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『正信偈』講話② [正信偈]

真実の仏教を説かれている先生ご執筆の『正信偈』講和から続きを載せたいと思います。

 

●すべて無上仏の独用(ひとりばたらき)

 

4歳で父君、8歳で母君と死別された親鸞聖人は、

無常を痛感され、9歳で仏門に入られた。

比叡山では、千日回峯行をしのぐ、大曼の行をも実践なされ、

ご修業は峻烈を極めた。

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29歳で親鸞聖人が救い摂られたのは、

20年間のご修行の結果である、と思っている人が多い。

だが、『正信偈』の冒頭に聖人は仰っている。

「帰命無量寿如来

 南無不可思議光」

無量寿如来に帰命し、不可思議光に南無したてまつる。

帰命と南無は同義語で、「信順無疑」、平易に言えば、

「救われた」ことである。

無量寿如来も不可思議光もともに阿弥陀仏のこと。

「阿弥陀仏に救われた、助けられた」と繰り返されている。

すべては阿弥陀仏のお力であった、

と告白なされているのである。

ひとえに無上仏の独用(ひとりばたらき)で救われる。

その訳を次のお言葉でご教示なされているのである。

「法蔵菩薩因位時

 在世自在王仏所」

(法蔵菩薩因位の時、世自在王仏の所に在して)

法蔵菩薩とは阿弥陀仏の成仏前の御名である。

仏の位を果位(かい)といい、菩薩の位を因位(いんに)という。

仏教では、凡夫が仏になるまでに

52のさとりの階程があると教えられている。

最高位の52段目を仏覚といい、

菩薩とは仏覚を目指す人のことである。

法蔵菩薩の師は、世自在王仏であった。

「世自在王仏の所(みもと)に在して(ましまして)」

と仰っているのはそのことである。

ある時、法蔵菩薩が師仏に手をついて頼まれた。

「お願いがございます。苦悩に喘ぐ十方衆生を

私に助けさせていただきたいのです」

「法蔵よ、十方衆生はいかなる者か、知ってのことか」

「はい」

「大宇宙のあらゆる仏が、一度は助けようとしてみたが、

『とても助けられぬ』と見捨てたほどの悪人なのだぞ」

「よく存じております」

 

●十方衆生の実相

 

十方衆生とは、大宇宙のすべての人のことであるが、

世自在王仏と法蔵菩薩は、十方衆生を

いかなるものと見ておられたのか。

『大無量寿経』に、釈尊は人間の実相を

次のように道破なされている。

 

心常念悪 心は常に悪を念い

口常言悪 口は常に悪を言い 

身常行悪 身は常に悪を行い

曽無一善 曽て一善も無し

 

我々の心と口と身でやる行為は悪ばかり。

一つの善も無い、十悪・五逆・謗法の者と説かれている。

だから、後生必ず無間地獄に堕在する、

と断言なされる。

世自在王仏や法蔵菩薩の見られる「私」と、

私の見る「私」とに、大きな隔たりがあるのだ。

法鏡に照らし出された真実の自己を親鸞聖人は、

次のように告白なされている。

「悲しき哉、愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、

名利の大山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、

真証の証に近づくことを快(たの)しまず」

               (教行信証信巻)

「愚禿鸞」とは聖人ご自身のこと。

「何と情けない、愚かな親鸞か」

と懺悔なされている。

愛欲が大海の如く広がり、沈み切っている相を、

「愛欲の広海に沈没し」。

「名利の大山に迷惑して」

名利とは、人から褒められたい名誉欲と、

一円でも欲しい、という利益欲である。

それらが大きな山のようにあり、迷惑していると、

赤裸々に告白されている。

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「定聚の数に入ることを喜ばず」

阿弥陀仏に救われ、51段高とびさせていただくことが

「定聚の数に入る」ということ。

「親鸞そんな幸せ者になりながら少しもそれを喜ぶ心がない」

「真証の証(さとり)に近づくことを快(たのし)まず」

定聚の数に入った人が、死ぬと同時に浄土往生し、

弥陀同体のさとりを開くことが、「真証の証」である。

「日一日と、浄土へ近づいている親鸞なのにそれを喜ぶ心も、

楽しむ心もない。助かる縁手がかりのないのが、

この親鸞。

そんな親鸞を、『助けさせてください』と

手をついて頼まれた方が法蔵菩薩である」

 

●助くる弥陀が手を下げて

 

ところが自惚れて、我が身知らずの十方衆生は、

世自在王仏と法蔵菩薩との必死のやりとりを聞いても、

お伽噺としか思えない。

十方衆生を助けるとはいかに困難なことか、

世自在王仏は一つの譬えで示された。

「大海の水を升で汲み干し、海底の宝を獲る以上に

至難なことなのだ。

それでもそなたは為そうとするのか」

それでも法蔵菩薩は後に引かれなかった。

「私がやらねば、十方衆生は助かることはありません。

どうか、助けさせてください」

幾重にも伏して懇願される法蔵菩薩を、

ついに世自在王仏は許されたのだ。

躍り上がって喜ばれた法蔵菩薩。

かくて世自在王仏の前で誓われたのが、

阿弥陀仏の四十八願であり、中でも王本願と言われるのが

第十八願である。

「どんな人も

   必ず助ける

    絶対の幸福に」

無上殊勝の本願がここに成就せられたのである。

助けていただく我々が頭を下げて当然なのに、

助ける方が「助けさせてくれよ」と手を下げておられる。

「能く能くお慈悲を聞いてみりゃ、

助くる弥陀が手を下げて、まかせてくれよの仰せとは、

ほんに今まで知らなんだ」

信心数え歌にも歌われていることである。

こんなことが他にあるだろうか。

お願いする心もない。

そこまで人間の実相を洞察されて建てられた願いは

どこにもない。

 

●法蔵の願心あればこそ

 

真実のカケラもない我々が仏道を進ませていただけるのは、

まことに法蔵菩薩の願心による。

「もう聞くまい」

と断念しても、なぜか法話会場へ足を運んでいる。

不思議なことである。

偏に法蔵菩薩の願心あればこそ、である。

「帰命無量寿如来

 南無不可思議光」

「20年間の修行も間に合わなかった。

長年の学問も一切役に立たなかった。

すべて、阿弥陀仏の独用(ひとりばたらき)であった」

知らされた真実を、親鸞聖人は叫ばずにおれなかったのである。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

普放無量無辺光 あまねく無量・無辺光、

無礙無対光炎王 無礙・無対・光炎王、

清浄歓喜智慧光 清浄・歓喜・智慧光、

不断難思無称光 不断・難思・無称光、

超日月光照塵刹 超日月光を放ちて塵刹を照らす、

一切群生蒙光照 一切の群生、光照を蒙る。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

世に「親の七光(ななひかり)」と言う。

著名人の跡取りが選挙に勝てば、

名選手の息子が人気を博せば、

「あれは親の七光だ」

と囁かれる。

もちろん、頭から光を出すはずはないが、

親の力を、光で表しているのである。

仏教では、阿弥陀仏の偉大なお力を「光」で表す。

 

親鸞聖人は『正信偈』に、阿弥陀仏の十二のお力を、

前の文章で教えられている。

『大無量寿経』に説かれた釈尊の教説を、

無我に相承なされたものである。

無量光から聞かせていただこう。

 

①無量光

 

阿弥陀仏のお力には限りがないことが、

無量光ということである。

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「さるべき業縁の催せば、如何なる振舞もすべし」

と親鸞聖人も仰せのように、縁さえくれば、

どんなことをするか分からないのが我々である。

そんな者と見抜いて、

「どんな者でも、必ず助ける」

と阿弥陀仏が誓われているのは、無量光の仏でなければ

できない誓いである。

それを、

「悪いことをしたから助からん」

「こんなことを思うから駄目なのでは」

などと思うのは、無量光を疑っている心である。

「願力無窮にましませば

 罪業深重もおもからず

 仏智無辺にましませば

 散乱放逸もすてられず」

       (正像末和讃)

無窮の願力だ。どんな極悪人でも救われる。

阿弥陀仏の無量光を教えられた親鸞聖人のお言葉である。

 

②無辺光

 

十方微塵世界(大宇宙)で阿弥陀仏のお力の届かない所はないから、無辺光と言われる。

どんな所で、何をしていても、無碍の一道へ出させようと、

常に働いてくださっているのが無辺光である。

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③無礙光

 

太陽の光も、レントゲン線も、障害があれば、

通らないが、阿弥陀仏の光明は、何物も遮ることはできない。

「私のような悪人は助からんのでなかろうか」

本願を疑う自力の心をも破ってくださるのは、

無礙光なるが故に、である。

 

④無対光

 

阿弥陀仏のお力は、他の何者とも比べることはできない。

「諸仏の光明の、及ぶこと能わざる所なり」

とあるように、三世諸仏(大宇宙のあらゆる仏方)からも

見捨てられた我々を助けることができるのは阿弥陀仏だけである。

 

⑤光炎王光

 

「人身受け難し、今已に受く」

人間に生まれたことを喜ぶべし、と釈尊は仰っている。

なぜか。

仏教では迷いの世界が六つあると教えられている。

地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の六界である。

中でも苦しい地獄・餓鬼・畜生界に生まれる者は

大地の土の如くであるのに、人間に生まれる者は

爪の上の土の如し、と言われる。

生まれ難い人間界に生まれた有り難き、目的は何か。

迷いの打ち止めをさせていただけるのは、

人間界でなければできないからである。

人間界に生まれるのは、五戒を持つ(たもつ)功力による、

と『御文章』に教えられている。

殺生してはならぬ、嘘をついてはならない、など。

我々がそんな五戒を持ってきたとは、

とうてい思えない。

光炎王光の働きで人間界に生を受けられたのである。

 

⑥清浄光

 

貪欲を照らす働きである。

照らされたらどうなるか。

清九郎と言えば、大和国(奈良県)の妙好人である。

阿弥陀仏の救いを喜んでいた人である。

「清九郎には欲がないのか、試してみよう」

と、友人が、清九郎が参詣する寺の本堂に、

銭の詰まった財布を置き、清九郎の行動を、蔭で見た。

お念仏を称えながら、清九郎、本堂に入ると

財布が落ちている。

周囲をうかがい、誰もいないのを確かめるや、

財布を懐に出て行った。

友人らは騒いだ。

ところが、間もなく清九郎が引き返してきた。

彼は本堂の阿弥陀さまに向かって泣いている。

「こんな幸せな身にさせていただきながら、

汚い心が出てきました。

申し訳ありません。申し訳ありません」

財布を仏前に供えて、懺悔している。

「あそこが違うのか」

と、友人たちは感心したという。

救われても欲は変わらないが、

清浄光に照らされて懺悔となり、歓喜になる。

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⑦歓喜光

 

瞋恚(しんに・怒り)を照らす光である。

怒りはすべてを焼き尽くす恐ろしい心である。

「恐ろしい心」が照らされて懺悔となり、歓喜となる。

 

⑧智慧光

 

因果の道理を知る力を智慧というが、

それの分からぬ心が愚痴である。

自らの不幸を他人のせいにして恨み、

他人の幸福を妬み、嫉む。

そんな大馬鹿者を照らして「馬鹿だなあ」と

知らせてくださるのが智慧光である。

 

⑨不断光

 

途切れることのない阿弥陀仏のお力をいう。

「憶念の心つねにして、仏恩報ずるおもいあり」

不断光に照らされるから、阿弥陀仏のご恩を忘れがちな身を

思い出しがちにさせるのだ。

 

⑩難思光

 

十二光の働きは、心も言葉も絶えたもの。

 

⑪無称光

 

とても言葉に表せない。

 

⑫超日月光

 

太陽や月の光も超えた光である。

 

「三世諸仏に見捨てられたこの親鸞が、

救われたのはひとえに阿弥陀仏の十二光のお力であった」

と、親鸞聖人が無上仏の偉大なお力を讃嘆なされているのである。

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