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『正信偈』講話④ [正信偈]

(真実の仏教を説かれている先生ご執筆の『正信偈』講和から続きを載せたいと思います。)


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獲信見敬大慶喜 信を獲て見て敬い大(おおき)に慶喜すれば、

即横超截五悪趣 即ち横に五悪趣を超截す。

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「獲信」とは信心獲得のことを親鸞聖人が略せられ、

「獲信」と仰ったのです。

信心獲得とは阿弥陀仏の絶対の救いを体験して

無碍の一道に出たこと、一切の碍りがなくなった

世界でありますから、今日、絶対の幸福といいます。

信心獲得いたしますと阿弥陀仏を敬い、

心から拝見せずにおれなくなります。

これが「見敬」ということです。

この世でこんな喜びの身になれるとは全く知らなんだ、

これは全く阿弥陀仏の絶対のお力であったということが

ハッキリいたしますので、阿弥陀仏を心から敬って

礼拝せずにおれなくなるのです。

その心が「大慶喜」です。

IMG_20230613_0001.jpg-1.jpg

 

●広大難思の慶心

 

蓮如上人はこの喜びを、

「うれしさを昔はそでにつつみにけり

    こよいは身にも余りぬるかな」

と仰って、阿弥陀仏に救われる前は喜ぼうと思っても

袖に包むような小さな喜びしかなかった。

しかし、信心獲得してからは身に余る大きな喜びであったと

仰っています。

親鸞聖人は『教行信証』の中に、

「広大難思の慶心」と仰っています。

「その喜びは広かったぞ、大きかったぞ、

想像もできない喜びであった」

と、聖人獲信の喜びを告白なされたものです。

別のところでは、この喜びを、

「心も言葉も絶えた」と仰っています。

無明の闇が破れ、生死の大問題が解決できたのですから、

その喜びは、私たちの想像をはるかに超えたものです。

 

●『歎異抄』の問題点

 

親鸞・蓮如両聖人は、信心獲得すると大慶喜心が起きると

仰っているにもかかわらず、そんな喜びなんか凡夫に

起きるものではないと皆が思うようになった一つの原因は、

『歎異抄』第9章です。

この中に親鸞聖人と唯円との対話があります。

唯円が、

「私は念仏称えますが、踊躍歓喜の心が起きません。

これはどうしたことでしょうか」

と尋ねたのです。それに対して、聖人は、

「唯円、お前もそうか。実は親鸞もそのことについて

不審を持っていた。

踊躍歓喜という大きな喜びはない」

と答えられたと書いてあります。

説教する者は、ここを根拠に、

「聖人もお弟子の唯円も喜べないと仰っているではないか。

私たちが喜べるはずがあるか、喜べないのが当たり前、

こんな奴を死んだら阿弥陀さまが助けてくだされるのだ」

と話をし、こんな話を聞かされた者は、

喜べない自分の心とピタリときて

喜べないままのお助け、何と有り難いことが

『歎異抄』には書いてあるのか、

と『歎異抄』が大好きになるのです。

ここに『歎異抄』の問題点があり、蓮如上人は、

これを誰にでも読ませてはいけない、

当流大事の聖教と仰っています。

IMG_20230613_0002.jpg-1.jpg

これはカミソリのようなもので、カミソリは子供が持てば

大変危険なものですが、大人が使えば

大変便利なものであるように、読む人によって非常に危険な

内容の本にもなるし、信心獲得した人にとっては

味わいのある本になるということです。

 

●桁外れの喜び

 

それではこの九章は、信心獲得した人が読むと、

どのようになるのか。

親鸞聖人はこの問題の箇所の後に、

「唯円喜べないか、親鸞も踊躍歓喜の心はない。

そこで唯円、こんな喜ばなければならないことを

喜ばない者を、阿弥陀仏が助けてくだされたとは

何と不思議なご本願ではないか、

いよいよ喜ばずにおれないなあ」

と、聖人は喜んでおられるのです。

親鸞聖人の喜びは、喜ばない自分の心を知らされれば

知らされるだけ、こんな者がどうして救われたのか、

絶対の幸福の身になったのかと喜びが湧き上がってくるのです。

この広大難思の慶心、心も言葉も絶えた喜びは信心獲得しなければ

想像もできない喜びです。

信心獲得した人でなければ、この聖人の桁外れの喜びというものを

この『歎異抄』から読み取ることはできません。

私たちは阿弥陀仏に救われ大慶喜心が起きるところまで

求め抜かなければなりません。

 

●見仏得忍

 

信心獲得すれば阿弥陀仏を見て敬い、大慶喜の心が起きてきます。

阿弥陀仏を、私たちの肉眼で見るということではなく、

心眼で阿弥陀仏を見せていただくのです。

心眼とは私たちの心の眼ではなく

阿弥陀仏より賜った心の眼ということです。

阿弥陀仏を見たてまつった時に、

信心獲得の身の上になります。

『観無量寿経』の中には、韋提希夫人が阿弥陀仏を見た時に

救われた、見仏得忍と説かれています。

 

●同時即

 

阿弥陀仏に救われますと、「即応超截五悪趣」とありますように、

その時に横に五悪趣を超截することができます。

「即」には二通りの意味があります。

同時即と異時即で、同時即とは時を隔てず処(ところ)を隔てず

という意味です。

異時即とは、例えば船に乗ったら即ち岸に渡ることができる。

飛行機に乗ったら即ちアメリカに行ける、

といったように時間や場所のずれがある即ちです。

この『正信偈』の「即」は同時即です。

信心獲得したその時その場所を意味しています。

 

●五悪趣を超截する

 

「横」とは、他力を表します。

他力とは阿弥陀仏の本願力のみを示します。

「截(ぜつ)」はたち切るということで、

「五悪趣」とは五つの悪い世界、六道(六界)のことです。

大きくは三界、こまかく分けると二十五有界になります。

地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人間界・天上界の六界の

中の修羅界をぬいて五悪趣といいます。

地獄界とは苦しみの大変激しい世界で、

この世の溶鉱炉の火を地獄に持ってゆくと

霜か雪になってしまうといわれます。

餓鬼界は常に欲しい欲しいと満たされていない世界で、

食べ物があって近づき口にしようとすると

ボーッと青白い炎になってしまう恐ろしい世界です。

畜生界は淫欲まんまんとして常に不安が

つきまとっている世界です。

眠っている犬に足音を忍ばせ近づいていっても

どうしても気がつかれてしまいます。

それだけ神経をピリピリさせているということです。

人間界は常に善悪を問題にしている世界です。

天上界は天人の世界ですが、やはり天人の五衰があり

苦しみ迷いの世界です。

 

●現在の五悪趣

 

これらの世界は、死後にのみ存在するのではなく、

現在の私たちの心の中にうごめいています。

「私ほど業なものはいない」

と言って苦しみ悩んでいるのはこの世の地獄です。

名利を求め財を求め満たされないといっているのは

この世の餓鬼です。

不安におびえているのは心が畜生界に生まれているのです。

そして人間は善悪を問題にし、

善を欲し悪を恐れています。

また思いがけないお金が手に入ると心はたちまちに

天上界に上がります。

このように私たちの現在の心の中にこの五つの世界があり、

もちろん死後にもこの世界が続くのです。

 

●引業と満業

 

私たちが死にますと、次にどの世界に生まれるのかを、

業(行為)が決めます。

業不滅といい、私たちは身口意の三業によって

未来の運命を造っているのです。

世の中にいくら背の高い人がたくさんいても一番高い人は

ただ一人のように、たくさんの業があっても

その中で一番重い業は一つしかありません。

生涯に造った業の中で最も重い業が

私たちの死後生まれる世界を決定し、

これを引業といいます。

引業以外の一切の業を満業というのです。

この満業が死後生まれた世界のさまざまな運命を

引き起こすのです。

業の収まっているところを阿頼耶識といい、

あらゆる業が収まっていますから

蔵識とも業識ともいいます。

私たちは身口意の三業でろくな因(たね)まきを

しておりませんから、必ず三悪道に堕ちてゆかねばならない

一大事が惹起します。

死後生まれるのは結果で、これには必ず原因があります。

現在の私たちの心の中に五悪趣がうごめいているということです。

阿弥陀仏に救われた即時に、現在の私たちの心の中の

五悪趣を超截することができるのです。

因が解決されるのですから当然結果を引き起こしません。

阿弥陀仏に救われますと、現在から五悪趣を超截して

再び三悪道に迷うことのない身の上になるのです。

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