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裏切るものを信ずるから苦しむ、裏切らないものとは! [なぜ生きる]

 

平成十一年、日本最高の知性ともいわれた江藤淳氏が、
六十六年の生涯に自ら終止符を打ちました。
慶子夫人が病に倒れた三ヶ月後、
「家内の死と自分の危機とを描き切りたい」
と筆をとった『妻と私』が、事実上の遺書といわれます。

病床に伏す妻を最後まで支えたい。
決して家内を一人にしない。
それが江藤氏の「生きる目標」でした。

「一卵性夫妻」とよばれるほど、
それはいい仲だったのです。
最愛の妻の命が終われば、すべては終わってしまう。
やるせない哀感が描かれます。

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誰にいうともなく、家内は
「もうなにもかも、みんな終わってしまった」
と呟いた。
その寂寥に充ちた深い響きに対して、
私は返す言葉がなかった。
実は私もまた、どうすることもできぬまま
「みんな終わってしまった」ことを、
そのとき心の底から
思い知らされていたからである。(中略)
薬のせいで気分がいいのか、
家内が穏やかな微笑を浮かべて、私を見つめ、
「ずいぶんいろいろな所に行ったわね」と言った。(中略)
「本当にそうだね、
みんなそれぞれに面白かったね」
と、私は答えたが、
「また行こうね」とはどうしてもいえなかった。
そのかわりに涙がほとばしり出てきたので、
私はキチネットに姿を隠した。

                        (江藤淳『妻と私』)

 

夫人が亡くなり、生きる目標がなくなって残ったのは、
死を待つだけの無意味な時間でした。


 家内の生命が尽きていない限りは、
生命の尽きるそのときまで一緒にいる、
決して家内を一人ぼっちにはしない、
という明瞭な目標があったのに、
家内が逝ってしまった今となっては、
そんな目標などどこにもありはしない。
ただ私だけの死の時間が、私の心身を捕らえ、
意味のない死に向かって刻一刻と
私を追い込んで行くのである。

                       (江藤淳『妻と私』)                              
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江藤淳氏の自殺は、衝撃とともに報じられました。
「先立たれた愛妻の後を追ったのでしょう」
「耐え難い病苦だったのですね」
など、哀悼の辞とともに、
原因が取りざたされました。
氏の伴侶を失った苦悩、
心身の不自由による不安は、想像に余りあります。
それらの痛苦も、要因の一つでしょう。
しかし本質的には、
「苦しくても生きるのはなぜか」が、
その明晰な知性をもってしても、
分からなかったからではないでしょうか。

 


真実の仏法に遇えぬ悲劇

経典にはこう説かれています。
「学問をして善知識に遇わずんば、
いずくんぞ天下に大道(仏教)あるを知らんや。
船に乗りて池泉小流に遊んで、
いずくんぞ天下の江海あるを知らんや。
仏教は江海の如し、
一切世間の経書は皆仏経より出ず。」

才知すぐれ、勉学に励んだ人でも、
仏法を正しく教えてくださる
善知識に会えなければ、
経典のあることも分からず、
そこに明示されている
人生の目的を知ることはできません。
苦しみばかりの生涯を終えるしかないのです。

日本で年間三万人の自殺者も、やはり、
真実の仏法に遇えなかったための
悲劇といえましょう。

 

人生の目的は「無明の闇を破ること」

「人は何のために生まれ、生きているのか」
お釈迦さまの教法を、
自分の考えを一切入れずに
そのまま正しく伝えた親鸞聖人は、
こう喝破されました。

「已能雖破無明闇」(正信偈)
(すでによく無明の闇を破すといえども)

無明の闇を破ることこそ、
人生の究極の目的だ
と明示されたのです。

「無明の闇」とは「後生暗い心」を言います。
死後があるのかないのか、
あるとすればどんな世界か、
はっきりしない心です。
百パーセント確実な未来後生が
はっきりしないから、
現在も不安なのです。

平生に、この無明の闇を破って、
いつ死んでも浄土往生間違いない、
絶対の幸福になることが、
人間に生まれてきた目的です。

親鸞聖人は、二十九歳の御時に、この幸せになられ、
「無碍の一道に出たぞ」と仰いました。
聖人の主著『教行信証』には、
その慶びが随所に記されています。
一つあげてみましょう。


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弥陀の本願の大地に心を樹(た)てた喜び

「慶ばしき哉(かな)。心を弘誓の仏地に樹て」 

なんと喜ばしいことか、とまず、
心からわき上がる喜びを率直に表明されています。
何をそんなに喜ばれたのか。
「心を弘誓の仏地に樹て」たことです。
「心を弘誓の仏地に樹て」の「弘誓」とは
「阿弥陀仏の本願」です。

大宇宙には数え切れないほどの仏方がましますと、
お釈迦さまは説かれています。
その中で、「本師本仏」と仰がれる仏様が阿弥陀仏です。
「本師本仏」とは、すべての仏の師匠の意。
釈尊も仏様のお一人ですから、
お釈迦様の先生が、阿弥陀如来なのです。
「本願」とは、お約束です。
阿弥陀仏は、
「すべての人の無明の闇を破り、
絶対の幸福に救い摂ってみせる」と、
誓っておられます。

この阿弥陀仏の本願を大地にたとえられ、
「仏地」と仰ったのです。

阿弥陀仏に救い摂られ、
無明の闇が破られると、私たちの心は、
阿弥陀仏の本願の大地に樹ちます。
心が本願に樹つとは、阿弥陀仏のお約束通り、
絶対の幸福になることです。
親鸞は、阿弥陀仏の本願に心を樹てたぞ。
なんと慶ばしいことか

と、人生の目的を達成した喜びを仰っているのです。

無明の闇が破れ、生命の歓喜あふるる世界に、
平生、出させていただける時があるのです。

 

生きることは信ずること

人は何かを信じなければ生きてはいけません。
何かに心を樹(た)てているのです。
親は子供を信じ、子供は親をあて力にし、
あるいは、金や財産、名誉、地位、健康と、
いろいろなものを頼りにして生きています。

ところが、崩れるもの、滅んでいくものに
心を樹てていると、
必ず裏切られる時がきます。

建築物は基礎がしっかりしていないと、
どんな立派な御殿を建てても、
基盤が崩れると同時に建物も崩壊してしまいます。
同様に、私たちの心という建物をどこに建てるかによって、
幸・不幸が左右されるのです。

私たちはどんなものの上に心を樹てているでしょうか。
無常なものの上に心を樹てていると、
それらが崩れた時、裏切られ、苦しまなければなりません。

親を頼りにしていても、その力が持続する保証もなく、
いつまでも生きていてはくれません。
子供をあて力にしていても、
やがて自分から離れ、独立していきます。
老人ホームに入れられ、
「こんなことなら生まなければよかった」
と愚痴を言っている人もあります。
子供に樹てていた心が崩れてしまったのです。
健康に心を樹てていると、病気になったとき、
昨日までの喜びは吹き飛んでしまいます。
名誉とか地位に心が樹っている時は、
華やかに見えても、一度これらを失うや、
急坂を転げ落ちるような惨状になってしまいます。
江藤氏の自殺も、妻や健康に樹てていた心が
崩れた末の悲劇ではないでしょうか。

必ず崩れる無常のものに心を樹てていると、
その幸福も崩れてしまいます。

親鸞聖人は、四歳で父君と、八歳で母君と死別され、
「世の中にあてになるものは何もないなあ」
と身をもって知らされました。
その聖人が絶対に崩れない阿弥陀仏の本願に
心を樹てられた時の驚き、
喜びはどれほどだったでしょう。
「慶ばしき哉」の喜びは、永遠に変わらない、
なくてはならない喜びなのです。

 

自殺者は愚かの中の愚か者

苦しみの根源である、無明の闇の闇をぶち破り、
「心が弘誓の仏地に樹つ」、
絶対の幸福に生かされて、
いつ死んでも極楽往生間違いない身に
救い摂られることこそ、人生究極の目的です。

最も大切な、生きる目的を知らず、
無明の闇を抱えたまま死に急いでも、
幸せにはなれません。

釈尊はそれを、
「従苦入苦 従冥入冥」
(苦より苦に入り、やみよりやみに入る)

と『大無量寿経』に説かれています。

真っ暗な心のまま死ねば、
後生もまた暗黒なのです。

苦しみの世界へ自ら進んで飛び込んでゆくのは、
愚かの中の愚かな行為です。
まさに、飛んで火に入る夏の虫。
自ら火中に身を投じ、
さらに大きな苦しみを受けるのは、愚の骨頂です。
何のために生まれてきたのか、
深く知らなければなりません。

人生の目的は、「破無明闇」ただ一つ。
人間に生まれてよかった!と喜べる世界があることを
親鸞聖人は生涯叫んでいかれたのです。
 


タグ:江藤淳
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