今、心から言いたい「命をありがとう」 [なぜ生きる]
聖道の慈悲と浄土の慈悲とは!? [なぜ生きる]
昨今の“”古典ブームで、仏教書が脚光を集めています。
中でも『歎異抄』は、右翼の活動家から左翼の思想家まで、
最も広範な読者を持つ仏教書の筆頭。
世界の光といわれる親鸞聖人の肉声が、
国宝と評される名文でつづられています。
しかし、それほど魅了してやまぬ名著に何が説かれているか、
肝心の内容を知る人は少ないようです。
今回はその『歎異抄』の言葉を通して学びましょう。
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●慈悲といっても
2つある
今春、朝日新聞に「親鸞思想よ もう一度」
という記事が掲載されました。
七百五十回忌を前に、
聖人の教えが再び注目されていると報じたもので、
記事に紹介された学者は、
「戦争や紛争などが大きな問題になるなか、
親鸞の思想はますます重要になる」
と聖人の教えの魅力を述べています。
(平成20年のとどろきより載せています)
その聖人の思想を知ろうとすれば、
一般にまず思い当たるのが『歎異抄』でしょう。
そこで大事なのは、珠玉のお言葉に込められた真意を
正しく知ることです。
最近でも『歎異抄』の一節を想起する
事故や事件が相次いで起きています。
五月、中国・四川地方を襲った大地震で、
深山に囲まれた村々は壊滅状態に陥りました。
崩壊した学校のガレキの下から子供たちが救い出される一方で、
多数の生き埋めのまま救助が打ち切られたと報じられ、
だれもが心痛めたことでしょう。
その少し前、サイクロンがミャンマーを襲い、
十万人余りが被害に遭ったのも記憶に新しいところです。
何とか立ち直ってもらいたいと、
いずれの被災地にも世界中からお金や物資が送られ、
現地へ赴いての救援活動もなされました。
苦しみにあえぐ人を何とか救いたい。
だれもが抱く思いです。
このような災害の報に接する時、
『歎異抄』第四章のお言葉が思い出されます。
「慈悲に聖道・浄土のかわりめあり」
(「慈悲」に「聖道の慈悲」と「浄土の慈悲」の2つがある)
ここで「聖道の慈悲」「浄土の慈悲」といわれる「慈悲」
とはどういうことでしょうか。
親鸞聖人は次のように仰せられています。
「苦を抜くを『慈』と曰う、
楽を与うるを『悲』と曰う」(教行信証)
苦を抜き、楽(幸せ)を与える。
慈悲には「抜苦与楽」の意味があり、
これが仏教の目的です。
「慈悲には2つある」と聖人がおっしゃっているのは、
その苦しみと幸せに2つあることを教えられているのです。
●せっかく
助かったのに・・・
ではまず「聖道の慈悲」で教えられる苦しみ、
幸せとは何でしょう。
生活の不便や困難(苦)を取り除き、
命を守り育む(楽)ことで、
一刻も早い復興を願って、被災地に義援金や物資を
送ったりするのはことに当たります。
被害を乗り越えるには、
とても大事な働きかけで、
人助けと聞けばほとんどの人がこれを実行します。
しかし生活物資や医療だけで、
私たちは変わらぬ本当の幸福になれるでしょうか。
平成7年の阪神大震災では、
国や自治体、多くの人に善意によって、
仮設住宅や最低限の生活が維持されてきましたが、
レスキュー隊などの活躍で命を救われたのに、
自ら命を絶つ人が数多くありました。
「せっかく助かったのに、どうして?」
「なんのための救助だったのか」
救援活動の意味を問う声が上がりました。
(平成20年のとどろきより載せています)
家族や財産を失い、打ちひしがれている人の、
心のケアはどうでしょう。
苦難を乗り越えて生きるのは何のためなのか。
「生きる意味」「命の価値」こそ
最も訴えねばならないことだと分かります。
そしてそれは、災害時に限らず、
万人に、絶えず問われていることではないでしょうか。
●でも、生きる意味が
分からない
5月下旬、元TBSのアナウンサー、川田亜子さんが、
車内で練炭自殺を図りました。
「母の日に、私は悪魔になってしまいました」
「生んでくれた母に、生きている意味を聞いてしまいました」
自身のブログにこうつづった彼女は、
少し前から不調を訴え、周囲からは心配や励ましが
寄せられていました。
具体的に相談を受けた知人や医師もあり、
その中、“なぜ止められなかったのか”
と悔やむ人もあるようです。
私たちの日常には、
「なぜか満たされない」
「何となく不安だ」
と絶えず小さな不安や不満があります。
それを解消するため「金があればなぁ」
「家族さえいれば」「有名になりたい」「出世したい」
「家を持ちたらいい」「恋人が欲しい」など、
欲望の赴くままに、あくせく求めています。
もし金や物、名誉や地位のないのが苦しみの根元ならば、
それらに恵まれた人生は、喜びに輝いているに違いありません。
しかし、望み通りの仕事に恵まれ、
悩みながらも、それを支えてくれる人が周囲にあった川田さんが
「生きる意味」が分からないと命を絶っています。
表面上は恵まれていても、なぜか持て余し、
幸福感を持てずにいる人が、
世の中には実に多くあるようです。
「功成り、名遂げた」は、古くは戦国武将、
今なら政治家や大企業の創業者に使う形容詞。
松下電器の松下幸之助さんは、
その筆頭に挙がる一人でしょう。
そんな幸之助さんが最晩年に人生を振り返り、
自分が最もやりたかったことを何もしなかったような気がする、
という意味のことを述懐したといわれます。
ある作家はこれを評して、
「彼はもう、働かなくてもよくなったのちも、
いつまでも埋まらない心の空洞を埋める作業を
やめられなかったのだろう」
と述べています。
若いころ、300人ほどの従業員とともに
働いていた時分が一番楽しかった、
という幸之助氏の言葉を聞くと、
人間の幸せとは何なのか、だれしも考えさせられます。
●有っても苦・・・
無くても苦・・・!?
仏教を説かれたお釈迦さまは、
次のように教えられています。
「田無ければ、また憂いて、田有らんことを欲し、
宅無ければ、また憂いて宅有らんことを欲す。
田有れば田を憂え、宅有れば宅を憂う。
牛馬・六畜・奴婢・銭財・衣食・什物、
また共にこれを憂う。
有無同じく然り」
(大無量寿経)
「田畑や家が無ければ、それらを求めて苦しみ、
有れば、管理や維持のためにまた苦しむ。
そのほかのものにしても、皆同じである」
無ければないことを苦しみ、有ればあることで苦しむ。
有る者は“金の鎖”、無い者は“鉄の鎖”に
つながれているといってもいいでしょう。
材質が金であろうと鉄であろうと、
苦しんでいることに変わりはありません。
これをお釈迦さまは「有無同然」といわれました。
どんなにお金を手に入れても、仕事で成功を収めても、
苦悩の根元を知り、取り除かない限り、
ポッカリした心の空洞は満たせない。
苦しみの原因を正しく知らねば、
本当に苦を抜くことはできません。
それがかなわなければ、
本当の幸福が与えられることもできないでしょう。
肉体の病気でも、病因を正しく知らなければ、
全快できません。
例えば「腹痛」といっても、胃か腸か。
腸にも大腸、小腸、十二指腸とさまざまな部位がある。
胃でも、軽い胃炎から潰瘍、末期ガンまで、
症状は幾通りもありましょう。
それらを的確に診断しなければ、
痛みも癒えず、苦しむばかりです。
病因を正しく突き止めることが、
治療の先決問題だと分かります。
人生も同じ。
苦しみの真因が分からねば、
人生苦悩の解決は決してありません。
●苦悩の真因を破り、
無上の幸福に救う
親鸞聖人は、その苦悩の根元を、
「生死輪転の家に還来することは、
決するに疑情を以て所止と為す」(正信偈)
と、ズバリ断言されているのです。
安心、満足というゴールのない円周を、
限りなく回って苦しんでいるさまを
「生死輪転」といい、家を離れて生きられないように、
離れ切れぬ苦しみを「家」と例えらています。
「人生の終わりなき苦しみ」のことです。
その根本解決を、「疑情ひとつ」とおっしゃっています。
「疑情」とは、「無明の闇」ともいわれます。
「無明」も「闇」も暗いこと。
暗いとは、分からないことをいいます。
では何に暗い心か。
「後生」に暗いのです。
後生とは死後のこと。
だれもが百パーセント行き着く先です。
それが暗いから、魂の行く先が分からないのです。
自分の未来が分からない、底知れぬ不安を、
人は皆抱えて生きています。
この不安あるままで、何をどんなに手に入れても、
心底楽しむことはできません。
換言すれば、「なぜ生きているのか」が
サッパリ分からない心なのです。
この苦悩の根元・無明の闇を破ると誓われたのが、
大宇宙の仏方の本師本仏(指導者)である阿弥陀仏です。
阿弥陀仏のなされたお約束どおりの身に救い摂られた時、
「生きる本当の意味」がハッキリする。
必ずその身になれるから、
早くなりなさいよ、との親鸞聖人のお言葉が、
計り知れない重みを持って響いてきます。
「浄土の慈悲」とは「無明の闇」(苦)をぶち破って、
無限に明るい、楽しい心に生まれ変わらせる(楽)こと。
この抜苦与楽を「破闇満願」ともいいます。
阿弥陀仏のお力によって「無明の闇」が破られ、
願いが満たされるから、
「ああ、生まれてよかった」
の生命の歓喜が必ず起こります。
いつ死んでも浄土往生間違いない身に定まりますから、
無碍の一道に出られるのです。
そんな、とてつもない世界を、『歎異抄』に聞いてみましょう。
「念仏者は無碍の一道なり。
そのいわれ如何とならば、
信心の行者には、天神・地祇も敬伏し、
魔界・外道も障碍することなし。
罪悪も業報も感ずることあたわず、
諸善も及ぶことなきゆえに、
無碍の一道なり、と云々」
(第七章)
弥陀に救われ念仏する者は、
一切が碍にならぬ幸福者である。
なぜならば、弥陀より信心を賜った者には、
天地の神も敬って頭を下げ、
悪魔や外道の輩も妨げることができなくなる。
犯したどんな大罪も苦とはならず、
いかに優れた善行の結果も及ばないから、
絶対の幸福者である、
と聖人は仰せになりました。
名著『歎異抄』には、
阿弥陀仏の救いが説かれています。
第四章の「浄土の慈悲」は、
阿弥陀仏の絶大な本願力によって自身が救い摂られ、
その教えを一人でも多く伝えること。
この仏教の目的を果たすには、
まず「命」が大事です。
衣食住も必要です。
それら生きる手段を与えるのが
「聖道の慈悲」であることを明示されているのです。
死を解決できれば限りなく明るい未来が開かれる! [なぜ生きる]
どんな極悪人をも救い切る弥陀の本願力 [阿弥陀仏]
願力無窮にましませば
罪業深重もおもからず
仏智無辺にましませば
散乱放逸もすてられず
(正像末和讃)
阿弥陀仏には、どんな極悪人をも救い切る、
ものすごいお力があると教えられた親鸞聖人の「ご和讃」です。
●「願力」=「阿弥陀仏の本願力」
初めの「願力」とは、“阿弥陀仏の本願のお力”のこと。
阿弥陀仏は、大宇宙の諸仏から本師本仏と仰がれる最尊第一の仏さまで、
釈迦の経典には、
阿弥陀仏は、諸仏の中の王なり(大阿弥陀経)
阿弥陀仏は、大宇宙にまします多くの仏方の王様だ、
と説かれています。蓮如上人も、
阿弥陀如来は三世諸仏の為には本師・師匠なれば、
その師匠の仏をたのまんには
いかでか弟子の諸仏のこれを喜びたまわざるべきや。
この謂を以て、よくよく心得べし
(御文章二帖目九通)
と阿弥陀仏は諸仏の本師本仏であることを、
懇ろに教導されています。
次に「本願」とは、「お約束」のことです。
だから「誓願」ともいわれます。
本師本仏の阿弥陀仏は誰と、どんなお約束をなさっているのでしょうか。
阿弥陀仏の約束の相手は「十方衆生」。
十方とは仏教で大宇宙をいい、
衆生とは生きとし生けるものすべてのことですから、
古今東西のすべての人と弥陀は約束されているのです。
弥陀のお約束の相手に入らない人は一人もありません。
大日如来や薬師如来など、大宇宙に無数の諸仏がおられても、
「われら一切衆生を平等に救わんと誓いたまいて、
無上の誓願を発して」(御文章二帖目八通)くだされている仏は
阿弥陀仏だけですから、弥陀の本願のみを
「弘誓(弘い誓い)」といわれるのです。
その弥陀のお約束を平易に表現すれば、次のようになりましょう。
「どんな人をも
必ず助ける
絶対の幸福に」
古今東西の全人類を、必ず絶対の幸福(往生一定)に救ってみせる、
と誓われているのです。
こんな素晴らしいお約束は他には絶対ありませんから、
『正信偈』に親鸞聖人は、「無上殊勝の願(この上ない殊に勝れたお約束)とも
「希有の大弘誓(大宇宙に二つとない素晴らしいお誓い)」とも言われています。
蓮如上人は『御文章』に阿弥陀仏の本願の偉大さを、
諸仏の本願と比較して、こう教えられています。
抑(そもそも)、諸仏の悲願に弥陀の本願の勝れましましたる、
その謂を委しく尋ぬるに、既に十方の諸仏と申すは、
至りて罪深き衆生と、五障・三従(ごしょう・さんしょう)の女人をば、
助けたまわざるなり。
この故に「諸仏の願に阿弥陀仏の本願は勝れたり」と申すなり
(御文章三帖目五通)
私たちは、極めて罪深い者(至りて罪深き衆生)であるから、
大宇宙の仏方は助けることができなかったのだ。そして次に、
さて、「弥陀如来の超世の大願は、いかなる機の衆生を救いましますぞ」
と申せば、十悪・五逆の罪人も、五障・三従の女人に至るまでも、
皆悉くもらざず助けたまえる大願なり
(御文章三帖目五通)
と言われています。
ここで「十悪・五逆の罪人」とは、
仏さまの眼からごらんになった古今東西の全人類の姿です。
“罪人”と聞くと、窃盗、横領、恐喝、殺人罪など、
法律を犯した人のことだと思われるでしょうが、
ここでいわれる「罪人」はそれだけではありません。
すべての人を“罪人”と言われているのです。
「警察に捕まるようなことはやっていないのに、
どんな罪を犯したというのか」と、反発したくなりましょう。
それは、仏教で説かれている「十悪」「五逆罪」を犯した罪人である、
と仰せです。
●全人類の罪・・・十悪
仏教では、私たちの犯すいろいろの罪悪をまとめて、
「十悪」と教えられています。
その中の一つ、「殺生罪」は生き物を殺す罪です。
人を殺せば刑務所行きだと誰でも分かりますが、
牛や豚、鶏や魚を食べたり、ハエや蚊を駆除したりするのは、
「仕方のないこと」と、誰も悪いとは思っていない。
しかし、どんな生き物も死が苦しみであることは
我々と変わりません。
捕まえた鶏がバタバタもがくのも、
漁船の甲板で魚がピチピチ跳ねるのも、
死にたくないからです。
それを「活きがいいなぁ」「こりゃ、うまそうだ」と、
人間は好んで食べる。
殺される生き物たちは、人間は何と残酷なものか、
と強く呪って死んでいるに違いありません。
お釈迦さまは「すべての生命は平等であり、上下はない」
と教えられています。
人間の命だけを尊いと考えるのは人間の勝手な言い分で、
相手が動物でも虫でも、殺生は恐ろしい罪なのです。
●全人類の罪・・・五逆罪
「五逆罪」とは、仏教で地獄行きの五つの恐ろしい罪をいい、
中でも最初に挙げられるのが親殺しです。
赤ん坊の頃は、昼も夜もお乳を飲ませてもらったり、
おむつを取り替えてもらいました。
病気になった時、寝ずに看病してもらった人もあるでしょう。
離れて暮らせば、「元気でいるか」「しっかり食べているの?」
「いい友達できた?」と、いつも心配してもらって、
私たちは成長してきたのです。
今年の八月、若手俳優が暴行容疑で逮捕され、
女優の母親が、多くの報道陣を前に謝罪会見したことが
テレビで報じられた。
38歳で生んだ息子は、アトピーやぜんそくもあって病気がち。
救急車で病院に連れていくこともたびたびあったという。
女優として働きながら、女手一つで育てた息子がようやく成人。
俳優として人気が出始め、まさにこれからという時の逮捕だった。
そんなことになっても、母親は、
「私はどんなことがあってもお母さんだからね」
と、警察署で面会した息子に語ったといいます。
わが子を慈しむ親心に、息子は何を感じたでしょう。
そんな大恩ある親を殺すのは、言うまでもなく大罪です。
ところが、親鸞聖人は、
親をそしる者をば五逆の者と申すなり(末灯鈔)
と教誨(きょうかい)され、親をそしるのも五逆の罪なのだと
言われています。
「うるさいな!」「あっちへ行け!」と暴言を吐くのは無論ですが、
「いつまで生きるつもりなのか」と、
年老いた親を邪魔に思うだけでも
親殺しの五逆罪だと戒められているのです。
果たしてこれを、他人事として片づけられるでしょうか。
ある生命保険会社が制作したCM。
画面には「2分9秒38」という時間が表示されている。
東京に上京し、家庭を築き、忙しくも充実した生活を送る男性。
仕事のことばかり考える毎日の中で、
時折、かかってくる母親からの電話。
「何?今、会議中だからさ・・・」
とすげなく切る。
両親が息子の顔を見に東京に来てくれる。
母親が畑の野菜で作った漬物を渡そうとすると、
苦々しい表情で、「これ持って得意先に行けないよ」
と受け取らない。近況を尋ねる両親に、
「悪いけど俺、時間がないんだ」
と、急いで立ち去る息子を母親が呼び止める。
「次はいつ話せるの?」
男性は、何を言っているんだ、という顔で、
「また、いつでも話せるだろ」と一言。
「2分9秒38」は、男性が3か月で両親と話した合計時間。
そのままの関係が続けば20年でたったの3時間しか
会話しないことになる。
親子のつながりを見直すことを訴えかけるCMだった。
四六時中、自分のことを大切に思ってくれている両親に、
自分がどれほど心をかけ、大事に思っているか。
会話さえも煩わしく思って、ないがしろにしてはいないか。
反省させられる内容でした。
7月に放送されたNHKのドキュメンタリー番組では、
介護問題をテーマに、介護の切実な現実をリポートし、
大きな反響を呼びました。
認知症になった母親と同居し、
11年にわたって介護を続けている50代の男性は、
当初、母親の介護を妻に任せていたが離婚。
一人で介護をすることになり、勤めていた不動産会社を退職して、
今は母親の年金で暮らしている。
「いちばんつらいのは自由がないこと」
「手足を鎖につながれた牢獄にいるようだ」
と介護の苦衷を漏らす。
5年前、母親が脳梗塞で倒れた時、
倒れている母親を前にして呆然と眺めていたという。
「このまま放置して、おふくろがいなくなれが介護が終わる。
やっと自由になれる・・・」
そんな心が去来したことを、救急車を呼ぶのをためらった自分を
強く後悔しながら告白していました。
さるべき業縁の催せば、如何なる振舞もすべし(歎異抄)
「縁が来たら、どんなことでもする親鸞だ」と親鸞聖人は仰っています。
何をしでかすか分からない業縁を、どんな人も持っている。
私たちは、そんな「十悪・五逆の罪人」だから、
大宇宙の仏さまは、これではとても助けることはできぬ、
とさじを投げてしまわれたのです。
●「どんな極悪人も助ける」本願
では、我々は助からないのでしょうか。
そうではありません。蓮如上人の『御文章』を再度、
拝読しましょう。
「弥陀如来の超世の大願は、いかなる機の衆生を救いましますぞ」
と申せば、十悪・五逆の罪人も、五障・三従の女人に至るまでも、
皆悉くもらさず助けたまえる大願なり
(御文章三帖目五通)
こんな諸仏に捨てられた者だからこそ、
救わずにいられないと、ただ一人、立ち上がられた仏が
大慈大悲の阿弥陀如来なのです。
このようにして建てられた弥陀の本願を『歎異抄』には、
罪悪深重・煩悩熾盛(ぼんのうしじょう)の衆生を
たすけんがための願にてまします
と教えられ、阿弥陀仏は、欲や怒り、妬みそねみの煩悩の激しい、
最も罪の重い極悪人を助けるために本願を建てられたのだよ、
と言われています。
そして、弥陀がどんな極悪人も救いお誓いを建ててくだされたからこそ、
親鸞は救われた。
無量の悪業をもった親鸞一人を助けんがためのご本願であった、
と聖人は、弥陀の本願力不思議に、こう感泣なされています。
弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、
ひとえに親鸞一人がためなりけり、
されば若干(そくばく)の業をもちける身にてありけるを、
助けんと思召したちける本願のかたじけなさよ
(歎異抄)
大宇宙の諸仏も見捨てた極悪の親鸞を、
救い摂ってくだされたのは、
弥陀の無限の本願力以外になかった、と知らされて、
「願力無窮にましませば
罪業深重もおもからず」
と、ご和讃に褒めたたえられているのです。
●「決して見捨てはしない」
「仏智無辺にましませば
散乱放逸もすてられず」
と仰っているのは、「仏智」とは、阿弥陀仏のお力のこと。
その弥陀のお力が「無辺」であるとは、限界がないということです。
「散乱放逸」とは、思いに任せて悪を、やりたい放題、
やり散らしている我々の実態を仰ったものです。
そんな箸にも棒にもかからぬ極悪人が十方衆生(すべての人)だから、
大宇宙の諸仏はあきれて逃げたのです。
しかし、弥陀はそんな私たちを、「決して見捨てはせぬぞ」と、
底なしの大慈悲心で無上の誓願を建立してくだされた。
その弥陀の本願力によって平生ただ今、
救い摂られたことを親鸞聖人は、
誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法
(教行信証)
ああ、阿弥陀仏の摂取不捨のお約束、
まことであったなあ
と宣言されています。
罪業は深重、散乱放逸で大宇宙の諸仏に
見捨てられた自己の真実と、そんな私を「必ず救う」弥陀の本願を、
疑いなく信知させられた表明です。
“十方衆生(すべての人)が極悪人とは、おかしい”
“諸仏に捨てられたって?そんな悪人とは思わない”
“私のような者は救われないのではなかろうか”
と思っているのは、すべての人を罪業深重・散乱放逸と見て取られ、
無窮の願力と無辺の仏智で「必ず助ける」と誓われた本願を、
真っ向から疑っている証です。
この本願に対する疑心を本願疑惑心とか、疑情とか、
自力の心、不定の心ともいわれます。
このような疑心がツユチリほどでもある間は
救われていないのであると、蓮如上人は、
これ更に疑う心露ほどもあるべからず
(御文章五帖目二十一通)
と明らかにされています。そして、
命のうちに不審もとくとく晴れられ候わでは
定めて後悔のみにて候わんずるぞ、
御心得あるべく候
(御文章一帖目六通)
本願に疑い晴れていなければ、
必ず、後悔するであろう
と教誡されています。
「誠なるかなや、阿弥陀仏の本願」と、
本願疑惑心(自力の心)が浄尽し、
絶対の幸福(往生一定)に生かされるまで、
仏法を真剣に聞かせていただきましょう。
仏教で蓮の花が大切にされるのはなぜ? [人間の実相]
仏教で蓮華が
大切にされるのはなぜ?
梅雨が明け、夏が匂い立ち始めるころ、
薄桃色の蓮華が、可憐に咲き乱れます。
蓮は、仏教と深い因縁のある花です。
法事や仏事で目にするさまざまな仏具に
描かれているのは、蓮の花ばかり。
阿弥陀仏の極楽浄土には、桜でも菊でもなく、
清浄な蓮の花が咲いていると経典に説かれ、
親鸞聖人も『正信偈』に極楽浄土のことを
「蓮華蔵世界」と書かれています。
・・・・・・・・・・・・・・
阿弥陀仏の極楽浄土の様子を、
お経にはこのように説かれています。
舎利弗、極楽国土には
七宝の池有り。
八功徳水其の中に充満せり、(乃至)
池の中には蓮華あり、大(おおき)さ車輪の如し。
青き色には青き光あり、
黄なる色には黄なる光あり、
赤き色には赤き光あり、
白き色には白き光ありて、
微妙香潔なり。
(仏説阿弥陀経)
●大切なのは体?心?
アカデミー賞を受賞した映画『おくりびと』
は、世界中の注目を集めました。
故人に死に化粧を施し、旅装束を着せ、
死者を次の世界へ送り出すという、
納棺師の仕事ぶりが描かれています。
映画の中で、一人の納棺師(佐々木)が、
ある民家で、まだ若い主婦の遺体を扱う、
こんな場面があります。
・・・・・・・・・・・・
死に化粧(しにげしょう)を始めると、
いつの間にか遺族たちが集まり、
もの珍しそうに佐々木の手元をのぞき込んでいる。
佐々木は丁寧な手つきで口紅のふたを開けて
スティックを回し、
色を失った遺体の唇に塗っていく。
ほおには紅が差され、
闘病生活でやつれ果てていた死者の顔は、
再び生気を吹き込まれたかのように、
艶を取り戻していく。
「ああ、いい顔になった」
「今にも起き上がりそうじゃ」
「あんた、すごいわ」
口々に感嘆の声を上げながら、
親族たちが思わず手を合わせる。
佐々木が仕事を終えて去ろうとした時、
それまで終始憮然としていた故人の夫が駆け寄り、
神妙に頭を下げた。
「あいつ(故人のこと)、
今まででいちばんきれいでした。
ほんとうにありがとうございました」
・・・・・・・・・・
死者の尊厳を守ろうと努める厳粛さと愛情が、
国境を超えて感銘を与えたのでしょう。
人は愛する人の死に出会うと、
手厚く遺体を葬ることで、
故人の幸福を願わずにおれません。
そうすることが、死者に対する礼儀だと、
多くの人は思います。
しかし、遺体を手厚く葬ることが、
本当に死者を幸せな世界へと
送り出すことになるのでしょうか。
考えてみれば、人の死は、
思い通りにはなりません。
病院や事故や災害で静かに
息を引き取る人ばかりではないでしょう。
不慮の事故や災害で、
無残に変わり果てた姿になる人もあり、
満足の行く形で送り出せないことも多々あります。
そんな人の死後の幸せはどうなるのでしょう。
仏教では、大切なのは、
肉体よりも心だと教えられます。
死後の行く先を決めるのは、
臨終の相(すがた)や遺体の有り様ではなく、
平生の心の有り様であり、
「蓮華のような信心=真実の信心」
を獲得しているか、どうか、なのです。
蓮如上人はそれを、
「往生浄土の為には
ただ他力の信心(真実の信心)ひとつばかりなり」
(御文章)
とおっしゃっています。
●蓮の華が示す、
正しい信心の五つの特徴
では、仏教で教えられる「蓮の花のような信心」
とはどのようなものなのでしょうか。
「信心」と聞くと、古くさい、とか、
特定の神や仏を信ずることだから自分とは関係ない、
と思う人が多いかもしれません。
しかし、私たちは何かを信じなければ
生きてはいけません。
なぜなら、信ずるとは、たよりにする、
あて力にするということだからです。
健康や、お金、家族などを信じ、
たよりとして、すべての人は生きています。
だから、「生きる」とは「信ずる」ことなのです。
何らかの信心を、
だれもが持って生きているのです。
親鸞聖人の教えられる「正しい信心」は、
本師本仏の阿弥陀仏から賜る信心なので、
「他力の信心」ともいわれます。
「他力」とは「弥陀から賜る」こと。
この他力の信心の特徴を、
蓮の花の持つ五つの特徴になぞらえて
教えられたのが、「蓮華の五徳」です。
①淤泥不染の徳(おでいふぜん)の徳
②一茎一花(いっけいいっか)の徳
③花果同時(かかどうじ)の徳
④一花多果(いっかたか)の徳
⑤中虚外直(ちゅうこげちょく)の徳
今回は初めの「淤泥不染の徳」
について説明いたします。
●どんな人の心に
信心の花は咲くか
「淤泥不染」の、淤泥(おでい)とは、どろどろの泥沼のこと。
蓮は、高原陸地には咲かず、泥沼にしか花を開きません。
しかもその花は泥の汚れに染まらず(不染)、
清浄な輝きを放つ、という特徴です。
淤泥に例えられたのは、悪人のこと。
高原陸地とは、善人を例えています。
正しい信心の華は、
善人の心中には開かず、悪人の心に、開くのです。
これは、本当の自分の姿をハッキリ知らされた人の心に、
蓮のような正しい信心が開くことを表しています。
仏教は、この本当の人間の姿を克明に教えられ、
「法鏡」ともいわれます。
法鏡とは真実の私の姿を映し出す鏡のことです。
仏教には、私たちの偽りのない
本当の姿が説かれている。
その教えのとおりの自分であったと
知らされた人の心に信心の花が咲くのです。
その私の姿を「淤泥=悪人」と示されています。
●悪人はだれ?
ある布教使と校長の会話
「私は、そんなに悪いことしているとは
思えないが・・・」
こう思われる人もあるかもしれませんが、
次のようなエピソードを通して考えてみましょう。
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ある有名な布教使が説法していた時のこと、
大の仏法嫌いであった村の小学校長が
参詣していた。
説法後、その校長がカンカンになって
抗議してきたのだ。
「あなたは先ほど、人間は皆悪人と
説法されましたが、まことに困ります。
そんなことを認めたら、教師も皆悪人ということになり、
教育が成り立たんではありませんか」
すると布教使は、やおら校長の下座に回り、
頭を畳にすりつけて言った。
「これはこれは、あなたのような方がお参りとは知らず、
とんでもないことを申し上げました。
何とぞご容赦ください」
高名な布教使の意外な反応に、
校長は薄気味悪くなって、
「まあまあ、あのような説教さえ、
してもらわねばよいのです」
早々に退散しようと玄関まで来ると、
ついてきた布教使が声をかけた。
「先生、ちょっとお待ちください。
先ほどあなたは、この世には善人もいれば
悪人もいると言いましたが、
先生ご自身は、善人でございますか。
それとも悪人でございますか」
何とも答えにくい質問である。
今更悪人とは言えないし、
さりとて、“私は善人”と答えるのも
はばかれる。
返答に窮していると、布教使がさらに尋ねる。
「では、あなたは学校でうそは善だと
教えられていますか。
悪だと教えておられますか」
「もちろん、うそは泥棒の始まり。
悪いことだと教えています」
「では校長先生は、これまでにうそは
つかれたことはありませんか」
だれにも身に覚えのあること。
校長はだまっている。
「では、喧嘩は?」
「悪に決まっています」
「では、校長先生は今までに喧嘩をなされたことは
一度もないのでしょうか」
夫婦ゲンカは日常茶飯事。重ねて布教使は問う。
「生き物を殺すことはいかがですか。
子供たちに善だと教えますか。悪だと教えますか」
「言うまでもありません」
「それならば、あなたは、一切生き物を殺しておられないのですか。
肉や魚、召し上がるでしょう」
「それは・・・」
力なく答える校長に布教使は、
「うそも喧嘩も殺生も、皆、悪だと知りつつ、
毎日それを繰り返しているのが私たちではありませんか」
日常、何とも思わずに重ねている悪を一つ一つ指摘されると、
どれもこれも身につまされることばかり。
さすがの校長もついには玄関に手を突き、
「よくよく考えてみると、皆私のことでした。
気づかぬところでどれだけの悪を造ってきたかしれません。
ご無礼をお許しください」
以来、校長は、熱心に仏法を聞くようになったという。
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何気ない日常を少し注意深く振り返ってさえ、
このように自己に気づかされます。
まして、微塵の悪も見逃されない仏さまの眼(まなこ)から
こらんになれば、すべての人間はどんな姿をしているものか。
お釈迦さまはこうおっしゃっています。
心常念悪(心常に悪を念じ)
口常言悪(口常に悪を言い)
身常行悪(身常に悪を行じ)
曽無一善(かつて一善もなし)
(大無量寿経)
ここで釈尊は、私たちの行いを心、口、身(からだ)の
三方面からごらんになっています。
これを身口意の三業といわれます。
中でも心を最も重視されています。
それは、心が口や身を動かす元だからです。
私たちのあらゆる言動は、心の命じたものなのです。
火事で言えば、心が火の元であり、
口や身に現れるのは火の粉です。
その火の元である心で、
私たちはどのような悪を造っているのでしょう。
お釈迦さまは、貪欲(欲)、愼恚(怒り)、愚痴(ねたみそねみ)
の三つと教えられています。
貪欲とはあればあるで欲しい、
なければないで欲しい欲しいと、
キリも際もなく広がっていく欲の心です。
今年4月、千葉の市長が、土木建築会社から現金約100万円を
受け取り、市発注の道路工事で便宜を図ったとして、
収賄容疑で逮捕されました。(平成21年のことです)
任期満了まであと78日のこと。
わずか100万円のために、3300万円の退職金をフイにし、
人生を棒に振っています。
また私たちは日々、欲のために人をだまし、
悲しませ、傷つけていないでしょうか。
自分を若く見せたいとタレントが年齢詐称したり、
経歴を偽って政治家が謝罪したり、
昨年、多く発覚した食品偽装も、
顧客の健康より儲け優先。
根っこには「自分さえよければ」
の恐ろしい欲の本性が横たわっているのです。
そんな底知れぬ貪欲を妨げられた時起きるのが愼恚(しんい)、
怒りの心です。
「怒」とは心の上に奴と書きます。
「あの奴が邪魔するからだ」「この奴さえいなければ」
と心の中で殺している怒りの激しさは火の如しです。
カッと怒った炎は他を焼き、自らも焼き、
親、兄弟、親友をも平気で蹴落とす恐ろしい心です。
「海苔の保管場所が気に食わない」
「名前を呼び捨てにされた」など、
ささいなきっかけで始まった怒りが、
実際の殺人となって、世を騒がせています。
愚痴は、因果の道理が分からぬ、恨みねたみの心。
他人の幸せをねたみ、人の不幸を喜ぶ悪魔のような心です。
静かに自己を振り返れば、
いずれも思い当たることばかりではないでしょうか。
私たちは、これら欲、怒り、愚痴の心で、
日々、数え切れないほどの悪を造り続けている、
とお釈迦さまは説かれています。
心がそうであれば、心に動かされている口や身も
悪に汚染されています。
過去から今日まで、一つのまことの善もできないのが
私たちなのだ、と仏さまは教えられ、
それを泥沼に例えられています。
阿弥陀仏のお力によって、
このような自己の姿に微塵の疑いもなくなった人の心に開くのが、
蓮の花のような信心なのです。
では、高原陸地に例えた「善人」とは、
どんな人なのでしょうか。
自己の実態が分からず、
「その気になれば善ができる」
「あの人と比べれば私のほうがましだろう」
「悪いことはするけど、反省する心ぐらいはあるわい」
と、うぬぼれている人のことをいわれているのです。
●何ものにも染まらぬ信花
弥陀より賜る信心は淤泥に「染まらない」とは、
蓮華は泥中にありながら、
その泥に汚されることなく美しく咲いています。
また、泥沼は泥沼のままで、
透き通った泉に変わることはありません。
これは、正しい信心を獲ても、欲や怒り、
ねたみ、そねみの心は全く変わらないことを表しています。
これら私たちを煩わせ悩ませる「煩悩」は、
死ぬまでなくなりもしなければ減りもしません。
しかし、阿弥陀如来に救い摂られ、正しい信心を獲得すれば、
いつでもどこでも煩悩いっぱいが、
幸せいっぱいとなる。
これを「煩悩即菩提」といいます。
苦悩がそのまま歓喜となる不思議さを、
親鸞聖人は次のように氷と水に例えて、説かれています。
「罪障功徳の体となる
こおりとみずのごとくにて
こおりおおきにみずおおし
さわりおおきに徳おおし」
(高僧和讃)
“弥陀に救われ、蓮華のような信心を獲得すると、
欲や怒りの煩悩(罪障)の氷が解けて、
幸せよろこぶ菩提の水(功徳の体)となる。
大きな氷ほど、解けた水が多いように、
極悪最下の親鸞こそが、極善無上の幸せ者だ”
シブ柿のシブがそのまま甘みになるように、
煩悩(苦しみ)一杯が功徳(幸せ)一杯となる、
強烈な確信に満ちた、聖人のお言葉です。
蓮のような正しい信心を獲れば、私たちも皆、
親鸞聖人と同じ喜びの世界に出させていただき、
死ねば必ず、極楽浄土に生まれさせていただける身となる。
無限に楽しい明るい人生を送ることができるのです。
いのちの問い 「なぜ生きる?」「なぜ生かす?」
人生の目的と親鸞聖人
仏教で最も重要なご文は何か
真宗の依憑(えひょう)といわれる願成就文は
我々の魂の孤独を受け止めて救えるのは弥陀のみ! [孤独]
「その心の重荷、すべてまかせよ」のお約束