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今、心から言いたい「命をありがとう」 [なぜ生きる]

今、心から言いたい

   「命をありがとう」


「銀(しろがね)も 金も玉も 何せむに

    まされる宝  子に及(し)かめやも」

『万葉集』の歌人・山上憶良(やまのうえおくら)は、

親心をみずみずしく歌っています。

この世に生を受け、親となり子となれたのは、

よくよくの因縁があってのこと。

その出会いを喜び、親は子供の成長を楽しみに、

懸命に子供を育てます。

でも、その一方で、

「なぜ、親に感謝しなければならないの?」

という声も聞こえてきます。

子供が親に、心から「ありがとう」と言えるのは、

どんな時なのでしょうか。


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「おめでとうございます。元気な赤ちゃんですよ」

かわいい産声(うぶごえ)が聞こえた瞬間、

今まで陣痛で苦しんでいた母親も、

そばで見守っていた家族も、医者も助産師も、

皆が喜びに包まれ、新しい生命の誕生を祝福します。

とりわけわが子と初めて対面した親の喜びは、

どんな宝を手にした時よりも大きいものです。

また、そこからが、育児の苦労のスタートでもあります。

生まれたばかりの赤ん坊は、だれかの世話がなければ

一日たりとも生きてはいけません。

昼夜を問わず、授乳してオムツを替えてもらい、

成長に合わせて必要な衣食住を与えてもらって、

やっと大きくなっていきます。

親は、子供が病気になれば寝ずして看病し、

おいしいものや、よい衣類や道具など、

自分は我慢してでも子供に与え、

わが子の喜ぶ姿を喜びとする。

金銭や物品だけでなく、スキンシップや笑顔、

言葉、親のぬくもり、愛情によって、

人として大切なものを受け取りながら、

子供は大人へと成長していきます。

お釈迦さまは、

父母の恩重きこと天の極まり無きがごとし

と教えられています。

私たちは、生まれてから今日まで、

両親の大変なご恩の中で生かされてきました。


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どうして、あの子が・・・

 

ところが、ご恩に感謝するどころか、

当たり前に思い、親を恨んでいる人さえあります。

そして、恩に報いるのではなく、

親を苦しめようとする人もいる。

最近、耳をふさぎたくなるような事件が聞こえてきます。

昨年7月、埼玉県の中学3年生の長女が、

寝ている父親を刺殺。

最も安心できるはずの自宅の寝室で、

娘に刺された父の驚きと悲嘆は想像に余りあります。

こんな事件を起こした女子中学生は、

どんな子だったのでしょう。

小学時代の同級生は

「頭がよくて面白い子だった」と語り、

その母親も「礼儀正しい子」と言っています。

また、長女と同じ中学に通う生徒は

「まじめで優しく、部活動を通じて

先輩や後輩に好かれていた」と言い、

成績上位者として校内に名前を

張り出されたこともあったそうです。

問題のあった生徒ではなく、普通の、

むしろ模範的な生徒だったことが分かります。

ところが、その後の調べで、

長女は成績や友人関係に悩み、

すべてを終わらせたいと

一家心中を計画していたことを

告白しています。

まじめで人気のある優等生も、

内に深刻な生きづらさを抱え、

心は悲鳴を上げていたのでしょう。

11月には、千葉県で見ず知らずの男性を車で

はね飛ばした19歳の少年が、

「仕事のことで父親に怒られ、

直前にけんかをしてイライラしていた。

だれでもいいから人をひいて殺そうと思った」

と語りました。

父親の経営する会社で働き、人一倍、

親の恩を受けたであろう少年が、

親に対する怒りから、殺人に走ってしまったのです。

親子関係を引き金とする加害者は、

未熟な十代の子供たちだけではありません。

高齢者への虐待で最も多いのは

息子からだという統計があります。

年老いて身体が不自由になった時、

最も頼りたいはずのわが子から

暴力を受ける人が少なくないのです。

「こんなはずではなかった・・・」

「どうしてあの子が・・・」

必死に育てた子供に裏切られた親の無念は、

いかばかりでしょう。

なぜ親の苦労が報われないのか。

子供は親に感謝できないのでしょうか。


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「〝子を持って知る親の恩〟、感謝できないのは、

育児の苦労を知らないからだ」

と言う意見があります。

確かに、体験を通して、親にかけた苦労を

しのぶことは多々あります。

しかし、子供を育てている人が

必ずしも育ててくれた親を大切にしているとはいえません。

反対に、子供がいなくても、

親の恩を深く感じている人もいます。

ここで、読者から寄せられた両親への思いをつづった

お便りを読んでみましょう。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

仏教を学ぶまでは、どうしても両親に恩を

感じることができませんでした。

特に父に対して、全く尊敬することができず、

恩があるとはとても思えませんでした。

しかし、仏法を聞いてハッキリしたのは、

仏縁を与えていただいたということにおいて、

大変な恩があるのだということです。

先日、父とともに仏法を聞くことができました。

それは、本当の親の恩とは何かを教えていただき、

それを少しでもお返ししようと

思えた幸せな結果だと思います。

            東京都・男性(30)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

このように、〝仏法を聞いて、親の恩を知らされた〟

〝親子関係が好転した〟というお便りは、

全国から寄せられています。

両親に感謝できない読者の心を変えたものとは、

一体、何だったのでしょうか。

 

幸せ求めてきたけれど・・・

 

私たちは皆、幸せを求めて生きています。

金や財産があればなあ、地位や名誉、健康、

家族、恋人が得られたら幸福になれるのに、

とそれらを得ようと一生懸命、努力しています。

戦後、焦土から立ち上がった人々の苦労の末、

日本は経済的に豊かになり、電話は村に一台の時代から、

一家に一台どころか、一人一台の携帯電話を

持てる時代になりました。

今や小学生も携帯電話を使いこなしています。

どこにいても遠くの人と話せ、

ボタン一つで家事ができ、自宅にいながら、

テレビやパソコンで世界の情報を得たり、

買い物したりできる。

科学の進歩によって、まことに便利な生活を

送れるようになりましたが、果たして、

求める幸せは得られたのでしょうか。


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携帯電話を持ったばかりに、連絡がないと一層、

孤独に襲われる。

メールを返信する時、相手にどう思われるかを考え、

言葉の表現や送信のタイミングにも

神経をすり減らす子供たち。

学校の裏サイトなど、大人の目につきにくい、

新たないじめの問題も発生しています。

動かずに家事ができるようになった分、

おなかに贅肉がついてしまい、

今度は、家でダイエット・マシーンに乗って

汗を流す主婦たちの姿もあります。


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苦労して、欲しかったものをやっと手に入れたのに、

その喜びもほんのしばらくで、

いつの間にか色あせている。

新たな困難が発生すると、さっきまでの幸せはどこへやら、

目の前の苦しみを取り除こうと必死になります。

「越えなばと 思いし峰に きてみれば

  なお行く先は 山路なりけり」

病気、事故、家庭や職場での人間関係、出世競争、

突然の解雇、老後の不安・・・、

一つの苦しみを乗り越えて、ヤレヤレと思う間もなく、

別の苦しみが現れる。

どこまで行っても、生きてきて本当によかった、

という満足はありません。

また、手に入れたものは永遠に自分の元にあるのではなく、

いつかは離れていきます。

永年働いて得た退職金を投資し、

株価の暴落で失った人、企業の業績悪化で、

就職の内定を取り消された人など、

手にした喜びも、いとも簡単に去っていく。

まさに、一寸先は闇です。


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人間に生まれてよかった

 

私たちが真に求めるのは、

やがて色あせてしまう幸せではありません。

どんなことがあっても崩れない、

本当の幸せになりたい、と願って生きているのです。

これを「絶対の幸福」といいます。

この変わらぬ幸福こそ、すべての人の求めるものであり、

人生の目的ではないでしょうか。

その「絶対の幸福」のあることを教え、

その幸福になれる道を明らかにされたのが仏教なのです。

 

親鸞聖人は29歳の御時、阿弥陀仏の本願によって、

絶対の幸福に救い摂られました。その世界を、

念仏者は無碍の一道なり」(歎異抄

とおっしゃっています。

無碍の一道とは、一切の障りが障りとならぬ、

素晴らしい世界です。

生きる目的を達成し、

絶対に裏切られない幸福に生かされた時、

「生きてきて、本当によかった」

という生命の歓喜が起きるのです。

これをお釈迦さまは、

人身受け難し、今已(すで)に受く。

仏法聞き難し、今已に聞く

と言われています。

生まれ難い人間に生まれることができて、よかった。

聞き難い仏法を聞けて、本当によかった

真の人生の目的を知った時、

一切の悩みも苦しみも意味を持ち、

それに向かって生きる時、

すべての努力は報われるのです。


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この命、ありがとう

 

そんな素晴らしい目的を知り、

大きな喜びにあふれている人は、

生んで育ててくれた両親のご恩を知り、

心から感謝せずにおれなくなるでしょう。

自分が生きていることを喜べなければ、

周囲がどんなに苦労して生かしてくださっていても、

心からの感謝は起きてきません。

茨城県の19歳の女性は、

仏縁を結んだ喜びを次のように語っています。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

私が仏法に遇(あ)わせていただけたのは、

両親がこの世に生んでくれたからであり、

その両親の親、そのまた親、さかのぼれば

日本の人口よりも多い先祖の存在があったからです。

仏法を聞かせていただくことができたという

最も重要な一点において、

私はこのご恩に感謝し、報いずにいられません。

私には真実を知らされた喜びがあります。

それが私の原動力です。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

生きることの意味を知れば、

自分に命を与えてくれた両親や先祖のご恩を感じ、

そのご恩に報いようという心になれるのです。

ギクシャクしていた親子関係が、

仏教を聞くようになって好転した、

と語る読者もいます。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

両親のおかげで私が人間に生まれ、

今、仏法を聞かせていただけると思うと、

大変な恩を受けていることが知らされます。

私は小学校高学年のころから反抗期で、

両親に迷惑をかけ通しでした。

親子関係がギクシャクして、

悩むことが多々ありました。

しかし、仏法を知らされてから、

何とか両親にもこの教えを伝えたい、

と思いました。

仏縁を念じて手紙を出したり、帰省した時に、

家の手伝いをしたりしています。

すると、父は『とどろき』を会社の人に配るようになり、

母も私の話に耳を傾けてくれるようになりました。

両親の大恩に報いる道は、私が光に向かって

進ませていただく以外にないと、

ますます元気がわいてきます。  大阪府・女性(23)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

仏法で心が通い合う家族の様子が

髣髴(ほうふつ)とするようです。

生きるために必要なものは、たくさんあります。

それらを与えていただいたからこそ、

今日まで生きることができたのです。

人は決して、一人で生まれて成長することはできません。

では、そうやって生きている人にとって

最も大切なことは何か。

それは、どんなに苦しくとも生きねばならない、

全生命を投入して悔いなし、といえる人生の目的です。

その目的を知り、達成し、

「人間に生まれてよかった」

という喜びに満たされてこそ、

「生んでくれて、本当にありがとう」

と心から言えるのです。

大切な家族とともに、親鸞聖人の教えを聞き求め、

生命の歓喜にあふれる、真の家族とならせていただきましょう。

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今なら言える 

    「ありがとう」

「仏法に出遇って人生が変わった」

読者の体験手記を紹介するコーナー。

大学院でモンゴル語を研究する宮本さん(25)は、

モンゴルへの留学経験もあります。

「なぜ生きるんだろう」と悩んだ高校時代を経て、

生きる目的を知った喜びを語ります。

 

私は会社員の父と小学校教諭の母の元に生まれました。

両親は、私が

「公文式をやりたい」

と言えばさせてくれ、

「塾に行きたい」と言えば行かせてくれました。

両親に褒められるのがうれしくて、

勉強もスポーツも頑張りました。

いい高校に入って、いい大学に行って、

いい会社に就職する。

エリート人生こそ、素晴らしい人生なんだ、

と思っていました。

しかし、その考えは高校に入って、

大きく揺らぎました。

「なぜ」ということをよく考えるようになったからです。

私は、なぜ勉強しているのか。

なぜ大学に行くのか。

結局死んでしまうのに、

何をそんなに頑張っているんだろう、

と疑問になったのです。

このころ、私は精神的にとても不安定で、

何より人に接するのが怖くてなりませんでした。

「学校をやめたい」と本気で思っていましたが、

だれにも相談できませんでした。

「こんなに苦しい人生なら、

生んでくれなければよかったのに」

高校のころ、ずっと思っていたことです。

〝ほかの人はなぜこんな人生、生きていられるんだろう〟

と思い、倫理の勉強に打ち込み、

テレビ番組『プロジェクトX』も欠かさず見ていました。

しかし、そこから分かるのは他人の答えであって、

私の答えではありませんでした。

疑問は晴れぬまま、3年生になりました。

正直なところ、大学を受験する気はありませんんでした。

母に、「大学に入れば楽しいから」

と説得されましたが、

「お母さんは楽しかったかもしれないけれど、

私とお母さんは違う」

と受験を拒みました。

〝人と接することができない私は、

皆と同じようには生きていけない。

かといって自殺する勇気もない。

ならば尼さんになろう!〟

と思いました。

しかし両親に言い出せずにいるうちに、

「受験校を決めなさい」

と先手を打たれました。

〝やっぱり普通に生きて欲しいだろうな〟

と思い、もし大学に行っても何も変わらなければ、

その時は尼さんになろう、と受験を決意しました。

無事に合格して4月、大学の門をくぐりました。

その学生時代に、親鸞聖人の教えに出遇うことができたのです。

人として生まれた意味、本当の幸せとは・・・、

聞く話、聞く話が、驚きの連続でした。

〝人生とは素晴らしいものだったんだ!〟

結局死ぬのに、なぜ頑張って生きなければならないのか、

という疑問はなくなりました。

それまで、人と仲良くする意味も分からず、

自分から話しかけることのなかった私ですが、

生きる意味を知ってもらいたい、

と思うようになり、いろいろな人と

コミュニケーションをとるようになりました。

何より、心から笑えるようになったのが、

信じられない変化でした。

学ぶ環境も、留学もすべて両親が与えてくれたもの。

苦労して稼いだお金を私のために使ってくれる。

そんな両親がいなければ、

生きる意味を知ることはできませんでした。

つらかったとはいえ、

「生まれてこなければよかった」

と思ってしまったこと、申し訳なく思います。

生きる目的が分からなければ、

両親から受けた恩に本当に感謝することはできないのですね。

特に逆境の時は、感謝どころか、恨んでしまいます。

でも、生きる意味を知ると、たとえ逆境であっても、

「生まれてこなければ」

という後ろ向きな気持ちはもう出てきません。

今、両親に、

「生んでくれてありがとう」

と心から言えます。

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聖道の慈悲と浄土の慈悲とは!? [なぜ生きる]

昨今の“”古典ブームで、仏教書が脚光を集めています。
中でも『歎異抄』は、右翼の活動家から左翼の思想家まで、
最も広範な読者を持つ仏教書の筆頭。
世界の光といわれる親鸞聖人の肉声が、
国宝と評される名文でつづられています。

しかし、それほど魅了してやまぬ名著に何が説かれているか、
肝心の内容を知る人は少ないようです。
今回はその『歎異抄』の言葉を通して学びましょう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
●慈悲といっても
       2つある

今春、朝日新聞に「親鸞思想よ もう一度」
という記事が掲載されました。
七百五十回忌を前に、
聖人の教えが再び注目されていると報じたもので、
記事に紹介された学者は、
「戦争や紛争などが大きな問題になるなか、
親鸞の思想はますます重要になる」
と聖人の教えの魅力を述べています。

(平成20年のとどろきより載せています)
その聖人の思想を知ろうとすれば、
一般にまず思い当たるのが『歎異抄』でしょう。

そこで大事なのは、珠玉のお言葉に込められた真意を
正しく知ることです。
最近でも『歎異抄』の一節を想起する
事故や事件が相次いで起きています。

五月、中国・四川地方を襲った大地震で、
深山に囲まれた村々は壊滅状態に陥りました。
崩壊した学校のガレキの下から子供たちが救い出される一方で、
多数の生き埋めのまま救助が打ち切られたと報じられ、
だれもが心痛めたことでしょう。

その少し前、サイクロンがミャンマーを襲い、
十万人余りが被害に遭ったのも記憶に新しいところです。
何とか立ち直ってもらいたいと、
いずれの被災地にも世界中からお金や物資が送られ、
現地へ赴いての救援活動もなされました。
苦しみにあえぐ人を何とか救いたい。
だれもが抱く思いです。

このような災害の報に接する時、
『歎異抄』第四章のお言葉が思い出されます。

慈悲に聖道・浄土のかわりめあり
「慈悲」に「聖道の慈悲」と「浄土の慈悲」の2つがある

ここで「聖道の慈悲」「浄土の慈悲」といわれる「慈悲」
とはどういうことでしょうか。

親鸞聖人は次のように仰せられています。
苦を抜くを『慈』と曰う、
楽を与うるを『悲』と曰う
」(教行信証

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苦を抜き、楽(幸せ)を与える。
慈悲には「抜苦与楽」の意味があり、
これが仏教の目的です。

「慈悲には2つある」と聖人がおっしゃっているのは、
その苦しみと幸せに2つあることを教えられているのです。

●せっかく
   助かったのに・・・

ではまず「聖道の慈悲」で教えられる苦しみ、
幸せとは何でしょう。

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生活の不便や困難(苦)を取り除き、
命を守り育む(楽)ことで、
一刻も早い復興を願って、被災地に義援金や物資を
送ったりするのはことに当たります。

被害を乗り越えるには、
とても大事な働きかけで、
人助けと聞けばほとんどの人がこれを実行します。
しかし生活物資や医療だけで、
私たちは変わらぬ本当の幸福になれるでしょうか。

平成7年の阪神大震災では、
国や自治体、多くの人に善意によって、
仮設住宅や最低限の生活が維持されてきましたが、
レスキュー隊などの活躍で命を救われたのに、
自ら命を絶つ人が数多くありました。

「せっかく助かったのに、どうして?」
「なんのための救助だったのか」
救援活動の意味を問う声が上がりました。

(平成20年のとどろきより載せています)
家族や財産を失い、打ちひしがれている人の、
心のケアはどうでしょう。
苦難を乗り越えて生きるのは何のためなのか。
「生きる意味」「命の価値」こそ
最も訴えねばならないことだと分かります。
そしてそれは、災害時に限らず、
万人に、絶えず問われていることではないでしょうか。

●でも、生きる意味が
       分からない

5月下旬、元TBSのアナウンサー、川田亜子さんが、
車内で練炭自殺を図りました。
「母の日に、私は悪魔になってしまいました」
「生んでくれた母に、生きている意味を聞いてしまいました」
自身のブログにこうつづった彼女は、
少し前から不調を訴え、周囲からは心配や励ましが
寄せられていました。
具体的に相談を受けた知人や医師もあり、
その中、“なぜ止められなかったのか”
と悔やむ人もあるようです。
私たちの日常には、
「なぜか満たされない」
「何となく不安だ」
と絶えず小さな不安や不満があります。
それを解消するため「金があればなぁ」
「家族さえいれば」「有名になりたい」「出世したい」
「家を持ちたらいい」「恋人が欲しい」など、
欲望の赴くままに、あくせく求めています。
もし金や物、名誉や地位のないのが苦しみの根元ならば、
それらに恵まれた人生は、喜びに輝いているに違いありません。
しかし、望み通りの仕事に恵まれ、
悩みながらも、それを支えてくれる人が周囲にあった川田さんが
「生きる意味」が分からないと命を絶っています。
表面上は恵まれていても、なぜか持て余し、
幸福感を持てずにいる人が、
世の中には実に多くあるようです。

 

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「功成り、名遂げた」は、古くは戦国武将、
今なら政治家や大企業の創業者に使う形容詞。
松下電器の松下幸之助さんは、
その筆頭に挙がる一人でしょう。
そんな幸之助さんが最晩年に人生を振り返り、
自分が最もやりたかったことを何もしなかったような気がする、
という意味のことを述懐したといわれます。
ある作家はこれを評して、
「彼はもう、働かなくてもよくなったのちも、
いつまでも埋まらない心の空洞を埋める作業を
やめられなかったのだろう」
と述べています。
若いころ、300人ほどの従業員とともに
働いていた時分が一番楽しかった、
という幸之助氏の言葉を聞くと、
人間の幸せとは何なのか、だれしも考えさせられます。

●有っても苦・・・
   無くても苦・・・!?

仏教を説かれたお釈迦さまは、
次のように教えられています。

田無ければ、また憂いて、田有らんことを欲し、
宅無ければ、また憂いて宅有らんことを欲す。
田有れば田を憂え、宅有れば宅を憂う。
牛馬・六畜・奴婢・銭財・衣食・什物、
また共にこれを憂う。
有無同じく然り

           (大無量寿経

田畑や家が無ければ、それらを求めて苦しみ、
有れば、管理や維持のためにまた苦しむ。
そのほかのものにしても、皆同じである

無ければないことを苦しみ、有ればあることで苦しむ。
有る者は“金の鎖”、無い者は“鉄の鎖”に
つながれているといってもいいでしょう。
材質が金であろうと鉄であろうと、
苦しんでいることに変わりはありません。
これをお釈迦さまは「有無同然」といわれました。

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どんなにお金を手に入れても、仕事で成功を収めても、
苦悩の根元を知り、取り除かない限り、
ポッカリした心の空洞は満たせない。

苦しみの原因を正しく知らねば、
本当に苦を抜くことはできません。

それがかなわなければ、
本当の幸福が与えられることもできないでしょう。
肉体の病気でも、病因を正しく知らなければ、
全快できません。

例えば「腹痛」といっても、胃か腸か。
腸にも大腸、小腸、十二指腸とさまざまな部位がある。
胃でも、軽い胃炎から潰瘍、末期ガンまで、
症状は幾通りもありましょう。
それらを的確に診断しなければ、
痛みも癒えず、苦しむばかりです。
病因を正しく突き止めることが、
治療の先決問題だと分かります。

人生も同じ。
苦しみの真因が分からねば、
人生苦悩の解決は決してありません。

●苦悩の真因を破り、
    無上の幸福に救う

親鸞聖人は、その苦悩の根元を、
生死輪転の家に還来することは、
決するに疑情を以て所止と為す
」(正信偈
と、ズバリ断言されているのです。
安心、満足というゴールのない円周を、
限りなく回って苦しんでいるさまを
「生死輪転」といい、家を離れて生きられないように、
離れ切れぬ苦しみを「家」と例えらています。
「人生の終わりなき苦しみ」のことです。

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その根本解決を、「疑情ひとつ」とおっしゃっています。
「疑情」とは、「無明の闇」ともいわれます。
「無明」も「闇」も暗いこと。
暗いとは、分からないことをいいます。
では何に暗い心か。
「後生」に暗いのです。
後生とは死後のこと。
だれもが百パーセント行き着く先です。
それが暗いから、魂の行く先が分からないのです。
自分の未来が分からない、底知れぬ不安を、
人は皆抱えて生きています。
この不安あるままで、何をどんなに手に入れても、
心底楽しむことはできません。

換言すれば、「なぜ生きているのか」が
サッパリ分からない心なのです。

この苦悩の根元・無明の闇を破ると誓われたのが、
大宇宙の仏方の本師本仏(指導者)である阿弥陀仏です。

阿弥陀仏のなされたお約束どおりの身に救い摂られた時、
「生きる本当の意味」がハッキリする。
必ずその身になれるから、
早くなりなさいよ、との親鸞聖人のお言葉が、
計り知れない重みを持って響いてきます。
浄土の慈悲」とは「無明の闇」(苦)をぶち破って、
無限に明るい、楽しい心に生まれ変わらせる(楽)こと。
この抜苦与楽を「破闇満願」ともいいます。

阿弥陀仏のお力によって「無明の闇」が破られ、
願いが満たされるから、

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「ああ、生まれてよかった」
の生命の歓喜が必ず起こります。
いつ死んでも浄土往生間違いない身に定まりますから、
無碍の一道に出られるのです。

そんな、とてつもない世界を、『歎異抄』に聞いてみましょう。

念仏者は無碍の一道なり。
そのいわれ如何とならば、
信心の行者には、天神・地祇も敬伏し、
魔界・外道も障碍することなし。
罪悪も業報も感ずることあたわず、
諸善も及ぶことなきゆえに、
無碍の一道なり、と云々

         (第七章)

弥陀に救われ念仏する者は、
一切が碍にならぬ幸福者である。
なぜならば、弥陀より信心を賜った者には、
天地の神も敬って頭を下げ、
悪魔や外道の輩も妨げることができなくなる。
犯したどんな大罪も苦とはならず、
いかに優れた善行の結果も及ばないから、
絶対の幸福者である

聖人は仰せになりました。

名著『歎異抄』には、
阿弥陀仏の救いが説かれています。
第四章の浄土の慈悲」は、
阿弥陀仏の絶大な本願力によって自身が救い摂られ、
その教えを一人でも多く伝えること。
この仏教の目的を果たすには、
まず「命」が大事です。
衣食住も必要です。

それら生きる手段を与えるのが
聖道の慈悲」であることを明示されているのです。


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死を解決できれば限りなく明るい未来が開かれる! [なぜ生きる]

限りなく

  明るい未来が開かれる

 

絶対の幸福とは

往生が今ハッキリすること

 

すべての人は「絶対の幸福」になるために生まれてきた、

と親鸞聖人は教えられました。

それはどんな幸福なのでしょうか。

 

●生きる意味は「幸福」

 

「人は皆、幸せを求めて生きている。

人生の目的は幸福である」

とパスカルも言っていますが、

「幸福」と聞いて、どんなことが思い浮かぶでしょう。

おいしいケーキを食べて、〝うーん、幸せ〟

ということもあれば、温泉につかって、

〝ああ~、極楽ゴクラク〟といい気分に

鼻唄が飛び出すこともあるでしょう。

見たこともない絶景に、〝うわー、感動だぁ〟

と叫ぶこともありましょう。

確かに、皆いい気分であり、幸せには違いないのですが、

残念なことには、これらの幸せは皆、続きません。

一口で言うと、飽きてしまいます。

飽きてもさらに続くと、やがて苦痛に変わっていきます。

つまり、それらは、本質的な意味での幸福ではないのです。

もっと別なものなら、どうでしょう。

生活のクオリティー(質)の向上とか、仕事の成功とか、

自己実現とか、さまざまなことが挙げられます。

刹那的な快楽と比べれば、長続きしそうですが、

いずれもキリのないことばかりで、

どこまでいっても「これで達成、満足できた」

ということがありません。

また、崩れる不安は常に付きまとい、

やはり永続するものではないのです。

 

ところが、親鸞聖人は、

「死ぬまで変わらない絶対の幸福がある。

そんな幸せになりなさい」

と断言されています。

「ええ、絶対の幸福?そんな幸せ、本当にあるの?」

と誰でも驚かれるでしょう。

 

なぜ親鸞聖人は、このような断言ができたのでしょうか。

 

●苦しみの根本原因は「無明の闇」

 

仏教では、私たちの苦しみの根本原因を「無明の闇

と教えられます。

「無明の闇」とは「死んだらどうなるか分からない心」

のことで、「死後に暗い心」をいいます。

暗い、とはハッキリしない、よく分からないこと。

「機械に暗い」と言えば機械音痴のことだし、

「この辺りの地理に暗い」と言えば、

土地勘がないことを意味します。


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巻頭の「特集」で現在と未来の関係を、

台所とトイレの例えで学びました。

私たちが今、真に明るい心になれないのは、

この無明の闇という暗い心が覆っているからだと、

仏教は説くのです。

 

「十五 十六 十七と 私の人生 暗かった」

かつて、こんな歌が流行しました。

人生が暗い、とは、未来がボンヤリして明るい展望がない、

ということでしょう。

たとえ今が、どんなにつらくとも、未来に展望があれば、

人は明るく生きられます。

逆に、どんなにリッチで裕福な生活をしていても、

未来が暗ければ、心は暗いのです。

 

人生は、日々、不確実な事件の連続ですが、

たった一つの確実な未来は、すべての人に

必ず死が訪れるということです。

 

お釈迦さまが入山学道された動機は、

この生死を超越した世界を求めてのことであり、

親鸞聖人はわずか9歳で、

「死ねばどうなるか」の暗い心に悩まれ、

それ一つ明らかになりたいと仏門に入られました。

大統領だろうが、ホームレスだろうが、

死と無関係の人は一人もありません。

 

20世紀最大の哲学者といわれるハイデッガーは、

人間は、死に向かって生きている存在であり、

常に死んだらどうなるかの問題意識を持つことこそが、

本来の人間なのである。

だが多くの人は、死を忘れて堕落している

と説いています。

 

●宿のなき身はどんな心地か

 

いかに死の問題が、私たちの人生に大きな影響を与えているか。

その問題が解決できると、どう心が変わるのか。

2首の古歌では、こう表されています。

 

ふみ迷う

  知らぬ旅路の 夕暮れに

    宿のなき身の 心地こそすれ


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ある旅人が、山中で道に迷った。

方角も立たず、どこも見たような景色で

〝どうしたらよいか〟と途方に暮れる。

徐々に日も落ち、〝このまま日が暮れたら、

山賊や熊に襲われるかも・・・〟

と心は焦るばかり。

先の歌はそんな心細さを詠んでいます。

ところがその時、〝あっ、向こうに灯が!〟

と人家を見つけたら、〝早速、宿をお願いしよう〟

と希望が湧いてくる。

その家の主人が〝どうぞ、ゆっくりお泊まりください〟

と快諾した瞬間に、心は〝ああよかった。これで安心だ〟

とガラリと明るくなるでしょう。

 

ふみ迷う

  知らぬ旅路の 夕暮れに

    宿をとりたる  心地こそすれ

 

先の歌と後の歌は、「宿のなき身の心地」か、

「宿をとりたる心地」かで、心は大変わりしているのです。

 

今年2月の受験シーズンに、福岡県でこんなことがありました。

国公立大学の2次試験の行われる土日に、

福岡の大規模な会場で、2組の人気グループのコンサートが

予定されていた。

入場者は5万人を超え、県内の宿泊施設は予約で満杯。

しかも、同日に薬剤師の国家試験もあり、

受験生から「宿が取れない」と苦情が殺到した。

受験生の娘を持つ父親(広島県)は、

前日から隣の佐賀県に宿泊させるか、

新幹線で当日向かわせるか〝どちらも天気次第で心配〟

と悩んでいた。

一生を左右する大学受験、宿の事情で遅刻したり、

試験会場に着けなかったら大変だ、どうしよう、

と「宿のなき身」の心細さを味わったことでしょう。

ところが程なくして、行政やボランティアの活躍で、

隣県や県内企業、一般の人たちの善意で宿が提供され、

ヤレヤレ安心できたといいます。

 

人生の日没が迫っているのに、

宿(往生)の確保ができていない焦りや心細さはどうでしょう。

ところが宿(往生)が確定した瞬間から、

その焦りや不安は全て雲散霧消し、

大安心の後生明るい心となるのです。

 

●明るい未来がハッキリする

 

「無明の闇」後生暗い心が、平生の一念に照破され、

後生明るい心に生まれ変わったことを、

絶対の幸福といわれます。

いつ死んでも阿弥陀仏の極楽往生に往って、仏に生まれる身に

なったことで、これを「往生一定」といいます。

有名な蓮如上人の「領解文」に、

「たのむ一念のとき、往生一定・御たすけ治定とぞんじ」

と仰っているとおりです。

 

「往生」とは、浄土へ〝往〟き、仏に〝生〟まれること。

「一定」とはハッキリすること。

生きている今、無明の闇が破られた人は、

死後、浄土へ往って仏になることがハッキリいたします。

往生できるか否かは、平生に無明の闇が破られたか否かで決まる。

死後の往生が、生きている時に本決まりになるのです。

 

親鸞聖人が

「光明の広海に浮かんだ」

と仰ったのは、この絶対の幸福の表明です。

明日のことさえ分からない私たちが、

どうして後生明るい心になって、

絶対の幸福が獲られるのでしょう。

それは阿弥陀仏の光明(智慧)によってなれるのだ、

とお釈迦さまも、親鸞聖人も説かれています。

阿弥陀仏とはどんな仏さまでしょうか。

大宇宙には地球のような世界が数限りなく存在し、

それぞれに地球の釈迦仏のように、

仏さまがまします、と教えられています。

その宇宙の無数の仏方が口をそろえ、

褒めたたえる本師本仏(先生)が阿弥陀仏という仏さまです。

阿弥陀仏は、すべての人の苦悩の根元である

無明の闇を照破し、後生明るい、絶対の幸福に

必ず救い摂ってみせる、と誓っておられます。

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●弥陀の智慧光が心の闇を照破する

 

このことを親鸞聖人は『教行信証』に、

 

無碍の光明は無明の闇を破する慧日なり

阿弥陀仏の光明は無明の闇を破り、

人生を明るくする智慧の太陽である

 

と仰り、また和讃には、

 

無明の闇を破するゆえ

智慧光仏となづけたり

一切諸仏三乗衆

ともに嘆誉(たんにょ)したまえり」(浄土和讃

阿弥陀仏には、すべての人の苦悩の元凶である

無明の闇〈後生暗い心〉を破り、

往生一定に救い摂る働きがあるから、

大宇宙のすべての仏や菩薩が〝智慧光仏〟と

弥陀を絶賛されているのである

 

とも仰っています。

阿弥陀仏は、無明の闇を照破する限りなき力「智慧光」を

持たれた唯一の仏さまだから、

大宇宙にすべての仏も菩薩も皆、

阿弥陀仏を「智慧光仏」と絶賛されるのだよと、

聖人は仰っています。

その阿弥陀仏の智慧の働きによって「往生間違いなし」と

私の未来がハッキリするのです。

知恵とは先を知る働き、ともいえましょう。

碁や将棋の強い人は何十手も先が見えるといいます。

その道の知恵があるからです。

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誰もが、先を読む知恵をもって安心して生きたいと願っています。

弥陀の智慧光によって心の闇の晴れた人は、

まさに人生の知恵者になれる、と蓮如上人は、

たとい一文不知の尼入道なりというとも後世を知るを智者とす

                    (御文章

最も大事なことを知る人こそ智者である。

たとえ文字が全く読めなくても、

いつ死んでも浄土往生間違いなしと、

未来の明るい人が本当の智者といえよう

 

と言われています。

 

人生苦の根元である無明の闇が破られ、

未来の幸せがハッキリすると、

この世から、明るく楽しい絶対の幸福(往生一定)に

生きることができるのです。

この絶対の幸福こそが、私たちがこの世に生まれてきた目的です。

その目的を果たすためには、阿弥陀仏の本願を聞く一つ。

真剣に、よくよく聞かせていただきましょう。

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どんな極悪人をも救い切る弥陀の本願力 [阿弥陀仏]


願力無窮にましませば
罪業深重もおもからず
仏智無辺にましませば
散乱放逸もすてられず

       (正像末和讃)


阿弥陀仏には、どんな極悪人をも救い切る、
ものすごいお力があると教えられた親鸞聖人の「ご和讃」です。


●「願力」=「阿弥陀仏の本願力」


初めの「願力」とは、“阿弥陀仏の本願のお力”のこと。
阿弥陀仏は、大宇宙の諸仏から本師本仏と仰がれる最尊第一の仏さまで、
釈迦の経典には、
   阿弥陀仏は、諸仏の中の王なり(大阿弥陀経)
阿弥陀仏は、大宇宙にまします多くの仏方の王様だ、
と説かれています。
蓮如上人も、


阿弥陀如来は三世諸仏の為には本師・師匠なれば、
その師匠の仏をたのまんには
いかでか弟子の諸仏のこれを喜びたまわざるべきや。
この謂を以て、よくよく心得べし

        (御文章二帖目九通)
阿弥陀仏は諸仏の本師本仏であることを、
懇ろに教導されています。


次に「本願」とは、「お約束」のことです。
だから「誓願」ともいわれます。
本師本仏の阿弥陀仏は誰と、どんなお約束をなさっているのでしょうか。
阿弥陀仏の約束の相手は「十方衆生」。
十方とは仏教で大宇宙をいい、
衆生とは生きとし生けるものすべてのことですから、
古今東西のすべての人と弥陀は約束されているのです。
弥陀のお約束の相手に入らない人は一人もありません。
大日如来や薬師如来など、大宇宙に無数の諸仏がおられても、
「われら一切衆生を平等に救わんと誓いたまいて、
無上の誓願を発して」(御文章二帖目八通)くだされている仏は
阿弥陀仏だけですから、弥陀の本願のみを
「弘誓(弘い誓い)」といわれるのです。
その弥陀のお約束を平易に表現すれば、次のようになりましょう。


どんな人をも
必ず助ける
絶対の幸福に


古今東西の全人類を、必ず絶対の幸福(往生一定)に救ってみせる、
と誓われているのです。

こんな素晴らしいお約束は他には絶対ありませんから、
『正信偈』に親鸞聖人は、「無上殊勝の願(この上ない殊に勝れたお約束)とも
希有の大弘誓(大宇宙に二つとない素晴らしいお誓い)」とも言われています。


蓮如上人は『御文章』に阿弥陀仏の本願の偉大さを、
諸仏の本願と比較して、こう教えられています。


抑(そもそも)、諸仏の悲願に弥陀の本願の勝れましましたる、
その謂を委しく尋ぬるに、既に十方の諸仏と申すは、
至りて罪深き衆生と、五障・三従(ごしょう・さんしょう)の女人をば、
助けたまわざるなり。
この故に「諸仏の願に阿弥陀仏の本願は勝れたり」と申すなり

                    (御文章三帖目五通)


私たちは、極めて罪深い者(至りて罪深き衆生)であるから、
大宇宙の仏方は助けることができなかったのだ。
そして次に、


さて、「弥陀如来の超世の大願は、いかなる機の衆生を救いましますぞ」
と申せば、十悪・五逆の罪人も、五障・三従の女人に至るまでも、
皆悉くもらざず助けたまえる大願なり

                    (御文章三帖目五通)
と言われています。


ここで「十悪・五逆の罪人」とは、
仏さまの眼からごらんになった古今東西の全人類の姿です。
“罪人”と聞くと、窃盗、横領、恐喝、殺人罪など、
法律を犯した人のことだと思われるでしょうが、
ここでいわれる「罪人」はそれだけではありません。
すべての人を“罪人”と言われているのです。

「警察に捕まるようなことはやっていないのに、
どんな罪を犯したというのか」と、反発したくなりましょう。
それは、仏教で説かれている「十悪」「五逆罪」を犯した罪人である、
と仰せです。


●全人類の罪・・・十悪


仏教では、私たちの犯すいろいろの罪悪をまとめて、
十悪」と教えられています。
その中の一つ、「殺生罪」は生き物を殺す罪です。
人を殺せば刑務所行きだと誰でも分かりますが、
牛や豚、鶏や魚を食べたり、ハエや蚊を駆除したりするのは、
「仕方のないこと」と、誰も悪いとは思っていない。
しかし、どんな生き物も死が苦しみであることは
我々と変わりません。
捕まえた鶏がバタバタもがくのも、
漁船の甲板で魚がピチピチ跳ねるのも、
死にたくないからです。
それを「活きがいいなぁ」「こりゃ、うまそうだ」と、
人間は好んで食べる。
殺される生き物たちは、人間は何と残酷なものか、
と強く呪って死んでいるに違いありません。
お釈迦さまは「すべての生命は平等であり、上下はない」
と教えられています。

人間の命だけを尊いと考えるのは人間の勝手な言い分で、
相手が動物でも虫でも、殺生は恐ろしい罪なのです。


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●全人類の罪・・・五逆罪


五逆罪」とは、仏教で地獄行きの五つの恐ろしい罪をいい、
中でも最初に挙げられるのが親殺しです。
赤ん坊の頃は、昼も夜もお乳を飲ませてもらったり、
おむつを取り替えてもらいました。
病気になった時、寝ずに看病してもらった人もあるでしょう。
離れて暮らせば、「元気でいるか」「しっかり食べているの?」
「いい友達できた?」と、いつも心配してもらって、
私たちは成長してきたのです。
今年の八月、若手俳優が暴行容疑で逮捕され、
女優の母親が、多くの報道陣を前に謝罪会見したことが
テレビで報じられた。
38歳で生んだ息子は、アトピーやぜんそくもあって病気がち。
救急車で病院に連れていくこともたびたびあったという。
女優として働きながら、女手一つで育てた息子がようやく成人。
俳優として人気が出始め、まさにこれからという時の逮捕だった。
そんなことになっても、母親は、
「私はどんなことがあってもお母さんだからね」
と、警察署で面会した息子に語ったといいます。
わが子を慈しむ親心に、息子は何を感じたでしょう。


そんな大恩ある親を殺すのは、言うまでもなく大罪です。
ところが、親鸞聖人は、


親をそしる者をば五逆の者と申すなり(末灯鈔)


と教誨(きょうかい)され、親をそしるのも五逆の罪なのだと
言われています。


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「うるさいな!」「あっちへ行け!」と暴言を吐くのは無論ですが、
「いつまで生きるつもりなのか」と、
年老いた親を邪魔に思うだけでも
親殺しの五逆罪だと戒められているのです。


果たしてこれを、他人事として片づけられるでしょうか。


ある生命保険会社が制作したCM。
画面には「2分9秒38」という時間が表示されている。
東京に上京し、家庭を築き、忙しくも充実した生活を送る男性。
仕事のことばかり考える毎日の中で、
時折、かかってくる母親からの電話。
「何?今、会議中だからさ・・・」
とすげなく切る。
両親が息子の顔を見に東京に来てくれる。
母親が畑の野菜で作った漬物を渡そうとすると、
苦々しい表情で、「これ持って得意先に行けないよ」
と受け取らない。近況を尋ねる両親に、
「悪いけど俺、時間がないんだ」
と、急いで立ち去る息子を母親が呼び止める。
「次はいつ話せるの?」
男性は、何を言っているんだ、という顔で、
「また、いつでも話せるだろ」と一言。
「2分9秒38」は、男性が3か月で両親と話した合計時間。
そのままの関係が続けば20年でたったの3時間しか
会話しないことになる。
親子のつながりを見直すことを訴えかけるCMだった。
四六時中、自分のことを大切に思ってくれている両親に、
自分がどれほど心をかけ、大事に思っているか。
会話さえも煩わしく思って、ないがしろにしてはいないか。
反省させられる内容でした。


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7月に放送されたNHKのドキュメンタリー番組では、
介護問題をテーマに、介護の切実な現実をリポートし、
大きな反響を呼びました。
認知症になった母親と同居し、
11年にわたって介護を続けている50代の男性は、
当初、母親の介護を妻に任せていたが離婚。
一人で介護をすることになり、勤めていた不動産会社を退職して、
今は母親の年金で暮らしている。
「いちばんつらいのは自由がないこと」
「手足を鎖につながれた牢獄にいるようだ」
と介護の苦衷を漏らす。
5年前、母親が脳梗塞で倒れた時、
倒れている母親を前にして呆然と眺めていたという。
「このまま放置して、おふくろがいなくなれが介護が終わる。
やっと自由になれる・・・」
そんな心が去来したことを、救急車を呼ぶのをためらった自分を
強く後悔しながら告白していました。


さるべき業縁の催せば、如何なる振舞もすべし(歎異抄)


「縁が来たら、どんなことでもする親鸞だ」と親鸞聖人は仰っています。
何をしでかすか分からない業縁を、どんな人も持っている。
私たちは、そんな「十悪・五逆の罪人」だから、
大宇宙の仏さまは、これではとても助けることはできぬ、
とさじを投げてしまわれたのです。


●「どんな極悪人も助ける」本願


では、我々は助からないのでしょうか。
そうではありません。蓮如上人の『御文章』を再度、
拝読しましょう。


「弥陀如来の超世の大願は、いかなる機の衆生を救いましますぞ」
と申せば、十悪・五逆の罪人も、五障・三従の女人に至るまでも、
皆悉くもらさず助けたまえる大願なり

              (御文章三帖目五通)


こんな諸仏に捨てられた者だからこそ、
救わずにいられないと、ただ一人、立ち上がられた仏が
大慈大悲の阿弥陀如来なのです。

このようにして建てられた弥陀の本願を『歎異抄』には、


罪悪深重・煩悩熾盛(ぼんのうしじょう)の衆生を
たすけんがための願にてまします


と教えられ、阿弥陀仏は、欲や怒り、妬みそねみの煩悩の激しい、
最も罪の重い極悪人を助けるために本願を建てられたのだよ、

と言われています。
そして、弥陀がどんな極悪人も救いお誓いを建ててくだされたからこそ、
親鸞は救われた。
無量の悪業をもった親鸞一人を助けんがためのご本願であった、
と聖人は、弥陀の本願力不思議に、こう感泣なされています。


弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、
ひとえに親鸞一人がためなりけり、
されば若干(そくばく)の業をもちける身にてありけるを、
助けんと思召したちける本願のかたじけなさよ

              (歎異抄)


大宇宙の諸仏も見捨てた極悪の親鸞を、
救い摂ってくだされたのは、
弥陀の無限の本願力以外になかった
、と知らされて、


願力無窮にましませば
罪業深重もおもからず


と、ご和讃に褒めたたえられているのです。


●「決して見捨てはしない」


仏智無辺にましませば
散乱放逸もすてられず


と仰っているのは、「仏智」とは、阿弥陀仏のお力のこと。
その弥陀のお力が「無辺」であるとは、限界がないということです。
「散乱放逸」とは、思いに任せて悪を、やりたい放題、
やり散らしている我々の実態を仰ったものです。
そんな箸にも棒にもかからぬ極悪人が十方衆生(すべての人)だから、
大宇宙の諸仏はあきれて逃げたのです。
しかし、弥陀はそんな私たちを、「決して見捨てはせぬぞ」と、
底なしの大慈悲心で無上の誓願を建立してくだされた。

その弥陀の本願力によって平生ただ今、
救い摂られたことを親鸞聖人は、


誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法
               (教行信証
ああ、阿弥陀仏の摂取不捨のお約束、
まことであったなあ


と宣言されています。


罪業は深重、散乱放逸で大宇宙の諸仏に
見捨てられた自己の真実と、そんな私を「必ず救う」弥陀の本願を、
疑いなく信知させられた表明です。
“十方衆生(すべての人)が極悪人とは、おかしい”
“諸仏に捨てられたって?そんな悪人とは思わない”
“私のような者は救われないのではなかろうか”
と思っているのは、すべての人を罪業深重・散乱放逸と見て取られ、
無窮の願力と無辺の仏智で「必ず助ける」と誓われた本願を、
真っ向から疑っている証です。
この本願に対する疑心を本願疑惑心とか、疑情とか、
自力の心、不定の心ともいわれます。


このような疑心がツユチリほどでもある間は
救われていないのであると、蓮如上人は、


これ更に疑う心露ほどもあるべからず
            (御文章五帖目二十一通)
と明らかにされています。そして、


命のうちに不審もとくとく晴れられ候わでは
定めて後悔のみにて候わんずるぞ、
御心得あるべく候
 
        (御文章一帖目六通)
本願に疑い晴れていなければ、
必ず、後悔するであろう


と教誡されています。


「誠なるかなや、阿弥陀仏の本願」と、
本願疑惑心(自力の心)が浄尽し、
絶対の幸福(往生一定)に生かされるまで、
仏法を真剣に聞かせていただきましょう。

    



 


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仏教で蓮の花が大切にされるのはなぜ? [人間の実相]

仏教で蓮華が
  大切にされるのはなぜ?

梅雨が明け、夏が匂い立ち始めるころ、
薄桃色の蓮華が、可憐に咲き乱れます。
蓮は、仏教と深い因縁のある花です。
法事や仏事で目にするさまざまな仏具に
描かれているのは、蓮の花ばかり。
阿弥陀仏の極楽浄土には、桜でも菊でもなく、
清浄な蓮の花が咲いていると経典に説かれ、
親鸞聖人も『正信偈』に極楽浄土のことを
「蓮華蔵世界」と書かれています。

・・・・・・・・・・・・・・

阿弥陀仏の極楽浄土の様子を、
お経にはこのように説かれています。

舎利弗、極楽国土には
七宝の池有り。
八功徳水其の中に充満せり、(乃至)
池の中には蓮華あり、大(おおき)さ車輪の如し。
青き色には青き光あり、
黄なる色には黄なる光あり、
赤き色には赤き光あり、
白き色には白き光ありて、
微妙香潔なり。

         (仏説阿弥陀経)

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●大切なのは体?心?

アカデミー賞を受賞した映画『おくりびと』
は、世界中の注目を集めました。
故人に死に化粧を施し、旅装束を着せ、
死者を次の世界へ送り出すという、
納棺師の仕事ぶりが描かれています。
映画の中で、一人の納棺師(佐々木)が、
ある民家で、まだ若い主婦の遺体を扱う、
こんな場面があります。

・・・・・・・・・・・・
死に化粧(しにげしょう)を始めると、
いつの間にか遺族たちが集まり、
もの珍しそうに佐々木の手元をのぞき込んでいる。
佐々木は丁寧な手つきで口紅のふたを開けて
スティックを回し、
色を失った遺体の唇に塗っていく。
ほおには紅が差され、
闘病生活でやつれ果てていた死者の顔は、
再び生気を吹き込まれたかのように、
艶を取り戻していく。
「ああ、いい顔になった」
「今にも起き上がりそうじゃ」
「あんた、すごいわ」
口々に感嘆の声を上げながら、
親族たちが思わず手を合わせる。
佐々木が仕事を終えて去ろうとした時、
それまで終始憮然としていた故人の夫が駆け寄り、
神妙に頭を下げた。
「あいつ(故人のこと)、
今まででいちばんきれいでした。
ほんとうにありがとうございました」

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・・・・・・・・・・
死者の尊厳を守ろうと努める厳粛さと愛情が、
国境を超えて感銘を与えたのでしょう。
人は愛する人の死に出会うと、
手厚く遺体を葬ることで、
故人の幸福を願わずにおれません。
そうすることが、死者に対する礼儀だと、
多くの人は思います。
しかし、遺体を手厚く葬ることが、
本当に死者を幸せな世界へと
送り出すことになるのでしょうか。
考えてみれば、人の死は、
思い通りにはなりません。
病院や事故や災害で静かに
息を引き取る人ばかりではないでしょう。
不慮の事故や災害で、
無残に変わり果てた姿になる人もあり、
満足の行く形で送り出せないことも多々あります。
そんな人の死後の幸せはどうなるのでしょう。
仏教では、大切なのは、
肉体よりも心だと教えられます。
死後の行く先を決めるのは、
臨終の相(すがた)や遺体の有り様ではなく、
平生の心の有り様であり、
「蓮華のような信心=真実の信心」
を獲得しているか、どうか、なのです。
蓮如上人はそれを、

往生浄土の為には
ただ他力の信心(真実の信心)ひとつばかりなり
           (御文章)
とおっしゃっています。

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●蓮の華が示す、
正しい信心の五つの特徴

では、仏教で教えられる「蓮の花のような信心」
とはどのようなものなのでしょうか。
「信心」と聞くと、古くさい、とか、
特定の神や仏を信ずることだから自分とは関係ない、
と思う人が多いかもしれません。
しかし、私たちは何かを信じなければ
生きてはいけません。
なぜなら、信ずるとは、たよりにする、
あて力にするということだからです。
健康や、お金、家族などを信じ、
たよりとして、すべての人は生きています。
だから、「生きる」とは「信ずる」ことなのです。
何らかの信心を、
だれもが持って生きているのです。
親鸞聖人の教えられる「正しい信心」は、
本師本仏の阿弥陀仏から賜る信心なので、
「他力の信心」ともいわれます。
「他力」とは「弥陀から賜る」こと。
この他力の信心の特徴を、
蓮の花の持つ五つの特徴になぞらえて
教えられたのが、「蓮華の五徳」です。

①淤泥不染の徳(おでいふぜん)の徳
②一茎一花(いっけいいっか)の徳
③花果同時(かかどうじ)の徳
④一花多果(いっかたか)の徳
⑤中虚外直(ちゅうこげちょく)の徳

今回は初めの「淤泥不染の徳」
について説明いたします。

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●どんな人の心に
  信心の花は咲くか

「淤泥不染」の、淤泥(おでい)とは、どろどろの泥沼のこと。
蓮は、高原陸地には咲かず、泥沼にしか花を開きません。
しかもその花は泥の汚れに染まらず(不染)、
清浄な輝きを放つ、という特徴です。
淤泥に例えられたのは、悪人のこと。
高原陸地とは、善人を例えています。
正しい信心の華は、
善人の心中には開かず、悪人の心に、開くのです。
これは、本当の自分の姿をハッキリ知らされた人の心に、
蓮のような正しい信心が開くことを表しています。
仏教は、この本当の人間の姿を克明に教えられ、
「法鏡」ともいわれます。
法鏡とは真実の私の姿を映し出す鏡のことです。
仏教には、私たちの偽りのない
本当の姿が説かれている。
その教えのとおりの自分であったと
知らされた人の心に信心の花が咲くのです。
その私の姿を「淤泥=悪人」と示されています。

●悪人はだれ?
    ある布教使と校長の会話

「私は、そんなに悪いことしているとは
思えないが・・・」
こう思われる人もあるかもしれませんが、
次のようなエピソードを通して考えてみましょう。

・・・・・・・・・
ある有名な布教使が説法していた時のこと、
大の仏法嫌いであった村の小学校長が
参詣していた。
説法後、その校長がカンカンになって
抗議してきたのだ。
「あなたは先ほど、人間は皆悪人と
説法されましたが、まことに困ります。
そんなことを認めたら、教師も皆悪人ということになり、
教育が成り立たんではありませんか」
すると布教使は、やおら校長の下座に回り、
頭を畳にすりつけて言った。
「これはこれは、あなたのような方がお参りとは知らず、
とんでもないことを申し上げました。
何とぞご容赦ください」
高名な布教使の意外な反応に、
校長は薄気味悪くなって、
「まあまあ、あのような説教さえ、
してもらわねばよいのです」
早々に退散しようと玄関まで来ると、
ついてきた布教使が声をかけた。
「先生、ちょっとお待ちください。
先ほどあなたは、この世には善人もいれば
悪人もいると言いましたが、
先生ご自身は、善人でございますか。
それとも悪人でございますか」
何とも答えにくい質問である。
今更悪人とは言えないし、
さりとて、“私は善人”と答えるのも
はばかれる。
返答に窮していると、布教使がさらに尋ねる。
「では、あなたは学校でうそは善だと
教えられていますか。
悪だと教えておられますか」
「もちろん、うそは泥棒の始まり。
悪いことだと教えています」
「では校長先生は、これまでにうそは
つかれたことはありませんか」
だれにも身に覚えのあること。
校長はだまっている。
「では、喧嘩は?」
「悪に決まっています」
「では、校長先生は今までに喧嘩をなされたことは
一度もないのでしょうか」
夫婦ゲンカは日常茶飯事。重ねて布教使は問う。
「生き物を殺すことはいかがですか。
子供たちに善だと教えますか。悪だと教えますか」
「言うまでもありません」
「それならば、あなたは、一切生き物を殺しておられないのですか。
肉や魚、召し上がるでしょう」
「それは・・・」
力なく答える校長に布教使は、
うそも喧嘩も殺生も、皆、悪だと知りつつ、
毎日それを繰り返しているのが私たちではありませんか
日常、何とも思わずに重ねている悪を一つ一つ指摘されると、
どれもこれも身につまされることばかり。
さすがの校長もついには玄関に手を突き、
「よくよく考えてみると、皆私のことでした。
気づかぬところでどれだけの悪を造ってきたかしれません。
ご無礼をお許しください」
以来、校長は、熱心に仏法を聞くようになったという。

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・・・・・・・・・・・・・・・

何気ない日常を少し注意深く振り返ってさえ、
このように自己に気づかされます。
まして、微塵の悪も見逃されない仏さまの眼(まなこ)から
こらんになれば、すべての人間はどんな姿をしているものか。
お釈迦さまはこうおっしゃっています。

心常念悪(心常に悪を念じ)
口常言悪(口常に悪を言い)
身常行悪(身常に悪を行じ)
曽無一善(かつて一善もなし)
         (大無量寿経
ここで釈尊は、私たちの行いを心、口、身(からだ)の
三方面からごらんになっています。
これを身口意の三業といわれます。
中でも心を最も重視されています。
それは、心が口や身を動かす元だからです。
私たちのあらゆる言動は、心の命じたものなのです。
火事で言えば、心が火の元であり、
口や身に現れるのは火の粉です。
その火の元である心で、
私たちはどのような悪を造っているのでしょう。
お釈迦さまは、貪欲(欲)、愼恚(怒り)、愚痴(ねたみそねみ)
の三つと教えられています。
貪欲とはあればあるで欲しい、
なければないで欲しい欲しいと、
キリも際もなく広がっていく欲の心です。
今年4月、千葉の市長が、土木建築会社から現金約100万円を
受け取り、市発注の道路工事で便宜を図ったとして、
収賄容疑で逮捕されました。(平成21年のことです)
任期満了まであと78日のこと。
わずか100万円のために、3300万円の退職金をフイにし、
人生を棒に振っています。
また私たちは日々、欲のために人をだまし、
悲しませ、傷つけていないでしょうか。
自分を若く見せたいとタレントが年齢詐称したり、
経歴を偽って政治家が謝罪したり、
昨年、多く発覚した食品偽装も、
顧客の健康より儲け優先。
根っこには「自分さえよければ」
の恐ろしい欲の本性が横たわっているのです。

そんな底知れぬ貪欲を妨げられた時起きるのが愼恚(しんい)、
怒りの心です。
「怒」とは心の上に奴と書きます。
「あの奴が邪魔するからだ」「この奴さえいなければ」
と心の中で殺している怒りの激しさは火の如しです。
カッと怒った炎は他を焼き、自らも焼き、
親、兄弟、親友をも平気で蹴落とす恐ろしい心です。
「海苔の保管場所が気に食わない」
「名前を呼び捨てにされた」など、
ささいなきっかけで始まった怒りが、
実際の殺人となって、世を騒がせています。
愚痴は、因果の道理が分からぬ、恨みねたみの心。
他人の幸せをねたみ、人の不幸を喜ぶ悪魔のような心です。

静かに自己を振り返れば、
いずれも思い当たることばかりではないでしょうか。
私たちは、これら欲、怒り、愚痴の心で、
日々、数え切れないほどの悪を造り続けている、
とお釈迦さまは説かれています。
心がそうであれば、心に動かされている口や身も
悪に汚染されています。
過去から今日まで、一つのまことの善もできないのが
私たちなのだ、と仏さまは教えられ、
それを泥沼に例えられています。
阿弥陀仏のお力によって、
このような自己の姿に微塵の疑いもなくなった人の心に開くのが、
蓮の花のような信心なのです。

では、高原陸地に例えた「善人」とは、
どんな人なのでしょうか。
自己の実態が分からず、
「その気になれば善ができる」
「あの人と比べれば私のほうがましだろう」
「悪いことはするけど、反省する心ぐらいはあるわい」
と、うぬぼれている人のことをいわれているのです。

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●何ものにも染まらぬ信花

弥陀より賜る信心は淤泥に「染まらない」とは、
蓮華は泥中にありながら、
その泥に汚されることなく美しく咲いています。
また、泥沼は泥沼のままで、
透き通った泉に変わることはありません。
これは、正しい信心を獲ても、欲や怒り、
ねたみ、そねみの心は全く変わらないことを表しています。
これら私たちを煩わせ悩ませる「煩悩」は、
死ぬまでなくなりもしなければ減りもしません。
しかし、阿弥陀如来に救い摂られ、正しい信心を獲得すれば、
いつでもどこでも煩悩いっぱいが、
幸せいっぱいとなる。
これを「煩悩即菩提」といいます。
苦悩がそのまま歓喜となる不思議さを、
親鸞聖人は次のように氷と水に例えて、説かれています。

罪障功徳の体となる
こおりとみずのごとくにて
こおりおおきにみずおおし
さわりおおきに徳おおし
       (高僧和讃

弥陀に救われ、蓮華のような信心を獲得すると、
欲や怒りの煩悩(罪障)の氷が解けて、
幸せよろこぶ菩提の水(功徳の体)となる。
大きな氷ほど、解けた水が多いように、
極悪最下の親鸞こそが、極善無上の幸せ者だ
シブ柿のシブがそのまま甘みになるように、
煩悩(苦しみ)一杯が功徳(幸せ)一杯となる、
強烈な確信に満ちた、聖人のお言葉です。

蓮のような正しい信心を獲れば、私たちも皆、
親鸞聖人と同じ喜びの世界に出させていただき、
死ねば必ず、極楽浄土に生まれさせていただける身となる。
無限に楽しい明るい人生を送ることができるのです。

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いのちの問い 「なぜ生きる?」「なぜ生かす?」

いのちの問い

 なぜ生きる?

 なぜ生かす?

医療が抱える根本問題

   あなたはどう答える?


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世界で初めて、ips細胞(人工多能性幹細胞)が

人の治療で使われることになった、

と報道されました。

難病治療に弾みがつくと期待されています。

多くの命を救うため、医療は日々進化を遂げていますが、

「そんなにしてまで生きるのはなぜか」

という問題が置き去りにされてはいないでしょうか。

「何のために生きる?」の問いに

あなたはどんな答えを持っていますか?

親鸞さまはどのようにお答えくださるでしょうか。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

生きる意味を考えている私っておかしいですか?

 

今まさに「なぜ生きる」という問題に直面しています。

必死に頑張って仕事をしてきて、

気がつけばこんな年になって、

がむしゃらに生きてきたツケがこれなのか、

後は死を待つだけの人生なのか、

といつも考えてしまいます。

友達には、

「そんな哲学者みたいなこと考えずに、

カラオケにでも行こう」

と言われるのですが、それもごまかし、

無意味なことにしか思えず、

食べるためだと思うと食欲もあまり湧きません。

原因不明の病気にも苦しみ、

ストレスで神経がおかしくなりそうで、

毎日、外ばかり見ては「何のための人生か」

と考えています。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

還暦過ぎたある女性のつぶやきです。

これを読んで、どのように感じられましたか?

この方の友人が言うように、

〝そんな深刻に考えずに、カラオケにでも行って

楽しく過ごせばいいじゃない〟

という意見に賛成の人もあるでしょう。

しかし、病に苦しみ、人生の行く末を見つめる女性にとって、

一時の楽しみは「ごまかし」としか思えないのです。

何のための人生か。

この問いに、年代は関係ありません。

過日、全国紙にも、大病を経験した20代女性の

こんな疑問が掲載されていました。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

全てが無意味に思われて意欲が湧きません。

「死んだら、これまで自分がやってきたことも

全部なくなる」と思うと、何をしても意味がないと

思ってしまいます。

たとえ今の時点だけでも善いことをすることには

意味がある、と考えたくても、納得できないでいます。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

回答した識者は、自身も困惑しながら

「今の時点で善いことをするのに意味がある、

と思うしかない」

と言いましたが、ではどんな意味があるのか、

には答えていません。

これではとても質問者は納得できないでしょう。

あなたなら、これらの問いにどう答えるでしょうか?

 

●医療従事者も悩んでいる

 

生あるものは必ず死に帰す、とは誰でも分かっていること。

しかしふだん、意識している人はほとんどありません。

それが、大病にかかり、否応なく人生の終末と

対峙させられるや、

「死を待つだけの人生か」

「死ねば全部なくなるのなら、何をしても無意味では」

の問いが胸に迫ってくる。

患者からのこんな訴えに、

果たして医療は答えることができるのでしょうか。

「私も現場で悩む医療者の一人でした」

と語るのは、富山県の看護師、橘幸恵さん(23)です。

「看護師は中学生からの夢」

という橘さんは、看護専門学校で3年間学び、

昨年の春から総合病院の内科病棟で働き始めた。

最初は目の前に仕事をこなすのに精一杯。

失敗に落ち込むこともあったが、

それ以上に患者の笑顔に癒やされ、

充実した毎日を送っていた。

だがある日、看護師の道に大きな疑問を投げかける

出来事が起きる。

「それは、突然の呼吸困難で緊急搬送されてきた年配の

Aさんとの出会いでした」

病院に到着した時、すでに意識のなかったAさんは、

家族の意思で人工呼吸器を装着することになったのである。

数日後の朝、橘さんはいつものようにAさんの病室に入り、

カーテンを開けながら、優しく声をかけた。

「おはようございます、調子はいかがですか?」

ピポン、ピポン、ピポン・・・・。

ただ機械音だけが響く。

何本もの点滴やチューブにつながれたAさん。

時々苦しげな表情を浮かべ、ギュッと握ったこぶしが

かすかに震えていた。

〝苦しい・・・楽にさせて・・・〟

Aさんの全身から、声なき声が聞こえてくるようだった。

(こんなになってまで、Aさんは本当に生きたいのかなぁ?)

ふと頭をよぎった疑問だった。が、

だんだんと橘さんの中で大きくなっていった。


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●こんなにまでしてなぜ生かすの?

 

〈機械を止めたら死んでしまうが、

Aさんの苦痛は続く。こんな状態で、

一体、何のために生かされているのだろう?〉

同じ問いが頭の中で悶々と繰り返される。

「かわいそうに・・・苦しそう。

いっそあの時、逝かせてあげればよかったのでは・・・」

誰かが言っていた、こんな言葉にも、

多少なりと同意する自分がいた。

「一分一秒でも命を延ばすのが医療の使命と、

今まで理解していたつもりでした。

でも、私が点滴を交換することがAさんの苦痛を

長引かせることになるのでは、

とさえ思うようになったのです」

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機械につながれ生かされる患者を前に、

「この延命に意味はあるのか」と悩み苦しむのは、

新米看護師の橘さんだけではないでしょう。

医療者たる自信をすっかり失ってしまった橘さんが、

やがて重い足取りで向かったのは、

両親の勧めで聞いていた仏教の勉強会でした。

なぜ生きるのか。

なぜ生かすのか。

死を待つだけの人生ならば、何もかもが無意味なのか。

その時、親鸞聖人がはっきりとお答えくださったのです。

一分でも一秒でも、命を延ばすことには意味がある。

たとえ意識がなくても、機械で生かされている状況でも、

決してあきらめなくていいのだと・・・。

『看護師になってよかった!』。初めて心から言えた瞬間でした」

「いのちの問い」に、親鸞さまはどのようにお答えくださったのか、

次章で解説いたしましょう。

 

 

なぜ「いのちの歓喜」がないのか

  聖人の示された

     「なぜ生きる」の解答

 

この命を心から喜びたいと、

誰もが願って生きているはずなのに、

生きることが無意味に思えたり、

「あの時、死なせてあげればよかった」と、

延命の意味を見失ってしまうのはなぜでしょうか。

その理由を親鸞聖人は、こう明示されています。

 

真・仮を知らざるによりて、

如来広大の恩徳を迷失す」(教行信証

 

本当の人生の目的を知らないから、

〝よくぞ人間に生まれたものぞ〟

の生命の歓喜がないのである

 

聖人が「真・仮を知らざる」と言われているのは、

「人生の目的」(真)

「生きがいや趣味、目標などの生きる手段」(仮)

の違いが分からないということです。

果たして私たちは、生きる本当の目的を知って

生きているでしょうか。

「なぜ生きる」と問われ、

大方の人が思い浮かべる答えは、

仕事や旅行、金や名誉を得る、

家族や仲間のため、おいしいものを食べるため、

などでしょう。

これらは生きるために必要で、

大切なもの(生きがいや目標)ですが、

このために生まれてきたという「人生の目的」とは

いえません。

それは、自分が事故や病気で寝たきりになり、

どれも満足にできなくなった時を考えてみれば分かります。

呼吸器をつけ、全身にチューブをつながれて、

それでも命を延ばすのはなぜか。

「そんなにしてまでなぜ生きる」。

前章で見たように、患者も医療従事者も

この問いに真の答えを見いだせず、皆、

深いアキラメの中に沈んでいるようです。

そんな中、「人生には、これ一つ果たさねばならない

大事な目的がある。それは一念で達成できる。

だから最後の一息まであきらめてはならないんだよ」と、

真の人生の目的を明示されているのが親鸞聖人です。

主著『教行信証』の冒頭に記された、

聖人のお答えを聞いてみましょう。

 

難思の弘誓は難度の海を度する大船、

無碍の光明は無明の闇を破する慧日なり

              (教行信証総序

阿弥陀さまは、苦しみ多い世間の海を、

明るく楽しく渡す大きな船をつくられている。

阿弥陀さまには、その大船に私たちを一念で乗せて、

極楽浄土まで届けてくださるお力がある。

この大船に乗ることこそ人生の目的だ

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苦海の人生(難度の海)に大船あり。

聖人の解答は、簡潔で、確信に満ちています。

世界の光と仰がれる親鸞聖人は、

多くの著作を残されました。

中でも臨終まで枕元に置いて加筆修正され、

最も心血を注がれたのが主著『教行信証』です。

聖人の教えの全てが記された、全六巻に及ぶ畢生(ひっせい)の大著です。

その初めの一行が、

「難思の弘誓は難度の海を度する大船」。

苦海の人生を、明るく楽しく浄土へ渡す大きな船があるぞ!

人は苦しむために生まれてきたのでも、

生きているのでもない。

この大船に乗るために生まれ、生きているのだよ)

の一大宣言であります。

 

●「なぜ生きる」を知れば、

   この世の一切が

    意味を持つ

 

この船は「すべての人(十方衆生)を、

この世から未来永遠の幸福(絶対の幸福)に助ける」という、

阿弥陀仏の想像を絶する誓い(難思の弘誓)によって

つくられた大船です。

聖人ご自身がこの大船に乗られ、

絶対の幸福になられたのは29歳の時。

それから90歳まで61年間、

阿弥陀如来の広大な恩徳を知らされた聖人は、

誰もが平等に救われる大船あることを、

四方八方からの非難中傷も恥とせず

教え続けてくださいました。

「そんな大船、見たことも聞いたこともない。

あるはずないよ」と、今は疑い謗る人も、

聖人の教えに従い、この大船に乗せられた時、

「人身受け難し、今已に受く」

(よくぞ人間に生まれたものぞ!

このための人生だったか)

と、人生の目的(真)が鮮明に知らされるのです。

同時に、生きがいや趣味、目標などは

この目的果たすための手段(仮)であったと、

はっきりします。

政治も経済も、科学も医学も、

一切はこの大船に乗るために存在するのだと、

明らかになります。

真(なぜ生きる)を知らされ、

仮(どう生きる)が初めて意味を持ち、

生き返るのです。

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●人生の目的は一念で完成する

  だから、あきらめなくていい

 

では、どうすれば大船に乗れるか。

船に乗るにはどれほどの時間がかかるのでしょうか。

聖人はズバリ、

「無碍の光明は無明の闇を破する慧日なり」

(この大船は、弥陀のお力〈無碍の光明〉によって

一念で乗せていただけるのだよ)

と、直後に断言されています。

「無明の闇」とは、果てしない過去から

私を迷わせてきた苦しみの元凶のこと。

阿弥陀さまには、この闇を一念でぶち破るお力がある。

一念とは、あっという間もない時間の極まりですから、

乗船するのに時間はかからない。

闇が破れた一念に乗せていただけるのです。

こう聞いても「本当に一念で救われることがあるの?」

と疑う人に、中国の曇鸞大師という方は、

こんな例えで教えられています。

 

譬えば千歳の闇室に光若し暫く至れば

すなわち明朗なるが如し。

闇豈室に在ること千歳にして去らずと言うことを得んや

           (浄土論註

 

千年もの間、真っ暗な部屋でも、

光が来たと同時に明るくなるようなものである。

千年間真っ暗な部屋だから、

闇がなくなるのも千年かかる、ということはないだろう。

無始より迷わせてきた無明の闇だが、

弥陀の光明によって、一念で晴れわたるのである

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無明の闇は一念で破れる。

同時に、人生の目的が完成する。

だから臨終息の切れ際まで、あきらめてはならないよ、

と聖人は励ましてくださいます。

それを覚如上人(聖人の曾孫)は、こう説かれています。

 

如来の大悲、短命の根機を本としたまえり。

もし多念をもって本願とせば、

いのち一刹那につづまる無常迅速の機、

いかでか本願に乗ずべきや。

されば真宗の肝要、一念往生をもって淵源とす

               (口伝鈔

 

弥陀の慈悲は徹底しているから、

一刹那に臨終が迫る、最悪の状態の人が目当てである。

あと一秒しか命のない人に、三秒かかる救いでは

間に合わない。

一念の救いこそが、弥陀の本願の最も素晴らしい特徴なのだ

 

弥陀のお約束の相手は十方衆生(すべての人)。

たとえ意識がなく、機械で生かされていても、

いや、そんな最悪の状態でさえも救い切る本願を

建てられているのです。

「あとわずかで死ぬ命なら生かす意味がない」

と思うのは、「一念で救う」弥陀の誓いを知らないからです。

知っていても、疑っているのです。

一分、命が延びても弥陀の救いにあえる。

一秒あれば十分、大船に乗せていただけるのですから。

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●最後の一息まで、

  人生に無意味な時間は

      一秒もない

 

金や財、名誉や地位、家族、友人に恵まれた人生は一見、

強そうですが、案外もろくて弱いもの。

本当に強いのは、真の目的を知って生きる人だといえるでしょう。

聖人の説かれた弥陀の大船の厳存を知れば

「なぜ生きる」の疑団は氷解し、

自信をもって苦海を航海できるのです。

弥陀の一念の救いを求める人生は、

一息一息が尊厳であり、どんな絶望的な状況でも、

最後の一息まで無意味な時間は一秒もありません。

 

一念の信心定まらん輩は、十人は十人ながら

百人は百人ながら、みな往生に往生すべき事更に疑いなし

               (蓮如上人

 

一念の信心決定〈しんじんけつじょう〉した人は、

十人も百人も、死ねば必ず弥陀の浄土へ生まれることが

できるのである

 

無量光明土(光明輝く世界・弥陀の浄土)に向かって、

ともに弥陀の本願、聞き抜きましょう。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

これら親鸞聖人、蓮如上人のお言葉を、

橘幸恵さんは、これまで何度も勉強会で聞いていたといいます。

「でもAさんと出会ったことで、

初めて聖人の教えが私の人生の問題になったんだと

思います。全く違うお言葉に聞こえたほどです」

こうして今日も笑顔で患者に接する橘さん、

仏法を知らされた看護師としての決意をこう語っています。

どの患者さんも、姿にかけて私に教えてくださいます。

『仏法を聞けるのは今しかないんだよ。

急ぎなさい。真剣に求めなさい。

早く弥陀の大船に乗せていただきなさい。

もっと真剣に聞けばよかったと思った時には手遅れだぞ。

今、聞き抜きなさいよ

正しい教えを知って、暗中模索の医療界に

『なぜ生きる』を示す灯炬(とうこ)でありたいと思います」

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人生の目的と親鸞聖人


私は時々、自分はなぜこんなに苦しみながら

生きてゆかねばならないのか、

何のために働いているのだろうかと考えます。

人生の目的は何だと親鸞聖人は教えられているのでしょうか。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

(答)

自分は何のために生きているのか。

こんなに苦しみに耐えながら、

なぜ働かねばならないのか。

真面目に生きている人ならば、

必ずあなたのような疑問が起きてくるはずです。

もし何のために働いているのかと質問すれば、

ほとんどの人は食わんがためだと答えるでしょう。

では、何のために食うのかと反問すれば、

食わにゃ死んでしまうじゃないかと答えましょう。

それでは、食ってさえいれば、

いつまでも生きていられるのかと聞けば、

誰しも返答に窮してしまうでしょう。

人間は、生きるために食べ、食べるために

忙しそうに働いているのですが、

一日、生きたということは、

一日、死に近づいたということです。

これが否定できない厳粛な真実です。


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●ごまかしの人生

 

にもかかわらず、ほとんどの人は、

この確実な死を無視して生きることばかり考えて、

取らぬ狸の皮算用をしています。

「この会社に何年勤めて係長になり、

何年勤めて課長になり、うまくいけば

部長になれるかもしれぬ。

なったとしても65歳で定年か。

退職金はだいたい、これぐらいだから小商売でも始めて、

年とってから、また一年生になるか。

あァーいやんなっちゃうなァ」

と、ちょっぴり人生に絶望しかけます。

ここで、

「どうせ何十年か経ったら、死んでしまうのだ。

生きているうちに、したい放題やったほうがましだ」

と考えて、酒やマージャンで、せめて桃色ぐらいの

人生にしようといたします。

しかし、それはあくまでも一時のごまかしであって、

心からの安心も満足もなく、

人生の解決にはなりませんから、

こんな人は最後まで苦しみ続けなければなりません。

 

●仏縁深き幸せな人生

 

この時に仏縁深き人は、

「これは、ウカウカしてはおれないぞ。

このままでは、死ぬために生きていることになるではないか。

人生の目的を突き止めるまでは、

死んでも死にきれない」

と、真剣に仏法を聞くようになるのです。

人生究極の目的は、仏法にしか説き明かされていないからです。

仏教を説かれた釈尊の求道の動機も、

この人生の目的の探求一つでありました。

そして苦しい修行を6年もなされて、

「すべての人を、必ず絶対の幸福に救いとる」

という、無上の大誓願を建てられている、

本師本仏の阿弥陀仏を発見されました。

事実、どんな人も、この弥陀の本願に信順すれば、

必ず、絶対の幸福になれることを突き止め、

弥陀の本願こそが、すべての人の究極の目的であると、

生涯、弥陀の救い一つを説き続けてゆかれたのが、

釈尊であり親鸞聖人でありました。

あなたも親鸞聖人から真実の仏法を聞き求め、

素晴らしい人生を味わって頂きたいと念じ上げます。

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仏教で最も重要なご文は何か

 

仏教で最も重要な釈尊のお言葉を知るには、

一切経を幾度も読んでみなければなりません。

一切経を幾たびも読破なされた親鸞聖人は、

それは『大無量寿経』の中にあると喝破なされています。

 

それ真実の教を顕さば、

すなわち『大無量寿経』これなり

         (教行信証

 

がそのお言葉です。

『大無量寿経』には、阿弥陀仏の本願が説かれていますから、

『正信偈』には、

「如来、世に興出したまう所以は、

唯弥陀の本願海を説かんとなり」

と、おっしゃっています。

阿弥陀仏の本願とは、

弥陀の誓願ともいわれますように、

阿弥陀仏が、一切の人々を必ず救い摂ると、

固くお約束なされた誓いのお言葉です。


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●「本願成就文」の教え

 

この阿弥陀仏の本願を教えることが、

釈迦出世の本懐中の本懐であったと教えられながら、

また親鸞聖人は、釈尊の最も重要で大切なお言葉は

本願成就文」といわれる教えだともおっしゃっておられます。

「『横超』とは、すなわち願成就一実円満の真教・真宗これなり」

               (教行信証)

と道破なされ、この本願成就文を開顕するために

『教行信証信巻』上下二巻にわたって、

詳細に説明なされています。


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●「これこそが仏教」

 

親鸞聖人より如信上人(聖人のお孫さん)、

その如信上人より面授口決(めんじょくけつ)された

覚如上人は、「それについて三経の安心(あんじん)あり。

その中に『大経』をもって真実とせらる。

『大経』の中には第十八の願をもって本とす。

十八の願にとりてはまた願成就をもって至極とす」。

                 (改邪鈔)

(面授口決とは、直接教えてもらうこと)

弥陀の本願は本ではあるが、

至極ではない、と説破なされています。

同じく『改邪鈔』には、

「かの心行を獲得せんこと、

念仏往生の願成就の『信心歓喜乃至一念』等の文をもって

依憑(えひょう)とす、このほか未だ聞かず」

と、あります。

この覚如は、願成就文に示されている教え以外に、

聞いたことがない、とまで断言なされています。

この願成就文の教え以外に、

仏教もなければ、浄土真宗もないということが分かります。

これこそが仏教だといわれるのは、

願成就文の釈尊の教えです。

 

仏教の至極(しごく)、
真宗の依憑(えひょう)といわれる願成就文は

『大無量寿経』下巻に、

漢字四十字で示された釈尊のお言葉です。

 

諸有(しょう)の衆生、其の名号を聞きて、

信心歓喜せんこと乃至一念せん。

至心に廻向せしめたまえり。

彼の国に生まれんと願ずれば、

即ち往生を得、不退転に住す。

唯五逆と正法を誹謗せんとをば除かん

 

と、あります。

今は詳しい説明はできませんが、

弥陀の本願よりも釈尊の説かれたこの願成就文

依憑とせよ、とおおせられた理由を、

二、三挙げておきましょう。


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●信心一つで救われる

 

阿弥陀仏の本願では、信心一つで助かるのか、

念仏称えて助かるのか、ハッキリ分かりませんが、

この願成就文の釈迦の教えでは、

「信心歓喜乃至一念」

の信心一つが説かれて、念仏は説かれてありませんから、

阿弥陀仏の救いは、

一念の信心一つでなされるのだということが、

ハッキリいたします。

これによって親鸞聖人は、

唯信独達の法門を樹立されたのです。


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●仏教は聴聞に極まる

 

また、阿弥陀仏の本願では、どうすれば救われるのか

ということがハッキリ分かりませんが、

釈尊の願成就文では、「其の名号を聞きて」

とありますから、聞く一つで助かるのだということが、

ハッキリいたします。

これによって、「仏法は聴聞に極まる」と、

親鸞聖人は教えられました。

 

●この世でハッキリ救われる

 

また、阿弥陀仏の本願では、

必ず助けるとは誓ってありますが、

この世でか、未来世でかハッキリしなかったのです。

しかし、願成就文では、

「即得往生住不退転」と、教えられていますから、

阿弥陀仏の救いは死後ではなくて、

現在ただいまであることが明らかになりました。

 

このように願成就文の釈迦の教えによって

親鸞聖人は、阿弥陀仏の本願は、

唯信独達

であり、

仏法は聴聞に極まる

平生業成

であることを開顕なされたのでありますから、

弥陀の本願は本ではあるが至極ではない、

願成就文をもって至極とする

と喝破なされた理由がここにあるのです。

されば願成就文の教えに反するものは、

浄土真宗でもなければ仏教でもありません。


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●御名号本尊の根拠も

     本願成就文に

 

親鸞聖人や蓮如上人はなぜ名号本尊をもって、

浄土真宗の正しい御本尊とご教示になったのか。

その御本尊と浄土真宗の教義安心(あんじん)との

関係を明らかにしておきましょう。

当然のことながら教義安心と無関係な御本尊は

ありえません。

真宗においては、その関係は特に顕著であります。

浄土真宗の教義安心の至極である願成就文には、

聞其名号 信心歓喜 乃至一念

と教えられ、所信の体は名号であることが、

明らかになっています。

もちろん、所信の体以外に御本尊はありえませんから、

かかる願成就文の教義安心から、

親鸞聖人は名号ばかりを御本尊となされたのであります。

しかも、願成就文を教義安心の至極となされたのは、

親鸞聖人のみの達見でありましたから、

名号を本尊となされたのは、

親鸞聖人が最初であったのです。

ゆえに、蓮如上人は、

浄土真宗においては、木像よりは絵像、

絵像よりは名号を本尊にせよ」

とご教示になったのであります。

かかる浄土真宗の教義安心の至極である願成就の立場からは、

木像でも絵像でも名号でも同じだから、

どれを本尊にしてもよいなどとは断じて言えないのです。


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我々の魂の孤独を受け止めて救えるのは弥陀のみ! [孤独]

孤独に泣くあなたへ


「その心の重荷、すべてまかせよ」のお約束


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大勢に囲まれてにぎやかに過ごす人、

誰からも相手にされず孤立する人、

世の中にはいろいろな人がありますが、

誰もが心の底は孤独に震えているのだ、

とお釈迦さまは仰います。

そんなすべての人に

“明るく楽しい心で人生が送れる世界があるのだよ”

と説かれています。

どういうことか、お聞きしましょう。

 

●「私を認めて」

   こんな願いを

    誰もが抱いている

 

ーーー実家から箱いっぱいの新鮮な野菜が送られてきた。

中には私と夫、子供たちの好物の菓子も。

家族1人1人への、母の心遣いがとてもうれしかったーーー

ある日常をつづった文章です。

陰ながらいつも気にかけ、支えてくれる存在が、

いかに生きる力になることか。

寒風の吹く中、温かい居場所を得て、

ホッと一息ついたような気持ちになります。

誕生日の早朝に、離れて暮らす娘から、

「お父さん、誕生日おめでとう!

いつもありがとう」

というメールを受け取った父親は、

その日、幸せな気持ちで過ごすでしょう。

出産直後に母親から、

「孫はとてもかわいい

でもあなたのほうがもっとかわいい

よく頑張りましたね 偉かったよ」

とメッセージが届いた娘には、

元気や勇気が湧いてきます。

誰もが、友、家族、恋人、伴侶・・・

身近な相手と絆を強め、互いの琴線に触れたいと願っている。

そして一瞬でも心がつながったと感じると、

心が潤い、温かくなるのです。


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自分を認め、受け入れ、味方でいてくれる人を「知己」

といいますが、そんな相手や心安らぐ場所が、

よりよく生きるには大切です。

数々の特許を得た発明王・エジソンもそうでした。

幼い頃から知識欲旺盛だった彼は、

教師を質問攻めにしたのが問題行動と見なされ、

学校を辞めさせられてしまう。

ところが母親は、そんな彼を見捨てることなく育み、

適性を見極めて科学者への道を開きます。

その母への感謝をエジソンは後年、こう述懐しています。

「私を作り上げてくれたのは母だった。

母は私を理解し、性質が向いている方へ進ませてくれた。

もし母が私を認めず、信じてくれなかったら、

とても発明家にはなれなかっただろう」

生涯の味方であった母親なくしては、

世界の発明王の誕生はなかったのです。

 

子供も大人も、そんな存在がそばにいるだけで、

生きる意欲が湧き、活力がみなぎってきます。

反対にそういう支えがなくなると、

心がささくれ立ち、疎外感や絶望感を抱くようになるでしょう。

かつては青少年の非行の背景にあった問題が

昨今特に、中高年にも見られるようになりました。

孤立して自暴自棄となり、犯罪に走る事例が多くなっているのです。

 

 

●高齢者の犯罪が増えている。

その原因は?

 

10月下旬の日曜昼、栃木県宇都宮市で連続爆発事件が起き、

住宅や車が炎上しました。

間もなく市内の公園で、元自衛官の72歳男性が

自ら爆死しているのが発見され、

遺書から彼の犯行とされました。

男は数年前に自身の家庭内暴力で家族と別れて孤立し、

自身のブログに、妻子や、社会への不満を吐露していたといいます。

 

平成26年の『犯罪白書』(法務省)によれば、

一般刑法犯として検挙された65才以上の人数は、

他の年齢層を抑えてトップ。

20年前の約4倍に急増しています。

内容も窃盗(万引き)、暴行、詐欺、ストーカーなど

多岐にわたり、特に、老齢になって初めて犯罪に手を染める

初犯の人が目立ちます。

それまで真面目に生きてきたであろう人が、

なぜ人生の終わりに犯罪者となるのでしょう。

高齢者犯罪の実態を『老人たちの裏社会』という本の中で、

多くの万引き事件を担当してきた弁護士が述べています。

 

「彼らに共通している思いは、自身に対する絶望感と、

社会ルールを守ることへの無意味さです。

『全てを失うのになぜ?』と言えるのは恵まれた人の見解で、

生き続けるほど大切なものが増える人もいる一方で、

守るべきものを失うばかりの人も少なくないのです。

家族も離れていき、病気や死別などで友人もいなくなり、

財産も乏しくなる・・・

老いる意味が絶望の連続となっている人にとってはすでに、

自分の命さえも大事ではなくなる。

こうした人たちにおいては、

加齢が犯罪を抑止する壁にはならないのです」

                (老人たちの裏社会)

 

 ●挫折をはね返せなくなった時、人は何を思う?

 

若い頃の頑張りが報われると信じてきたが、

家族や伴侶、友との死別、経済的困窮、

病気などで一つ、また一つと「喪失」していくばかりになった。

人に挫折は付きものですが、はね返す気力や体力があれば、

幾らでもやり直しはきくでしょう。

だが、衰えた心身に度重なる「喪失」はあまりにキツく、

想定外の大きな変化に対応できぬまま、

彼れは失う痛みを誰とも分かち合えなかったのでしょう。

傷ついた自分を誰も気にかけず、大切に思ってくれない。

そんな現実に絶望した時、

自分さえ大事に思えなくなっていくのです。

『老人たちの裏社会』では86歳の万引き犯の女性の、

こんな一言を紹介しています。

「『万引きしそうになったら、大事な人を思い出して』

と言われたけど、大事な人なんていないんだからしょうがない」


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精神的に孤立している高齢犯罪者の心情を、

ストーカーの加害者、被害者と多く向き合い、

支援してきたNPO法人の理事長は、

“高齢のストーカー加害者は、たとえ家族がいても、

精神的に孤独である”と分析しています。

既婚者でも、すでに子供は独立し、

皆それぞれが勝手に過ごしている。

表面的には労(ねぎら)ってもらえているようでも、

心の中では馬鹿にされ、軽視し、

邪険にされている事実に気づいているのです。

日々の生活の中で、注目も関心も持たれない自分。

ましてや褒められたり敬われることもない。

これまでは仕事で紛れていたけれども、

誰にも大事にされていない自分をいよいよ自覚して、

その寂しさや心の空洞を埋めるべく、

偶像化した相手に一気にしがみついてしまう。

根底にあるのは『俺の寂しさ、哀しさを何とかしろ!』

といった意識です。

加害者は皆、孤独です」(老人たちの裏社会)

 

 

ここでは、加害者の意識を言っていますが、

これは、犯罪に至らない多くの孤立している高齢者にも

相通ずる部分があるでしょう。

そのような高齢者の孤立防止には、

子供が同居して親の面倒を見たり、

相談機関を設けたり、老人施設に人員を配する手厚いケアで、

一定の効果は期待できます。

声の掛け合いやスキンシップで防げる孤立は確かにあるからです。

 

 ●「独り生まれ独り死ぬ」

  人はそれぞれ

  別の世界に生きている

 

 しかし、私たちには、どのように配慮してもなくならない寂しさ、

「孤独」というものがあります。

その孤独とは、隣に連れ合いがいても感じるもの。

永遠の愛を誓った夫婦でも、

ケンカもしないほど気が合い共感できるパートナーでも、

心の深い部分まで分かり合うことはできない。

魂の孤独のことです。

ここから先はどうにも相いれぬ、

というものが必ずある。

“どんな人でも心の奥底に秘密の蔵を持っている”

と仏教では説かれています。

そんな人間の実相をお釈迦さまは、

 

 「独生独死 独去独来」 (大無量寿経)

 

 と仰っています。

私たちは、この世に独りで生まれ、

独りで死んでいく。

独り来て、独り去っていく。

最初から最後まで、独りぼっちの旅をしているのだと

説かれています。

それは一緒に生まれてくる双子や三つ子も例外ではありません。

どれだけ顔が似ていても、心は各人、

別の世界に生きているのです。

だから“肉体の連れはあっても、魂の連れがない

といわれるのです。


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 “私はいつも、素のままの自分を出して何でも言っている”

という人がありますが、そんな人も脚色したり、

隠したりしている。

“ここから先は・・・”と線引きして、

言えるところまで言っているだけではないでしょうか。

もし心の中を何もかもぶちまけたら、

「おまえ・・・・そんなこと思っていたの?」

「あきれた・・・」

皆、絶句して逃げ出すでしょう。

そんな誰にも言えない苦悩を抱えて、皆、

苦しんでいます。

その私の心を全て打ち明けて、

完全に誰かに理解してもらえたら、

どれほど心が安らぐことでしょうか。

自分の弱さ、醜悪さも引っくるめて、

全て受け入れてくださる方があれば、

私は真に救われるでしょう。

 

 ●弱さや醜悪さもすべて

    受け入れてくださる方があった!

 

仏教を説かれたお釈迦さまは、

遠い過去から抱えてきたその心の重荷を、

丸ごと全て受け入れてくだされる方が

あるのだよと仰います。

大宇宙には、無上のさとりを体得された仏さまが

数多くおられるが、それらの仏方が

“われらが師匠”と仰ぐ偉大な仏さまがまします。

それが本師本仏の阿弥陀仏(弥陀)であると

お釈迦さまは説かれています。

阿弥陀仏はただお一人、

私の心の重荷を全て受け入れて、

「どんな人も 我にまかせよ

 そのまま絶対の幸福に救う」

と約束(本願)なされています。

この弥陀の本願に救い摂られた親鸞聖人は、

罪悪深重の自身の実相を知られ、

阿弥陀仏だけが、この親鸞の深い悪業を

全て分かってくださり、

大慈悲心であわれみ慈しみ、摂取してくだされたのだ」

と、こう仰せになっています。

 

 

弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、

ひとえに親鸞一人が為なりけり、

されば若干(そくばく)の業を

もちける身にてありけるを、

助けんと思召(おぼしめ)したちける

本願のかたじけなさよ」 (歎異抄

 

 

弥陀の五劫という永い間、

熟慮に熟慮を重ねてお誓いなされた本願を、

よくよく思い知らされれば、

まったく親鸞一人を助けんがためだった。

こんな量り知れぬ悪業を持った親鸞を、

助けんと奮い立ってくだされた本願の、

なんと有り難くかたじけないことなのか。

 

 

果てしない過去から孤独な魂に震え、

“こんな罪の重い私は助からないのか”

と泣いておられた聖人が、弥陀の本願に救い摂られ、

“私一人のための弥陀のお約束であった”

と慶喜せずにはおれなかったのです。

 

 

この、どんな人も見捨てられぬ弥陀の願力は、

救われた人ばかりにかかっているのではありません。

男女、賢愚、貧富の格差は関係なく、

人種も民族も超えて、すべての人が弥陀の

大慈悲によって生かされ、育まれているのです。

「決してあなたは独りぼっちではない。

うれしい時も、悲しい時も、ともにある弥陀だぞ」

常に寄り添いたまい、光に向かって進めよと、

導いてくだされているのだよ、

と親鸞聖人は仰せです。

 

 

そして、この弥陀の不可思議の願力に摂取されれば、

どんな人も、この世で「絶対の幸福になれる」

と親鸞聖人は仰せです。

絶対の幸福とは、時間がたつと色あせ

喜びが消えてしまうような幸福ではなく、

どんなことがあっても変わらぬ幸せのことです。

そして来世は必ず阿弥陀仏の極楽浄土へ

生まれさせていただく身になれるのです。

 

 

 

仏教に広大会(こうだいえ)という言葉がありますが、

広くて大勢の人が集まっている、

にぎやかな世界のことです。

常に釈尊や七高僧、親鸞聖人や蓮如上人、

往生された方々が温かく語りかけられる、

魂の孤独とは無縁の世界です。

いかに苦しくても、私たちが耐えて生き抜くのは、

弥陀に全てを打ち任せ、

“広大会”の世界に出させていただくため。

寂しい一人旅の人生も、必ず極楽浄土に

生まれる身にさせていただくためなのです。

弥陀の本願を聞く一つで必ず救われます。

まことの光に向かって、真剣な仏法聴聞に励み、

生命の歓喜を獲得いたしましょう。

 

 

極悪を

  捨てず 裁かず

     摂め取る(おさめとる)

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極楽浄土とは、どんなところ? [なぜ生きる]



寺参りに熱心な祖母に、なぜ仏教を聞くのかと

尋ねたところ「死んだら極楽へ往きたい」と言っていましたが、

極楽とはどんな所なのでしょうか。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


仏教を聞く究極の目的は、

阿弥陀仏の浄土へ往き仏に成ることですから、

その極楽浄土のことを知りたいのは

至極ごもっともなことです。

仏教では、私たち人間の住む世界を「穢土(えど)」といい、

阿弥陀仏のまします世界を「浄土」といいます。

また「極楽浄土」ともいわれます。

親鸞聖人は、平生(へいぜい)に、弥陀に救われた人は、

死ねば、必ず極楽浄土へ往って弥陀同体の

仏に成れると教えられています。

その極楽浄土とは、どんな世界なのか、

釈尊は『仏説阿弥陀経』に、

こう説かれています。


その国の衆生は、もろもろの苦あることなく、

ただ諸(もろもろ)の楽のみを受く。

かるがゆえに極楽と名づく

         (阿弥陀経)


阿弥陀仏の極楽浄土に生まれた人には、

一切、苦しみはなく、ただ、色々の楽しみだけがある。

だから極楽というのである


続いて、その楽しさを、次のように言われています。

至る所に「七宝の池」がある。

池には八功徳水(はっくどくすい)が満々と湛えられ、

池の底には金の砂が敷き詰められている。

池の中には、車輪のような大きな蓮華が咲き、

華の色は、青・黄・赤・白、色々あって、

それぞれが、青光・黄光・赤光・白光を放って、

まことに絶妙で、香りも芳醇である。

周囲には、金・銀・財宝で飾られた階段があり、

登った上にそびえたつ宮殿楼閣は、金や銀、

水晶や瑪瑙(めのう)などの宝玉で荘厳され、

天空からは、常に心地よい音楽が流れ、

ときどき妙華が降ってくる。

絶えず涼しい風が、そよそよと吹いて、

宝石で彩られた並木や網飾りが揺れて、

それらが奏でる音色は、

幾千かの楽器を同時に演奏するようである。

また、オウムやカリョウビンガなどの色々な鳥がいて、

和やかな美しい声で尊い法を説き、

聞いたものはみな、心に歓喜が起きるのである。

日々、応法の妙服を着て、百味の飲食を食べて楽しむのであると、

言葉を尽くして極楽浄土の素晴らしさが表現されています。

これをそのまま鵜呑みにして、

「おとぎ話だ」と嘲ったり疑ったりするのは、

余りにも仏意に遠い愚かさを知らねばなりません。

大体、私たちの知っている楽しみは、

おいしい料理に舌鼓を打つとか、

儲かった、褒められた、恋人ができた、

結婚した、大学合格、マイホームを手に入れたというような、

一時的な喜びであり、やがては、

苦しみや悲しみに変質してしまうものです。

地震や津波、台風や火災に遭えば、

一夜のうちに失う、今日あって明日なき楽しみであり、

たとえ、しばらく続いても、臨終には100パーセント

消滅する幸福です。

こんな楽しみしか知らない私たちに、

極楽浄土の楽しみを分からせようとすることは、

ちょうど、私たちが、魚に火や煙があることを分からせたり、

犬や猫に、テレビや携帯電話のことを話すよりも

絶望的なことなのです。

あの釈尊の大雄弁をもってしても、

不可能だったので、時には「説くべからず」とおっしゃっています。

しかし話しても分からないのに、

絶望しているだけでは、十方衆生を弥陀の浄土へ導く、

釈尊の使命は果たされません。

そこで釈尊は、私たちが見たり聞いたり体験したり、

想像できる範囲の楽しみを挙げて、

極楽浄土の素晴らしさを知らせようとなされているのです。

「猫の参るお浄土は、宮殿楼閣みなカツオ、

ネコも呆れて、ニャムアミダブツ」と、

風刺されるように、猫には、適当な説き方といえましょう。

2600年前の釈尊が、暑いインドで説かれた教えですから、

その時代や地域にあわせた比喩で説かれているのも当然でしょう。

この釈尊の仏意を酌んで親鸞聖人は、

弥陀の「極楽浄土」を「無量光明土」とおっしゃっています。

限りなく明るい所ということです。

確実な未来が、限りなく明るい無量光明土となれば、

われ生きるしるしありと現在が輝き、

「無碍の一道」に生かされるのです。

これこそが、人生の目的なのです。

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