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七高僧あればこそ、親鸞救われたのだ! [恩徳讃]

印度西天之論家  印度西天の論家

中夏日域之高僧  中夏・日域の高僧

 

ここをよく理解するために、『正信偈』の冒頭を

振り返ってみましょう。

親鸞聖人は、まず、

帰命無量寿如来

 南無不可思議光

とおっしゃっています。これは、

親鸞は、無量寿如来に帰命いたしました。

親鸞は、不可思議光に南無いたしました

ということです。

〝親鸞は〟とは書いてない、と思う人があるかもしれませんが、

これは隣のおじさんのことでも、向かいのお嫁さんのことを

言われたのでもありません。

聖人ご自身のことを書かれたのです。

無量寿如来」も「不可思議光」も、

ともに阿弥陀如来の別名です。

不可思議光如来の「如来」を略して、

不可思議光と言われています。

「帰命」とは、昔の中国の言葉。

「南無」は、昔のインドの言葉で、

ともに〝救われた、助けられた〟という意味ですから、

この二行は、「親鸞は、阿弥陀如来に救われたぞ。

親鸞は、阿弥陀如来に助けられたぞ」

と同じことを繰り返しおっしゃっていることになります。

一度書けば分かることを、なぜでしょう。

ここは、叫び尽くせぬ喜びを表されているのです。

 

●繰り返し叫ばずにはおれない。こんな時も

 

例えばこんな時、繰り返し言わずにおれないでしょう。

話題のレストランで夕食を、と家族で出掛けた。

店の前はすでに行列。

30分待ってようやく座席に案内される。

早速注文し、空腹こらえて待つことさらに30分、

おいしそうな料理を、さあ食べようとしたところ、

停電で突然真っ暗に。

10分待っても20分待っても復旧しない。

せっかくのごちそうが冷めていく。

食べるに食べられず、帰るわけにもいかず、

闇の中、30分、40分が過ぎ、そろそろ1時間たとうかというところ、

パッと明かりがついた。

すると、店内の皆が口々に、

「ついた!ついた!ついた!」

と言うようなものです。

1回「ついた」と言えば分かることでも、

闇の中で困っていた、光を待っていたからこそ、

うれしさのあまり何度も言わずにおれなくなるのです。

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5年間も外国に行っていたかわいい孫が、

帰省したらどうでしょうか。

「よく来た、よく来た。どうやって来たのか。

電車かバスか飛行機か。いつまでおれるんだ。

よく来たなぁ、よく来たなぁ」

待ち望んでいた孫に会えた喜びから、

繰り返し言わずにおれないでしょう。

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●弥陀の救いにあった喜びは、言葉に尽くせぬ

 

親鸞聖人は、4歳で父君を、8歳で母君を亡くされました。

〝次に死ぬのはオレの番だ。死んだらどうなるのだろうか〟

と深刻に考え込まれた聖人は、真っ暗な後生に驚かれました。

だれしもぶち当たる死。その先がどうなっているのか、

だれも知りません。

そんな真っ暗がりの後生へ、

必ず飛び込んでいかねばならないのです。

こんな一大事がほかにあるでしょうか。

この万人共通の一大事が、わが身の問題と知らされた時、

どうして捨てておけましょうか。

親鸞聖人は、何とか後生一つ明るくなりたいと、

9歳で出家されて20年間、比叡山で法華経の修行に

打ち込まれたのです。

大曼の難行まで完遂なされましたが、

どうにも後生暗い魂の解決ができず、

泣き泣き下山されました。聖人29歳の春のこと。

暗い後生の解決を教えてくだされる方はないのかと、

京都の町をさまよっておられた聖人は、

旧友・聖覚法印の紹介で、吉水の法然上人から、

阿弥陀如来の本願を聞かれたのです。

そして29歳の御時、阿弥陀如来の本願力によって、

無明の闇(後生暗い心)が破られ、

いつ死んでも浄土往生間違いなしの

大安心・大満足の身に救い摂られました。

「親鸞は、阿弥陀如来に救われたぞ!

親鸞は、阿弥陀如来に助けられたぞ!」

『正信偈』の冒頭のお言葉は、弥陀の救いにあわれた聖人の、

大慶喜なのです。

こんな明らかな世界があろうとは。

こんな不思議な絶対の幸福に恵まれようとは。

想像を絶する驚天動地に体験は、どれだけ書いても書き足りない、

言い足りません。

その無限の喜びを、二度繰り返されることで、

表現しておられるのです。

 

●現在の救い、それは全く弥陀のお力

 

「救われた、助かった」と言われていますから、

弥陀の救いは現在生きている時であることは明白です。

またここで聖人が、

「阿弥陀如来によって、救われた」

と繰り返されているように、救われたのは、

全く阿弥陀如来の独り働きであったことがハッキリします。

自分の力で後生明るい心になったのでもなければ、

ほかの仏や菩薩や神の力で助かったのでもない。

極悪最下の自分を助けてくだされたのは、

阿弥陀如来一仏であったと明らかに知らされます。

ただただ、しのばれるは弥陀の大恩。

有名な「恩徳讃」にも、

如来大悲の恩徳は

身を粉にしても報ずべし

阿弥陀如来のご恩を真っ先に挙げておられます。

『正信偈』でも、まず冒頭で自ら救い摂られた喜びを告白し、

その後「法蔵菩薩因位時」以下、阿弥陀如来のご恩を述べられ、

釈尊が生涯説かれた弥陀の本願を明らかにされているのです。

 

●伝えてくだされた方なかりせば

 

ここで聖人は述懐されます。

〝親鸞、この幸せに救われたのは、

ひとえに阿弥陀如来のお力だが、

釈尊の説かれた、その弥陀の本願を、

伝えてくだされる方がなければ、

助からなかったに違いない〟

と、善知識(正しい仏教の先生)のご恩を知らされ、

その教えを述べているのが、

「印度西天の論家、中夏・日域の高僧」

からあとの文章なのです。

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「印度」「西天」はインド、「中夏」は中国、

「日域」は日本のことです。

インドで釈尊によって説かれた仏教は、

中国へと伝えられ、韓半島を経て日本に伝来しました。

「論家」も「高僧」も、正しく仏教を伝えられた

善知識のことです。

 

●インド・中国・日本の高僧

 

親鸞聖人は、インドの論家として、

龍樹菩薩と天親菩薩のお二人、中国の高僧を三名、

曇鸞大師、道綽禅師、善導大師を紹介され、

日本では源信僧都、法然上人の二名を挙げられています。

これら七人の方々を「七高僧」といわれ、

親鸞聖人は大変尊敬されています。

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弥陀の救いにあった時、助けてくだされたのは

全く阿弥陀如来のお力しかなかったと知らされますが、

同時に、その弥陀の本願を伝えてくだされた方々の

ご恩を知らされるのです。

インドを西蕃(せいばん)・月氏(げっし)、

中国を東夏、日本を日域といわれ、

聖人は次のようにも記されています。

 

ここに愚禿鈔の親鸞、慶ばしきかなや、西蕃・月氏の聖典、

東夏・日域の師釈に、遇い難くして今遇うことを得たり、

聞き難くして已に聞くことを得たり

               (教行信証総序)

 

「ああ、幸せなるかな親鸞。何の間違いか、毛頭遇えぬことに、

今遇えたのだ。絶対聞けぬことが、今聞けたのだ。

釈迦が、どんなすごい弥陀の誓願を説かれていても、

伝える人がなかったら、無明の闇の晴れることは

なかったに違いない。

広く仏法は伝えられているが、弥陀の誓願不思議を説く人は

まれである。その稀有な、弥陀の誓願を説くインド・中国・

日本の高僧方の教導に、今遇うことができたのだ。

聞くことができたのだ。この幸せ、何に例えられようか。

どんなに喜んでも過ぎることはない」

師恩に感泣される聖人が彷彿とします。

 

●水を飲みて源を思う

 

今日、蛇口をひねれば水は幾らでも出てきますが、

昔は大変でした。

庭に井戸のある家はまれで、ほとんどの家庭では、

共同の井戸から運ばねばなりませんでした。

まず、つるべを井戸の底に落とす。

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次に井戸綱を引いてつるべで水をくみ上げる。

おけに移して、わが家まで運ぶ。

炊事、洗濯はもちろん、風呂に水を張るともなれば、

この作業を何度も繰り返さねばならぬ重労働でした。

そのため、特に不便な地方では、

「嫁にいくなら、○○(地名)およし、田なし、

水なし、井戸深し」

とか、

「娘可愛けりゃ、○○(地名)には嫁にやるな」

といわれたそうです。

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やがてポンプが普及し、柄を上下に動かしてポンプで

井戸から水をくみ上げるようになりました。

それから徐々に水道が設置されていったのです。

昔を思えば、何と楽になったことかと感謝せずにおれませんが、

蛇口さえあれば水が出るのではありません。

見えずとも、満々と水がたたえられている

貯水池があってのことなのです。

中国に、

「飲水思源」(水を飲みて源を思う)ということわざがあります。

まず貯水池の水を忘れることはできませんが、

貯水池があっても、私たちの家まで水道管が

敷設されていなければ水は出ないのですから、

水道管のありがたさも思わずにおれません。

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貯水池に例えたのは「弥陀の本願」です。

本願の法水(ほっすい)が、親鸞の心に流入せねば

救われなかった。

だから、まず思うのは如来大悲のご恩徳。

水道管に例えたのが、印度西天の論家であり、

中夏・日域の高僧です。

三国相伝の善知識方ましまさずば、親鸞、弥陀の本願に

あえなかった。

水道管の一カ所でも破れていれば水は届かぬように、

七高僧のお一人でも欠けていたら、親鸞、

助からなかったであろう。

このご恩は骨を砕いても足りませんぬと聖人は「恩徳讃」に、

師主知識の恩徳も

 骨をくだきても謝すべし

と燃ゆる思いを告白されているのです。

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ご恩に生かされた輝く人生 [恩徳讃]

(真実の仏教を説かれている先生ご執筆の『とどろき』より載せています)
    ご恩に生かされた輝く人生

 

如来大悲の恩徳は

身を粉にしても報ずべし

師主知識の恩徳も

骨を砕きても謝すべし

      (親鸞聖人・恩徳讃

阿弥陀如来の洪恩は、

身を粉にしても報いきれない。

その弥陀の大悲を伝えてくだされた方々のご恩も、

骨を砕いても済みませぬ

 

●ご恩・感謝は忘れがち、不平・不満は思いがち

 

今月も親鸞聖人の「恩徳讃」についてお話いたします。

阿弥陀如来と師主知識への報恩の情にあふれる「恩徳讃」

しかし、私たちは〝ご恩・感謝は忘れがち、

不平・不満は思いがち〟になってはいないでしょうか。

中国に、「井戸水を飲む時、掘った人のことを忘れるな」

ということわざがあります。

掘る時は協力しないくせに、水が出たら我先に使い、

不都合が出れば文句をいう。

そんな人間は不幸であり、掘ってくれた人に

感謝しながら飲む人は幸せです。

今日なら水道水。

蛇口をひねれば水が出ますが、

そうなるまでには数々の手間暇がかかっています。

貯水池を造り、家庭まで届ける水道管を

張り巡らさねばならなかったのです。

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何事もそう。スーッと車で通り抜けるトンネルも、

もともとは険しい山を歩いて越えねばならなかった。

その山を貫通させるにはどれだけの時間と労力が

かかったことでしょうか。

高度成長期、関西地域は電力不足で停電が頻発していた。

そこで建設されたのが今日なお日本一の高さを誇る

黒部ダム(富山県)。

工事は困難を極め、殉職者は171名に及んだ。

電球はついて当然と思いがちですが、

決して当たり前ではないのです。

春は、入学、入社の季節。

慣れないことが多く大変だと思いますが、

そんな時、まぶたを閉じ、静かに創業者の苦労を

想像してみるのもいいでしょう。

教えてもらったことを実行するのも難しいのに、

ゼロから学校や会社を作り上げることは、

いかに困難な事業であっただろうか、と。

このような心で改めて周りを見渡せば、

当たり前のことは一つもなく、

していただいていることばかりです。

なのに、やったことに恩を着せ、

受けたご恩は当然と流してしまう。

そんな人には、喜びもなければ感謝もありません。

最も不幸な人でしょう。

 

●私たちが仏法を聞けるのは、どなたのおかげ?

 

今日、仏教を老若男女ともに聞かせていただけるのも

決して当たり前ではありません。

昔、仏教といえば山に入って修行ができる

屈強な男性のためのものでした。

比叡山は女人禁制、年配の方や身体が不自由な人に

厳しい修行は務まりません。

つまり、日本で広まっていた仏教は、

大衆や女性のための教えではなかったのです。

ところが親鸞聖人は、世界で初めて僧侶の身で

公然と「肉食妻帯」を断行なされ、男も女も、

ありのままで平等に救われる阿弥陀仏の救いこそが

真実の仏教だと身をもって明らかにしてくださいました。

当時、肉食妻帯は僧侶には固く禁じられていたから、

親鸞聖人は、「色坊主」「破壊坊主」「仏教の怨敵」

「仏教を破壊する悪魔」と罵詈雑言(ばりぞうごん)の数々を浴び、

石を投げられ、槍を突きつけられ、八方総攻撃を受けられました。

それでもなお「みなみな仏縁あれかし」と念じられ、

生涯、信念を貫いてくだされたからこそ、

今日、老若男女ひとしく弥陀の本願を聞かせていただけるのです。

「とどろき仏教教室」に参加されている方から

こんな話しを聞かせてもらいました。

その女性Nさんの夫は、真言宗の僧侶。

勉強会の内容が素晴らしいので、

食事中そっと主人にこう告げました。

「実はね、私、最近、親鸞さんのお話聞いているの」

するとご主人、

「なんだ、結婚した堕落坊主の話を聞いているのか」。

そう言って鶏肉を頬張った。

「妻の目の前でそんなこと言うなんて、

わが身知らずもここまでくるとねえ」

と私に話してくれたNさんは、抑えきれずに笑ったあと、

正面から私を見て、

「今でさえそんなことを言われるのですから、

親鸞さまは本当に大変だったのでしょうね」

と目を潤ませました。

死刑、流刑も覚悟され、すべての人が煩悩あるままで、

この世から絶対の幸福になれると伝え続けられた

親鸞聖人のご恩を決して忘れてはなりません。

ご恩をありがたく感謝する者は成功し、

ご恩を当然と受け流す者は信用を失い、

ご恩を仇で返す者は身を滅ぼすのです。

 

●本光房了顕の決死報恩

 

報恩講に歌われる「如来大悲の恩徳」の「如来」とは、

すべての仏さまの先生である阿弥陀如来のことです。

その阿弥陀如来のお力で「浄土往生間違いなし」と

絶対の幸福に救われた人は、必ず知恩報徳の益に生かされると

親鸞聖人は教えられています。

それは、阿弥陀仏の大恩や、師主知識の洪恩、

有情非情のご恩、有形無形の恵みを知らされ、

報恩に前進せずにはおれない幸せです。

(有情・・・人間や鳥獣など、心を持つ生き物

非情・・・山や川、草木や石など、心を持たないもの

有形無形・・・森羅万象)

釈迦・弥陀の大慈悲によって絶対の幸福(往生一定)になれた。

この広大無辺のご恩に、いかに報じたらよいかと、

聖人90年の生涯は、如来大悲の恩徳に捧げられた

不惜身命の正法宣布であったことは広く知られています。

(不惜身命・・・命懸けのこと

正法宣布・・・広く仏法を伝えること)

 

この知恩報徳を地で行った先哲は多くありますが、

今も感動を与え続けるのは、蓮如上人のお弟子、本光房了顕

殉教でしょう。

時は文明6年、所は蓮如上人北陸布教の拠点、吉崎御坊(福井県)。

この御坊には北陸、近畿、東海はもちろん、

遠くは関東、東北からも親鸞学徒が陸続と群参し

門前市を成す大繁盛でした。

 

ことに加賀・越中・能登・越後・信濃・出羽・奥州七箇国より、

彼の門下中、この当山へ、道俗・男女参詣いたし、

群衆せしむる由、その聞えかくれなし。

これ末代の不思議なり、唯事とも覚えはんべらず

                (御文章一帖目七通)

 

わずか2年余りで、参詣者の宿泊所や民家が200軒余りも立ち並び、

虎や狼がすむといわれた寂れた北陸の一漁村が、

見る間に、一大仏法都市に変貌しました。

その繁栄もまた、外道諸宗の者たちの、

妬みやそねみの元となったのです。

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時、まさに乱世。

吉崎御坊焼き討ちのうわさが、しきりに流れていた

文明6年3月28日、吉崎には春の訪れを思わせる強い風が

吹いていた。

その日の夕刻、南大門辺りから、不審な火の手が揚がる。

放火の疑いが強かった。

折からの季節風にあおられて、炎はたちまち9つの宿舎を

なめ尽くし、今やまさに、大本堂に襲いかかる猛火となっていた。

不慮の火災に吉崎御坊は大混乱となった。

その時、蓮如上人は、吉崎御坊の居室で、

親鸞聖人直筆の『教行信証』証の巻を拝読されていたが、

「火事だ」の声を聞かれるや、避難の指示を次々になされる。

しかし、強風で火の回りは速い。

吉崎御坊は、たちまち紅蓮の炎に包まれ、

蓮如上人のお部屋にも、刻一刻と猛火は迫っていた。

それでもようやく屋外に抜け出られた蓮如上人

振り返ると、大本堂が火柱になって揺れている。

その時だ。

「ああ・・・しまった!」

突如、蓮如上人がダダダッと燃え上がる吉崎御坊へ向かって、

走り出された。

驚いたお弟子の法敬房が上人の衣の袖に取りすがる。

「上人さま、どうなされたのですか」

「放せ、法敬、放してくれ。蓮如、一生の不覚じゃ」

「なりませぬ。上人さま、気をお静めくださいませ」

「証の巻じゃ。法敬、わしは『教行信証』の経櫃(きょうひつ)

ばかりに気を取られ、机の上に、証の巻を置き忘れてきたのじゃ」

(経櫃・・・お聖教を入れる箱)

「え、上人さま、何と・・・」

臓腑をえぐる上人の叫びに、法敬房搾り出すように、

「し、しかし、この猛火ではとても・・・」。

その時、蓮如上人の前に、一人のお弟子がひざまずく。

「上人さま。この本光房。一命に代えても、

『教行信証』証の巻、お護りいたします。お任せくださいませ!」

言い終わるや、脱兎のごとく火の中に突進した。

返し切れぬ阿弥陀如来と師主知識の恩徳に、

いつも感泣していた本光房了顕であった。
(本光房了顕はすでに阿弥陀仏に救われていたということ)

火の粉かき分け猛火をかいくぐり、かいくぐって、

やっとの思いで蓮如上人のお部屋へたどり着いて見れば

親鸞聖人直筆の『教行信証』証の巻は、

いまだ焼けずに机の上にあった。

「あら、有り難や、これぞ如来聖人のご加護・・・」

踊る心を抑えて証の巻を押し頂き、脱出せんと振り向いた時、

雨のごとくに火の粉が降り注ぐ。

辺りはすでに、猛火に包まれ、逃れる所は、もうなかった。

「ああ、わが命、果てるはもとより覚悟のうえ。

されど・・・このご本典だけはお護り申し上げねば・・・

この本光房、お師匠さまとの誓いが立たぬ。

・・・一体どうすれば・・・」

(ご本典・・・『教行信証』のこと)

その時、肩の傷口から流れ落ちる血潮に本光房は気づいた。

「血・・・。そうだ、血だ。血によって、お護り申し上げるのだ。

もったいないが我が腹に、籠もらせたまえ」

滴り落ちる鮮血に一条の光を見た本光房、

その場にどかっと座り込む。

お師匠さま!多生にもお会いできぬお師匠さまに

会わせていただいた本光房、本当に幸せ者でございました。

やがて散りゆく露の命、護法のためなら本望でございます。

お先にお浄土へ・・・失礼いたします・・・。

南無阿弥陀仏・・・

高々念仏称えつつ、腰の懐刀スルリと抜いて、

気合いもろとも腹十文字にかき切り、内蔵深くお聖教を押し込み、

どっとうつぶせになった。

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重く息苦しい夜であった。

必死の消火活動で、明け方、ようやく猛火は収まったが、

至る所にまだチョロチョロとした火と、

きな臭い煙が充満していた。

この有り様では、とても本光房が生きているとは思えない。

どれでも何とか無事であってくれと一縷の望みをかけながら、

煙くゆる焼け跡へ散らばり、「本光房よ!」「了顕!」と、

皆が声を限りに呼び続ける。

だが、あちらこちらにブツブツと余塵(よじん)のはじける

音がするばかり。

その時、

「本光房だ!了顕がここに・・・」

と一人が叫んだ。蓮如上人やお弟子たちが駆けつけると、

果たしてそこに変わり果てた了顕の姿があった。

 

本光房の遺体に優しく手をかけ、蓮如上人がいたわられると、

何かを訴えるように右手で腹を指さしている。

本光房の体を起こした法敬房が驚いた。

「しょ、上人さま。ここのお聖教が・・・」

なんと腹わたえぐって、その中へ、しかと『教行信証』証の巻が

護られている。

おお、本光房、けなげであった・・・

よくぞここまで・・・そなたこそ本光房、まことの仏法者だ。

そなたの選んだ決死の報恩、われら親鸞学徒の鑑じゃ。

永久に全人類の明闇を晴らす、灯炬(とうこ)になるであろう

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あたかも、生ける人に語りかけるような蓮如上人が、

涙ながらに血に染まったお聖教を高々と捧げられると、

一同、感極まって声を合わせ南無阿弥陀仏を唱和した。

かくて吉崎御坊は焼失したが、全人類の根本聖典、

親鸞聖人直筆の『教行信証』六巻は、護り抜かれた。

この時の証の巻は、『血染めの聖教』とも

『腹籠もりのお聖教』とも呼ばれ、今に厳存している。

蓮如上人の元には、本光房了顕のような、

真実を知り真実に生かされた、多くの若き親鸞学徒が参集し、

人類永遠の救済に、立ち上がっていたのである。

 

昿劫多生も値(あ)い難き、弥陀の弘誓に摂取され、

大生命の歓喜を得れば、老若男女賢愚を問わず、

生きる世界は皆同じ、祖師聖人の恩徳讃。

如来大悲の洪恩と、師主知識の大恩は、

身を粉にしても足りませぬ、骨砕きても済まぬぞと、

如来広大の恩徳に、微塵の報謝も果たしえぬ、

極悪最下に感泣し、突き進まずにはおれぬのです。

 

如来大悲の恩徳は

身を粉にしても報ずべし

師主知識の恩徳も

骨を砕きても謝すべし

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