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さすがの一休も蓮如上人には勝てなかった! [極楽に往生するには]

 

動画を観られるとよく分かると思います。

また、真実の仏法は慈悲でいっぱいなので癒されますし、

生活の指針にもなりますので、役立ちます。

 そういう意味でも見られるといいですよ。

「一休さんが浄土真宗に改宗したのは本当か」

https://www.youtube.com/watch?v=ll3tK5TezKQ&t=38s

 

「弱い人間のままで幸せになる方法を説かれたブッダ」

 https://www.youtube.com/watch?v=BZfrW5dIz88

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

(真実の仏教を説かれている先生ご執筆の「とどろき」より載せています) 

 

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(蓮如上人)


あわれあわれ、存命のうちに、
みなみな信心決定あれかしと、
朝夕思いはんべり

                     (蓮如上人)
哀れだ、不憫だ、死後では間に合わぬ、
生きている間に仏法を聞き求め、
みな一人残らず、信心決定してもらいたい

蓮如上人、最晩年に書かれたお手紙の一節です。

蓮如上人は、親鸞聖人のみ教えを
自分の考えを一切入れず、
一器の水を一器に移すかのごとく、
正確に全国に広められた高僧です。
親鸞聖人、蓮如上人のお二方のお叫びは、
みな一人残らず信心決定してもらいたい、
これ以外にはありませんでした。

信心決定とは、仏法を聞き求め、
平生のうちに阿弥陀仏の本願に救われ、
無碍の一道に出ることです。

無碍とは、一切の碍り(さわり)が、
碍りにならない世界をいいます。
死も碍りとならない不変不壊(ふへんふえ)の
絶対の幸福のことです。

名声、地位、権力、世の栄耀栄華も、
死の巖頭(がんとう)に立てば
三文の価値もない。
一切の喜びはくずれてしまう。

ところが、弥陀の本願に救われた喜びだけは、
死も碍りにならず、金剛不壊なのです。

信心決定せよ、無碍の一道に出よ、絶対の幸福になれ、
親鸞・蓮如両聖人に一貫したご教示です。

なぜ、それほどに。理由があるのです。

この信心を獲得せずは、極楽に往生せずして、
無間地獄に堕在すべきものなり

                   (蓮如上人・御文章)
信心決定せずに死ねば、弥陀の浄土に往生はできず、
必ず、無間地獄に堕つるのだ。

これを後生の一大事といいます。
一大事の解決には弥陀の本願に救われるしかないから、
「一日も片時も急いで信心決定せよ」と説かれているのです。

真宗道俗の中には、これに反発して、
「阿弥陀仏は大慈大悲の仏、
我々を地獄に堕とされるはずがない。
信心決定した人だけを浄土に救うなどと、差別されない。
平等の慈悲を持っておられるはずだ。」
と猫も杓子も、みな死んだら極楽、
死んだら仏と思っている人が多い。

阿弥陀仏の慈悲は平等でありながら、
何故に救いに前後ができるのか。
その疑問を蓮如上人に投げかけたのが、
禅僧一休でありました。

蓮如上人にかなわぬ一休のトンチ

テレビで人気の「一休さん」
どんな難題も、しばらく座禅して
頭をポクポク叩いているうちにトンチが浮かび、
相手を負かしてしまう。
ところが、一休さんのトンチも、
蓮如上人にはかないませんでした。
同時代の二人は、大の仲良しでもありました。


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雀の生死

ある時、一羽の雀を握った一休が、尋ねました。
「おい蓮如、この雀、生きているか、死んでいるか」
「死」と答えれば、そのまま逃がし、「生」と答えれば、
ヒネリ殺すつもりなのです。
どちらに答えても負けです。
蓮如上人は、答える代わりに
近くの階段を二・三歩登られました。
「その質問に答える前に、当方の問いに答えよ。
私はこの階段をこれから、登るか、おりるか、どちらと思う。」
やはり答えれば、必ず負けます。
一休は、一本取られたのです。

 

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材木の上に立つ

蓮如上人が山科本願寺を建立しておられた時、
奇妙な坊主が、材木の上に立ち、
頭の上に草を載せて、ニヤニヤしている。
作業の邪魔と感じた大工が蓮如上人に申し上げた。

「それは一休だろう。
お茶を一杯持って行けば、退散する。」
蓮如上人のご指示通りにしたら、
「さすが蓮如」とお茶をガブッと飲み、引き上げた。

大工が訳を尋ねれば、蓮如上人、解説される。
「何の事はない。
木の上に人が立ち、頭に草を載せている『茶』という字を
分解してみれば分かる。(画像を見てください。)
一休は『お茶を一杯くれ』と言っていたのだ」


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七曲りの松

京都に、「七曲りの松」があった。
「この松をまっすぐに見た者には金一貫文与える。
大徳寺住職・一休」
という立て札が立った。
金一貫文は、今日なら百万円である。
以後、松の周囲は人だかりで、
何とか一貫文をかせごうと、
人々は、松の木をまっすぐ見ようと努力した。
だが、一向に見ることができない。
ついには梯子をかけ、上から見るものまで現れる。
「一休さんがウソを言われるはずがない。
どこからか見えるのであろう。」

蓮如上人が通りかかられた。
「また一休さんの悪戯か。
よし、私はまっすぐに見たから一貫文もらって来よう。」
と、一休のところへ。
「真っ直ぐに見たから、一貫文もらいたい。」
「蓮如か、お前は駄目だ。立て札の裏を見て来たか。」
裏には、「但し、本願寺の蓮如だけは除く」とあった。
一休は蓮如上人には
すぐ見破られてしまうことが分かっていたのだ。

蓮如上人は再び、七曲がりの松の所に戻られた。
「どうでした、一貫文、もらえましたか」
「いや、一休が堪忍してくれと、謝ったから、許してやった。」
「一体、どこから、真っ直ぐに見られたのですか」
「この松を『曲がった松じゃなー』と見るのが、
まっすぐに見るということだ。
曲がりくねった松を真っ直ぐに見ようとしているから、
見ることができない。
曲がった松は、曲がった松と見るのが、
本当に、まっすぐ見るということだ。」

仏教の正見(しょうけん)を教えられたとき、
「さすがは蓮如上人」と人々は感服しました。


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●『御文章』を攻撃

連敗の一休、蓮如上人を一敗地に、
まみれさせようと『御文章』のあら探しを始めた。
やがて、「ここはどう考えても矛盾だ」との攻撃点を見つけ、
蓮如上人に一首送った。

阿弥陀には
まことの慈悲はなかりけり
たのむ衆生 のみ助ける

              一休

「阿弥陀仏は平等の慈悲を持った仏と言うが、
『御文章』には『たのむ衆生は助けるが、
たのまぬ衆生は助けない』とある。
そんな差別をされる阿弥陀仏は、
まことの慈悲のない仏ではないか。
たのむ者もたのまん者も、みな助けてこそ、
まことの慈悲というものだろう。」

一休の言い分は、信心決定した人だけ助け、
それ以外は地獄に堕つるというのはおかしいという
真宗道俗と同じです。

この仏をたのまずは、
女人の身の仏になるということあるべからずなり

                     (五帖七通)

南無とたのむ衆生を阿弥陀仏の助けまします道理なり
                     (五帖九通)

これらの御文を、矛盾と感じたのでしょう。
一休の意地悪な心底は先刻ご承知の蓮如上人は、
歌には歌で答えられました。

阿弥陀には
へだつる心なけれども
蓋ある水に
月は宿らじ 

           蓮如上人

月は地上の如何なる水にも月影を宿す。
海、湖、川、池、汚れたドブ、草の露、更には肥溜めにすら、
自らの姿を映す。
だが、例外がある。
蓋のある水には月は宿らないのだ。
月が差別しているのではなく、
茶碗に蓋があるのが問題なのだ。
月が差別しているのではなく、
蓋がいけないのだ。

またしても一休、見事に切り返されてしまいました。


(お碗の中の水に月が映っている。)
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全人類苦悩の真因
      弥陀の本願を疑う心

阿弥陀仏は、今すぐにも助けたい一杯であるが、
我々が心に蓋をしてしまっているため、
阿弥陀仏の大慈悲心が頂けず、救われない。
蓋とは、阿弥陀仏の本願を疑う心、疑情(ぎじょう)です。
雑行雑修自力の心とも言います。

「還来生死輪転家 決以疑情為所止」
(生死輪転の家に還来することは、
決するに疑情を以て所止と為す)
                     正信偈

人生に苦悩が絶えず、一時幸福になっても、
再び、苦の人生に還ってきてしまうのは、
一体、何が原因なのか。

それは、疑情一つが、全人類の苦悩の真因なのだ。

普通、自分が苦しいのは、お金、財産、名誉、地位に
恵まれないからと考える人が多いです。
そうした迷見を釈尊は、「有無同然」と否定されました。

「有無同じく然り」、それらのものは、無くても苦、有っても苦、で、
苦しい点から言えば、同じなのだと、仰せられています。

ノーベル文学賞に輝いた川端康成氏の自殺は、
仏説を実証しています。

名誉、地位、財産、すべてを手中にしながらの、
ガス管自殺は、持てる者、
なお人生苦の渦中にあった事を雄弁に物語っているのです。

遠くは、戦国の世を統一し徳川三百年の礎を築いた
家康の遺訓にもうかがえます。
人の一生は重荷を背負うて遠き路を行くが如し
天下人の背になお、耐え難い重荷があり、
生涯が苦悩の連続であったと述懐しているのです。

財物や名声の欠乏が、苦の真因ではありません。
疑情こそ、全人類苦悩の根源と、
親鸞聖人は喝破なされたのです。

本当に助かるのだろうか? 
         疑情こそ、心の蓋
   阿弥陀仏の本願を疑う心とは


阿弥陀仏は、いかなる諸神、諸菩薩、諸仏よりも尊い、
最高無上の如来です。
阿弥陀仏が、諸仏の王、本師本仏と敬われる所以は、
建立された本願にあります。
本願は誓願とも言い、今日なら「お約束」です。

「弥陀の誓願不思議に助けまいらせて・・・」
親鸞聖人は『歎異抄』の第一章に、
本願に摂取された二十九歳の時の体験を
披瀝(ひれき)しておられますが、
本願とは、如何なるお約束か。

どんな人をも
必ず助ける
絶対の幸福に


平易に言えば、そうなります。

この本願を聞くと、
「本当に助かるのだろうか?」
「この世から、絶対の幸福に本当になれるのか?」
と、本願に対する疑いがおきてきます。

蓮如上人は、この疑いが、ツユチリ程あっても、
救われないと、仰っています。
疑情こそ、まさに蓋であり、これが破られない限り、
全人類は永久に苦しみ続けていかなければならないのです。

真宗道俗は、本願を疑っていながら、
気づかない人が多いのです。

 

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●「ひょっとしたら・・・」で信心が崩壊したお婆さん

昔、金沢に若年の頃から、
熱心に聞法していたお婆さんがいました。
六十歳も過ぎたある夜半、ふと目が醒めて
「今死んだらどうなる」と無常を感じたのです。
次の瞬間、心中に「ひょっとしたら、
地獄に堕ちるのではなかろうか?」
と後生の心配が生じてきました。
「ひょっとしたら・・・」が、ツユチリ程あっても助からん疑情です。
お婆さんはすっかり助かったつもりでいたのに、
ツユチリ程の疑いがあると知らされ、
信心が崩壊しました。

居ても立ってもいられない。
「このまま死ねば地獄、なんとかしなければ」
との思いで、京都へ旅立ちました。

京都である有名な布教使を訪ね、
胸底の不安を告白しました。

布教使、「お婆さん、私の質問に答えてみなさい」
「はい、何でしょうか」
「お婆さん、そのままじゃぞ」
「えっ、このままですか」
「ちがう、そのままじゃ」
「だから、このままですか、と聞いているんです。」
「ちがう」
「どこが違うのですか、さっぱり、分かりません」
「お婆さん、私が『そのままじゃ』と言ったとき、
なぜ『ハイ』と一言返事をせん。
『このままですか』の『か?』が、
疑いじゃということがわからんか」
「そうですか。『か?』がいけなかったのですね。
もう一度、お願いします」

もう正体ばれてしまっているのに、再度の挑戦。
「お婆さん、そのままじゃ」
「ハイ」と返事をして、あとは無言の行だ。
しばらく時間が経過したとき、
「本当に、こうやって、『ハイ』と言っておれば、
よいのでしょうね?」
と言ってしまった。
「ほら、また出た。その『ね?』が、疑いじゃ」

「どうしたら助かるのか」
「どう聞いたらよいのか」
「どうなったら」
これみな疑いであり、自力の計らいともいいます。
「一切の計らいを捨てよ」と聞かされて、
「計らうまい、計らうまい」と思っている、
それもまた計らいなのです。

●「自力は捨てもの」
        合点はたやすいが・・・

疑情ある間は、天皇、大統領といえども迷いの衆生です。
疑情は「雑行雑修自力の心」とも言い、
「雑行雑修自力の心を捨てて、
一心に弥陀に帰命」しなければ、
救われないのです。

自力は捨てもの、間に合わぬものと
合点するのはたやすいのですが、
実地の体験は、難中の難である。

後生の一大事の解決には、自力は間に合うか、合わないか。
実際、全力を尽くして始めて出来ることか、できないことか、
可能か、不可能か、ハッキリ知らされます。


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例えて言えば、クラスで力自慢の小学一年の男子を連れて、
母親が、瀬戸物店へ買い物に行きました。
大バーゲンで、たんまり仕込んだ母親が、重そうに、
荷物を持って店を出ました。
瀬戸物は量の割に重いものです。
それを見て子どもが、
「お母さん、僕、それ持ってあげる、僕、力強いんだよ、
昨日もクラスの相撲で一番だった」と自分の力を誇示します。

やらせてみる

とてもとても子供の力で間に合うような品物ではないことは、
百も千も承知しています。
こんな重い物が、あんたなんかに持てますか、
落としたらどうするの」
頭から叱りつける母親は、余り、利口とは言われません。

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「そうお、坊や、そんなに強くなったの。
お母さん、うれしいわ、それじゃ、持ってくれる」
利口な母親は、持てないことを充分承知の上で、
一度持たせてみせます。

落としたら大変だから、母親は密かに下に手を回します。
子供は誉められて持ったのだから男の意地だ、何とか持とうと
渾身の力で力んではみますが、とてもかなわぬ重荷と知らされ、
力尽きて、
「お母さん、やっぱり僕の力じゃ無理だ、早く取って!!
落とすよ、早く、早く」  
と、母親にまかせます。
子供は母親が荷物を下から支えていることを知らないから、
驚いて心から素直に母親にまかせるのです。

自力の心が廃った時、
     他力不思議に摂取される

後生の一大事の解決を目指し、真剣な聞法を重ねて行くと、
最後に、知ったもの、覚えたものも、学問も修養も、
すべて間に合わず、地獄は一定すみかぞかし、
と無間のドン底にたたき落とされた時、
自力間に合わなかったと、
雑行雑修自力の心が廃ると同時に、
他力不思議に摂取されるのです。

信心歓喜踊躍(ゆやく)とおどり上がり、
阿弥陀さま、こうまでして下さらねば、
聞かないしぶとい私でございました。

どうしてこのご恩に報いようかと泣くより他にないのです。
これを弥陀たのむ一念といいます。

まさに心の蓋たる疑情が破られて、
阿弥陀仏の大慈悲が徹底する時なのです。

当流は、たのむ一念のところ肝要なり」 
              (御一代記聞書)

あながちにもろもろの聖教をよみ、
物を知りたいというとも、
一念の信心のいわれを知らざる人は、
いたずらごとなり

(御文章)

共に弥陀たのむ一念こそ、
真宗の肝要であることをご教示なされた、
蓮如上人のお言葉です。

                    (カット 太田 寿)

 


 


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弥陀に救われるためには、聞き開かねばならない! [極楽に往生するには]

4通りの「きく」とは

誠なるかなや、
摂取不捨の真言、超世希有の正法、
聞思して遅慮することなかれ

       (親鸞聖人・教行信証)

まことだった!本当だった。
弥陀の救いにウソはなかった。
みなみな、聞いてもらいたい、
この親鸞が生き証人だ。
早く、弥陀の誓願まことを知ってもらいたい。

今回も、この親鸞聖人のお言葉を解説いたしましょう。
親鸞聖人が「まことだった!」と言われている
「摂取不捨の真言」とは、「阿弥陀仏の本願」のこと。
それは、十方諸仏の本師本仏である阿弥陀仏が、
本当に願っていられる御心で、
“どんな人も必ず、絶対の幸福(往生一定)に救う”
お約束です。
弥陀の願いに背を向けて逃げ回っている私たちをどこまでも
追いかけ、追い詰めて、“無上の幸せに摂め取って捨てぬ”
という弥陀の真実のお言葉ですから、
親鸞聖人は「摂取不捨の真言」と言われています。

大宇宙に2つとない大誓願だから、
「超世希有の正法」とも称されます。

この阿弥陀仏の救いにあずかる道はただ一つ。
「聞思して遅慮することなかれ」と親鸞聖人は明言されています。
「聞思」とは「聴聞」。
「聴」も「聞」も、ともに「きく」ということです。

●4通りの「きく」

一口に「きく」といいましても、次のように、
四通りあると教えられます。

①聞き閉じる
②聞き流す
③聞き覚える
④聞き開く

最初の「聞き閉じる」人とは、
尊い法を聞かせていただきながら、
ボーッとしたり、居眠り半分になってしまい、
休憩時の世間話は元気いっぱいでも、
説法が再開するとまた眠くなるような人です。
聞法しながらも他のことばかり考え、
ただ体が座っているだけ、
という人も同じこと。
湯のみに例えるならば、引っくり返った状態で、
どれだけ高級なお茶を注いでも、はじいてばかり。
このように、心を閉じて、法が入っていかないのは、
「聞き閉じる」きき方です。

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次が「聞き流す」人。
漫然と聞いて、少しも心に聞きとどめようとしない人です。
「覚えてこいとはおっしゃらん」
と忘れるのを自慢げに語る人さえあります。
また、「それも聞いた」「これも知ってる」「この話は3回目だ」
と、粗末に聞く人も同様です。
世間でも、「『分かったつもり症候群』に注意!」といわれる。
この症状につける薬は幾つかありますが、
「聞いたことを、誰かに分けるように説明してみる」
「学んだことを実践に移す」
の2つがお勧めです。
“分かったつもり”でも、
いざ他人に話そうとすると「あれ、これは何の例えだったかな」
「話がつながらなくなった」「このお言葉、どう説明されてたかな」
と、驚くほど聞けていないものです。
話が空中分解したり、2時間かけて聞いた話を
説明すると5分で終わってしまったという経験は
誰にでもあるのではないでしょうか。
同じ話を、常に初事として聞き求めねばならぬのが仏法と、
蓮如上人は、こう、戒めておられます。

人は珍しい話、変わった話を聞きたがるが、
何度、同じことを聴聞しても、
初事と聞かなければならない

一つことを幾度聴聞申すとも、珍しく、
はじめたるようにあるべきなり

         (御一代記聞書)

珍しい話を聞きたい心は、敵。
弥陀の御心一つ分からないから助からないのです。
皮相をなめただけで、分かった気になり、
仏法を軽く見ていては、信仰は進みません。

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三番目は「聞き覚える」人。
親鸞聖人の教えを真剣に聞いて、理解しよう、
覚えようとする人です。
他人事と流さず、教えの通りに忠実に実践しようと
努める人でもあります。
「分かったことは、実行すること」
どれだけ物知りになっても、
仏教で勧められる挨拶すらしない人は、
「聞き流している」と言われてもしかたないでしょう。

頭でっかちになって相手を見下し、
批評や批判ばかりでは足元がおろそかになり、
つまずいて転んでしまいます。
「和顔愛語」を「わがおあいご」と間違って読んだ人に、
「こんな言葉も読めんのか!」と、
恐ろしい形相でとげとげしく注意をしていた人がありましたが、
そんな時こそ、笑顔で優しい言葉をかける
「和顔愛語」を実践してほしいもの。
真実の教えを一つでも覚え、理解し、
できることから実行しようとする努力が尊いのです。
しかし、ここでとどまってしまっては、また大変。
覚えたのが他力の信心ではない。
他人に話せるようになったのが、
弥陀の救いではありません。
分かろう、分かろうとするのは「分かって助かろう」
としている自力の心です。
いろんな知識を増やすための聞法では、
いつまでたっても助かりません。

どれだけ合点を積み重ね、理解を深めても、
それで極楽往生はできません。

あながちにもろもろの聖教を読み、
物を知りたりというとも、
一念の信心の謂(いわれ)を知らざる人は徒事なりと知るべし

             (御文章五帖目二通)
一切の聖教は、私たちに弥陀の救いを知らせ、
一念の信心を獲させるために書き残されたものですから、
大いに学び、教えの理解を深めねばならないのは当然です。
しかし、どれだけ詳しく聖教を学び、知識を増やしたとしても、
一念の信心を獲得し、弥陀の救いにあわねば、
弥陀の浄土へは往けませんよ、
と蓮如上人は戒められているのです。

●弥陀の本願「聞き開く」

最後の、「聞き開く」とは、
「弥陀の本願まことだった」と聞いたことをいいます。

「聞」と言うは、衆生、仏願の生起・本末を聞きて疑心有ること無し
               (教行信証信巻)

阿弥陀仏の本願に“疑心あることなし”と聞く、
一念の信心のことです。


こんな話があります。
中国へ出張中のこと。
風邪を引いてしまった。
いつもなら持参の薬を3日ものめばスッキリ治ったのに、
中国のウイルスは違うのか、
一週間のんでも咳が止まらず苦しんだ。
そんな時、「中国の風邪の特効薬だ」
と同僚が赤い小箱を持参した。
聞いたことも見たこともない薬を手にして、
“本当に効くのかな”と疑いながらのんでみた。
ところがなんと翌日、ウソのように症状が消えているではないか。
一気に「特効薬だった」と疑いが晴れたという。

もう一つ疑い晴れる例。
飛行機が乱気流に突っ込んで激しく振動し、
しばしば機長のアナウンスが流れる。
「大丈夫です。ご安心ください」
それでも起きる不安や疑心は、
無事着陸した時に消滅する。
「助ける」という約束に対する疑いは、
「助かった時」に破れます。
「与える」という約束の疑いは、「受け取った時」に無くなる。
“摂取不捨の利益(絶対の幸福)を与える”
という弥陀の約束(本願)への疑いは、
「摂取不捨の利益」を私が受け取った時に晴れるのです。

このように、弥陀の本願(誓願)に
露チリほどの疑いもなくなった「聞」を、
「聞き開いた」といいます。

しかも聖人は、ただ「疑心なし」とは言われずに
「疑心あることなし」と言い表されています。
一体「疑心なし」と「疑心あることなし」とは、
どう異なるのでしょうか。
例えば友人に、
「百万円、貸してくれないか」
と頼んだ時、
「とんでもない、百万円などオレにはないよ」
と断られた。
こんな友人なら5年か10年後には、
ひょっとしたら借りられるかもしれません。
今はなくても、その友人に将来、
どんな大きな収入があるか分からないからです。
しかし、「オレに百万円なんか、あることなしだ」
と断られたら、何十年たっても可能性はゼロとなります。
「あることなし」では、永久に「ありっこない」のですから
「なし」とは大違い。
「弥陀の本願に疑心あることなし」と聞き開いた人は、
金輪際、本願に疑いが出てくることは二度とありません。

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●聞き開けば“こころは浄土に遊ぶ”

聞き開いた一念に、弥陀の本願どおり絶対の幸福に救われ、
いつ死んでも極楽参り間違いない身にさせていただけます。

親鸞聖人は、こう和讃されています。

超世の悲願ききしより
われらは生死の凡夫かは
有漏の穢身はかわらねど
こころは浄土にあそぶなり

       (帖外和讃)
「弥陀の本願まことだった」と聞き開き、
絶対の幸福に救い摂られた時から我々は、
迷いの人間ではなくなるのだ。

欲や怒りの煩悩は少しも変わらないままで、
心は弥陀の浄土へ往って遊んでいるように、
明るく愉快である

超世の悲願とは、世の常識を超えた、
大慈悲の弥陀の本願のことで
「超世希有の正法」ともいわれます。
その本願に疑い晴れたことを
「超世の悲願ききしより」と言われています。
これは、聞き開いた、「ききし」です。
弥陀の本願、聞き開くと「生死の凡夫かは」、
迷いの人間ではなくなる。

では、迷いの衆生でなくなったのならば、
何が変わって何が変わらないのか。
「有漏の穢身はかわらねど」の有漏の穢身とは、
欲や怒りの煩悩に汚れた肉体のことですから、
弥陀に救われても、我々の煩悩は全く変わらないのです。
救われたら、少しは煩悩が減るのだろうと、
誰しも思うでしょうが、そうではありません。
弥陀の救済は、煩悩あるがまま。

煩悩具足の凡夫が、弥陀の正客です。
煩悩が変わらないままで救われたら、
では何が大変わりするのか。
親鸞聖人は「こころは浄土にあそぶなり」と言われています。
欲や怒りの煩悩は、減りも無くなりもしないままで体験できる、
驚くべき幸福のあることを、
「煩悩いっぱい変わらぬままで、親鸞は、
極楽浄土へ往って遊んでいるように、明るく愉快なのだ」
という一大宣言です。

●『真宗宗歌』にも

『真宗宗歌』には、こう歌われています。

ふかきみ法にあいまつる 身の幸何にたとうべき
ひたすら道をききひらき まことのみむねいただかん

「ふかきみ法(のり)」とは、
釈尊の説きたもうた阿弥陀仏の本願のこと。
古来、幾多の宗教がありましても、
人生究極の目的を説き切り、
万人を真実の幸福に導くみ教えは、
仏教以外にありません。

しかし、深い仏縁がなければ、弥陀の本願という大法には遇えない。

稀にも受け難きは人身、値い難きは仏法なり。
如来の本願に値いたてまつらずは、いたずらごとなり。
然るに、今既にわれら弘願の一法(弥陀の本願)に
遇うことを得たり
               (御文章三帖目四通)
生まれ難い人間に生まれ、
聞き難い仏法に巡り遇えたことは、
どれほど喜んでも足らない、
蓮如上人は仰せです。

無二の深法に巡り遇えたこの上は、
“雨風雪はもののかずかは”
と聞き求めずにはおれません。
「ひたすら道をききひらき まことのみむねいただかん」
阿弥陀仏の本願を聞き開いたならば、
まことの南無阿弥陀仏を一念に賜り、
大安心、大満足に生かされます。
その身になるには、「聞く一つ」。

山に籠もって修行したり、断食したり、
座禅を組んで助かるのではありません。

「仏教は聴聞に極まる」
ほかに道なし、であります。

ここで四通りの「聞き方」をおさらいしてみましょう。

①聞き閉じる
②聞き流す
③聞き覚える
④聞き開く

最終目的は、「聞き開く」。
知った覚えた、の合点でとどまっていてはなりません。
まずは一歩踏み出してみましょう。

聞法の場へ足を運んで親鸞聖人のみ教えを
真剣に聞かせていただくことが、浄土への第一歩です。


 


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弥陀の救いにあうにはどうすればいいのか! [極楽に往生するには]


誠なるかなや、

摂取不捨の真言、超世希有の正法、

聞思して遅慮することなかれ

        (親鸞聖人・教行信証総序)

 

まことだった!本当だった。

弥陀の誓いにウソはなかった。

みなみな、聞いてもらいたい、この親鸞が生き証人だ。

早く、弥陀の誓願まことを知ってもらいたい。

 

今回も、この親鸞聖人のお言葉を解説いたしましょう。

親鸞聖人が「まことだった!(誠なるかなや)」と言われている

「摂取不捨の真言」とは、「阿弥陀仏の本願」のこと。

それは、十方諸仏の本師本仏と仰がれる阿弥陀仏が、

本当に願っていられる御心で、

“すべての人を必ず絶対の幸福(往生一定)に救う”

お約束です。

真実に背を向けて逃げ回っている私たちをどこまでも追いかけ、

“絶対の幸福にガチッと摂め取って捨てぬ”
という弥陀の真実のお言葉
ですから、

親鸞聖人は「摂取不捨の真言」とも言われています。

世の常識を超越した唯一無二の大誓願ですから、

「超世希有の正法」とも言われるのです。

 

●悲劇と隣り合わせの日常


人は皆、幸せを求めて生きています。

けれども、世を知れば知るほど、厳しい現実の壁に立ちすくむもの。

二十代、三十代の死因一位をご存知でしょうか?

答えは「自殺」。

二十代で亡くなるおよそ二人に一人が、自殺で命を絶っています。

ニュースキャスターが眉をひそめて報じるのは、

殺人、戦争、暴力、虐待・・・。

地球より重いはずの命が、
弊履(へいり)のように粗末に扱われています。

やっと手に入れたはずの幸せも、

手のひらからこぼれる水のように失われていく。

ショーペンハウエル(ドイツの哲学者)は、

「遠目には幸福に見えても、近づけば蜃気楼と消える。

現実になるのは、苦悩と苦痛」

と嘆き、哲学者ヴォルテール(フランス)も

「幸福は幻にすぎず、苦痛は現実だ」

と警告しています。

たとえ、50年、70年、幸せが続いても最後、

死んでいかねばなりません。パスカル(フランスの思想家)は

「人間は、死と不幸を癒せなかったので、考えないことにした」

と皮肉たっぷりに書き残しています。

お釈迦さまは「死」を「飢えに狂った虎」に例えられています。

厚生労働省の人口動態統計(平成25年)によると、

日本の年間死亡者数は、およそ127万5千人。

平均すると一日3500人弱が、
日本のどこかで命を落としています。

一週間にすれば2万4500人。

あの東日本大震災の死者、
行方不明者が1万8502人といいますから、

それを上回ります。

しかし、このことを取り立てて大騒ぎする人はありません。

もちろん、津波で死ぬのと、
病院や自宅で静かに布団の上で亡くなるのとでは、

大きく異なりますが、「命を失う」という悲劇の本質に、

変わるところはないでしょう。
とすれば、私たちの“平穏な日常”

というものは、実は「死」の悲劇と常に隣り合わせなのです。

 

●この世から未来永遠の幸せになれる


確実な未来に不安を抱える私たちを、

この世から絶対の幸福にガッチリ摂め取り、

「必ずわが浄土に生まれさせてみせる」
と誓われたのが阿弥陀仏の本願です。

親鸞聖人は絶対の幸福に救われ、こう仰っています。


超世の悲願聞きしより

われらは生死の凡夫かは

有漏の穢身は変わらねど

こころは浄土にあそぶなり

     (帖外和讃)


阿弥陀仏の本願に救い摂られてからの人生は、

もう苦しみ迷いの人ではない。

欲や怒りの絶えない煩悩具足の身は変わらないけれども、

今が幸せ今日が満足、ウラミと呪いの渦巻く人生を、

浄土で遊んでいるような気分で生かされる。


地震や津波、台風、火災や病気、
人間関係のゴタゴタなど災厄が逆巻き、

いかに煩悩、渦巻こうとも、本願まことと救われた人は、

一切が往生の障りとならない真の自由人になれるのです。

しかも「老少善悪の人をえらばず」(歎異抄一章)で、

老いも若きも関係なく、善人悪人差別なく、

すべての人が弥陀のお約束の相手だと
親鸞聖人は教えておられます。

では、どのようにすれば、弥陀の本願に救われるのでしょうか。

 

●本当の幸福になれるただ一つの道


それはただ一つ、親鸞聖人は「聞思して遅慮することなかれ」と

教えておられます。

「聞思」とは、「聴聞」のこと。

お釈迦さまも、親鸞聖人も、蓮如上人も、

「仏法は聴聞に極まる」とのご教示です。

「聴聞」とは、聴もきく、聞もきく、ということ。

聞いて聞いて聞き抜きなさい、と教えられています。

うわさ話や落語や漫才を聞くのではありません。

仏法を聞かせていただくのです。

親鸞聖人のご一生が描かれている
アニメーション『世界の光・親鸞聖人』は、

親鸞聖人の教えに基づいて作られていますから、

このアニメを見ることも、聴聞になるのです。

では、どのような心がけで聴聞すればいいのでしょう。

親鸞聖人は、


たとい大千世界に

みてらん火をもすぎゆきて

仏の御名をきくひとは

ながく不退にかなうなり

     (浄土和讃)


たとえ大宇宙が猛火に包まれようとも、
その中、
仏法を聞く人は、
早く絶対の幸福になれると教えられています。

蓮如上人も、こう仰っています。


火の中を 分けても法は 聞くべきに

雨風雪は もののかずかは


これは、

仏法は、火の中かき分けても聞かねばならない
大事なことが教えられているのだよ、

と親鸞聖人は教えておられる。
だから、雨や風や雪に負けずに仏法は聞かねばなりませんよ

と言われているのです。

 

●「聴聞」四つの心構え


ある浄土真宗の先達は、仏法を聞く心構えを、

分かりやすく四つに分けて教えられました。

一番目は「骨折って聞け」。

「骨を折る」とは、「苦労する」という意味ですから、

仏法は、「苦労して聞きなさい」ということです。

何事も楽していては身につかぬ。


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ある新聞社の編集長が
三人の記者が書いた同一事件の原稿を批評してこう言いました。

「第一は頭で書いた原稿、
第二は耳で書いた原稿、
第三は足で書いた原稿。
足で書いたものが最もよい」

頭で書いた原稿とは、
横着して事件の現場を想像して書いたもの。


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耳で書いた原稿は、電話や人伝えで聞いて記したもの。

足で書いたというのは、実地に現場に足を運び、
状況を目で確かめ、
生の証言を聞いて書いたものをいう。

会社を一歩も出ずに横着していては記者失格。

足を動かし汗をかき、苦労してこそ得るものは大きい。

ましてや仏法。

近くのコンビニで買い物するような気楽な聞法ではなく、

離れた場所まで苦労して行ってこそ、「しっかり聞こう」

と真剣になります。

ですから、「仏法は、出て聞け」「足で聞け」といわれるのです。

 

二番目に大事な心掛けは「衣食忘れて聞け」。

仏法を聞くのに、服装や、食事に気がかかっているようでは、

真剣な聞法とはいえません。

わが身の大事となれば、衣食など忘れてしまいます。

自分のうわさ話が聞こえたらどうでしょう。

「そういえば○○さんってこの前・・・」

あなたの名前がささやかれる。

褒め言葉か悪口か、一体どんな話が始まるのか。

聞き落としては大変と、脳はシャンとなり、耳もツンと立つ。

わが子が交通事故に遭って病院に運ばれれば、

医者の一言一言に全神経を集中して聞かずにおれません。

仏法には、私の後生の一大事が説かれているのですから、

それ以上に真剣な気持ちで聞かせていただいて当然です。

釈尊十大弟子の一人、
舎利弗尊者が閑静な山中で座禅していた時のこと。

かねて畏敬する維摩居士がやってきた。

「舎利弗さん、そこで何していられるのかな」

誰もが見れば分かることを、ワザと聞くので面白くない。

「座禅しているのだが・・・」

無愛想の答える。

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散乱している舎利弗の心を見抜き、
維摩は言下にこう指摘する。

「なに座禅、それが座禅とな。
もし身体を動かさないのが座禅なら、

山の樹木も立派に座禅していることになる」

かくて諄々と、本旨を説いたという。

形よりも心が大事なのです。


聴聞の心構えの三つ目は、「間断なく聞け」。

「継続は力なり」といわれるように、
何かを身につけようと思ったら、

根気よく続けることが大切です。

仏法は、半年や一年に一度、
ボツーンと聞いて分かるような浅い教えではありません。

続けて続けて聞きなさい、と教えられているのです。

昔、明詮という僧侶が、3年たっても魂の解決にメドがつかず、

「オレは助からない人間かもしれない。今はこれまで」

と、師匠にいとまを願い出て泣きながら寺を出た。

ところが、その時、大雨が降ってきたので、

山門の下に腰を下ろし、雨がやむのを待った。

山門の屋根から落ちる雨だれを見ていた明詮は、
フト、足下の石に、
穴が開いているのを目にする。

「こんな硬い石に、どうして穴が開いたのだろう」

と、じっと見ていると、その石の穴は、

雨だれがポタポタと落ち続けてできたのだと気づいた。


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明詮はハッとした。

「軟らかい水滴が、こんな硬い石に穴を開けたのか。

オレは、2年や3年の修行でへこたれて
後生の一大事の解決をあきらめるとは、

この水にも劣る横着者ではないか」

翻然と寺へ帰るや、雨だれの説法を師匠に話し、

心を改め、努力精進して、
後に「音羽の明詮」といわれる大徳になったという。

蓮如上人は、


至りて堅きは石なり、至りて軟らかなるは水なり、

水よく石を穿つ。いかに不信なりとも聴聞を心に入れて申さば、

お慈悲にて候間、信を獲べきなり。

只仏法は聴聞に極まることなり

          (御一代記聞書)

 

いかに硬い石でも、軟らかい水が穴を開ける。

どんなに疑い深くとも、聴聞に身も心も打ち込めば、

広大な阿弥陀仏のお慈悲によって
必ず信心を獲ることができるのだ。

ただ仏法は聞くことが肝要である。

と教えられています。


聴聞の心構えの最後は、「聞けない時は、思い出せ」です。

「どんなに聞きたくても、聴聞のご縁がない時は、

聞いたことを思い出しなさい」

と教えられています。復習が大事、ということですね。

 

4つの心がけをおさらいいたしましょう。


①骨折って聞け(苦労して、足で聞きましょう)

②衣食忘れて聞け(集中して、真剣に聞きましょう)

③間断なく聞け(継続して聞きましょう)

④聞けない時は思い出せ(しっかり復習しましょう)


「仏法聞き難し、今已に聞く」(お釈迦さま)

本当の幸せを明らかにする仏法を聞かせていただくことは
大変有り難いことです。

4つの心がけを胸に刻み、

「聞思して遅慮することなかれ」。

「心は浄土にあそぶなり」の風光が開かれるまで、

聞法会場へ足を運び、聴聞の一筋道を進みましょう。


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阿弥陀仏に救われるには? 「聴」と「聞」とはどう違う!? [極楽に往生するには]


誠なるかなや、
摂取不捨の真言、超世希有の正法、
聞思して遅慮することなかれ

         (親鸞聖人・教行信証総序)


まことだった!本当だった!
弥陀の誓いにウソはなかった。
みなみな、聞いてもらいたい、この親鸞が生き証人だ。

早く、弥陀の誓願まことを知ってもらいたい


今回も、この親鸞聖人のお言葉を解説いたしましょう。
親鸞聖人が「誠だった!」といわれている「摂取不捨の真言」も
「超世希有の正法」も、「阿弥陀仏の本願」のこと。
それは、十方諸仏の本師本仏の阿弥陀仏の
“どんな人も必ず、絶対の幸福(往生一定)に救う”
という命がけのお約束です。

その弥陀の願いに背を向けて、
欲のままに逃げ回っている私たちをどこまでも追いかけ、
“無上の幸せに救わずばおかぬ”
という弥陀の真実のお言葉
ですから、
親鸞聖人は「摂取不捨の真言」とも言われ、
世を超えた2つとない真実の誓い、
「超世希有の正法」とも称されます。
では、弥陀のお約束どおりに救われるには、
どうすればよいのでしょうか。


●仏法は聴聞に極まる


阿弥陀仏のお約束は、
「聞其名号、信心歓喜」
とありますように、
聞いて信ずる者を助けるというお約束
ですから、
聞くということが阿弥陀仏の救いに最も大切なことなのです。

ゆえに蓮如上人は、


仏法は聴聞に極まる (御一代記聞書)
(仏法は聞く一つで救われる)


と教えられています。
聴聞といいますのは、「聴」もきくということですが、
仏法では、聴というきき方と、
聞というきき方を厳然と区別されていることを、
よく知らなければなりません。

まず、聴というきき方は、
ただ耳できいて合点しているきき方をいいます。
2+2は4、4+4は8というように、
きいて納得しているきき方をいいます。


弥陀の救いにあうには、まず、
阿弥陀仏の本願の生起本末をきいて、
よく納得することが大事です。
阿弥陀仏の本願の生起本末とは、
弥陀は、どんな者のために本願を建てられたのか。
どのようにして本願を建てられたのか。
その結果は、どうなったのか、ということです。

納得できなかったら納得できるまで、
重ねて聞かねばなりません。
仏教は因果の道理を根幹として説かれていますから、
どんな人でも、聞けば必ず納得できる教えなのです。

教えを重ねて聞いて正しく理解し納得することが、
第一に大切なことです。
これが聴聞の聴です。

まず教えをよく聴いて納得することから聞法は始まるのです。


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●「上の心」と「下の心」


重ねて仏教を聴いていきますと、
私たちには2つの心があることが知らされてきます。
「2つの心?私の心は一つしかありませんよ」
と思われるかもしれません。
2つの心とはどういうころでしょうか。


あるところに、喧嘩が絶えない菓子屋の若夫婦がいた。
今日も、つまらぬことで始まった口争いが怒号となり、
亭主が「殺してやる」と叫び、
女房は、「殺すなら殺せ」と激高している。
そこを通りかかった寺の和尚、また始まったかと仲裁に入った。
「どうしたんだい、大きな声を上げて。
通りがかりの人に恥ずかしいとは思わんか。
やめなされ、やめなされ」
すると、亭主、
「捨てておいてください。
今度という今度は勘弁ならん。
今日こそ、かかあをたたき殺してやる」
と目を釣り上げ、わめきたてる。
女房も女房で、
「和尚さん、ほっといてください。
さあ、殺せるものなら殺してみろ」
と、かみつかんばかりに逆上し切っている。
こうなっては手のつけようがない。
思案に余った和尚、
「じゃ、お互いの気の済むまで喧嘩するがよい。
これほど止めても聞き入れぬなら仕方がない。
殺すとも殺されるとも勝手にしたらよかろう」
と言い捨てた。


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いつの間にか店先に近所の子供たちが集まって、
派手な夫婦喧嘩を見物している。
すると和尚、店先に並べてあった菓子を取り上げて、
「さぁさぁ、よいか、おまえたちにこの菓子をみんなやるから、
持って行け」
と投げ与えた。
菓子屋の夫婦が驚く。
「和尚さん、そんな無断で店の物をやっては困ります。
明日から私たち、商売できなくなるじゃありませんか」
「なに、私たちの商売?なんと訳の分からぬ話じゃ。
おまえさんらは殺すとか殺されるとか言っていたじゃないか。
人を殺せば刑務所へ行く身じゃ、
してみればおまえさんたちに用のない菓子。
今のうちに子供たちを喜ばせておいたほうがよかろうと思ってな、
施しているところじゃ」
と和尚が言うと、
「ああは言ったが、今晩また一緒に寝るつもりじゃ」
と言ったという。

感情は激怒している時も、
その下に湖底のように静まり返っている心があります。
特に真剣に仏法を聴聞していきますと、
ハッキリする2つの心があることが分かってきます。

「なるほど、なるほど」とうなずいてきいている心と、
腹底に感じられる、少しも仏法をきこうとしない心です。

「上の心」と「下の心」といわれることもあります。
一例を挙げましょう。
「あなたは、生まれたからには必ず死なねばならないと思うか」
と質問されたら、誰でも「イエス」と答えるでしょう。
「生ある者は必ず死に帰す」
これは誰も否定できない厳粛な事実だからです。
では、
「今日死ぬと思えるか」
と尋ねられたらどうでしょうか。
答えは「ノー」でしょう。
この「今日死なない」と思いこんでいる心は、
明日になっても「今日は死なん」と思う心であり、
明後日、そのまた翌日になっても
「今日死なん」と思い続ける心です。
「いつまでも 死なぬつもりの 顔ばかり」
最後まで死ぬまいと思っている、
つまりは永遠に死なないと思っているのが私の本心なのです。

2つの矛盾した心があるとお分かりになるでしょう。


●「聞」ときく


聴聞の「聴」は、上の心がきいて合点、理解することです。
しかし、どんなに理解や合点しても、
知った覚えたであって弥陀の救いではありません。

それを蓮如上人は、こう言われています。


聴聞ということは、なにと意(こころ)得られて候やらん。
ただ耳にききたるばかりは、
聴聞にてはなく候。
そのゆえは、千万の事を耳にきき候とも、
信得(しんえ)候わぬはきかぬにてあるべく候。
信をえ候わずは、報土往生はかなうまじく候なり
             (一宗意得之事)
聴聞ということを、どう思っていられるだろうか。
ただ、耳できいて理解し合点しているだけでは、
それは聴聞とはいえないのである。
たとえ千座万座きいても、
信心を獲得しなければ聞いたことにはならない。
信を獲なければ、弥陀の浄土へは往けないのである


いくら耳で千回万回の説法をきいても、
それは合点や理解だけの聴のきき方です。
では聴聞の「聞」とは、どんなきき方か、
親鸞聖人は、次のように教えられています。


「聞」と言うは、衆生、仏願の生起・本末を聞きて
疑心有ること無し。これを「聞」と曰うなり  

             (教行信証信巻)


聞とは、阿弥陀仏の本願の生起・本末に、
ツユチリほどの疑心もなくなったのを、
聞というのである。


弥陀の五劫思惟の本願は、
私ひとりのためでありましたと、
弥陀の本願の生起・本末が晴れ(信)、
大安心大満足になったのを、聞といわれるのである。


●合点するだけでは意味がないのか


こうきくと、次のような疑問を抱く人があります。
「では、『聴』というきき方は、何にもならないのか」
とんでもない。それは因果の道理を破壊する誤りです。
まかぬ種は生えませんが、まいた種は必ず生える。
これが因果の道理です。
自業自得といわれるように、自分の行い(業)によって、
自分の結果(運命)が得られるのです。
一回きけば、それ相応の結果が生じる。
十回きけば、それだけの果報が得られる。

ボーッときくのと、真剣にきくのと、
結果が同じはずがありません。

家で気楽に学ぶ人と、外へ出て苦労してきく人とでは
結果は違います。
近くの会場でしかきかない人と、遠くまで足を運んできく人、
時間があればきくという人と、忙しい中を時間つくってきく人とでは、
得る結果は絶対に同じではありません。
ですから、「聴いているだけでは何にもならない」という考えは
大間違いなのです。

一歩踏み出し、聞法の場へ足を運ぶことは、
尊い仏縁がなければありえないことです。
そこには、阿弥陀仏の強い後押しが必ず働いています。
聞く気のない私に「聞いてくれよ」
の阿弥陀仏の絶大なる願心がかかっていてくだされるからです。

聞思(聴聞)して遅慮することなかれ」(教行信証)
弥陀の本願に対する一切の疑心が消滅し(信)、
大安心大満足になるまで聞き抜きましょう。


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