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曇鸞大師、仙経を焼き捨てて未来永遠の大生命を獲る! [曇鸞大師]

 

(真実の仏教を説かれている先生の書物「とどろき」から載せています。

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約2600年前に、インドで釈尊が
「阿弥陀仏の本願」を説かれてから、
親鸞聖人に正確に伝えられるまで、
インド・中国・日本の七人の高僧のご活躍がありました。
その七高僧のうち、インドの龍樹・天親の二菩薩に続いて、
三人目に数えられるのが、
約1500年前の中国に登場された曇鸞大師です。
親鸞聖人からは、700年前の方ということになります。

聖人のお名前は、「親」と「鸞」は、
天親、曇鸞のお二人から、
それぞれ一字ずつ頂かれたもの。

また『正信偈』の中で「本師」の敬称を用いておられるのは、
曇鸞大師と、直接の師・法然上人だけであることからも、
いかに親鸞聖人が、曇鸞大師に
尊敬の念を抱いておられたか、うかがえます。

当時の中国においても、
その高潔な人徳と仏教の深い学識は、
民衆だけでなく、梁の天子(天皇)も崇敬すること
一方(ひとかた)ならず、
常に曇鸞大師の住んでおられた方角に向かって、
「鸞菩薩」と礼拝するほどでした。
これを親鸞聖人は、
「本師曇鸞梁天子(本師曇鸞は、梁の天子)
常向鸞処菩薩礼(常に鸞の処に向いて「菩薩」と礼したまえり)」
とおっしゃっています。

聖人ご自身は、時の権力者によって、
35歳の御時、越後へ流罪になられました。
そして恩師・法然上人をも流刑に遭わせた彼らに対し、
こう怒りを爆発させています。

主上・臣下、法に背き義に違し、
忿(いかり)を成し、怨(あだ)を結ぶ。
           (教行信証)

「天皇から家臣にいたるまで、
仏法に反逆し正義を踏みにじり、
怒りにまかせて大罪を犯す。
ああ、なんたる暴挙ぞ」

曇鸞大師も、法然上人も、
弥陀の本願一つを説かれたことは同じだが、
中国の天子は曇鸞大師を尊敬し、
日本では法然上人を流刑にした。
なぜ、こうも違うのか。
「日本の権力者たちよ、梁の天子を見習ってはどうだ」
そんな痛烈なお気持ちが、
この2行から伝わってくるようです。

このような梁の天子が礼拝し、
親鸞聖人が尊崇されるような方に、
曇鸞大師がなられたのは、
紆余曲折があってのことでした。
それを聖人は次にこう言われています。

三蔵流支授浄教(三蔵流支、浄教を授けしかば)
焚焼仙教帰楽邦(仙教を焚焼して楽邦に帰したまいき)」


これはどんなことか。
曇鸞大師の半生を見てみましょう。

●曇鸞大師の半生
 
出生地は、中国仏教の聖地として名高い、
五台山(ごだいさん)は、各地から仏教徒の巡拝する、
仏教の中心地でした。
幼い頃から、この仏教の霊地を彼方に
仰ぎながら成長した曇鸞大師は、
まだ15歳にもならぬうちに、この霊山に登り、
その神秘的な感興に、
生涯を仏法に捧げる決意をしたといわれています。
そして、四論宗(しろんしゅう)の学問を中心に、
広く内外の経典に取り組んでいきました。
曇鸞の学んだ四論宗とは、
龍樹菩薩の著された「中論」「十二門論」
「大智度論(だいちどろん)」
などを宗(むね)とする宗派です。
当時の仏教界の主流であったところから、曇鸞も、
この四論の学問に励みました。

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ところが、論の解釈をしている途中で病に倒れ、
中断せざるをえなくなったのです。
療養中に彼は、人間の寿命のはかなさを嘆きます。
一生とは何と短いことか。
まるまる生きて50年、たちまちに過ぎ去ってしまう。
それも天寿を全うできてのこと、
いつ病気やら不慮の事故で死なぬとも限らない。
そうなれば、膨大な経典を学び尽くせるはずがない。
仏法の極意を極めることなどとてもできぬ。
仏道修行するためには、まず長生きしなければならぬ。
それも単なる長生きではせいぜい100年。
7000余巻の経典の前ではあまりに短すぎる。

いっそ、仙人の間に伝えられると聞く、
長生不死の仙術を先に学ぶべきではないか

そう思い立った曇鸞は、そのころ、
仙人として名声の高かった陶隠居(とういんきょ)
をはるばる訪ねました。

人間は弱いもの。
深刻な苦しみに見舞われると、
溺れる者は藁をもつかむで、
何にでもすがってしまう。
占い・迷信・邪教のはびこる素地が、
ここにあるのでしょう。

曇鸞大師のような大変な学者でも、
病の苦しみから、
仙人の教えに迷われたのです。

それほど惑いやすいものが人間、
と知らされます。

陶隠居の元には、多くの弟子が修行をしていましたが、
曇鸞もそれらの人々に加わって長寿の法を学び続けました。
その熱心な修学は、やがて陶隠居の認めるところとなり、
ひそかに自らの後継者として期待するほどでした。
傑出した人材と感じ、
仙術の秘奥を記した仙経十巻を授けて、
曇鸞に教義の流布を命じたのです。
曇鸞は大いに喜び、陶隠居の元を辞し、
神仙(しんせん)の法を伝えんとの気概に燃えて、
仙経とともに帰路に就きます。
意気揚々、本国へ帰らんとしていたその途中、
当代随一の翻訳家・菩提流支三蔵(ぼだいるしさんぞう)と
出会った。
それが曇鸞の人生を変える、
大きな出来事だったのです。

●未来永遠の生命を与える、仏教の眼目

得意満々の曇鸞は、
陶隠居から授かった仙経十巻を取り出し、
「これこそ、中国に伝わる長生不死の仙術を
記したものである」
と、誇らしげに言う。
それを聞いた菩提流支、
「何と情けない」
軽蔑に満ちた表情で、
パッと大地につばを吐きつけた。
「なぜ、そのように言われるのか」
不審を問うと、菩提流支は、
「諸行無常のこの世界、
どこに長生不死の法などありましょうや。
多少の長寿を誇れたとしても、
やがては死ぬ時が来る。
死ねば必ず無間地獄に堕在し、
八万劫中大苦悩を受けなければならぬ。
この後生の一大事を忘れて
仙人の法に迷うなど、笑止の限りです」

曇鸞、憤然として、
「ならば仏教の中に、仙人の法に勝る長生不死の法が
あるとでも言うのですか」
と尋ねると、
「ありますとも」

菩提流支の差し出した経典こそ、
『観無量寿経』であったのです。
「これをごらんなさい。
無量寿を観る法とあるではないか。
ここにこそ、まさしく長生不死の神方が
説かれているのです」

金が欲しい、地位が欲しい、
名誉が欲しい、異性が欲しいと、
いろいろ欲しいものはありますが、最後、

人間の究極の願いは、
「永遠不滅の生命が欲しい」
これに尽きましょう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・

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「まだやりたいことがあるので、今しばらく、
長命の祈祷をお願いしたい」
80歳の人が高徳のうわさを聞いて
良寛の所へやってきた。
「長命といっても一体、何歳くらいまでお望みかな。
それが分からぬと祈祷のしようがない」
「90では10年しかない、100までお願いしましょうか」
「あとたった20年。
101になれば死なねばならぬが、いいかな」
「もっと、お願いできましょうか」
「一体、何歳まで生きたいのか、言ってみなさい」
「それじゃ150歳までいかがでしょうか」
「150歳でよろしいか」
「あんまり厚かましくても・・・」
「そんな遠慮は無用じゃ」
それでは200歳、300歳、500歳と、
次第に寿命をせり上げてくるおかしさに耐えながら良寛、
「どうせお願いするならついでだ。本心を言ってみなされ」
と促すと、
それじゃ、いっそのこと、
死なぬ祈祷をお頼みします

とうとう本音を吐いたという。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

その究極の願いを、
真に満足させる教えが仏法である
ことを、
菩提流支は喝破なされたのです。
「50年や100年の肉体の延命どころではない、
後生の一大事を解決して、
未来永遠の大生命を与えることが、
仏法の目的なのだ」

聞いて曇鸞、迷夢が覚めた。
菩提流支の手元にある『観無量寿経』を注視するや、
翻然(はんぜん)としてさとるところがあり、
苦心の末に手に入れた仙経を、菩提流支の面前で、
ことごとく焼き捨ててしまわれた。

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これを親鸞聖人は、
「三蔵流支、浄教を授けしかば、
仙経を焚焼して楽邦に帰したまいき」
と『正信偈』に言われています。
区切りながら説明しましょう。
まず「三蔵」とは、「三つの蔵」に深く通じた翻訳者。
三つとは、「経」と「律」と「論」のことで、
これらは真実の納まっている蔵のようなものだから
「経蔵」「律蔵」「論蔵」といわれます。
「経蔵」は仏の説法、「律蔵」は仏弟子の戒律を記したもの、
「論蔵」は経典を解釈された本のこと。
この経・律・論の三つに通暁(つうぎょう)した翻訳家を
「三蔵」といわれ、
有名な人では、「西遊記」のモデルになった
玄奘(げんじょう)三蔵や、
芸術的な筆致で知られる
鳩摩羅什(くまらじゅう)などがいます。
「三蔵流支」とは、
そのような優れた翻訳者の一人・菩提流支のことです。
つぎに「浄教」とは、
弥陀の救いが説かれている『観無量寿経』。
「仙経」は、曇鸞大師が陶隠居から授かった仙人の教え。
「焚焼」とは焼き捨てること。
「楽邦に帰す」とは、弥陀の本願に帰依された、
ということです。

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二行の意味は、こうなります。
「菩提流支より『観無量寿経』を示された曇鸞大師は、
直ちに仙経を焼き捨てて、
弥陀の本願に帰依されたのである」
かくして曇鸞大師は、
浄土仏教の真精神を体得され、
弥陀の本願の宣布に、
生涯をかけられました。

間違いを間違いと知らされたら、
直ちに捨てる。
仏法者のあるべき姿勢を、
曇鸞大師は私たちに示しておられるといえましょう。

 



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阿弥陀仏に救われたら、どう変わるのか。 [曇鸞大師]

惑染凡夫信心発(惑染の凡夫、信心を発しぬれば、)
証知生死即涅槃(生死即ち涅槃なりと証知せしむ。)
必至無量光明土(必ず無量光明土に至れば)
諸有衆生皆普化(諸有の衆生、皆普く化す。)
                         (親鸞聖人・正信偈)

親鸞聖人が、深く尊崇されている曇鸞大師の、
『浄土論註』の教えを紹介されているところです。

先月は「惑染の凡夫」について、詳しく解説しました。
簡単におさらいしましょう。

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「惑染」の「惑」は、欲や怒り、ねたみそねみ、など、
百八の煩悩のこと、
「染」は「染まっている」、
「凡夫」とは「人間」のことですから、
惑染の凡夫」とは、煩悩に染まり切った人間。
煩悩以外に何もない、煩悩によってできている人間のことで、
「煩悩具足の凡夫」ともいわれます。

次に、「信心がおきれば」とは、
「阿弥陀仏に救われたならば」ということですから、
「惑染凡夫信心発」
の意味は、こうなります。

煩悩一杯の人間が、阿弥陀仏に救い摂られたならば、
どうなるか

そこでまず、「阿弥陀仏に救われた(信心発・しんじんほつ)」
とは、どんなことか。
親鸞聖人のお言葉を聞かせていただきましょう。

●私たちへのメッセージ

主著『教行信証』の冒頭に、こうおっしゃっています。

難思の弘誓は、難度海を度する大船 (教行信証)

弥陀の誓願は、苦しみの波の絶えない人生の海を、
明るく楽しくわたす大船である

人生を海に例えて、「難度海」と言われています。
「難度」とは「苦しみ」のこと。
私たちの一生は、生まれてから死ぬまで、
苦しみ悩みの波が次から次とやってくる海のようなものだ、
ということで「難度海」とか「苦海」とも言われているのです。

病苦、肉親との死別、不慮の事故、家庭や職場での人間関係、
隣近所とのいざこざ、受験地獄、出世競争、
突然の解雇、借金の重荷、老後の不安・・・。
一つの苦しみを乗り越えて、ヤレヤレと思う間もなく、
別の苦しみがあらわれる。

まさに「賽(さい)の河原の石積み」
ではないでしょうか。

言い伝えによると、死んだ子供の魂は「賽の河原」に送られ、
責め苦を受けるという。

子供たちは干上がった川底で、
小石を積み上げて小さな塔を造り、
苦しみを紛らわせようとする。
だがすぐに鬼がやってきて、せっかく積み上げた石を
バラバラにするので、
子供たちは一からやり直しをさせられる

というもので、これと同様、汗と涙で築いたものが
アッという間に崩されてゆく。

「こんなことになるとは」、地震や火事、
台風や交通事故など、予期せぬ天災人災に、
何度もおどろき、悲しみ、嘆いたことでしょう。

「人生は苦なり」の、2600年前の釈迦の金言に、
皆うなずいているのではないでしょうか。

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だが私たちは決して、
苦しむために生まれてきたのではなく、
生きているのでもない。
すべての人間の究極の願いは、
苦悩をなくして、いかに明るく楽しく
難度海の人生をわたるか、に尽きましょう。

この苦悩渦巻く人生の海を、明るく楽しくわたす大船がある。
それが弥陀の誓願なのだよ
と、
私たちに贈られた聖人のメッセージが、
「難思の弘誓は、難度海を度する大船」
という『教行信証』冒頭の、一大宣言なのです。

弥陀に救われたとは

「弥陀に救われた(信心発)」とは、
この大船に乗ったことだと、
親鸞聖人は自らの体験をこう告白されています。

大悲の願船に乗じて、光明の広海に浮かびぬれば、
至徳の風、静かに、衆禍の波、転ず。

            (教行信証)

大悲の願船に乗って見る人生の苦海は、
千波万波(せんぱばんぱ)きらめく明るい広海だ。
順風に帆をあげる航海のように、ああ、
なんと生きるとは素晴らしいことなのか

「大悲の願船に乗じて」とは、
「難度海を明るくわたす弥陀の願船に、親鸞いま乗ったぞ」
という晴れやかな宣言であり、
キラキラ輝く乗船記といえましょう。
「弥陀に救われた(信心発)」法悦を、
「大悲の願船に乗った」ことだと、言われています。

ですから「惑染凡夫信心発」とは、言葉を換えれば、
「欲や怒り、ねたみそねみの煩悩に染まり切ったドロ凡夫が、
大悲の願船に乗ったならば」
ということです。

大悲の願船に乗ったならば、「煩悩」はどうなるか。
それを表明された聖人のお言葉です。

「凡夫」というは、無明・煩悩われらが身にみちみちて、
欲もおおく、瞋り(いかり)腹だち、そねみねたむ心、
多くひまなくして、臨終の一念にいたるまで、
止まらず消えず絶えず。
             (一念多念証文)

人間というものは、欲や怒り、腹立つ心、
ねたみそねみなどの、かたまりである。
これらは死ぬまで、静まりもしなければ減りもしない。
もちろん、断ち切れるものでは絶対にない

大悲の願船に乗っても、煩悩は少しも減りもしなければ、
無くならぬ。
煩悩一杯あるがままで親鸞、
大悲の願船に乗せられたのだ
、と言われています。

シブ柿のシブがそのまま甘味になるように、
    苦しみが、そのまま、喜びになる

そう聞きますと、
「なあんだ、煩悩は変わらないのか。
それなら弥陀に救われる意味がないじゃないか。
結局、苦しみは変わらないのだから」
と言う人があります。

そんな人に聖人は、
とんでもない。変わり果てた世界があるぞ
と、次に、
「証知生死即涅槃
(生死即ち涅槃なりと証知せしむ)」
「生死、即ち、涅槃なり」とハッキリするのだ、
と言われているのです。
「生死」とは、苦しみ悩みのこと。
「即」とは、そのまま。
「涅槃」は、幸せであり満足のことですから、
生死、即ち、涅槃なり」とは、
苦しみが、そのまま、幸せになる
という、驚くべき世界です。
これを、先の『教行信証』のお言葉では、
衆禍の波、転ず」(苦しみが、喜びに転じ変わる)
とも言われています。

苦しみがそのまま、喜びに転ずるなんて、
本当なのか。
誰にでも納得できるような説明は困難ですが、
こんな例えででも、想像していただきましょう。

・・・・・・・・・・・・
少年は山ひとつ越えた学校に、
一人で通学しなければならなかった。
課外活動で遅くなった帰路などは、
どきっとするようなさびしい山道もある。
夏はジリジリ照りつける太陽に焼かれ、
冬は容赦なくたたきつける吹雪に、
しゃがみ込むこともあった。
雨が降ると、たちまち坂道が滝になる。
「ああ、もっと学校が近ければ・・・。
この山さえなかったら・・・」
いつも山と道とが、恨めしかった。
やがて学校に、美しい少女が転校してきた。
なんと彼女は同じ村ではないか。
以来、しばしば一緒に通学し、遠い学校のこと、
さびしい山道のことなども語り合う、
親しい仲になっていた。
ある日、学校を出てしばらくすると、
にわか雨に襲われた。
なかなかやみそうにない。
傘は少女の一本だけ。
思いがけず相合い傘(あいあいがさ)になった少年は、
村に着くまでひそかに願った。
“雨がやまないように”“山がもっとさびしければ”
“村がもっと遠ければいい”

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・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

“苦しめるもの”と、あんなに恨んでいた道の遠さも、
山のさびしさも、変わってはいないはずなのに、
今は少しも苦にならない。
“苦しみ”がかえって楽しみになっているようです。
一時的にしろ、誰にでも、
身に覚えのあるようなことではないでしょうか。

シブ柿の シブがそのまま 甘味かな
シブ柿が甘くなるのは決して、
白衣を着た科学者が、注射器で柿のシブをまず抜き取って、
それからオリゴ糖を注入しているわけではありません。
シブが、そのまま甘味に転ずるのです。
だから、百のシブなら百の甘味になる。
シブが五十しかなければ、甘味も五十。
千のシブだったら、千の甘味になります。
シブが多ければ多いほど甘味も多くなる。

これが「そのまま」ということ。
同じように、「私ほど不幸な者はいない」
と世間を呪い、他人を恨み、己の業に苦しんでいる人ほど、
弥陀に救われたならば、
「私ほどの幸せ者はない」
と、大宇宙一の果報者と生まれ変わるのです。

心は浄土に遊ぶなり

苦しみが、そのまま喜びに転ずる不思議な世界を、
親鸞聖人は、

有漏の穢身(えしん)はかわらねど
こころは浄土にあそぶなり

        (ご和讃)
ともおっしゃっています。

有漏は「漏れるものが有る」ということ。
「漏れる」とは、「煩悩が漏れ出る」ということですから、
「有漏の穢身」とは、煩悩一杯の穢い肉体、
煩悩具足の塊、ということです。

このお言葉は、
煩悩いっぱい変わらぬままで、親鸞、
浄土へ往って遊んでいるように、明るく愉快なのだ

という告白です。
29歳で弥陀に救い摂られてからの、
波乱万丈の聖人のご生涯を知れば、
いかに凄いことを言われているか、
お分かりになるでしょう。

31歳の肉食妻帯の断行は、
「色坊主じゃ」「堕落坊主じゃ」「仏法を破壊する悪魔だ」
と非難罵倒の嵐を呼びました。
35歳、死刑判決を受けられた聖人は、
関白九条公の計らいで越後流刑となり、
配所の5年、風雪に耐えておられます。
その後、関東へ移られてからは、
邪険な日野左衛門の門前で、
石を枕に雪を褥(しとね)に休まれたり、
聖人の興隆をねたんで山伏弁円が白昼堂々、
刀振りかざして殺しに来たりと、
ひどい目に遭われました。
還暦過ぎて京都に戻られてからも、
83歳の時には自宅全焼の悲運、
更に84歳の、長子善鸞の義絶事件は、
聖人最大の悲劇でありましょう。

これら万丈の波乱は、まさに「生死」の大海に
さまよっておられた親鸞聖人の、紛れもないお姿です。

ところが、そんな聖人が、
「こころは浄土にあそぶなり」
と謳いあげておられるのですから、
びっくり仰天です。

かりに29歳から毎年、一億円の宝くじが当たって、
他人もうらやむ贅沢三昧の暮らしをしておられた聖人ならば、
「こころは浄土にあそぶなり」
と断言されて、当然だと思うでしょう。
ところが、まるでその逆、
典型的な不幸続きの人生としか思えない聖人が、
「こころは浄土へ往って遊んでいるように、
明るく愉快なのだ」
と言われているのですから、
「そりゃ一体、どうことですか?」
「どこが浄土ですか?」
と皆びっくりするのです。

そんな不思議な世界のあることを、
有漏の穢身はかわらねど 
こころは浄土にあそぶなり
と叫ばれ、『正信偈』には短い言葉で、
「生死即涅槃」と、明言されているのです。

「惑染凡夫信心発(惑染の凡夫、信心を発しぬれば、)
証知生死即涅槃(生死即ち涅槃なりと証知せしむ。)」
の2行は、
曇鸞大師さま、あなたも煩悩一杯のまま、
弥陀に救い摂られて、生死の苦海が、
そのまま光明輝く広海に転じられたのですか。
親鸞も、そうでありました

という御心であると、知らされます。

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そんな世界に生かされた人は、
「必至無量光明土(必ず無量光明土に至れば)
諸有衆生皆普化(諸有の衆生、皆普く化す。)」
と次に宣言されているのは、
無量光明土」とは、弥陀の浄土のことですから、
「死ねば必ず弥陀の浄土へ往って
諸有の衆生を、皆、普く化すぞ」
と言われているのです。

「諸有の衆生」とは、苦しみ悩みの人たちのこと。
「皆」とは、一人残らず。
「化す」とは、弥陀の救いに導くことですから、
死ねば極楽へ往くけれども、
ゆっくり休んでなどおらないぞ。
すぐに戻ってきて、すべての人を助けずにおれないのだ

と曇鸞大師がおっしゃっていることを、
親鸞も同じく、無限の活動をせずにおれません
というお気持ちで、書かれているお言葉です


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