題に大騒ぎ。
しかし、老後で人生終わりじゃない。
一休が「世の中の、娘が嫁と花咲いて、
嬶としぼんで婆と散りゆく」
と言うように、おばあちゃん、では終わらない。
「散りゆく」先の死んだ後はどうなっているのか。
分からないではありませんか。
だから、心は真っ暗がり。
この後生暗い心を、仏教では「無明」とか、
「無明の闇」といわれているのです。

人は皆、この心をごまかしながら生きています。
それはちょうど、目をつぶったまま走っているようなもの。
目隠しして突っ走っている、といってもいいでしょう。

やがて、壁にドーンとぶつかります。
確実な未来がハッキリしない人生に、
本当の安らぎも喜びもありませんから、
これを「無明業障の恐ろしき病」にかかっている、
といわれているのです。

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●弥陀の崇高な願い

「南無阿弥陀仏」の名号には、
この無明業障の病を治す働きがあります。

いわば、難病を完治する薬が、
六字の名号といえましょう。
親鸞聖人は、それを次のように教えられています。

無碍光如来の名号と
かの光明智相とは
無明長夜の闇を破し
衆生の志願をみてたもう

「無碍光如来の名号」とは、
「阿弥陀如来のつくられた、南無阿弥陀仏の名号」
のことです。
「かの光明智相」とは、
「名号を、私たちに受け取らせようとする弥陀のお力」
をいいます。
「南無阿弥陀仏」の名号を命がけで完成された阿弥陀仏は、
それを私たちに与えようと、
命を懸けられておられるのです。

ところが私たちは、無明業障の病にかかっている
自覚すらありませんから、
薬を飲もうともしません。
名号を受け取る気がない、ということは、
仏法を聞く気がないということです。

仏法を聞いている人は、
なんとか名号を与えたいという阿弥陀仏のご念力によって、
引っ張り出されたのです。

言われてみればそうかなあと感じる人もあるでしょう。
その弥陀のお力を「かの光明智相」と言われているのです。

次に「無明」とは、無明業障のこと。
これは蓮如上人が「無始よりこのかた」の病と
言われているように、始まりのない始まり、
人間に生まれる前からの病ですから、
「長夜の闇」と言われています。
その「無明長夜の闇を破し」
とは、無明業障の恐ろしき病を治す、
ということです。
「南無阿弥陀仏」の妙薬で、この心の病気が全快した時、
「よくぞ人間に生まれたものぞ」
の生命の大歓喜がおきる。
無始より続く迷いの根元が断ち切られ、
この身になるための人生だったと、
大安心の明るい心になるのです。

「衆生の志願をみてたまう」
「衆生」とは、私たちのこと。
「志願」とは、望み、願い、希望のことです。
“ならば「衆生の志願」とは、「私たちの願い」のことで、
それを満たしてくださるのか”
と思われるかもしれませんが、違います。


私たちの願いは、食いたい、楽がしたい、眠りたい。
これ以外にありません。
弥陀は、そんな程度の願いを満たす、
と誓われているのではないのです。
果てしない過去からの「無明業障の恐ろしき病」
を一念で完治させ、未来永遠の幸福にしてみせる。
その弥陀の崇高な願いを、
私たちの衆生の上に、満たしてくだされるのだ、
と親鸞聖人はおっしゃっているのです。

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●親鸞聖人の
    「報恩講」とは

「報恩講」とは、11月28日の聖人のご命日を縁に、
「親鸞聖人のご恩に報いる集まり」
聖人に喜んでいただいてこそ、
まことの報恩です。
では私たちがどうすることが、
最も喜ばれるこのなのでしょうか。

それは、聖人が身を粉に骨を砕いても、
伝えずにおれなかったことを正しく知り、
そのとおりの身になる以外ありません。

一日も早く、「南無阿弥陀仏」の大功徳を獲得し、
いつ命尽きても
弥陀の浄土間違いなしの大満足の人生を、
心行くまで味わってください。

(平成19年10月号のとどろきから載せています。)


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阿弥陀仏に救われるとどれほどの喜びか! [南無阿弥陀仏]

 

(真実の仏法を説かれている先生の書かれた「とどろき」より載せています) 

普放無量無辺光(普く無量・無辺光)
無碍無対光炎王(無碍・無対・光炎王)
清浄歓喜智慧光(清浄・歓喜・智慧光)
不断難思無称光(不断・難思・無称光)
超日月光照塵刹(超日月光を放ち、塵刹を照らしたもう)
一切群生蒙光照(一切の群生、光照を蒙る)

『正信偈』冒頭に親鸞聖人は、
帰命無量寿如来
南無不可思議光

「阿弥陀如来に親鸞、救われたぞ、
阿弥陀如来に親鸞、助けられたぞ」
と、後生の一大事を解決され
絶対の幸福に救い摂られた大歓喜を、
叫び上げられています。

その喜びは余人の想像を絶するものがあります。
強いて例えれば、こうも言えるでしょうか。

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自分が死刑囚だとします。
宣告を受け独房に収監され、
執行日は今日か、明日かと
恐怖の日々を送っている私に、
「明日だ」と告げられる。
いよいよ13段の階段を上り、
黒い布を頭からかぶせられ、
首に縄をかけられて、
床が抜けようとしていた、まさにその時。
「その死刑待った!取りやめ!」
の一声で、執行を免れた。
それだけでなく、「その者に十億円を与えよ」
との命によって大金を受け取り、無罪放免、
自由の身になったとしたら、
その喜びはどれほどか。
「うれしいです」などという言葉では、
とても表すことができないでしょう。
何が何だか訳が分からず、
ただびっくり仰天するだけ、
に違いありません。
親鸞聖人が『正信偈』の始めに、
「弥陀に救われたぞ、助けられたぞ」
と叫んでおられる実体験は、
それどころではないのです。
100年や200年ぐらいではない永劫の苦患を逃れて、
100兆円や200兆円で買えない大宇宙の宝物を、
現在ただ今、丸もらいさ
せられた感激は、
心も言葉も絶え果てて、ただ泣くばかり。

広大難思の慶心
“広かったぞ!大きかったぞ!
想像を絶する驚天動地の慶びがあるぞ!”
と絶叫されて当然です。

かかる聖人の御心を知れば、弥陀の救いは決して、
「助かったのやら、助かっていないのやら、
分からん」
という曖昧模糊としたものでないことも、
お分かりになるでしょう。

「ではどうして親鸞、こんな身に
助けていただくことができたのか。
それは阿弥陀如来が大変なご苦労をなされて、
素晴らしいご本願を建ててくだされたからであったのだ

と感涙されているのが、次に、

法蔵菩薩因位時(法蔵菩薩因位の時)
在世自在王仏所(世自在王仏の所に在して)
覩見諸仏浄土因(諸仏浄土の因)
国土人天之善悪(国土・人天の善悪を覩見して)
建立無上殊勝願(無上殊勝の願を建立し、)
超発希有大弘誓(希有の大弘誓を超発せり、)
五劫思惟之摂受(五劫に之を思惟して摂受す。)
重誓名声聞十方(重ねて誓うらくは、「名声、十方に聞こえん」と。)

と続くお言葉です。
その中、「建立無上殊勝願 超発希有大弘誓」
と仰っているのは、
無上殊勝の願」の「無上」とは、「この上がない」こと。
大宇宙に恒沙の諸仏ましませども、
本師本仏の阿弥陀如来しかできない、
殊に勝れた約束ですから「無上殊勝の願」と称讃され、

希有の大弘誓」とは、
「大宇宙に2つと無い、
すべての人と誓われた素晴らしいお約束」
ということ。
いずれも「弥陀の本願」のことです。
「弥陀が五劫の思惟をせられ、
“平生に、絶対の幸福に救い切る”
と、とてつもない願を発してくだされたなればこそ親鸞、
今、救い摂られることができたのだ」

と絶賛され、
「どうか早く皆さんも、弥陀のご本願、
聞き開いてくれよ、その他に助かる道は、
断じてないのだからね」

と、決死の聞法を勧めておられるのです。

●阿弥陀如来のお力

では、かかる「無上殊勝の願」「希有の大弘誓」
を建立された阿弥陀如来のお力とは、
一体どのようなものであるのか。

それを教えられたのが、次のお言葉です。

普放無量無辺光(普く無量・無辺光)
無碍無対光炎王(無碍・無対・光炎王)
清浄歓喜智慧光(清浄・歓喜・智慧光)
不断難思無称光(不断・難思・無称光)
超日月光照塵刹(超日月光を放ち、塵刹を照らしたもう)
一切群生蒙光照(一切の群生、光照を蒙る)

これはお釈迦さまが『大無量寿経』というお経に
説かれていることを、親鸞聖人が『正信偈』にそのまま
記されているところです。

「普放」とは、「普く放っておられる」ということ。
「阿弥陀如来は、
○無量光
○無辺光
○無碍光
○無対光
○光炎王光
○清浄光
○歓喜光
○智慧光
○不断光
○難思光
○無称光
○超日月光
これら十二の光を放ち、
塵刹(大宇宙に無数にある地球のような世界)
を照らして、一切の群生(すべてのひと)を
救ってくだされるのだよ」
と仰っているのです。

「光」とは、仏教で仏さまのお力を表されます。
世間でも、「親の七光り」という言葉があるように、
「力」を「光」と表現されることがありますね。
子にさほど力がなくても、
親の力によって、社長になったり議員になったり、
タレントになったりするのを見ると、
「あれは親の七光りだ」などと言うでしょう。
親の体から七つの光が出ているわけではありません。
「力」を「光」と表すのです。

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お釈迦さまが、本師本仏の阿弥陀如来のお力を、
先に列記したように十二に分けて教えられているのが、
「十二光」です。

次回から、詳しく解説していきましょう。


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弥陀の救いは「破闇満願」 [南無阿弥陀仏]


誠なるかなや、
摂取不捨の真言、超世希有の正法、
聞思して遅慮することなかれ

        (親鸞聖人・教行信証総序)

まことだった!本当だった。
弥陀の誓いにウソはなかった。
みなみな、聞いてもらいたい、この親鸞が生き証人だ。
早く、弥陀の誓願まことを知ってもらいたい

今回も、この親鸞聖人のお言葉を解説いたしましょう。
ここで親鸞聖人が「摂取不捨の真言」と言われているのは、
「阿弥陀仏の本願」のことであると、
繰り返し述べてきました。
大宇宙にガンジス川の砂の数ほどまします
諸仏方の師・阿弥陀仏が誓われたお約束
で、
『歎異抄』冒頭には「弥陀の誓願」と著されています。
それは、
どんな人も 必ず絶対の幸福(往生一定)に救う
という誓いです。
善人も悪人も、老若男女問わず、
絶対の幸福にガチッと摂め取って捨てぬ、
という弥陀の真実のお言葉
ですから、
親鸞聖人は「摂取不捨の真言」と言われているのです。
この阿弥陀仏の救いを表した仏語が「破闇満願」です。
「破闇」とは、闇を破ること。
闇とは、「阿弥陀仏の本願を疑っている心」であり、
「疑情」といわれます。

この「疑情」こそが、苦悩の根元であると親鸞聖人は
『正信偈』に、こう教えられています。

還来生死輪転家  生死輪転の家に還来することは、
決以疑情為所止  決するに疑情を以て所止と為す

「生死輪転」とは、「流転輪廻」ともいわれ、
安心、満足というゴールのない円周を、
際限もなく回り続け苦しんでいるさま。

私たちは家を離れて生きられないように、
苦しみから離れ切れず、迷い続けているので、
「生死輪転の家」といわれているのです。

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「還来」は、生死輪転(際限ない苦悩)の家を
行ったり来たりすることですから、
「終わりなき苦しみ」を表しています。
「生死輪転の家に還来することは」
とは、一言で、
「人生を苦に染める元凶は何か」
ということであり、親鸞聖人は、
次のように一言で答えておられます。
「決するに、疑情を以て所止と為す」
「決するに」とは、「これ一つ」という強い言葉。
「疑情ひとつ」が苦悩の根元であるとの断言であります。

●苦悩の根元、疑情とは?

「苦悩の根元は、これひとつ」と断定される「疑情」とは、
「阿弥陀仏の本願を疑う心」です。

命懸けであなたを助けようと力尽くされている阿弥陀仏に、
「絶対の幸福なんて、あるのだろうか」
「阿弥陀仏は本当に私を救ってくださるのか」
「欲を起こしたり、腹立つ心を減らさないと、
助けてもらえないのだろう」
と、疑っている心が、疑情です。
この心一つが流転の元凶であり、
「無明業障という恐ろしい病」
とも言われます。

無始よりこのかたの、無明業障の恐ろしき病
           (御文章二帖目十三通)

誰もが幸せを求めながら、
なぜ、心から生きる喜びが味わえないのか。
何をどれだけ手に入れても本当の幸福になれないのは、
「無明業障」という心の病にかかっているからだと、
蓮如上人は明らかにされています。

「心の病」といっても、
心療内科などで診断されるものではありません。
治療する精神科医も、自覚なしにかかっている病です。
この病気にかかっていない人は一人もありませんが、
これは、仏教をよくよく聞かなければ毛頭分かりません。

●無明業障の病が恐ろしい二つの理由

無明業障の病が「恐ろしい」といわれる理由が二つあります。
○三世を迷わす苦悩の根元だから。
○自覚症状がないから。

一つ目の理由からお話しましょう。
この病は、「無始よりこのかた」と言われますように、
始めのない始め、過去無量劫からの魂の病です。
それは未来永劫にわたる大問題でもあります。
ですから蓮如上人は「無明業障の病」を『御文章』に、
「三世の業障」とも言われています。

闇=疑情=無明業障の恐ろしき病=三世の業障

「三世の業障」とは、三世を通し、私を苦しめているもの。
「三世」とは、過去世・未来世のことで、私たち一人一人に、
人間として生まれる前の過去世、今生きている現在世、
死んだ後の未来世あるのだよと、
仏教では教えられます。
年でいえば、去年なしに今年はないし、
今年なしの来年もありえない。

去年の今頃何があったのか、たとえ忘れてしまっても、
なかったのではない。
必ず、過去があって現在があり、未来へと続くのです。
おととい食べた物さえすっかり忘れている私たちは、
人間に生まれる前の過去世など知る由もありませんが、
釈尊は厳然と三世の実在を説かれています。
肉体の苦しみなら、せいぜい百年ほどですが、
「三世の業障」は、生まれる前から現在も、
そして死んだ後も苦しめる、全人類の永遠の生命の病なのです。
この「三世の業障・無明業障の恐ろしき病」を
治せる方はおられるのでしょうか。
蓮如上人は、こう仰せです。

ありがたの弥陀の光明や。
この光明の縁に値いたてまつらずは、
無始よりこのかたの、無明業障の恐ろしき病の
癒る(なおる)ということは、
更に以てあるべからあるものなり。

          (御文章二帖目十三通)

阿弥陀仏のお力(光明)によらなければ、
無明業障の恐ろしき病が治ることは絶対にないと教えられます。
無明業障の病を治せる方は、
大医王であられる阿弥陀仏しかましまさぬのです。

阿弥陀仏は、私たちを無明業障の病から
何とかして助けようとして、
南無阿弥陀仏という大妙薬をつくられました。

すべての人は、阿弥陀仏のつくられた、
この南無阿弥陀仏の妙薬を賜った一念で全快し、
絶対の幸福に救われます。

一念とは、一秒よりも短い時で、
時剋の極促をいいます。
蓮如上人は、
阿弥陀仏から、南無阿弥陀仏の大功徳を与えていただいた一念に、
過去、現在、未来の三世を通して苦しめる
無明業障の恐ろしき病は全快し、
同時に、絶対の幸福(正定聚・等正覚)に救われるのだ

と、こう教えておられます。

この大功徳(南無阿弥陀仏)を、
一念に弥陀をたのみ申す我等衆生に
廻向(与える)しまします故に、
過去・未来・現在の三世の業障一時に罪消えて、
正定聚の位(絶対の幸福)また等正覚の位なんどに
定まるものなり

                (御文章五帖目六通)

「南無阿弥陀仏」には、私たちの苦悩の根元を、
一念で断ち切るものすごい力がある。

その大功徳は人間の想像を絶すると蓮如上人は、
こう説かれています。

「南無阿弥陀仏」と申す文字は、
その数わずかに六字なれば、
さのみ功能のあるべきとも覚えざるに、
この六字の名号の中には、
無上甚深の功徳利益の広大なること、
更にその極まりなきものなり

             (御文章五帖目十三通)

まず、蓮如上人は、
「たった六字の南無阿弥陀仏に、そんなに功徳や、
効能があるとは誰も思えないだろう」
と言われています。
読経でも、短いものより長いほうがありがたく感じるもの。
ましてや、たった六字だけでは心もとなく思えてしまう。
そんな迷いの心をお見通しの上で、こう続けられます。
だが、南無阿弥陀仏の六字には、
最高無上、甚だ深い功徳がおさまっているのだ。
仰げば果てしなく高く、底を見れば深さが知れぬ。
名号六字の大功徳は広大無辺で極まりがない

偉大な「南無阿弥陀仏」の価値が分からないのは、
猫に小判、豚に真珠で、
私たちに名号の値を知る知恵がないからです。
正しい知恵を持たれたお釈迦さまや、
親鸞聖人、蓮如上人からすれば、
大宇宙の万善万徳がおさまっていることは明らか。

ですから、お釈迦さまは、
「『南無阿弥陀仏』の大功徳は、
何憶年かかっても説き尽くせない」と言われ

親鸞聖人は、『正信偈』に「南無阿弥陀仏」を
「功徳の大宝海(大きな宝の海)」と言われています。
そんなすごい大功徳だからこそ、
三世にわたる苦悩の根元を一念で解決できる。
無明業障の恐ろしき病(三世の業障)を治す特効薬、
それが「南無阿弥陀仏」なのです。

●ハッキリする救い

この特効薬は、阿弥陀仏が与えてくださいますから、
「我等衆生に廻向しまします」と言われています。
「廻向」とは、「与える」という意味です。
南無阿弥陀仏の大妙薬を頂いた一念、
病は全快し、同時に正定聚(絶対の幸福)の身になります。
正定聚とは、「必ず仏になれる身」のことです。
いつ死んでも極楽往生に往って、
仏に生まれることがハッキリしますので、
往生一定とか往生治定ともいわれます。

阿弥陀仏の願いは、
私たちを正定聚(絶対の幸福)にすること以外にありませんから、
正定聚になった時、阿弥陀仏の願いが私たちの身の上に満たされます。
これを「満願」といいます。

○闇を破る(破闇)
=疑情を晴らす=無明業障の病(三世の業障)を全快させる
○願いを満たす(満願)
=正定聚(等正覚)にする=往生一定(往生治定)にする

このように「疑情を晴らし正定聚にしてみせる」
という弥陀の願いが、私たち(衆生)の身の上に満たされたことを、
「破闇満願」というのです。

私たちは苦しむために生まれてきたのでもなければ、
生きているのでもない。
「なぜ生きる」の答えは「破闇満願の身になるため」
一つです。

私たちは、そのために生き、働いています。
政治も経済も科学も医学も全ては、このためにあるのです。

苦しみの根元「疑情」を一念で晴らし、
この世から未来永遠に変わらぬ幸福を与える教えが仏教なのです。

●自覚症状なき病

無明業障の病が「恐ろしい」といわれるもう一つの理由は、
自覚症状がないからです。

肉体でも、自覚症状がない病は恐ろしいもの。
例えば、高血圧には自覚症状がほとんどなく、
放置する人が少なくありません。
しかし、長く続くと、負担のかかる血管や臓器に
さまざまな合併症を起し、命に危険を及ぼします。
「ガン」も、自覚症状がないことが多くあります。
特に肝臓は痛点がなく「沈黙の臓器」と呼ばれ、
気づいた時には手遅れというケースをしばしば耳にします。
早期発見・早期治療がなされれば治る病も、
自覚症状がないと手遅れになります。
同じように無明業障の病も(疑情)も自覚がありません。
まだまだ死なない、何とかしたら何とかなれると
思っている間は無明の病も分からず、
医者も薬も問題になりません。

「無明業障の病を治してくださる方は、
大宇宙に弥陀一仏のみ」「その特効薬が南無阿弥陀仏ですよ」
と勧める言葉も耳に入らない。

仏教の結論・一向専念無量寿仏
(「阿弥陀仏一仏を信じよ」という釈迦の金言)
も自分とは関係ないと思っているのです。

それがいよいよ心の臨終になると分かってきます。
念々に迫る無常に驚き、地獄一定の罪悪が知らされてくると、
後生の一大事助かりたい、という心があらわになり、
弥陀一仏に向くのです。

そして、南無阿弥陀仏を賜った一念に、
疑情(本願を疑っている心)がぶち破られ、
無明業障の恐ろしき病が全快、
この病を治せる方は、弥陀よりほかになかった、
薬は、「南無阿弥陀仏」以外になかったと明らかに知らされて、
「誠なるかなや、弥陀の本願」とハッキリするのです。

●どうすれば破闇満願の身になれるか

では、どうすれば破闇満願の身になれるのでしょうか。
親鸞聖人
聞思して遅慮することなかれ」。
仏教を聴聞(聞思)しなさいとご教示くださいます。
蓮如上人も、こう指南されています。

陽気・陰気とてあり、されば陽気をうくる花は
早く開くなり、陰気とて日陰の花は遅く咲くなり。
かように宿善も遅速あり。
されば已・今・当の往生あり。
弥陀の光明に遇いて早く開くる人もあり、
遅く開くる人もあり。
兎に角に信・不信ともに、仏法を心に入れて聴聞するべきなり
                 (御一代記聞書)

陽の当たるところの花は速く咲き、
日陰の花は遅いだろう。
陽の当たるところの花が速く咲くように、
弥陀の本願を真剣に聞き速く救われる人もある。
聞法を怠れば日陰の花のように救われるのも遅くなる。
同じく弥陀の光明に遇っても、
救われるのが速い人と遅い人があるのは、
人それぞれの宿善(過去の善根)に遅速(厚薄)があるからだ。
救われている人も、救われていない人も、
ともかくも、大事なことは真剣な聴聞である。

一日も早く、破闇満願の身となり、
生命の大歓喜がわき上がるまで、聞法精進いたしましょう。


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南無阿弥陀仏を頂くとは、どういうことか!? [南無阿弥陀仏]

(真実の仏教を説かれている先生の書物「とどろき」から載せています。 ) 

大悲の願船に乗じて、
光明の広海に浮かびぬれば、
至徳の風しずかに、衆禍の波、転ず
          (親鸞聖人・教行信証行巻

阿弥陀仏の大悲の願船に乗って見る人生の苦界は、
千波万波きらめく明るい広海ではないか。
順風に帆をあげる航海のように、
なんと生きるとは素晴らしいことなのか


今回も、この親鸞聖人のお言葉について
お話いたしましょう。

●最高無上の宝とは?

「大悲の願船に乗じて、
光明の広海に浮かびぬれば」
とは、
「阿弥陀仏の大慈悲の願いによって
つくられた大きな船に
乗せていただいたならば、
明るく楽しい広い海に浮かぶ」
親鸞聖人は言われています。

では、光明の広海に浮かんだ人生とは、
いかなるものか。
親鸞聖人は、「至徳の風しずかに、衆禍の波、転ず
と教えてくださいます。
今回は、その
「至徳の風しずかに」
についてお話いたします。

まず、「至徳」とは、「至上の功徳」を
略したお言葉です。
「至上」とは「無上」、「功徳」とは「宝」ですから、
「至徳」とは、「無上の宝」という意味です。


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ここでいわれる「宝」とは何のことでしょうか?
世に「宝」といわれるものは色々ありますが、
その値を、お金の例で考えてみたいと思います。
最近発表された、長者番付の世界一は、
メキシコの通信王、カルロス・スリム・ヘル氏の
5兆6千億円でした。
「兆」とか「億」といわれても
なかなかピンときませんから、
細かい単位に分けて考えてみましょう。
もし、毎日100万円使ったとしたら
5兆6千億円を全部使いきるのに
どれくらいかかると思いますか?
答えは、「約15000年」。
毎日一億円使ったとしても、
約150年かかります。
まさに、「死ぬまで使い切れないお金」です。
これは、一年当たり、約1060億円の収入を
得た計算になり、
一日当たりだと約3億円!
5兆6千億円とは、それほどの大金です。
毎日、3億円が手に入れば、
「宝のような日々」で、
ほとんどの人が「これ以上すごいものはない」
と思われるのではないでしょうか。

●知恵がなければ、ネコに小判、ブタに真珠

しかし親鸞聖人は、
最高無上の宝は、南無阿弥陀仏なり
と言われています。
こう聞きますと、
「南無阿弥陀仏が最高の宝?
5兆円どころか、一万円札よりもありがたいとは
思えんが・・・」
という人も少なくないでしょう。

「南無阿弥陀仏」といっても、
ただの文字としか思えない人ばかりだからです。

そのことをお見抜きの蓮如上人は、
こう教えてくださいます。

「南無阿弥陀仏」と申す文字は、
その数わずかに六字なれば、
さのみ功能のあるべきとも覚えざるに、
この六字の名号の中には、
無上甚深の功徳利益の広大なること、
更にその極まりなきものなり

          (御文章五帖目十三通)

まず、蓮如上人は、「『南・無・阿・弥・陀・仏』
と、たった六字しかないから、
そんなに功徳や、効能があるとは思えないだろう」
と言われています。
読経でも、短いものより
長いほうがありがたく感じるもの。
ましてや、たった六文字だけでは心もとなく
思えてしまう。
そんな迷いの心境を蓮如上人はお見通しで、
こう続けておられます。
だが、この南無阿弥陀仏の六字の中には、
最高無上で甚だ深い功徳がおさまっているのだ。
仰げば果てしなく高く、
底を見れば深さが知れない。
六字の功徳は広くて大きく
天の極まりないようなものだ

言葉を尽くされての大絶賛です。

この偉大な「南無阿弥陀仏」の価値が分からないのは、
ネコに小判、ブタに真珠で、
私たちには、値を知る知恵がないからです。

正しい知恵を持たれたお釈迦さまや、
親鸞聖人、蓮如上人からすれば、
大宇宙の宝が全て収まっている
「南無阿弥陀仏」なのだと明らかなのです。

ですから、
お釈迦さまは、
「『南無阿弥陀仏』の大功徳は、
何億年かかっても説き尽くせない」
と言われ、

親鸞聖人は、正信偈』に
「南無阿弥陀仏」を
「功徳の大宝海」(大きな宝の海)
と言われているのです。

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●「南無阿弥陀仏」は、どんな宝?

では、「南無阿弥陀仏」には、どんな功徳があるのでしょう。
親鸞聖人は『正信偈』に
名号正定業(名号は正定の業なり)
と教えられています。
「名号」とは本師本仏の阿弥陀仏が創られた
「南無阿弥陀仏」のこと。
「正定」は「正定聚」の略で、
今日の言葉で言えば、「絶対の幸福」。
「業」とは「働き」という意味ですから、
ここで、親鸞聖人は、
「『南無阿弥陀仏』の名号には、
すべての人を絶対の幸福にする働きがあるのだ

と言われているのです。

今、「正定聚」を、一言で「絶対の幸福」
と言いましたが、詳しく述べましょう。
「正定聚」とは、さとりの位をいいます。
仏教では、「さとり」といっても、
低いさとりから高いさとりまで
全部で五十二の位があり、
これを「さとりの五十二位」といわれます。
ちょうど相撲取りにも、
下は褌担ぎ(ふんどしかつぎ)から
上は大関・横綱までいろいろな位があるようなものです。
五十二のさとりには、それぞれ名前がついており、
最高の位を「仏覚(仏のさとり)」といわれます。
これ以上のさとりはないので、
「無上覚」ともいわれます。
さとりが一段違えば、人間と虫けらより違うと
いわれますから、
五十二段の仏覚が、
いかに崇高で想像も及ばぬ境地であるか、
お分かりになるでしょう。

その最高無上の仏覚まで到達された方のみを、
「仏」とか「仏さま」といわれるのであって、

死んだ人を「仏」というのは大変な間違いです。
今日まで、この仏覚を開かれた方は、
地球上ではお釈迦さま以外にありません。

これを、「釈迦の前に仏なし、釈迦の後に仏なし」
と言われます。

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中国で天台宗を開いた天台(智顗・ちぎ)も、
「五品弟子位(ごぼんでしい・十段よりも下の位)
までしかさとれなかった」
と臨終に告白していますし、
壁に向かって九年間(面壁九年)、
手足腐るまで修行した禅宗の開祖・達磨大師でも、
三十段そこそこであったといわれます。
仏のさとりを開くことが、
いかに大変なことかが分かります。

「正定聚」とは、いつ死んでも間違いなく(正しく・まさしく)
仏になれると定まった人たち(聚・じゅ)のことであり、
五十一段に相当する位をいうのです。

「正定聚不退転」とも言われ、
「不退転」とは、崩れない、壊れない、
という意味ですから、まさに「絶対の幸福」
といえましょう。
それは、“必ず浄土へ往って仏になれる”
大満足の身となり、
「人間に生まれてよかった」
という生命の大歓喜を獲るからです。

「名号は正定の業なり」とは、
「『南無阿弥陀仏』の六字には、
私たちを『正定聚不退転』の幸福に
救い摂る働きがある」

親鸞聖人が、これ以上尊い宝はないのだよと
仰っておられるお言葉なのです。

●至徳具足の幸せ

しかも、親鸞聖人は、阿弥陀仏から
「南無阿弥陀仏」を丸もらいすると
「至徳具足の益」に生かされる、と教えられます。

「具足」とは、「一体」のこと。
「一体」とは、ちょうど炭全体が
真っ赤な火になったようなものです。

炭のままが火、火のままが炭となって、
どこまでが火か炭か、区別できません。
分けようにも分けられなくなったのが
「一体」です。

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サンドイッチならば、パンと、ハムとサラダなどが
分けられますから、一体とはいわれません。
これは「合体」です。
水と油を混ぜても一体にはなりません。
大悲の願船に乗せていただくと、
大宇宙最高の宝である「南無阿弥陀仏」
と私が一体になります。

この幸せを「至徳具足の益」といいます。
金や財、名誉や地位などは、
苦労して手に入れても、
思わぬ天災、人災で一瞬にして消え失せる。
どんな豪邸のマイホームも、
マッチ1本で灰になる。
形あるものは、盗まれ、流され、焼かれ、
やがて消えてしまいます。
たとえ毎日3億円が手にはいるようになったとしても、
失う不安が常に付きまとい、
死ぬ時には、一円も持ってはいけません。
これらの宝では、私たちは本当の安心や満足を
得ることはできないのです。
「南無阿弥陀仏」と一体になられた親鸞聖人は、
焼けもせず、流されも、盗まれもしない、
いつも満ちている無上の幸福に生かされた。
「不可称・不可説・不可思議の
功徳は親鸞の、身にみてり」
と、誇り高くうたいあげていられます。

今日が満足、ただいまが幸せ、
鳥のさえずる声は、天然の音楽であり、
四季の花の美しさは、この世の極楽の荘厳です。
真実の仏法を知らされれば、
世の財産家を羨む必要は、少しもない。
最後に笑うのは、極善無上の宝と一体となった
心の長者にほかなりません。

「至徳の風しずか」。
無上の幸せの風が静かにそよいでいるとは、
なんと素晴らしいお言葉でしょうか。
「聞く一つ」でどんな人もなれますから、
真剣に、聞法精進いたしましょう。


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弥勒お先ごめん! [南無阿弥陀仏]

(真実の仏教を説かれている先生の書かれた「とどろき」から載せています)

本願名号正定業(本願の名号は正定の業なり)
至心信楽願為因(至心信楽の願を因と為す)
            (親鸞聖人・正信偈)


前回は、「本願名号正定業」の
一行についてお話いたしました。
これは、
「本願の名号は正定の業なり」と読みます。
「本願」とは「阿弥陀仏の本願」、
「名号」とは「南無阿弥陀仏」の六字のことです。
「正定」は「正定聚」の略で、
今日の言葉で言えば「絶対の幸福」のことですから、
本師本仏の阿弥陀仏が、本願に基づいて作られた
『南無阿弥陀仏』の名号には、
すべての人を絶対の幸福に救う働きがあるのだ

といわれている、親鸞聖人のお言葉です。

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例えて言うと、
「阿弥陀仏の本願」とは、苦悩の人生の海を
明るく楽しく渡す船の“設計図”であり、
「名号」は、その“設計図”どおりに造られた「大船」である、
ということです。

「名号」の働きについて、今回も学びましょう。

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正定聚(しょうじょうじゅ)とは

「正定聚」を、一言で「絶対の幸福」と言いましたが、
詳しく述べたいと思います。
「正定聚」とは、さとりの位をいうのです。
「さとり」といっても、低いさとりから高いさとりまで
全部で五十二の位があり、
これを仏教で「さとりの五十二位」といわれます。

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ちょうど相撲取りにも、下はフンドシ担ぎから
上は大関・横綱までいろいろな位があるようなものです。
五十二位のさとりには、それぞれ名前がついており、
中でも最高のさとりの位を
「仏覚」(仏のさとり)といわれるのです。

これ以上のさとりはないから、
「無上覚」ともいわれます。

さとりが一段違えば、人間と虫けらほどの
境涯の差があるといわれるのですから、
五十二段の仏覚が、
いかに崇高で想像も及ばぬ境地であるか、
お分かりになるでしょう。

その最高無上の仏覚まで到達された方のみを、
「仏」とか「仏さま」といわれるのであって、
死んだ人を「仏」というのは大変な間違いです。

今日まで、この仏覚を開かれ「仏」となられた方は、
地球上ではお釈迦さま以外にはありません。
これを「釈迦の前に仏なし、釈迦の後に仏なし」
と言われます。

中国で天台宗を開いた天台も、
「九段目までしか覚れなかった」と
臨終に告白していますし、
また、壁に向かっ9年間(面壁九年)、
手足腐るまで修行し禅宗を開いた達磨大師でも、
三十段そこそこであったと言われます。

仏の覚りを開くことが、いかの大変なことかが
分かります。

「正定聚」とは、その仏に間違いなく(正しく)なれると
定まった人たちのことであり、
五十一段のさとりの位をいうのです。

絶対に崩れない位ですから、
「正定聚不退転」とも言われます。

「不退転」とは、後戻りしない、壊れない幸せ、
ということで、今日の言葉で「絶対の幸福」と言えましょう。

“必ず浄土へ往って仏になれる”大満足であり、
何ものも往生のさわりとならない「無碍の一道」(歎異抄)であり、
「人間に生まれてよかった」という生命の大歓喜なのです。

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阿弥陀仏が、兆載永劫のご苦労によって完成なされた
「南無阿弥陀仏」の六字には、
どんな極悪人も、この「正定聚不退」の絶対の幸福に
救い摂る働きがある
ことを、
親鸞聖人は『正信偈』に、
「本願の名号は正定の業なり」
と絶賛されているのです。

同じく『正信偈』に「功徳の大宝海」(功徳の大きな宝の海)
とも言われています。
多くの人が「これは宝だ」と大事にしているものは、
どんなものでしょうか。
代々伝わる壷とか掛け軸、土地や家財道具などでしょう。
中には鑑定士から何千万と評価された
「お宝」もあるかもしれません。
「国宝」に指定された仏像や建造物、
「世界遺産」登録の文化や自然を誰もが大切にするでしょう。

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しかし悲しいかな、これらの宝は、
どんなに厳重に管理し維持しようと努めても、
火事で焼けたり、洪水で流されたり、
盗まれたりする不安が絶えず、やがて必ず朽ち果てる、
一時的なものではないでしょうか。

「佐賀の会社役員、庭に埋めた3億6000万円盗まれる」
という見出しで、こんな記事がありました。

会社役員の80代の男性が、安全のために、
佐賀県にある自宅の庭に埋めていた
現金3億6000万円が盗まれていたことが明らかになった。
(中略)前年10月に盗難にあっていることに
気づいたという。
男性はその2ヶ月後に死亡している。(中略)
40年間にわたって、現金を容器に入れては
自宅の庭に埋めることを繰り返していたという。
男性は、銀行の金利が低いことから
手元に置いておく方がよいと考え、
さらに火事や地震の被害を避けるために
庭に埋めていたという。

なんともったいない、とも思いますが、
考えてみれば、たとえ盗まれなかったとしても、
後生へは一円も持っていけない。
この世の宝は、すべて置いていかねばなりません。

ところが、「南無阿弥陀仏」の宝は、
焼けもせず、流されも、盗まれもしない、
未来永遠の幸福にする、もの凄い働きがあるから、
親鸞聖人は「功徳の大宝海」と讃嘆されているのです。


蓮如上人も『御文章』に、
分かりやすく解説されています。

それ「南無阿弥陀仏」と申す文字は、
その数わずかに六字なれば、
さのみ功能のあるべきとも覚えざるに、
この六字の名号の中には、
無上甚深の功徳利益の広大なること、
更にその極まりなきものなり

「『南無阿弥陀仏』といえば、わずかに六字だから、
それほど凄い力があるとは誰も思えないだろう。
だが、この六字の中には、私たちを最高無上の
幸せにする絶大な働きがあるのだ。
その広くて大きなことは、
天の際限のないようなものである」

まことだった!ホントだった!

この不可称・不可説・不可思議の大功徳(南無阿弥陀仏)を、
親鸞聖人ご自身が一念で弥陀から丸もらいされて(仏智全領)、
「正定聚」の身に救い摂られた歓喜を、
『教行信証』にこう告白されています。

真に知んぬ。弥勒大士は、等覚の金剛心を窮めるが故に、
龍華三会の暁、当に無上覚位を極むべし。
念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、
臨終一念の夕、大般涅槃を超証す

初めに「真に知んぬ」と言われているのは、
「親鸞、ハッキリ知らされた」という確信です。
「たぶんこうだろう」という曖昧な憶測でもなければ、
「私はこう思う」などという想像でもありません。
体験して知らされたことを、
「まことであった、本当であった」
と高らかに叫ばれているのが、
聖人の「真知(真に知んぬ)」です。
「あまりにも明らかに知らされた」驚嘆の叫びなのです。
では、どんなことが「ハッキリ知らされた」と
おっしゃっているのでしょうか。
「弥勒大士」とは、有名な弥勒菩薩のこと。
「菩薩」とは、仏のさとりに向かって修行中の人のことです。
いろいろな位の菩薩がある中で、
弥勒菩薩は、仏のさとりにもっとも近い等覚(51段のさとり)
を開いていること
を、
「弥勒大士は、等覚の金剛心をきわむるがゆえに」
と言われています。
あの面壁九年の達磨でも、30段そこそこであったのですから、
51段のさとりを開いている弥勒が、
いかに勝れた菩薩であるか、お分かりになるでしょう。
その等覚の弥勒菩薩は、
「龍華三会の暁、当に無上覚位をきわむべし」
“56億7000万年後に、仏のさとりを開く”

と聖人が言われているのは、
お釈迦さまがお経の中に、
「この釈迦の次に、地球上で仏のさとりを開くのは弥勒である。
それは、56億7000万年後のことである」
と説かれているからです。

その弥勒菩薩と比較して、
「念仏の衆生は、横超の金剛心をきわむるがゆえに、
臨終一念の夕(ゆうべ)、大般涅槃を超証す」
と宣言されています。

「念仏の衆生」とは、阿弥陀仏に救われた人のことであり、
聖人自らのことです。

「横超の金剛心」とは、「正定聚」のこと。
絶対壊れない幸福ですから、金剛心
(ダイヤモンドのように硬い、不変の信心)
と言われています。
あの弥勒菩薩は、気の遠くなるような
長期間の自力修行によって、
さとりの位を一段一段上り、
ようやく51段まで到達したけれども、
「念仏の衆生」の親鸞は、
「南無阿弥陀仏」の働きによって、
一念で51段を高飛びさせられ
「正定聚」の身に救い摂られたのだ

という大自覚を、
「横超の金剛心をきわむるがゆえに」
と告白され、
「臨終一念の夕、大般涅槃を超証す」
“一息切れると同時に、
阿弥陀仏と同じ仏のさとりを開くことができるのだ”
と明言されているのです。

本当にそうだったなぁ!
あの弥勒菩薩と、今、同格になれたのだ。
まったく弥陀の名号不思議によってのほかはない。
しかもだ。
弥勒は56億7000万年後でなければ、
仏のさとりを得られぬというのに、親鸞は、
今生終わると同時に浄土へ往って、
仏のさとりが得られるのだ。
こんな不思議な幸せが、どこにあろうか

この世から未来永遠に救い摂る、
名号六字の働きを真知させられた聖人の、
大慶喜なのです。

救われたらハッキリする

ここで親鸞聖人の言われている「真知(真に知んぬ)と、
一般に使われる「信じる」との違いについて、
よく知っていただきたいと思います。

実は、「信じる」のは「疑い」があるからです。
「ん?そりゃどういうことだ。
『信じる』とは、『疑っていない』ことだろう」
と、常識的には思われるでしょう。

ですが、ちょっと考えてみれば分かるように、
疑う余地の全くないことなら、
「信じる」必要はありませんし、
「信じている」とも言いません。
「知っている」といいます。

例えば、ひどい火傷をしたことのある人なら、
火は熱いものだと「知っている」というでしょう。
火は熱いと「信じている」とは言いません。
そのように言う人は、まだ火に触ったことがなく、
想像や憶測で語っている人です。
「あなたの永遠の愛を、信じているわ」
「あの子はまだどこかで生きてくれていると、
信じている」
「今度こそ合格、と信じる」
いずれも、ハッキリしない不安をかき消すために、
疑いを抑えつけ信じ込もうとする努力ではないでしょうか。

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親鸞聖人の「真に知んぬ」の告白は、
それらの「信じる」とは全く異なります。
「南無阿弥陀仏は尊いそうな」という想像でもなければ、
「お念仏さえ称えていれば、
阿弥陀さまは極楽へ連れて行ってくださるだろう」
と夢みる信仰でもない。
身も心も「南無阿弥陀仏」と一体となって、
「正定聚」の身に救い摂られた聖人が、
「まことであった、本当だった、ウソではなかった」
と、本願に露チリほどの疑心もなく晴れ渡った、
実体験なのです。

蓮如上人も『御文章』に、
「その位を『一念発起・入正定之聚』とも釈し」
「今こそ明らかに知られたり」
「この大功徳を一念に弥陀をたのみ申す我等衆生に
廻向しまします故に、
過去・未来・現在の三世の業障一時に罪消えて、
正定聚の位また等正覚の位なんどに定まるものなり」
「うれしさを昔は袖につつみけり、
今宵は身にもあまりぬるかな」
とおっしゃっているのも、
「南無阿弥陀仏」を頂いた一念に、
絶対の幸福に救い摂られた歓喜の発露です。

ところが、「弥陀に救われても、
そんなにハッキリするものではない」
と嘯(うそぶ)いている人が少なくありません。

一念で51段を高飛びさせられて、
この世は弥勒と同格、死ねば「弥勒お先ごめん」
と仏覚を開く身になった人が、
「その自覚がない」ということがありえるでしょうか。

何兆円どころでない大宇宙の宝を丸もらいして、
永遠の幸福に救い摂られたのに、
それが「自分には分からない」ということが、
考えられるでしょうか。
「救われても、ハッキリするものではない」と言うのは、
「正定聚」とはどんなことかも、
「南無阿弥陀仏」の偉大な働きも、
知られていないだけなのです。

どうして、そんな働きが

「本願名号正定業」(本願の名号は正定の業なり)
と言われている御心の一端を、解説してきました。
では、どうしてそんな凄い力が名号にはあるのかというと、
その理由を次に、
「至心信楽願為因(至心信楽の願を因と為す)
と開示されています。

「至心信楽の願」とは、
“すべての人を必ず信楽(正定聚)に救う”
と誓われている「阿弥陀仏の本願」のこと。

その「至心信楽の願」を因として造られた結果が
「南無阿弥陀仏」だから、この六字の名号には、
私たちを「正定聚」にする働きがあるのだよ
と、
親鸞聖人は朝晩の勤行(おつとめ)で、
本願名号正定業(本願の名号は正定の業なり)
至心信楽願為因(至心信楽の願を因と為す)
と教えられているのです。


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南無阿弥陀仏って何だろう? [南無阿弥陀仏]

 (真実の仏教を説いておられる先生の書「とどろき」より載せています。)

「南無阿弥陀仏」って何だろう?

Q1.念仏とは何ですか?

Q2.「南無阿弥陀仏」って何ですか?

Q3.「南無阿弥陀仏」はどなたが、何のために、
   創られたのですか?

Q4.「南無阿弥陀仏」を頂いたら、どうなるのでしょうか

Q5.どうすればいただけるのでしょうか

Q6.どのように聞けばよいのでしょうか?

親鸞聖人といえば
「念仏」(南無阿弥陀仏と称えること)を
連想する人が多いでしょう。
「お念仏の声を子や孫に」
「お念仏の喜び」などのフレーズが、
まるで浄土真宗であるかのように
語られているからです。
これでは誰もが
「念仏称えたら極楽へ往ける」と
誤解するのも、当然かもしれません。

では、そもそも念仏って、何なのでしょうか?

厄除け?それとも何かのマジナイ?
まずは次のページのアンケート結果をごらんください。

『とどろき』のメールマガジンを
購読されている皆さんを対象に、
「南無阿弥陀仏」とは何だと思いますか、と、
下記のような内容でアンケートを実施いたしました。

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普段から何気なく称えておられる方も多いでしょうが、
一体どんなことなのか、まずは各自の思いをお聞きしました。

『とどろき』で出会うまでは、
何も考えずに称えていました。
父親の真似をして・・・

自分の思いがかなえてもらえるように、とか、
自分に嫌なことが起こらないように祈る時、
称えていました。

「南無阿弥陀仏」とは、亡くなられた方への供養、
亡くなられた方への栄養と思っていました。
お仏壇にお参りするときは、「南無阿弥陀仏」と称え、
残っている家族の健康を願っていました。

称えれば災いから逃れられるのかなぁ、と、
気休めのまじないのように思っていました。

よく心霊番組で、悪魔ばらいにお経を称えている光景が
映し出されていましたので、
その影響を受けていました。
墓の近くを通った時や夜中に怖くなった時に、
「なむあみだぶつ」と称えていました。

救われたお礼と聞いて、
「救われている実感がないのになぜお礼するの?」
と思いましたが、言葉が先で、
実体は後からついてくるということなのかと、
今は思っています。

「あぁ、私もそう思ってた」と共感されたり、
あれっと思われたり、いろいろでしょうが、
では親鸞聖人は、「念仏」について
どのように教えておられるのでしょうか。
次ページから問答形式で学びましょう。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

Q1.念仏とは何ですか?

「念仏」とは、「口で南無阿弥陀仏と称えること」です。
「口声(くしょう)の念仏」とも、
「称名念仏」ともいわれます。
先に述べたように、
「念仏さえ称えていれば、誰でも極楽へ往ける」
というのは大きな誤りで、

500年前の蓮如上人の時代にも
同じ誤解が蔓延していたのでしょう、
こう糾(ただ)されています。

まず世間にいま流布して旨と勧むるところの念仏と申すは、
ただ何の分別もなく南無阿弥陀仏とばかり称うれば
皆助かるべきように思えり、
それはおおきに覚束(おぼつか)なきことなり

             (御文章三帖)

このような『御文章』は枚挙にいとまがありません。
蓮如上人はここで、
「『南無阿弥陀仏』とは何のことか分からず、
ただ称えている」のを「何の分別もなく」と誡められ、
それでは助かりませんよ、
早く「南無阿弥陀仏のいわれ」
を知りなさいと勧められておられるのです。

 

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そこで「南無阿弥陀仏」とはどんなことか。
親鸞聖人、蓮如上人のご教示を頂きましょう。

Q2.「南無阿弥陀仏」って何ですか?

「南無阿弥陀仏」とは何か、
蓮如上人は平易に明らかにされています。

「南無阿弥陀仏」と申す文字は、
その数わずかに六字なれば、
さのみ功能のあるべきとも覚えざるに、
この六字の名号の中には、
無上甚深の功徳利益の広大なること、
更にその極まりなきものなり

       (御文章五帖)
南無阿弥陀仏といえば、わずか六字であるから、
そんな凄い力があるとは誰も思えないだろう。
だが実は、南無阿弥陀仏の六字の中には、
我々を最高無上の幸せにする
限りなき広大な働きがあるのだ

「南無阿弥陀仏」を「六字の名号」と言われます。
この六字の中には、とてつもない働きがあることを
蓮如上人は、
「無上」「甚深」「広大なること極まりもなし」
と、表現を変え言葉を尽くして絶賛されているのです。

あまりにも凄すぎてピンとこない人もあるかもしれませんので、
具体的に比較して考えてみましょう。

日本には現在、個人金融資産は千四百兆円あります。
さて、かりにこれが全部自分の物になったら、どうでしょう。
まずはローン完済してスッキリ重荷を下ろしたい。
それから我慢していた海外旅行へ。
豪華客船で世界一周。
しかも高級スイートルームで。
それでもせいぜい数千万ですから、
さらに料亭通いでもしますか。
銀座で毎晩、100万円散財し、田園調布に豪邸、
軽井沢に別荘。
ヨーロッパ旅行に親族300人を連れて
何億円も“大人買い”する、
アラブの石油王をマネてみても、
まだまだ大丈夫。
考えてみると少し気が遠くなってきますが、
「南無阿弥陀仏」の真価は、
そんな金額に換えられるようなものじゃない、
と蓮如上人はここで仰っているのです。

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「無上甚深の功徳」ですから、
世界中のお金も貴金属もダイヤも、
全部かき集めたよりも桁違いに凄い値が、
この六字の名号の中にあるのだ、ということですが、
そう聞いて、「なるほど、よく分かりました」
と素直にうなずけるでしょうか。

そんなバカな、たった6つの字に、何で?
と訝る(いぶかる)私たちの心を見透かされて蓮如上人は、

南無阿弥陀仏」と申す文字は、
その数わずか六字なれば、
さのみ功能のあるべきとも覚えざるに
「南無阿弥陀仏といえば、わずか六字であるから、
そんな凄い力があるとは誰も思えないだろう

とズバリ指摘されているのです。

だがそれは、猫に小判、豚に真珠、
あなたに「南無阿弥陀仏」の真値を知る知恵がないからだ、
実は「南無阿弥陀仏」の六字は、
大宇宙の万善万行の結晶なのだと、
讃嘆されているのです。

親鸞聖人は、朝晩拝読する『正信偈』に
「功徳の大宝海」と褒め称えておられます。
両聖人とも、釈迦が教えておられることを、
「その通りであった」と知らされてのことです。

お釈迦さまが仏の大雄弁をもって
「南無阿弥陀仏」の功徳一つを説かれたのが、
7000余巻の一切経ですが、
それでも晩年に、

若し広説(こうせつ)せば
百千万劫にも窮め尽くすこと能(あた)わじ
             (大無量寿経)

「『南無阿弥陀仏』の功徳は、
何億年かかって説いても説き尽くせない。
80年の生涯では、大海の一滴も説けなかった。」

と仰っています。
不可称・不可説・不可思議の功徳と言われて当然でしょう。

Q3.そんな「南無阿弥陀仏」を、
どなたが、何のために、創られたのですか?

それほど功徳のある「南無阿弥陀仏」の名号を、
では一体どなたが、何のために、創られたのでしょうか。

それについて釈迦や親鸞聖人は、
阿弥陀仏という仏が、苦しみ悩む私たちに
与えて助けるために、創ってくだされたのだよ

と仰っています。
幸せ求めて生きているのに、
なれずにいる私たちを見捨てておけず、
立ち上がってくださったのが、
阿弥陀仏という仏さまなのです。

地震や津波がまた来ないか。
株は暴落しないか。
就職できるのか。
会社が倒産するのでは。
将来、年金はちゃんともらえるのだろうか。
未来が不安で皆苦しんでいます。

これらの大事は、放っておけぬと私たちは必死です。
しかし、最も大きなものが「死後、どうなるかハッキリしない」
不安ですから、仏教ではこれを「後生の一大事」といわれます。
嫌じゃ嫌じゃといいながら、
墓場へ向かって、皆行進している。
一日生きたとは、一日死に近づいたこと。
意識しようとしまいと、それが真実なのです。

死は100パーセント確実な未来であり、
今晩かも知れぬ大事です。
災害や事故で、一瞬で命が失われていく。
生と死は、つねに隣り合わせ。
今生と後生は、一息一息触れ合っています。
その後生が暗い「無明の闇」が、
今の生を暗くしているのです。

阿弥陀仏は、この「無明の闇」こそ
私たちの苦しみの根元と見抜かれて、
「無明の闇を破り、必ず浄土へ往ける
大安心の身に救ってみせる」
と、命を懸けて誓約されています。
これが有名な「阿弥陀仏の本願」であり、
この誓願を実現するために、
阿弥陀仏が創られた大功徳の結晶が
「南無阿弥陀仏」なのです。

いわば、私たちが「無明の闇」という
恐ろしい心の病で苦しんでいるのを、
阿弥陀仏という医師が
「何とかして治してやりたい、必ず助ける」
と誓われた、その熱願から創られた妙薬といえましょう。

だから、この六字の名号には、
“すべての人を幸福に救い摂る、
広大無辺の力があるのだ”
と親鸞聖人は、こう道破されています。

無碍光如来の名号と
かの光明智相とは
無明長夜の闇を破し
衆生の志願をみてたまう

       (高僧和讃)

阿弥陀仏の創られた名号(南無阿弥陀仏)には、
果てしなき過去から我々を苦しめてきた無明の闇を破り(破闇)、
どんな人をも永遠の幸福にする(満願)働きがある

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本師本仏の阿弥陀仏が、
私一人を絶対の幸福に救うために、
五劫の思惟の末に本願を建てられ、
その願を果たすために兆載永劫のご修行をされた、
その大変なご苦労によって成就なされたのが
「南無阿弥陀仏」の六字の名号であり、
これら経緯の一切を「名号(南無阿弥陀仏)のいわれ」というのです。

そう聞いても、分析して価値を認めようとする
科学万能主義では、
荒唐無稽でしかないも知れませんが、
19世紀のイギリスの大化学者ファラデーは
学生たちにこう説いたといいます。

“母親の涙も、化学的に分析すれば、
少量の塩分と水分に過ぎない。
しかし、その涙の中には化学も分析し得ない
深い愛情がこもっていることを知らねばならぬ
”と。

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名号はわずか「南無阿弥陀仏」の六字だけれども、
「すべての人を絶対の幸福にしてやろう」
という阿弥陀仏の大慈悲心(仏心)の顕現なのです。

Q4.「南無阿弥陀仏」を頂いたら、
      どうなるのでしょうか。

弥陀から、その「南無阿弥陀仏」の名号を頂いたのを
「信心獲得」というと、
蓮如上人は説示されています。

信心獲得すというは、第十八願(阿弥陀仏の本願)
を心得るなり。

この願を心得るというは、
南無阿弥陀仏のすがたを心得るなり 

           (御文章)
「信心獲得」したならば、どうなるのか。
聖人はこう仰せです。

五濁悪世の衆生の
選択本願信ずれば
不可称不可説不可思議の
功徳は行者の身にみてり

       (高僧和讃)
どんな人も、弥陀の本願信ずれば(南無阿弥陀仏を賜れば)、
心も言葉も絶えた幸せが、
その人の身に満ち溢れるのである。

蓮如上人も、弥陀より名号を頂いた一念に、
永の迷いの打ち止めをさせられるのだと、
こう言われています。

この大功徳を一念に弥陀をたのみ申す
我等衆生に回向しまします故に、
過去・未来・現在の三世の業障一時に罪消えて、
正定聚の位また等正覚の位なんどに定まるものなり

          (御文章)
過去・現在・未来の三世を通して
苦しめてきた迷いの親玉(無明の闇)が、
弥陀より『南無阿弥陀仏』の大功徳を
頂いた一念でぶち破られて、同時に、
絶対の幸福(正定聚)に救い摂られるのである

正定聚とは、「必ず仏になれる身」のことで、
等正覚ともいわれます。

事故や災害、病気など、どんなことがあっても崩れない、
壊れない、裏切らない幸せですから、
今日の言葉で「絶対の幸福」といえるでしょう。

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弥陀の救いは、信心一つ

「信心獲得」のことを「信心を獲る」「他力の信心」
とも言われます。
親鸞聖人は、「弥陀の救いは、この他力の信心一つ」
と教えていかれました。

ゆえに親鸞聖人の教えを「信心正因」とも
「唯信独達の法門」ともいわれます。

蓮如上人はこれを、有名な「聖人一流章」の冒頭に、

聖人一流の御勧化の趣は、
信心をもって本とせられ候

親鸞聖人九十年の生涯、教え勧めていかれたことは、
信心獲得ひとつであったのだ

と明言されています。

念仏さえ称えたら極楽へ往ける」など、
断じて親鸞聖人の教えでもなければ
浄土真宗でもないことが、
このご文一つでお分かりでしょう。

そこで初めの質問に戻りますが、
では「口で『南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏』と称える」
「念仏」とは、何なのか。
弥陀に救い摂られて(信心獲得して)からの
「念仏」は、救いたもうた弥陀への
感謝報恩(称名報恩)である
ことを、
聖人は『正信偈』に、

唯能く常に如来の号(みな)を称して、
大悲弘誓の恩を報ずべし

(唯能常称如来号 応報大悲弘誓恩)
他力の信心を獲た上は、
常に念仏して、弥陀の大恩に報いるのである

と詳説されています。
蓮如上人も、先の「聖人一流の章」の最後に、

その上の称名念仏は、如来わが往生を定めたまいし
御恩報尽の念仏と、心得べきなり

弥陀に救われてからの念仏は、
浄土往生が決定した大満足の心から、
その御恩に報いる念仏である

と明らかにされています。

この「信心正因、称名報恩」こそが、
親鸞聖人の開顕された浄土真宗の教えなのです。

ここまでの話をまとめましょう。

【本願】
「阿弥陀仏の本願」とは、
「現在ただ今、絶対の幸福に救う」
という阿弥陀仏の誓いのこと。

それは五劫という気の遠くなるような長期間、
熟慮に熟慮を重ねて誓われたお約束ですから、
聖人は「弥陀五劫思惟の願」とも仰って、
広大なご恩徳に感泣さなれています。

【名号】
この弥陀の五劫思惟の本願とは、
兆歳永劫の修行によって、
十劫の昔にすでにでき上がったものが
「南無阿弥陀仏」の六字の名号です。

【信心】
「信心」とは、大功徳の六字の妙薬をのんで、
病気が全快した(無明の闇が晴れた)ことをいうのです。

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【念仏】
病気を治して頂いたら、治してくださった医師に
対して出るのがお礼の言葉です。
そのお礼が「称名念仏」です。

顔中に飯粒をつけていても、
食べなければ腹は膨れず、餓死してしまいます。
何万遍礼を言っても、薬をのまずしては、
病気は治りません。
「名号」は私が頂いて「信心」となり、
その上の御恩報謝の「念仏」とならなければならないのです。
ゆえに「後生の一大事」助かるか、どうかは、
「信心」一つで決するから、

蓮如上人はこう仰っています。

祖師聖人御相伝一流の肝要は、
ただこの信心一つに限れり。
これを知らざるをもって他門とし、
これを知れるをもって真宗のしるしとす

          (御文章)
親鸞聖人の教えの肝要は、信心一つなのだ。
浄土真宗か、どうかは、『信心一つ』の弥陀の救いを、
知るか、否かで決するのである

仏教で「肝要」とは、“これ以上大事なものはない”
という極めて重い表現です。
その「肝要」に加えて蓮如上人は、「ただ」「一(ひとつ)」
「限れり」と、いずれも「たった一つ」を表す言葉を
四つも使われて、「信心ひとつ」を強調されているのです。
微に入り細を穿(うが)っての懇ろな教導に、
間違ってくれるなよ、『念仏さえ称えたら助かる』
は浄土真宗ではない、
『信心一つの救い』が親鸞聖人の教えなのだ、
聞き誤ったら大変ですよ」
という、蓮如上人の熱き御心を
感ぜずにおれないではありませんか。

Q5.ではどうすれば、
その名号を頂けるのでしょうか。

お釈迦さまは、
「聞其名号」
「無上の功徳の名号は、聞く一念に
我々に満入する」
と説かれています。

「聞く一つ」で頂けるように、
阿弥陀仏は名号を成就なされているのです。

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Q6.どのように聞けば
      よいのでしょうか。

親鸞聖人は、こう和讃されています。

たとい大千世界に
みてらん火をもすぎゆきて
仏の御名を聞くひとは
ながく不退にかなうなり

      (浄土和讃)
たとえ大宇宙が猛火に包まれても、
その中、弥陀の名号(仏法)を聞く人は、
不滅の幸せに輝くのである

尋常ならざる、真剣な聞法の勧めです。
また、たゆまぬ聞法の大切さを、
蓮如上人はこう細説されています。

りて堅きは石なり、至りて軟らかなるは水なり、
水よく石を穿つ。
「心源もし徹しなば菩提の覚道何事か成ぜざらん

といえる古き詞あり。
いかに不信なりとも聴聞を心に入れて申さば、
お慈悲にて候間、信を獲べきなり。
只仏法は聴聞に極まることなり

        (御一代記聞書)

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至って堅い石でも、至って軟らかい水で穴が開く。
『初志貫徹すれば成就できぬことはない』
と昔から言われるではないか。
どんなにしぶとく疑い深くとも、
聴聞に身も心も打ち込めば、
限りなく深い弥陀のお慈悲によって、
必ず信心を獲ることができるのだ。

ただ仏法は聞くことが肝要である

これら善知識方の教えに順って「聞法」に励み、
信心獲得してお礼の念仏を称える身と
ならせていただくのです。
それこそが、親鸞聖人の最も喜ばれる
真の750回忌となりましょう。
(平成23年5月号のとどろきです)


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