SSブログ
お寺の役割とは ブログトップ

寺院とは仏教を聞き、「抜苦与楽」の身になる「こころの診療所」 [お寺の役割とは]

 (真実の仏教を説かれている先生ご執筆の『とどろき』より載せています)

     「寺院」とは

         仏教を聞き

       「抜苦与楽」の身になる

         「こころの診療所」

 

●「苦」や「楽」にもいろいろある

 

前回の記事では「寺は本来、仏教を聞く場所である」

と学びました。

では、仏教は何のために聞くのでしょうか。

それが分かれば寺の存在意義もハッキリいたします。

仏教の目的は「抜苦与楽」といわれます。

「抜苦与楽」とは、人々の苦悩を抜き取り、

喜び、楽しみ、幸せを与えることです。

肉体の苦しみを抜いて、健康という喜びを与えるのは病院ですが、

私たちの心の苦しみを抜き取って、

本当の生きる喜びや幸せを与えるのが仏教なのです。

寺は私たちの心の病気を治す診療所だといえるでしょう。

ところで「抜苦与楽」といっても、

一般的な苦楽と、仏教の教える苦楽とは異なっています。

どう違うのでしょうか。

 

●甲乙つけがたい肉体の苦痛

 

私たちが「苦しみ」と聞いて想像するのはどんなものでしょう。

まず、加齢や病気などによる肉体の苦痛があります。

肉体の苦といっても、歯の痛み、頭痛、腹痛、膝や腰の痛みなど

いろいろで、つらい思いをしている人がたくさんありますから、

どの病院にも連日、患者が押し寄せています。

健康が当たり前だった頃には分からなかった体の不調。

永年、酷使した肉体が「あそこが痛い」「ここがツライ」

と悲鳴を上げる。

ひとたび病気になれば、誰もが昨日までの健康は

喜べなくなってしまいます。

世界的アーティストとして知られるアメリカの

レディー・ガガさんが「線維筋痛症」という病気で

活動を中止しました。

これは、原因不明の激痛が、慢性的に全身を襲う病だといいます。

日常生活もままならず、どんなに仕事や名声、

お金に恵まれていても、病一つで人生の輝きが奪われる。

どんな病気も当事者にとっては甲乙つけがたい苦しみだから、

「病」という字は「(やまいだれ)」に「丙」と書くのだそうです。

この肉体の苦しみを軽減し、痛みを取り除き、

健康の喜びを与えるのが、医学の役目であり、

医師や看護師は、そのことに連日、

多大な貢献をしているのです。

 

●さらに深い精神的な苦悩

 

しかし、この肉体の苦しみよりも、さらに深刻なのが、

心の苦しみ、精神的な苦痛でしょう。

人間関係はその苦しみの中でも、最も大きなものです。

近頃流行のアドラー心理学では、人間の苦しみの全ては、

人間関係から生じると言っています。

学校や職場、近所づきあいなど、あらゆる場面で私たちは、

他人と接しなければ生きられませんが、

人が集まれば、必ず好き嫌いの感情が生じます。

「あの人が好き」

「あいつは顔も見たくない」

親鸞聖人が、

愛憎違順することは 高峯岳山にことならず

自分に従う者は愛して近づけるが、反する者は憎んで遠ざける。

そんな心は高く大きく、高峯岳山、大きな山と変わらない

と仰るように、誰もがそういう好悪(こうお)に、

毎日振り回されているのではないでしょうか。

一度苦手と思うと、その人と会うのが心の負担になりますが、

なぜかそんな相手とは縁が深く、

何かと顔を合わさねばなりません。

仏教ではこれを「怨憎会苦(おんぞうえく)」といいます。

近親者はなおさらで、近いがゆえに関係がこじれ、

悲惨な結果を招くことも。

警察庁は、平成28年に摘発した

殺人事件(未遂も含む)770件のうち、

親族間が占める割合は55パーセントだと発表しています。

実に半数以上が、親類同士の惨劇なのです。

IMG_20221025_0001.jpg-5.jpg

平成22年、宮崎市で家族3人の殺人事件が起き、

妻と生後5ヶ月の息子、妻の母を殺害したとして

20代の男性が逮捕された。

動機を聞くと、彼は妻の母から日常的に

「結婚を機に転職したのが気に入らん」とか

「結納や結婚式がなかった」「おまえの実家は何もしてくれん」

など、執拗に責められていた。

妻も味方になってくれず、家には居場所も、

自由に使えるお金もない。

義母との衝突を避けるため彼は、毎晩仕事が終わったあと、

車中で過ごして夜遅くに帰宅。

翌日も早朝4時、5時から仕事に出掛けるなど、

疲れ果てていった。

事件の数日前、子供のことで話し合っていると、

いつも以上に激高した義母から何度も頭を殴られ、

心の糸がついに切れてしまう。

「この生活から抜け出したかった。

義母を殺害するしかないと思った」

追い詰められ、義母と妻子を手にかけてしまった。

死刑囚となった彼は、後にこう述懐している。

「自分はもともと視野が狭かったと思いますが、

〝あの時〟はいつも以上に視野狭窄になっていた。

全ての原因は自分にありました」

 

極端な例と思うかもしれませんが、私たちも、

何かに追い詰められると、苦しみのあまり、

いつ爆発してもおかしくない心理状態になるでしょう。

このような精神的苦しみを解決して悲劇を起こさぬよう、

相談機関では、日夜努力しています。

爆発しそうな時は、誰かに心のありのままを

思いっ切り吐き出すことで、スッキリすることもある。

何かで発散させなければ、生きていけないほど、

本人はつらいのです。

そこまで深刻にならないように、仕事に忙殺される日々に潤いを、

笑顔を、と家族で旅行やレジャーに出掛けたり、

たまには美味に舌鼓を打ち、温泉につかってのんびりしたり、

趣味に没頭したり、音楽や芸術でストレスを解消し、

スポーツに明日への活力を得たりしています。

しかし、ここで挙げたような苦悩は、

人間の根本的な苦しみではない、と仏教では教えられます。

木に例えれば「枝葉」の苦であり、

それを解決して得られる喜び、楽しみも、

苦しみの大木の枝を切り落とすようなもので、

一瞬楽になりますが、永続しません。

根や幹が残れば養分が他に行くだけで、

新たな苦悩の枝葉が再び現れるのです。

 

●苦しみの根本は「三世の業障」

 

では、苦しみの根本とはどんなものなのでしょう。

昨年から、各地で上映されているアニメーション映画

『なぜ生きるーー蓮如上人と吉崎炎上』には、

室町時代に活躍された蓮如上人が、

本願寺や吉崎御坊(福井県)で弥陀の本願を説かれ、

多くの聴衆が聞いている場面が、史実に基づいて描かれています。

この映画を見たブラジルの青年から、

こんな喜びの声が届きました。

 

「映画『なぜ生きる』を拝見し、どれだけ感動したか。

私は今、不思議な感覚でいます。

言葉にならない満足感が、私の心を覆っています。

私の目の前に、ものすごい映像が流れたのですが、

それだけではなかったのです。

毎日、大きな喜びを胸に真剣に聞法させていただき、

晴れて大悲の願船に乗せていただくことができました。

その感動を一端なりとも他の人に伝えようと思いましたが、

とても表すことができません。

無始無終の苦しみの過去から、仏法を求めてきた〝浮浪者〟が、

今生で阿弥陀仏の本願真実を

聞かせていただくことができたのです。

〝我、十方に叫ぶ この世で一番の幸福者、否、

大宇宙一の最高の幸福者と〟

親鸞聖人の恩徳讃の御心のまま進ませていただきたいと思います」

IMG_20221025_0002.jpg-5.jpg

 

この青年は感想の中で「無始無終の苦しみ」と言っています。

無始無終とは、始めもなく終わりもないということ。

これはもちろん、私たちの肉体のことではありません。

仏教では、私たちの生命の実相は、

果てしない悠久の過去から永遠の未来に向かって、

とうとうと流れていると説かれています。

私たち一人一人に、人間に生まれる前の過去世、

今生きている現在世、死んだ後の未来世がある。

これを「三世」といい、去年から今年、来年に続くように、

私たちの生命は、過去世から現在世、そして未来世へと

永遠に続いていくのだと、お釈迦さまは説かれています。

この三世を貫いて私たちを苦しめる苦悩の根元を、

蓮如上人は、「過去・未来・現在の三世の業障

と仰っています。

肉体の苦しみや人間関係の悩みは死ねば終わりますが、

この「三世の業障」は遠い過去世から私を闇の中に

さまよわせてきた心の病ですから、

「無始よりこのかたの無明業障の恐ろしき病」

とも蓮如上人は言われています。

仏教で教える「抜苦与楽」の「苦」とはこのことであり、

この苦悩の根本治癒が、私たちが人間に生まれてきた

真の目的なのです。

IMG_20221025_0003.jpg-5.jpg

 

●生きている今、聞く一つで絶対の幸福に

 

では、どうすれば、この根本苦が抜き取られるのでしょう。

大宇宙のすべての仏が「本師本仏(師)」と仰ぐ阿弥陀仏は、

「どんな人でも 聞く一念に

絶対の幸福に救う」

と本願(お約束)を建てられています。

この阿弥陀仏の本願力によって、三世の業障が除かれ、

生命の歓喜を得て、永遠に変わらぬ絶対の幸福になれるのです。

蓮如上人はこのことを、

 

過去・未来・現在の三世の業障一時に罪消えて、

正定聚の位また等正覚の位なんどに定まるものなり

             (御文章5帖目6通)

 

と明示されています。

ここで、三世の業障が「一時に罪消えて」と言われる

「一時」とは「一念」のこと。親鸞聖人は、

「『一念』とは、時剋の極促を顕す」

と仰り、最も短い時間である、と教えられています。

そのアッという間もない一念の瞬間に、

弥陀の本願力によって「三世の業障」が消滅すると同時に、

「正定聚」「等正覚」に救い摂られるのです。

 

「正定聚」とか「等正覚」とは、どういうことでしょう。

「正定聚」とは「正しく(必ず)仏になることに定まった人々」

という意味。

「等正覚」とは「正覚〈仏覚〉と等しい位」ということです。

これは何を意味しているのでしょう。

仏教では「さとり」に52の位があると教えられています。

「さとりの52位」といい、

その最高位が「仏覚(仏のさとり)」です。

その最高のさとりを開かれた方を仏といいます。

「正定聚」「等正覚」はいずれも、その仏覚にあと1段という

51段目の位を表す言葉。

本来、さとりとは、大変な長期間、

修行しなければ到達できない境地ですが、

そんな修行のできない私たちは、弥陀の本願力によって

苦しみの根本が抜き取られた一念に、

51段高とびして「正定聚」「等正覚」になれるのです。

「正定聚」「等正覚」になった人は、

来世は必ず弥陀の極楽浄土に往って仏になれますから、

この身になったことを

「往生一定(浄土往生がハッキリ定まったこと)ともいわれます。

「往生」とは、一般には「死ぬ」「困る」と

誤解されている言葉ですが、本来は極楽浄土に往って、

仏に生まれることをいいます。

いつ、どんな死に方をしても、光明輝く浄土に生まれることが、

生きている今、ハッキリする。

「大宇宙一の幸せ者だ」と叫びたくなるほど

すごい幸せですから、現代の言葉で「絶対の幸福」というのです。

 

しかも、この絶対の幸福には、弥陀の本願を「聞く一つ」で

なれます。親鸞聖人は次のように教えられています。

 

「聞」と言うは、衆生、仏願の生起・本末を聞きて

疑心有ること無し。これを「聞」と曰うなり

 

「聞」とは、阿弥陀仏の本願の生起・本末を聞いて、

ツユチリほどの疑心もなくなったことをいうのである

 

「聞く」とは、どういうことか。

「衆生(すべての人)が、「仏願」弥陀の本願の「生起本末」に、

ツユチリほどの疑心もなくなったことだと仰っています。

「仏願の生起本末」とは、弥陀はどんな者のために

本願を建てられたのか。

どんな幸せに、どのように救うと誓われているのか、

ということです。

阿弥陀仏は「すべての人」を相手に本願を建てられました。

それは、1日として厳しい修行もしたことのない私のこと。

そんな私が弥陀の本願力によって、

平生の一念、必ず浄土往生できる身にさせていただけるのです。

〝絶対の幸福なんて、あるのかな〟

〝そんな結構なことに、本当になれるのだろうか〟

〝私でもなれるのかしら〟

素晴らしすぎる弥陀の本願を聞けば、皆、

こんな疑いが出てくるでしょう。

本願を「疑心あることなし」と聞いた一念、

これら一切の疑いが晴れわたって、

弥陀のお約束どおりの幸せになり、

〝弥陀の本願まことだった〟とハッキリするのです。

このように「本願」を「聞く一つ」で救われる教えは

ほかにありません。

親鸞聖人の教えが「本願の宗教」「聞の宗教」と

いわれるゆえんです。

大切なのは、よくよく真剣に弥陀の本願を聴聞すること。

本来の寺は、その聞法の場所として建立されたのですが、

今日はどうでしょうか。

衰退の根本理由は、本来の目的が

果たされていないからではないでしょうか。

とにかく、仏法が正しく説かれている場所を求めて、

「本願に疑心あることなし」となるまで聞くことが

肝要なのです。

nice!(44) 
共通テーマ:資格・学び

「お寺」って何? [お寺の役割とは]

(真実の仏教を説かれている先生ご執筆の『とどろき』より載せています)


IMG_20221024_0001.jpg-5.jpg


 かつて「お寺」は

        人々の中心だった

 

犬も歩けば棒に当たる。

町を歩けばコンビニエンスストア。

皆さんは、コンビニとお寺、どちらが多いと思われますか。

平成29年5月の調査では、全国のコンビニエンスストアは

5万5千店舗あるのに対して、仏教寺院はなんと、

7万7千ヵ寺余り(文化庁平成28年版『宗教年鑑』)。

食品・日用雑貨などの必需品がそろい、

銀行への入金・引き出し・公共料金の支払いまでできる

コンビニは、まさにその便利さから、現在も増え続けています。

ところが、そのコンビニよりお寺の方が約2万2千も多いのです。

昔は人口が少なかったにもかかわらず、

こんなにたくさんの寺院が建てられたのは、

それだけ必要とされていたからでしょう。

どんな役割がお寺にあったのでしょうか。

昔は寺子屋といわれ、僧侶が先生として子供たちに

読み書きそろばんなどを教えていたこともあります。

それだけ僧侶は町や村の人たちの信頼もあり、

学問、人徳を備えた人も多かった。

半世紀ほど前までは、村人が寺にやってきて、

悩み相談にのってもらう姿が多く見られました。

また、北海道や海外へ開拓移民として渡った人たちは、

苦しい日々に心の安らぎを求めて寺を建て、

布教使の派遣を本山に要請したことが記録に残っています。

仏の教えを聞き学び、それによって人々の心が安らぎ救われる、

それが本来の寺の役割でした。

 

●「読経」は何のため?

 

時は流れ、昭和40年代に寺に生まれたSさんは、

葬儀や法事ばかりを見て育ち、

お経を読むのが寺の仕事だと思っていた。

成長するにつれ、お経を読むのは何のためか、

どんな意味があるのだろうと思うようになった。

将来は寺院を継ぐ身だからと、

お経を学ぼうとしましたが、漢字ばかりで分からない、

説法や仏教の講義を聞いても理解できませんでした。

お釈迦さまが説かれたお経には、

何が教えられているのか。

祖父も父親も、時々来る布教使に尋ねても、

「お経は説明して簡単に分かるものではない、

若い時は分からなくて当然だ」

と言う。

説明して分からないなら、なぜ読経するのか。

モヤモヤは深まるばかりだったといいます。

「寺に生まれても、仏教が分からないのだから、

在家で育った人はなおさら分からないのではと思います。

寺の存在意義は、何かと思いました」

 

●「本堂の大柱にもたれ、

  夫と2人黙って

     座っていました」

 

また、本誌読者のNさんは、年を重ねるにつれ、

人生何をすべきなのかと夫と2人、大きな寺を訪ねました。

寺には、混沌とした人生に明かりをともす

教えがあるのではないか。

私たちが知らない仏の智恵を学びたいと、

出掛けたのです。

寺の門をくぐり、建物を見ただけでも慌ただしい日常から離れ、

心が落ち着きました。

しかし教えを説く人は1ヶ月後まで来ないから、

話は聞けないとのこと。

「がっかりしました。せめて本堂に入れてくださいと

お願いして仏壇に合掌したあと、

大きな柱にもたれ、伽藍をながめながら、

2人黙って座っていました。

 

●魚屋に魚がない?

 

魚屋という看板を掲げた店に魚が1匹もなかったら、

その店はどうなるでしょう。

お客さんは、落胆するばかりか、腹を立てて帰るでしょう。

結果、当然ながら店は倒産です。

IMG_20221024_0002.jpg-5.jpg

寺は、仏教という看板を掲げていますから、

仏教を知りたい人が来るところです。

その仏教には、荒波の絶えない人生の海を

明るく楽しく極楽浄土まで渡す大きな船の存在が

教えられています。

だから、仏教の看板を掲げながら、その大船の厳存が

ハッキリ教えられていなければ、人が来なくなるのは

当然すぎるほど当然。

(大船の意味は後ほど)

世の中が大変わりしたから、寺に来る人が少なくなったと

時代のせいにするのは間違っています。

戦後、雨後のタケノコのごとく次々現れた

新興宗教に集まったのは、多くの寺の門徒たちでした。

みんな生きることに苦しんでいるのです。

そのつらい人生を何とか明るく楽しく生きたいと

救いを求めているのです。

そのニーズに応じて教えを説き、

人々の心に生きる喜びを与えるのが、

寺の役割であったはず。

 

●「なぜ生きる」の答えを

     示された親鸞聖人

 

約800年前、親鸞聖人は、

更に親鸞珍らしき法をも弘めず、

釈迦の教法をわれも信じ、

人にも教え聞かしむるばかりなり

と仰り、

釈迦の教法(お釈迦さまの教え)で、

親鸞は本当の幸せになれた。だから、

皆さんにも同じ幸せになってもらいたい、

とお伝えしているだけなのですよ

と釈迦の説かれた仏教を90年の生涯、

教え続けられました。

その親鸞聖人の教えをそのまま伝えられた方が、

室町時代の蓮如上人です。

昨年から、全国で大ヒットしている

『なぜ生きるーー蓮如上人と吉崎炎上』の中で、

蓮如上人はこう仰っています。

 

親鸞聖人の教えは唯一つ。なぜ生きる、

『なぜ生きる』の答えでした。

私たちは、何のために生まれてきたのか、

何のために生きているのか。

苦しくても、なぜ生きねばならぬのでしょうか。

誰しもが、知りたいことでしょう。

それに答えられたのが親鸞聖人なのです

 

やがて必ず死なねばならないのに、

なぜ苦しくても生きねばならないのでしょうか。

おかしな話ではありませんか。

この私たちの、最も知りたい疑問に答えられたのが、

親鸞聖人なのですよ。

親鸞聖人はね、どんなに苦しくても、

生きねばならぬのは、私たちには、

とても大事な目的はあるからだと、

懇(ねんご)ろに教えられています

IMG_20221024_0003.jpg-5.jpg

 

「なぜ生きる」の答え・人生の目的とは、

どんなことがあっても、決して色あせたり、

崩れたりすることのない「絶対の幸福」になることだと

教えられました。

その絶対の幸福には、大宇宙の仏の師である

阿弥陀仏の本願(お約束)を聞く一つで、

「どんな人も、生きている今、なれるのだ」

と親鸞聖人は教示されています。

この阿弥陀仏の本願を、人生の海に苦しむ私たちを乗せて、

極楽浄土まで楽しく渡すために、

阿弥陀仏の造られた「大船」と仰ったのです。

どんなに時代が変わっても、変わらぬ仏教の救いがあるのです。

そのことを次回更新時に解説いたします。

 

IMG_20221024_0004.jpg-5.jpg


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

リポート

『とどろき』をテキストに法話会

  「なぜ生きる」求め 門徒が集う

 

消えていく寺が増える一方で、

寺の本来の姿を取り戻そうと、

『とどろき』などをテキストにした法話会を

開く寺が注目を集めています。

そこには、「なぜ生きる」の答えを求めて、

人々が仏法を聞きに集まるという

生き生きとした光景がありました。

 

「ありがたい仏教の

    お話が聞けてうれしい」

 

9月のお彼岸の日、関西地方のある寺院を訪ねると、

『とどろき』をテキストにした法話会が開かれ、

門徒さんら約50名が参詣されていました。

この日のテーマは、9月号の特集「彼岸 3つの謎を解く」

でした。

彼岸とは、阿弥陀仏の極楽浄土のこと、

その浄土に生まれるにはどうすればよいのかについて、

講師から理路整然とした話がありました。

IMG_20221024_0005.jpg-5.jpg

参詣者からは

「浄土に生まれるには、生きている時に

仏教を聞かなくてはならいことが分かりました」

                  (60代男性)

「『とどろき』の記事が参考になるので、

とても分かりやすくお聞きできました」

                  (70代女性)

「月刊誌がテキストなので、

毎月の法話が楽しみになりました」  (50代男性)

 

などの声が聞かれました。

また、寺の役割について

「最近は、お寺といえば、葬式や法事ばかりですが、

本当は、仏教の有り難いお話を聞く場所だったはずですよね。

昔のように、にぎやかなお寺になってほしいです」

                  (70代女性)

という感想もありました。

IMG_20221024_0006.jpg-5.jpg

 

この寺の住職は、寺の現状を次のように語っていました。

「親鸞聖人の教えを知らないと、

人間として生まれてきたことにならないのです。

あまりにもったいない。ところが今は、

寺でも仏教が聞けなくなっています。

これには僧侶の勉強不足があると思います。

それで寺から人々が離れていって、

慌てますが、自業自得なのです。

京都の寺も観光寺院になっています」

さらに、本来の寺の在り方について

「今日は、彼岸のお話でしたが、

人間として生まれた目的は『彼岸』にあります。

まず、そのことをよく知っている先生から

聞かなければなりません。 

その先生が、親鸞聖人です。

ですから、寺では、親鸞聖人の教えを聞くことが大事なのです。

それが聴聞です。

教えがきちんと相続されていれば、

どんな山奥の寺でも、廃れていくということはないのです

とも話しておられました。

 

「本当の幸せになるための

  寺参りなんですね」

 

関東地方でも、『とどろき』をテキストに

彼岸の法話がなされた寺の住職の声を聞きました。

「毎年、彼岸の法話をしますが、

先祖供養のためだと思って来られる方が多いです。

そうではない、自分が本当の幸せになるために、

教えを聞くのが寺参りなんですよ、

と『とどろき』を開いて話をしています。

人間は、自分の思いに合わないと、

仏教がなかなか心に入りません。

お釈迦さまや親鸞聖人の教えを、

正しく聞くことはまことに難しいものだと、

つくづく思います。

よくよく聞きなさいよ、『仏法は聴聞に極まる』と

教えられるお言葉が身にしみます」

nice!(45) 
共通テーマ:資格・学び

弥陀の放たれる真実の弾(たま)が心の闇を晴らす! [お寺の役割とは]


(真実の仏教を説かれている先生ご執筆の『とどろき』より載せています)


お寺の中には

  「陣」(戦場)がある

 

   弥陀の放たれる

    真実の弾が

    心の闇を晴らす

 

「お寺は何をする所?」

と尋ねると、ほとんどの人は首をかしげます。

葬式や読経など、死んだ人の供養をする所だと思っていたり、

あるいは「分からない」と答える人も少なくありません。

正解はーーーー。

「寺は仏法を聞く所」です。

 

仏法を説かれたお釈迦さまは、今から約2600年前、

インドのある王様夫婦の子供として誕生されました。

何不自由のない日々でしたが、人間に生まれた以上、

生・老・病・死の苦悩は逃れられぬと知り、

どんな幸せも続かないことに深く悩まれたのです。

〝苦しくても、なぜ生きる〟

その答えを求めて勤苦6年、想像を絶する厳しい修行に

打ち込まれ、35歳の12月8日、ついに仏のさとりを成就されました。

そして、無上殊勝の本願を建てられている

阿弥陀仏のましますことを明らかに知らされたのです。

 

釈迦一代の教えは、全て7千余巻の一切経に収まっています。

その一切経を何度も読まれた親鸞聖人は、『正信偈』に

 

如来所以興出世

唯説弥陀本願海

(如来世に興出したまう所以は、

ただ弥陀の本願海を説かんがためなり)

 

と仰り、釈迦は一生涯、「阿弥陀仏の本願」(弥陀の本願海)

ただ一つを説かれたのだと断言されています。

この阿弥陀仏の本願こそ、古今東西すべての人が

求めてやまない「なぜ生きる」の答えだと、

親鸞聖人は明らかになされました。

 

●阿弥陀仏の本願とは

 

では、阿弥陀仏の本願とは何でしょうか。

阿弥陀仏とは、大宇宙に無数にまします仏方(十方諸仏)の

王様であり、本師本仏ともいわれます。

大宇宙で最も尊いその阿弥陀仏が、

「どんな人も

 必ず絶対の幸福に助ける」

という約束をなされている。

それが「阿弥陀仏の本願」です。

IMG_20220925_0001.jpg-5.jpg

 

親鸞聖人はこの阿弥陀仏の本願を、主著『教行信証』の冒頭に

「難思の弘誓」と仰っています。

 

難思の弘誓は難度の海を度する大船(教行信証総序)

 

苦しみ悩みの絶えない人生は、

荒波の絶えない海のようなものですから

「難度の海」と言われます。

その人生の苦海を、明るく楽しく渡してくださる大船に

例えられているのが、阿弥陀仏の本願です。

 

●どんな人も渡り難い人生の海

 

「人生は苦なり」

これはお釈迦さまのお言葉です。

王様の子として何もかも恵まれておりながら、

一体、何の苦しみが?と思われますが、

どんな人も苦しみから逃れて生きることはできない、皆、

難度海で溺れ苦しんでいると仏教では教えられています。

そう言うと、「苦しみがあるから楽しみもあるんじゃないの?

楽しいだけなんて、そんなの幸せじゃない」。

そんな声も聞こえてきます。

確かに、乗り越えた困難が大きいほど、

つかむ喜びもまた格別。

スポーツでも学問でも、仕事でもそうです。

〝人生楽ありゃ苦もあるさ 涙の後には虹も出る〟

苦しみがあるから人間は磨かれる。

苦しみを乗り越えて生きる姿こそ素晴らしい、

そう考える人も多いでしょう。

ただそれは、命あっての物ダネです。

人の命は決して長くはありません。

平成に入ってはや30年たちましたが、

振り返ればあっという間でした。

(2018年のとどろきです)

過ぎた30年がアッという間なら、

たとえ100年生きたにせよ、振り返れば、

アッ、アッ、アッ、で終わります。

 

凡(およ)そはかなきものは、この世の始中終、

幻の如くなる一期なり   (御文章5帖目16通)

 

蓮如上人の有名な「白骨の御文」の一節にもあるとおり、

はかないものとは、幻のように過ぎ去る人の

一生ではないでしょうか。

 

●〝死にともない〟が本心

 

皆、老いて死んでいくのだから、そう深刻に考えず、

今を楽しめばいい。

死んだら死んだ時さ、と楽観する人もあるでしょうが、

こんな話があります。

 

奈良県の有名なポックリ寺に、大阪の婦人会の人たちが

訪れました。

長患いで苦しんだり、家族に迷惑をかけるのは嫌だから、

どうかポックリ死ねますようにと、

皆で願掛けをしたのです。

ところが3日後、その中の一人が本当にポックリ死んでしまった。

こうなると〝あの寺のゴリヤクはほんまや〟

〝霊験あらたかや〟と大騒ぎになり、それからというもの

「次はあんたの番や」「いやあんたこそ、真剣に頼んでおったで」

と、仲間内でゴリヤクの押しつけ合いが始まったのです。

ちょっとした頭痛や腹痛がしようものなら

「いよいよ自分の番か」と戦々恐々。

これではもうやってられんと、また皆でポックリ寺へ、

前回の祈願の取り下げに行ったそうな。

「ポックリ死ねたらええなあ」と「考えている死」は

怖くはありませんが、いざ本当に迫ってくると

慌てふためきます。

誰かが言った〝冷や飯食うても娑婆におりたい〟が、

我々の本心でしょう。

九州博多の名僧・仙がい。

いよいよ臨終という時に、弟子たちが最後の言葉を依頼した。

「先生、何かお言葉を」

差し出す色紙に、仙がいが一筆、

「死にともない、死にともない」ーーー。

尊い言葉を期待していた弟子たちはビックリ仰天。

これでは師の名声を汚しはしまいかと案じた弟子が、

「今のお言葉もまことにけっこうではございますが、

何とぞ、もう一言」

と再度の依頼。すると仙がい、先の言葉の上に、

「ほんまに、ほんまに」

と書き加えたという。

いかなる名僧も、死にたくないのが本音のようです。

IMG_20220925_0002.jpg-5.jpg

 

誰だって墓場へ近づくのはまっぴらごめんですが、

嫌じゃ嫌じゃと言いながら、皆、

墓場へと向かっているのです。

 

上は大聖世尊より始めて、下は悪逆の提婆に至るまで、

逃れ難きは無常なり    (御文章3帖目4通)

 

上はお釈迦さまのような偉人から、

下はその釈迦殺しを企てた極悪の提婆(だいば)まで、

「死」だけは何人も逃れられません。

死ぬことを「旅立つ」といいますが、最後は誰もが、

否応なく後生へ旅立たなければならない。

どこへ行くか分からず、誰も連れ立ってはくれず、

たった独りで逝くのです。

そんな暗い未来に向かう日々が、

心から明るくなる道理がありません。

幾ら明るく楽しくふるまっていても、

いずれ寂しい本心が顔を出します。

 

「おもしろうて

 やがて悲しき 鵜舟哉(うぶねかな)」(芭蕉)

 

花火の消えた夜空の闇が深いように、

華やかな楽しみの去ったあとほど、

独りになるとやりきれないもの。

その心の穴を埋めずにいられないから、

酒やタバコ、ゲームやテレビ、ファッションや買い物、

スマホに依存するので、趣味や生きがいなど一切は、

ごまかしだとフランスの哲学者・パスカルも言っています。

これでは、私たちは何のために生まれてきたのか、

何のために生きているのか分かりません。

 

●光明の広海に浮かぶ

 

そんな苦悩に溺れるすべての人を、必ず大きな船に乗せ、

現在ただ今、絶対の幸福に救うと誓われているのが、

本師本仏の阿弥陀仏です。

この大船は、極楽浄土(無量光明土)への直行便ですから、

この船に乗せられると同時に、

往く手は限りなく明るい未来にガラリと変わります。

 

親鸞聖人は、阿弥陀仏のお約束どおり大船に乗られ、

苦悩渦巻く人生が、光明輝く人生に転じた驚きと

喜びをこう仰っています。

 

大悲の願船に乗じて、光明の広海に浮かびぬれば、

至徳の風静(しずか)に衆禍の波転ず

            (教行信証行巻)

 

(阿弥陀仏の造られた大悲の願船に乗じて見る

難度の海〈人生〉は、千波万波がきらめく明るい

広い海ではないか。

順風に帆を揚げる航海のように、

何と生きるとは素晴らしいことなのか)

 

親鸞聖人は、この身になるための人生だったと

明らかに知らされ、これこそ「なぜ生きる」の答えであると、

90年の生涯、徹底して伝えていかれたのです。

 

●弥陀の救いは「聞く一つ」

 

では、どうすればこの大船に乗せていただけるのか。

それは、阿弥陀仏の本願を熟知されている、

お釈迦さまにお聞きするよりありません。

お釈迦さまは、『大無量寿経』の本願成就文に、

聞其名号」(その名号を聞く一つ)

と教えられています。

名号を聞くとは、阿弥陀仏の本願(南無阿弥陀仏)を

聞くということです。

ところが私たちは、阿弥陀仏が

「聞く一つで必ず、絶対の幸福に救う」

と、命を懸けて誓われている本願を、

素直に聞くことができません。

「絶対の幸福なんて本当にあるんだろうか」

「この世で助かることなんて、あるの?」

「聞く一つ?ほかに修行や学問が要るんじゃない」

「聞いてもすぐ忘れる私は、無理だよね」

「すぐ腹立てる人は、ダメでしょ」

等々、いろいろな疑いが必ず出てきます。

この「阿弥陀仏の本願を疑う心」を疑情(ぎじょう)といい、

また自力ともいいます。

この自力疑情のある間は、

絶対に弥陀の願船に乗ることはできません。

ですから阿弥陀仏は、私たちの「疑い」を一念で、

必ず晴らしてみせると命を懸けられているのです。

そのお約束どおり大悲の願船に乗せられると同時に、

自力(疑情)は一切なくなります。

その弥陀の本願力を他力といいます。

IMG_20220925_0003.jpg-5.jpg

 

世間では、他力というと他人の力や天地自然のことだと思い、

他人まかせの無責任な言動を「他力本願」などと言っていますが、

とんでもない誤りです。

大事な仏教の言葉ですから、

正しい意味で使わないと仏教を大きく誤解させる元になります。

他力とは、阿弥陀仏の本願力のみをいうのです。

 

●聞法は自力と他力の一騎打ち

 

お寺とは、この阿弥陀仏の本願を聞く所です。

その寺の本堂は「内陣」と「外陣(げじん)」とに別れています。

内陣は外陣より一段高く、阿弥陀仏がご安置され、

善知識が阿弥陀仏の本願を説く所。

外陣は、私たちが善知識の説法を聞かせていただく場所で、

正座で聞けるように畳が敷かれています。

IMG_20220925_0004.jpg-5.jpg

「陣」とは、合戦とか軍隊の集結している所をいいますが、

なぜお寺にこんな物騒な字が使われているのでしょう。

聞法とは、熾烈(しれつ)な戦いだからです。

内陣からは、今宵も知れぬ命だぞ、

早く大悲の願船に乗りなさいと、

善知識の説法を通して、南無阿弥陀仏(弥陀の本願力)の

真実の弾(たま)が打ち込まれます。

一方、外陣の私たちは、体は聞法の場に座っていても、

心は金や名誉、色恋(いろこい)や趣味に奔走し、

少しも真面目に聞こうとしません。

余命いくばくもない、弥陀の本願より救いはないと

理屈は重々分かっていても、まだまだ死なんとのんびり構え、

弥陀の本願を疑いはねつける自力疑情の弾を、

外陣から打ち返すのです。

この自力と他力の一騎打ちが聞法であり、

その火花散る場所が寺なのです。

阿弥陀仏の本願力は、必ず私たちの自力疑情を破り、

救い摂ってくださいます。

その時が大悲の願船に乗せられた一念です。

 

阿弥陀仏の本願に疑いが晴れ、大悲の願船に

乗じられた親鸞聖人のお言葉が、

 

誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法、

聞思して遅慮することなかれ 

           (教行信証総序)

 

「摂取不捨の真言」も「超世希有の正法」もともに

阿弥陀仏の本願のことです。

聞けば必ず「まことであった」と知らされるから、

そこまで聞きなさい。

あれこれ迷って千載一遇の聞法のチャンスを

逃してはなりませんよ、

早く大悲の願船に乗せていただくところまで

進みなさいと、親鸞聖人は真剣な聞法一つを

勧められているのです。

 

たとい大千世界に

満てらん火をも過ぎゆきて

仏の御名をきくひとは

ながく不退にかなうなり

       (浄土和讃)

(たとい、大宇宙が火の海になろうとも、

その中、弥陀の本願聞き抜く人は、

必ず不滅の幸せに輝くのだ)


nice!(36) 
共通テーマ:資格・学び

お寺は本来「なぜ生きる」を説くところです! [お寺の役割とは]


(真実の仏教を説かれている先生ご執筆の『とどろき』より載せています)

IMG_20220923_0005.jpg-5.jpg


「寺が消える!?」

 

テレビ番組や新聞紙面でも「寺が消える」という

話題がしばしば取り上げられています。

仏教文化の中で育った日本人にとって

避けては通れない話だからでしょう。

 

『寺院消滅』(鵜飼秀徳著、日経BP社)という本が出て

話題を呼んだのは3年前。

それによると、寺院は全国に7万7千ヵ寺。

このうち住職がいない「無住寺院」は2万ヵ寺という。

他の寺の住職が兼任すれば、寺は存続できるが、

そのような住職もなく活動できない「不活動寺院」は、

2千ヵ寺に上る。

さらに、約20年後には現在の3割の寺院が消滅するのでは

ないかと言われています。

(2018年のとどろきです)

IMG_20220923_0002.jpg-5.jpg

 

寺院に関するこうした問題を、

本誌昨年11月号の特集「『お寺』って何?」でも取り上げたところ、

多くのお便りを頂いたので、一部を紹介します。

 

○長野県・男性(69)

「お寺では法話がなく、寂しい限りです。

もっと皆で仏教の教えを聞くご縁があれば、

人を思いやる和やかな世に少しでも変わっていくと思います」

 

○北海道・女性(75)

「今のお寺は仏教伝道の役割を果たしてないと思います。

お寺は門徒の心情に添い、

教えを伝える場となってほしいと願っています。

 

○兵庫県・男性(54)

「今のお寺には、死んだ人を供養する場所という

イメージがありますが、本来は仏教の教えを説く所でしょう。

若い人でも気楽に行って教えを聞けるように

なってもらいたいのにと思います。

 

 

このような意見に共通するのは、

「子供の頃は、お寺にはたくさんの人が集まって

にぎやかだった」

けれど、今は

「死んだ人が相手の場所」

「仏像に向かってお経を上げるだけ」

「宗教ビジネスに熱心」

となり、私たちの生活と接点がなくなってきた、

という指摘です。

仏教とはそもそも、お釈迦さまが生きた人を相手に、

苦しみ悩みを解決する道を説かれたもので、

お経とは、その教えをお弟子方が記録したものなのです。

それなのに今日の仏教は、

死人ばかりを相手にし、生きた人に教えを説いていないことに

不満、疑問があるようです。

寺院の住職さんからも次のような声が寄せられています。

 

「私は説法できないので布教使を招待してきましたが、

世間話が大半で、親鸞聖人のお言葉が聞けないので、

門徒さんに申し訳なく思っています。

寺に人が来なくなるのは当然の結果かもしれません」

              (石川県・80代住職)

 

「浄土真宗の寺は親鸞聖人の教えを伝える所ですが、

それができていないと思います。

まず、僧侶が親鸞聖人のお言葉の意味を知っていなければ、

寺が存在する意味はなくなります。

これが寺院衰退の大きな要因だと思います」

           (岐阜県・50代住職)

 

●「どう生きる」より

   大事な「なぜ生きる」

 

こうした反省から、様々な悩みを抱える人たちの相談に乗り、

「こんな生き方もあるのでは?」と、

生き方をアドバイスする取り組みが、最近、

寺でもなされているようです。

励ましや、慰め、反省させたり、勇気づけたり。

そういう話に、

「何だか気持ちがラクになった」

「明日からまた頑張ります」

と来た人が喜んで帰っていく。

これが「本来の寺の姿」と思う人もあるでしょう。

しかし、このような「どう生きるか」という話も大事ですが、

もっと大事なことを忘れてはいないでしょうか。

それは「なぜ生きる」の一大事です。

例えば、「どう歩く」という歩き方も大事ですが、

もっと大事なのは、「なぜ歩く」、歩く目的でしょう。

会社に行く、買い物をするなど、まず目的があって、

その次に、そこまでどう歩くのかという

「歩き方」が問題になるのです。

ところが、肝心の目的地が分からなければ、

どのように歩いたところで、歩く苦労が皆、

無駄になってしまいます。

IMG_20220923_0003.jpg-5.jpg

私たちの人生も同じ。

「なぜ生きる」が定まって初めて、

「どう生きる」が問題になるのです。

「なぜ生きる」の一大事が分からねば、

どう生きようと、禅僧一休が歌うように、

 

〈人生は 食て寝て起きて クソたれて

  子は親となる 子は親となる〉。

〈世の中の 娘が嫁と 花咲いて

  嬶としぼんで 婆と散りゆく〉

 

悩んだり励まされたりしながら、結局、

一生、台所と便所の間を行ったり来たり。

その間、娘さんが嫁となり、やがて嬶といわれ、

おばあさんに変貌する。

どんなに健康に気を遣っていても、

せいぜい50年から100年の人生。

長いようで振り返れば、あっという間です。

散りゆく定めの人生なら、

何ために生まれてきたのか?

人は、なぜ生きるのでしょうか?

 

●人生に

   後悔を残すな

 

お釈迦さまの説かれたお経に、

次のようなお話があります。

 

昔、ある男が3人の妻を持って楽しんでいた。

1番目の夫人を最もかわいがり、暑さ寒さにも気を遣い、

ゼイタクの限りを尽くさせ、一度も機嫌を損なうことはなかった。

2番目の夫人は、それほどではなかったが、

種々苦労して、他人と争ってまで手に入れたので、

いつも自分のそばにおいて楽しんでいた。

3番目の夫人は、何か寂しい時や悲しい時や困った時にだけ

会って楽しむ程度であった。

IMG_20220923_0004.jpg-5.jpg

 

ところがやがて、その男が不治の病に伏す。

刻々と迫りくる死の影に恐れおののいたかれは、

1番目の夫人を呼んで心中の寂しさを訴え、

ぜひ死出の旅路の同道を頼んだ、ところが、

「他のこととは違って、死の道連れだけは、

お受けすることはできません」。

すげない返事に、男は絶望のふちに突き落とされた。

しかし寂しさに耐えられぬ男は、恥を忍んで

2番目の夫人に頼んでみた。

「あなたがあれほど、かわいがっていた方でさえ、

イヤと仰ったじゃありませんか。

私もまっぴらごめんでございます。

あなたが私を求められたのは、あなたの勝手。

私から頼んだのではありません」

案の定、返事は冷たいものであった。

男は、恐る恐る3番目の夫人にすがってみた。

「日頃のご恩は、決して忘れてはいませんから、

村外れまで同道させていただきましょう。

しかし、そのあとはどうか、堪忍してください」

と突き放されてしまった。

 

これは『雑阿含経』に説かれている有名なお話ですが、

何を例えられているのでしょうか。

男というのは、我々人間のことです。

1番目の夫人とは「肉体」、

2番目の夫人は「お金や財産」、

3番目の夫人は「父母・妻子・兄弟・朋友」

などを例えられているのです。

 

どんなに幸せをつかんでも、いざ後生と踏み出すと、

今まで命に代えて大事に愛し求めてきた一切のものから

見放されてしまい、何一つあて力になるものがなかったことに

驚き悲しむのです。

 

 

●「なぜ生きる」の問いに

   答える仏教

 

蓮如上人は『御文章』に次のように

教えられています。

 

「まことに死せんときは、予てたのみおきつる妻子も財宝も、

わが身には一つも相添うことあるべからず。

されば山路のすえ・三途の大河をば、

唯一人こそ行きなんずれ」

病にかかれば妻子が介抱してくれよう。

財産さえあれば、衣食住の心配は要らぬだろうと、

日頃、あて力にしている妻子や財宝も、

いざ死ぬ時には何一つ頼りにならない。

一切の装飾は剥ぎ取られ、独り行く死出の旅路は丸裸、

一体、どこへ行くのだろうか

 

死の影が頭をよぎる時、それまでの喜び一切がむなしさを深め、

一体何のために生きてきたのか、〝なぜ生きる〟の問いが

眼前に突きつけられます。

やがて死ぬのになぜ生きる。

どんなに苦しくても、なぜ生きねばならないのか。

古今東西すべての人が知りたいこの問いに、

仏教を説かれたお釈迦さまは、

それは死に直面しても崩れぬ「絶対の幸福」になることだと

ハッキリ教えられています。

そして「平生元気な今、誰もがなれる。

だから、早くなりなさい」と勧められているのです。

 

●寺院本来の

   役割の実践を

 

この「なぜ生きる」という問いの答えが仏教であり、

それを伝えるのが僧侶の役目です。

その教えを聞く場所として、

人々が建立してきたのがお寺なのですから、

寺の本堂は、聞法に適した造りになっています。

しかし今日、その本堂で「なぜ生きる」は

説かれているのでしょうか?

ここにこそ、人々が寺から離れ、

寺院が消えていく根本原因があるといえましょう。

 

では、仏教に説かれる「なぜ生きる」の答え、

「絶対の幸福」とはいかなるものか。

またどうしたらなれるのか。

詳しくは次回更新時に載せたいと思います。


nice!(36) 
共通テーマ:資格・学び
お寺の役割とは ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。