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人間にはどれほど生まれ難いのか? [六道輪廻]


(真実の仏法を説いておられる先生の書かれた「とどろき」より載せています) 

ああ 受け難き 人身
     人と生まれし意味を聞く

2月は、仏教を説かれたお釈迦さまが
お隠れになった月。
2600余の星霜(せいそう)を経て、
釈迦45年間の仏教は一層私たちを引きつけます。
「仏教とは、すべての人の出世の本懐(人生の目的)である」
と親鸞聖人は、一言で喝破なされています。

生きる目的をどのように教えられているのか、
詳しくお聞きしましょう。

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●祝福された産声が
  やがてウラミの声に
    変わるのはなぜ?

「産声を聞いた時、
赤ちゃんが生まれた喜びで
体中が熱くなり、
涙があふれて止まりませんでした」

ある母親の言葉です。
誰もが祝福されてこの世に生を受けました。
人間に生まれたことを、みんなが
「おめでとう」と歓迎したのです。

ところが歓迎された当の“主人公”は、
成長するにつれて、人生の荒波にもまれ、
「何で生まれてきたのだろう」
と生まれたことを後悔し、
「なぜ俺を産んだ」
と、親を恨む人さえあります。

人生を「ハズレくじ」のように思っているのでしょう。
本当は、誰もが、人間に生まれたことを
心の底から喜びたいはずです。

太宰治は小説『斜陽』の中で、
登場人物にこう言わせています。

「幸福の足音が、廊下に聞こえるのを今か今かと
胸つぶれる思いで待って、からっぽ。
ああ、人間の生活って、あんまりみじめ。
生まれて来ないほうがよかったと
みんなが考えているこの現実。
そうして毎日、朝から晩まで、
はかなく何かを待っている。
みじめすぎます。
生まれて来てよかったと、
ああ、いのちを、人間を、世の中を、
よろこんでみとうございます」

なぜ生まれ難い人間に生まれたことを
よろこべないのか。
それは「人生の目的」を知らないからだ、
と仏教で教えられています。
何のために生まれてきたのか。
何のために生きているのか。
なぜ苦しくても生きねばならないのか。
この人生の根本問題に
真正面から答えたのは仏教なのです。

人身受け難し、今已に受く。
仏法聞き難し、今已に聞く。
この身今生に向かって度せずんば、
さらにいずれの生に向かってか、
この身を度せん」  (釈尊)

生まれ難い人間に生まれることができてよかった。
聞き難い仏法をよくぞ聞くことができた。
何が何でも今生で救われねば、
いずれの生で救われようか。
永遠のチャンスは今しかないのだ。

今回はこの言葉を通して学びましょう。

●人間にはどれほど
    生まれ難いか?

「人身受け難し、今已に受く」
「人身」とは私たち人間のこと。
「人身受け難し」とは、
「人間に生まれ難い」という意味です。


人間に生まれることはどれほど難しいか、
他の生き物と比較してみましょう。
マンボウが一度に産む卵の数は3億個といわれます。
これだけで日本の人口の2倍以上。

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『蟻の自然誌』によるとアリの数は、
約一京(いっけい)(一兆の一万倍)で、
すべてのアリの重さを計算すると、
全人類の総重量に匹敵するそうです。
昆虫の総数になると100京にも上るといわれます。
人間は、爆発的に増えたといっても70億ですから、
かりに人口を100億にしても、
昆虫の数(100京)は、その1億倍になります。
単純計算すると、
人間に生まれる確率は昆虫の1億分の1です。
もちろん昆虫以外にもたくさんの動物がいます。
名前がついているだけで120万種といわれ、
未発見のものを含めると、
870万種に上るという説もあります。

全生命の総数ともなると、もはや計り知れません。
もし、自分が、あのアリの行列の一匹、ハエ、蚊だったら・・・。
そう思うと、人間に生まれることが、
いかに困難か、お分かりになるでしょう。

●お釈迦さまの説かれた 
   「盲亀浮木の譬え」

人間界に生を受けることがいかに有り難いか、
お釈迦さまは、譬えで教えておられます。

ある時、お釈迦さまが阿難というお弟子に、
「そなたは人間に生まれることを
どのように思っているか」
と尋ねられました。
「大変喜んでおります」
と阿難尊者が答えると、
お釈迦さまは盲亀浮木の譬え
お話なさっています。

「果てしなく広がる海の底に、
目の見えない亀がいる。
その盲亀が、100年に一度、
海面に顔を出すのだ。
広い海には1本の丸太ん棒が浮いている。
丸太ん棒の真ん中には小さな穴がある。
その丸太ん棒は風のまにまに、
西へ東へ、南へ北へと漂っているのだ。
阿難よ。100年に一度、浮かび上がるこの亀が、
浮かび上がった拍子に、
丸太ん棒の穴にひょいと頭を入れることがあると思うか」
聞かれた阿難は驚いて、
「お釈迦さま、そんなことはとても考えられません」
と答えると、
「絶対にないと言い切れるか」
お釈迦さまが念を押される。
「何憶年かける何憶年、何兆年かける何兆年の間には、
ひょっと頭を入れることがあるかもしれませんが、
無いと言ってもよいくらい難しいことです」
と阿難が答えると、
「ところが阿難よ、私たちが人間に生まれることは、
この亀が、丸太ん棒の穴に首を入れることが有るよりも、
難しいことなんだ。有り難いことなんだよ」
と教えられています。

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「有り難い」とは「有ることが難しい」
ということで、めったにないことをいいます。
人間に生まれることは、
それほど喜ばねばならないことだと、
お釈迦さまは教導されているのです。

また、『涅槃経』には、

人趣に生まるるものは、爪の上の土のごとし。
三途に堕つるものは、十方の土のごとし

人間に生まれるものは、
爪の上の砂のように少なく、
三悪道(地獄・餓鬼・畜生に苦しみの世界)に堕つる者は、
大宇宙の砂の数ほど多い。

とも説かれています。

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●人生の目的を
  達成してこそ・・・

ところが、これほど生まれ難い人間に生まれながら、
喜んでいるどころか、
「なんで生まれてきたのかなあ」
「人間に生まれさえしなければ、
こんなに苦しまなくてもよかったのに」
と恨んでいる人さえあります。
それは、何のために人間に生まれ、
生きているのか、人と生まれし本懐は何か。
人生の目的が分からないからです。

「人間に生まれたのはこれ一つのためであった」
と人生の目的を達成させていただいた時こそ、
「人身受け難し、今已に受く」
「人間に生まれてよかった!」
という生命の大歓喜が起きるのです。

では、仏教で生きる目的を
どのように教えられているのでしょう。
明らかにしたいと思います。

●悲劇の輪から離れ出るには

仏教に説かれる生きる目的を、
自らハッキリ知らされ、
生涯多くの人に伝えていかれた親鸞聖人は、
こう仰っています。

昿劫多生のあいだにも
出離の強縁知らざりき
本師源空いまさずは
このたび空しく過ぎなまし
        (高僧和讃)
(※昿劫・・・果てしない長期間
  多生・・・生まれ変わり死に変わりして、
       多くの迷界をさまよってきたこと
  本師源空・・・親鸞聖人の師・法然上人
  高僧和讃・・・親鸞聖人がインド・中国・日本の
         7人の高僧を讃歎された詩)

このご和讃のこころです。
果てしなき長い間、迷いの世界を
生まれ変わり死に変わりして、
苦しみ続けてきた。
よもやこの身が、この世で
阿弥陀仏のお力(出離の強縁)によって
無量光明土(極楽浄土)に必ず往生できる身に
救い摂られるとは、
親鸞知らなかったなあ。
もし、真の恩師・源空(法然)上人にお会いできなかったら、
二度とないチャンスを失い、
永遠に苦しんでいたに違いない。
危ないところを親鸞、法然さまに救われたのだ。

まず「昿劫多生のあいだにも」とは、
遠い過去から幾度も生死を繰り返してきたことを
表されています。
その間、真の救いを求めたがかなわず、
迷いの世界(六道)を経巡って苦しんできた、
ということです。

私たちが今、生まれ難い人間界に生まれるまでには、
過去果てしない長期間、
6つの苦しみの世界(六道)を
生死輪廻してきたのだと
お釈迦さまは教えられています。
これを「六道輪廻」とか「流転輪廻」ともいわれます。

「輪廻」は輪が廻る(まわる)と書くように、
ゴールのない円周を、限りなく回っているさまです。

 

試合に負けたバツだ、と部活動の顧問が生徒に言いつける。
「私がいいと言うまで、おまえたち、
グラウンドを走っておれ!」
ところが罪なことに気分屋の顧問は、
生徒を走らせていることをすっかり忘却、
帰宅してしまった。
夕食を取ってくつろいでいた時に思い出して、
慌てて学校に駆けつけると、
生徒たちはまだ黙々と走り続けていたという。
トラックから外れることもできず、
ゴールの見えないランニングを続けていた
彼らの未来は、悲惨な走り倒れです。
その苦しみの輪を出て、
往生一定(極楽往き間違いなしとハッキリすること)
の身に救ってくださる教えが、実に仏教なのです。

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●一瞬の人生で、永の(ながの)迷いを晴らす

次に「出離の強縁知らざりき」の「出離の強縁」とは、
六道輪廻を断ち切り、
迷界から出て離れ、二度と迷わぬ絶対の幸福の身に
助けてくだされる強烈なお力を「強縁」といわれます。
これは、阿弥陀仏の本願力のことです。

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「本願」とは「誓願」ともいい、お約束のこと。
十方諸仏の師匠の仏である阿弥陀仏が、
苦悩から離れ切れない私たちを哀れに思われ、
必ず絶対の幸福に救い摂り、
来世は極楽に往生させ、仏にしてやりたい、
と誓われたのが「弥陀の本願」です。

この弥陀の強い強い願力によって、
六道出離の身になれるのは、
仏法が聞ける人間界でなければできないこと。

三悪道(地獄・餓鬼・畜生界)のように苦しみが激しくても、
天上界のように楽しみが多すぎても、
仏法は聞けないからです。

釈尊は仏教を聞けない八つの障り「八難」を挙げられ、
チャンスは人間に生まれた今しかないことを
教えられています。
ですから「人生の目的」といっても、
本当は「多生永劫の目的」のことなのです。

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過去無量劫から果てしない未来へと続く、
永遠の生命から見たら、50年、100年の人生など
あっという間。
その一瞬で、永の迷いの打ち止めをさせられる。

これをお釈迦さまは
「今生でこの身を度する」
(今救われる)
と言われています。

●本当の先生には会い難い

ところが、そんな大事を教えた仏教は、
誰もが聞きたいのにもかかわらず、
ほとんどの人が知りません。
なぜなら、「出離の強縁(弥陀の本願)」を説かれる先生は
雨夜(あまよ)の星で、めったに会うこ
とはできないのだと、
聖人はご自身の体験を通して仰せです。

真の知識にあうことは
難きが中にもなお難し
        (高僧和讃)

「真の知識」とは、阿弥陀仏の本願を
正しく伝える先生のこと。

9歳で出家なされた親鸞聖人は、
天台宗の僧侶として20年間、比叡山で学ばれました。
比叡山といえば、当時の仏教の中心地。
全国の俊秀(しゅんしゅう)が集まっていましたが、
弥陀の本願を教える知識には会えなかった
とお弟子たちの前で述懐されています。
アニメ『世界の光・親鸞聖人』(第6巻)
の場面で見てみましょう。

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親鸞聖人「親鸞、後生が苦になってのぉ、
     どこかにこの一大事、助かる道教える大徳はないか、
     導く高僧知識いまさぬかと、
     狂い回ったが、会えずに泣いた」
お弟子A「比叡山や奈良にもですか?お師匠さま」
お弟子B「あそこには、全国の高僧知識が集まっていなさると
     聞いていますが・・・」
     (聖人、静かに首を横に振られる)
親鸞聖人「その比叡や、奈良にも、教える知識はなかったのだ。
     今にして思えば、仏法に暗き者ばかりだったと知らされる。
     そんな親鸞が、よき人・法然上人に巡り会えた時の喜びは、
     そなた方にも思い知らされるであろう」

苦闘20年の末、なおも暗い心の解決ならず、
泣く泣く比叡の山を下りられた聖人が、
間もなく弥陀の本願を説かれる明師・法然上人との
邂逅(かいこう)をいかに喜ばれたか。
(※邂逅・・・巡り会うこと)

「本師源空いまさずは
このたび空しく過ぎなまし」
もし、法然(源空)上人にお会いすることができなかったら、
出離の強縁を知らず、二度とないチャンスを失い、
永遠に苦しんだに違いない。
危ないところを法然上人に救われた。

のお言葉からも分かるでしょう。
実際に助けてくださるのは阿弥陀さまですが、
その救いのあることを教えてくだされた
法然上人がおられなければ、
救われることもなかった
のですから、
「法然さまに、親鸞すくわれたのだ」
「会い難い善知識に、よくぞお会いできたものぞ」
との仰せも深くうなずけることです。

まさに、
「仏法聞き難し」
のお釈迦さまのお言葉を痛感せられたでしょう。

その聞き難さを釈尊は、
「ヒマラヤの山頂より糸を垂らして、
麓にある針の穴に通すことよりも難しい」
と説かれています。

ちょっとボタンを付け替えようと、
針と糸を取り出して、目をしばたたかせつつ、
目の前の針の穴に通すのさえ難儀するのに、
八千メートルの頂上からでは針の影さえ分からない。
その難しさたるや想像も及ばないでしょう。
考えてみますと、地球上に70億の人あれど、
仏縁あって無上仏(阿弥陀仏)の本願が聞ける人は、
どれだけあるか。

今こうして、聖人のみ教えに出遇えた皆さんは、
大変深い仏縁に恵まれているのです。

“軽い気持ちで読み始めただけ”
という人もあるかもしれませんが、
聞法を重ねていくと、
「本当に聞き難いことであった」
と知らされ、尊い仏縁を喜ばずにおれなくなってきます。

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●大目的を果たすのは「今」

「人身受け難し、仏法聞き難し」
この二大難関を突破して、今、
あなたは人間に生まれ、仏法を聞いている。
今、幾億兆年にもないチャンスが巡ってきたのです。

“今日は用事があるし、仕事や家事も忙しいし・・・
聞法はまたの日に”
などと言っている場合ではありませんね。

いつ仏法聞くのか?
いつ救われるのか?
今である。
とお釈迦さまは仰っています。

それが、
この身今生に向かって度せずんば、
さらにいずれの生に向かってか、
この身を度せん

のお言葉です。
この多生永劫の目的を知ったならば、
いかなる人生の荒波にもまれても
「大目的を果たすため、乗り越えなければ」
と力が湧いてくる。
あるかないか分からぬ幸福の足音を
胸つぶれる思いで待つ日々は、
今ハッキリする弥陀の救いに向かって
たくましく前進する人生に大転換いたします。
「何で俺を生んだのか」
の恨みが、
「生んでくれてありがとう」
の感謝に転回するのです。

その身に救われるのは、仏法は聴聞に極まる。
「人間に生まれたのはこのためであった」
と生命の歓喜を獲るところまで、
真剣に仏法(阿弥陀仏の本願)を聞き抜きましょう。

(聞き抜くは、弥陀に救われるの意味)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
体験手記
(25歳の時から、往生極楽の道を探し求めていた川田さん。
しかし、本当の親鸞聖人の教えに出遇うまで、
長い年月を費やさねばなりませんでした。
当時の心境を語ってもらいました)

60年訪ね歩いて
ようやく真実に遇えた
   岐阜県 川田 貞子さん(仮名)

ーー仏法を求めるようになったきっかけは?

3つの時に地獄・極楽の絵を見て、
「あんな怖い所は行きたくない、お浄土に往きたい」
と思いました。
若い頃から自分の心が汚く思え、
結婚して家族と暮らすようになると、
舅や姑を大事にしなければと分かっておりながらも、
「この人たちがいなければ楽になれる。早く・・・」
と邪魔にする心が出て、これでは絶対、
地獄にしか行けないから何とかしたいと。
これが出発点でした。
実家も嫁ぎ先も真宗の盛んな地ですが、
どの寺も葬式法事ばかり。
教えは聞けませんでした。

ーーそれで遠方にも聞きに出かけるようになったのですね。

善知識を求めて、広島、大阪、神戸と訪ね歩きました。
神戸では、真宗の学校の校長先生から学びました。
「『教行信証』は漢字で読まないとダメだ」と言われましたが、
漢文を習って読んでも難しくて・・・。
スラスラと読めず、中身も分からず、ますます苦しくなる。
善知識とはどんな方か。
それすら分からなくなりました。
 
ーーではどんなご縁で、正しいみ教えに出遇ったのですか?

3年前、新聞広告を見て『歎異抄』の解説本を買ったのです。
これまでの本と大違いで、ハッキリ分かり、
寝ずに読みました。
その感動を知人に電話で伝えたところ、
「聞法のつどい」に誘ってくれました。
素晴らしいお話にバンザイしました。
何にバンザイしたかというと、
本師本仏が阿弥陀仏と教えていただいたことです。
今までお釈迦さまに助けてもらうと思っていたのです。
お釈迦さまの先生が阿弥陀さまであった。
長い間聴聞したけれど誰もはっきり教えてくれなかった。
いちばん大切なことを教えていただき、
うれしかった。

阿弥陀仏以外にない。
大悲の願船に乗せていただく以外に絶対に助かる道はない。
この教えを聞けて本当にバンザイしました。

ーー60年かけてようやく巡り遇えたのですね。

そうです。聴聞は皆出席です。
一回休むと100万円を落としたように思います。
真の知識に会うのは、これほど大変なことであり、
幸せやなあと喜んでいます。


親、兄弟、夫婦の縁は遠い過去からの縁、仏縁も然り [六道輪廻]

(真実の仏法を説いておられる先生の書かれた「とどろき」より載せています)

縁の大切さを、昔から
「朱に交われば、赤くなる」
とか
「人の善悪は 近づき習うによる」
さらには
「善人の敵とはなるとも
悪人を友とするなかれ」
といろんなことわざで言われています。
これらはすべて悪い縁を遠ざけ、
善い縁を結ぶことが大事だという、
メッセージを伝えています。
人や物など、さまざまな縁に触れ、
人の運命は織り成されていきます。

その縁とはどんなものか考えてみましょう。

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「袖触れ合うも多生の縁」とか「縁談」など、
私たちはふだん、“縁”という言葉を使ったり、
耳にしています。
生まれた国も言葉も、
目や肌の色も全く違う2人の国際結婚は、
万里を超える縁です。
周りじゅうから反対されても、
突破して駆け落ちするほどの深い縁もあります。
さほど縁のない人は、毎日擦れ違っても
それ以上の間柄にはならず、
会話すらない人がほとんどでしょう。
地球上に70億の人がありますが、
私たちは生涯に何人と縁を持つのでしょう。
話をしたいと思っても縁がないから、
会うこともできないとか、
また、あまり知らなかった人とでも、突如、
縁あって結ばれるなど、
私たちの意志とは別に、見えない赤い糸に
引き寄せられるように
感じて使われる言葉でもあります。

昔の着物は、ひらひらとたもとの揺れる袖がありました。
その袖が触れ合うほど近くにいる人がある。
それは深い因縁あっての故だと言われているのが

「袖振れ(振り)合うも多生の縁」
という言葉です。

“多生の縁”を“多少”と思って、
少しばかり縁があったと思っている人もありますが、
これは、仏教から出た言葉で、
正しくは“多生”です。

●世々生々(せせしょうじょう)の
     父母兄弟

多生とは、多くの生と書きますように、
私たちが人間に生まれる前に、
長い過去があり、いろんな形に生まれ変わり
死に変わりしてきたのだと、
仏教では教えられています。

昔から「二十五有生(うしょう)、生まれる里もなければ、
受けぬ形もない
」といわれます。
“二十五有生”とは、仏教で説かれる
二十五の迷いの世界のことですが、
私たちは遠い過去から、それらどの世界にもどんな形にも
生まれてきたということです。
ある時はイヌに生まれ、またある時はネコに生まれ、
ウシやブタに生まれては殺され、
餓鬼に生まれて求め苦しみ、
地獄に生まれて、
のたうち回ったこともあったでしょう。
そんな長い時の流れの中で、
親子であったり、兄弟、夫婦の関係だったことが
あったのではないでしょうか。

一切の有情は皆もって世々生々の父母兄弟なり
と、親鸞聖人も『歎異抄』に仰っています。
(※25有生は、六道を細分化したもの)

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●春秋知らぬセミ

私たちは、この世、生まれてから死ぬまでの
50年乃至100年の肉体のことしか分かりませんが、
私たちの本当の生命は、肉体ではなく、
果てしない過去からずっと続いてきたと
お釈迦さまは教えられています。

そんな過去世なんか信じられないという人もありますが、
私たちは肉体ができると同時に
造られた頭でしか考えることができませんから
分かりようがないのです。

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セミは春秋を知りません。
夏、地上に出て1、2週間で死んでいくセミには、
春も秋も分からないでしょう。
まして10年や100年などは、
知る由もありません。

同様に私たちが、多生と聞いても
「何それ?そんなのあるか」
と思うのが当然かもしれません。

ですから、生まれる前の過去からの縁と
聞いても毛頭分からず、
人と人が出会うのも、
たまたまだと思われがちですが、
本当は、多生の因縁によるのだと
教えられています。
道で擦れ違い、
袖触れ合うようなささやかな事でも、
それは過去にそうなる関係があってのこと。
原因なく現れた偶然ではなく
因縁が結びついた結果なのだよと
教えられるのです。

私が、ここにいるという結果も
様々な因縁和合してのことですし、
親子・夫婦の関係になるのも、友達となるのも、
過去、多生の間の因縁によるのです。

そうと知れば、コンチクショー、憎い、
こんな人と同じ部屋で息吸うのもイヤ、
と思っている人も、案外、
因縁深い懐かしい方ではないでしょうか。


また皆さんが今、こうして『とどろき』を読み、
「聞法の集い」で仏教を聞かれているのも、
人に勧められて、何となく聞き始めたと
思っていられるかもしれませんが、
実は、根っこが深いのです。


親鸞聖人は、遠い過去から結ばせていただいた
阿弥陀仏との尊いご縁なのだと
言われています。
これを仏縁といいます。

●ああ・・・
    弘誓の強縁

親鸞聖人は、弥陀に救い摂られた時の驚きと慶喜を

噫、弘誓の強縁は多生にも値(もうあ)いがたく、
真実の浄信は億劫にも獲がたし

               (教行信証)

と仰って、多生・億劫という言葉を使われています。
一劫とは、仏教で4億3千200万年ですから、
億劫とは、その億倍、とても想像できない長い時間です。

これは、弘誓の強縁・弥陀の救いにあい、
迷いの打ち止めをさせられた聖人が、
世々生々、多生億劫の間、
迷ってきた流転の過去を
ハッキリ知らされ告白されているお言葉です。

「弘誓の強縁」とは、阿弥陀仏の本願のこと。
阿弥陀仏という仏がなされているお約束のことです。
阿弥陀仏とは、どんな仏さまか。
蓮如上人は、このように教えられています。

弥陀如来と申すは、三世十方の諸仏の本師・本仏なり
              (御文章二帖目八通)

今日の天文学によれば、太陽のような恒星(自ら光る星)が
2千億集まって、銀河系宇宙を作っています。
さらにその銀河が、大宇宙には、
1千億以上もあると知られています。
ケタはずれのスケールですね。

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2600年前、地球上に現れたお釈迦さまが、
仏の智恵によって、この大宇宙には
数知れない仏がましますと教えられ、
それをここで蓮如上人は、
「三世十方の諸仏」と言われています。
それら無数の仏方の本師本仏が
阿弥陀仏といわれる仏さま。
「本師本仏」とは、先生・師匠ということですから、
大宇宙のすべての仏を指導されている仏さまが、
阿弥陀仏(弥陀如来)なのです。

その弥陀が
「すべての人を、必ず絶対の幸福に救う」
と約束なされて、
迷い続ける私たちを何としても助けようと、
あの手この手と、導いていられるのです。

●だれにも
  「多生の目的」がある

私たちは、飲みたい、食べたい、楽したい、
褒められたい、認められたい、そして寝たい、
と欲望を満たす楽しみ以外、
関心がないといってもいいでしょう。

「いたずらに 過ぐる月日は 多けれど
   法を求むる 時ぞ少なき」
テレビの前には、長時間座っても、
法座に身を置くことの何と少ないことか。
せっかく人間としてこの世に生まれたというのに、
くる日もくる日も欲に追い回され、
やがて消え去る、
はかない幸福ばかりを追い求めている。
この世を去る時には、
何一つ持ってはいけないと
百も千も承知していながら、
何と言うバカ者でしょう。
こうして、これまでも、長い間、
迷いを重ねてきたのです。

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そんな私たちを阿弥陀仏は哀れんで
「絶対の幸福に必ず助けてみせる」
と誓われています。

これは、大宇宙の諸仏が、
束になっても絶対にできないお約束なので、
親鸞聖人は『正信偈』に弥陀の本願を
「無上殊勝の願」「希有の大弘誓」
と、たたえられています。
親鸞は全く、この弥陀のお力によって救われたのだ、
と『歎異抄』には

「『弥陀の誓願不思議にたすけられ参らせて
往生をば遂ぐるなり』
と信じて『念仏申さん』と思いたつ心の発る(おこる)とき、
すなわち摂取不捨の利益にあずけしめ給うなり

と仰っています。
摂取不捨の幸せ、
必ず浄土往生できる身に生かされたのは、
全く弥陀の不思議な願力によってだと、
阿弥陀仏の絶大なお力を、
賛嘆(さんだん)されているのです。

そして、この弘誓の強縁・弥陀の本願によって、
必ずあなたも救われる、
弥陀の本願聞き抜きなさいよと、
親鸞聖人は真剣な聞法を勧められています。

人身受け難し、今已に受く。
仏法聞き難し、今已に聞く。
この身今生に向かって度せずんば、
さらにいずれの生に向かってか、
この身を度せん。

            (お釈迦さま)
生まれ難い人間に生まれ、
聞き難い仏法を今聞いています。
遠い過去から結ばれた仏縁に感謝し、
多生・億劫にも聞き難い弥陀の本願を、
今、聞き抜かせていただきましょう。
(聞き抜くとは、阿弥陀仏に救われること)


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「いのち」って何だろう? [六道輪廻]

(真実の仏教を説かれている先生ご執筆の『とどろき』より載せています)    

    「いのち」って何だろう?

 

           仏教の生命観と

              人生の目的

 

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特集①では、私たちにとって

最も大切なものが「人生の目的」であることを

お話ししてきました。

では、仏教では「真の人生の目的」は

何であると教えられているのでしょうか。

 

結論から申しますと、

人生の目的は、後生の一大事を解決することである

と説かれています。蓮如上人はこれを、

 

誰の人も、はやく後生の一大事を

心にかけて・・・・」  (白骨の御文章)

 

われらが今度の一大事の後生、

御助け候えと・・・」  (領解文)

 

この阿弥陀如来をば、如何して

信じまいらせて、後生の一大事をば

助かるべきぞ・・・」  (御文章3帖目4通)

 

一心に阿弥陀如来、後生たすけたまえと・・・

            (御文章5帖目18通)

 

と至るところに教えられています。

 

(蓮如上人・・親鸞聖人の8代目の子孫。聖人の教えを全国に伝え、

       有名な『御文章』を書かれた方)

これはそのまま「親鸞聖人の教え」であり、仏説です。

「久しく沈めるわれら」のお言葉も、

この「後生の一大事」のことです。

ですから「後生の一大事」とはどんなことかを

正しく知らなければ、仏教も、親鸞聖人の教えも、

まったく分からないということです。

当然、人生の目的を達成することも

かなわないことになってしまいます。

そこで、この「後生の一大事」を知るために、

まず、私たちの「生命」を仏教ではどのように説かれているのか、

〝仏教の生命観〟からお話ししましょう。

 

●大河のごとき生命

 

一般的に「いのち」とか「生命」と言えば、

肉体のことだと誰もが思います。

生命工学や脳科学の扱う「生命」も、

遺伝子とかDNAなど物質的な領域を出ません。

鳩山首相が施政方針で、熱心に

「いのちを、守りたい。いのちを守りたいと、願うのです。

生まれてくるいのち、そして、育ちゆくいのちを守りたい」

(2010年5月のとどろきです)

と訴えていた「いのち」も、

「人間としての生命」のことでしょう。   

これが常識的な「生命観」です。

ところが仏教では、我々の生命というのは、

この世のわずか50年や100年の間だけのことではない、

果てしない過去から、永遠の未来へと流れている、

と教えられています。

それはちょうど、滔々と流れる大河のようなもので、

肉体は、その水面にポッと生じてパッと消える

泡のようなものだということです。

IMG_20221027_0002.jpg-5.jpg    

その果てしない生命の歴史を、親鸞聖人は、

「多生」「億劫(おっこう)」「昿劫(こうごう)」

「微塵劫(みじんこう)」、

歎異抄では「久遠劫より流転せる」と、

いろいろに表現されています。

「多生」とは、迷い苦しみの世界を、

生まれては死に生まれては死に繰り返してきたこと。

仏教では、その苦悩の絶えない六つの世界を「六界」

とか「六道」と教えられています。

列記してみましょう。

 

○地獄界・・・最も苦しみの激しい世界。

○餓鬼界・・・餓鬼道ともいう。食べ物も飲み物も皆、

       炎となって食べられず飲まれもせず、

       飢えと渇きで苦しむ世界。

○畜生界・・・犬や猫、動物の世界。

       弱肉強食の境界(きょうがい)で、

       つねに不安におびえている世界。

○修羅界・・・絶えない争いのために苦しむ闘争の世界。

○人間界・・・苦楽相半ばしている、我々の生きている世界。

○天上界・・・六道の中では楽しみの多い世界だが、

       迷界に違いなく、悲しみもあり寿命もある。

 

これらの世界を一人一人が、各自の業(行い)に応じて、

生まれたり死んだり、繰り返し経巡っていることを、

「多生」と言われているのです。

その生死生死を重ねてきた期間は、

100万年や200万年どころではなく、

「億劫(おっこう)」といわれています。

「劫」とは年数の単位で、一劫は「4億3千2百万年」のこと。

その億倍が「億劫」であり、「昿劫(こうごう)」の「昿」も

無限を表す言葉ですから、「億劫」も「昿劫」も、

気の遠くなるような長期間のことです。

また「微塵劫」とも言われています。

「微塵」とは、細かい沢山のチリのことで、

大学の教室など広い空間には、

目には見えませんがチリやホコリが浮いています。

カーテンの隙間から強い光線が射し込むと、

それがよく見えて、「こんなところで息を吸ってたのか」

とビックリするほど。

そのチリの数は、一体どれくらいあるでしょうか。

おそらく10億や20億どころではないでしょう。

その「細かい塵の数」×「劫」が「微塵劫」ですから、

もう無限といっていい。

「多生」「億劫」「昿劫」と同じく、永遠の魂の遍歴を

表された言葉です。

このように、私たちは無限の過去から今日まで

苦しみ迷い続けてきたことを聖人は、

「生死の苦海ほとりなし 久しく沈めるわれら」と言われ、

また、

「自ら流転輪廻を度(はか)るに、

微塵劫を超過すれども、仏願力帰し難く、

大信海に入り難し」(教行信証化土巻)

 

「生死輪転の家に還来する」(正信偈)

 

「昿劫多生のあいだにも

出離の強縁しらざりき」(高僧和讃)

 

「久遠劫より今まで流転せる苦悩の旧里」

            (歎異抄)

 

とも仰っているのです。

このようなお言葉は枚挙にいとまがありませんが、

いずれも「きっとそうに違いない」とか

「果てしない過去から、苦しんできたそうな」

などの想像や憶測ではありません。

弥陀の光明に照破されてハッキリ知らされた自己を

告白されているのです。

 

●一瞬の人生に、

   意味はあるのか

 

それにしても、「昿劫」とか「久遠劫」というスパン(間隔)

で説かれる仏教の生命観は、とてつもないですね。

〝あの支払い、どうしようか〟とか

〝また上司に叱られた〟などという目の前のことで

あたふたしている私たちにとっては、

あまりにもスケールが大きすぎて、

なかなかピンときません。

そこで、分かりやすく比較して考えてみましょう。

地球が誕生して約46億年といわれます。

1億年を1メートルとして換算すれば、

地球の歴史は46メートルになります。

10万年が1ミリメートル、〝中国4千年の歴史〟といっても、

たったの0.04ミリです。

では、日本の平均寿命・80年は?

なんと0.00008ミリ!

長く生きてせいぜい100年の人生は、地球の年齢の46メートルに

比べたならば、針の先で突いた〝点〟にもならない。

医学の進歩は、その瞬間的な人生を、

少しでも長引かせる努力といえましょう。

たとえば臓器移植によって30年延命したということは、

0.00003ミリ延ばしたことになります。

IMG_20221027_0003.jpg-5.jpg

これは地球の年齢46億年と比較した場合ですが、

私たちの生命の歴史は、100億年や200億年どころではない。

「多生」「億劫」「久遠劫」ですから、

それに比べたならば、50年や100年はまさに一瞬。

アッという間に〝娘が嫁と花咲いて、嬶としぼんで婆と散りゆく〟

人生、と知らされるではありませんか。

シャボン玉より儚いこの一生を、

明治の哲学青年・藤村操は、「悠々たるかな天壌、

遼々たるかな古今」と嘆息し、

人生不可解」と言い残して華厳の滝に身を投げました。

どうせ呆気なく死んでいく命、なぜ生きねばならないのか。

煩わしい人間関係に耐え、病魔と闘い、

さまざまな苦難を乗り越えて、

それでも頑張って生きねばならない理由は、何なのか。

どうせ報われない苦労なら、生きる意味がないじゃないか。

「人生って、なんと不可解なのか」

の叫びは、ひとり藤村操だけのものではないでしょう。

そんな悩める私たちに、生きる目的は、あるのか、ないのか。

「あるから、早く達成せよ」

親鸞聖人は、断言されています。

これが、聖人90年の生涯かけたメッセージでした。

自らが29歳の御時に、真の人生の目的を成就され、

「人身受け難し、今すでに受く」

           (釈尊)

〝よくぞ人間に生まれたものぞ〟

と、ピンピン輝く生命の大歓喜を得られた聖人は、

「どうか皆さん、この親鸞と同じように、

本当の人生の目的を知り、達成してもらいたい。

この目的果たすまで、どんなに苦しくても乗り越えて、

生き抜きなさいよ」

と教え続けていかれたのです。

 

●いのちの目的

 

では、「人生の目的」とは何か。

「後生の一大事を解決することである」

と説かれているのが仏教であり、親鸞聖人です。

人間に生まれる前を過去世、生まれてから死ぬまでを現在世、

死んだ後を未来世とか「後生」と言われます。

自覚の有無にかかわらず、私たち一人一人に、

厳然としてこの過去・現在・未来の「三世」があることを、

因果の道理から詳しく教えられているのが仏教です。

そして、久遠劫の過去より今まで流転してきた私が、

死後も永遠の苦患に沈まねばならぬ大問題を、

仏教では「後生の一大事」と言われるのです。

お釈迦さまはこれを『大無量寿経』に、

従苦入苦(苦より苦に入り)

 従冥入冥(冥〈やみ〉より冥に入る)」

現在苦しみの世界から、死後の苦界に入っていく

と警鐘乱打され、親鸞聖人も、

若しまたこの廻(たび)疑網(ぎもう)を覆蔽(ふくへい)

せられなば更りてまた昿劫を逕歴(きょうりゃく)せん

                (教行信証総序)

と訴えられ、蓮如上人も、

この信心を獲得せずば、極楽には

往生せずして、無間地獄に堕在すべきものなり

              (御文章)

と教えておられます。

「この後生の一大事を、阿弥陀仏の本願によって

解決して頂き、未来永劫の幸福に救い摂られることこそが

人生の目的である。

いや本当は一生や二生の問題ではない、

昿劫多生の目的なのだ」

と、釈迦も親鸞聖人も、明言されているのです。

前章で、弥陀の大船に例えられているのは、

この阿弥陀仏の本願のことです。

IMG_20221027_0005.jpg-5.jpg

 

●思想が変われば、世界が変わる

 

戦争、殺人、自殺、暴力、虐待など、

耳をふさぎたくなるような悲しい事件が、

毎日報じられています。

350キロの上空を、国際宇宙ステーションが

周回しているその下で、相も変わらず国同士、

血で血を洗う争いを繰り広げています。

無線LANや液晶テレビが置いてある家の中で、

親が子を殺したり殺されたり、

ケータイやインターネットを介した犯罪や集団自殺も頻発し、

監視や摘発などの対策も間に合わず、

どうにも止められない状態です。

IMG_20221027_0006.jpg-5.jpg

不幸になりたくて生きている人は一人もいないのに、

どうして幸せになれないのでしょうか。

いろいろな議論はありますが、結局は、

「生きる意味があるのか」

「苦しくとも、生きねばならぬ理由は何か」

必死に求めても知り得ぬ深い闇へのいらだちが、

生み出す悲劇と言えるのではないでしょうか。

 

なぜ人間に生まれたことが尊いのか。

人を殺してはいけないのか。

人命は地球より重いのか。

1分でも延命することに意味があるのか。

それは「後生の一大事を解決する」という

「多生億劫の目的」を果たすための〝いのち〟だからなのだと

親鸞聖人は確言され、ゆえに

「肌の色や国籍の違い、男女も貧富も、健常者・障害者も

関係なく、一人一人の命が、無限に重い値を持つのだよ、

だから自ら命を絶つことも、人の命を奪うことも、

あってはならないのだ。

 

生死の苦海ほとりなし

久しく沈めるわれらをば

弥陀弘誓の船のみぞ

乗せてからなずわたしける

 

早く弥陀大悲の願船に乗せていただき、

〝よくぞ人間に生まれたものぞ〟と、

生命の大歓喜を味わえる身になってくれよ。

そこまで仏法を聞き抜けよ」。

先の見えぬ混迷した現代に、救助の大船の厳存と、

その方角を明示された親鸞聖人の大音声が、

鳴り響いているのです。

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我々は六道を輪廻している [六道輪廻]

 

(真実の仏法を説かれている先生の書かれた「とどろき」より載せています) 

生死の苦界ほとりなし
 久しく沈めるわれらをば
弥陀弘誓の船のみぞ
 乗せてかならずわたしける

        (親鸞聖人)
果てしない苦しみの海に溺れもだえている我々を、
阿弥陀仏の造られた大船だけが、必ず乗せて、
明るく楽しく極楽浄土まで渡してくださるのだ

今回もこの親鸞聖人のお言葉について解説します。
まず、親鸞聖人は、「生死の苦界ほとりなし」
と言われています。

これは私たちの生を海に例えられたものです。
仏教で「生死」とは、「苦しみ」を表し、
「ほとりなし」とは、「際がない」「果てしない」
ということですから、
私たちは、果てしない苦しみの海で溺れもだえている
という意味です。
2600年前、お釈迦さまは
人生は苦なり」と言われ、
『正信偈』に親鸞聖人が
「善導独明仏正意」(善導ひとり、仏の正意に明らかであった)
と称賛される中国の善導大師は、1300年前
四方八方眺むれどただ愁嘆の声のみぞ聞く
と言われています。

近代の日本ではどうでしょう?
人生を鋭く見つめた文学者たちはこう語っています。

なんのためにこいつも生まれて来たのだろう?
この娑婆苦の充ち満ちた世界へ。

(芥川龍之介・自伝小説『或阿呆の一生』で、
長男出世について語った言葉)

のんきとみえる人々も、心の底をたたいてみると、
どこか悲しい音がする。

         (夏目漱石『我輩は猫である』)

人生のさびしさは酒や女で癒されるような
浅いものではないからな。

       (倉田百三『出家とその弟子』)

まさに「ほとりなき苦界」の証言です。

●成功者もまた・・・

成功を勝ち得た者もまた「苦しみ」から
逃れることはできないようです。
前漢の第7代皇帝・武帝は、
中国全土を支配し、絶大な権勢と富を誇り、
漢時代の最盛期を生き抜いた。
しかし、盛大で、甘美を極めたといわれる宴の最中に、
彼の心に去来した次の言葉は
今でも多くの人々の胸を打ちます。

歓楽極まりて 哀情多し
少壮は幾時か 老を奈何(いかん)せん
」(秋風辞)
歓び、楽しみの絶頂に、
哀しさ、空しさが満ちてくる。
若く、壮健な時は束の間で、
やがて、老いさらばえて人は死ぬ。
この哀しくも儚い現実をどうすればよいのか

チャーチルは、第二次世界大戦・戦勝時の
イギリス首相であり、
1953年にはノーベル文学賞を受賞。
そんな彼は、人生最後の誕生日に、
娘にこう述懐しました。
私はずいぶんたくさんのことをやって来たが、
結局何も達成できなかった

90年の生涯を閉じる最期の言葉は
「何もかもウンザリしちゃったよ」
であったという

●現代も変わらぬ苦界

経済の発展も、苦しみを減じる
処方箋とはなりえないようです。
日本のGDP(国内総生産)は50年で7倍になりましたが、
生活満足度は全く変わっていません(表参照)

EPSON054.jpg-1.jpg
心理学者は、これを「快楽の踏み車」という言葉で
説明しています。
経済などを状況がどんなに変わっても、
人間は、その状況に慣れてしまい、
願望を引き上げ、もっともっととさらなる満足を求める」
という説です。

永遠に満たされることがない欲望とのイタチゴッコを
人類は繰り返しているだけかもしれません。

それは、政治、経済、科学、医学、あらゆるジャンルでも
同じことがいえそうです。
日々の実感としても、人間関係、業績不振、
災害、病、死別などなど、
苦しみは多岐にわたります。
大小はあれど、苦界の波は、どの時代、
どの国においても静まることを知りません。
こんな状態では「人命は地球より重い」の言葉も、
木枯らしに舞ってしまうでしょう。

●「久しく」とは過去無量劫

この実相を、親鸞聖人は、「生死の苦界ほとりなし」
と短い言葉でズバリ言われています。
続けてさらに「久しく沈めるわれら」。

ここで「久しく」と言われているのは、
50年や100年くらいのことではありません。

EPSON054.jpg-2.jpg
仏教では、私たちは、生まれては死に、
生まれては死にを繰り返し、
流転を重ねてきたと教えられます。
生まれる世界は大きく分けると6つあり、
六道とか、六界といわれます。


次の6つの世界です。

地獄界・・・最も苦しみの激しい世界。
インドの言葉で「ナカラ」(奈落はここから来ている)
地獄を八つに分けられるのが、「八大地獄」である。
「八熱地獄」ともいわれる。
その中でも、最も苦しみの激しい地獄を阿鼻地獄といい、
他の七つの地獄のさらに下にある、と説かれている。
寿命は八万劫。一劫は四億三千二百万年。
苦しみがヒマなくやってくるので
「無間地獄」ともいわれる。

餓鬼界・・・食べ物も飲み物も皆、炎となって食べられず
飲まれもせず、飢えと渇きで苦しむ世界。

畜生界・・・犬や猫、動物の世界。
弱肉強食の境界(きょうがい)で、
つねに不安におびえている。

修羅界・・絶えない争いのために苦しむ闘争の世界。

人間界・・苦楽相半ば(あいなかば)している、
我々の世界。

天上界・・六道の中では楽しみの多い世界だが、
迷いの世界に違いなく、老いる悲しみもあり寿命もある。


私たちの生命は、過去無量劫の間、
六道を回り続けてきたのであり、
この果てしない苦しみの歴史を
「生死の苦界ほとりなし 久しく沈めるわれら」と、
教えられているのです。

しかも、
地獄に堕ちる者は十方世界の土の如く、
人間に生まれる者は爪の上の土の如し

                  (涅槃経)
と経典に説かれていますから、
人間に生まれたことは、
実に有り難いことなのです。

EPSON055.jpg-1.jpg
このことを『正信偈』で「源信広開一代教」
(源信広く一代の教を開きて)
と親鸞聖人が褒め称える源信僧都は、
こう仰っています。

まず三悪道を離れて人間に生まるること、
大なるよろこびなり。
身は賤しくとも畜生に劣らんや、家は貧しくとも
餓鬼に勝るべし、心に思うことかなわずとも
地獄の苦に比ぶべからず

           (横川法語)
人間に生まれたことは大いなる喜びである。
いくら賤しい身であっても、
畜生に劣る者はいない。
貧しさを嘆いても、飢えと渇きで苦しみ続ける
餓鬼よりはましである。

思いどおりいかない苦しみも、
地獄の大苦悩とは比較にならないではないか。
だから、人間に生を受けたことを大いに喜ぶべきなのだ。

何事も比較しなければ分かりません。
「人間に生まれなければよかった」
と嘆く人がありますが、
人間の生を受けたことは、
三悪道に堕することを思えば
とても有り難いことです。

人として生きていく以上、
この“人命を尊び、感謝する心”
が、政治、経済、科学、医学など
私たちの一切の営みの根底に
なければならないのではないでしょうか。

そのうえで、親鸞聖人は、
人間に生まれた本当の喜びとは
何なのか、こう教えてくださいます。

生死の苦界ほとりなし 久しく沈めるわれらをば
弥陀弘誓の船のみぞ 乗せてかならずわたしける

               (親鸞聖人)
無量の過去から続く苦しみの海を、
明るく楽しく渡してくださる船がただ一艘だけある。
それこそ、阿弥陀仏が造られた船である。
この船に乗れば、生きては光明の広海に浮かび、
死しては阿弥陀仏のまします
極楽浄土・限りなく明るい無量光明土へ
生まれることができるのだ

この阿弥陀仏の大船に乗るには
真実の仏法を聞く以外にありません。
しかも仏法は、人間に生まれた今しか聞けないのです。

この真実が知らされた時、

人身受け難し、今已に受く。
仏法聞き難し、今已に聞く 
(釈尊)

生まれがたい人間に生まれてよかった!
聞きがたい仏法が聞けてよかった!

の聖語が、熱く胸に響くのです。

人生の目的とは、本当は多生の目的です。
私たちは今、生死生死を繰り返してきた
永の迷いの打ち止めをし、
未来永遠の幸せを
獲得するために生きているのです。

どんなに苦しいことがあっても、
「地獄の苦には比ぶべからず」
と乗り越えて光に向かって生き抜くのです。

仏法は聴聞に極まる。
今ここで、尊い仏縁に感謝し、
親鸞聖人のみ教えを
聞かせていただきましょう。


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六道輪廻して苦しむ私たち [六道輪廻]

生死の苦海ほとりなし
 久しく沈めるわれらをば
弥陀弘誓の船のみぞ
 乗せてかならずわたしける
       (親鸞聖人)
果てしない苦しみの海に溺れもだえている我々を、
阿弥陀仏の造られた大船だけが、必ず乗せて、
明るく楽しく極楽浄土まで渡してくださるのだ

まず、親鸞聖人は、「生死の苦海ほとりなし」
と言われています。
これは私たちの生を海に例えたものです。
仏教で「生死」とは、「苦しみ」を表し、
「ほとりなし」とは、「際がない」「果てしない」ということですから、
「私たちは、果てしない苦しみの海で溺れもだえている」
という意味です。
2600年前、お釈迦さまは「人生は苦なり」と言われ、
『正信偈』に親鸞聖人が
「善導独明仏正意」(善導ひとり、仏の正意に明らかであった)
と称賛される中国の善導大師は、1300年前
「四方八方眺むれどただ愁嘆の声のみぞ聞く」
と言われています。
近代に日本ではどうでしょう?
人生を鋭く見つめた文学者たちはこう語っています。

○なんのためにこいつも生まれて来たのだろう?
この娑婆苦の充ち満ちた世界へ。
(芥川龍之介・自伝小説『或阿呆の一生』で、
長男出生について語った言葉)

○のんきとみえる人々も、心の底をたたいてみると、
どこか悲しい音がする。
     (夏目漱石『吾輩は猫である』)

○人生のさびしさは酒や女で癒されるような浅いものではないからな。
      (倉田百三『出家とその弟子』)

●成功者もまた・・・

成功を勝ち得た者もまた「苦しみ」から逃れることはできないようです。
前漢の第七代皇帝・武帝は、
中国全土を支配し、絶大な権勢と富を誇り、
漢時代の最盛期を生き抜いた。
しかし、盛大で、甘美を極めたといわれる宴の最中に、
彼の心に去来した次の言葉は
今でも多くの人々の胸を打ちます。

「歓楽極まりて 哀情多し
少壮は幾時か 老を如何せん」(秋風辞)
(歓び、楽しみの絶頂に、哀しさ、空しさが満ちてくる。
若く、壮健な時は束の間で、やがて、老いさらばえて
人は死ぬ。この哀しくも儚い現実をどうすればいいのか)

チャーチルは、第2次世界対戦・戦勝時のイギリス首相であり、
1953年にはノーベル文学賞を受賞。
そんな彼は、人生最後の誕生日に、娘にこう述懐しました。
「私はずいぶんたくさんのことをやってきたが、
結局何も達成できなかった」
90年の生涯を閉じる最期の言葉は
「何もかもウンザリしちゃったよ」
であったという。

●現代も変わらぬ苦海

経済の発展も、苦しみを減じる処方箋とはなりえないようです。
日本のGDP(国内総生産)は50年で7倍になりましたが、
生活満足度は全く変わっていません。

IMG_20150607_0001.jpg-1.jpg

心理学者は、これを「快楽の踏み車」という言葉で説明しています。
「経済など状況がどんなに変わっても、人間は、
その状況に慣れてしまい、願望を引き上げ、
もっともっととさらなる満足を求める」という説です。
永遠に満たされることがない欲望とのイタチゴッコを
人類は繰り返しているだけかもしれません。
それは、政治、経済、科学、医学、
あらゆるジャンルでも同じことがいえそうです。
日々の実感としても、人間関係、業績不振、
災害、病、死別などなど、
苦しみは多岐にわたります。
大小はあれど、苦海の波は、どの時代、
どの国においても静まることを知りません。
こんな状態では「人命は地球より重い」の言葉も、
木枯らしに舞ってしまうでしょう。

●「久しく」とは過去無量劫

この実相を、親鸞聖人は、
「生死の苦海ほとりなし」と短い言葉で
ズバリ言われています。

続けてさらに久しく沈めるわれら」。
ここで「久しく」と言われているのは、
50年や100年くらいのことではありません。
仏教では、私たちは、生まれては死に、
生まれては死にを繰り返し、
流転を重ねてきたと教えられます。
生まれる世界は大きく分けると六つあり、
これを六道とか、六界といわれます。

次の6つの世界です。

IMG_20150607_0001.jpg-2.jpg

①地獄界・・・最も苦しみの激しい世界。
インドの言葉で「ナカラ」。地獄を八つに分けられているのが、
「八大地獄」である。
「八熱地獄」ともいわれる。
その中でも、最も苦しみの激しい地獄を阿鼻地獄といい、
他の七つの地獄のさらに下にある、
と説かれている。
寿命は八万劫。
一劫は四億三千二百万年。
苦しみがヒマなくやってくるので「無間地獄」とも言われる。

②餓鬼界・・食べ物も飲み物も皆、
炎となって食べられず飲まれもせず、
飢えと渇きで苦しむ世界。

③畜生界・・犬や猫、動物の世界。
弱肉強食の境界で、つねに不安におびえている。

④修羅界・・絶えない争いのために苦しむ闘争の世界

⑤人間界・・苦楽相半ばしている、我々の生きている世界。

⑥天上界・・六道の中では楽しみの多い世界だが、
迷いの世界に違いなく、老いる悲しみもあり寿命もある。

私たちの生命は、過去無量劫の間、
六道を回り続けてきた
のであり、
この果てしない苦しみの歴史を
「生死の苦海ほとりなし 久しく沈めるわれら」と、
教えられているのです。

しかも、
地獄に堕ちる者は十方世界の土の如く、
人間に生まれる者は爪の上の土の如し

           (涅槃経)
と経典に説かれていますから、
人間に生まれたことは、実に有り難いことなのです。

IMG_20150607_0002.jpg-1.jpg



このことを『正信偈』で
「源信広海一代経」(源信広く一代の教を開きて)
と親鸞聖人が褒め称える源信僧都は、
こう仰っています。

まず三悪道を離れて人間に生るること、
大なるよろこびなり。
身は賤しくとも畜生に劣らんや、
家は貧しくとも餓鬼に勝るべし。
心に思うことかなわずとも地獄の苦に比ぶべからず


人間に生まれたことは大いなる喜びである。
いくら賤しい身であっても、畜生に劣る者はいない。
貧しさを嘆いても、
飢えと渇きで苦しみ続ける餓鬼よりはましである。
思い通りいかない苦しみも、
地獄の大苦悩とは比較にならないではないか。
だから人間に生を受けたことを大いに喜ぶべきなのだ。

何事も比較しなければ分かりません。
「人間に生まれなければよかった」
と嘆く人がありますが、人間の生を受けたことは、
三悪道に堕することを思えばとても有り難いことです。
人として生きて行く以上、この“人命を尊び、感謝する心”が、
政治、経済、科学、医学など
私たちの一切の営みの根底になければならないのではないでしょうか。
そのうえで、親鸞聖人は、人間に生まれた本当の喜びとは何なのか、
こう教えてくださいます。

生死の苦界ほとりなし 久しく沈めるわれらをば
弥陀弘誓の船のみぞ 乗せてかならずわたしける

             (親鸞聖人)
無量の過去から続く苦しみの海を、
明るく楽しく渡してくださる船がただ一艘だけある。
それこそ、阿弥陀仏が造られた船である。
この船に乗れば、生きては光明の広海に浮かび、
死しては阿弥陀仏のまします極楽浄土・限りなく明るい無量光明土へ
生まれることができるのだ

この阿弥陀仏の大船に乗るには真実の仏法を聞く以外にありません。
しかも仏法は、人間に生まれた今しか聞けないのです。

この真実が知らされた時、

人身受け難し、今已に受く。
仏法聞き難し、今已に聞く(釈尊)
(生まれ難い人間に生まれてよかった!
聞き難い仏法が聞けてよかった!)

の聖語が、熱く胸に響くのです。
人生の目的とは、本当は多生の目的です。
私たちは今、生死生死を繰り返してきた永の迷いの打ち止めをし、
未来永遠の幸せを獲得するために生きているのです。

どんなに苦しいことがあっても、
「地獄の苦には比ぶべからず」
と乗り越えて光に向かって生き抜くのです。
仏法は、聴聞に極まる。
今ここで、尊い仏縁に感謝し、
親鸞聖人のみ教えを聞かせていただきましょう。


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