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後生の一大事解決は、聖道門では不可能! [龍樹菩薩]

 

(真実の仏教を説いておられる先生の書物「とどろき」から載せています。)

証歓喜地生安楽(歓喜地を証して安楽に生ぜんと)
顕示難行陸路苦(難行の陸路の苦しきことを顕示し)
信楽易行水道楽 (易行の水道の楽しきことを信楽せしめたまう)

釈尊に次ぐ聖者、龍樹菩薩

「歓喜地」とは、さとりの名前です。
一口にさとりといいましても、
さとりの境地には五十二の段階があり、
これをさとりの五十二位といわれます。

ちょうど相撲取りでも、下は序の口、序二段から、
上は大関、横綱まで、いろいろあるようなものです。

さとりにはそれぞれ名前がつけられており、
一段目を初信、二段目を二信。三信、四信と続き、
十段目を十信といわれます。
二十段目を十住、三十段目を十行、
四十段目を十回向、五十段目を十地、
五十一段目を等覚といい、
五十二段目が妙覚、すなわち仏覚です。
さとりの最高位ですから無上覚ともいわれます。

ここまでさとった人は、
地球上では釈尊以外にはありませんから、
「釈迦の前に仏なし、釈迦の後に仏なし」
といわれます。

その釈尊に次ぐ高いさとりを開かれた方が、
龍樹菩薩です。


厳しい仏道修行に打ち込み、龍樹菩薩は、
四十一段目、初地のさとりに到達されました。
ここまでさとると、初めて躍り上がる歓喜が
わき起こりますから、歓喜地ともいわれます。

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なぜ、さとりを求めるのか
   ~仏教の目的は、後生の一大事の解決にあり

さとりとは、大宇宙の真理をさとることです。
真理といいましても、1+1=2といった数学的真理、
水は高きより低きに流れる科学的真理がありますが、
仏教でいわれる真理は、苦しみ悩みを解決し、
本当の幸福になれる真理のことです。

人生は苦なり
と釈尊が喝破なされたように、
科学や医学は長足の進歩を遂げましたが、
人間の苦悩は少しも減ってはいません。
「有れば有ることで苦しみ、無ければ無いことに苦しむ」
の仏語のとおり、物や金の有無に関係なく、
人々は苦しんでいます。
しかも皆、その解決の糸口さえ見つからぬまま、
最も忌み嫌う(いみきらう)死へと向かっているのです。

死後や後生を聞くと、
30年も50年も先のことのように思ったり、
自分と関係ないことのよ
うに思う人がありますが、
とんでもない考え違いです。

吸った息が吐き出せない時、
吐いた息が吸えなかった時が、
取り返しのつかない価値を持ち、
吸う息、吐く息が後生と密着しているのです。
こんな切り詰めた現実問題はありません。

後の世と 聞けば遠きに 似たれども
知らずや今日も その日なるらん

の古歌のとおりです。

ところが迷いの深い私たちは、
この厳粛な事実を忘れて、
名誉を追って走り、財産を得ようとして争い、
愛欲におぼれて喜び、酒に飲まれて騒いでいます。
当てにならぬシャボン玉のような楽しみに希望をつなぎ、
執着して、罪悪を積み重ねています。
妻子や財産といった不安なものを信頼し切っています。
そして足下に迫る業火に気がつかないのです。
こんな危ないことがあるでしょうか。
しかもお釈迦さまは、
「苦より苦に入り、冥より冥に入る」(大無量寿経)
と説かれています。
この世の苦から未来の苦へ、
何のために生きているのか分からぬ暗い人生から、
真っ暗な後生へ飛び込んでいかねばならぬ一大事があると
警鐘乱打なされています。

これを仏教で後生の一大事といわれます。

古来、高僧たちが妻子や財宝一切を捨てて、
入山学道しているのも、この一大事に驚き、
その解決のためにさとりを求めてのことなのです。

達磨や智者でも

ダルマ人形のモデルとなった達磨大師は、
インドに生まれ晩年中国に渡り禅宗の祖となりました。
手足が腐り切断したといわれます。
ところが、その達磨のさとりも三十段程度といわれます。

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また中国天台宗を開いた智顗(智者)は臨終、弟子に、
「師は、いずれの位までさとられたのか」
と問われ、
「ただ五品弟子位あるのみ」
と告白しています。
一宗一派を開いた彼でも十段に至らなかったのです。

さとりは一段違ってさえ、人間と犬猫以上に
境界(きょうがい)に差があるといわれます。

四十一段の歓喜地に到達された龍樹菩薩が、
いかに抜群の方であったか、お分かりでしょう。

歓喜地を証して安楽に生ぜん

ところが、歓喜地を証された龍樹菩薩でしたが、
いまだ魂の解決はなりませんでした。

どこかに真に救われる道はないのか。
必死に探し求めた龍樹菩薩はついに、
無上の法、阿弥陀如来の本願に巡り遇ったのです。
そして弥陀の本願力によって、
いつ死んでも安楽国(弥陀の浄土)へ生ずる、
絶対の幸福の身に救い摂られたのでした。

これはさとりの五十二位中、
五十一段めの等正覚に相当し、
必ず仏覚を開くことに定まった正定聚の位です。
ここに、絶対の弥陀の救済にあわれた龍樹菩薩の
大乗無上の法を宣説(せんぜつ)する
大活躍が始まったのです。

難行道と易行道~仏教に2つあり

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龍樹菩薩は、仏教に2つあると教えられました。
「難行道」の仏教と「易行道」の仏教です。

難行道とは、自力修行でさとりを求める仏教のことで、
千里の遠き道を訪ねるのに、
陸路を歩むようなもの。

それに対して易行道は、阿弥陀如来の本願力によって
救われる教えです。
ちょうど水上を船に乗っていく旅のように
船頭まかせで快適です。

では二つの教えを、釈尊が説かれたのはなぜでしょうか。
龍樹菩薩は、難行道の仏教は
丈夫志幹(じょうぶしかん)の者に、
易行道の仏教は
儜弱怯劣(ねいじゃくこれつ)の者のために
説かれたのだとおっしゃっています。

丈夫志幹とは、知恵優れ、意志の強固な人のことです。
儜弱怯劣とは、悪くて弱くて卑怯で劣った者という意味です。

では龍樹さま、あなたはどちらですか、
とお尋ねすると、自分は儜弱怯劣の者だから、
易行道でなければ助からなかった、と告白されています。

初めは難行の道を求め、
歓喜地までさとられた龍樹菩薩でしたが、
本当の自己の姿を照らし出された時、
儜弱怯劣と懺悔され、弥陀の本願によらねば
救われなかったとおっしゃっているのです。

あらゆる宗派の人々から尊敬される、
八宗の祖師・龍樹菩薩にして然り。
どこに、煩悩と闘い戒律を守り、
自力修行でさとりを成就できる人がありましょう。

●14年間の修行を水泡にした、一滴の涙

刈萱道心と石童丸の話は有名です。

刈萱道心は、元は加藤左衛門繁氏といい、
筑前、筑後、肥後、肥前、大隅、
薩摩の六ヵ国の探題であった。
ある日、箱崎の桜見物に行き、
桜花爛漫と咲き誇っている下で
酒宴中、桜花の一片(ひとひら)が
杯の中に散り込んだのを見て
いたく無常を感じて帰宅した。

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その夜彼は、妻の千里と二の妻須磨が、
表面は仲良さそうに一室で琴を合奏していたが、
ふと障子に映った彼女たちの頭髪が大蛇となって
かみ合っているすさまじさを見て、
このように人を大蛇にする原因は皆自分にあると
罪悪深重に驚いて、
その夜そっと家を出て、ついに高野山に入り、
真言宗の僧となり刈萱道心と名乗った。

彼が家を出た時、妻の千里に一子が宿っていた。
後の石童丸である。
大きくなった石童丸が、
「なぜ僕には父様がないの」
としきりに尋ねるので、
千里はついに一部始終を打ち明けた。
聞くより早く石童丸は父恋しい心が燃え上がり、
母とともに高野山に向かった。
しかし高野山は女人結界(にょにんけっかい)の地なので、
母は登れない。
ふもとで別れる時、
「おまえの父上は、人より背が高く、
左の眉毛にホクロのあるお方だよ」
と母は教えた。
それを頼りに石童丸は、高野山の峰や谷の寺々を
くまなく尋ね歩いたが、父らしい僧に出会うことはできなかった。
ある日、一つの橋を渡ろうとした時である。
前方から左手に花を持ち、右手に念珠を持って
南無遍照金剛を唱えながら刈萱道心が下ってきた。
何となく父上ではなかろうかと石童丸は駆け寄って、
その名を尋ねた。
道心は不審に思ってよくよく見れば、
その顔は妻と生き写しではないか。
そのうえ所持する短刀は、
まさしく自分がかつて持っていたものではないか。

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「おお、お前は、わが子石童丸ではないか」
とあわや名乗らんとした時、
一切の恩愛を断ち切れと説く厳しい真言宗の教えを思い出し、
今、名乗れば今までの14年間の苦行は水の泡、
声なき声に戒められ、
「そなたの尋ねている刈萱道心は、去年の秋に亡くなられた」
と心を鬼にして言い切った。

一瞬泣き崩れた石童丸が、
「せめてお墓なりとも」
と頼むので道心は、
仕方なく一つの新しい墓前に連れて行った。
紅葉(もみじ)のような両手を合わせ、
ジーッと墓を見つめていた石童丸は、
やがてワッと泣き伏した。
道心は張り裂ける思いに耐えながらようやく下山させたが、
わが子の影が見えなくなると同時にその場に打ち倒れた。

石童丸が泣く泣く山を下りてみれば、
ふもとでしきりにカラスが鳴いている。
不審を抱きつつ宿に帰ってみれば、
哀れや母は病のために亡くなっていた。
やむなく一人の姉を頼りに筑前に帰ったが、
その姉もこの世を去って49日目であった。
何たることか。

そこで石童丸はいよいよ無常を痛感し、
ついに意を決し、自分も父のみ跡を慕って出家しようと、
再び高野の峰を訪ねた。
再び登山して来たわが子の姿に驚き、
一切を聞かされた刈萱道心は、
「なに、母が死に姉も死んだのか」
と思わず知らずホローッと一滴の涙を落とした。
この一滴の涙が、彼の14年間の難行を
元の木阿弥にしてしまったという。

まさに龍樹菩薩が「難行道」といわれる所以です。

●親鸞聖人のお喜び

“それなのに親鸞は、
難行道の『法華経』に20年間も迷っていた。

「難行の陸路の苦しきことを顕示し、
易行の水道の楽しきことを信楽せしめたまう」
自力でさとりを求める難行道では助からないぞ。
早く易行道の弥陀の本願を信じよ。

龍樹菩薩が、難易二道を開顕してくださっていたなればこそ、
親鸞救われたのだ。
このご恩、どうして忘れることができようか”
あふれる喜びとともに聖人は、
龍樹菩薩を褒めたたえておられるのです。


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