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お寺は本来「なぜ生きる」を説くところです! [お寺の役割とは]


(真実の仏教を説かれている先生ご執筆の『とどろき』より載せています)

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「寺が消える!?」

 

テレビ番組や新聞紙面でも「寺が消える」という

話題がしばしば取り上げられています。

仏教文化の中で育った日本人にとって

避けては通れない話だからでしょう。

 

『寺院消滅』(鵜飼秀徳著、日経BP社)という本が出て

話題を呼んだのは3年前。

それによると、寺院は全国に7万7千ヵ寺。

このうち住職がいない「無住寺院」は2万ヵ寺という。

他の寺の住職が兼任すれば、寺は存続できるが、

そのような住職もなく活動できない「不活動寺院」は、

2千ヵ寺に上る。

さらに、約20年後には現在の3割の寺院が消滅するのでは

ないかと言われています。

(2018年のとどろきです)

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寺院に関するこうした問題を、

本誌昨年11月号の特集「『お寺』って何?」でも取り上げたところ、

多くのお便りを頂いたので、一部を紹介します。

 

○長野県・男性(69)

「お寺では法話がなく、寂しい限りです。

もっと皆で仏教の教えを聞くご縁があれば、

人を思いやる和やかな世に少しでも変わっていくと思います」

 

○北海道・女性(75)

「今のお寺は仏教伝道の役割を果たしてないと思います。

お寺は門徒の心情に添い、

教えを伝える場となってほしいと願っています。

 

○兵庫県・男性(54)

「今のお寺には、死んだ人を供養する場所という

イメージがありますが、本来は仏教の教えを説く所でしょう。

若い人でも気楽に行って教えを聞けるように

なってもらいたいのにと思います。

 

 

このような意見に共通するのは、

「子供の頃は、お寺にはたくさんの人が集まって

にぎやかだった」

けれど、今は

「死んだ人が相手の場所」

「仏像に向かってお経を上げるだけ」

「宗教ビジネスに熱心」

となり、私たちの生活と接点がなくなってきた、

という指摘です。

仏教とはそもそも、お釈迦さまが生きた人を相手に、

苦しみ悩みを解決する道を説かれたもので、

お経とは、その教えをお弟子方が記録したものなのです。

それなのに今日の仏教は、

死人ばかりを相手にし、生きた人に教えを説いていないことに

不満、疑問があるようです。

寺院の住職さんからも次のような声が寄せられています。

 

「私は説法できないので布教使を招待してきましたが、

世間話が大半で、親鸞聖人のお言葉が聞けないので、

門徒さんに申し訳なく思っています。

寺に人が来なくなるのは当然の結果かもしれません」

              (石川県・80代住職)

 

「浄土真宗の寺は親鸞聖人の教えを伝える所ですが、

それができていないと思います。

まず、僧侶が親鸞聖人のお言葉の意味を知っていなければ、

寺が存在する意味はなくなります。

これが寺院衰退の大きな要因だと思います」

           (岐阜県・50代住職)

 

●「どう生きる」より

   大事な「なぜ生きる」

 

こうした反省から、様々な悩みを抱える人たちの相談に乗り、

「こんな生き方もあるのでは?」と、

生き方をアドバイスする取り組みが、最近、

寺でもなされているようです。

励ましや、慰め、反省させたり、勇気づけたり。

そういう話に、

「何だか気持ちがラクになった」

「明日からまた頑張ります」

と来た人が喜んで帰っていく。

これが「本来の寺の姿」と思う人もあるでしょう。

しかし、このような「どう生きるか」という話も大事ですが、

もっと大事なことを忘れてはいないでしょうか。

それは「なぜ生きる」の一大事です。

例えば、「どう歩く」という歩き方も大事ですが、

もっと大事なのは、「なぜ歩く」、歩く目的でしょう。

会社に行く、買い物をするなど、まず目的があって、

その次に、そこまでどう歩くのかという

「歩き方」が問題になるのです。

ところが、肝心の目的地が分からなければ、

どのように歩いたところで、歩く苦労が皆、

無駄になってしまいます。

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私たちの人生も同じ。

「なぜ生きる」が定まって初めて、

「どう生きる」が問題になるのです。

「なぜ生きる」の一大事が分からねば、

どう生きようと、禅僧一休が歌うように、

 

〈人生は 食て寝て起きて クソたれて

  子は親となる 子は親となる〉。

〈世の中の 娘が嫁と 花咲いて

  嬶としぼんで 婆と散りゆく〉

 

悩んだり励まされたりしながら、結局、

一生、台所と便所の間を行ったり来たり。

その間、娘さんが嫁となり、やがて嬶といわれ、

おばあさんに変貌する。

どんなに健康に気を遣っていても、

せいぜい50年から100年の人生。

長いようで振り返れば、あっという間です。

散りゆく定めの人生なら、

何ために生まれてきたのか?

人は、なぜ生きるのでしょうか?

 

●人生に

   後悔を残すな

 

お釈迦さまの説かれたお経に、

次のようなお話があります。

 

昔、ある男が3人の妻を持って楽しんでいた。

1番目の夫人を最もかわいがり、暑さ寒さにも気を遣い、

ゼイタクの限りを尽くさせ、一度も機嫌を損なうことはなかった。

2番目の夫人は、それほどではなかったが、

種々苦労して、他人と争ってまで手に入れたので、

いつも自分のそばにおいて楽しんでいた。

3番目の夫人は、何か寂しい時や悲しい時や困った時にだけ

会って楽しむ程度であった。

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ところがやがて、その男が不治の病に伏す。

刻々と迫りくる死の影に恐れおののいたかれは、

1番目の夫人を呼んで心中の寂しさを訴え、

ぜひ死出の旅路の同道を頼んだ、ところが、

「他のこととは違って、死の道連れだけは、

お受けすることはできません」。

すげない返事に、男は絶望のふちに突き落とされた。

しかし寂しさに耐えられぬ男は、恥を忍んで

2番目の夫人に頼んでみた。

「あなたがあれほど、かわいがっていた方でさえ、

イヤと仰ったじゃありませんか。

私もまっぴらごめんでございます。

あなたが私を求められたのは、あなたの勝手。

私から頼んだのではありません」

案の定、返事は冷たいものであった。

男は、恐る恐る3番目の夫人にすがってみた。

「日頃のご恩は、決して忘れてはいませんから、

村外れまで同道させていただきましょう。

しかし、そのあとはどうか、堪忍してください」

と突き放されてしまった。

 

これは『雑阿含経』に説かれている有名なお話ですが、

何を例えられているのでしょうか。

男というのは、我々人間のことです。

1番目の夫人とは「肉体」、

2番目の夫人は「お金や財産」、

3番目の夫人は「父母・妻子・兄弟・朋友」

などを例えられているのです。

 

どんなに幸せをつかんでも、いざ後生と踏み出すと、

今まで命に代えて大事に愛し求めてきた一切のものから

見放されてしまい、何一つあて力になるものがなかったことに

驚き悲しむのです。

 

 

●「なぜ生きる」の問いに

   答える仏教

 

蓮如上人は『御文章』に次のように

教えられています。

 

「まことに死せんときは、予てたのみおきつる妻子も財宝も、

わが身には一つも相添うことあるべからず。

されば山路のすえ・三途の大河をば、

唯一人こそ行きなんずれ」

病にかかれば妻子が介抱してくれよう。

財産さえあれば、衣食住の心配は要らぬだろうと、

日頃、あて力にしている妻子や財宝も、

いざ死ぬ時には何一つ頼りにならない。

一切の装飾は剥ぎ取られ、独り行く死出の旅路は丸裸、

一体、どこへ行くのだろうか

 

死の影が頭をよぎる時、それまでの喜び一切がむなしさを深め、

一体何のために生きてきたのか、〝なぜ生きる〟の問いが

眼前に突きつけられます。

やがて死ぬのになぜ生きる。

どんなに苦しくても、なぜ生きねばならないのか。

古今東西すべての人が知りたいこの問いに、

仏教を説かれたお釈迦さまは、

それは死に直面しても崩れぬ「絶対の幸福」になることだと

ハッキリ教えられています。

そして「平生元気な今、誰もがなれる。

だから、早くなりなさい」と勧められているのです。

 

●寺院本来の

   役割の実践を

 

この「なぜ生きる」という問いの答えが仏教であり、

それを伝えるのが僧侶の役目です。

その教えを聞く場所として、

人々が建立してきたのがお寺なのですから、

寺の本堂は、聞法に適した造りになっています。

しかし今日、その本堂で「なぜ生きる」は

説かれているのでしょうか?

ここにこそ、人々が寺から離れ、

寺院が消えていく根本原因があるといえましょう。

 

では、仏教に説かれる「なぜ生きる」の答え、

「絶対の幸福」とはいかなるものか。

またどうしたらなれるのか。

詳しくは次回更新時に載せたいと思います。


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