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生まれて来たのは、極楽へ渡す弥陀の大船に乗るため! [親鸞聖人]

親が子を虐待し、子が親を殺める。
自殺幇助で稼ぐ者やら、
遊ぶ金欲しさに簡単に強盗殺人を犯す少年。
目を覆うような事件が、報道されない日はありません。


「いのちは尊い」
と、どれだけ連呼されても、
「私なんかガラクタ」
としか感じられないのは、
「なぜ、尊いのか」
分からないからでしょう。


深い闇にさまよう私たちに、
生命の尊厳を明示された方が、
世界の光といわれる親鸞聖人です。


「生死の苦海ほとりなし
久しく沈めるわれらをば
弥陀弘誓の船のみぞ
乗せてかならずわたしける」


今回は、このお言葉に、
真のいのちの輝きをお聞きしましょう。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・
生死の苦海ほとりなし


     ーーー空と水しか見えない海に
            放り出されたら、どうしますか?


初めに「生死の苦海」と言われているのは、
私たちの人生のことです。
人の一生は、苦しみの波の絶えない海に、
おぼれ沈んでいるようなものだと、
親鸞聖人は「生死の苦海」と言われています。
「生死」とは仏教で苦しみのこと、
「ほとりなし」とは、果てしないことですから、
「生死の苦海ほとりなし」
とは、人生は苦しみの連続である、と言われているお言葉です。

この世にオギャッと生まれたのは、例えれば、
太平洋の真ん中に放り出されたようなもの。
見えるのは水と空だけとしたら、どうするでしょう。

泳がねば沈んでしまいますから、泳ぎますが、
では、どこへ向かってでしょうか。
島も陸もない。船も見えないのに。

やみくもに泳げば泳ぐほど、陸地や船の方角と反対に進み、
努力が無駄になることもあります。

泳ぐ前に、まずハッキリさせるべきなのは、島がどこにあるのか。
陸地はどこか。船のある方角でしょう。

そこへ向かって泳いでこそ、泳ぐことに意味があり、
「ここまで泳いできてよかった」
と、泳いだ苦労が報われる時が来るのです。

生きる時に一番の大事は、どこへ向かって生きるのか。
「人生の目的」です。

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生きるために、生きるのか


「生きるために生きるのだ」
という言葉に、勇気づけられる人もあるでしょう。
「あなたは生きている、それだけで意味があるんだよ」
と言われれば、救われた気になります。
しかし本当に、それでいいでしょうか。
「何のために勉強しているのですか」
と聞かれて、
「希望の大学に合格するためです」
という答えなら理解できますが、
「勉強するために勉強しています」
では、意味不明です。
「なぜダンス教室に通っているの」
と尋ねて、
「あのステキな先生と踊れるから」
ならわかりますが、
「通うために、通っている」
では、トートロジー(同意語反復)で、
何も言っていないのと同じです。
「生きるために生きる」のは、ちょっと考えれば、
言葉の意味からもおかしいと、誰でも分かるでしょう。
「泳ぐために泳ぐ」

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「とにかく一生懸命泳げばいい」
では、やがて体力尽きて溺死するだけであるように、
生きる方角を知らず
「生きるために生きる」ようなもの。
死ぬほどつらいことはない、と言うように、
私たちが最も恐れ嫌う「死」に向かって生きるのは、
「苦しむために生きる」ことになってしまします。
それでいいと、どうして言えるでしょうか。

ところが、地球上に今、70億人の人がいても、
「まず生きることが大切なんだ」
と、誰も「人生の目的」を問題にせず、知ろうともしていません。
「自殺はダメだ」
と声高に叫んでいる識者も、
「なぜですか」
の素朴な疑問に、納得できる答えを示してはくれません。

それどころか、著名人の自死を賛美する始末。
不可解というほかありませんが、
「人生の目的なんか、考えても分からない」
と、アキラメているのではないでしょうか。


●目的と手段は違う


「いや、私の人生には目的がある。そこに向かって生きている」
という人もあります。
仕事、恋愛、お金、地位、名声、家庭、健康、旅行、趣味・・・などを、
それぞれ「人生の目的」と思ってのことでしょう。
確かにこれらは、それなりの喜びや満足を
与えてくれるに違いありません。
ドキドキ、ワクワク、興奮を味わえることもありますが、
どれだけ続くでしょう。
「人間に生まれてよかった」という生命の歓喜、
不変の満足が得られるでしょうか。
死ぬまで求めても、「求まった」と達成した喜びの、
ないものばかりではないでしょうか。


世界中で、自殺者が絶えません。
ノーベル賞受賞の優秀な人たちも、生涯、
豊かな生活が保証された人も、それでも自ら命を絶つ。
色々な事情があるでしょうが、間違いなくいえるのは、
「幸せではなかったから」でしょう。
ノーベル賞も、人生究極の目的とはいえないようです。
金や財産、地位や名誉、趣味や健康、
これらは「生きる目的」ではなく、
生きるための「手段」。
この「目的」と「手段」の違いを知らず、
混同しているところに、
まことの幸せになれぬ根本原因があるのだと、
親鸞聖人は明言されています。

例えば、お金は使うためにある。
儲けて増やすこと自体が、目的では決してありません。
問題は、お金をどんな目的に使うか、です。
ところが、この平凡な真理に気づかない人が意外に多い。
目的と手段を履き違え、「金を使う」のではなく、
「金に使われる」奴隷になる人が少なくありません。
詐欺も偽装も収賄も、
そのために起きる事件とは言えないでしょうか。


では「生きる目的」と「手段」を、なぜ混同してしまうのでしょう。
真の「人生の目的」を知らないからだと、
親鸞聖人はおっしゃっているのです。


生きる実態は


「生きる」とは、こういうことだと、一休はいいます。

「人生は
食て寝て起きて糞たれて
子は親となる
  子は親となる」

社長だ、教授だ、ニートだ、といっても、
立って半畳、寝て一畳。
基本的にやっていることは、布団の上げ下げであり、
台所とトイレの往復です。
毎日同じことの繰り返しで、代わり映えのしない日常が、
どこまでも続いていく。

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そのうち、どこで覚えたやら子を生み親となり、
やがてその子もまた親となる。
これが「生きる」実態だ、の指摘は、
とても否定できません。
しかも、いつまでも生きておれるのではないと、
一休はまた、

「世の中の
娘が嫁と 花咲いて
嬶としぼんで
 婆と散りゆく」

とも、人生の裸形(らぎょう)を露出します。

女性で一番良い時が、娘時代。
だから娘と言う字は、女偏に良いと書く。
娘が結婚して家に入ると、嫁になる。
嫁さんが、子供を生みますと嬶という。
「女は弱し、されど母は強し」といわれるように、
新婚当時はおしとやかでも、
お母さんになると鼻が高くなりますので、
女偏に鼻と書く。
嬶の次はお婆さん。
額に波が寄ってきますので、女の上に波と書くのだそうです。
これが女性の一生ですが、男性でも呼び名が違うだけで、
すべて同じコースをたどります。
何十億の人がいても、例外なし。
いつまでも娘ではいられませんし、
お婆さんが娘に戻ることはできませんね。
「この間まで自分は娘だと思っていたのに、
もう息子が嫁をもらって孫ができた。
いやぁ、月日のたつのは早いなぁ」
と言っているように、女は、娘から嫁、嫁から嬶、お婆さんへと、
どんどんどんどん進んでいく。

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一休が「婆と散りゆく」と言っているのは、
そうしてみんな死んでいくからです。
その間、歓楽哀情、悲喜こもごもでしょうが、
作家の林芙美子さんは、

「花の命は短くて
苦しきことのみ多かりき」

と歌っています。

医学によって、たとえ10年、20年、寿命が延びたとしても、
あっという間。
一秒に地球を7周り半進む光の速さでも、
百何十億年かかる、という大宇宙の生命に比べれば、
人生80年といっても瞬きする間もありません。
花のように儚い命、一体、何のために生まれてきたのでしょうか。
それが分からぬままの人生の結末では、
悲しすぎます。

これほどの問題が、ほかにあるでしょうか。
地球温暖化、核の拡散、原油価格の高騰、
医療崩壊、鳥インフルエンザ・・・
早急に対処すべき事柄が山のようにあっても、
根底にあるのは「死」の不安です。
あらゆる人間によって、死ぬこと以上の大問題はないから、
これを仏教で「生死の一大事」といわれるのです。

死後は、
  どうなっている?

さて、死んだその先は有るのか、無いのか、
どうなっているのでしょうか。

現代人の多くは、「死んだ後は何も無くなる」と言い、
それを「科学的態度」だと自負しています。
では、わが子や親が死んでも、
「一個体としての生命化学反応が、
止まっただけ」
と割り切れるでしょうか。

「燃焼したら骨と皮。成分のほとんどはカルシウムである」
などと、火葬場で冷静に分析していられるはずがない。

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物質でない何かが、どこかに残っているとしか思えないから、
「千の風になった」と思いたいし、
「冥福」を祈らずにおれないのです。
「冥福」とは「冥土の幸福」のことで、
「冥土」は死後のこと。
故人に向かって
「静かにお眠りください」
「安らかに成仏してください」
と、「死後の幸せ」を願うことを「冥福」を祈るという。
「慰霊」も同じで、死者の霊を慰める行為です。
これらは、死んだ後が有り、
しかも、苦しいのではなかろうかと思うからこそ、
せずにいられないのです。

では、私が死んだらどうなるのか。
死後はあるのか、無いのか、有るとしたら、
どんな状態であるのか。
いずれでも、ハッキリすれば安心できるのですが、
ただ、ぼんやりしています。
この「死んだらどうなるのか、ハッキリしない心」を、
仏教で「無明の闇」といわれ、この
「死後に暗い心」こそが、
人間の苦しみの根元なのだと、
親鸞聖人は断言されているのです。

●「死んだら死んだ時」か?

こんな大きな問題なのに、その「死」を誰も見ようとしない。
避けているのは、どうしたことでしょう。

「未来のことより、今が大事だからさ」
とまことしやかに答える人が、
しっかり「老後」のために貯蓄する。
「年金はどうなる」「介護はどうする」
というのも、老後の問題。
やがて行く道だから、準備せずにいられないのでしょう。
若くして死ぬ人には、老後はありませんが、
死ぬのは百パーセント確実。

とすると、「有るやら無いやら分からない老後」のことは
心配して準備しているのに、
「百パーセント確実な死」は誰も問題にしていない、
ということになります。

火災保険でも、火事には滅多に遭わないが、
それでも、もしもの時のために加入する。
「万が一」の火災になら真剣に対処しているのに、
「万が万」訪れる「死」は想定外に押しやっているのは、
おかしくないでしょうか。

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日頃は“論理一貫性”を重んじながら、です。
「そんなこと考えたって、どうなるもんじゃないよ」
「死んだら死んだ時だ」
と、アキラメてるのでしょう。
何のためにこの世に来たか、死んでどこへ行くのか、
来し方行く末も分からず、悩み絶えない私たちの人生を、
親鸞聖人は、
「生死の苦海ほとりなし」
と言われ、それはこの世の50年や100年の間だけではなく、
果てしない過去からさまよい続けてきたことを、
「久しく沈めるわれら」
とおっしゃっているのです。


弥陀の本願まこと
      親鸞聖人の証言

「生死の苦海ほとりなし
ひさしく沈めるわれらをば
弥陀弘誓の船のみぞ
乗せてかならずわたしける」

そんな古今東西の全人類を、
「弥陀弘誓の船のみぞ
乗せてかならずわたしける」
と、次に宣言されています。

「弥陀弘誓」とは、
「阿弥陀仏の本願」のこと。
「阿弥陀仏」とは、大宇宙に無数にまします
仏方(三世十方の諸仏)の先生であり、
指導者の仏さまなのだと、蓮如上人は、
「弥陀如来と申すは、三世十方の諸仏の本師本仏なり」
             (御文章)
と教えられています。
「本願」とは、誓願ともいわれ、
分かりやすくいうと約束のことですから、
「阿弥陀仏の本願」とは、
本師本仏の阿弥陀仏のなされているお約束のことです。
その内容を、一言で申しますと、

「どんな人をも
    必ず助ける
       絶対の幸福に」

というものです。
私たちの知っている幸せは、
海に浮かぶ丸太ん棒や板切れのように、
やがてひっくり返って必ず裏切る、
金や財、地位名誉などの「相対の幸福」です。
だから不安から離れられない私たちを、
永遠に崩れない「絶対の幸福」に救い摂ってみせる、
という凄い約束
ですから、
親鸞聖人はその「阿弥陀仏の本願」を、
苦海を楽しく渡す船に例えて「弥陀弘誓の船」と言われたのです。

しかも、全く阿弥陀仏のお力によって、
乗せていただく船だから、「乗って」でなく
「乗せて」と言われ、「かならずわたしける」とは、
苦悩の根元である無明の闇をぶち破り、
“いつ死んでも浄土往き間違いない”
大安心の身に救い摂ってくだされるのだ、
ということです。
乗船には時間はかかりません。
何十億分の一秒よりも短い「一念」。
その一念で、弥陀弘誓の船に乗せられた体験を親鸞聖人は、

「誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法」
             (教行信証)
“弥陀の本願まことだった。絶対の幸福、本当だった”

と証言され、有名な『歎異抄』の冒頭には、

「『弥陀の誓願不思議にたすけられ参らせて
往生をば遂ぐるなり』と信じて
『念仏申さん』と思いたつ心の発(おこ)るとき、
すなわち摂取不捨の利益にあずけしめ給うなり」
と仰せられています。
「摂取不捨の利益」とは、
“ガチッと一念で摂め取って永遠に捨てぬ不変の幸福”のこと。
生きてよし、死んでよし、こんなもの凄い世界があるぞ、
このための人生だから命は無限に尊いのだ、
早くこの弥陀の大船に乗ってまことの幸せになってくれよ、
と今も聖人は叫び続けておられるのです。


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阿弥陀仏に救われるには? 「聴」と「聞」とはどう違う!? [極楽に往生するには]


誠なるかなや、
摂取不捨の真言、超世希有の正法、
聞思して遅慮することなかれ

         (親鸞聖人・教行信証総序)


まことだった!本当だった!
弥陀の誓いにウソはなかった。
みなみな、聞いてもらいたい、この親鸞が生き証人だ。

早く、弥陀の誓願まことを知ってもらいたい


今回も、この親鸞聖人のお言葉を解説いたしましょう。
親鸞聖人が「誠だった!」といわれている「摂取不捨の真言」も
「超世希有の正法」も、「阿弥陀仏の本願」のこと。
それは、十方諸仏の本師本仏の阿弥陀仏の
“どんな人も必ず、絶対の幸福(往生一定)に救う”
という命がけのお約束です。

その弥陀の願いに背を向けて、
欲のままに逃げ回っている私たちをどこまでも追いかけ、
“無上の幸せに救わずばおかぬ”
という弥陀の真実のお言葉
ですから、
親鸞聖人は「摂取不捨の真言」とも言われ、
世を超えた2つとない真実の誓い、
「超世希有の正法」とも称されます。
では、弥陀のお約束どおりに救われるには、
どうすればよいのでしょうか。


●仏法は聴聞に極まる


阿弥陀仏のお約束は、
「聞其名号、信心歓喜」
とありますように、
聞いて信ずる者を助けるというお約束
ですから、
聞くということが阿弥陀仏の救いに最も大切なことなのです。

ゆえに蓮如上人は、


仏法は聴聞に極まる (御一代記聞書)
(仏法は聞く一つで救われる)


と教えられています。
聴聞といいますのは、「聴」もきくということですが、
仏法では、聴というきき方と、
聞というきき方を厳然と区別されていることを、
よく知らなければなりません。

まず、聴というきき方は、
ただ耳できいて合点しているきき方をいいます。
2+2は4、4+4は8というように、
きいて納得しているきき方をいいます。


弥陀の救いにあうには、まず、
阿弥陀仏の本願の生起本末をきいて、
よく納得することが大事です。
阿弥陀仏の本願の生起本末とは、
弥陀は、どんな者のために本願を建てられたのか。
どのようにして本願を建てられたのか。
その結果は、どうなったのか、ということです。

納得できなかったら納得できるまで、
重ねて聞かねばなりません。
仏教は因果の道理を根幹として説かれていますから、
どんな人でも、聞けば必ず納得できる教えなのです。

教えを重ねて聞いて正しく理解し納得することが、
第一に大切なことです。
これが聴聞の聴です。

まず教えをよく聴いて納得することから聞法は始まるのです。


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●「上の心」と「下の心」


重ねて仏教を聴いていきますと、
私たちには2つの心があることが知らされてきます。
「2つの心?私の心は一つしかありませんよ」
と思われるかもしれません。
2つの心とはどういうころでしょうか。


あるところに、喧嘩が絶えない菓子屋の若夫婦がいた。
今日も、つまらぬことで始まった口争いが怒号となり、
亭主が「殺してやる」と叫び、
女房は、「殺すなら殺せ」と激高している。
そこを通りかかった寺の和尚、また始まったかと仲裁に入った。
「どうしたんだい、大きな声を上げて。
通りがかりの人に恥ずかしいとは思わんか。
やめなされ、やめなされ」
すると、亭主、
「捨てておいてください。
今度という今度は勘弁ならん。
今日こそ、かかあをたたき殺してやる」
と目を釣り上げ、わめきたてる。
女房も女房で、
「和尚さん、ほっといてください。
さあ、殺せるものなら殺してみろ」
と、かみつかんばかりに逆上し切っている。
こうなっては手のつけようがない。
思案に余った和尚、
「じゃ、お互いの気の済むまで喧嘩するがよい。
これほど止めても聞き入れぬなら仕方がない。
殺すとも殺されるとも勝手にしたらよかろう」
と言い捨てた。


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いつの間にか店先に近所の子供たちが集まって、
派手な夫婦喧嘩を見物している。
すると和尚、店先に並べてあった菓子を取り上げて、
「さぁさぁ、よいか、おまえたちにこの菓子をみんなやるから、
持って行け」
と投げ与えた。
菓子屋の夫婦が驚く。
「和尚さん、そんな無断で店の物をやっては困ります。
明日から私たち、商売できなくなるじゃありませんか」
「なに、私たちの商売?なんと訳の分からぬ話じゃ。
おまえさんらは殺すとか殺されるとか言っていたじゃないか。
人を殺せば刑務所へ行く身じゃ、
してみればおまえさんたちに用のない菓子。
今のうちに子供たちを喜ばせておいたほうがよかろうと思ってな、
施しているところじゃ」
と和尚が言うと、
「ああは言ったが、今晩また一緒に寝るつもりじゃ」
と言ったという。

感情は激怒している時も、
その下に湖底のように静まり返っている心があります。
特に真剣に仏法を聴聞していきますと、
ハッキリする2つの心があることが分かってきます。

「なるほど、なるほど」とうなずいてきいている心と、
腹底に感じられる、少しも仏法をきこうとしない心です。

「上の心」と「下の心」といわれることもあります。
一例を挙げましょう。
「あなたは、生まれたからには必ず死なねばならないと思うか」
と質問されたら、誰でも「イエス」と答えるでしょう。
「生ある者は必ず死に帰す」
これは誰も否定できない厳粛な事実だからです。
では、
「今日死ぬと思えるか」
と尋ねられたらどうでしょうか。
答えは「ノー」でしょう。
この「今日死なない」と思いこんでいる心は、
明日になっても「今日は死なん」と思う心であり、
明後日、そのまた翌日になっても
「今日死なん」と思い続ける心です。
「いつまでも 死なぬつもりの 顔ばかり」
最後まで死ぬまいと思っている、
つまりは永遠に死なないと思っているのが私の本心なのです。

2つの矛盾した心があるとお分かりになるでしょう。


●「聞」ときく


聴聞の「聴」は、上の心がきいて合点、理解することです。
しかし、どんなに理解や合点しても、
知った覚えたであって弥陀の救いではありません。

それを蓮如上人は、こう言われています。


聴聞ということは、なにと意(こころ)得られて候やらん。
ただ耳にききたるばかりは、
聴聞にてはなく候。
そのゆえは、千万の事を耳にきき候とも、
信得(しんえ)候わぬはきかぬにてあるべく候。
信をえ候わずは、報土往生はかなうまじく候なり
             (一宗意得之事)
聴聞ということを、どう思っていられるだろうか。
ただ、耳できいて理解し合点しているだけでは、
それは聴聞とはいえないのである。
たとえ千座万座きいても、
信心を獲得しなければ聞いたことにはならない。
信を獲なければ、弥陀の浄土へは往けないのである


いくら耳で千回万回の説法をきいても、
それは合点や理解だけの聴のきき方です。
では聴聞の「聞」とは、どんなきき方か、
親鸞聖人は、次のように教えられています。


「聞」と言うは、衆生、仏願の生起・本末を聞きて
疑心有ること無し。これを「聞」と曰うなり  

             (教行信証信巻)


聞とは、阿弥陀仏の本願の生起・本末に、
ツユチリほどの疑心もなくなったのを、
聞というのである。


弥陀の五劫思惟の本願は、
私ひとりのためでありましたと、
弥陀の本願の生起・本末が晴れ(信)、
大安心大満足になったのを、聞といわれるのである。


●合点するだけでは意味がないのか


こうきくと、次のような疑問を抱く人があります。
「では、『聴』というきき方は、何にもならないのか」
とんでもない。それは因果の道理を破壊する誤りです。
まかぬ種は生えませんが、まいた種は必ず生える。
これが因果の道理です。
自業自得といわれるように、自分の行い(業)によって、
自分の結果(運命)が得られるのです。
一回きけば、それ相応の結果が生じる。
十回きけば、それだけの果報が得られる。

ボーッときくのと、真剣にきくのと、
結果が同じはずがありません。

家で気楽に学ぶ人と、外へ出て苦労してきく人とでは
結果は違います。
近くの会場でしかきかない人と、遠くまで足を運んできく人、
時間があればきくという人と、忙しい中を時間つくってきく人とでは、
得る結果は絶対に同じではありません。
ですから、「聴いているだけでは何にもならない」という考えは
大間違いなのです。

一歩踏み出し、聞法の場へ足を運ぶことは、
尊い仏縁がなければありえないことです。
そこには、阿弥陀仏の強い後押しが必ず働いています。
聞く気のない私に「聞いてくれよ」
の阿弥陀仏の絶大なる願心がかかっていてくだされるからです。

聞思(聴聞)して遅慮することなかれ」(教行信証)
弥陀の本願に対する一切の疑心が消滅し(信)、
大安心大満足になるまで聞き抜きましょう。


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あなたも仏さまに褒められる身になれる!! [救われるとどうなる]

一切善悪凡夫人(一切善悪の凡夫人)
聞信如来弘誓願(如来の弘誓願を聞信すれば)
仏言広大勝解者(仏は広大勝解者と言い)
是人名分陀利華(是の人を分陀利華と名く)


『正信偈』の冒頭に、
「帰命無量寿如来
南無不可思議光」
“阿弥陀如来に親鸞、救われたぞ、
阿弥陀如来に親鸞、助けられたぞ”
と叫ばれた聖人は、続いてその「弥陀の救い」を
懇ろに明らかにされ、最後に、
「道俗時衆共同心
唯可信斯高僧説」
“すべての人よ、この親鸞と同じように、
早く阿弥陀如来に救われてもらいたい”
と結んでおられます。
『正信偈』を書かれた聖人の目的は、私たちが
「弥陀に救われること(信心決定)」一つであったことが分かります。
今回お話する4行も、その御心は、
「あわれあわれ、存命の中に、みなみな信心決定あれかし」
の外に何もなかったのです。
このことを確認した上で、解説を進めましょう。


まず「一切善悪の凡夫人」とは、「すべての人」のことです。
男も女も老いも若きも、善人も悪人も、私もあなたも、
この中に入らない人は一人もありません。
「どんな人も」ということです。
次に、
「聞信如来弘誓願(如来の弘誓願を聞信すれば)」
と言われている「如来の弘誓願」とは、
「阿弥陀如来の本願」のこと。
本師本仏の阿弥陀如来が、
「すべての人を
平生の一念
必ず助ける
絶対の幸福に」
と誓われているお約束を、「如来の弘誓願」
と言われているのです。
大宇宙には、地球のお釈迦さまはじめ、
大日如来や薬師如来、ビルシャナ如来など
無数の仏方がましまして、
それぞれに本願を持っておられます。
「本願を持つ」とは「約束をされている」ことですが、
中でも、
「すべての人(十方衆生)と、約束する」
と、差別なく誓われているのは阿弥陀如来だけ
ですから、
その「弥陀の本願」を「弘誓願(広い誓い)」と言われるのです。
善人も悪人も、相手を選ばず、「絶対の幸福に必ず助ける」とは、
なんと偉大な誓願ではありませんか。
だからこそ阿弥陀仏は本師本仏、無上仏と仰がれているのです。


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「聞信」とは、露チリ程の疑いも無くなったこと。ですから、
「如来の弘誓願を聞信する」
とは、弥陀の本願通りに「絶対の幸福」に救い摂られて、
「弥陀の本願まことだった、まことだった、ウソではなかった!」
と、本願に疑い晴れたことです。
絶対の幸福とは、いつ死んでも浄土往生間違いない
「往生一定」の身になったこと。
これを「信心決定」とも「信心獲得」とも言われ、
また「獲信」と言われます。
これでお分かりのように、
「一切善悪凡夫人(一切善悪の凡夫人)
聞信如来弘誓願(如来の弘誓願を聞信すれば)」
の二行は、
「どんな人も、
阿弥陀如来に救い摂られたならば」
と言われているお言葉です。


●阿弥陀仏に救われたら、
      どんないいことがあるの?


では、弥陀に救われたら、どうなるのでしょうか。
信心決定すると、何かいいことがあるの?
私たちが知りたいことについて、親鸞聖人は続いて、
「仏言広大勝解者(仏は広大勝解者と言い)
是人名分陀利華(是の人を分陀利華と名づく)」
と明言され、
“凄いいいことがあるのだよ、早く信心決定して、
この幸せよろこぶ身になってもらいたい”
と勧めておられるのです。
ここで「仏」と言われているのは、「十方諸仏」のことです。
先述の釈迦如来はじめ、薬師如来、大日如来やビルシャナ如来など、
大宇宙にまします無数の仏方のことで、
『阿弥陀経』には、東西南北上下のそれぞれの方角に、
インドのガンジス川の砂の数ほど(恒河沙数)の仏方がおられるのだと、
具体的な名前を挙げて紹介されています。
それらの無数の仏さまが、弥陀に救い摂られた人を、
「貴方は『広大勝解者だ』『分陀利華じゃ』と褒め讃えて下される」

と言われているお言葉です。
「広大勝解者」とは仏教の大学者、
「分陀利華」は希にしか咲かない白蓮華のことで、
滅多にない素晴らしいことを表されています。
親鸞聖人はこの4行で、
どんな人も、阿弥陀仏に救われたならば、
大宇宙の無数の仏方から、
『あなたは仏教の大学者だ』『滅多にない尊い人だ』
と称讃される身になれるのだよ」
と言われているのです。


●ほめられると、うれしい


私たちは朝から晩まで、どんなことを考えているでしょうか。
頑張って生きようとするモチベーション(動機)は、
何でしょう。
人それぞれ、いろいろありましょうが、
中でも「褒められたい」、
これが大変強いのではないでしょうか。

評価されたい。実力を認められたい。
若く見られたい。キレイと言われたい。モテたい。
朝起きて、何を着ていくか、誰とどんなことを話すか、
何から何までその行動基準は、
「どうしたら他人からよく見られるか」
が大きいのではないでしょうか。


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そして実際に褒められると、どんな気持ちになるでしょう。
子供に褒められてさえ、気分がよくなります。
「お前なんかにどう言われても、どうってことないよ」
と思っている相手からでも、
またお世辞だとは百も承知でも、
やはり褒められると嫌な気がしないのが、
私たちですね。
まして、自分の尊敬する方から賛辞を頂けばなおさらです。
「よし、もっと頑張ろう!」と元気が出ます。
「どんな困難も乗り越えてゆくぞ」と、
勇気が湧いてきます。
このように、人から褒められることは
凄い元気と勇気の出ることなのですが、
親鸞聖人は『正信偈』のここで、
「阿弥陀仏に救われた人は、
大宇宙の仏さま方から、褒められる身になるのだよ」

と、とてつもないことを仰っている。
「仏さまから褒められるって?どういうこと?」
あまりにも日常からかけ離れているのでピンと来ない、
という人もあるでしょう。
このことは『教行信証信巻』にも、


金剛の真心を獲得する者は、横に五趣・八難を超え、
必ず現生に十種の益を獲。何者をか十と為る


阿弥陀仏に救われた人は、現在生きている時に、
十種の幸せを頂けるのだ

と仰っている五番目に、「諸仏称讃の益」を挙げられて、
大宇宙のすべての仏方に、褒められる幸せを頂ける
と言われています。
その褒め言葉は、『正信偈』の「広大勝解者」「分陀利華」の他にも、
お釈迦さまは、
「すなわち我が善き親友なり」
と、「親友」とまで仰ってくださり

また「上上人だ」「無上人(最高の人)だ」
「妙好人(妙なる好ましい人だ)」「希有人(最高の人)だ」
「最勝人(最もすぐれた人)だ」など、
仏さま方から種々の褒め言葉で称讃されるのですから、
勇気百倍、生きる力が沸々と湧いてくるのです。


弥陀に救い摂られてからの、
あのたくましい親鸞聖人の生きざまは、どうでしょう。
あの強く生きる力と勇気は、
一体どこから出てくるのか、
と首をかしげる人も少なくありませんが、
迷った人間から何を言われても親鸞、眼中にない。
大宇宙の仏さまから褒められる身になったのだからなあ
」と、
この「諸仏称讃の益」に生かされている自覚からに違いありません。


●たくましき生きざま


親鸞聖人の生涯は、波瀾万丈の激しいものでした。
「たくましき親鸞」といわれるそのご一生には、
どんなことがあったのか。
弊社のアニメ「世界の光・親鸞聖人」全六巻に詳しく描かれていますが、
一例を挙げれば、31歳の「肉食妻帯」でしょう。
当時の仏教界では、僧侶には固く禁じられていた「戒律」があり、
中でも大きな2つが「肉食」と「妻帯」でした。
「肉食」とは、生き物の命を奪ってその肉を食べること、
「妻帯」は結婚することです。
出家した仏弟子たるもの、これを犯してはならない。
「肉食妻帯」した者は僧侶ではない。
これが伝統的な仏教であったのです。
その戒律を、聖人は公然と破られ、
肉食妻帯を断行されました。


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当然「あいつは堕落した」「戒律を破った破戒僧だ」と
非難の嵐が巻き起ころう。
だが、肉食妻帯っが十方衆生(全人類)の姿ではないか。
仏の慈悲は苦あるものにおいて偏えに重し。
欲や怒りの煩悩にまみれ、
罪の重い者ほど殊に哀れみたもうのが仏さまではないのか。
まして本師本仏の阿弥陀仏の救いに、
どうして差別があろうか。
肉食妻帯の者が助からない仏教が、
本当の仏教といえるか、
それでは誰も助からないではないか。
「弥陀の本願には老少善悪の人をえらばす」、
男も女も、在家も出家の者も、
あるがままの姿で救われるのが真実の仏教なのだ。

この弥陀の本願真実を明らかにするためならば、
どんな嘲笑罵倒も物の数ではないと、
身をもって示された破天荒の言動が、
親鸞聖人の肉食妻帯であったのです。

案の定、聖人には、仏教界は無論、
一般大衆からも「あれで僧侶か」「堕落坊主じゃ」
「仏教を破壊する悪魔の坊主だ」「仏法の怨敵じゃ」
と非難中傷が浴びせられ、
八方総攻撃の的となられたのでした。
肉食妻帯だけでなく、34歳の三大諍論も、35歳の越後流刑も、
40過ぎから20年間の関東ご布教も、
84には長子善鸞の勘当も、
疑謗の嵐の中たったお一人突き進まれた方が、
親鸞聖人であったのです。
どうしてそんなことができたのでしょうか。
普通は、周囲から非難されれば意気消沈して、
(最近の言葉でいえば)へこんだり、
閉じこもったりするはずのところ、
その勇ましいお姿は、どこから出ているのか。
本師本仏の阿弥陀如来の救いにあずかって、
大宇宙の諸仏方から、
「親鸞、あなたは広大勝解者だ」
「滅多にない白蓮華のような方だ」
と称賛されている自覚から、
迷った人間のどんな罵倒も嘲笑も、
聖人には牛の角を蚊が刺したほどにも思われなかったでしょう。


●弥陀の本願、聞き開けよ


地獄より行き場のない極悪の私が、
弥陀に救い摂られたならば、
どうして大宇宙の仏方からかくも褒められるのでしょうか。

釈迦も諸仏も、その使命は、宇宙の真理「因果の道理」を説き、
三世因果を教え、「後生の一大事」を知らせ、
その後生の一大事解決してくださる方は
本師本仏の阿弥陀仏しかないから、
“阿弥陀仏一仏に向け、本師本仏の阿弥陀仏を信じよ”と、
「一向専念無量寿仏」
を教え勧めること以外にはありません。

そのお勧めどおりに、阿弥陀仏に救われた人は、
“弥陀の弟子になった”ともいえる、
さすれば大宇宙の仏方にとっては、
まさに「我が親しき友」となるのです。
また一切経を身体で読み破った大学者(広大勝解者)であり、
それは滅多にない人(分陀利華)だと、
褒め讃えてくだされるのです。


褒められたい一杯の私たちが、
「仏さまから褒められる身になれるのだよ」
と聞けば、早くそうなりたい、と思いますね。
「親鸞と同じように、阿弥陀仏に救われてもらいたい」
これ以外に、『正信偈』を書かれた目的になかった聖人が、
「誰でも弥陀に救われたならば、
仏さまから褒められる大変な身になれるのだよ。
この親鸞と同じく、諸仏称賛の益を頂ける身に早くなってくれよ。
それには、『如来の弘誓願を聞信すれば』なれるのだから、
弥陀のご本願を聞いて聞いて聞き抜いて、
ハッキリ救い摂られるところまで進んでもらいたい」

と、必死の聞法を勧めておられるのが、
「一切善悪凡夫人(一切善悪の凡夫人)
聞信如来弘誓願(如来の弘誓願を聞信すれば)
仏言広大勝解者(仏は広大勝解者と言い)
是人名分陀利華(是の人を分陀利華と名づく)」
の4行なのです。


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心で思ったことが運命を決定づけている! [因果の道理]

 (真実の仏法を説かれている先生の書かれた「とどろき」より載せています)  

競争社会にもまれながら、
たくましく生き遂げる人、
転落の人生をたどる人。

その差はどこで生じるのでしょう。
実は、たった一つのボタンのかけ違いから
始まっているのかもしれません。

イヤなことが起きた時、
あなたは「幸せの選択」をしていますか。
それとも、「不幸の選択」を・・・。

「ボク」と弁護士の物語から、
お釈迦さまの説かれた
因果の道理」を学びましょう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

■プロローグ
「共通の特徴」

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ボクがその弁護士に出会ったのは、
ある傷害事件がきっかけだった。
当時、仕事も恋愛もうまくいかず、
やけを起こしたボクは、
若い店員の態度にカッとなり、
突き飛ばして大ケガを負わせたのだった。
相手はだれでもよかった。
ただ世間を恨み、のろっていた。
本当はボクが苦しんでいることを、
だれかに分かってもらいたかったのかもしれない。
ひとしきり事情を聞き終えた彼女は
説教するふうでもなく、こんな話をしてくれた。

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「例えば事業で借金を抱えた時、
立ち直る人と立ち直れない人には、
共通の特徴があるの。
立ち直れないのは、
『国が悪い、法律が悪い、景気のせいだ』
と不満をぶちまけるだけの人が多い。
でも立ち直る人は、そういった状況を認めながら、
では自分にできることは何か、
と次の一手を打ち始めるんです」
「ふーん・・・。
他人や世の中のせいにしないってことですか」
小さくうなずいて彼女は続けた。
「他人のせいにする。
イヤなことが起きた時、だれもが陥る思考ね。
でもその一歩が、運命の方向を決定づけるのよ。
自分でも気づかぬ最初の一歩。
けれど一度踏み出したら容易には抜け出せない、
不幸の選択を・・・。
もっとも、私もあんまり偉そうなことは言えないけど、ね」
そう言って彼女は優しくほほえんだ。
「不幸の選択?
じゃあ、そこで別の選択をしたら・・・」
「そう。運命は決して偶然に
決まるわけじゃないんです。
お釈迦さまの説かれた
『因果の道理』って知っているかしら」
ボクは首を横に振った。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
あなたが最も知りたくて、最も分からないもの、
それは「運命のしくみ」ではないでしょうか。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

一本早い電車に乗って事故に遭うこともあれば、
わずか数秒乗り遅れて命拾いすることもある。
地震で家の下敷きになる人もあれば、
慌てて飛び出し、車にはねられる人もある。
「運命のいたずら」といわれますが、
人間の運命ほど不可解なものはありません。

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どうすれば幸福な運命が得られるのか。
不幸や災いは、どうして起きるのか。
その法則を明らかにされたのが、
お釈迦さまの説かれた「因果の道理」なんです。

■因と縁が和合して果を生じさせる

「因果」とは、原因と結果ということ。
どんな小さな結果にも、必ず原因がある。
原因なしに起きる結果は、
万に一つ、億に一つも絶対にない

これはいつの時代、
いかなる場所でも変わらぬ真理であると、
お釈迦さまは教えられています。

だから何の原因もなしに結果が生じるという意味の
「偶然」や「奇跡」を仏教は認めません。

すべて必然であり、一つとして例外はないのです。
当たり前のようですが、ここは大切なところなので、
忘れないでください。
そこで、もっと詳しく、
結果の生じる仕組みを聞いてみましょう。

因果の道理は、
正確には「因縁果の道理」といわれます。

原因なしに起きる結果は絶対ありませんが、
因だけでは結果は生じません。
因に縁が結びついて、初めて結果が現れると
お釈迦さまは説かれています。


お米を例に考えてみましょう。
米はモミ種から作られますから、
米の因はモミ種です。
しかし、いくらモミ種があっても、
畳の上にまいていては何十年待っても、
米という結果は得られませんね。
土や温度、水や空気など、
いろいろな条件がそろって初めて、
お米が取れます。
仏教では、これらのものを縁といいます。

すべてのことは、因と縁が和合して、
初めて結果が現れる。

これを「因縁果の道理」といい、
「因果の道理」は縁を因に含んだ言い方なのです。

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■行為(業力)が運命をつくる

因とは、私たちの行いのことです。
「行為が運命を生み出す」

これがお釈迦さまの明らかになされた真理です。
どうして、行いが運命を生み出すのでしょうか。
その仕組みは、こうです。
行為のことを仏教では「業」といいます。
私たちのやった行為は
目に見えない力・業力となって残り、
決してなくなりません。
その不滅の業力はすべて、
私の本当の心に蓄えられる。
そして縁と結びついた時、
目に見える結果(幸・不幸)となって現れるのです。

パソコンには容量に限度がありますが、
私たちの本当の心には容量は限界がありません。

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そこに、毎日造り続けている数え切れないほどの業力が
蓄えられているのです。

この本心は、遠い過去からはるかな未来へと
流れていく不滅の生命です。
80年か100年で滅びる肉体は、
永遠の生命の流れから見れば、
滔々と流れる大河の水面にポツンと生じ、
パッと消え去る泡のようなものにすぎません。

この不滅の生命に蓄えられた業力が、
縁と結びつき、私のさまざまな運命を生み出すことを、
仏の智慧によって明らかにされたのが、
お釈迦さまです。

あなたの運命は、あなた自身の行い(業力)が
生み出したものであり、
ほかのだれが与えたものでもないのです。

■行為に三つある。
中でも重いのが「心で思うこと」

一口に「行い」といっても、
仏教では三つあると教えられます。
「身、口、意の三業」といいます。
身業とは身体でやる行い。
口業とは口で話すこと。
普通「行い」と聞いて思い浮かべるのはこの二つですね。
ところが仏教ではもう一つ、意業を教えられています。
意業とは、心でいろいろ思うこと。
これも行いであるとお釈迦さまは説かれています。
例えば、外面には出さなくても深い悩み事で
体調を崩したり、好悪の感情が相手に
伝わったりすることがあるでしょう。
「思う」ことには「力」があるのです。
しかも
仏法で最も重視するのは、
身体や口の行いよりも心の行いです。

なぜでしょうか。

心で思ったことを身体で行い、口が言う。
心はあらゆる行為の元だからです。
火事に例えれば、心が火の元であり、
口や身体は火の粉。
口や身体は心の奴隷であり、
責任は心にこそあるからです。

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心で日々思っていることこそ、
私たちの運命を大きく左右していると
知らねばなりません。

お釈迦さまは、業力は大象100頭に勝ると教えられ、
何ものもあらがえなぬ強い力だと言われました。

親鸞聖人が尊敬されている中国の善導大師という方は、
自己の「心」を凝視され、こうおっしゃっています。

一人一日のうちに八億四千の憶いあり

一日に八億四千回心が変わり、
いろいろなことを思っている。
それらすべて目に見えない業力となって、
あなたの本心におさまり、ぐいぐい、ぐいぐいと、
あなたの運命を生み出しているのです。

毎日心で何を思っているかを克明に振り返ることが、
この先の運命を知る大事な手がかりといえるでしょう。

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■イヤなことが起きた時、
他人のせいにする人はますます苦しむ

因と果について、お釈迦さまは、
善因善果
 悪因悪果
 自因自果

よい行いは、よい結果(幸せ)を、
悪い行いは、悪い結果(不幸や災難)を生み出す。
よいのも悪いのも、自分に現れる結果のすべては、
自分の行いが生み出したものである

と教えられます。
私たちは、よい結果がきた時は
「善因善果、自因自果」と素直に認められます。
では悪い結果がきた時はどうでしょう。
他因自果のように思うのは縁を恨んでいるのです。

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最初にお話した「因縁果の道理」を思い出してください。
「オレが苦しんでいるのは、あいつのせいだ」
「社会が悪い」「世間が悪い」と恨んでいる
「他人」や「世間」は全部、縁です。

もちろん悪縁を避け、改善する努力は大切ですが、
運命はあくまでも、私の行為(業力)が因となって
生み出されることを忘れてはいけません。

そうやって他人を恨み、のろっている心も
業力となってあなたの本心におさまり、

それが口や身体の行いとなれば、
その業は善いタネでしょうか。
悪いタネでしょうか。

「秋葉原で人を殺します」
6月8日、東京・秋葉原の歩行者天国で、
無差別に17人を殺傷する史上最悪の
通り魔事件を起こした犯人は、
犯行に至る心の道程をつぶさに
携帯サイトにつづっていました。
(平成20年のとどろきより載せています)
家庭環境、雇用不安、格差社会、希薄な人間関係。
さまざまに原因は論じられますが、
未曾有の凶行まで彼を引きずり込んだのは、
彼自身のつくった業力に違いありません。
苦しみを他人のせいにする。
自分でも気づかぬ最初のその一歩が、
運命の方向を決めるものです。
しかも一度踏み出したら容易には抜け出せません。

男は自分の否定的な感情や不満を、
何千と携帯サイトに書きつづり、
慰めを求めました。

ところが結果は逆。
ほとんどが無視か挑発で、心の傷口を広げ、
さらに吐いた言葉が自分を縛る。

ネットが悪縁となり、ますます孤独を深めた
彼の思考と行動はエスカレートし、
最後とんでもないところまで行き着きます。

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「惑業苦(わくごっく)」という言葉を知っていますか。
「惑い」が「業」(悪い行い)を生み、
「業」が「苦しみ」を生む。
その「苦しみ」がまた「惑い」を生み、
さらに悪の「業」を造る。
このような輪をぐるぐる回って
地獄まで堕ちていくことを
仏教で「惑業苦」と言うんです。

無差別事件に及んだ若者も、
まさに惑業苦で苦しみが増幅され、
制御不能になっていったのではないでしょうか。

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●イヤなことが起きた時、
自分を反省し行いを変える人は幸せになる

反対に、苦しみがやってきた時、
過去の己のタネまきを反省し、
行いを変える人は必ず未来が開けてくるでしょう。

言うまでもなくそれは「自虐主義」とは違います。
「全部オレが悪いんだ。オレはダメな人間だ」
と自分を責め、落ち込むことではありません。
悪いタネまきをやめ、よいタネをまいていく。
向上に努力する。
身口意の三業を前向きに転じていく。
それが自分の行いを反省し、
行いを変えるということです。

ある会社の研修では、毎日の日誌「感謝」
という二字を入れる決まりがあるそうです。
ほんのささいなことでも、毎日何かに感謝する人と、
だれかを恨み続ける人。
結果が同じはずはありません。
かりに秋葉原の犯人が、携帯サイトに毎日、
ちょっとでもいい、
前向きな言葉を書き込み続けていたら
どうなっていたでしょうか。

全く別の人生が開けていたのではないでしょうか。
あなた自身の三業、特に心の中の思いが、
あなた自身の運命を生み出しているのです。

幸せの選択をするか、不幸の選択をするか。
すべては、あなた自身にゆだねられていると
いってよいでしょう。

■エピローグ
「ありがとう」

その日から、ボクの人生は少しずつ変わっていった。
イヤなことが起きるたび、
ボクは自分の言動を振り返り、
どんな小さなことでも改善点を見つけていった。
努力することが楽しくなった。
あの時、ボクに因果の道理を教えてくれた彼女の心を、
後で人づてに聞いた。

「もちろん、失意の人を励まし、
法的に支援するのが私の大切な仕事よ。
でもね、『自分の行いが自分の運命を生み出す。
あなたの未来はあなた自身が切り開いていくんですよ

というメッセージは、
それ以上にその人を助けることになると
信じています」

ありがとう。
ボクは心の中で、何度も繰り返した。

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諸仏方はどれほど先生の阿弥陀仏を尊敬されているのか!(阿弥陀経) [経典]

大宇宙には、人間が存在する惑星は、

地球以外に、塵のごとく無数にあると説かれています。

地球にお釈迦さまが現れたように、

他の星々にも同じように仏さまが現れていますので、

ガンジス川の砂の数ほどの無数の仏さまがおられると

言われます。

その諸仏方がどれほど先生の阿弥陀仏を尊敬されているか、

阿弥陀経には説かれています。

またなぜそれほどまでに、阿弥陀仏を大絶賛なされているのか、

この記事で分かると思います。

今回はその阿弥陀経に関してです。

(下線部が阿弥陀経のお言葉です。)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

(ここからは真実の仏教を説かれている先生の書かれた「とどろき」より載せています。)

お盆の法要や葬儀でなじみ深い
仏説阿弥陀経』は、
釈迦一代の結びの経といわれ、
大宇宙の仏の本師本仏である
阿弥陀仏のことばかりが説かれています。

 

●お釈迦さまが自ら語りだされたお経

約2600年前、インドに現れられたお釈迦さま(釈尊)が、
35歳で仏という無上のさとりを開かれてから、
80歳で涅槃に入られる(亡くなる)までの45年間、
説かれた教えを仏教といいます。
その教えは、7000余巻という膨大な数のお経に
書き残されています。
これを「一切経」といいます。

お経の名前には必ず「仏説」とありますように、
仏である釈尊の説かれたものだけをお経といいます。
『仏説阿弥陀経』もその一つ。
この『阿弥陀経』の大きな特徴は「無問自説」といわれることです。
お釈迦さまのご説法は、
お弟子などの質問に答えられる形で始まりますが、

この『阿弥陀経』だけは例外で、
問わず語りに釈迦自ら語り始められたのです。

本師本仏の阿弥陀仏の本願を説くことこそが、
弟子であるお釈迦さまの出世本懐(この世に生まれてきた目的)
であったのですから、
その目的を果たす喜びのあまり、
釈迦は自ら説かずにいられなかったのでしょう。

その『阿弥陀経』の冒頭には、こう説かれています。

一時、仏、舎衛国(しゃえこく)の
祇樹給孤独園(ぎじゅぎっこどくおん)
に在して、大比丘衆千二百五十人と倶なりき(ともなりき)」

(ある時、釈尊は、千二百五十人の優れたお弟子とともに、
舎衛国<しゃえこく>の祇樹給孤独園におられました)

「舎衛国の祇樹給孤独園」とは、
中インドのコーサラ国の首都・舎衛城にあった大寺院のことで、
一般に「祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)」と呼ばれています。
ここで『阿弥陀経』をはじめ、多くの経典が説かれました。

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その時、仏、長老舎利弗(しゃりほつ)に告げたまわく、
是より西方、十万億の仏土を過ぎて世界有り、
名けて(なづけて)極楽と曰う(いう)。
其の土に仏有す(まします)、
阿弥陀と号す、今現に在して説法したまう

(その時、釈尊は弟子の舎利弗にこう告げられました。
これより西方、十万億の仏土を過ぎて極楽という世界がある。
その世界には阿弥陀仏といわれる偉大な仏さまがましまして、
今現に説法していらっしゃるのだ、
と)

お釈迦さまは、宇宙には、
この地球のようなものが数限りなくあり、
それぞれに仏さまがまします、と教えられています。

仏教では宇宙について
地球のような世界が千個集まって小千世界、
小千世界が千個集まって中千世界、
中千世界千個で三千大世界を形成している。
それらがまた無数に集まったのを、十方微塵世界
という」
と説かれています。

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これは、今日の天文学でいう宇宙観と大変似ており、
それが2600年もの古(いにしえ)に
釈迦によってすでに教えられていたことに
驚かずにおれません。
この宇宙観に基づいて、
「十億万の仏土を過ぎて、極楽という世界がある。
そこにまします仏を、阿弥陀仏といわれる」
と釈迦は説かれているのです。

●阿弥陀仏と釈迦仏の関係

阿弥陀仏とは、どんな仏さまなのでしょう。

彼の仏の光明は無量にして十方の国を照らすに
障碍する所無し、是の故に号して阿弥陀と為す

彼の仏の寿命及び其の人民も
無量無辺阿僧祇劫(むりょうむへんあそうぎこう)なり

故に阿弥陀と名く(なづく)

『阿弥陀経』には、このように阿弥陀仏は
「光明無量、寿命無量」の仏さまであると説かれています。
「光明」とは、阿弥陀仏の智慧、お力のこと。
「無量」とは無限、計り知れないことですから、
空間的無辺を表します。

阿弥陀仏の光明は大宇宙どこでも届かぬ所がない。
何ものも妨げにならないのだ
、ということです。
「寿命」とは慈悲のこと。
阿弥陀仏の命は限りがないとは、時間的無限であり、
私たちを未来永遠に救ってくださる

限りないお慈悲の仏さまであるということです。

仏と聞けば、
「釈迦も、阿弥陀仏も同じ仏だろう」
と思っている人が少なくありません。
しかし、それは大変な間違いです。
釈迦と阿弥陀仏は違う仏さまであり、
その違いを知らないと、仏さまは全く分かりませんから、
よく知っていただきたいと思います。

釈迦さまは、地球上でただお一人、
仏という無上のさとりを開かれた方
ですから、
「釈迦の前に仏なし、釈迦の後に仏なし」
といわれますが、
そのお釈迦さまが、
「私の尊い先生を紹介しに来たのだよ」
と教えてくだされたのが、
阿弥陀仏といわれる仏さまなのです。

お二方の関係について、
お釈迦さまが詳しく教えられていることを、
蓮如上人も『御文章』にこう端的に仰っています。

「ここに弥陀如来と申すは、
三世十方の諸仏の本師・本仏なり」
           (二帖目八通)

お釈迦さまは、地球上では唯一の仏であり、
最も尊い方ですが、
大宇宙には地球のようなものが無数にあり、
それらの世界には無量の仏がまします。
その仏方を総称して「十方の諸仏」といいます。

『阿弥陀経』では、大宇宙を東西南北上下の六方と表し、
それぞれの方角に、阿閦鞞仏(あしゅくびぶつ)、
須弥相仏(しゅみそうぶつ)、
大須弥仏(だいしゅみぶつ)、須弥光仏(しゅみこうぶつ)、
妙音仏(みょうおんぶつ)など、
たくさんの仏さまがましますと、
名前を挙げて説かれています。

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阿弥陀仏がそれら仏方の本師本仏であるとは、
十方(六方)諸仏の師であり先生である
、ということです。
諸仏は阿弥陀仏の弟子なのです。
地球で唯一の仏・釈尊も諸仏の一人ですから、
弥陀のお弟子です。

●釈迦出世の大目的

弟子の使命とは何でしょう?
師の御心を正確に、一人でも多く伝える以外にありません。

ゆえに弟子の釈迦が説かれた仏教は、
師である阿弥陀仏の御心一つを教えられているのです。

そのことを親鸞聖人は『正信偈』に、
こう明言されています。

「如来所以興出世
 唯説弥陀本願海」
如来、世に興出したもう所以は、
唯、弥陀の本願海を説かんがためなり

「如来」とは釈迦如来。
「釈迦が世に興出したもう所以は」とは、
「釈迦が、この地球上に現れて、仏教を説かれた目的は」
ということです。
「唯説」とは、
ただ一つのことを説かれるためであった、ということ。

7000余巻のお経、
45年間の教法と聞きますと、
「お釈迦さまはいろいろなことを、
教えていかれたのだろう」
と思いますが、そうではない。
たった一つのことなのだと、
親鸞聖人は断言されています。

一切経を99パーセント読んでも、
こんな断言はできません。
残りの1パーセントに何が書かれてあるか分からないからです。
一切経を何度も読破されての、親鸞聖人の確言なのです。

私たちは釈尊が教えられた、そのたった一つのことを聞けば、
仏教全てを聞いたことになり、仏教の全てを知ったことになる。
ゆえに釈尊のただ一つ説かれたことほどの大事はなく、
それこそが「弥陀の本願」であると、
親鸞聖人は仰っています。

●阿弥陀仏の本願

弥陀の本願とは、
阿弥陀仏の本当に願っていられる御心のことで、
それはあまりにも広大で深いので、
海に例えられ「本願海」と言われています。
釈尊45年間の教えは、
この弥陀の本願以外なかったのです。

しかも弥陀の本願一つ説かれているのは、
地球のお釈迦さまだけではありません。

大宇宙のあらゆる仏方も同様で、
それぞれの国土で、
本師本仏の弥陀の本願一つを説くことを
出世本懐(世に現れた目的)とされているのです。

だから『阿弥陀経』には、
われらが師の仏、
阿弥陀仏のご本願は真実に間違いない。
我々が保証するから早く信じなさいよ

という諸仏の言葉が説かれています。

舎利弗、我今阿弥陀仏の不可思議功徳を讃歎するが如く、
東方にも亦、阿閦鞞仏(あしゅくびぶつ)、
須弥相仏(しゅみそうぶつ)、
大須弥仏(だいしゅみぶつ)、須弥光仏(しゅみこうぶつ)、
妙音仏(みょうおんぶつ)など、
是(かく)の如き等の恒河沙数(ごうがしゃしゅう)の
諸仏有して(ましまして)、
各其の国(おのおのそのくに)に於いて、
広長の舌相を出して(いだして)あまねく三千大千世界に覆いて、
誠実(まこと)の言(ことば)を説きたもう、
汝等衆生(なんじらしゅじょう)、当に(まさに)是の
『称讃不可思議功徳一切諸仏所護念経』を信ずべしと

(舎利弗よ、この釈迦が今、弥陀の本願によってつくられた
南無阿弥陀仏の功徳の不可思議なることを説いているように、
東の方にもまた、阿閦鞞仏(あしゅくびぶつ)、
須弥相仏(しゅみそうぶつ)、
大須弥仏(だいしゅみぶつ)、須弥光仏(しゅみこうぶつ)、
妙音仏(みょうおんぶつ)、
このようなガンジス河の砂の数ほどの
無数の仏方が、
おのおのその国において、大雄弁をもって、
三千大千世界の至る所で

全ての人々よ、
まさにこの不可思議な弥陀の本願を
信ずる以外に救われる道はないのだ

と真実の説法をしておられるのだ

これは東方のみならず、南方、西方、北方、上方、下方の
六方にまします仏方が皆、
弥陀の本願まことを保証しておられることが
続いて説かれています。

これが有名な「六方諸仏の証誠(しょうじょう)」です。

先述しましたが、東西南北の四方に上方・下方を加えて
説かれる釈尊の宇宙観は、
今日、明らかになっている宇宙の構造を、
まるでご存じだったかのようです。
仏さまの深い智慧の一端が知られるでしょう。

また、その大宇宙にたくさんの仏がましますことも、
「仏々相念(ぶつぶつそうねん)」とか
「唯仏与仏(ゆいぶつよぶつ)の知見」といわれる
仏智の働きによって仏さま同士が互いに通じておられるから、
分かられたことです。

●すべての仏さまが
     たたえるのはなぜか?

その大宇宙のすべての仏方が、
「偉大な仏だ、尊い仏だ、われらの師匠である」
と褒めたたえ、
手を合わせて拝まれるのが阿弥陀仏です。

十方の諸仏方が一仏残らず褒めたたえておられるとは、
いかにすごいことでしょうか。
人間ならば、どんな立派な方でも、
万人に褒められることはないでしょう。

「過去にも、今にも、未来にも
皆にて謗る人もなく
皆にて褒むる人もなし」 (法句経)
と釈尊が仰せの通りです。

ところが仏の世界にはあるのです。
阿弥陀仏こそは、大宇宙のすべての仏方が
異口同音に褒めたたえられる最も偉大な仏さまなのです。
それは、他にない、ズバ抜けて優れたお力を
持っておられるからです。

舎利弗、彼の仏の光明は無量にして十方の国を照らすに
障碍(しょうげ)する所無し、是の故に号して阿弥陀と為す

(舎利弗よ、彼の仏の光明〈智慧・お力〉は無限であり、
大宇宙の全ての世界を照らして、妨げるものは何一つない。
無限のお力を持たれた阿弥陀仏なのである)

「光明」とは、仏の智慧を表す、とはすでに述べました。
阿弥陀仏が、諸仏に優れているのは、
実にこの無量の光明であると、
親鸞聖人は讃歎なされています。

「仏光照曜最第一
光炎王仏となづけたり
三途の黒闇(さんずのこくあん)ひらくなり
大応供(だいおうぐ)を帰命せよ」
(浄土和讃)

(阿弥陀仏の光明は最第一にして、
諸仏の光明は遠く及ばない。

その光明は三途の黒闇〈無明の闇〉を
破るお力があるから

大応供の阿弥陀仏を帰命しなさい)


最第一のお力を持たれた本師本仏の阿弥陀仏。
その光明は
「三途の黒闇(無明の闇)をひらく(破る)ことができる
ズバ抜けたお力、智慧です。

そこで諸仏方は光炎王仏とか大応供ともお呼びし、
異口同音に褒めたたえずにおれないのです。

大宇宙広しといえども、
我々の三途の黒闇(無明の闇)を破るお力は、
阿弥陀仏の光明以外にありませんから、
一切の諸仏が称讃するのです。

では、三途の黒闇(無明の闇)とは何なのでしょうか。
これは、「死んだらどうなるか分からない心」
「本当に浄土往生できるのだろうか、
暗いというか、真っ暗がりの闇の心になりますので、
親鸞聖人は「黒闇」と仰っているのです。

死は万人の確実な未来ですが、
死ねばどうなるか分からぬまま、私たちは日々生きています。
飛行機でいえば、どこへ向かって飛んでいるのか、
降りる場所もハッキリせぬまま、飛んでいるのです。
その不安をごまかそうと機内でどれだけ楽しもうとしても、
心底からの安心も満足も味わえない。
この暗い心を無明の闇といい、
全ての人の苦悩の根元であると教えられます。

そこで、阿弥陀仏は、この無明の闇をぶち破ってみせる、
と誓われ、兆載永劫という気の遠くなる長期間、
大変なご苦労をなされてつくられた
「南無阿弥陀仏」の六字の御名号を、
平生の一念に私たちに与えて、
救ってくださるのです。

『阿弥陀経』に六方(十方)諸仏の
「称讃不可思議功徳」とあるのは、
阿弥陀仏のつくられた、
その「南無阿弥陀仏」の不可思議な功徳を、
すべての仏方が褒めたたえている
、ということなのです。
その諸仏称讃の名号(南無阿弥陀仏)を、
私たちが受け取った一念に救われることを、

聞其名号(其の名号を聞きて)
信心歓喜(信心歓喜せんこと)
乃至一念(乃至一念せん)
          (大無量寿経)
と説かれています。

この弥陀の本願のとおりに南無阿弥陀仏を信受し、
救われたならば、
無明の闇が破られ、後生明るい心になります。
いつ死んでも弥陀の浄土、
限りなく明るい無量光明土に生まれることが
ハッキリいたしますから、
これを「往生一定」というのです。
「往生」とは、この世終わると同時に、
弥陀の浄土に往って、
弥陀同体の仏に生まれることです。
それがはっきり定まったのが「一定」。
最高に素晴らしいところに往けることが、ただ今、
決定いたします。
生きてよし、死んでよし、
いつでもどこでも大安心、
大満足の絶対の幸福で、
この世を生き抜くことができるのです。

「全ての人よ、一日も片時も急いで、
弥陀の本願を信じ、
この無上の幸福に救われてもらいたい」
大宇宙の諸仏方が保証人になって、
阿弥陀仏の本願が真実であることを証明されたのが
『仏説阿弥陀経』なのです。


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死が恐ろしいとは思えない!? [なぜ生きる]

(問) 死が恐ろしいとは思えない

一度は死ななければならないことは分かっていますが、
僕は死ぬことがそんなに恐ろしいとは思えないのです。
だから後生の一大事ということが分かりません。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

(答)

 かつて滅亡寸前の南ベトナムの指導者であったグエン・カオ・キが、
「最後の一兵まで、祖国を死守せよ」
と絶叫しながら、
燃えさかるサイゴンを尻目に米空母へ逃げ込んだとき、
「逃げた男を叱った男が、逃げて来たよ」
とアメリカ人に笑われました。
その後、彼はアメリカで酒屋のおやじをしていたそうです。
日本でも例外ではありません。
あの有名な特攻隊を送り出した将軍が、
自分で転任令を書いて逃げ帰った例もあります。
あるガンの専門医は、
「不治のガン患者には、ガンであることを本人にも家族にも
知らせずにおくと、5年以上生きられるが、
家族だけに知らせても生きる期間は2年は縮まる。
それが本人にも知らせると、一年も生きる人は少ない」
と報告しています。
戦場とか大ゲンカで極度に興奮している時は、
案外、平気で死ねるようにみえますが、
そんな感情は続きません。

●あの大石も死を恐れた!?

あの忠臣蔵の大石内蔵助が切腹の時、
腹を開き短刀は握ったが、
手がふるえて腹に突き刺すことができなかった。
介錯人が見るに見かねて、
彼の輝かしい名声を傷つけまいと、
大石の切腹の前に首をはねた、と伝えられています。
「手を一つ 打つにつけても 
討つという 敵のことは 忘れざりけり」
の執念が実って、吉良邸に討ち入った時の内蔵助には、
死は眼中になかったかもしれませんが、
そのような激情は永く続くものではありません。

●人間最大の悲劇

シェークスピアは『尺には尺を』の中で、
「死ぬのは、こわいことだ」
と、クローディオに叫ばせ、
ユーゴーは、『死刑囚最後の日』の中で、
「人間は、不定の執行猶予期間のついた死刑囚だ」
と言っていますが、
すべての人間の最大の悲劇は、
遅かれ早かれ死なねばならないところにあるということでしょう。
「今までは
他人のことぞと 思うたに
オレが死ぬとは こいつぁたまらぬ」
と言って亡くなった医者があったといいます。
自己の死は動物園で見ていた虎と、
ジャングルの中で出会った虎ほどの違いがあるのでしょう。

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「忘れていた、忘れていた、
やがて死ぬ身であることを・・・」
と呟き、死んだ文豪もあったと聞きます。
人間はみな死ぬ。
しかし、すぐに死ぬとは誰も思っていません。
それは本当に自分が死ぬとは思われないということでしょう。
だから、どれほど想像力をたくましくしても死の実態は、
死の直前まで目隠しをされているのです。

その目隠しをはずされた時は目隠しされていた時の、
それどころではないでしょう。
平生に弥陀の光明に照育されなければ、
後生の一大事は分からないことなのです。


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釈迦の本意を明らかに [親鸞聖人]

2600年前、釈尊は、全人類の救われる道を、
説き明かされていかれた。
それが、仏教である。
その釈尊の本意を明らかにされた方が、
日本にお生まれになった親鸞聖人である

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仏教にはいろいろな宗派があります。
浄土真宗もその一つで、
親鸞聖人が独自に解釈し、
作られた教えだろうと思っている人が、
世間には少なくありません。

しかし、聖人は常にこう仰せであります。

更に親鸞珍しき法をも弘めず、
如来の教法をわれも信じ人にも教え聞かしむるばかりなり

「更に親鸞珍しき法をも弘めず」
とは、
「親鸞は、今まで誰も教えたことのない新しい、
珍しい教えを伝えているのではない」
ということです。
では、誰の教えを伝えられたのか。
「如来の教法をわれも信じ人にも教え聞かしむるばかりなり」
と言われています。
「如来の教法」とは、
約2600年前、インドに現れた釈迦如来(お釈迦さま)の教え、
仏教のことです。
その釈迦如来の教えを自らも深く信じ、
皆さんにも伝えているだけなのだと仰っています。

お釈迦さまの教えを、私見を交えず、
そのまま伝えていかれた方だったことが分かります。

では、お釈迦さまの教えとはどんな教えでしょうか。
それは、全人類の救われるただ一本の道を、
説き明かされたものでした。

お釈迦さまは、一国の王子シッダルタとして生まれ、
29歳で城を出て、修行のために山へ入られた。
地位や財産、名誉など、全てを捨てての出城でした。
なぜ、独りご修行なされたのでしょう。

●逃げられぬ4つの苦しみ

お釈迦さまは、人生には、逃れられぬ4つの苦しみが
あることを知られました。
その4つとは、生苦・老苦・病苦・死苦。

まず生苦
人は、生きるために衣食住を求め、
嫌でも毎日歩かねばならない。
今日一日生きるのも、簡単ではありません。
若い時はどんなに頑丈で美しい肉体も、
だんだんと容姿や体の機能が衰え、
自分の体が自分で思うようにならなくなるのが老苦です。
次に病苦
風邪や肺炎、糖尿病、心臓や腎臓病など、
体一つで幾千の病と闘わねばなりません。
治っても、また別の病に苦しみます。
最後に死苦
死ぬほどつらいことはない。
地震や津波、エボラウイルスなどの対策に懸命なのは、
誰しも死にたくないから。
しかし、人は100パーセント死なねばなりません。
宝くじを当て、マイホームを建てた喜びも、
死の前には無力です。
人は皆、苦を厭い、幸せを願いながら、
苦しみから逃れられず、得られた幸せも、
老いと病、ついには死によって総崩れになってしまいます。

この万人の生死の大問題を解決し、
本当の幸せになる道を、釈迦は求められたのです。

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●すべての人の救われる道

仏覚をさとられたお釈迦さまは、
どうにもならぬ苦悩の人生を、
必ず絶対の幸福に救う、阿弥陀仏という仏の本願があると、
教えられました。

この釈迦一代の教えを記された一切経を、
何度も読み破られた親鸞聖人は『正信偈』に、

如来(釈迦)世に興出したまう所以は、
唯弥陀の本願海を説かんとなり

と説かれています。
釈迦如来がこの世に生まれ、
仏教を説かれた目的は、
阿弥陀仏の本願一つを説かれるためであった、
との断言です。

この阿弥陀仏の救いを、親鸞聖人は、
“苦海の人生に大船あり”
と教えられました。
大船とは、阿弥陀仏の本願のこと。

お釈迦さまの本意を明らかになされたのが
今日「世界の光」と仰がれる親鸞聖人だったのです。


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阿弥陀仏の救いはだれのため? [人間の実相]

(真実の仏教を説かれている先生の書かれた『とどろき』から載せています。)


苦しみの人生を明るく楽しく渡す大船あり

  どんな人を救う、といわれるのでしょう

 

私たちの人生の目的を親鸞聖人は、

主著『教行信証』冒頭に明示されています。

 

難思の弘誓は難度の海を度する大船

苦しみ悩みの波が絶えない人生の難度海で

溺れる私たちを、明るく楽しく渡す大船あり

 

と聖人は断言なされています。

聖人の仰るとおり、人生には苦しみの波が絶えません。

一つの苦しみを乗り越えても、

また煩わしい悩み事がやってくる。

どれだけ乗り越えても、キリもキワもありません。

そんな苦しい人生の苦海を、

明るく楽しく渡す大船がある、

その船こそが阿弥陀仏の本願(お約束)だと

教えられています。

 

では、阿弥陀仏はどんな人を救うと仰せなのでしょうか。

有名な『歎異抄』第一章に、こう書かれています。

 

罪悪深重・煩悩熾盛(しじょう)の衆生を

たすけんがための願にてまします

 

煩悩の激しい、最も罪の重い極悪人を

助けるために建てられたのが、

阿弥陀仏の本願であると言われています。

 

●欲・怒り・愚痴

    煩悩具足の者とは?

 

仏教では、人間のことを「煩悩具足の凡夫」とか

「煩悩熾盛(しじょう)の衆生」といわれます。

「煩悩」とは、私たちを煩わせ、悩ませ、

罪を造らせるもので、各人に百八つあると教えられます。

毎年、年の瀬に突く百八つの除夜の鐘。

梵鐘の音が聞こえてくると、静かに自身を振り返り、

しばし清らかな心になるような気がしますね。

煩悩で造った罪悪を少しでも消せるように思って

鐘を突いているのでしょう。

罪悪を消し、来年こそは煩い悩んで悪を造らぬようにと、

新たな年の幸せを願います。

その百八つの煩悩の中でも、

特に代表的なものを三毒の煩悩といわれます。

毒とあるように恐ろしいもので、

貪欲(とんよく)・瞋恚(しんい)・愚痴の三つです。


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●底が知れない欲の心

 

まず「貪欲」とは、欲の心です。

食欲・財欲・色欲・名誉欲・睡眠欲の五欲があります。

食欲とは、食べたい飲みたい心。

豚や牛など肉好きな人は多いでしょう。

彼らは私たち人間に食べられるために生まれてきたと

言う人もありますが、

それは人間の勝手な都合で、動物たちは、

決して私たちに食べられるために

生まれたのでも、生きているのでもありません。

子供の頃、近所に種牛が飼われていた。

時折見に行くと、母牛にくっついて動く

愛らしい子牛の姿が見える。

ところが生まれて三ヶ月ほどたつと子牛は、

母牛から引き離されトラックで市場へ運ばれる。

売られて、食肉となるのです。

引き離される母子が鳴き続ける声が、

耳に響きました。

私たちの食卓には届かぬ痛ましい叫びですが、

生きるためとはいえ、日々、人間は食欲で

罪を造っているのです。

財欲は、一円でもお金が欲しいと思う心です。

勉強をするのも働くのも、貧乏暮らしはイヤ、

少しでもいい生活がしたいと思うからでしょう。

遺産相続で、兄弟や親戚など骨肉相食む争いも

財欲によって引き起こります。

法に従って均等に分けようとしても、

いざ家や土地、宝石や車など、

兄弟や子供が、誰が何をどれだけもらうかという相談になると、

身内を蹴落とす恐ろしい心が頭をもたげてきます。

「兄さんは、実家に住んで家賃が要らないのだから、

私はあの土地をもらってもよいでしょう」

「親の介護をして最後まで面倒を見たのは私たち。

葬儀も出した。

当然それだけのお金もかかっているのだから、

土地は均等に分けるのが筋だろう」

兄弟の伴侶や子供も加わり、

皆少しでも財産が欲しいとケンカをし、

その調停に何年もかかるケースもあります。

そのうちに相続人の兄弟が死ぬと、

悲しむどころか、自分の取り分が幾らか増えるかと

心が動く。

「あらおかし 喧嘩の種を かき集め」

子供を幸せにしたいと、かき集めた財が、

ケンカの種になろうとは。

「児孫のために美田を買わず」(西郷隆盛)

の言葉にうなずくばかりです。


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名誉欲とは、他人からよく思われたい心。

有能だ、きれいだ、若いと言われたい、

バカだと思われたくない、ミスの指摘や欠点・悪口を

言われると面白くない心です。

よく思われるためなら、ウソも平気で、

詐欺の犯罪まで犯すことさえあります。

色欲とは、男女間の欲。

好きな相手を思って煩い悩み、

諦めきれずにストーカー行為に及んで、

トラブルになる事件がよく報じられます。

心の底から突き上がってくる己の欲望に支配され、

相手の迷惑も考えられぬほど、

一方的に舞い上がってしまうのでしょう。

睡眠欲とは、少しでも寝ていたい、楽したい心です。

お金は欲しいが働きたくない。

皆から褒められたいが、努力はイヤ。

どうすれば、楽して豊かになれるかと、

ウの目タカの目で探しているのではないでしょうか。

 

●イライラ腹立てる怒りの心

 

これら、欲の心が邪魔されると出てくるのが

怒りの心「瞋恚(しんい)」です。

私たちは、思いどおりに事が運べば機嫌よく過ごせますが、

現実は欲が満たされないことが多いので、

イライラと面白くない。

常に怒りの炎がチラチラ燃えて、

いったんカッと腹が立つと炎上し、

理性も教養も焼き尽くしてしまいます。

6月下旬、大阪西成区でワゴン車を暴走させ

6人をはねた32歳の容疑者は、

離婚したばかりと報じられました。

家庭の中で傷つけ合い、思うようにならぬ現状に、

自暴自棄になったのでしょうか。

一瞬の怒りは、命も殺(あや)める恐ろしい心です。


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●ねたみ、そねみの愚痴

 

愚痴」とは、妬(ねた)み、そねみ、恨み、憎しみの心。

遠方に住む人を見ても起きませんが、

近くに自分より優れた人がいるとしゃくに触る。

勝るを妬む心が起きてくる。

あいつミスしないかな、事故にでも遭ってくれと、

ライバルの不幸を望む恐ろしい心です。

人間は、これら煩悩の塊だから「煩悩具足の凡夫」

といわれます。

凡夫とは人間のことで、煩悩百パーセント、

煩悩に目鼻をつけたものが私だ

ということです。

先の『歎異抄』に「煩悩熾盛の衆生」とあるように、

煩悩の炎が常に燃え盛っているのが私の姿なのです。

 

●煩悩100パーセントと思えるか

 

ここまで読まれれば、なるほど、

自分にも欲や怒り愚痴の心があるなぁと

自覚されるでしょうが、

煩悩百パーセントとか、常に燃え盛っているとは、

毛頭思えないでしょう。

しかし聖人は、全ての人の「煩悩具足」の姿を、

こうも仰っています。

 

『凡夫』というは無明・煩悩われらが身にみちみちて、

欲もおおく、瞋(いか)り腹立ち、

そねみねたむ心多く間(ひま)なくして、

臨終の一念に至るまで止(とど)まらず消えず絶えず

              (一念多念証文

 

無明・煩悩で、煩悩のこと。

人間には、欲や怒り、妬みそねみの心がみちみちている。

百パーセント煩悩で、死ぬまで静まりもしなければ

減りもしない。

もちろん断ち切れるものでは絶対にない

と仰せです。

こんな煩悩の塊ですから、生まれてから死ぬまで

煩い悩み、罪を造って苦しんでいるのです。

 

●「われ一人助けん」

  立ち上がられた仏は?

 

そんな私たちを、慈悲の塊である仏さま方は、

何とか救ってやりたいと、願いを起こされましたが、

煩悩具足、罪悪生死の凡夫の私たちを救うことは、

とてもできないと、見捨てて逃げられた。

しかし、ただ一仏、

「われ一人助けん」

と立ち上がってくだされたのが、

大宇宙の仏の本師本仏である阿弥陀仏なのだと、

お釈迦さまは説かれています。

阿弥陀仏は、

「煩悩百パーセント、罪悪の塊の悪人を、

必ず絶対の幸福に救ってみせる」

と命を懸けて約束なされています。

これを阿弥陀仏の本願といいます。

蓮如上人は、この弥陀の誓いを『御文章(御文)』に、

次のように教えられています。

 

「弥陀仏の誓いましますようは、

『一心一向にわれをたのまん衆生をば、

如何なる罪深き機なりとも救いたまわん』

といえる大願なり」

 

阿弥陀仏を信ずれば、

どんな悪人も必ず救われるのだと断言されているのです。


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親鸞聖人は、弥陀の救いにあわれて知らされた

ご自身の姿をこのように仰っています。

 

いずれの行も及び難き身なれば、

とても地獄は一定すみかぞかし」(歎異抄

 

この地獄しか行き場のない私を、

必ず往生浄土の身、今死んでも間違いなく

極楽浄土に往生できる身にしてみせるというのが

弥陀の本願です。

阿弥陀仏が「そのまま救う」と約束された私たちの、

欲・怒り・愚痴の煩悩具足の実態は、

仏法を聞かねば、絶対に知ることはできません。

近すぎる自分を見るには、鏡を使うように、

真実の自己を知るには、真実の私を映す鏡、

法鏡によらねばならないのです。

法(真実)の鏡である仏法を真剣に聞くよりほかに

道はありません。

「仏法は聴聞に極まる」蓮如上人

よくよく聞法し、本当の自分の姿を知らされ、

弥陀の救いにあわせていただきましょう。

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無常こそ阿弥陀仏に救われる縁となる! [なぜ生きる]

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読者の皆さんからのアンケートによると、
伴侶や肉親、友人知人の無常が本誌購読のきっかけ、
という方が大変多く見られます。

「年を重ねていく自分。
母、弟と死別した悲しみや、二人はどうしているかという心配、
自身が来世に旅立つ不安がありました」
           (愛知県 60代女性)
無常を観じ、人生の意義や自身の未来を思うのは、
まことに人間らしい心だと仏教では教えられます。

今回は、まず、わが子との痛切な別離を乗り越え、
人生の喜びを見いだした読者を紹介しましょう。

●「あの子が身をもって
       導いてくれた」
     愛息との突然の別れ

石川県かほく市の黒田まゆみ(仮名)さんは、
10年前、最愛の子息を15歳で亡くしました。
「今でも毎日、息子のことを思っています。」
と述懐する別れとは、どんなものだったのでしょうか。

異変は突然訪れた。
中学3年の秋、部活動を引退し、
受験を目前に控えた長男は、原因不明の熱が続いていた。
数日前の遠足の疲れでも残っているのか。
近所の医院を受診すると、すぐに金沢の大学病院を紹介された。
それほど重症とは思えないし、サッカーで鍛えていたから、
大したことはないはず。
だが検査後、すぐに入院を促す連絡が来る。
血液検査の数値が異常に高いと医師は、
難病とすぐ分かる病名を告げた。
それからは、アッという間の出来事だった。
入院して2日目まで意識があったが、
その後、昏睡状態に。
心臓の鼓動は徐々に弱まり、心の準備も最後の会話もできぬまま、
10日後、息を引き取った。
「なぜもっと早く気づいてやれなかったのか」
悔やみ切れず、自らを責める。
勉強もサッカーも、あんなに努力して、
頑張っていたのに、なぜこんなことに・・・
深い悲しみに暮れた。
せめてもの供養にと、毎日読み始めたのが親鸞聖人の『正信偈』だった。
仏縁深い家庭で、祖母の勤行の声を聞いて育ったからだろう。
息子を思い、そうせずにはおれなかった。


●『なぜ生きる』
  タイトルに引かれ


心の傷は癒えぬまま、数年後、
今度は自身が病に倒れた。
安静を余儀なくされ、病室で過ごす毎日、
心は優れず、“やがて散りゆく命、何のために生きていくのだろう”
の問いが胸につかえていた。
そんな黒田さんに年若い主治医が、
「本でも読まれませんか」
と持ってきた書物の中に、
なぜ生きる』のタイトルがあった。
心引かれ、“ぜひ読みたい”と手に取ると、
中には、幼少時から親しんだ親鸞聖人の教えが詳しく説かれていた。
続いて『歎異抄をひらく』を手にする。
『歎異抄』がどんな書物かも知らなかったが、
これも親鸞聖人の教えであり、
「生きる意味」が教えられていることに驚いた。
一層詳しく聞きたいと、退院後、勉強会に参加し、
どんな人も救われる弥陀の本願を知らされた。
「息子が身をもって仏法に導いてくれたと思います。
あの子のためにも真剣に求めたいと思っています」

●真の人生の意義とは

夢の世を
あだにはかなき 身と知れと
教えて還る 子は知識なり

(知識・・・弥陀の本願を伝える教師)
愛し子に先立たれた悲嘆を勝縁に、
人生の意味を問い、
仏法を求めて救われてみれば、
夭逝のわが子は善智識である
、と歌っています。
古来、逆縁に泣く親は数知れず、
日本を代表する哲学者・西田幾多郎もその一人でした。
『我が子の死』という随筆に、
愛娘との永久の別れが述べられています。
「今年の一月、余は漸く六つばかりになりたる己が
次女を死なせて(略)
この度生来未だかつて知らなかった沈痛な経験を得たのである。(略)
特に深く我心を動かしたのは、
今まで愛らしく話したり、歌ったり、遊んだりしていた者が、
忽ち消えて壺中(こちゅう)の白骨となるというのは、
如何なる訳であろうか。
もし人生はこれまでのものであるというならば、
人生ほどつまらぬものはない、
此処には深き意味がなくてはならぬ、

人間の霊的生命はかくも無意義のものではない。
死の問題を解決するというのが人生の一大事である、
死の事実の前には生は泡沫の如くである、
死の問題を解決し得て、始めて真に生の意義を悟ることができる

では、真の人生の意義とは何か。
その答え一つを説かれたのが、実に仏教なのです。

今回はそれを、室町時代の蓮如上人が書かれた
白骨の御文章(御文)』に学びましょう。
まずは全文を拝読します。

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冒頭の一文、
それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、
凡そはかなきものは、この世の始中終、幻の如くなる一期なり

からお聞きしましょう。

●苦しみ漂う人生

まず“人間の浮生なる相をよくよく見てみると
と仰っています。
「浮生」とは「浮いた生」と書くように、
水面に漂う浮草のような一生のこと。
人間の実相をこう表現されているのです。
どこから来て、どこへ行くのか、
生きる意味も分からぬ根無し草。
何を手に入れても、どこかしら不安で、
私たちはひょうたんの川流れのように根拠のない生を、
フワフワと日々、過ごしているのではないでしょうか。


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気楽な人生はどこにもなく、皆、生きることに必死です。
果たしてどこへ行くのでしょう。
全国紙の人生相談には毎日、
さまざまな人生模様が描き出されています。
“50代のシングルマザー。
寄り道して仕事の帰りが遅くなると、
同居の母が嫌味を言う。母から自由になりたい。”
“40代主婦。幼少時から人見知りの激しい中3の次男が、
学校に行きたがらない。
高校受験も近いのにどうしたら・・・”
など、人の数だけ苦悩があることが知らされます。
50代の独身女性からはこんな相談も。
「母と弟を相次いで亡くし、一億円以上の遺産を相続した。
だが大金を得たと喜ぶより、
人生の指針を失ったように感じて戸惑っている。
どんな心持で暮らせばいいのですか」
“私なら諸手を挙げて歓迎するのに”
と思う人も多いでしょうが、大枚を手にすれば、
自身も周囲も平常心ではいられない。
好事魔多しで、思いもかけぬ事態に襲われることもある。
宝くじの高額当選で人生を誤る人が多いのも、
生きる目的が分からず、本当の金の使い道を知らないからでしょう。

続いて、
凡そはかなきものは、この世の始中終、
幻の如くなる一期なり
」。

「始中終」とは始め、中、終わりのこと。
人生まだ始まったばかり、と思っていたのが、
すぐに中程に差しかかり、あれよあれよと終盤へ。
人の一生は幻のようだ、と仰せです。


40代男性の、こんなつぶやきがありました。
「10代の頃、応援していた同い年の女性アイドルが、
久しぶりにCM出演していたので、
オッと思って見てみると、なんと<白髪染め>のCM。
そうだよな、彼女もデビュー30年。
気だけは若いけど、オレも・・・」



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●夢の如く過ぎ去る時間

「一生過ぎ易し」
人生の速さを、古今の人々はさまざまに表現しています。
有名な能の『邯鄲』は中国の古典に題をとった演目。
「一炊の夢」ともいわれる故事です。

田舎の青年・盧生が人生に迷い、
有名な僧侶を訪ねて教えを請おうと旅に出た。
途中、邯鄲という町の宿屋で休憩していると、
女主人が仙人からもらったという枕を出して、
粟の炊ける間に一休みするように勧めた。
やがて、眠りかけた盧生を楚国の役人が迎えに来る。
どうしたわけか、帝が彼に譲位したいという。
驚きつつも彼は王位に就く。
有為転変も味わいながら、栄耀栄華を極め、
気づけば50年の歳月。
波乱万丈の一生だったなあ、と思ったその時、
女主人に起こされた。
粟飯がようやく炊き上がったということだった。

●終幕・・・・・行く道

我や先、人や先、今日とも知らず、
明日とも知らず

5月下旬、俳優の今井雅之さんが54歳の若さで亡くなりました。
演劇に情熱を傾け、男気ある言動が人気でしたが、
死の一カ月前、ガン闘病を告白する記者会見には、
やせ衰えた彼の姿が。
かつての精悍な風貌は消え、人前もはばからず
「悔しい、悔しい」と涙を流すインタビューが胸を打ちました。
若い終幕に惜しむ声は絶えませんが、
遅かれ早かれ、皆行く道であります。
しかも人間は貪欲(欲)、瞋恚(怒り)、愚痴(ねたみ、そねみ)
の三毒の煩悩にまみれ、生きるためとは言いながら、
数限りない殺生を繰り返している。
誰もが抱え切れぬ悪業を背負って生きているのです。

人生、夢幻の如し。
「朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり」
と知らされれば、
「私の後生はどうなるのか?」
と問わずにおれなくなるのです。


●弥陀を一心にタノメ

この『御文』の最後に、
誰の人も、はやく後生の一大事を心にかけて、
阿弥陀仏を深くたのみまいらせて、念仏申すべきものなり

と、蓮如上人は、真の生きる目的を教えられています。
「誰の人も」とはすべての人のこと。
「はやく」は、明日なき命の私たちだから、
一日も片時も急げと言われています。
「後生の一大事」とは、生ある者、必ず死す。
死んでどこへ行くのか、ハッキリしないこと。
後生とは無関係な人は一人もありません。
万人共通の一大事であり、
これを生死の一大事ともいいます。

この生死の一大事を解決し、
「どんな人も、必ず極楽浄土に往生させてみせる」
と誓われているのは、大宇宙最高の仏さま、
無上仏ともいわれる阿弥陀仏だけなのです。


その阿弥陀仏の誓いを、蓮如上人はこう教えられています。

弥陀仏の誓いましますようは、
『一心一向にわれをたのまん衆生をば、
如何なる罪深き機なりとも救いたまわん』
といえる大願なり
」    (御文章二帖目九通)

「すべての人よ 一心に我をたのめ
どんな悪人も
必ず絶対の幸福(往生一定)に救い摂る」

との偉大な誓願であります。
蓮如上人が『白骨の章』の最後に
「阿弥陀仏を深くたのめ」
と言われているのは、私の生死の一大事は、
この阿弥陀仏の本願によらねば救われないからなのです。

弥陀たのむ一念に往生一定、絶対の幸福に救い摂られたならば、
来世は必ず極楽浄土に往って、
弥陀同体の仏に生まれることができる。

これこそ人界受生の本懐(人生の目的)なのだから、今、
真剣に仏教を聞けよ、と教導されているのです。


●タノム=あてにする 力にする

では肝心の「弥陀たのむ」とはどんなことか。
蓮如上人の『御文章』には、至る所に
「弥陀をタノメ」
「弥陀をタノム」
と仰っています。
これは大変重要な、しかも誤解されているお言葉です。
「弥陀をタノメ」
「弥陀をタノム」
「弥陀をタノミ」
をほとんどの人は、他人にお金を借りに行くときのように頭を下げて、
「阿弥陀さま、どうか助けてください」
とお願いすることだと思っています。
ところが蓮如上人の教えられる
「弥陀をタノメ」
は、全く意味が異なりますから注意しなければなりません。
古来、「タノム」という言葉に「お願いする」
という祈願請求の意味は全くありませんでした。
今日のような意味で、当時、
この言葉を使っている書物は見当たりません。

それが「お願いする」という言葉に使われるようになったのは
後世のことなのです。

「タノム」の本来の意味は、
「あてにする、憑(たの)みにする、力にするということ。

蓮如上人の仰る
「弥陀をタノム」
は、阿弥陀仏をあてにする、憑みにする、力にする、
という意味なのです。

もし蓮如上人が
「阿弥陀仏にお願いせよ」
と仰ったのなら、
「弥陀にタノム」
と書かれるはず。ところがそのような
『御文章』は一通もありません。
常に
「弥陀をタノメ」
「弥陀をタノム」
「弥陀を」と仰って、「弥陀に」とは
言われていません。これらでも明らかなように、
「弥陀をタノメ」
「弥陀をタノム」
は、祈願請求の意味ではないのです。

浄土真宗で「タノム」を漢字で表す時は、
「信」とか
「帰」で表します。
「信」はお釈迦さまの本願成就文の「信心歓喜」を表し、
「帰」は天親菩薩の『浄土論』の「一心帰命」を表したものです。
阿弥陀仏に信順帰命したということは、
弥陀の本願が「あてたより」になったことです。
ゆえに親鸞聖人は、

「本願他力をたのみて自力をはなれたる、
これを『唯心』という」    (唯信鈔文意)

(本願他力があてたよりになって、
自力の心のなくなったのを、唯心という)

と仰せになっています。蓮如上人も、
「一切の自力を捨てて、弥陀をタノメ」
と仰っています。
「弥陀をタノメ」
とは、自力の計らいを捨てよということです。
一切の計らいが自力無功と照破され、
「弥陀の五劫思惟は私一人のためだった」
と明知したのを、
「弥陀をタノム」
と言われているのです。


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蓮如上人の
「自力を捨てて、弥陀をタノム」
は、曠劫流転の迷いの打ち止めであり、
他力永遠の幸福に輝くときです。
だから他力になるまで他力を聞くのだと教えられています。
弥陀の救いは「聞く一つ」。
弥陀をタノム一念に本願を聞きひらいて、
往生一定の身にさせていただきましょう。

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やがて死ぬのになぜ生きる? [なぜ生きる]

 (真実の仏法を説かれている先生の書かれた「とどろき」より載せています)

人生の「最優先」は何か

愛読の皆さんに、本誌を手に取ったきっかけを聞くと、
大切な人との死別が多いことに気づかれます。
永年連れ添った伴侶や肉親の死に
触れた驚きと悲しみからでしょう。

誰人も「諸行無常」の実相と無縁ではないのだと
知らされます。
毎日飛び込んでくる種々の訃報(ふほう)は、
「人生は有限だ。今、何をなすべきか」
と私に問う警報に違いありません。

今回は、“無常を見つめて生きよ”
と勧められるご教示をお聞きしましょう。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「無常を観ずるは
      菩提心の一(はじめ)なり」
        死を見つめて大事を知る

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
明るい人生を望み願い、
「暗い死のことなんて考えたくない」
と思っている私たちに、
「無常を観じよ」と仏教は教えられています。

突然襲う
  大切な人との別れ

突然の伴侶の死を、北海道の70代男性は、
こう述懐しています。

その日、カラオケのレッスン中だった妻は、
課題曲を歌い終わった瞬間、
その場に倒れ、救急車で運ばれました。
クモ膜下出血で、意識が戻らぬまま、
数日後に亡くなったのです。
あまりに突然のことで、
何が何やら分からない。
何もしてやれなかった反省と
後悔の念ばかりが湧いてきました。
供養するにはどうすればいいのか、
と思い、『正信偈』を読むようになりました。
毎日拝読していると
“どんなことが書かれているのだろう”
と知りたくなりました。
しかし、どこで尋ねても分からず、
チンプンカンプン。
どうにか模索しながら新聞を見ていると、
一枚のチラシが目に留まったのです。
『とどろき』の勉強会の案内でした。」

数十年間、当たり前にそばにいる妻や夫は、
親兄弟よりも長く時を共有しています。
そんな大切な人を亡くした喪失感は、
味わった人にしか分からないものでしょう。
思い返せば、もっと何かしてやれたのでは、
の思いばかりがあふれます。
残された自分は何ができるか、
どうすればいいのか。

「勉強会で、なんと『正信偈』には
人間として生まれてきた目的が教えられていることを
知ったのです。
勤行(おつとめ)をするのは、
供養のためではなく、
生きている自分のためであった、
と知らされました。
亡き家内が身をもって無常を伝え、
残された私を正しい教えに
導いてくれたとしか思えません。
この道を進むことを
妻は喜んでくれていると思います」

『正信偈』の冒頭に親鸞聖人は、
帰命無量寿如来
南無不可思議光」
と、ご自身が阿弥陀如来に明らかに救われたことを
宣言されています。

弥陀に救われ、絶対の幸福になった表明であり、
これはすべての人の生まれてきた目的であるから、
あなたも早く達成しなさい、

と『正信偈』の最後に、

道俗時衆共同心
唯可信斯高僧説

すべての人よ、一刻も早くこの親鸞と
同じ心に救われてもらいたい。
それには正しく弥陀の本願を伝えられた
高僧方の教えを真剣に聞き信じなさいよ

と結んでいられます。

菩提心が
   人生を豊かにする

昨年、お姉さんと死別された広島県の50代女性は、
こうつづられています。

病気と縁のなかったような姉が入院したと電話があり、
その6時間後に危篤の知らせ。
病院に駆けつけた時は意識はないまま、
4時間後に亡くなりました。
蓮如上人の『白骨の章』の『朝(あした)に紅顔あって
夕(ゆうべ)には白骨となれる身なり』さながらでした。
一年たちましたが、姉のいない寂しさ、
悲しさで苦しんでいます。
姉は、56歳でした。
3月号で藤づるの絵と釈迦の説かれた
人間の真実を知りました。
なぜ仏教を聞かねばならないか、
人間の問題がこの絵で理解できました。
姉が、仏さまのことを聞かせてもらえ、
と私に働きかけてくれている気がします。

蓮如上人は有名な『白骨の御文章』に
命のはかなさを切々と述べられ、

誰の人も、はやく後生の一大事を心にかけて、
阿弥陀仏を深くたのみまいらせて

真剣に阿弥陀仏の救いを求めなさいと
教えられています。

このように今晩とも知れない命だと
無常を見つめることを仏教で「無常観」といいます。

古来、
無常を観ずるは菩提心の一(はじめ)なり
といい、
諸行無常の現実をありのままに見よ。
はかない世と知らされ、必ず、
「この一瞬の人生、やがて死ぬのになぜ生きる?」
生まれてきた意味や、
永続する幸せを求めずにおれなくなる。
その心を「菩提心」といい、
これが人生を真に豊かにする
大切な心だと教えられています。

●人生観を揺さぶる大事

仏教を説かれたお釈迦さまでも、
親鸞聖人はじめ、歴代の善知識方も皆、
ご自身に起きた種々の無常か、
自己の罪悪を縁に菩提心を起こし、
仏門に入られている方ばかりです。

生老病死の逃れられぬ四苦に驚かれ、
どうすれば解決できるかと、
入山学道の身となられたのが
お釈迦さまでありましたし、
幼くしてご両親と死別され、
「次には自分が死ぬ番だ。死ねばどうなるのか」
と大きな疑問を抱かれ、九歳で出家されたのが
わが祖師・親鸞聖人でした。

肉親や大切な人の死という現実を目の当たりにした時、
誰もがそれまでの人生観を根底から崩されます。

心の傷を癒す時間や慰めが、
必要になることもあるでしょう。
しかし、いつまでもクヨクヨしてはおれません。
悲しみから立ち上がって、さあ、どちらに進むのか。
それが残された私たちにはさらに大事なことであり、
その方角を示しているのが仏教なのです。

死別の悲劇は、心地よくまどろんでいた我々の目を
豁然(かつぜん)と人生に開かせ、
真の幸福を教える仏教に向けさせる
勝縁であります。
また、そうすることが、
亡くなった人の最も喜ぶことなのです。

ですから、冒頭の読者のような心が
皆さんに起きたのは、大変尊い、
喜ぶべきことだと知っていただきたいと思います。

真剣に聞かんでも
     いいのが仏法か?

ところが、そのように仏法聞きたいと願っても、
なかなか聞けるチャンスはないようです。
せっかく教えを求めながら、
「他力だから、求めることは要らない。
どうせ死ぬば皆、極楽ですから」
「そんな真剣に聞かねばならんもんではありません」
などと、冷や水を浴びせられて
“ガッカリした”と口にする人も多いのです。

しかし、お釈迦さまは
「そんな考えは、とんでもない誤りだ」
と、こう仰っています。

世人薄俗(せじんはくぞく)にして共に
不急のことを諍い(あらそい)、(略)
尊と無く卑と無く、貧と無く富と無く、
少長・男女共に銭財を憂う。
有無同じく然り。
憂き思適(まさしく)等し。(略)
心の為に走せ使われて、安き時有ること無し。
田有れば田を憂え、宅有れば宅を憂う。
牛馬(ごめ)・六畜・奴婢(ぬび)・銭財・衣食(えじき)・
什物(じゅうもつ)、また共にこれを憂う

              (大無量寿経
世の人々は目先のことに心奪われ、
急がなくてもいいことに血道を上げている。
貴・賤・貧・富や老・若・男・女は関係なく、
みな金や財産で苦しんでいる。
田畑や家が無ければ、それらを求めて苦しみ、
有れば、管理や維持のためにまた苦しむ。
その他のものにしても、みな同じである

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すべての人を「世人」といい、皆、
真に急ぐべき人生の大事を知らない、
と仰っています。
私たちは毎日、目の前のことをこなすのに精一杯。
朝から晩まで忙しい忙しいと駆け回っていますが、
その相(すがた)はどんなものでしょう。


親鸞聖人とほぼ同時代に書かれている有名な
徒然草』にはこうあります。
一日のうちに、飲食(おんじき)・便利・睡眠・
言語(ごんご)・行歩(ぎょうぶ)、
やむ事をえずして、多くの時を失う。(略)
無益の事なし、無益の事を言い、
無益の事を思惟して
時を移すのみならず、日を消し、月を亘りて、
一生を送る、尤も(もっとも)愚かなり

             (徒然草)
まるで現代人のことを言っているようですが、
時代を問わず私たちは、生きるために食事や睡眠、
会話や移動に多くの時間を割いている。
しかもどれもこれも、やめるわけにはいきません。
一日中、家事や小用に追われ、
“ああ私、何やってんだろう?”
と思うことがあります。

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宅配弁当のコマーシャルで主婦が、
「朝作って、すぐ昼作って、
夜のメニュー考えて・・・」
と言っているのを聞いて、
「ホント、一日中食事の準備しているみたい」
と共感する人もあるでしょう。

永年の習慣とはいえ、
毎度の食事準備は手間がかかる。
ニンジン一つ細かく切るのも一苦労。
そうして作った料理も食べるのはアッという間。
食器や鍋を洗って、
すぐ次の食事の準備が始まります。
ある裕福な家の奥さんが、夕方、
いつものようにフロ掃除をしていた。
ふと顔を上げて、窓からいつもの夕日を見た時、
突然、止めどもなく涙が頬を伝って流れ落ちた。
このまま老いて、人生終わってしまうのかと思ったら、
居ても立ってもおれなくなり、
荷物まとめて家出したというのです。

食べるために働く、働くためにまた食べる。
しかし、おまえは何のために食べているのか、
と問われたら、何と答えましょう。

生きる目的が
    なければならぬ

   人生は
喰て寝て起きて 糞たれて
子は親となる
  子は親となる

禅僧・一休が歌うように、
同じ所をグルグル回りながら成長し、
やがて老いて死ぬ。
これが私たちの実態なら、今死ぬのも、
十年後に死ぬのも、同じことではないか、

と知れば、
普段の営みに一生懸命取り組む根底に、
「生きる目的」がなければなりません。

生きる目的を知り、達成して、生きてよし、
死んでよしの大満足を獲得することが
「最も急ぐべき大事である」
とお釈迦さまは仰っているのです。


ではその大事と何か。
コラムの次の章で学びましょう。

..................................
(ここでコラムをはさみます。)

●死とはいかなるものか

「死生学」が大学で講義されたり、
人生の終末への活動「終活」が流行語になるなど、
よりよい「生」のための「死」を考えよう、
と昨今は言われるようになりました。

しかし一方で、
「そんなの、死んでみないと分からない」
「死んだら死んだ時、死なんて考えていたら、
楽しく生きられないよ」
「オレだけじゃないよ。みんな死んでいくんだから、
怖くないさ」
と、真剣に考えようとしない人も依然多いようです。
考えたくないことだからでしょう。

仏教を学んだ哲学者・丸山圭三郎氏は、
死の恐れを、四とおり挙げています。


一つめはガンの末期や心臓発作の
耐えがたい「肉体的苦痛に対する恐れ」です。

二つには「親しい者との離別体験を典型とする精神的苦痛」

三番目は「地位、名誉、知識、特に財産への執着心から
生まれる喪失への恐怖」です。

第四に、
最大の死の恐怖として、
いわば(非ー知)に相対(あいたい)したときの戦慄である。

死がまったく人間の予測や
思考の枠を超えた存在であり、
死後の世界は不安と謎に満ちた
ブラックホールなのである。

死んだらどこへ行くのか、
死んだら自分はどうなるのか、
という問いは、現世の人間関係とか財産の喪失とは
まったく次元の異なる恐怖をよび起こす


と述べています。
死は未知の体験であるといわれても、
元気な時はそんな苦痛とは思えない。
冒頭の発言は、そういう人の言葉ですが、

いざ死ぬとなった時に私たちの心を占めるのは、
後生の不安以外にないのです。

問題は、『この自分』は、
死後どうなるのかという点に集中してくる。
これが人間にとっての大問題となる


仏教を説かれたお釈迦さまは、
臨終の心相を次のように仰っています。
大命まさに終わらんとして
悔懼(けく)こもごも至る

       (大無量寿経
臨終に過去の行為に対する後悔と、
後生の恐れが交互にやってくる

大宇宙の諸仏の本師本仏である阿弥陀仏は、
この私たちの
「死ねばどうなるか分からぬ、真っ暗な心」を、
「往生一定
(いつ死んでも無限に明るい
極楽浄土に必ず生まれられる)」
の大安心、大満足に救ってみせる、
と誓われています。
この弥陀の救いが、私にとって
いかに大事なことが分かるでしょう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

浄土へ向かう大船に
       乗りかえよ

   「不急のこと」と「急ぐこと」

前章で、「世人薄俗にして
共に不急のことを諍う」という
お釈迦さまの警鐘をお聞きしました。
では、
人間にとって最も急ぐべき大事は何でしょうか。
4つのQ&Aで学びましょう。

Q1お釈迦さまの説かれた「真に急ぐべき大事」とは、
  どんなことですか。

A 
それを知るために、こんな例えで人生を考えてみましょう。
今、私たちは川を下る船に乗っています。
船の中で好きな人ができたり、
嫌いな人とケンカしたり、
酒を飲んだり歌ったり、円安になった、
株が上がった、
儲かった、損したと、
泣いたり笑ったりしながら過ごしています。
毎日毎日そんなことに一生懸命なのですが、
この船の行く先はどうなっているのか。
誰も深く考えていませんが、
滝つぼなのです。
すべての人は、死の滝つぼに
向かっている船に乗っているのです。
これでは、船中どんなものを
どれだけ手に入れたところで、
心からの安心も満足もあるはずがありません。

先日ある女性読者から
「私の人生でかなった願いは幾つかありますが、
喜んで当然なのに空虚な心しかなく、
それを人に言うこともできず、
いつも満足そうなフリをしていました。
秀吉とまではいかなくても、
ある程度わが物になったのに不満足に陥るのは、
行く先が真っ暗だからなのですね

まことに何を手に入れ、世の中がどう変わろうと、
我々の船は滝つぼへ一直線に近づいています。
最後は、集めた金も財も家族も力にならず、
船ごと滝つぼに落ちていかねばなりません。
これを「後生の一大事」といわれます。

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有名な蓮如上人の「領解文」にも
「われらが今度の一大事の後生」
と言われているのは、
この滝つぼに落ちる一大事のことです。

生きるためには食べねばなりませんが、
有り余る食べ物を残して滝つぼへ落ちる時が
私にも確実に来る。

こんな危ない船に乗っている
私の「急ぐべき大事」は一つ。

滝つぼに落ちる前にこの船から脱出することであり、
それ以外は「不急のこと」と言われても、
うなづけるのではないでしょうか。

Q2 確かに人間、最後は死の滝つぼへ
落ちねばなりませんが、
それはどうしようもないのではないでしょうか。

A 
いいえ、あきらめる必要はありません。
どうすればこの危機から逃れられるのか。
例えていえば、滝つぼに向かう船から
極楽往きの大船に乗り換えることです。

「えっ、大船に乗りかえる?そんな船があるの?」
と驚かれるでしょうが、親鸞聖人は、
「あるから早く乗りかえなさい」
と断言されています。
この大船一つ教えられたのが、
実に仏教であり、親鸞聖人のみ教えなのです。

大船を造られたお方は、阿弥陀如来という仏さまです。
「最尊第一」と仰がれる、
大宇宙で最も偉大な阿弥陀如来は、
悲劇の滝つぼに向かうすべての人を、
この世から未来永遠の幸福に
救ってみせるという崇高な願い(本願)をおこされ、

70億の人類が乗っても、
どこにいるか分からないほど大きな船を造られました。

弥陀の大慈悲の願いによって完成された船ですから
「大悲の願船」とも聖人は仰っています。
この大船に乗りかえれば後生の一大事は解決し、
いつ死んでも浄土往生間違いない身になれます。

弥陀の浄土を聖人は「無量光明土(限りなく明るい世界)」
と言われます。
『正信偈』に「必至無量光明土」と明言されていますように、
必ず無量光明土へ往けますから、
一息一息が、光明の広海を快走する愉快で楽しい船旅に
大転換するのです。

この大船に乗りかえる外に、
私たちの後生助かる道は二つとありません。


ゆえにお釈迦さまは仏教の結論として、
一向専念無量寿仏
(弥陀一仏に向き、信ずる身になれ)
と説かれ、「領解文」では、
一心に『阿弥陀如来われらが
今度の一大事の後生御たすけ候え』
とたのみ申して候。
たのむ一念のとき、往生一定・御たすけ治定

と教えられているのです。

Q3 「大船に乗りかえる」(弥陀をたのむ)とは
どんなことか、もう少し詳しく聞かせてください。

A 
ここで船を乗りかえる(弥陀をたのむ)とは、
「阿弥陀さま、助けてください」
とお願いすることではありません。

一切の自力の計らいを捨てて、
阿弥陀仏に後生の一大事をうちまかせることを
「たのむ」といいます。

「弥陀をたのむ一念」に「自力の心」が死に、
同時に「他力の心」が生まれると、
親鸞聖人は次のように教えられています。

信受本願 前念命終
即得往生 後念即生
」(愚禿鈔)
弥陀の本願に救われた一念に、
自力の心が死ぬ。
同時に他力の心が生まれるのである

弥陀の本願まことだったと知らされた一念に、
命(昿劫流転の迷いの心)が終わると仰っています。

この「終わる命」というのは、
昿劫より流転してきた自力の心のことであり、
弥陀の本願を疑う心(疑情・本願疑惑心)です。

「死んだらどうなるのだろうか」
「地獄へ堕ちるのではなかろうか」
という後生暗い心であり、
「絶対の幸福なんてあるはずがない」という心です。

その自力の迷心が、南無阿弥陀仏の利剣によって
一念に殺される。
まさに永の迷いの打ち止めがなされるのです。

同時に、「弥陀の本願まことだった」という心、
「いつ死んでも極楽往き間違いなし」
の往生一定の心、絶対の幸福、無碍の一道、
「大悲の願船に乗じて光明の広海に浮かぶ」心が
誕生いたします。

死ぬとか生まれるというと、
私たちは肉体のことしか知りませんが、
肉体は滔々(とうとう)と流れる大河にポッとできて、
パッと消える泡のようなもの。
仏教で問題にされるのは果てしない過去から
流転し続けている私たちの永遠の生命です。

平生に、この迷いの命が死に、
絶対の幸福に生まれ変わったことを
「弥陀に救われた」といい、

親鸞聖人はそれを「正信偈」の冒頭に、
「帰命無量寿仏如来 南無不可思議光」
と言われています。
浄土真宗ではこのように、「肉体の臨終」だけでなく
「心の臨終」「魂の葬式」が教えられているのです。

Q4 どうすれば私たちは大船に
乗りかえることができるのですか

A 『正信偈』末尾に、
道俗時衆共同心 唯可信斯高僧説
と記されているとおり、
それはただ善知識(高僧)の教えに遇い、
弥陀の本願を聞信する、聴聞の一本道です。

考えてみれば、人生なんて
アッという間ではありませんか。

ある115歳の女性が
「人生、短かった」と答えていましたが、
たとえ115年生きても
十分生きた気がしないのが本当でしょう。

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「一炊の夢」の故事のとおり、
夢のように一生が過ぎ、
皆、滝つぼに転落します。

しかしこの一瞬の人生には、
浄土へ向かう大船に乗り換え、
昿劫流転の魂の解決をするという、
限りなく大きな意味があるのです。

阿弥陀さまの救いは「死んだらお助け」ではありません。
川を下っている間に船を乗り換えねば手遅れです。
だからこそ善知識方は「一日も片時も急いで聞き開け」
と教えられています。

呼吸の頃(あいだ)すなわちこれ来生なり。
一たび人身を失いぬれば万劫にも復らず(かえらず)。
この時悟らざれば、仏、衆生を如何したまわん。
願わくは深く無常を念じて、
徒に後悔を胎す(のこす)ことなかれ

               (親鸞聖人)
命のうちに不審もとくとく晴れられ候わでは
定めて後悔のみにて候わんずるぞ、
御心得あるべく候

               (蓮如上人)

いずれもいずれも、「生きている時が勝負だぞ」
と汗握ってのご勧化です。

「仏法は聴聞に極まる」
聞法の場に足を運び、
「弥陀の本願に疑心あることなし」
とツユチリの疑いもなくなるまで、
ともに聞き開かせていただきましょう。

(聞き開くとは、弥陀に救われるということ)

 

親鸞聖人の教え=釈迦の教え=弥陀の本願


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