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「死んだらどうなるか」、生きている今ハッキリする! [信心決定]

   「死んだらどうなるか」

       未来の行き先は

     生きている今、

        ハッキリする

 

       生死の大問題が解決すると

         絶対の幸福になれる

 

巻頭特集のお釈迦さまの例え話で、旅人は無常の虎から逃げ、

九死に一生を得て、命の藤蔓にぶら下がりました。

ところがその藤蔓は、太陽が昇れば白の、沈めば黒のネズミが

絶え間なくかじり続け、刻々と細くなっていきます。

絶体絶命と知って驚いたものの、

やがて旅人は甘いハチミツをなめて喜ぶようになりました。

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「そんな危ないところにいながら、どうして?」

と尋ねたら、旅人はどう答えるでしょうか。

〝どうせいつか死ぬ。どう抵抗しても死は避けられないから、

やりたいこと、楽しいことをやったらいいじゃないか〟

死を直視しても暗くなるだけ、

考えないで明るく生きたほうがいい、

せっかくのハチミツを楽しまなくっちゃ、

とごまかそうとしているのでしょう。

フランスの哲学者、ブレーズ・パスカルは、

『パンセ』にこう記しています。

「気を紛らすこと。人間は、死と不幸と無知とを

癒やすことができなかったので、幸福になるために、

それらのことについて考えないことにした」

そして、あと一週間の命なら何をすべきか。

それを今すべきである、と言っています。

「情念にじゃまされないために、

一週間の生命しかないもののように行動しよう」

「もし一週間なら、ささげるべきであるならば、

全生涯をささげるべきである」

             (パスカル『パンセ』)

 

不調を覚え病院へ行くと、病はすでに手遅れと診断された。

生きられるのはあと7日間となったら、どうしますか。

「もっと早く来ていれば・・・」

と医師に言われ、私の周りだけが切り取られ、

異次元の世界に迷い込んだよう・・・。

世の中はいつもと変わりなく動いているのに。

 

宝くじが当選して喜んだのもつかの間、

急転直下の暗闇となった人が実際にありました。

 

●1億円当たったけれど余命が・・・

 

アメリカ・ニューヨーク州北部に住んでいた大工の

ドナルド・サヴァスターノさん(51歳)は、

今年1月初め、地元のコンビニエンスストアで購入した宝くじで、

一等に当選し100万ドル(日本円で約1億900万円)を手にした。

(2018年5月号です)

「これで人生が変わるよ、本当に」

とドナルド氏は喜び、

「トラックを1台買って、それからバケーションにも

行きたいね。残りは定年後の資金にするつもり」

と、放送局のインタビューに答えていた。

そしてもう一つ、健康診断を受けようと思った。

最近、体調がよくなかったからです。

ところが、訪れた病院で告げられたのは、

ステージ4の肺がん。

すでに脳に転移、治療も不可能という事実でした。

宝くじ当選の23日後、ドナルドさんは51歳で亡くなりました。

ガンを告知された時、

「当たった宝くじ1億円で余命を思いっきり楽しんだら?」

と言われて喜べたでしょうか。

ガンを早期発見して完治していれば、

1億円で楽しい人生を過ごせたはずです。

 

●死を前にして楽しめることは

 

臨終を前に、その心を書き留めたのが、

10年間の闘病生活の末亡くなった、東大宗教教授の

岸本英夫氏です。

44歳で東大教授となりエリートコースを歩みました。

その後、アメリカのスタンフォード大学に客員教授として

滞在中、皮膚ガンの宣告を受けます。

手術の4年後に再発。再度手術するも、いつ再発して

死に至るかとの不安が常にありました。

その心境をこう述べています。

 

「人間が、ふつうに、幸福と考えているものは、

傷つきやすい、みかけの幸福である場合が、

多いようであります。

それが、本当に力強い幸福であるかどうかは、

それを、死に直面した場合にたたせてみると、

はっきりいたします。

たとえば、富とか、地位とか、名誉とかいう社会的条件は、

たしかに、幸福をつくり出している要素であります。

また、肉体の健康とか、知恵とか、本能とか、

容貌の美しさというような個人的条件も、

幸福をつくり出している要素であります。

これが、人間の幸福にとって、重要な要素であることは、

まちがいはないのであります。

だからこそ、みんなは、富や美貌にあこがれるのでありまして、

それは、もっともなことであります。

しかし、もし、そうした外側の要素だけに、

たよりきった心持ちでいると、その幸福は、

やぶれやすいのであります。

そうした幸福を、自分の死と事実の前にたたせてみますと、

それが、はっきり、出てまいります。

今まで、輝かしくみえたものが、急に光を失って、

色あせたものになってしまいます。

お金では、命は買えない。

社会的地位は、死後の問題に、答えてはくれないのであります

             (岸本英夫『死を見つめる心』)

 

元気な時は「死んだら死んだ時さ」と、欲しいものをかき集めて

喜んでいますが、いざ死に直面すると、全く楽しめない。

それを〝傷つきやすい、見せかけの幸福〟と言っています。

 

●不急のことで争っている

 

死は100パーセント確実に、すべての人に襲いかかり、

一切を奪ってしまいます。

これを仏教では「生死の一大事」とか「後生の一大事」と

いいます。

これほどの大事はないのですが、

なぜかほとんど問題にされません。

お釈迦さまは、

世人薄俗にして共に不急の事を諍(あらそ)う(大無量寿経)

と仰っています。

「世人」とは、世の中のすべての人。

「薄俗」は、浅はかで、俗っぽいこと。

すべての人は、急がなくていいことを争ってまでやっている。

人生の一大事に気づかずに、つまらない目先の小事に

とらわれている、ということです。

〝小事にこだわるには、人生は短すぎる〟

とイギリスの元首相、ベンジャミン・ディズレーリは

言いました。

 

●人生の一大事が、今、解決できる。

 

後生は小事ではない、一大事。

しかしその解決の道は、学校や親も、政治家も教えてくれない。

大学で研究されることもない。

すべての人が、準備もせず、何の予備知識もないまま

突如対面し、愕然とするのです。

どんな行き当たりばったりの人でも、

未来に重大なことがあると分かれば、

少しは準備するはずなのに・・・。

例えば自然災害や火災などは、誰もが遭うわけではありません。

一生涯、遭わない人も多いのに、

起きてしまったら大変だから、

万が一の準備に火災保険や地震保険に入ります。

そうしないと安心して暮らせないからでしょう。

ところが、死は万人が100パーセント直面します。

また、火事や災害なら、やけ太りや復興できましょうが、

命は一度失ったら取り返しがつきません。

それなのに、この無防備さはどうしたことでしょう。

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京都学派を創始した哲学者の西田幾多郎は、

死の問題を解決するというのが人生の一大事である

と言っています。

 

ここで誤解してはならないのは、

〝死を直視すれば人生が輝く〟とか、

〝死を意識すればより充実した生を送ることができる〟

と思うことが、生死の一大事の解決ではないということです。

そんなレベルの話ではなく「死んだらどうなるか」、

未来の自分の行く先をハッキリさせることなのです。

「そんなこと、死んでみなければ分からんだろう」

と思われましょうが、

〝違う。生きている時にハッキリさせることができる〟

と説くのが仏教です。

これを「平生業成」といいます。

 

●どうすれば一大事の解決ができるか

 

この生死の一大事の解決は、

阿弥陀仏のお力によってしかできないと、

お釈迦さまは教えられました。

2600年前、釈迦が7000余巻ものお経を説かれたことは、唯、

この生死の一大事の解決の道、阿弥陀仏の本願ひとつでした。

お釈迦さま自ら、こう宣言されています。

 

如来、世に出興する所以は道教を光闡(こうせん)し、

群萌(ぐんもう)をすくい恵むに真実の利を以てせんと

欲してなり      (大無量寿経

 

私〈釈迦〉がこの世に生まれ出た目的は、仏教を説き開き、

一切の人々を阿弥陀仏の真実の救いに導くためであった

 

この『大無量寿経』は、釈迦の説かれた7000余巻の

お経の中で、唯一真実の経典だと親鸞聖人は断言されています。

 (他の経典は方便ということ。つまり、真実に導くために

説く必要があったということ。

やればできると自惚れ強い我々に実際にやらせてみて、

自力無功を知らせるために、

善をやらせてみて、一つの善もできない罪悪深重の者と知らせるために、

7000余巻の教えが必要であった。by minsuke)


それ真実の教を顕わさば、すなわち『大無量寿経』これなり

                   (教行信証教巻)

阿弥陀仏とは、お釈迦さまが私たちに紹介された仏さまです。

大宇宙の諸仏方の師の仏が、阿弥陀仏です。

最高無上の仏さまですから、本師本仏とか無上仏とも

仰がれています。

その阿弥陀仏は、今にも命の蔓(つる)が切れ、

深海へ堕ちるしかない私たちを、

「必ず絶対の幸福に助ける」

と約束されています。

そのお約束を阿弥陀仏の本願といわれます。

人間の約束は不履行も少なくありませんが、

仏の約束は絶対です。

どんな人も、必ず救われるのです。

 

●絶対の幸福とは

 

私たちの求める幸福は、ハチミツのように、

なめている時は楽しいのですが、時間がたてば

色あせたり消えてしまう。

また、次第に甘さを感じなくなり、もっともっと、

と強烈な甘さを求めてのめり込んでしまいます。

心から満足できない楽しみなのです。

たとえ20~30年と求め続けても、最後死ぬ時には、

何の力にもなってくれません。

それを予感するからこそ、人生は常に不安と不足で一杯です。

 

一方絶対の幸福は、決して色あせたり壊れることがない、

何があっても、なくても喜べる幸福です。

この絶対の幸福は私たちの求めている幸せの

延長線上にあるのではありません。

生死の大問題を解決して初めて、本当の安らぎと満足の、

絶対の幸福になれるのです。

そしてやがてこの世の縁尽きれば、必ず極楽浄土へ

生まれられる、生きてよし死んでよしの身ですから、

何ものにも恐れるものはありません。

そんな幸せに、必ずしてみせると誓われているのが、

本師本仏の阿弥陀仏です。

 

室町時代に親鸞聖人の教えを日本中に広められた蓮如上人は、

こう言われています。

 

人間はただ夢・幻の間のことなり、後生こそまことに

永生の楽果なり。(中略)

人間は五十年・百年のうちの楽なり、後生こそ一大事なり

               (御文章1帖目10通)

 

人の一生は、50年から100年の夢や幻、

この世から永遠に変わらぬ幸せこそ、

求めるべき真実であり、必ず極楽浄土へ往く身に

なることが大事なのだと勧められています。

 

●みな人よ 信心決定あれかし

 

だから蓮如上人は、ご遺言に、

 

あわれあわれ、存命の中(うち)に皆々信心決定あれかしと

朝夕思いはんべり、まことに宿善(しゅくぜん)まかせ

とはいいながら、述懐のこころ暫くも止むことなし

                 (御文章4帖目15通)

 

あぁ、すべての人よ。命のあるうちに

信心決定(後生の一大事の解決)してもらいたい。

そのこと一つを終日、思い続けている〟と、

仰っています。

そして、仏法を聞いて後生の一大事解決できるか否かは

「まことに宿善まかせ」

と言われます。病気になれば「医者まかせ」、

車に乗れば「運転手まかせ」と言われるように、

「まかせ」とは一番大事なものにつける言葉です。

宿善とは、過去にやってきた善のこと。

最も大事なのは聞法善です。

仏法を真面目に真剣に聞いてきた人、そうでもない人、

善いことをたくさん行ってきた人、少ない人、

各人各様、皆違いますから宿善には厚い薄いの違いがあります。

宿善の厚い人と、薄い人はちょうど、枯れ松葉と青松葉の

ようなものだといわれます。

枯れ松葉はマッチ1本ですぐ火がつきますが、

青松葉に火をつけようとしても、プスプスと水をはじいて、

なかなか火はつきにくい。

聞法して早く救われる人は、阿弥陀仏のお慈悲の火が

すぐつく枯れ松葉のような人。

仏法を聞いても、同じことをどれだけ聞けばよいのかと

ブスブス文句ばかりの人は、青松葉のような人です。

しかし、どんな人も「聞く一つ」で、

阿弥陀仏の本願に救われるのですから、聞法が最も大事。

真剣な聞法に身を沈め、1日も早く一大事を解決して、

往生極楽の身になってもらいたい、

と蓮如上人は念じ続けられているのです。

仏法は聴聞に極まる

阿弥陀仏の本願を聞く一つで、後生の一大事が解決されれば、

孤独で寂しい人生も底抜けに楽しい人生に生まれ変わります。

「生きるって、こんなに素晴らしいことだったのか」

と、人生の醍醐味を満喫できるのです。

弥陀の本願に疑い晴れるまで、真剣に聞かせていただきましょう。


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弥陀に救われるのは現在ただ今、急がねばならない! [信心決定]

成等覚証大涅槃(等覚を成り、大涅槃を証することは、)
必至滅度願成就(必至滅度の願、成就すればなり)
            (親鸞聖人・正信偈)

今回はこの2行について学びましょう。
初めに、
「成等覚証大涅槃(等覚を成り、大涅槃を証する)」
と言われているのは、
「まず『等覚』に成り、『大涅槃』を証しなさい」
ということです。
親鸞聖人は私たちに、
「『等覚』に成らねば、『大涅槃』を証することは
絶対にできないのだから、早く『等覚』に成りなさい」
と勧めておられるのです。

そこで「等覚に成る」とはどんなことか、
お話しいたしましょう。

等覚に成る

「等覚」とは、さとりの位の一つです。
一口に「さとり」と言っても、
低いさとりから高いさとりまで、
全部で五十二の段階があり、
これを仏教で「さとりの五十二位」といわれます。
その最高位を「仏覚(仏のさとり)」とも
「無上覚」ともいわれ、
「等覚」とは、その「仏覚」まであと一段の、
五十一段の位をいうのです。

「等覚」はまた「正定聚」とも「信心決定」ともいわれ、
今日の言葉で「絶対の幸福」といえます。

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親鸞聖人が『正信偈』に朝晩、「早く等覚に成りなさい」
と教えられていることを、
蓮如上人はご遺言に、

あわれあわれ、存命の中に皆々信心決定あれかしと、
朝夕思いはんべり

              (御文章)

と仰っています。
初めに、
「あわれあわれ(あわれだなあ、不憫だなあ)」
と嘆かれているのは、どういうことでしょうか。

私たちが「かわいそう」と思う相手は、不幸な人です。
幸せの絶頂にいる新郎新婦に向かって、
「あわれあわれ」とは誰も言わないでしょう。

地震の被災者や、飢餓で苦しむ子供たちなどを見て、
「気の毒だなあ」と思うのです。
ところが蓮如上人が哀れんでおられるのは、
一部の人だけのことではありません。
「皆々」とあるように、
「すべての人」に「不憫だなあ」と言われているのです。

「ん?なんでだろう。別に私はそれほど不幸ではないが」
と思われる人も多いでしょう。

なぜ蓮如上人は、私たちすべてを「あわれ」と
悲嘆されているのでしょうか。

今日でも、仏教といえば「死んだら極楽」「死んだら仏」
と思っている人がほとんど。
「この世はどうにもなれない、助かるのは死んでから」
が常識になっています。

せっかく生まれ難い人間に生まれながら、
本当の仏教も知らず、
何のために生まれてきたのか、生きているのか、
真の人生の目的も分からぬまま、
金だ財産だ、地位だ名誉だ、酒だ女だと、
浮かれ騒いで酔生夢死(すいせいむし)していく。
“人間に生まれてよかった”という命の輝きはなく、
人生こんなもんさとアキラメてはいないでしょうか。

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そんな私たちを蓮如上人は、
「かわいそうに。情けないことだ」
と悲しんでおられるのです。

そして、仏法は、
「存命の中に」
“生きているときが勝負なのだ。
死んでからでは手遅れですよ”
と道破され、
「皆々信心決定あれかしと、朝夕思いはんべり」
“すべての人に「信心決定」してもらいたい。
そのこと一つをこの蓮如は、
朝から晩まで、思い続けているのだよ”
と、述懐されているお言葉です。

私たちが朝夕考えていることは、
「どうしたらお金が儲かるか」
「人から褒めてもらえるか」ということばかりですが、
親鸞聖人や蓮如上人が念じ続けられているには、
私たちの「信心決定」一つであることがお分かりでしょう。

人間は、ただ生きるために生きるのではない。
崇高な目的があって、生まれてきたのであり、
生きているのです。

どんなに苦しくても生きねばならないのは、
「信心決定」するためであることを、
親鸞聖人も蓮如上人も、
「早く等覚に成れ」
「命のあるうちに、片時も急いで信心決定せよ」
と教示されているのです。

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ところがそう聞いても、なにしろ「等覚」とは、
最高位の「仏覚」に次ぐさとりの位ですから、
「そんな等覚に、私なんかがホントになれるのかな」
と、途方に暮れる人もあるかもしれません。
しかし、「成れない」ことを
「成れ」とおっしゃる聖人ではありません。
「等覚に成れ」と言われているのは、必ず成れるからです。
「信心決定せよ」と言われているのは、できるからです。

それでもなお、「どうしても、等覚にならねばならないんですか」
「信心決定なんて、できっこない」と、
尻込みする人もあるでしょう。
しかし、現在「等覚」にならねば、
死後「大涅槃を証する」ことは絶対にできないのです。
「大涅槃を証する」とは、
「阿弥陀仏の極楽浄土へ往って、
弥陀と同じ仏のさとりを開く」こと。
先述のように、みんな「死んだら極楽」「死んだら仏」
と思っているのは大間違いで、
誰でも仏になれるのではない。

この世で等覚になった人だけが、
死ぬと同時に極楽へ往って仏に成れる
」のだから、
「成等覚証大涅槃」
“まず「等覚」に成り、「大涅槃」を証しなさいよ”
と聖人は朝晩、『正信偈』に仰せなのです。

後生の一大事

浄土真宗には、
「この世はどうにもなれない、死んだら極楽、死んだら仏」
と言う人が多いのですが、
この世と死後の関係を知れば、それはおかしいと分かります。
お釈迦さまは、
唯一の真実の経である『大無量寿経』に、

従苦入苦 従冥入冥

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と説かれています。これは、
「苦より苦に入り、冥より冥に入る」
と読みます。

今苦しんでいる人は、死んだ後もジゴクの苦を受ける。
「この世のジゴクから、死後のジゴクへと堕ちていく」
と仰ったお言葉です。


「ジゴク」というのは中国の昔の言葉ですが、
日本の言葉では「苦しみの世界」ということです。
この世のジゴクというのは、
何のために生きているのか分からず、
毎日が不安で暗いことをいいます。
「私ほど業なものはない」
と他人を恨み世間をのろい、
「こんな辛いのなら死んだほうがましだ」
と苦しむ暗い生活が、この世のジゴクです。
このような、現在が真っ暗闇の生活を送っている人は、
死後も必ず真っ暗闇のジゴクへ堕ちて
苦しまなければならないことを、
お釈迦さまは、
「苦より苦に入り、冥より冥に入る」
と教えられているのです。

続けて、
「教語開示すれども信用する者は少し(すくなし)。
生死休まず(やまず)、悪道絶えず」
と、現在の苦が救われなければ、
永遠に苦しみ続けなければならぬ一大事を説示され、
その「本当の地獄の苦しみは、
どんな喩えでも説けない」ことを、『賢愚経』には、
「諸々の比丘よ、如何なる喩と雖も、
如何に地獄の苦なりやを説くこと能わず」
と警鐘乱打されています。
かかる死後の大きな苦しみを助け、
極楽へ生まれさせる力が阿弥陀仏にあると、
本当に思っている人なら、
この世の苦しみを助けられることも分かるはずです。
「この世はどうにもなられません、死んだら極楽」
と言うのは、理屈に合いません。

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それはちょうど、
「目の前にある小さな川は渡れないが、
向こうの大きな河なら渡れる」
と言っているようなもの。

眼前の小川さえ渡れない人に、
どうして後方の大河が渡れましょう。

同様、この世の苦さえどうにもならなければ、
死後の大変な一大事を助かるはずがないのです。


別な例えで言うと、
「1万円の買い物するお金はないけど、
100万円の物なら買える」
と言っているのと同じです。

100万円の物を買える人なら、
1万円の買い物は楽にできるに決まっています。

後生の一大事の大苦悩を救う力のある阿弥陀仏なら、
わずか100年の人生の苦しみを助けてくださるのは
当然ではありませんか。

それを「この世はどうにもなれない、死んだ後だけ助かる」
ように思っている人はこの世も死後も助からないことを、
蓮如上人は、

この信心を獲得せずば、極楽に往生せずして、
無間地獄に堕在すべきものなり

            (御文章)

と教誡されています。

ただ今「信心獲得(信心決定)」しなければ、
死んで極楽どころか、一大事が起きますから、
親鸞聖人も、蓮如上人も、
「早く等覚に成れ」
「存命の中(うち)に皆々信心決定あれかし」
と、手に汗握って勧化なされているのです。

弥陀の救いは二度ある・・・二益法門

「成等覚証大涅槃」とは、
“現在、等覚になった人は、死ねば極楽浄土へ往って
弥陀同体の仏のさとりを開くことができるのだ”
と、「弥陀の救い」は現在と死後の二度あることを
言われています。

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このように、二度の弥陀の救いを
明らかにされた方が親鸞聖人ですから、
親鸞聖人の教えを「現当二益」の法門(教え)といわれます。
「現当二益」とは、「現世(この世)の利益」と
「当来(死後)の利益」の2つの利益(救い)のこと。
「等覚に成る」現在の救いを
「現世の利益(現益)」と言われ、
「大涅槃を証する」死後の救いは
「当来の利益(当益)」と言われます。

この現当二益の親鸞聖人の教えを、
少しでも分かってもらいたいと、
蓮如上人は問答形式で次のように教えておられます。

問うていわく、
「正定と滅度とは、一益と心得べきか、
また二益と心得べきや」。
答えていわく、「一念発起のかたは正定聚なり、
これは穢土の益なり。
つぎに滅度は浄土にて得べき益にてあるなりと心得べきなり。
されば二益なりと思うべきものなり」
           (御文章)

弥陀の救いは一度でしょうか、二度あるのでしょうか」
と問いを出され、
この世は、弥勒菩薩と同格(正定聚・等覚)に救い摂られ、
死ぬと同時に弥陀の浄土で、
無上のさとり(滅度・大涅槃)が得られる。

弥陀の救いは二度(二益)ある

と明快に答えておられます。
この二度の「弥陀の救い」を親鸞聖人は『正信偈』に、
「成等覚証大涅槃(等覚を成り、大涅槃を証する)」
と、一行で言われているのです。

必至滅度の願、成就

ではどうして、この世で「等覚」に成った人が、
死後「大涅槃」を証することができるのか。

それは、
必至滅度願成就(必至滅土の願、成就すればなり)」
と言われています。

「必至滅土の願」とは、阿弥陀仏の「十一願」のこと。
十一願とは、弥陀が四十八の約束をされている中の、
十一番目のお約束をいいます。

弥陀は十一願に、
“この世で正定聚(等覚)に成った人を、
死後、滅度(大涅槃)に至らせてみせる。
もしできなければ命を捨てる”
と誓われている
ので、
十一願を「必至滅度の願」といわれているのです。
“現在「正定聚」に成った人が、
必ず死後「仏覚」を開くことができるのは、
この弥陀の十一願が完成されているからなのだ”

と言われている『正信偈』のお言葉が、

成等覚証大涅槃(等覚を成り、大涅槃を証することは、)
必至滅度願成就(必至滅度の願、成就すればなり)
に二行です。


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後生の一大事を解決するには何が一番大事か! [信心決定]

『御文章』の、「一心一向に弥陀たのめ」
      とはどんなことか

後生の一大事を解決し、
絶対の幸福を求めている私たちにとっては、
最も大切なこと
ですから、
親鸞聖人は、往生の肝腑自宗の骨目といわれ、
蓮如上人は分かりやすい比喩まで挙げて
ご教示になっています。

『御文章』二帖目九通に、

忠臣は二君につかえず、
貞女は二夫をならべず

という外典の言葉を引かれて、

「一心一向というは、阿弥陀仏に於て、
二仏をならべざる意なり」
と明示なされています。

「忠臣は二君につかえず、貞女は二夫をならべず」
という言葉は中国の『史記』という本に出ています。
仏教の経典以外の書ですから、
蓮如上人は外典と言われております。

●自殺した王蠋

その『史記』には次のような有名な話があります。
昔、中国の斉(せい)という国の王様が、
おごりに長じて酒色にふけって
大事な政治を怠っているのを嘆いて、
忠義な王蠋という大臣が
たびたび王に諫言(かんげん)しましたが、
いつも馬耳東風で一切聴きいれてくれなかった。
そこで王蠋は、身の不徳を嘆いて
役職を辞退して画邑という所へ隠居してしまいました。
王蠋のいなくなった斉の国は
崩壊を待つばかりの状態であったので、
隣国の燕王(えんおう)が今がチャンスと
楽毅(がっき)という人を総大将にして、
斉の国に攻め込んできました。
斉はひとたまりもなく崩壊しました。
その時、燕の大将。楽毅はかねてから
王蠋の賢徳手腕を高く評価していたので、
燕の高官に迎えたいと幾度も礼を厚くして勧めましたが、
王蠋は頑として応じようともしませんでした。
それでも楽毅が勧誘をあきらめなかったので、
最後にその使者に向かって、
「忠臣は二君につかえず、貞女は二夫をならべず」
と喝破して庭先の松に縄を掛け、
自ら首をくくって死んだとあります。

蓮如上人はこのことを思い出されて、
わずか娑婆一世の主従でさえ、
忠臣は二君に仕えずと言って死んで、
心の潔白を表しているではないか。

ましていわんや、未来永劫の一大事の解決を求めている者が、
二仏を並べていてどうして一大事を解決できようか。
私たちの一大事の後生を救い切れるお方は、
本師本仏の阿弥陀仏しかないのだから
弥陀一仏に一心一向になれよと、
お諭しになっているのです。

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間男見つけたり

讃岐の庄松同行がある時、法友の家を訪れると、
どうしたことか奥の間の床に神棚を祭り、
シメ縄を飾ってあるのを見て、
「間男見つけたり、間男見つけたり」
と大声で叫んで
弥陀一仏に一心一向になるように背いているのを戒めたのも、
「貞女は二夫をならべず」の言葉から出た言い草でありましょう。

もちろんこのことは、さかのぼれば釈尊出世の本懐である、
一向専念無量寿仏」のみ教えであります。
親鸞聖人はこれを、

一向専念の義は、往生の肝腑、自宗の骨目なり
                (御伝鈔)
と言われています。

今の行者、錯って(あやまって)観音勢至につかうることなかれ、
ただちに本仏をあおぐべし

               (御伝鈔)
と教え、

聖道・外道におもむきて余行を修し余仏を念ず、
吉日・良辰をえらび、占相・祭祀をこのむものなり、
これは外道なり、これはひとえに自力をたのむものなり

             (一念多念証文)
とまで断定なされています。

このように、私たちの後生の一大事の解決には
諸神諸仏の力も及ばないし、
余行余善も間に合いませんから、
それらを一切投げ捨てて、ひたすらに弥陀一仏に一向専念せよ

と最も厳しく教えられたのが親鸞聖人でありましたから、
世間の者たちは、親鸞聖人の教えを
一向宗とまでいうようになったと
蓮如上人はおっしゃっておられます。

無上仏の声なき声

これらのことによってもいかに親鸞聖人や蓮如上人が、
強く厳しく弥陀一仏に一心一向になれよと
教えられたかがお分かりになると思います。

ところがうぬぼれ強くて真実の自己を知らない私たちは、
これらの必死の善知識の仰せにも従えず、
諸神や諸仏に心をかけたり、
諸善万行を力にして流転を続けております。
それがやがて調熟の光明に照育されて、
罪を罪とも分からず、悪を悪とも感ぜず、
地獄行きを地獄行きとも知りえない、
三世の諸仏に見捨てられても
何とも思わぬ地獄一定の悪性の底を知らされ、
棒にも、はしにもかからぬ魂一つが
業に引かれて無間のドン底へ投げ込まれた時、
久遠劫から追いかけてきたのは、
その持ちも提げもならぬ、
諸仏菩薩に捨てられた心と一体になるためぞ!
の声なき声に貫かれ、
阿弥陀さま!こんなこととは知りませなんだ、
五劫思惟の本願はこの私一人のためでございました、
南無阿弥陀仏、阿弥陀仏、弥陀一仏に打ち任せた時を
一心一向に弥陀たのむというのです。
どうかここまで、聞き抜かせていただきましょう。


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念仏はお礼であって、称えても救われない! [信心決定]

憶念弥陀仏本願(弥陀仏の本願を憶念すれば、)
自然即時入必定(自然に即の時必定に入る、)
唯能常称如来号(唯能く常に如来の号を称して、)
応報大悲弘誓恩(大悲弘誓の恩を報ずべし、といえり。)
           (親鸞聖人・正信偈)
親鸞聖人が、尊敬する七高僧の第一、
龍樹菩薩の教えを述べておられるところです。

「弥陀仏の本願を憶念すれば、
自然(じねん)に即の時必定に入る」とは、
「阿弥陀仏の本願を信ずれば、
弥陀のお力によって、一念で必定に入る」
ということです。
これを蓮如上人は、
「一念発起・入正定之聚」 (聖人一流の章)
“一念で正定の聚(じゅ)に入る”といわれています。
一念とは、弥陀に救い摂られる、
アッともスッとも言う間のない短い時間のことです。
「必定に入る」とは、必ず仏に成ることに定まること。
「正定聚に入る」も、間違いなく仏のさとりを
開くに定まった人たちの仲間入りをすることです。

弥勒菩薩と肩を並べる身に

それは、弥勒菩薩と肩を並べる身になることであり、
いつ死んでも浄土に往生できる大満足の身になることだよ、
と親鸞聖人は『教行信証』に教えられています。
その驚くべきお言葉を聞いてみましょう。

真に知んぬ。
弥勒大士は、等覚の金剛心をきわむるがゆえに、
龍華三会(りゅうげさんえ)の暁、
まさに無上覚位をきわむべし。
念仏の衆生は、横超の金剛心をきわむるがゆえに、
臨終一念の夕、大般涅槃(だいはつねはん)を超証す

              (教行信証)
「本当にそうだったなぁ!
あの弥勒菩薩と、今、同格になれたのだ。
全く弥陀の誓願不思議によってのほかはない。
しかもだ。
弥勒は56億7000万年後でなければ、
仏のさとりが得られぬというのに、
親鸞は、今生終わると同時に浄土へ往って、
仏のさとりが得られるのだ。
こんな不思議な幸せが、どこにあろうか

「真に知んぬ」とは、
「あまりにも明らかに知らされた」驚嘆の叫びでありましょう。
弥勒大士」とは、仏のさとりに最も近い、
等覚というさとりを得ている菩薩のことです。

仏教では、凡夫が仏覚に到達するまでに、
五十二段のさとりの位があり、しかもその間、
三大阿僧衹劫の長い修練が必要だと説かれています。

一位から四十一位までに第一阿僧衹劫、
四十一位から四十八位までに第二阿僧衹劫、
そこから五十二の位に成るまでに第三阿僧衹劫かかるとあります。

阿僧衹劫(あそうぎこう)とは
億兆よりも数十桁高い桁の名ですから、
大変な長期間です。

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その五十一段まですでに上り、
釈尊の次に仏のさとりを開いて現れる、
釈迦の後継者といわれるのが弥勒菩薩です。

そのため今でも弥勒信仰の人は決して少なくありません。

ところが驚くことなかれ。
親鸞聖人は、弥陀の本願を憶念した一念で、
その弥勒と同等になったとおっしゃっているのです。

「念仏の衆生」とは、弥陀の本願を憶念した人であり、
聖人ご自身のことを言われています。
「横超の金剛心をきわむる」とは、
他力によって一念で五十一段高とびさせられ、
正定聚不退転の身に救われたことを言われます。
金剛心とありますように、
何ものにも壊されることのない、
絶対の幸福になりますから、
“よくぞ人間に生まれたものぞ”
という生命の歓喜は、生涯、変わりません。

しかも、それだけではないのです。
弥勒菩薩が無上覚を開き、
龍華三会という法座で初の説法をするのは、
五十六億七千万年後であると経典に説かれていますが、
弥陀に救い摂られている念仏の衆生は、
「臨終一念の夕」、つまり死ぬと同時に、
「大般涅槃を超証す」、弥陀の浄土へ往って
弥陀同体のさとりを開かせていただけるのです。

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アッと言う間もない一念で弥勒と肩を並べ、
命終われば“弥勒お先ごめん”と仏のさとりを開く。
これひとえに、
弥陀の威神力不思議によってのほかありません。

こんなとてつもない救いを、だれが想像できましょう。
事実、江戸時代、有名な比叡山の学僧だった鳳潭(ほうたん)は、
この『教行信証』を読んで狂人の書だと、
唾棄して庭に投げたといいます。

念仏はお礼の言葉

弥陀の本願は信ずる一念で救い摂るお約束、と聞くと、
では念仏は何のために称えるのか、
と疑問に思う人もあるでしょう。

それについてハッキリと、
唯能く常に如来の号(みな)を称して、
大悲弘誓の恩を報ずべし

と教えられています。
「ただ如来の号を称えなさい」
とは、阿弥陀如来の御名、念仏を称えなさいということです。
それは、大悲弘誓の恩に報いるためだと言われています。
大悲とは大慈悲心。
弘誓とは弥陀の本願のこと。
ですから、
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と
口に称える念仏は、
弥陀の本願によって、
絶対の幸福の身に救われた御恩報謝であると、
親鸞聖人は明らかにされています。

つまり念仏称えたら助かるのではない、
念仏は救われたお礼であるということです。

救いは信心か、念仏か
    信行両座の諍論

これは昔も今も、大変よく誤解されているところです。
そのため親鸞聖人は34歳の時、
法友と大論争までなさっています。
有名な信行両座の諍論です。

ある時、聖人は法然上人の御前で手を突かれました。
「お師匠さま。私は何の宿縁でか、
無二の善知識にお会いすることができました。
そのうえ、380余人の法の友達も持たせていただきました。
皆過去世からの、深いご縁のある方ばかりでございます。
ところでお師匠さま。
この世だけの友達では、寂しゅうございます。
未来永劫の友達が、何人おられるか、
親鸞、心にかかります。
お許しいただければ、この親鸞、皆さんの信心を
一度お尋ねしとうございます。
いかがなものでございましょうか」
「親鸞、そなたもそのことを案じ煩っていたのか。
この法然も常に心にかかっていたことだ。
しかし信心は心の問題だからなあ。
どのようにして確かめようとするのか」
「私に一つの名案がございます。
私に任せていただけましょうか」
「けっこうなことだ。それこそ、まことの友情というもの。
そなたの思うとおりやってみるがよかろう」
こうして師の許しを得られた親鸞聖人は、早速、
信の座と行の座を設定し、法友380余人を集めて、
厳かにおっしゃいました。
「本日は御師・法然上人の認可を頂き、
皆さんにぜひお尋ねしたいことがございます。
ごらんのとおり今ここに、行不退の座敷と信不退の座敷と、
2つの座敷に分けました。
いずれなりと、皆さんの信念に従って
お入りいただきたいのです

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ここで「行」とは念仏のこと、
「信」とは信心のこと
ですから、分かりやすく言えば、
「弥陀の本願は、念仏称えれば助けるという
お約束だと思っている人は行の座へ、
信心一つで救う誓いだと心得ている人は
信の座へ入ってください」
という問いかけです。

親鸞聖人の投じられた問題は、
法然門下380余人を驚かせ、戸惑わせるに十分でした。
果たして、決然と信の座に着いたのは、
信空、聖覚法印、熊谷蓮生房の3名のみ。
やがて、親鸞聖人も信不退の座に進まれ、
最後に380余名注視の中、法然上人も、
「それではこの法然も信の座に入れていただこう」
と、信の座に着かれています。

こうして、弥陀の本願は、
信心一つで救いたもうお約束であると、
聖人は争いまでして明らかになされたのでした。

蓮如上人のご教示も

これを受けて蓮如上人も、
聖人一流の御勧化の趣は、信心をもって本とせられ候
               (聖人一流の章)
と、信心一つで救われることを明示されています。
そして、念仏さえ称えておれば救われるという誤りを、
至るところで破られています。

ただ声に出して念仏ばかりを称うる人は、
おおようなり。それは極楽に往生せず

           (御文章三帖)
ただ声に出して南無阿弥陀仏とばかり称うれば、
極楽に往生すべきように思いはんべり。
それは大に覚束なきことなり

           (御文章三帖)
「念仏称えなさい。救われる」というのは、
断じて浄土真宗の教えではないのです。

念仏は、

「かくの如く決定しての上には、
寝ても覚めても命のあらんかぎりは、
称名念仏すべきものなり」
           (御文章五帖)
その上の称名念仏は、如来わが往生を
定めたまいし御恩報尽の念仏と、心得べきなり

           (聖人一流の章)

とありますように、信心決定した人が、
阿弥陀如来の御恩徳に感泣し、
そのうれしさのあまり、お礼の心で称えるものが、
他力の念仏だと説かれています。

報謝で浄土へ詣りょうか

ここは大変間違えやすい所なので、
蓮如上人は替え歌まで作って、
その誤りを正しておられます。

巡教中の蓮如上人が、
茶店の娘の奇妙な子守歌を耳にされた。
「泣いて呉れるな
    泣かしはせぬぞ
 泣けば子守の身が立たぬ。
    昔々に武士は
      箒(ほうき)と刀を間違えて
 箒で敵が討たりょうか」
この風変わりな歌の訳を尋ねられると、
“ある侍が、親の敵を探して旅をしていたところ、
ちょうどこの茶店で、
目の前を馬に乗って行く敵を見つけた。
あまりに慌てた侍は、刀とほうきを間違えて、
ほうきを手につかんで、
「敵待てい」と追いかけた”と言う。

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興味深げに聞かれていた上人は、
幾度もうなずき、
替え歌を作り供の者に与えられたという。
堕ちて呉れるな
    堕としはせぬぞ
 堕とせばこの弥陀
    身が立たぬ。
 昔々の同行は
  信と報謝を間違えて
 報謝で浄土へ詣りょうか

このように親鸞聖人・蓮如上人のご教示で明らかなように、
信心一つが浄土へ生まれる正しい因であり、
称える念仏はお礼ですから、
信心正因、称名報恩
といわれ、これが浄土真宗の骨格であります。
つまり信心決定できたかどうかで、
往生の可否を決するのです。

皆々信心決定あれかしと、
そればかりを善知識方が念じ続けられるゆえんです。


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阿弥陀仏に救われるとどう変わるのか!? [信心決定]

已能雖破無明闇(已に能く、無明の闇を破すと雖も、)
貪愛嗔憎之雲霧(貪愛・愼憎の雲霧、)
常覆真実信心天(常に、真実信心の天を覆えり、)
譬如日光覆雲霧(譬えば、日光の雲霧に覆われるれども、)
雲霧之下明無闇 (雲霧の下、明らかにして闇なきが如し)

            (親鸞聖人・正信偈)
 

みんなに知ってもらいたいことがある。
あなたに伝えたいことがある。
それにはどう書けば、どう表現すれば・・・。
一字一涙の御心で筆を染められた『正信偈』には、
親鸞聖人九十年の教えのすべてがおさまっています。
その『正信偈』を、朝晩拝読する勤行は、
自らの声を通して、聖人の直のご説法を聞かせていただく
聞法の勝縁です。
ゆえに浄土真宗の家では毎日欠かされないのも、
お分かりでしょう。
しかし、せっかく暗誦できるほど親しんでいても、
意味が分からず「門徒もの知らず」では、
あまりにも勿体ないですね。
一行一句に込められた真意をよくよく知り、
聖人の教えに明るい真実の仏弟子とならせていただきましょう。
まず冒頭に、
帰命無量寿如来(無量寿如来に親鸞、帰命いたしました)
南無不可思議光(不可思議光に親鸞、南無いたしました)
と言われている二行は、
親鸞、阿弥陀如来に救われたぞ!
親鸞、阿弥陀如来に助けられたぞ!
という、「弥陀の救い」に遇われた聖人の告白であり、
叫び尽くせぬ歓喜の発露です。
この初めの二行で親鸞聖人は、

○弥陀の救いは、平生ただ今である。

○弥陀の救いは、ハッキリする。

という、「凄い弥陀の救い」を明らかにされていることは、
すでに繰り返し述べてきました。
では、どうすれば親鸞さまと同じように、
私も弥陀に救われるのですか。
救われたら、何がどう変わるのですか
私たちの切実な疑問に、同じく『正信偈』の中で
懇ろに答えておられるのが、次の五行です。

已能雖破無明闇(已に能く、無明の闇を破すと雖も、)
貪愛嗔憎之雲霧(貪愛・愼憎の雲霧、)
常覆真実信心天(常に、真実信心の天を覆えり、)
譬如日光覆雲霧(譬えば、日光の雲霧に覆われるれども、)
雲霧之下明無闇 (雲霧の下、明らかにして闇なきが如し)

ここで親鸞聖人は、どんなことを言われているのか、
少しずつ区切りながら解説していきましょう。

●弥陀の救いは「破闇明闇」

まず一行目の「已能雖破闇明闇」に、
「阿弥陀如来の救いは、無明の闇を破ること(破闇明闇)である」
と、明らかにされています。
「無明の闇」とは、「後生暗い心」ともいわれ、
「死んだらどうなるのか、ハッキリしない心」。
「後生」とは、一息切れた死後のことであり、
「暗い」とは、分からない、ハッキリしないことをいいます。

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生まれたからには死は避けられませんが、
その死後の行く先が、分からない。
有るのか、無いのかさえも定かではない。
“千の風になる”と言われても、ピンとこない。
“死んだら死んだ時だ”と強がってみても、
どうもスッキリしない。
“死後は無になる”の信念にも、根拠がない。
心はなんだかぼんやりしています。
気楽に考えている人は
「念仏さえ称えておれば極楽へ往けるのだろう」
と淡い想像をし、自己を真面目に見つめている人は
「こんな私は暗い世界へ行くのではなかろうか」
と恐れおののく。
「でも、そこはお慈悲な阿弥陀さま、なんとかしてくださるだろう」
と希望を抱きもする。
死を遠くに追いやっている間は気づかなかったが、
ひょっとして今晩かもと、
死を凝視して魂を後生へ送り出してみると、
なんとも言えぬ不安な、恐ろしい戦慄を覚える。
崖っぷちから千尋(せんじん)の谷底をのぞき込んでいるような
薄気味悪い、真っ暗な心が胸一面を覆います。
このような、確実な行く先である「後生」がハッキリしない心、
今の一息一息と触れ合っている「後生」が暗い心を、
親鸞聖人は「無明の闇」と言われているのです。

本師本仏の阿弥陀如来は、
この「後生暗い心(無明の闇)」こそが、
十方衆生(すべての人)の苦しみの根元と見抜かれて、
「無明の闇を破り、“必ず浄土へ往ける”大安心に救い摂る」
と誓われています。
これを「阿弥陀如来の本願」と申します。
「本願」とは「誓願」とも言われ、約束のこと。
有名な『歎異抄』冒頭の「弥陀の誓願」も、
この阿弥陀如来のお誓いのことです。

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「後生暗い心(無明の闇)」が晴れわたり、
“必ず浄土へ往ける”とハッキリしたことを
「往生一定」ともいわれます。
それは、どんな事故や災難にも微動だにしない大満足であり、
最悪の死が来ても崩れない幸せですから、
『歎異抄』には「摂取不捨の利益」とか
「無碍の一道」とも言われ、
今日の表現で「絶対の幸福」といえるでしょう。
しかも弥陀は、その絶対の幸福に「一念で救う」
と誓っておられる。
一念とは、何兆分の一秒よりも短い時間。
アッと言う間もない一瞬で、
後生暗い心(無明の闇)を破り、
絶対の幸福に救い摂る、と、弥陀は誓われているのです。

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この弥陀の誓願通りに「後生暗い心」が晴れて、
「往生一定」に救い摂られたことを、
「已能雖破闇明闇(いのうすいはむみょうあん)
「弥陀の誓願力によって(能く)、無明の闇が破られた」
と言われ、冒頭の、
「帰命無量寿如来(親鸞、弥陀に救われたぞ!)
南無不可思議光(親鸞、弥陀に助けられたぞ!)」
という宣言も、
聖人自らこの「弥陀の救い」に遇われた魂の絶叫なのです。

●弥陀に救われたら、どうなるのか

では、弥陀のお力によって、
苦悩の根元である「無明の闇」がぶち破られて
「往生一定」の絶対の幸福に救い摂られたならば、
どうなるのか。
欲も起こさず、腹を立てないようになるのか。
「しがみつかない生き方」に変わるのか。
執着心の無いひょうひょうとした人生になるのだろうか。
それらのことについて、親鸞聖人は次に、
貪愛瞋憎之雲霧(貪愛・瞋憎の雲霧、)
常覆真実信心天(常に、真実信心の天を覆えり)
と明言されています。
「貪愛」とは、貪欲・愛欲のことで、底知れぬ欲の心。
褒められたい、儲けたい、愛したい、愛されたい、
まだ足らんと、際限もなく求める心をいわれます。
ダイエットや整形に大金を投じ、
時には命の危険さえ冒すのも、
モテたい、キレイと言われたい、
の強烈な願望にちがいありません。
「瞋(しん)」は瞋恚、怒りの心。
欲が邪魔されてカーッと腹が立つ心です。
ひとたび怒りの炎が燃え上がると、
理性も教養もへったくれもなく八方を焼き尽くす、
恐ろしい心です。
18歳の男が、「交際を邪魔されたから」と、
恋人の姉を刺殺した事件も、
この怒りのなせる業でしょう。
「憎」は憎しみ・うらみの心。
因果の道理も分からず、
“オレがこんな目にあったのは、あいつのせいだ”
“こいつが余計なことを言ったからだ”
“世間が悪い”と他人を怨み世を呪い、
ライバルの容姿や人気をねたみそねむ、
醜い心のことです。

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これら欲や怒り・ねたみそねみの心で私たちは、
朝から晩まで煩わされ、悩まされ、
イライラしてはいないでしょうか。
仏教ではこれを「煩悩」といわれ、
全部で百八つあると教えられます。
聖人が「貪愛瞋憎(とんないしんぞう)の雲霧」
と言われているのは、
その百八の煩悩を雲や霧にたとえられてのこと。
次に「真実信心の天」は、
無明の闇が晴れた「後生明るい心」であり、
その天を、欲や怒りの雲霧が「常覆(常に覆っている)」
とは、「途切れる間がない、一杯である」ことですから、
この三行で親鸞聖人は、
「弥陀に救われて『無明の闇』が無くなっても、
欲や怒り・ねたみそねみの『煩悩』は、
減りもしなければ無くもならない、まったく変わらない」
と、驚くべきことを道破されているのです。

●仏教の目的は、何か

この「煩悩」と「無明の闇」の違いを正しく知らなければ、
親鸞聖人の教えは絶対に分からず、
弥陀の救いには遇われません。
だからこそ聖人は、『正信偈』に峻別して教えておられる。
ところが、専門外の作家が間違うならまだしも、
相当の真宗学者でもこの「煩悩」と「無明の闇」
の区別がなされておらず、
ごちゃまぜに論じているものがほとんどですから、
違いを知るのは大変です。
それで、多くの人の仏教観がこうなるのでしょう。
「阿弥陀仏に救われたならば、欲が減って、
何事にも淡泊になるのではないか。
今まで一日に十回腹を立てていた人は、
忍耐力がついて、五回か六回になるのだろう。
執着を離れてひょうひょうとした生き方になるのではないか」

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これが常識ですから、それに反する言動を見聞きすると、
「あんたは仏教を聞いているのに、
少しも欲が減らないじゃないの」
「腹立ててばかりいるし。聞く前とちっとも変わってない。
それで仏教聞いているといえるの?」
「そんなことでは仏教聞く意味なんてない!」
と非難までする。
これは「無明の闇」と「煩悩」との違いが分からず、
仏教の目的を完全に誤解しているから。
すなわち、
「仏教を聞く目的は、煩悩を減らすことだ」
「欲や怒りをコントロールできるようになることだ」
と、カンカンに思い込んでいるのです。

そこで聖人は、この「無明の闇」と「煩悩」との違いは
簡単にわかることではないからと、
さらに譬えを重ねて、
譬如日光覆雲霧(譬えば、日光の雲霧に覆わるども、)
雲霧之下明無闇(雲霧の下、明かにして闇なきが如し)
“雲や霧で天が覆われていても、弥陀の智慧の太陽で、
心は明るく浄土に遊んでいるように楽しいのだ”
と解説されています。
私たちの本願成就のポイントは、
欲や怒りの煩悩にあるのではなく、
「無明の闇が晴れたか、どうか」にあることを、
巧みなたとえで説かれているお言葉と知られるでしょう。

●「無明の闇」と「煩悩」のちがい

阿弥陀仏の目的は、私たちの欲や怒りの煩悩を
減らしたり無くすることではありません。
もしそうなら、弥陀に救われた人は、
夜も眠らず食欲減退、ヒョロヒョロの草食系の人間になり、
誰かにいきなり頭をたたかれても、
腹も立たないということになります。
おかしいとすぐ分かるでしょう。
弥陀の救いは「無明の闇(後生暗い心)を照破すること」なのです。

聖人は9歳で仏門に入って20年、
比叡山の日々は、まさに煩悩との格闘でした。
「あの湖水のように、なぜ心が静まらぬのか。
あの月を見るように、なぜさとりの月が見れぬのか。
思ってはならぬことが思えてくる。
考えてはならぬことが浮かんでくる。
恐ろしい心が噴き上がる。
どうしてこんなに欲や怒りが逆巻くのか」
無常の風は時を選ばず。
このままならば、釜の中の魚の如く、
永久の苦患は免れぬ。
忍び寄る無常の嵐に火急を感じ、
「こんな親鸞、救われる道があるのだろうか」
と下山を決意。
間もなく、法然上人に邂逅(かいこう)され、

「凡夫」というは、無明・煩悩われらが身にみちみちて、
欲もおおく、瞋り腹立ち、そねみねたむ心、
多くひまなくして、臨終の一念にいたるまで、
止まらず消えず絶えず
            (一念多念証文)

“人間というものは、欲や怒り、腹立つ心、
ねたみそねみなどの塊である。
これらは死ぬまで、静まりもしなければ減りもしない。
もちろん、断ち切れるものでは絶対にない”。

苦悩の根元は無明の闇一つであると知らされて、
「無明の闇を断ち切り、往生一定の身にする弥陀の誓願」
に救い摂られたのが、
聖人29歳の御時のことでした。
それから90歳でお亡くなりになるまで61年間、
この「弥陀の救い」ひとつを、すべての人に知らせたいと、
「煩悩」と「無明の闇」との違いを『正信偈』に峻別され、
欲や怒りの煩悩は、死ぬまで無くならぬ。
仏教を聞く目的は、
後生暗い『無明の闇』を破ること一つなのだ。
聞き誤ってはならないよ
と朝晩、訴えておられる5行なのです。
弥陀のご本願を、正しく聞き抜かせていただきましょう。


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二度の臨終、二度の葬式とはどんなことか [信心決定]

 

 二度の臨終といいますのは、
心の臨終と肉体の臨終のことです。
ゆえに、二度の葬式というのも
同じく心と肉体の葬式をいいます。
親鸞聖人は、阿弥陀仏の本願を信じ切れた時に、
私たちは一度死ぬのだと仰っています。
同時に生き返るのですが、
その時が阿弥陀仏に救われた時であると
仰っておられます。
(信じ切れるとは、弥陀に救われるということ)


『愚禿鈔』に「信受本願、前念命終。即得往生、後念即生。」
とあるのは、このことを言われたものです。
すなわち、弥陀の本願を信受する前念に一度、
命が終わると仰っています。

この命というのは、昿劫より流転を重ねてきた
自力の心のことであり、
不安な魂のことなのです。

その自力の迷心が、阿弥陀仏の名号利剣によって、
一念で殺されてしまうのです。

まさに迷いの打ち止めがなされるのです。
(※利剣とは、切れ味が鋭いことをたとえて言われている。)
覚如上人は、これを、
「平生のとき善知識の言葉の下に帰命の一念を発得せば、
そのときをもって娑婆のおわり臨終とおもうべし

              (執持鈔)
と喝破なされています。

これによっても分かりますように、
心の臨終とか、魂の葬式といわれるのは
信心決定することをいうのです。

(信心決定とは、弥陀に救われること)

肉体の臨終や葬式は、世間周知のことですから省きます。
この中でも、浄土真宗では特に、
心の臨終、魂の葬式の有無をやかましく申します。

すなわち、信心決定したか、否かということです。
親鸞閉眼せば賀茂河にいれて魚に与うべし」
の聖人のご持言(じごん)も、
建仁元年、29歳の時に魂の葬式が済んでいるので、
肉体の葬式などは眼中になかったからのお言葉です。

昔から、死ぬほど苦しいことはない、
と言われますように、
信心決定する前念には本当に死ぬ苦悶を
一度体験させられます。
聞法求道に精も根も尽き果てて、
悲泣悶絶した体験を善導大師は三定死と名づけられ、

「ゆくも死、かえるも死、とどまるも死、
一種として死を免れず」
と、絶体絶命、じだんだ踏んだ体験を述べています。


親鸞聖人の
「いずれの行も及び難き身なれば、
とても地獄は一定すみかぞかし」
の悲痛の叫びも、
この魂の臨終の体験を告白なされたものです。

大死一番(だいしいちばん)、如来の願力によって、
この関門を突破させられた時に、

初めて「即得往生、後念即生」と、
身も心も南無阿弥陀仏の絶対の幸福を獲得して
生まれ変わるのです。

死んでよし、生きてよし、心は浄土にすみ遊ぶ心境は、
かかる体験を通して初めて味わわれる風光なのであります。


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