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弥陀に救われれば、一味平等の絶対の幸福に生かされる! [救われるとどうなる]

        広がる一味平等の世界

 

凡・聖・逆・謗斉(ひと)しく廻入すれば

衆水の海に入りて一味なるがごとし (正信偈)

 

(阿弥陀仏の本願に救われたならば、
凡夫も聖者も、五逆の罪人も謗法の極悪人も、
皆、一味平等の絶対の幸福に生かされる。
それは大小清濁、さまざまな川の水が
海に流れ込めば、海水と一味になるようなものである。)
 
時代や場所にかかわらず、阿弥陀仏の本願に救い摂られた人は
誰でも、等しく絶対の幸福になれることを宣言された親鸞聖人の
『正信偈』のお言葉です。
 
親鸞聖人の著作は、ご自身が本願に救い摂られた歓喜(自信)と、
「すべての人よ、早く弥陀の本願に救われて、親鸞と同じ
無上の幸せになってもらいたい」という
教人信の御心であふれています。
(自信教人信・・・中国の善導大師のお言葉。自ら阿弥陀仏に救われ、人々に阿弥陀仏の救いを伝えること)
 
『正信偈』の最後も、
「道俗自衆共同心(どうぞくじしゅうぐどうしん)」
(皆人よ、どうか親鸞と同じ心〈絶対の幸福〉に
なってもらいたい)と結んでおられます。
 
ところが、どんな人も平等一味に助ける弥陀の救いを
知らない人は、
「あのように喜べるのは親鸞聖人のような特別に優れた方だけで、
私のような凡人は、とても絶対の幸福になれるはずがない」
と思ってしまいます。
実は、その心こそ阿弥陀仏の本願の誤解だから、
聖人は一味平等の弥陀の救いを徹底して
明らかにしていかれたのです。
 
●親鸞聖人と法友との大論争
 
かつて親鸞聖人が、法然上人のお弟子であった時、
この問題について法友と大きな論争をなされたことがありました。
これを「信心同異の諍論」といわれます。
 
親鸞聖人は29歳の御時、法然上人と出会われ、
阿弥陀仏の本願を聞かれるようになりました。
そして、弥陀の本願によって絶対の幸福に救い摂られ、
すぐに法然上人のお弟子となられたのです。
この論争は、お弟子となって5年後の聖人34歳の時でした。
 
相手は、法然門下の高弟といわれた聖信房、勢観房、
念仏房ら3人。
そうそうたる弟子の面前で聖人が、
「御師法然上人のご信心も、この親鸞の信心も、
少しも異なったところはございません。
全く同じでございます」と、
何の遠慮もなく言い切られたことから始まった。
親鸞聖人の「信心は同じ」の宣言は、聖信房や勢観房らにとって、
まさに青天の霹靂。
「何ということを親鸞!お師匠さまを冒涜するにもほどがある。
聞き捨てならんぞ」
尊敬する師を侮辱する発言と受け取った3人は激高し、
厳しく親鸞聖人をとがめる。
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当時、法然上人は「知恵第一」「勢至菩薩の化身」と
尊崇されていた。
とりわけその名をとどろかせたのは文治2年(1186年)、
京都の大原で行われた大論争である。
増大する法然上人の帰依者に、天台宗や真言宗などの
各宗も黙視できず、宗派を代表する全国の仏教学者300余人が
結託し、法然上人に論争を挑んだのである。
論議は一日一夜に及んだが、ついに法然上人に軍配が挙がった。
法然上人の理路整然たる話に納得し、
高徳に打たれた満座の聴衆は、
声高に念仏を称え、その声は三日三晩、大原の山に響いたという。
世に「大原問答」「大原談義」といわれている。
そんな日本一の大学者・法然上人と同じ信心になれるとは、
3人は夢にも考えられなかったから、
親鸞聖人を激しく非難したのだ。
「親鸞、そなたお師匠さまをどんなお方か知ってのうえか。
どうして信心が同じだなどと言えるのか。
弟子として言うまじき言葉だ。うぬぼれもいいかげんにしろ」
親鸞聖人は穏やかに、だが断固として言い切られた。
「どうか皆さん、お聞き違いなさらないでください。
私は、知恵や学問が、お師匠さまと同じだと
言っているのではありません。
ただ信心が、同じだと言っているのです」
しかし3人は、全く納得できない。平行線をたどり、
とうとう法然上人のご裁断を仰ぐことになった。
 
親鸞聖人も、聖信房、勢観房、念仏房ら3人も、
同じく法然上人を師と仰ぎ、その優れた知恵と高徳に
深く敬服していたにもかかわらず、なぜ対立したのか。
いぶかる人も多いに違いありません。
この論争の焦点は、法然上人の信心と弟子の信心が、
同じになれるかどうかの一点でした。
勢観房らの主張は、
「知恵第一、勢至菩薩の化身と崇敬されるお師匠さまと
我々が同じ信心になれるはずがない」
というものでした。
それに対して親鸞聖人は、「私は法然上人と同じ信心です」と
言われたので、真っ向からぶつかったのです。
 
●師・法然さまのご裁断
 
法然上人は、改めて両方の言い分を確認されてから、
静かにこう話された。
 
信心が異なるというのは、自力の信心であるからだ
 
勢観房らに雷にうたれたような衝撃が走った。
顔色を失い、ガックリうなだれる。
「異なるのは、自力の信心か・・・」
常々、法然上人から、自力では阿弥陀仏の浄土へは
往けないことを聞かされていた3人は、自分たちの信心が
自力の信心と知らされて愕然としたのは当然だろう。
 
ここで、法然上人の仰る「自力の信心」とは何か。
その前に、まず「信心」ということについて、
明らかにしておかねばなりません。
一口に「信心」といっても、いろいろあります。
漢字を見れば、〝心〟で何かを〝信〟じているのが
「信心」です。私たちは何かを信じなければ、
一日たりとも生きてはいけません。
明日ありと信じて生きている〝命の信心〟、
子供を頼りにしている〝子供信心〟、
金や財産をあて力にして生きている〝金信心〟や
〝財産信心〟も多いでしょう。
病院の薬の成分を確かめもせず、ポーンと口に放り込むのは
医師を信じてのこと。
床屋でカミソリを首筋に当てられながら平気で居眠りできるのも、
「めったなことはない」と理容師を信じているからでしょう。
このように、広くいえば生きること自体が信ずることですから
無信心の人は一人もいないのです。
何をどう信じるかは一人一人異なりますから、
このような信心に同じ信心は毛頭ありえません。
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また世間一般で「信心」といえば、
特定の仏や菩薩や神などを信じていることをいいます。
「何を信心していますか」
「もっと深く信心しなさい」
「信心が足らないとゴリヤクはないよ」
などと会話される信心です。
これらの信心も各人各様ですから同一の信心はありえません。
 
しかし、今ここで親鸞聖人と勢観房らの論争の的となっている
信心は、先に述べたような信心とは全く異なる、
世にも不思議な信心です。
それは真実の仏法・阿弥陀仏の本願を聞いて初めて生ずる、
自力の信心」「他力の信心」といわれる信心のことなのです。
弥陀の本願を聞いて、初めて現れる信心ですから、
本願を聞かないことには、これらの信心は理解できません。
阿弥陀仏の本願とは、本師本仏の阿弥陀仏が、
命を懸けて、すべての人とお約束なされている次のような
お誓いです。
 
どんな人も、聞く一念に絶対の幸福に救い、
必ず極楽浄土に往生させる
 
この弥陀の本願を聞いた人が、自分の知恵や学問で
「絶対の幸福など、本当にあるのだろうか。
どう聞いたら、どう信じたらよかろうか」
などと本願を疑い、計らっている信心を「自力の信心」
といわれるのです。
 
●自力の信心は一人一人違うもの
 
法然上人は、次のように仰っています。
自力の信心は、知恵や学問や経験や才能で作り上げるもの。
その知恵や学問や経験や才能は、一人一人異なるから、
自力の信心は、一人一人違ってくるのだよ
人間の知恵や学問、才能や経験は一人一人異なり、
千差万別ですから、その異なる知恵や学問で本願を計らう
自力の信心は、一人一人違って当然です。
 
昔、飛騨の高山と、伊豆の大島から江戸見物に行った男らが、
同宿して争っている。
「断然、太陽は山から出て、山へ入るものだ」
と、高山の男は言う。
「バカを言え。太陽は海から出て、海へ入るもの。
この目でいつも見ていることだ」
と、一歩も引かないのは大島の男。
そこへ宿屋の主人がやってきて、
「そりゃ、お二人とも大間違いじゃ。
太陽は屋根から出て屋根へ入るもの。
毎日見とりますから間違いない」
と笑ったという。
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同じ時計の音でも、金回りのいい人には、
「チョッキン、チョッキン、貯金せよ」
と聞こえるそうだが、借金に追われている者には、
「シャッキン、シャッキン、あの借金どうするんだ」
と時計までもが催促するという。
一つの音でも思いが違うと受け取り方が変わるように、
各人各別の知恵や才能、経験で固めた自力の信心は、
異なるのが特徴なのです。
 
●他力の信心は万人共通
 
続いて法然上人は「他力の信心」は万人共通と明かされます。
 
他力の信心は、阿弥陀如来からともに賜る信心だから、
誰が受け取っても、皆同じ信心になるのである。
それゆえに、阿弥陀如来から賜った私の信心も、
親鸞の賜った信心も、少しの違いもない。
全く同じになるのだよ
「他力の信心」は、知恵や才能や経験などと関係なく、
男も女も、老いも若きも、賢い人も愚かな人も、
富める人も貧しい人も、平等に阿弥陀仏から頂く信心だから、
万人が同一になれるのです。
同じテレビ局の放送は、受信するテレビの大小、新旧、
製造会社の違いにかかわらず、内容は全く変わらないのに
例えられるでしょう。
最後に法然上人は、
この法然が賢くて作った信心ではないのだ。
法然と異なる信心の者は、私の往く極楽浄土へは往けませんよ。
心しておきなさい
と諭され、くれぐれも弥陀より賜る他力の信心を
間違ってくれるなよ、と念じられました。
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●弥陀から直に賜る信心
 
このように法友と激しい論争をなされてまで
鮮明にしてくだされた一味平等の他力信心を、
冒頭の『正信偈』のお言葉で親鸞聖人は教えられているのです。
 
凡・聖・逆・謗斉しく廻入すれば、
衆水の海に入りて一味なるが如し
 
「凡・聖・逆・謗斉しく廻入すれば」とは、
凡夫も聖者も、五逆、謗法の大罪人も、
同じように他力の信心を獲得すれば、ということ。
「衆水」とは、あらゆる河川の水です。
万川には、大小、清濁、いろいろあるでしょう。
しかし、ひとたび大海へ流れ込めば、
海水の一味に溶け込むように、
健常者・障害者・人種や職業、貧富、才能の有無など関係なく、
同じ無碍の世界へ共生できるのだよ、と仰っているのです。
「他力の信心」は、阿弥陀仏から直に賜る信心ですから、
「他力廻向の信心」といわれ、その信心を獲たことを
「信心獲得」といわれるのです。
知識(仏教の先生)から、「それが信心獲得だ」と
認知されるように思っているのは大変な誤解で、
そのようなことはお釈迦さまはじめ、七高僧、親鸞聖人、
覚如上人、蓮如上人も一切、なされていません。
「Aさんは、40歳7ヶ月で獲信した」
「Bさんは、5年6ヶ月で獲信した」
「CさんとDさんはまだだ」
といった記録が善知識方の書かれたものに一切ないのは、
信心の認可などなされなかったからです。
他力の信心は、人間が与えたり、
「それでよい」と認可するものではないのです。
また、他力の信心は「これで信心獲得できたのだろうか」と
他人に確認しなければならないものではありません。
明信仏智で、獲信した本人がハッキリ知らされることだからです。
(明信仏智・・・阿弥陀仏の本願がハッキリ知らされること)
 
「他力の信心ということをば、今既に獲たり。(乃至)
弥陀如来他力の大信心ということは、今こそ明らかに知られたり」
                 (御文章2帖目13通)
阿弥陀仏から他力の信心を頂けば、時代を超え国境を越えて、
万人が親鸞聖人と同じ大安心・大満足の信心を
味わわせていただくことができます。
私たちも親鸞聖人と同じ、時空を超える絶対の幸福の身に
生かされるまで、真剣に弥陀の本願を聞かせていただきましょう。

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煩悩あるがままで絶対の幸福になれる [救われるとどうなる]

      シブ柿の シブが

           そのまま 甘味かな

 

                煩悩あるがままで

                絶対の幸福になれる

 

親鸞聖人への妬みそねみで苦しんでいた弁円が、

仏教を聞いて幸せな人生に転じたことを、

巻頭特集でお話しました。

(ブログでは載せていません)

 

山も山 道も昔に 変わらねど

 変わりはてたる 我が心かな

 

彼の詠んだこの歌は、何を表しているのでしょう。

親鸞聖人を殺害せんとして待ち伏せしていた山も道も、

当時と何も変わらないが、「絶対の幸福」となって、

苦しみの人生が幸せな人生にガラリと変わり果てた、

と弁円は歌っています。

仏教では私たちの生まれた目的、「なぜ生きる」の答えは、

阿弥陀仏の本願を聞いて「絶対の幸福」になることだ、

と教えられています。

弁円はここで、その絶対の幸福になった喜びを歌っているのです。

阿弥陀仏の本願とは、大宇宙のすべての仏(十方諸仏)が、

「本師本仏(先生)」と異口同音に褒めたたえる阿弥陀仏が、

すべての人を相手に「必ず絶対の幸福に助ける」と

誓われたお約束のこと。

 

阿弥陀仏の本願を聞いた、とは、このお約束どおりに

絶対の幸福に救われたことをいいます。

すべての仏が師と仰ぐ阿弥陀仏が、

「すべての人を必ず助ける」

と仰せだから、誰もが必ず幸せになれます。

「だから、早く絶対の幸福になりなさいよ」

と親鸞聖人は生涯、教え勧められました。

 

●絶対の幸福になっても煩悩は変わらない

 

では、絶対の幸福とは、どんな幸せなのでしょう。

〝汝自身を知れ〟といわれるように、〝私〟というものが

どんな者かを知らなければ、

その〝私〟が幸せになることはできません。

一体私たち人間は、どんな者なのでしょうか。

親鸞聖人は、

煩悩具足の凡夫

と仰っています。「煩悩具足」とは「煩悩100パーセント」

「煩悩によってできている」ということです。

 

『凡夫』というは無明・煩悩われらが身にみちみちて、

欲もおおく、瞋(いか)り腹だち、

そねみねたむ心多く間(ひま)なくして、

臨終の一念に至るまで止まらず消えず絶えず

                (一念多念証文)

人間というものは、欲や怒り、腹立つ心、妬みそねみなどの、

塊である。これらは死ぬまで、静まりもしなければ減りもしない。

もちろん、断ち切れるものでは絶対ない

 

仏教を聞くと、欲の心が少しはなくなったり、

怒りの心がおさまったり、ましてや、他人を妬み、

そねむ心などなくなるだろうと思っている人もありましょうが、

親鸞聖人はそんな心は死ぬまで変わらないのだよ、

と仰っています。だから阿弥陀仏の本願に救われて、

絶対の幸福になったあとも、

「煩悩具足」が変わらぬ人間の姿です。

ところがそう聞くと、

「エッ!絶対の幸福になっても煩悩は変わらないの?」

と驚く人が少なくないでしょう。

それは人間の実態をよく知らないところから起きる誤解です。

親鸞聖人が仰るように、人間は「煩悩具足」。

そんな者を目当てに、阿弥陀仏は、「絶対の幸福にしてみせる」

と誓われているのです。

「ナーンダ、煩悩が変わらないのなら、救われても意味がない」

などと思ったら、これまた大間違い。

阿弥陀仏の本願に疑い晴れて、

煩悩具足の者が絶対の幸福になると、

煩悩は変わらぬままで喜びに転ずる

と親鸞聖人はこう和讃で教えられています。

 

罪障功徳の体となる

氷と水のごとくにて

氷多きに水多し

障り多きに徳多し」(高僧和讃)

弥陀に救われると、欲や怒りの煩悩〈罪障〉の氷が解けて、

幸せ喜ぶ菩提の水となる。氷が大きいほど解けた水が多いように、

罪障〈煩悩〉が多いほど、幸せ、功徳が多くなるのである

 

これが「煩悩即菩提」ということで、

絶対の幸福になると、欲や怒り、

妬みそねみの煩悩はなくなるどころか、

幸せのタネとなるのだと、驚くべき世界の厳存を、

聖人は断言されています。

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●エッ 悪が転じて善となるって!?

 

絶対の幸福とは本来、相対の言葉ではとても表現し切れませんが、

言葉によらなければ伝えられませんから、例えでなりと、

この世界を何とか分かってほしいと聖人は和讃されているのです。

古来、

シブ柿の シブがそのまま 甘味かな

とも詠まれています。

シブ柿を干せば甘い干し柿になる。

シブを抜いて甘味を注入したのではなく、

シブがそのまま甘味になったのです。

弥陀の救いは「転悪成善(悪が、そのまま善となる)」ともいい、

煩悩が減ったり、なくなって幸福になるのではなく、

煩悩がそのまま喜びに転ずるのです。

 

こら阿弥陀 助けたいなら 助けさそ

 罪は渡さぬ 喜びのもと

 

「どうか助けさせておくれ」

手を突いて願われる阿弥陀如来に、

〝阿弥陀さま、そうまで仰るなら、助けさせてあげましょう。

でも、罪悪(煩悩)は渡しませんよ。煩悩即菩提。

喜びの元ですからね〟

弥陀の本願を喜んだ人がユーモラスに歌っています。

言葉で説明するのはとても困難ですが、「煩悩即菩提」を

表す例え話を、もう一つ紹介しましょう。

 

●どんな困難も前向きに乗り越えられる

 

自然豊かな地方に住むある少年。近所に同級生は少なく、

彼は山一つ越えた中学校へ、ひとりで通学しなければならない。

部活動で遅くなった帰路などは、街灯もなく、

ドキッとするような寂しい場所もある。

夏はジリジリ照りつける太陽に焼かれ、

冬は容赦なくたきつける吹雪にしゃがみ込むこともあった。

雨が降ると、たちまち坂道が滝になる。

ズボンの裾からは水が滴り、運動靴はぬれてグズグズ。

朝からそんな天気で、一日体操着の日もあった。

「ああ、もっと学校が近ければ・・・。

この山さえなかったら・・・。」

いつも山と道とが、恨めしかった。

 

やがて学校に、美しい少女が転校してきた。

何と彼女は、同じ町ではないか。

以来、しばしば一緒に通学し、遠い学校のこと、

趣味や好みのことなど語り合い、親しくなっていった。

ある日、下校途中に、にわか雨に襲われた。

なかなかやみそうになく、傘のない彼は困惑する。

その時、少女が、

「この傘で一緒に帰ろう」。

思いがけず相合い傘になった少年は、内心、

跳び上がらんばかりに喜び、ひそかに願った。

〝どうか雨がやまないように〟

〝山がもっと寂しければ〟

〝家がもっと遠ければいいのに〟

あんなに恨んでいた道の遠さも、

山の寂しさも変わってはいないのに、

今は少しも苦にならない。

いや〝苦しみ〟がかえって楽しみにさえなっている。

誰にでも身に覚えがあることではないだろうか。

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かつてNHK朝の連続ドラマで、オーロラ輝子という

演歌歌手を演じて人気を博した女優の河合美智子さんが、

昨年、40代の若さで脳出血を発症し、

入院治療を余儀なくされました。

(2017年6月のとどろきです)

そんな河合さんが、復帰とともに結婚を発表し、

元気な姿を見せたのは今年3月。

半身不随になるかもしれぬ深刻な病状を、

パートナーが明るく支えてくれたのだといいます。

「病気はしたけど、楽しいことがいっぱいあったから、

手が動かなくなった、足が動かなくなったは、

そんなマイナスじゃなかった」

とコメントしています。

つらい療養やリハビリも、明るく支えてくれる人が

いれば楽しい、とさえ思える。

絶対の幸福になって底抜けに明るい人生と転ずれば、

どんな困難も前向きに乗り越えていけるのです。

 

●心は浄土に遊ぶように明るく愉快になる

 

最後に、絶対の幸福を教えられた親鸞聖人の次のお言葉を

お聞きしましょう。

 

有漏の穢身はかわらねど

心は浄土にあそぶなり」(帖外和讃)

欲や怒りの絶えない煩悩具足の身は変わらないけれども、

今が幸せ今日が満足、ウラミと呪いの渦巻く人生を、

浄土で遊んでいるような気分で生かされる

 

「有漏の穢身」とは、煩悩に汚れた私たちの肉体のこと。

絶対の幸福になっても煩悩具足の身は変わらないことを、

「有漏の穢身はかわらねど」と仰っています。

ところが、次の「心は浄土にあそぶ」は、弥陀の本願に

救い摂られると、いつ死んでも浄土往生間違いなしと

ハッキリしますから、生きている今から、

心は極楽浄土で遊んでいるように明るく、愉快だ

と言われるのです。

 

どんな人でも、こんなすごい絶対の幸福に必ずなれるのですから、

親鸞聖人の教えをよくよく聞かせていただきましょう。

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極楽に蓮の花が咲いている訳 [救われるとどうなる]

(真実の仏教を説かれている先生ご執筆の『とどろき』より載せています)


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仏事になじみ深いのが、蓮の花

仏教では、蓮を大切にします。

 

極楽浄土に咲くのは、桜でも菊でもなく、

清浄な蓮の花ばかりといわれます。

その理由は、どこにあるのでしょうか。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

   蓮は極楽の花

 

「在る日のことでございます。

お釈迦さまは極楽の蓮池のふちを、

独りでぶらぶらお歩きになっていらっしゃいました。

池の中に咲いている蓮の花は、みんな玉のようにまっ白で、

そのまん中にある金色の蕊(ずい)からは、

何とも云えない好い匂が、絶え間なくあたりへ溢れております。

極楽は丁度朝なのでございましょう。

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文豪・芥川龍之介は、代表作『くもの糸』の冒頭に、

極楽の様子をこう書きました。

極楽と聞けば、きらびやかな、百花繚乱の荘厳を

連想する人も多いでしょう。

ところが「極楽絵図」には、蓮の花ばかりが描かれ、

仏さま方は、みな蓮の台(うてな)の上におられます。

そういえば、お仏壇や墓石に描かれているのも蓮の花。

有名な『阿弥陀経』には、

「池の中に蓮華あり、大(おおき)さ車輪の如し」

と浄土の様子が描かれています。

仏教で花といえば、蓮のことと言っても過言ではありません。

 

  極楽に蓮の花が

   咲いている訳

 

なぜ、蓮がよく登場するのでしょうか。

それは、蓮の花が、仏教で教えられる「正しい信心」の

特徴を表しているからです。

 

「信心」と聞くと、自分とは何の関係もないことだ、

と思う人があるかもしれませんが、

私たちは何かを信じなければ、

一日たりとも生きてはいけません。

例えば、明日も生きておれると、命を信じて生きています。

いつまでも達者でおれると、健康を信じています。

金や財産があるから安心だ、地位や名誉があるから大丈夫と

信じる人も、それらの信心を持っているのです。

夫は妻を、妻は夫を信じ、子供は親を、親は子供を信じています。

政治、科学、思想、何かを信じなければ、

私たちは生きていけません。

神や仏を信じるだけが、信心ではありません。

何かを信じておれば、それはその人の信心です。

何を命として信じるかは、一人一人違いましょうが、

すべての人は何らかの信心を持って生きているのです。

生きるとは、信じることだといえましょう。

 

ところが私たちが、信じていたものに裏切られた時に、

苦しみ悩みます。

病人の苦悩は健康に裏切られたからであり、

家庭の悲劇は夫を信じ切っていた妻が、

夫に裏切られたからです。

子供に裏切られた親、親に裏切られた子供。

しかも、深く信じていればいるほど、

裏切られた苦悩や悲しみ、怒りが大きくなります。

私たちは決して、苦しみ悲しむために

生まれてきたのではありません。

生きているのでもありません。

幸福を求めて生きているのです。

では、裏切らないものを信じて、私たちは生きているでしょうか。

たとえ70年、80年、信じられるものがあったとしても、

私たちは最後、死なねばなりません。

いよいよ死んでいかねばならない時には、

信じていた家族や、お金や財産、名誉にも裏切られ、

この肉体さえも焼いていかなければなりません。

やがて必ず裏切るものを信じて生きているから、

苦しみ悩みが絶えないのだ、本当の幸福になりたければ、

絶対裏切ることのない「正しい信心」を持ちなさいよと、

親鸞聖人は教えていかれました。

その正しい信心とはどんなものかを、

蓮の花の五つの特徴が表しているのです。

これを「蓮華の五徳」といわれます。

 

「蓮華の五徳」

 

蓮華の五徳」とは、次の5つをいいます。

 

①淤泥不染(おでいふぜん)の徳

②一茎一花(いっけいいっか)の徳

③花果同時(かかどうじ)の徳

④一花多果(いっかたか)の徳

⑤中虚外直(ちゅうこげちょく)の徳

 

●どんな人の心に

    信心の花が開くのか

       ①淤泥不染の徳

 

蓮の花は、高原陸地には咲かず、泥沼(淤泥)に咲くという

特徴を持っています。

しかもその花は、泥の汚れに染まらず、

清浄な輝きを放つのです。

 

これは、正しい信心が、どんな人の心の中に開くかを

教えています。

ここで「淤泥」、泥沼に例えられたのは、

悪人のことです。

また、高原陸地とは、善人を例えています。

正しい信心は、善人の心中には徹底せず、

悪人の心の中にこそ、開発(かいほつ)するのです。

親鸞聖人は、有名な『歎異抄』に、

こうおっしゃっています。

 

善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや

 

このお言葉を、多くの人は、「善人より悪人が救われるのか、

ならば悪いことをすればよいのか」と思いますが、

大変な間違いです。

これを正しく読むには、聖人のおっしゃる「悪人」とは

どんな人かを、よく知らなければなりません。

 

■「悪人」とはだれのことか

 

聖人のいわれる「悪人」とは、常識や法律、

倫理・道徳の悪人とは全く異なります。

「自分ほどの悪人はなかった」と、

自己の真実の姿を知らされた人のことなのです。

仏教は「法鏡」ともいわれ、私たち人間の本当の姿を、

明らかに映す鏡であると教えられます。

微塵の悪も見逃されない仏さまの眼からごらんになれば、

すべての人間は一人残らず悪人であると、

お釈迦さまは仰せです。

 

心常念悪(心常に悪を念じ) 

 口常言悪(口常に悪を言い)

 身常行悪(身常に悪を行じ)  

 曽無一善(曽て一善無し)」

       (大無量寿経

 

仏眼からは、心も、口も、体も、悪ばかりで

一つの善もない。

人間の実相を喝破なされた、釈尊のご金言です。

世界の光と仰がれる親鸞聖人もまた、

法鏡に映し出されたご自身の姿を、「一生造悪」

「極悪最下」「極重の悪人」とおっしゃり、

 

いずれの行も及び難き身なれば、

とても地獄は一定すみかぞかし」 (歎異抄)

 

と、悲痛な告白をしておられます。

これは、決して聖人だけのことではなく、

古今東西の全人類、変わらぬ姿なのです。

では、「善人」とは、どんな人なのでしょうか。

それは、悪しか造れぬ己の実態が分からず、

善人とうぬぼれている人のことです。

例を挙げれば、〝その気になれば善ができると思っている人〟や、

〝あの人と比べれば私のほうがましだと思っている人〟

〝悪いことはするけど、反省する心ぐらいあると思っている人〟

などです。

 

鏡に近づけば近づくほど、

自分の容姿がハッキリ見えてくるように、

仏教を聞けば聞くほど、知らされてくるのは、

自分の本当の姿です。

そして、阿弥陀如来のお力で、地獄より行き場のない

極悪最下の者が自分であると知らされた「悪人」の

心の中にこそ、正しい信心の花が開くのです。

 

■何ものにも染まらず輝く真実信心

 

「不染」とは、読んで字のごとく「染まらない」ということです。

蓮の花は、泥中にありながら、汚されることなく、

美しく咲いています。

また、泥沼のままで、きれいな土地に変わることもありません。

これは、正しい信心を獲て、大安心大満足の心に救われても、

「煩悩」は全く変わらないということです。

煩悩は一人一人に108ずつあり、中でも恐ろしいのが、

三毒の煩悩といわれる、貪欲(欲の心)、瞋恚(怒りの心)、

愚痴(ねたみそねみの心)です。

これらの煩悩は死ぬまで、なくなりもしなければ減りもしません。

しかし、阿弥陀如来に救い摂られ、正しい信心を獲得すれば、

いつでもどこでも煩悩一杯が、幸せ一杯となるのです。

これを「煩悩即菩提」といいます。

苦悩がそのまま歓喜となる、煩悩即菩提の不思議さを、

親鸞聖人は次のような例えで説かれています。

 

罪障功徳の体となる

こおりとみずのごとくにて

こおりおおきにみずおおし

さわりおおきに徳おおし」  (高僧和讃)

 

欲や怒りの煩悩(罪障)の氷が解けて、

幸せよろこぶ菩提の水(功徳の体)となる。

大きな氷ほど解けた水が多いように、

極悪最下の親鸞こそが、極善無上の幸せ者だ」

シブ柿のシブがそのまま甘みになるように、

煩悩(苦しみ)一杯が功徳(幸せ)一杯となる、

すごい確信に満ちた、聖人のお言葉です。

正しい信心を獲れば、私たちも皆、

親鸞聖人と同じ境地に出させていただけるのです。

               (淤泥不染の徳

 

往生は一人一人のしのぎ

    ②一茎一花の徳

 

蓮の花は、一本の茎に一つの花しか咲かせません。

チューリップなどほかの花にも見られますが、

蓮の特色の一つです。

 

正しい信心は、一人一人が求めねばならず、

決して身代わりは利かないということを表したものです。

蓮如上人の『御一代記聞書』に、「往生は一人一人のしのぎ」

とおっしゃっています。

後生の一大事は、自分自身の問題であり、

他人事ではありません。

正しい信心は、一人一人が求め、獲得しなければならないのです。

ところが、

〝親鸞さまや蓮如上人さまが、代わりに

ご苦労をしてくだされたのだから、

私たちは求めることも聞き歩くことも要らない。

ありがたいことじゃ〟

と、思っている人があるようです。

 

■ご自身のためであり

   私たちのためでもある

 

善知識方のご苦労には、2とおりあります。

一つは、ご自身の後生の一大事を解決されるための

ご苦労です。そしてもう一つは、私たちのためのご苦労です。

こんな例え話があります。

 

夏の盛り、高い山に登る人たちがあった。

汗は滝のように流れ、のどはカラカラ。

手持ちの水筒は空っぽ。渇するあまり、

「もう一歩も歩けない」と、一人また一人、

動けなくなりその場に座り込んでしまう。

最後の一人が、気力を振り絞って登っていく。

登れど登れど、しかしどこにも水はない。

やがてその男も、精根尽き果ててバッタリ倒れてしまった。

と、倒れた場所のすぐそばに、冷たい清水が、

こんこんとわき出ているではないか。

思わず男は顔を突っ込み、ガブガブ飲んだ。

清水の冷たさが全身にしみわたる。

九死に一生を得た男は、

「ああ、この水のおかげで助かったぞ-!」と、

大喜びである。

そして、大声で呼ばずにおれなかった。

「おーい、ここまで来いよ-!。

ここにおいしい清水があるぞー!」

手にした笠を振りかざし、力の限り叫ぶ。

力尽き倒れていた人たちは、その声に勇気づけられ、

清水のある場所まで懸命に登ろうとする。

そしてたどり着き、のどを潤した同士もまた、叫んだ。

「本当だ、ここに清水があるぞ!」

こうして次々と助かった人々は、

最初に清水を見つけた人に感謝せずにおれなかった。

〝笠上げて 道連れ招く 清水かな〟

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親鸞聖人は、800年前、後生の一大事の解決という「山登り」を

なされました。

比叡山で20年間、血のにじむご修行に励まれるも

一大事の解決はならず、泣く泣く山を下りられた聖人は、

法然上人より阿弥陀仏の本願を知らされ、来る日も来る日も、

必死の聞法を重ねられました。

建仁元年、29歳の御時、阿弥陀仏の救済にあわれた聖人は、

自らの体験と救い摂られたことへの感謝を、

実に生々しく感動的に叫び上げられています。

 

噫(ああ)、弘誓の強縁は多生にも値(もうあ)いがたく、

真実の浄信は億劫にも獲がたし。

遇(たまたま)行信を獲ば遠く宿縁を慶べ。

若しまたこの廻(たび)疑網に覆蔽せられなば

更りてまた昿劫を逕歴(きょうりゃく)せん。

誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法、

聞思して遅慮することなかれ

             (教行信証)

ああ・・・何たる不思議か、親鸞は今、多生億劫の永い間、

求め続けてきた歓喜の生命を得ることができた。

これは全く、弥陀の強いお力によってであった。

深く感謝せずにおれない。

もし今生も、無明の闇(後生暗い心)の晴れぬままで

終わっていたら、未来永遠、浮かぶことはなかったであろう。

何とか早くこの真実、みんなに伝えねばならぬ、

知らせねばならぬ。こんな広大無辺な世界のあることを

 

聖人は、この生命の大歓喜、弥陀に救われた世界を、

90歳でお亡くなりになるまで、

私たちにお叫びくださったのです。

親鸞聖人ほか、善知識方が、阿弥陀如来に救われるまでの

ご苦労は、ご自身のためのものです。

これは先ほどの例え話では、気力ある一人が、

先陣切って山を登っていく苦労に当たります。

見つけた清水の在りかを、笠振り叫ばずにおれないとは、

阿弥陀仏の本願という清水を皆に伝え、

飲ませようとしてのことです。

これは私たちのため、ひとえに私たちの後生を

案じてくだされてのご苦労なのです。

その聖人のご教導に従い、一人一人が、

正しい信心を求めねばなりません。

         (一茎一花の徳

 

信心の「花」と

  幸福の「実」は一念同時

       ③花果同時の徳

 

蓮は、花開くと同時に実ができるという特徴があります。

普通は、開花から実を結ぶまで時間がかかりますが、

蓮の花は違います。また、蓮の花はだんだんと開くのではなく、

一気に音を立てて開きます。

 

これは、正しい信心は「一念」で獲得させていただけることを

表しています。「一念」とは、

何億分の1秒よりも速い時をいいます。

蓮の花がパッと開くように、真実の信心は、

アッという間もない一念で獲得できるのです。

だんだんと信ずるのでもなければ、いつとはなしに信心を

頂くのでもありません。

中国の高僧・曇鸞大師は、阿弥陀如来の救いの速さを、

有名な例えで解説されています。

 

譬えば千歳の闇室に光若し暫く至れば

すなわち明朗なるが如し。

闇豈室に在ること千歳にして去らずと言うことを得んや

                (浄土論註)

たとえ千年間、闇に閉ざされてきた部屋でも、

明るくするのに時間はかからないだろう。

光がさし込むと同時に、闇はなくなる。

千年も真っ暗だったからといって、闇が晴れるのに

時間がかかるということはない

 

しかも、一念の信心を獲ると同時に、正定聚の身になるのです。

蓮如上人は、そのことを『御文章』に、

「その位を『一念発起・入正定聚』とも釈し」と

おっしゃっています。

「正定聚」とは、「間違いなく仏になることに定まった人々」

ということですから、いつ死んでも、必ず浄土へ往ける、

大安心・大満足の身になるのです。

絶対に崩れない幸福ですから、今日の言葉で、

絶対の幸福ともいいます。

一念の信心の「花」開くと同時に、

絶対の幸福の「実」を頂けるのです。

 

正しい信心は、〝いつとはなしに頂く〟のでもなければ、

〝信心しておれば、そのうちご利益がある〟という信心とも

全く違います。

一念で獲得でき、同時に絶対の幸福に救い摂られる信心なのです。

             (花果同時の徳

 

限りない幸福の「実」

    ④一花多果の徳

 

蓮は、一つの花からたくさんの実ができます。

これに対して、柿やミカンなどは一つの花から

一つの実しかできません。

 

正しい信心を獲得した人は、

この世から数多くの利益(りやく)が

頂けることを表します。

「利益」と聞きますと、新興宗教のゴ利益を連想して、

よい印象をもたない方もあるかもしれませんが、

本来は仏教の言葉で「幸福」という意味です。

経典の中にも頻繁に出てきます。

親鸞聖人は、阿弥陀如来を信ずる人は、

計り知れない幸福に恵まれることを、

次のように教えられています。

 

南無阿弥陀仏をとなうれば

この世の利益(りやく)きわもなし

流転輪廻のつみきえて

定業中夭(じょうごうちゅうよう)のぞこりぬ」 

              (現世利益和讃)

信心獲得して、他力の念仏称えれば、

この世の幸福は限りなく、当然受けねばならぬ業報も、

若死にをすることもなく、天寿を全うすることができるのだ、

と言われています。

そういえば、真宗の善知識方は、

皆ずば抜けてご長命ではありませんか。

親鸞聖人は90歳、蓮如上人は85歳、覚如上人は82歳の

天寿を全うされているのも、うなずけるでしょう。

 

■現世十種の益


数限りない利益を親鸞聖人は、『教行信証』に十にまとめて、

現世十種の益」で教えられています。

 

(1)冥衆護持の益

もろもろの菩薩や諸神(冥衆)が、

夜昼常に守護してくださる。

(2)至徳具足の益

大宇宙最高の功徳(至徳)である南無阿弥陀仏

と私が一体となる。

(3)転悪成善の益

苦しみが転じて楽しみとなる。

(4)諸仏護念の益

十方の諸仏方が百重千重に囲んで

護ってくださる。

(5)諸仏称賛の益

十方の諸仏方が、「妙好人だ、希有人だ」

と褒めたたえてくださる。

(6)心光常護の益

阿弥陀仏が、常に護ってくださる。心光とは

阿弥陀仏の光明、念力。

(7)心多歓喜の益

心に喜びがあふれる。

(8)知恩報徳の益

仏智のはたらきで、阿弥陀仏や善知識のご恩が

知らされ、報いずにおれない。

(9)常光大悲の益

大悲とは、阿弥陀如来の大慈悲心のこと。

弥陀の本願を伝えずにおれなくなる。

(10)入正定聚の益

正定聚の位に入る(正定聚とは、間違いなく

仏になることに定まった人々ということで、

いつ死んでも極楽往生間違いない身になる)。

 

信心の花が開くと、このような限りない

幸福の実が得られるのです。

          (一花多果の徳

 

親鸞聖人の

   たくましさの源泉

      ⑤中虚外直の徳

 

最後は茎の特徴です。

蓮の茎は、中に小さな穴がたくさん空いています(中虚)。

一見、弱々しい感じがしますが、大変強く、

真っ直ぐに花を支えているのです(外直)。

 

「他力の信心」などと聞きますから、「仏法を聞くのは、

弱い人間ではないか」と思う人がありますが、

阿弥陀如来に救い摂られ、絶対の幸福になった人は、

いざ鎌倉と言う時には不思議な力を発揮するものだから、

本当に強いたくましい人間だと、

お釈迦さまはおっしゃっています。

それに対して、金や財産や名誉や権力を持っている者は、

一見強そうに見えるが本当は弱いものだといわれるのです。

日本を一握りにした太閤秀吉も、臨終には天下人の面影もなく、

「露とおち露と消えにしわが身かな 

難波のことも夢のまた夢」と、

寂しく息を引き取りました。

過去にも、幾多の英雄、名士が大事業を成し遂げましたが、

しかし彼らは、後世に一体何を残したのか。

大観すれば、それはただ、ひとときの夢のようなもの

ではなかったでしょうか。

財産は、地変に遭えばつぶれます。

建物は、災禍に遭えば灰になります。

名誉や地位のはくは、死の前には執着を増すばかりです。

永劫生き抜く他力金剛心の信心を獲なければ、

すべてが一朝の夢にしかすぎないのだと知らされます。

あの親鸞聖人のたくましさ、蓮如上人の大活躍も、

その源泉は、弥陀より賜った他力の大信心にあったと知れば、

うなずけるではありませんか。   (中虚外直の徳

 

現在ただいま、蓮のような正しい信心を獲得している人だけが、

一息切れると同時に、極楽浄土の蓮の台(うてな)に

生まれさせていただけますから、親鸞聖人は、

信心獲得を急げと叫び続けられていかれたのです。

親鸞聖人の教えを真剣に聞き求め、一日も早く、

他力信心の大輪の花を、心の中に咲かせましょう。

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あなたも仏さまに褒められる身になれる!! [救われるとどうなる]

一切善悪凡夫人(一切善悪の凡夫人)
聞信如来弘誓願(如来の弘誓願を聞信すれば)
仏言広大勝解者(仏は広大勝解者と言い)
是人名分陀利華(是の人を分陀利華と名く)


『正信偈』の冒頭に、
「帰命無量寿如来
南無不可思議光」
“阿弥陀如来に親鸞、救われたぞ、
阿弥陀如来に親鸞、助けられたぞ”
と叫ばれた聖人は、続いてその「弥陀の救い」を
懇ろに明らかにされ、最後に、
「道俗時衆共同心
唯可信斯高僧説」
“すべての人よ、この親鸞と同じように、
早く阿弥陀如来に救われてもらいたい”
と結んでおられます。
『正信偈』を書かれた聖人の目的は、私たちが
「弥陀に救われること(信心決定)」一つであったことが分かります。
今回お話する4行も、その御心は、
「あわれあわれ、存命の中に、みなみな信心決定あれかし」
の外に何もなかったのです。
このことを確認した上で、解説を進めましょう。


まず「一切善悪の凡夫人」とは、「すべての人」のことです。
男も女も老いも若きも、善人も悪人も、私もあなたも、
この中に入らない人は一人もありません。
「どんな人も」ということです。
次に、
「聞信如来弘誓願(如来の弘誓願を聞信すれば)」
と言われている「如来の弘誓願」とは、
「阿弥陀如来の本願」のこと。
本師本仏の阿弥陀如来が、
「すべての人を
平生の一念
必ず助ける
絶対の幸福に」
と誓われているお約束を、「如来の弘誓願」
と言われているのです。
大宇宙には、地球のお釈迦さまはじめ、
大日如来や薬師如来、ビルシャナ如来など
無数の仏方がましまして、
それぞれに本願を持っておられます。
「本願を持つ」とは「約束をされている」ことですが、
中でも、
「すべての人(十方衆生)と、約束する」
と、差別なく誓われているのは阿弥陀如来だけ
ですから、
その「弥陀の本願」を「弘誓願(広い誓い)」と言われるのです。
善人も悪人も、相手を選ばず、「絶対の幸福に必ず助ける」とは、
なんと偉大な誓願ではありませんか。
だからこそ阿弥陀仏は本師本仏、無上仏と仰がれているのです。


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「聞信」とは、露チリ程の疑いも無くなったこと。ですから、
「如来の弘誓願を聞信する」
とは、弥陀の本願通りに「絶対の幸福」に救い摂られて、
「弥陀の本願まことだった、まことだった、ウソではなかった!」
と、本願に疑い晴れたことです。
絶対の幸福とは、いつ死んでも浄土往生間違いない
「往生一定」の身になったこと。
これを「信心決定」とも「信心獲得」とも言われ、
また「獲信」と言われます。
これでお分かりのように、
「一切善悪凡夫人(一切善悪の凡夫人)
聞信如来弘誓願(如来の弘誓願を聞信すれば)」
の二行は、
「どんな人も、
阿弥陀如来に救い摂られたならば」
と言われているお言葉です。


●阿弥陀仏に救われたら、
      どんないいことがあるの?


では、弥陀に救われたら、どうなるのでしょうか。
信心決定すると、何かいいことがあるの?
私たちが知りたいことについて、親鸞聖人は続いて、
「仏言広大勝解者(仏は広大勝解者と言い)
是人名分陀利華(是の人を分陀利華と名づく)」
と明言され、
“凄いいいことがあるのだよ、早く信心決定して、
この幸せよろこぶ身になってもらいたい”
と勧めておられるのです。
ここで「仏」と言われているのは、「十方諸仏」のことです。
先述の釈迦如来はじめ、薬師如来、大日如来やビルシャナ如来など、
大宇宙にまします無数の仏方のことで、
『阿弥陀経』には、東西南北上下のそれぞれの方角に、
インドのガンジス川の砂の数ほど(恒河沙数)の仏方がおられるのだと、
具体的な名前を挙げて紹介されています。
それらの無数の仏さまが、弥陀に救い摂られた人を、
「貴方は『広大勝解者だ』『分陀利華じゃ』と褒め讃えて下される」

と言われているお言葉です。
「広大勝解者」とは仏教の大学者、
「分陀利華」は希にしか咲かない白蓮華のことで、
滅多にない素晴らしいことを表されています。
親鸞聖人はこの4行で、
どんな人も、阿弥陀仏に救われたならば、
大宇宙の無数の仏方から、
『あなたは仏教の大学者だ』『滅多にない尊い人だ』
と称讃される身になれるのだよ」
と言われているのです。


●ほめられると、うれしい


私たちは朝から晩まで、どんなことを考えているでしょうか。
頑張って生きようとするモチベーション(動機)は、
何でしょう。
人それぞれ、いろいろありましょうが、
中でも「褒められたい」、
これが大変強いのではないでしょうか。

評価されたい。実力を認められたい。
若く見られたい。キレイと言われたい。モテたい。
朝起きて、何を着ていくか、誰とどんなことを話すか、
何から何までその行動基準は、
「どうしたら他人からよく見られるか」
が大きいのではないでしょうか。


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そして実際に褒められると、どんな気持ちになるでしょう。
子供に褒められてさえ、気分がよくなります。
「お前なんかにどう言われても、どうってことないよ」
と思っている相手からでも、
またお世辞だとは百も承知でも、
やはり褒められると嫌な気がしないのが、
私たちですね。
まして、自分の尊敬する方から賛辞を頂けばなおさらです。
「よし、もっと頑張ろう!」と元気が出ます。
「どんな困難も乗り越えてゆくぞ」と、
勇気が湧いてきます。
このように、人から褒められることは
凄い元気と勇気の出ることなのですが、
親鸞聖人は『正信偈』のここで、
「阿弥陀仏に救われた人は、
大宇宙の仏さま方から、褒められる身になるのだよ」

と、とてつもないことを仰っている。
「仏さまから褒められるって?どういうこと?」
あまりにも日常からかけ離れているのでピンと来ない、
という人もあるでしょう。
このことは『教行信証信巻』にも、


金剛の真心を獲得する者は、横に五趣・八難を超え、
必ず現生に十種の益を獲。何者をか十と為る


阿弥陀仏に救われた人は、現在生きている時に、
十種の幸せを頂けるのだ

と仰っている五番目に、「諸仏称讃の益」を挙げられて、
大宇宙のすべての仏方に、褒められる幸せを頂ける
と言われています。
その褒め言葉は、『正信偈』の「広大勝解者」「分陀利華」の他にも、
お釈迦さまは、
「すなわち我が善き親友なり」
と、「親友」とまで仰ってくださり

また「上上人だ」「無上人(最高の人)だ」
「妙好人(妙なる好ましい人だ)」「希有人(最高の人)だ」
「最勝人(最もすぐれた人)だ」など、
仏さま方から種々の褒め言葉で称讃されるのですから、
勇気百倍、生きる力が沸々と湧いてくるのです。


弥陀に救い摂られてからの、
あのたくましい親鸞聖人の生きざまは、どうでしょう。
あの強く生きる力と勇気は、
一体どこから出てくるのか、
と首をかしげる人も少なくありませんが、
迷った人間から何を言われても親鸞、眼中にない。
大宇宙の仏さまから褒められる身になったのだからなあ
」と、
この「諸仏称讃の益」に生かされている自覚からに違いありません。


●たくましき生きざま


親鸞聖人の生涯は、波瀾万丈の激しいものでした。
「たくましき親鸞」といわれるそのご一生には、
どんなことがあったのか。
弊社のアニメ「世界の光・親鸞聖人」全六巻に詳しく描かれていますが、
一例を挙げれば、31歳の「肉食妻帯」でしょう。
当時の仏教界では、僧侶には固く禁じられていた「戒律」があり、
中でも大きな2つが「肉食」と「妻帯」でした。
「肉食」とは、生き物の命を奪ってその肉を食べること、
「妻帯」は結婚することです。
出家した仏弟子たるもの、これを犯してはならない。
「肉食妻帯」した者は僧侶ではない。
これが伝統的な仏教であったのです。
その戒律を、聖人は公然と破られ、
肉食妻帯を断行されました。


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当然「あいつは堕落した」「戒律を破った破戒僧だ」と
非難の嵐が巻き起ころう。
だが、肉食妻帯っが十方衆生(全人類)の姿ではないか。
仏の慈悲は苦あるものにおいて偏えに重し。
欲や怒りの煩悩にまみれ、
罪の重い者ほど殊に哀れみたもうのが仏さまではないのか。
まして本師本仏の阿弥陀仏の救いに、
どうして差別があろうか。
肉食妻帯の者が助からない仏教が、
本当の仏教といえるか、
それでは誰も助からないではないか。
「弥陀の本願には老少善悪の人をえらばす」、
男も女も、在家も出家の者も、
あるがままの姿で救われるのが真実の仏教なのだ。

この弥陀の本願真実を明らかにするためならば、
どんな嘲笑罵倒も物の数ではないと、
身をもって示された破天荒の言動が、
親鸞聖人の肉食妻帯であったのです。

案の定、聖人には、仏教界は無論、
一般大衆からも「あれで僧侶か」「堕落坊主じゃ」
「仏教を破壊する悪魔の坊主だ」「仏法の怨敵じゃ」
と非難中傷が浴びせられ、
八方総攻撃の的となられたのでした。
肉食妻帯だけでなく、34歳の三大諍論も、35歳の越後流刑も、
40過ぎから20年間の関東ご布教も、
84には長子善鸞の勘当も、
疑謗の嵐の中たったお一人突き進まれた方が、
親鸞聖人であったのです。
どうしてそんなことができたのでしょうか。
普通は、周囲から非難されれば意気消沈して、
(最近の言葉でいえば)へこんだり、
閉じこもったりするはずのところ、
その勇ましいお姿は、どこから出ているのか。
本師本仏の阿弥陀如来の救いにあずかって、
大宇宙の諸仏方から、
「親鸞、あなたは広大勝解者だ」
「滅多にない白蓮華のような方だ」
と称賛されている自覚から、
迷った人間のどんな罵倒も嘲笑も、
聖人には牛の角を蚊が刺したほどにも思われなかったでしょう。


●弥陀の本願、聞き開けよ


地獄より行き場のない極悪の私が、
弥陀に救い摂られたならば、
どうして大宇宙の仏方からかくも褒められるのでしょうか。

釈迦も諸仏も、その使命は、宇宙の真理「因果の道理」を説き、
三世因果を教え、「後生の一大事」を知らせ、
その後生の一大事解決してくださる方は
本師本仏の阿弥陀仏しかないから、
“阿弥陀仏一仏に向け、本師本仏の阿弥陀仏を信じよ”と、
「一向専念無量寿仏」
を教え勧めること以外にはありません。

そのお勧めどおりに、阿弥陀仏に救われた人は、
“弥陀の弟子になった”ともいえる、
さすれば大宇宙の仏方にとっては、
まさに「我が親しき友」となるのです。
また一切経を身体で読み破った大学者(広大勝解者)であり、
それは滅多にない人(分陀利華)だと、
褒め讃えてくだされるのです。


褒められたい一杯の私たちが、
「仏さまから褒められる身になれるのだよ」
と聞けば、早くそうなりたい、と思いますね。
「親鸞と同じように、阿弥陀仏に救われてもらいたい」
これ以外に、『正信偈』を書かれた目的になかった聖人が、
「誰でも弥陀に救われたならば、
仏さまから褒められる大変な身になれるのだよ。
この親鸞と同じく、諸仏称賛の益を頂ける身に早くなってくれよ。
それには、『如来の弘誓願を聞信すれば』なれるのだから、
弥陀のご本願を聞いて聞いて聞き抜いて、
ハッキリ救い摂られるところまで進んでもらいたい」

と、必死の聞法を勧めておられるのが、
「一切善悪凡夫人(一切善悪の凡夫人)
聞信如来弘誓願(如来の弘誓願を聞信すれば)
仏言広大勝解者(仏は広大勝解者と言い)
是人名分陀利華(是の人を分陀利華と名づく)」
の4行なのです。


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