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『正信偈』講話⑧ [正信偈]

真実の仏教を説かれている先生ご執筆の『正信偈』講和から続きを載せたいと思います。
 

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源信広開一代経  源信広く一代の教を開きて、

偏帰安養歓一切  偏に安養に帰して一切を勧む。

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平安時代の高僧、源信僧都は、大和国(奈良県)の生まれ。

七歳にして父君を失うという無常に遭われたが、

遺言は、「我が亡き後は出家し、立派な僧となってもらいたい」

というものであった。

まもなく仏縁が結ばれた。

源信の村に托鉢僧が回って来たのである。

 

●十三歳で出家

 

その僧が川辺で食事をとり、川水で弁当箱を洗い始めたとき、

近くで遊んでいた子供が来て、

「お坊さん、そんな汚い水で洗っても、きれいにならないよ」

と、忠告した。

子供が生意気な、と思ったが、怒るのも大人げないと思った僧、

「坊や、仏教では浄穢不二(じょうえふに)といい、

きれい、きたないなどと言うのは、迷いじゃ」

と諭そうとした。ところが、

「浄穢不二なら、なぜ弁当箱洗うの」

との即妙な切り返しに、僧は、相手が並の子供でないと知った。

そこで母親を訪ね、子供の出家を懇請した。

かくして源信は、比叡山に登り、天台僧良源(慈慧ともいう)に

師事して十三歳で出家、源信の名を与えられたのである。

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●母の撤骨の慈愛

 

才智抜群の源信は、日夜の修行により、十五歳にして、

村上天皇に説法を招請された。

少しも臆せず、『阿弥陀経』の意訳『称讃浄土教』を

講じ終わられたとき、天皇の感嘆のあまり、「僧都」の位を贈り、

七重の御衣等の宝物を与えるほどであった。

源信の成功に比叡山も沸きに沸き、いつしか源信自身も

有頂天になっていた。

一部始終を手紙に認(したた)め、天皇よりの褒美とともに

郷里の母君に送ったところ、返信は衝撃的であった。

母君は悲しみを歌に託している。

   後の世を

  渡す橋とぞ思いしに

     世渡る僧と

  なるぞ悲しき

「そなたには、みなさんを浄土へ橋渡しするまことの僧に

なってほしいと願っていたのに、名声や地位を喜びとする

世渡る僧になってしまったことが、限りなく悲しい」

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源信は、撤骨の慈愛ともいうべき、母君の戒めに翻然と感じ、

以後、ひたすら後生の一大事の解決に取り組まれ、

一切経を読破されること五回に及んだと言われる。

ついに四十歳を過ぎられたこと、阿弥陀仏の本願に巡り遇って

救われ、ただちに郷里にもどり、臨終の母君にも真実を伝えられた。

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●浄土仏教の夜明け

 

やがて『往生要集』六巻を著され、ここに、日本浄土仏教の

夜明けが到来したのである。

 

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極重悪人唯称仏  極重の悪人は唯仏を称すべし

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『正信偈』のこの一行は親鸞聖人が、私たちが阿弥陀仏に

救われるのはどのような時かを教えられたものである。

 

●法鏡に映る自己

 

自己が極重悪人だと本心から知らされたときが

阿弥陀仏の救いにあずかるときである。

仏教はすべての人間は極重悪人だと教える。

仏教を知らない者はみな自分は善人だと自惚れている。

しかし、真実の仏教という鏡の前に立つならば、

鏡に近づけば近づくほど、自己の醜い姿が分かるように、

自己の罪悪がハッキリと知らされる。

自己の罪悪が知らされれば知らされるほど

求道は真剣になってくる。

さらに求めてゆくと、善導大師が三定死といわれたギリギリの

境地に立たされる。

 

●地獄一定の極重悪人

 

最後に、

「娑婆中の人が助かっても我が身一人は絶対助からん、

自分の本心は金輪際仏法を聞かないものであった」

と知らされる。

それが、本当に自己の姿が極重の悪人だと知らされた時である。

親鸞聖人はその体験を、

いずれの行も及び難き身なれば、

とても地獄は一定すみかぞかし

と、告白された。

そのとき、地獄に堕つる。

地獄の釜の底で、

「そのまま助けるぞ」

という阿弥陀仏のジカの呼び声が本心に届き、

往生一定の大安心・大満足の身に救い摂られるのである。

信心決定するのである。

その身になった人はただ念仏を称えよ、と教えられたのが、

極重の悪人は唯仏(ただぶつ)を称すべし」である。

その念仏は、信心決定した者がご恩報謝の心で称える

他力の念仏である。

仏教で極重悪人とは、自己の本心は金輪際仏法を

聞かないものであった、と知らされた人であり、

善人とは、自己が極重悪人であることを知らず、

真剣に求めれば必ず助かると自惚れている人のことである。

 

●口先だけの極重悪人

 

ところが真宗の道俗の中には、この極重悪人の真意を知らず、

この一行を根拠として、

「自分のような悪人でも唯念仏さえ称えれば助かる」

と、主張する者がいる。

これは大変な誤りである。

彼らの誤りの原因は何か。

ある家に泥棒が入った。

その泥棒を柔道何段というその家の主人が

たちまち捕らえて、頭をボカボカッとなぐった。

すると開きなおった泥棒、盗んだ品物を全部かえして、

「確かに盗んだのは悪かった。

しかし、こうやってすべて盗んだ物を返したから、

さっきなぐられた分はこちらから返させてもらうぞ」

と言ったという。

悪かった、と言っても口先だけで、

この泥棒には心からの懺悔はない。

「自分のような悪人でも念仏さえ称えれば助かる」

と言っている真宗の道俗は、この泥棒のように、

口先だけで極重悪人と言っているので、

心の底は善人だと自惚れているのだ。

ある嫁が、

「お母さんかと思ったらお母さんだったの」

と奇妙なことを言った。

姑が、

「留守番たのむよ」

と言って外出したので、さっそく鬼のいぬ間の洗濯、

と押し入れから布団を取り出して昼寝しようとした。

すると、玄関で戸の音がした。

「しまった、お母さんが戻ってきた」

と思った嫁が、

「見つかったら大変」

と思ってあわてて布団を押し入れにしまった。

ところが、押し入れに顔を突っ込んで尻だけ出している所へ、

「花子、何しているの」

と声がした。万事休す!

振り返ってみると、里の実の母が訪ねてきたのだった。

「なんだ、お母さんかと思ったらお母さんだったの」

と言った。

義理のお母さんかと思ったら、本当のお母さんだったのである。

信前の者がいう「極重悪人」と信後の人の「極重悪人」とは

言葉は同じでも、その心に天地の差があるのである。

 

●真実の仏法に近づけ

 

本心から極重の悪人だと知らされた者でなければ、

いくら念仏を称えても助からないのである。

真実の自己の姿が分かるまで真剣に仏法を聴聞しなければならない。

 

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還来生死輪転家 生死輪転の家に還来することは、

決以疑情為所止 決するに疑情を以て所止と為す

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これは『正信偈』の終わりの一節である。

 

●生死とは苦悩

 

まず、「生死」とは、仏教では苦しみ悩みのことをいう。

死は、人間にとって最大の悲劇であり、

苦悩の最たるものだからである。

輪転」は、輪廻とも仏教でいい、

車の輪がクルクルと果てしなくまわるようにキリがない、

際限のないことをいう。

」というのは、私たちが朝出て必ず帰ってくるところで、

橋の下の乞食といえども橋を家としているから、

人間にとって離れ切ることのできないものが家である。

還来することは」とは、必ず還ってくる、の意である。

 

●人生は苦海

 

釈尊は、

「人生は苦なり」

と叫ばれ、あの徳川家康も、

「人に一生は重荷を背負うて遠き道を行くが如し」

と述懐し、『放浪記』を書いた林芙美子さんも、

「花の命は短くて苦しきことのみ多かりき」

とうたい、人生は苦海であると人間の実相を教えている。

生死輪転の家に還来する」とは、

ちょうど私たち人間が家から離れ切ることができないように、

苦しみ悩みから解放されず、果てしなく苦悩を

受け続けているのはなぜなのかということである。

科学や芸術に力を注ぐのも、全人類が苦悩と闘い、

本当の満足を得ようとしている姿である。

科学は異常な発達を遂げたが、自殺者は年々増加し、

苦悩の根源は依然として明らかにされてはいない。

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●苦悩の根源

 

ところが、親鸞聖人はこの『正信偈』の一節で

ズバリ全人類の苦悩の根源を明らかにしておられるのである。

「決するに」とは、2つも3つもない、

これひとつとの意味である。

所止を為す」とは、止まっているのはということであるから、

苦悩から離れ切れず、本当の幸福が得られないのは

疑情ひとつが邪魔をしているからなのだと

教えられておられるのである。

それでは親鸞聖人が全人類の苦悩の根源だと教えられた

疑情とは何か。

疑情とは阿弥陀如来の本願を疑う心である。

阿弥陀如来の本願、お約束は、

「すべての人々を必ず絶対の幸福に助ける」

という誓いだが絶対の幸福とは今死ぬといっても

変わらない幸福をいう。

全人類が、このお約束を聞くと

必ず疑いの心がおきてくるのである。

なぜなら、我々は、絶対の幸福にいまだかつて、

なったこともないし、死が来ても壊れない幸福など、

とても信じられないからである。

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●一念で晴れる疑情

 

だからこの誓いを聞くと、

「本当に助かるのだろうか」

「ひょっとしたら助からんのではなかろうか」

「私だけ除かれているのではなかろうか」

「ああは仰有れど」

「どうもスッキリしない」

という心となってあらわれてくる。

これが疑情である。

この疑いの心は、阿弥陀如来に救われると

きれいになくなるものであり、

ツユチリ程の疑いもなくなってしまうのである。

苦悩の根源である弥陀の本願を疑う心が、

あっという一念で晴れわたった時に絶対の幸福になれるのである。

その喜びを親鸞聖人は、

弥陀五劫思惟の願をよくよく案ずれば

ひとえに親鸞一人がためなり

とか、

心は浄土に遊ぶなり

と告白しておられるのである。

私たちは疑い晴れるまで聞かなければならないのである。


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速入寂静無為楽  「速に寂静無為の楽に入ることは、
必以信心為能入  必ず信心を以て能入と為す」といえり。
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寂静無為の楽(みやこ)」とは阿弥陀仏の浄土、
速入」とは、速かに入ることである。
必ず信心を以て能入と為す」とは、
必ず信心が必要であり、その信心を阿弥陀仏から
獲得した人だけが能(よ)く入ることができるのだ、
との意味である。
ゆえに親鸞聖人は、我々が阿弥陀仏の浄土に速かに
往生するためには、必ず信心獲得しなければならない、
と教えておられるのである。
 
●真宗同行の誤り
 
よく浄土真宗の同行の中に、
「阿弥陀仏は大慈悲心を持たれた仏だから、
私たちが何もしなくても地獄へ堕とされるようなことはない。
この身、このまま、無条件でみな極楽に救い摂ってくださる」
と言う者がいる。
そして、念仏を称えて、寺参りをしておれば猫も杓子も
死んだら極楽、死んだら仏、と思っているのである。
世間の人々が「仏」を死人の代名詞のように使っているのは、
浄土真宗の道俗のそのような間違いに起因するのであろう。
ただで、無条件で救われるというのは大変な間違いである。
親鸞聖人は、
「必ず信心を必要とする」
と仰有っておられるのだ。
他力の信心を獲得しない限り、阿弥陀仏の浄土へ
往生することはできない。
列車なら切符なしで乗り込んでしまう客もいる。
いわゆる「ただ乗り」である。
だが、浄土へはそれはできないのだ。
必ず信心を以て能入と為す
と教えられた方が親鸞聖人である。


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『正信偈』講話⑦ [正信偈]


(真実の仏教を説かれている先生ご執筆の『正信偈』講話から続きを載せたいと思います。)

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道綽決聖道難証 道綽は聖道の証し難きことを決し、

唯明浄土可通入 唯浄土の通入す可きことを明す。

万善自力貶勤修 万善の自力、勤修を貶し、

円満徳号勧専称 円満の徳号、専称を勧む。

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親鸞聖人の尊敬しておられるお一人が道綽禅師である。

道綽禅師のお手柄は仏教を二つに分けられた点にある。

一切経に精通され、釈尊の教えに聖道仏教と浄土仏教の

あることをハッキリ教えられた。

しかも、聖道仏教では助からない、浄土仏教だけが

救われる教えだから信じなさい、と断言なされている。

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それが、「聖道の証し難きことを決し、唯、

浄土の通入すべきことを明かす」である。

「道綽禅師ならでは教えきれない」と、

親鸞聖人は、褒めたたえておられる。

 

●厳しいがハッキリする廃立

 

言葉遣いにもいろいろある。

AとBがあった場合、

「Bもよい」は、どちらも傷つかない穏やかな言い方で、

反顕法とか穏顕と言われる。

「Bはダメ、Aがよい」という言い方を比較法とか廃立と言い、

厳しいがハッキリする。

後生の一大事を教える仏教は、厳しくなければならぬので、

親鸞聖人は、常に廃立で教えられている。

それが親鸞聖人の三重廃立である。

『教行信証』には、

一、内外廃立(他の宗教を捨て、仏教のみを信じよ)

二、聖浄廃立(聖道仏教を捨て、浄土仏教を信じよ)

三、真仮廃立(浄土他流を捨て、真宗を信じよ)

と説かれている。

人は何のために生き、働くのか。

政治、経済、科学などは何のために存在するのか。

「人生の目的は、後生の一大事の解決ひとつ」と、

仏教は教えている。

一日生きれば一日死に近づき、

全人類は後生に向かって進んでいる。

後生がハッキリしなければ、降りるところのない飛行機に

乗っているようなもので、不安なのは当然である。

科学が進歩しても、後生、未来が明るくならない限り、

不安はなくならない。

「癌が手術で助かった」

「飛行機事故にあったが、一命とりとめた」

と言っているが、死が少し先に延びただけで、

本当に助かったとは言えない。

10年、20年、寿命が延びたとしてもアッと言う間のこと。

後生の一大事を解決しない限り、

滝壺に近づく遊覧船上の人生で、危険この上もない。

いつ死んでも極楽浄土間違いなしの身に救われ、

現在、絶対の幸福、無碍の一道の世界に出てこそ、

真に助かったと言える。

全人類を無碍の一道に導くのが仏教の狙いである。

道綽禅師が、

「聖道仏教では助からない」

と断言されるのは、この後生の一大事が聖道仏教では

解決できないからである。

浄土仏教だけが解決できる、と峻別された道綽禅師を

親鸞聖人は褒めたたえていられるのもその故である。

 

●真実と方便

 

聖道仏教(禅宗、天台宗、真言宗など)の本質は自力である。

廃悪修善によって、救われようとする自力の仏教である。

浄土仏教(浄土真宗、浄土宗など)では、

阿弥陀仏の願力不思議によらなければ、

後生の一大事の解決はできないと教え、

他力の仏教といわれる。

後生の一大事を引き起こす無明(後生暗い心)は、

阿弥陀仏しか破れないから、弥陀一仏に向け、

と釈尊は教えられた。

一向専念無量寿仏」が、その釈尊のご金言である。

では、なぜ釈尊は、聖道仏教を説かれたのか。

浄土仏教は真実、聖道仏教は、方便である。

「マコトのないのが凡夫のマコト、

マコトのあるのが仏のマコト」である。

真実のカケラも持ち合わせていない人間を、

真実に導くには絶対に方便が必要である。

「後生の一大事の解決には無明を破らなければならない」

と言っても、自惚れ強い我々は、その無明が分からない。

阿弥陀仏のお力によらねば、どんな知恵ある人でも

知られないのが、無明である。

親鸞聖人は比叡山で20年間、真剣に聖道仏教(廃悪修善)を

励まれ、真実微塵もない己の姿に驚かれた。

一切凡小、一切時の中に、貪愛の心、常に能く善心を汚し、

瞋憎の心、常に能く法財を焼く。

急作急修して、頭燃を灸(はら)うが如くすれども、

衆(すべ)て雑毒雑修の善と名け、亦虚仮諂偽の行と名く。

真実の業と名けざるなり。

此の虚仮雑毒の善を以て、無量光明土に生ぜんと欲す、

此れ必ず不可なり

            (教行信証)

「頭髪に火がついたのを揉み消す真剣さで

廃悪修善を行ったが、真実の善はできなかった。

後生の解決はできない」と悲泣なされている。

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高層ビルの建築には足場が必要である。

対岸に渡るには筏が必要である。

方便はウソということではない。

真実に導くために必要なものを方便というのだ。

無明を知らせるには、罪悪を見つめて進まねばならぬ。

煩悩が邪魔になり、それに苦しむ。

真実が分かってはじめて、方便が分かる。

真実が分からぬ者は、方便も方便と分からない。

道綽禅師も真実を知られなかった時は、

聖道仏教に迷っておられた。

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●仏教の究極の目的

 

万善の自力、勤修を貶し

万善の自力とは「諸行万行」ともいい、

仏教で教えられるすべての善である。

釈尊は六つに分けられ、「六度万行」とも教えられている。

布施(親切)・持戒(言行一致)・忍辱(忍耐)

・精進(努力)・禅定(反省)・智慧(修養)である。

廃悪修善をやる聖道仏教を、道綽禅師はけなされた。

けなされた善を行う必要はない、勧めるのも間違いだと

思っている者が多い。

浄土真宗が悪人製造の教えと非難される原因がここにある。

因果の道理は仏教の根幹、大宇宙の真理で、

善い因をまかねば善果はこない。

道綽禅師は、なぜ万善を励むのをけなされたのか。

善を嫌い、悪の好きな我々は道綽禅師のこのお言葉を

自分の都合のよいように解釈しがちである。

我々の善でむくわれるのは相対の幸福でしかない。

自力の善で無明を晴らし、後生の一大事を

解決することはできない。

仏教の目的は名誉、地位、財産などの相対の幸福ではない、

後生の一大事を解決して、絶対の幸福になるところにある。

相対の幸福が仏教の目的であれば、

諸善をけなされるはずがない。

万善の自力、勤修を貶し」はカミソリのようなお言葉で、

真実の分からぬ者は大怪我をする。

「後生の一大事の解決をして、絶対の幸福になることこそが

仏教の目的である」ことを鮮明にされた道綽禅師のお言葉である。

円満の徳号、専称を勧む

円満とは完全無欠、絶対。

徳号は、南無阿弥陀仏のご名号である。

六字のご名号に阿弥陀仏の造られた万善が収まっており、

円満の徳号といわれる。

ご名号の万善と我々の善との区別がつかないために、

「念仏さえ称えておれば善果がくるのだ」

と聞き誤っている人が多い。

念仏をどれだけ称えても、大学には合格できない。

人生の成功もない。

諸善も、念仏も、聴聞も全部、間に合わなかったと

切り落とされたとき、自力が廃る。

その時、南無阿弥陀仏のご名号が徹到し、

絶対の幸福に救われ、円満の徳号があったと知らされる。

無碍の一道に出させていただいたら、称えずにおられない。

道綽禅師はその念仏を勧めてゆかれたのである。

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『正信偈』講話⑥ [正信偈]

参考に以下の動画を見られると真実の仏教がどういうことを教えられているのか
よくわかります。
岡安講師の他の動画も観られると本当にその通りだなと
感動せずにはおれないと思います。



(真実の仏教を説かれている先生ご執筆の『正信偈』講話から続きを載せたいと思います。)

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印度西天之論家 印度西天の論家

中夏日域之高僧 中夏・日域の高僧

顕大聖興世正意 大聖興世の正意を顕し、

明如来本誓応機 如来の本誓、機に応ずることを明す。

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親鸞聖人のお書きになられた『正信偈』のお話をいたします。

その前に、上記の文に至るまでのおおまかな内容を述べましょう。

 

●あふれる喜びの表明

 

冒頭で親鸞聖人は、

帰命無量寿如来

 南無不可思議光

と仰っています。

「親鸞は無量寿如来に帰命いたしました。

不可思議光に南無いたしました」

ということで、無上仏の阿弥陀仏に助けられた、救われた、

とあふれる喜びを告白されたお言葉です。

この二行から、阿弥陀仏の救いはハッキリすることがわかります。

また同じ意味のことを二回繰り返しておられるのは、

喜びの限りないことを表しています。

 

●釈尊、七高僧の

    ご教導あったればこそ

 

この身に救われたのは、まったく阿弥陀仏の本願の

おかげであったと、無上仏を称讃され、

本願を教えてくだされた釈尊のご恩を、

次に聖人は讃えておられます。

それが、

如来所以興出世

 唯説弥陀本願海

です。

釈尊こそ善知識の元祖。

そして、釈尊の教えを間違いなく教えてくださる方をも

善知識といい、親鸞聖人は七人選ばれました。

七高僧といいます。

インドでは龍樹・天親の二菩薩、

中国の曇鸞大師・道綽禅師・善導大師、

日本では源信僧都・源空上人、これらの方々を、

印度西天の論家、中夏日域の高僧と仰ったのです。

いずれも、釈尊の教えの通り、阿弥陀仏の本願を

教えられた大変すぐれた方たちです。

親鸞聖人は、これらの七高僧のご教導あったなればこそ、

とよろこばれたのです。

 

●『大経』か『法華経』か

   法で互角、機で『大経』

 

では、七高僧は何を顕らかにされたか。

大聖興世の正意。

大聖とは釈尊のことですから

釈尊がこの世にお生まれになった目的です。

釈尊の本心を知り、それを顕らかにすることが、

善知識の条件なのです。

七高僧は、釈尊の正意を、

如来の本誓、機に応ずること

と明かされました。

如来の本誓とは阿弥陀仏の本願、応機とは、

すべての人々を救うということです。

釈尊の本心が説かれているお経を出世本懐経といいますが、

それについて古来、二通りの意見があります。

一つは『法華経』、一つは『大無量寿経』。

日蓮系の者は『法華経』だといい、

浄土系の人は『大無量寿経』だと主張します。

今でも議論がありますが、徳川時代にはよくこれに関しての

法論がなされました。

その結果『法華経』が勝ったためしがありません。

法、つまり教えそのものの深さでは互角。

共に深法といわれます。

一切経の中でも、深法とあるのはこの二つだけでしょう。

しかし、その法を聞いて救われるのは誰か、

という機の問題になりますと、『法華経』は、

声聞、縁覚、菩薩に限られます。

『大無量寿経』には、すべての人々が救われると

書かれてありますから、この点で『大経』がすぐれているのです。

七高僧は、それを知っておられ、

「阿弥陀仏の本願のみがどんな人でも救うことができる」

と明らかに教えられたのです。

 

●『歎異抄』第二章の真意

 

さて、『正信偈』のこの部分を拝読する時に

いつも思い出すのは、『歎異抄』第二章の次のお言葉です。

弥陀の本願まことにおわしまさば、

釈尊の説教虚言なるべからず。

仏説まことにおわしまさば、

善導の御釈虚言したまうべからず。

善導の御釈まことならば、

法然の仰(おおせ)そらごとならんや。

法然の仰(おおせ)まことならば、

親鸞が申す旨、またもって虚しかるべからず候か

「阿弥陀仏の本願がまことだから、

それひとつ教えられた釈尊の教えはウソ偽りではない。

仏説がまことだから、釈尊の教え通りに説かれた善導大師の

御釈はウソではないんだ。

善導大師の教えがまことだから、

法然上人の仰せにまちがいがあるはずがない。

法然上人の仰せがまことだから、この親鸞が言うこともまた、

ウソであるはずがないではないか」

これは、関東からはるばる京都の親鸞聖人を訪ねてきた

同行たちに仰ったお言葉です。

親鸞聖人は関東で長い間ご布教されたあと、

還暦過ぎて京都へ帰られました。

ところが、その後関東に日蓮というキチガイ坊主が現れ、

ウチワ太鼓を叩きながら、

念仏無間 禅天魔 真言亡国 律国賊

とふれ回った。

念仏称えておる者は無間地獄に堕ちるぞ、

と叫んで歩いたのです。

それがあまりに狂信的であったため、

はじめは相手にしていなかった関東の同行たちの

信仰も動揺してきた。

もし日蓮の言うことが本当なら大変だ。

これは京都の親鸞聖人にジカに問い質そうと決意し、

大変なお金と時間をかけて、京都へ行ったのです。

道中、山賊もおれば、盗賊もいる。

今では想像もつかない危険が待ち受けている。

まさに命がけで、関東の同行は聖人のもとへ行ったのです。

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それに対して、聖人が仰ったのが、『歎異抄』第二章。

親鸞聖人はまず、「弥陀の本願まこと」と仰いました。

これが聖人の信仰の出発点であり、大前提なのです。

だからこそ、釈尊も善導大師も法然上人も、

そしてこの親鸞の言うことも正しいのだ、

という論法です。

信心決定した人にとって、唯一まちがいないのは

弥陀の本願のみだからです。

しかし、信前の関東の同行にとっては、

最もまちがいないのが親鸞聖人、

一番信じられないのが弥陀の本願、まるっきり反対です。

信前は、本願ではなく人を信じているのです。

だから、その人にもしまちがいがあれば、

信仰が全部くずれてしまいます。

砂上の楼閣にすぎません。

信後の心は、絶対にまちがいない弥陀の本願の上に

立っていますから、くずれることはありません。

たとえ、釈尊の一切経、七高僧の教えがまちがいであると

分かっても信仰は少しも動じないのです。

このように、信前と信後の決定的な信仰の違いを、

このお言葉は表しています。

『歎異抄』のこのお言葉と合わせて考えると、

『正信偈』の四行の意味がより深く理解されると思われますので、

紹介しました。

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天親菩薩論註解 天親菩薩の論を註解して、

報土因果顕誓願 「報土の因果は誓願なり」と顕したまう。

往還廻向由他力 「往還の回向は他力に由る、

正定之因唯信心 正定之因は唯信心なり」といえり。

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曇鸞大師が、天親菩薩の『浄土論』を解釈なされたものが

『浄土論註』である。

『浄土論註』の大意を、親鸞聖人は次のように

顕らかにしておられる。

報土の因果は誓願なり、と顕したまう。

往還の回向は他力に由(よ)る、

正定の因はただ信心なり

報土とは、阿弥陀仏の願と行に報いて完成された世界、

阿弥陀仏の極楽浄土である。

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「極楽浄土が成就した原因と結果は、

阿弥陀仏の本願による」ことを明らかにされている。

医学が進歩して寿命は延びたが、死からは逃れられない。

お金も財産も、地位、名誉、すべてが最期、

自分から離れていってしまう。

金ができて何でも食べられると思ったら

糖尿病で食べられない。

好き放題できるころは身体が動かない。

タンスに着物いっぱいしまいながら中風で着られない。

人生、積み上げる後から鬼が崩してゆく賽の河原と同じ。

家を建て、子供を育て、財を築きながら、

死に直面して、根底からひっくり返り、泣き出す。

すべてが無常と知らされて、はじめて常住の世界を求める。

全人類は幸福を願いながら、永遠に変わらない世界のあることも、

ゆく方法も知らない。

「浄土は厳然としてある」

と、曇鸞大師は明らかにしてくださった。

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この世のことも、ろうそくからランプ、電気、蛍光灯、

ラジオから白黒テレビ、カラーテレビと願いによって

作り出されている。

我々の究極の願いは、無常から常住、不浄から清らかな世界、

不安から安心の世界以外にない。

究極の願いをかなえてくださる阿弥陀仏の誓いは、

凡夫の知恵では分からない。

 

●自力回向と他力回向

 

仏智を体得された天親菩薩が『浄土論』に、

曇鸞大師は『浄土論註』に明らかにされていると、

親鸞聖人がご教示になっている。

仏智によって知らされるのが、

往還の回向は他力に由る、正定の因は唯信心なり」である。

往還の回向とは、往相回向と還相回向のこと。

往生浄土の相状を略して往相、還来穢国の相状を略して

還相という。

回向とは、差し向ける、与えるという意味。

自力回向と他力回向の二通りがある。

元旦に神社に出かけ、柏手打って賽銭をあげる。

知人の訃報を知り、冥福を祈って線香、灯明を差し向ける。

肉親が死ぬと読経や盛大な葬式をする。

その善根功徳を神仏、亡者に差し向けて助けようとしている。

自力回向である。

他力回向。他力とは阿弥陀仏のお力のみ。

阿弥陀仏から私たちに与えてくだされるのを他力回向という。

自力回向と他力回向は差し向ける方向が正反対だ。

親鸞聖人が回向と仰るのは他力回向に限る。

「往相も還相も、阿弥陀仏のお力による」

と、曇鸞大師が教えていられるからだ。

我々に差し向けるものがあるなどと思うは、

我が身知らずもはなはなだしい。

罪悪の塊が何を差し向けるのか。

自力回向の言葉はあっても、使う余地なし。

いずれの行も及び難き身なれば、

とても地獄は一定すみかぞかし

煩悩具足とハッキリ知らされているからである。

一息一息、死に近づいているのは万人同じだが、

信心決定していない人はそのまま地獄への行進だ。

信心決定の人は阿弥陀仏のお力によって、

極楽浄土へ運ばれているのが往相廻向。

泳げる人にも泳げない人にも、波は同じように来ているが、

泳げない人は波で苦しみ、泳げる人は波を楽しむ。

大変な違いがある。

信前・信後、人生の荒波は変わらないが、

救われた人は苦悩の波が喜びと転じる。

極楽に往生すれば、衆生済度にこの世に戻って

大活躍せずにおれなくなる。

これを還相廻向という。

親鸞聖人が、

片男浪の寄せかけ寄せかけ帰らんに同じ

と、仰っているのが還相廻向。

往相廻向、還相廻向ともに他力、すなわち阿弥陀仏のお力による。

『教行信証』には、往相を自利、還相を他利と教えられている。

往相廻向は、我が身が苦悩の世界を離れ、

極楽浄土に生まれるのだから自利。

還相廻向は、苦悩の衆生を済度する活動だから、利他である。

 

●大悲の活動

 

小慈小悲もない人間でさえ、苦しんでいる人を見ては

安穏としておれない。

まして仏の慈悲は、一人残らず平等に広い世界に出ない限り、

満足できない。

大悲の活動はここから起きてくる。

小慈小悲もなき身にて

 有情利益はおもうまじ

 如来の願船いまさずは

 苦海をいかでか渡るべき

親鸞聖人のご和讃である。

「親鸞には小さな慈悲のカケラもない、

みんなを信心決定まで導こうの心もない」

と仰っている。

ギリギリ一杯、人間の実相である。

「みなみな信心決定あれかし」

と思い続けられ、強欲な日野左衛門、

仇の弁円まで済度されたのも事実である。

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信心決定された29歳から、お亡くなりになるまでの親鸞聖人は、

大慈悲一杯のお方と思われている。

それはしかし、親鸞聖人のみ心ではない。

なぜか。

それは、如来の願船、他力回向の大慈悲心以外にない。

「日野左衛門や弁円を済度したのは、親鸞ではない。

阿弥陀仏の活動だ」

と仰っているからだ。

我が歳きわまりて、安養浄土(極楽浄土)に還帰すというとも

和歌の浦曲の片男浪の寄せかけ寄せかけ帰らんに同じ。

一人居て喜ばは二人と思うべし、二人居て喜ばは三人と思うべし、

その一人は親鸞なり

と、『御臨末の御書』にある。

「いま親鸞は極楽浄土に還る。

しかし波のようにすぐ帰ってくる。

一人いても一人と思うな、二人いても二人と思うな、

必ずそばに、親鸞がいる」

聖人っは限りない衆生済度を約束しておられる。

そんな広大な阿弥陀仏の救いにどうしたらあえるのか。

「正定の因は唯信心なり」

信心一つで助かるのだ、とハッキリ教えていられる。

正定とは、正定聚、絶対の幸福である。

平生に阿弥陀仏のご念力で絶対の幸福になり、

生死の苦海が光明の広海に転じた人でなければ、

阿弥陀仏の浄土へ往くこと(報土浄土)も、

弥陀同体の仏にもなれない。

弥陀同体の無量寿・無量光の仏になると、

自由自在に衆生済度の活動ができる。

仏法は聴聞に極まる

ハッキリ救われるところまで聞き抜かなければならない。

浄土真宗は平生業成、現生不退、報土往生、弥陀同体と

現当二益の大幸福をうる無二の妙法である。


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『正信偈』講話⑤ [正信偈]

(真実の仏教を説かれている先生ご執筆の『正信偈』講和から続きを載せたいと思います。)

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一切善悪凡夫人 一切善悪の凡夫人。

聞信如来弘誓願 如来の弘誓願を聞信すれば、

仏言広大勝解者 仏は広大勝解の者と言い、

是人名分陀利華 是の人を分陀利華と名づく。

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おなじみの親鸞聖人の『正信偈』の一節ですが、

阿弥陀仏に救われた人は十方の諸仏から言葉を尽くして

称賛されることを教えておられます。

まず「一切善悪凡夫人」ということですが、

一切とはすべての、凡夫人とは人間、ということです。

凡夫について親鸞聖人は、

凡夫というは、無明煩悩われらが身にみちみちて、

欲も多く、瞋(いか)り、腹立ち、そねみ、

ねたむ心多くひまなくして、臨終の一念に至るまで、

止まらず消えず絶えず

          (一念多念証文)

と仰っています。

欲、怒り、愚痴、これらの煩悩に目鼻をつけたようなのが

我々人間であり、それを凡夫といいます。

その煩悩で限りなく悪を造るからすべての人間は悪人ばかりです。

ところが、その凡夫の中に善悪があると教えられているのですが、

親鸞聖人が善人だと仰ったのは自己の善悪が分からず、

自分を善人と自惚れている人、

悪人とは自己の罪悪に気づいている人ですから

一切善悪凡夫人で、すべての人々という意味になります。

聞信如来弘誓願」とは、阿弥陀如来の本願を聞いて

救い摂られるならば、ということです。

本願に救い摂られることを信心決定といいます。

信心決定しますと、仏は広大勝解者と言い、

是の人を分陀利華(ふんだりけ)と名(なづ)くのです。

信心決定した人を、十方の諸仏方はまず広大勝解者とほめられます。

広大勝解者とは、釈尊の一切経を何回も読破した

大学者ということです。

仏教では一切経を読んだことのないような人は学者とは言いません。問題外です。

ある人が、信心決定した人に、

「あなたは一切経、何回読みましたか」

と尋ねますと、その人は、

「数えられない程ですよ」

と答えました。

すると、

「法然上人でさえ、5回しか読んでおられないのに」

と、不思議がりました。

 

●一切経を読破

 

一切経も他の聖教も、つまるところ南無阿弥陀仏の

六字を解説したものであります。

蓮如上人はそれを、『御文章』五帖目九通に、

一切の聖教というもただ南無阿弥陀仏の六字を

信ぜしめんが為なり

と教えておられます。

南無阿弥陀仏の大功徳を解説したものが一切経だから、

阿弥陀仏に救われて、その六字の大功徳をいただいてしまえば

すべて分かる。

あとは念仏の一声一声が一切経を読み破っていることになるのです。一切経を数え切れないほど読んでいるとはそのことです。

また一切経を一巻ずつ読んでいても、

六字の大功徳をいただかなければ読んだとはいえません。

一切経を読みながら読んでいない学者が多いのです。

次に、

是の人を分陀利華と名づく

と仰っていますが、分陀利華とは白蓮華のことです。

純白でシミ一つない綺麗な蓮の華のことです。

シミ一つないとは心の中に何の不安もない大安心を表すのです。

広大勝解者とほめられて大満足、

分陀利華で不安一つない大安心ですから、

阿弥陀仏に救われれば大安心大満足の身になれるのです。

親鸞聖人は、諸仏が信心決定した人に対するほめ言葉を

ここで二つ挙げられましたが、

善導大師はさらに詳しく教えておられます。

あげてみますと、

無上人・・・最高に素晴らしい人

最勝人・・・最も勝れた人

妙好人・・・妙なる好ましい人

勝友・・・釈尊の勝れた友人

親友・・・釈尊の親しい友人

希有人・・・まれにしかいない人

などです。

このような言葉で諸仏からほめられるという

素晴らしい身になるのです。

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●仏にほめられる身になれ

 

仏教では迷っている者にほめられることを恥と思え、

迷っている者に謗られることを喜べと教えられます。

ですから、親鸞聖人は生涯世間中から、非難、誹謗され、

その聖人をほめたのは弟子と信者の人だけでした。

迷っている連中が人をほめるのは、

みなその人の都合でほめます。

だから、禅僧一休は、

今日ほめて明日悪く言う人の口

  泣くも笑うもウソの世の中

と歌いました。まことにその通りです。

真実の仏法は迷っている連中に都合のよい事など

一言も説きません。

だから、親鸞聖人が生涯世間中から謗られたのでありますが、

しかし無量の諸仏からほめられる身になっておられる

聖人にとって、それらは物の数ではなかったのです。

仏にほめられる身になるのが、仏教を求める目的なのであります。

 

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印度西天之論家 印度西天の論家、

中夏日域之高僧 中夏・日域の高僧

顕大聖興世正意 大聖興世の正意を顕し、

明如来本誓応機 如来の本誓、機に応ずることを明す。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

親鸞聖人は、『正信偈』の冒頭で阿弥陀仏に救われた体験を

告白なされています。

救われますと、阿弥陀仏のことを自分に教えてくださった方々を

思わずにおれません。

ここで親鸞聖人は阿弥陀仏のことを伝えてくだされた方々の

ご恩を喜んでおられます。

昔は井戸から水を引き上げておりましたが、

次にポンプとなり今日は水道が設置され蛇口をひねるだけで

水は出てきます。

昔と比べると大変便利になり、ありがたいことと感謝せずに

おれないのですが、それには水がまんまんと湛えられている

貯水池があるからです。

中国のことわざに、「水を飲む時に井戸を掘った人のことを思え」

というのがあるそうです。

貯水池を感謝すると同時に、いくら貯水池がありましても、

そこから私たちの家まで水道管が敷設されていなければ

水は出ないのですから、水道管のありがたさを

思わずにおれません。

親鸞聖人が今ここで教えられるのは、

貯水池から私たちの家までどのようにして水が流れてきたのか、

水道管とその水の流れを明らかにしようとなさっているのです。

貯水池とは阿弥陀仏の本願海、その水を私の家(私の胸)にまで

誰がどのようにして伝えてくださったのかということです。

親鸞聖人は阿弥陀仏に救い摂られた明らかな体験に基づいて、

それらのことを教えられた方のご恩を讃仰して

『正信偈』に書いておられます。

それらを総括して、

印度西天の論家、中夏・日域の高僧、

大聖興世の正意を顕し、如来の本誓、

機に応ずることを明す

印度のことを西天ともいい、印度西天でインドの国のことです。

論家とは、『○○論』という論を書かれた菩薩のことです。

インドにはたくさんの菩薩方がおられますが、

親鸞聖人にとって特に忘れることのできないお方として、

龍樹菩薩と天親菩薩をあげておられます。

中夏とは中国のことで同じく三人の仏法者、

曇鸞大師、道綽禅師、善導大師をあげられ、

そのご恩を述べておられます。

日域とは日本のことで、源信僧都、源空上人をあげられ、

以上の方々を七高僧と尊敬なさっています。

これらの方々は大聖興世の正意を顕らかにされたお方であると

親鸞聖人は仰っています。

大聖とは釈尊のことです。

大聖興世の正意とは釈尊の出世本懐ということで、

親鸞聖人は七高僧のご教導を仰がれて、

阿弥陀仏の本願これ一つであったと断言なされたのが、

如来所以興出世

 唯説弥陀本願海」   (正信偈)

です。

 

●釈尊出世の本懐経

 

如来の本誓、機に応ずることを明す

とは、阿弥陀仏の本願が我々の根機に相応していることを

明らかにされたということです。

我々の機に応ずるか否かは、中国、日本で釈尊出世の本懐経を

明らかにする上で、大変多く法論なされております。

仏教を聞く目的は後生の一大事の解決であると

知らされた者にとって、後生の一大事の解決できる出世本懐経は

どれであるかは大切な問題です。

釈尊出世の本懐経はどれかということで色々な宗派に

別れているのですが、『華厳経』を出世本懐経としているのが

華厳宗であり、『大日経』を出世本懐経としているのが、

真言宗であります。

ところが釈尊出世の本懐経として今日なお法論なされ

問題になるのが、『大無量寿経』と『法華経』であります。

数多くの法論の中で『法華経』が勝利を収めたことは一度もなく、

常に『大無量寿経』が勝利を収めています。

代表的法論の大原問答をはじめ、その記録をみてみましても、

結論は同じく法で相打ち、機の方で『大無量寿経』が

勝利を収めています。

説かれている教え(法)ではともに優劣はないのですが、

その教えの通り実行できるか否か(機)が

問題になってくるのです。

『法華経』に説かれてあることは、

誰も実行できない方便のお経であります。

与奪の論法で、法では『法華経』も『大無量寿経』と

遜色がないほど素晴らしいと認めながら、

我々の機に合わないから出世本懐経ではないと

先ほど与えたもの総てを奪い取って、

『大無量寿経』こそが真実のお経であることが

明らかになっております。

釈尊は誰も実行できないような教えをなぜ説かれたのでしょうか。

自分はやろうと思えば何でもできると自惚れている心が

自力の本性であり、親鸞聖人が自力をタノム心と仰っています。

自力無功と知らせるために方便の教えが必要であり、

全身全霊かけて実行してはじめてできない己が知らされ、

『大無量寿経』のみが法も機も無上であることが

知らされるのです。

親鸞聖人はここで、釈尊出世の本懐を明らかにしてくだされた

七高僧のご恩を讃嘆しておられるのです。

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『正信偈』講話④ [正信偈]

(真実の仏教を説かれている先生ご執筆の『正信偈』講和から続きを載せたいと思います。)


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獲信見敬大慶喜 信を獲て見て敬い大(おおき)に慶喜すれば、

即横超截五悪趣 即ち横に五悪趣を超截す。

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「獲信」とは信心獲得のことを親鸞聖人が略せられ、

「獲信」と仰ったのです。

信心獲得とは阿弥陀仏の絶対の救いを体験して

無碍の一道に出たこと、一切の碍りがなくなった

世界でありますから、今日、絶対の幸福といいます。

信心獲得いたしますと阿弥陀仏を敬い、

心から拝見せずにおれなくなります。

これが「見敬」ということです。

この世でこんな喜びの身になれるとは全く知らなんだ、

これは全く阿弥陀仏の絶対のお力であったということが

ハッキリいたしますので、阿弥陀仏を心から敬って

礼拝せずにおれなくなるのです。

その心が「大慶喜」です。

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●広大難思の慶心

 

蓮如上人はこの喜びを、

「うれしさを昔はそでにつつみにけり

    こよいは身にも余りぬるかな」

と仰って、阿弥陀仏に救われる前は喜ぼうと思っても

袖に包むような小さな喜びしかなかった。

しかし、信心獲得してからは身に余る大きな喜びであったと

仰っています。

親鸞聖人は『教行信証』の中に、

「広大難思の慶心」と仰っています。

「その喜びは広かったぞ、大きかったぞ、

想像もできない喜びであった」

と、聖人獲信の喜びを告白なされたものです。

別のところでは、この喜びを、

「心も言葉も絶えた」と仰っています。

無明の闇が破れ、生死の大問題が解決できたのですから、

その喜びは、私たちの想像をはるかに超えたものです。

 

●『歎異抄』の問題点

 

親鸞・蓮如両聖人は、信心獲得すると大慶喜心が起きると

仰っているにもかかわらず、そんな喜びなんか凡夫に

起きるものではないと皆が思うようになった一つの原因は、

『歎異抄』第9章です。

この中に親鸞聖人と唯円との対話があります。

唯円が、

「私は念仏称えますが、踊躍歓喜の心が起きません。

これはどうしたことでしょうか」

と尋ねたのです。それに対して、聖人は、

「唯円、お前もそうか。実は親鸞もそのことについて

不審を持っていた。

踊躍歓喜という大きな喜びはない」

と答えられたと書いてあります。

説教する者は、ここを根拠に、

「聖人もお弟子の唯円も喜べないと仰っているではないか。

私たちが喜べるはずがあるか、喜べないのが当たり前、

こんな奴を死んだら阿弥陀さまが助けてくだされるのだ」

と話をし、こんな話を聞かされた者は、

喜べない自分の心とピタリときて

喜べないままのお助け、何と有り難いことが

『歎異抄』には書いてあるのか、

と『歎異抄』が大好きになるのです。

ここに『歎異抄』の問題点があり、蓮如上人は、

これを誰にでも読ませてはいけない、

当流大事の聖教と仰っています。

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これはカミソリのようなもので、カミソリは子供が持てば

大変危険なものですが、大人が使えば

大変便利なものであるように、読む人によって非常に危険な

内容の本にもなるし、信心獲得した人にとっては

味わいのある本になるということです。

 

●桁外れの喜び

 

それではこの九章は、信心獲得した人が読むと、

どのようになるのか。

親鸞聖人はこの問題の箇所の後に、

「唯円喜べないか、親鸞も踊躍歓喜の心はない。

そこで唯円、こんな喜ばなければならないことを

喜ばない者を、阿弥陀仏が助けてくだされたとは

何と不思議なご本願ではないか、

いよいよ喜ばずにおれないなあ」

と、聖人は喜んでおられるのです。

親鸞聖人の喜びは、喜ばない自分の心を知らされれば

知らされるだけ、こんな者がどうして救われたのか、

絶対の幸福の身になったのかと喜びが湧き上がってくるのです。

この広大難思の慶心、心も言葉も絶えた喜びは信心獲得しなければ

想像もできない喜びです。

信心獲得した人でなければ、この聖人の桁外れの喜びというものを

この『歎異抄』から読み取ることはできません。

私たちは阿弥陀仏に救われ大慶喜心が起きるところまで

求め抜かなければなりません。

 

●見仏得忍

 

信心獲得すれば阿弥陀仏を見て敬い、大慶喜の心が起きてきます。

阿弥陀仏を、私たちの肉眼で見るということではなく、

心眼で阿弥陀仏を見せていただくのです。

心眼とは私たちの心の眼ではなく

阿弥陀仏より賜った心の眼ということです。

阿弥陀仏を見たてまつった時に、

信心獲得の身の上になります。

『観無量寿経』の中には、韋提希夫人が阿弥陀仏を見た時に

救われた、見仏得忍と説かれています。

 

●同時即

 

阿弥陀仏に救われますと、「即応超截五悪趣」とありますように、

その時に横に五悪趣を超截することができます。

「即」には二通りの意味があります。

同時即と異時即で、同時即とは時を隔てず処(ところ)を隔てず

という意味です。

異時即とは、例えば船に乗ったら即ち岸に渡ることができる。

飛行機に乗ったら即ちアメリカに行ける、

といったように時間や場所のずれがある即ちです。

この『正信偈』の「即」は同時即です。

信心獲得したその時その場所を意味しています。

 

●五悪趣を超截する

 

「横」とは、他力を表します。

他力とは阿弥陀仏の本願力のみを示します。

「截(ぜつ)」はたち切るということで、

「五悪趣」とは五つの悪い世界、六道(六界)のことです。

大きくは三界、こまかく分けると二十五有界になります。

地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人間界・天上界の六界の

中の修羅界をぬいて五悪趣といいます。

地獄界とは苦しみの大変激しい世界で、

この世の溶鉱炉の火を地獄に持ってゆくと

霜か雪になってしまうといわれます。

餓鬼界は常に欲しい欲しいと満たされていない世界で、

食べ物があって近づき口にしようとすると

ボーッと青白い炎になってしまう恐ろしい世界です。

畜生界は淫欲まんまんとして常に不安が

つきまとっている世界です。

眠っている犬に足音を忍ばせ近づいていっても

どうしても気がつかれてしまいます。

それだけ神経をピリピリさせているということです。

人間界は常に善悪を問題にしている世界です。

天上界は天人の世界ですが、やはり天人の五衰があり

苦しみ迷いの世界です。

 

●現在の五悪趣

 

これらの世界は、死後にのみ存在するのではなく、

現在の私たちの心の中にうごめいています。

「私ほど業なものはいない」

と言って苦しみ悩んでいるのはこの世の地獄です。

名利を求め財を求め満たされないといっているのは

この世の餓鬼です。

不安におびえているのは心が畜生界に生まれているのです。

そして人間は善悪を問題にし、

善を欲し悪を恐れています。

また思いがけないお金が手に入ると心はたちまちに

天上界に上がります。

このように私たちの現在の心の中にこの五つの世界があり、

もちろん死後にもこの世界が続くのです。

 

●引業と満業

 

私たちが死にますと、次にどの世界に生まれるのかを、

業(行為)が決めます。

業不滅といい、私たちは身口意の三業によって

未来の運命を造っているのです。

世の中にいくら背の高い人がたくさんいても一番高い人は

ただ一人のように、たくさんの業があっても

その中で一番重い業は一つしかありません。

生涯に造った業の中で最も重い業が

私たちの死後生まれる世界を決定し、

これを引業といいます。

引業以外の一切の業を満業というのです。

この満業が死後生まれた世界のさまざまな運命を

引き起こすのです。

業の収まっているところを阿頼耶識といい、

あらゆる業が収まっていますから

蔵識とも業識ともいいます。

私たちは身口意の三業でろくな因(たね)まきを

しておりませんから、必ず三悪道に堕ちてゆかねばならない

一大事が惹起します。

死後生まれるのは結果で、これには必ず原因があります。

現在の私たちの心の中に五悪趣がうごめいているということです。

阿弥陀仏に救われた即時に、現在の私たちの心の中の

五悪趣を超截することができるのです。

因が解決されるのですから当然結果を引き起こしません。

阿弥陀仏に救われますと、現在から五悪趣を超截して

再び三悪道に迷うことのない身の上になるのです。

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『正信偈』講話③ [正信偈]

以下の動画を見られると真実の仏教がどういうことを教えられているのか

よくわかります。

菊谷講師の他の動画も観られると本当にその通りだなと

感動せずにはおれないと思います。


【仏教の原点】人は死んだらどこへ行くのか



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(真実の仏教を説かれている先生ご執筆の『正信偈』講和から続きを載せたいと思います。)


摂取心光常照護 摂取の心光は常に照護したまう

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これはおなじみの『正信偈』の一節である。

「摂取の心光は常に照護したまう」

と読むのだが、親鸞聖人が、すべての人間が阿弥陀仏に救われたら

どうなるのかを教えられたものである。

まず「摂取の心光」の心光とは阿弥陀仏の光明のことである。

光明とは仏の力、仏の念力を表す。

念力とは念ずる力のことであるが、

念力とは物を動かしたり、人を動かしたりする。

私たち人間にもある。

かつてテレビで日本中の話題をさらった番組に、

ユリ・ゲラーの「念力によるスプーン曲げ」があった。

あの不思議な超能力も実はこの念力の応用である。

今日、念力とは光と同じ作用をすることが

念写の実験により証明されている。

念写とは、念じたことが写真のフィルムに写る

現象のことであるが、これによって、釈尊が念力を

光明と言われた達見に驚かざるを得ない。

大願業力といわれる弥陀の光明とは、

一念で私たちを絶対の幸福に救い摂られる

素晴らしい念力なのである。

 

●遍照と摂取

 

この弥陀の光明を大別すると、遍照の光明と摂取の光明の

2つに分かれ、それぞれ働きが異なる。

遍照の光明とは、すべての人間を遍く照らし、

真実の仏法を聞かせようとしてくださっている

阿弥陀仏のご念力のことである。

邪教に迷っている人も、重罪で獄中にある人も、

例外ではない。

また、人間界ばかりでなく、地獄・餓鬼・畜生界、

それに修羅・天上界、六道輪廻のあらゆる衆生も照らして、

何とか人間界に押し出そうとしてくださっている。

この遍照の光明の縁に遇わぬ者は一人もいない。

このことから、

「私たちは弥陀の光明に包まれているのだから、

すでに助かっているのだ」

という者がいるが、これは誤りである。

遍照の光明は別名、調熟の光明ともいい、

私たちが信心決定するまで、心を調え、

宿善を熟してくださる光明であるから、

この遍照の光明に押し出されて仏法を求め、

次の摂取の光明に出遇った時、

信心決定、と助けていただくのである。

遍照の光明では助からず、摂取の光明を体験して

初めて救われるのである。

これを摂取の心光ともいう。

蓮如上人は、『御文章』に、

「この摂取の光明に遇いたてまつる時剋をさして、

信心の定まるとは申すなり」

           (三帖目一通)

とか、

「そのたのむ衆生を、光明を放ちて、

その光の中に摂め入れ置きたまうなり」

           (三帖目四通)

とか、

「即ち是れ、阿弥陀仏の衆生を八万四千の大光明の中に摂取して」

           (四帖目六通)

と説いておられる。

摂取とは摂取不捨ということ、摂め取って捨てたまわず、

の意である。

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●摂め取って捨てたまわぬ

       大慈悲心

 

例えば、ある親子が寝ていたところ、川が氾濫して、

洪水が押し寄せてきた。

電気は消え、親子ともども水に流されようとした。

その時、暗闇で父が、

「おい、しっかりワシの帯につかまっていろよ、

岸まで泳ぐからな」

と、子供に帯をつかまらせて泳いで岸についた。

ところが、子供は途中で、力尽きて手を離して死んでしまった。

この場合、子供は自ら力を出して帯にすがらねばならないから、

摂取不捨にならない。

子供をしっかり抱きかかえ、離れようとしても離さず、

何の力もいらない状態で岸まで連れてゆく。

「常に照護したまう」とは、常に人生という生死の苦海を、

阿弥陀仏に摂取不捨と抱きかかえられて

照らし護られているという、大安心・大満足の自覚があるぞ、

と親鸞聖人が叫ばれたお言葉である。

私たちは、この摂取の光明のご縁に遇うまで、

聞法精進しなければならないのである。

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・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

摂取心光常照護 摂取の心光は常に照護したまう、

已能雖破無明闇 已に能く無明の闇を破すと雖も、

貪愛瞋憎之雲霧 貪愛・瞋憎の雲霧、

常覆真実信心天 常に真実信心の天を覆えり、

譬如日光覆雲霧 譬えば日光の雲霧に覆わるれども、

雲霧之下明無闇 雲霧の下明らかにして闇無きが如し

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

●人生の目的は破闇明闇

 

「摂取の心光は常に照護したまう」

とは、無上仏のすごいお力によって親鸞は

絶対の幸福にさせていただいた、

誰でも同じようになれるんだ、

と教えられたお言葉です。

「已に能く無明の闇を破すと雖も」

の「已に」とは、過去のこと。

「無明の闇」とは、苦悩の根源です。

苦しみの原因がわからないと、

取り除いて幸福になることはできません。

なぜ苦しいのか。

金がないからだ、こんな人と結婚したからだ、

こんな子供を持ったからだ、といろいろ思いますが、

これらは根源ではない。

枝葉です。根源はたった一つ。

それを「無明」とつきとめられたのが、

釈尊の偉大な功績なのです。

無明とは、光がない、明かりがない、闇の心です。

どれだけ科学が進歩し便利になり、物が豊かになっても

幸せにはなれない。

科学も医学も、相対的な幸せしか与えてくれません。

我々の求める絶対の幸福は、

無明の闇を破らない限りなれないのです。

だから、全人類の目的は、無明の闇を破ることにあります。

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●無明の知らされ方

 

ところがほとんどの人は、無明をもっていることに

気づいていません。

ではどうすれば、無明が知らされるか。

親鸞聖人の教えを真剣に聴聞し、教えの通り実行してゆくと、

知らされてきます。

何をしても空しい、満足できない。

バク然とした不安が襲ってくる。

物質的には何の不満もないのに、

どうして心にポッカリ穴があいたように空しいのか。

このまま一生終わっていいんだろうか。

芥川龍之介が「ぼんやりした不安」と言って

自殺した心に通ずるものです。

親鸞聖人のみ教えをまじめに求めてゆきますと、

無明の心がさまざまに感じられてきます。

聞いても聞いてもわからない。

だからといって放っておけない。

念仏称えても味がない。

称えないと不安で、称えずにおれない。

ある時はこれでいいと安心するけれど、

またある時はこんなことではなあ、と不安になる。

若存若亡と曇鸞大師が仰った。

これが無明の闇です。

おかる同行は、

「夜明けに向こうたようでもない。

真っ暗がりのようでもない」

と言っております。

もう一歩突っ込むと、文字通り闇の心と知らされます。

後生とふみ出して、ハッキリしない心は、みな無明です。

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●学問ではわからぬ心

 

無明の闇は、学問だけではわかりません。

実地に真実の教えを求めてゆかないとわからないのです。

その無明の闇が破れたらハッキリします。

その体験を、信心決定、絶対の幸福、無碍の一道というのです。

曇鸞大師は破闇満願と教え、無明の闇が破れ、

人生究極の願いが満足させられる。

略して破満ともいいます。

「摂取心光常照護」と「破闇明闇」は同じことです。

 

●変わる心と変わらぬ心

 

「已に能く無明の闇を破すと雖も」

というのは、信心決定してもということ。

信心決定しても、変わるところと変わらんところがある。

どこが変わり、どこが変わらないのか。

「貪愛・瞋憎の雲霧、常に真実信心の天を覆えり」

貪は貪欲、愛は愛欲、瞋は怒り、憎はニクシミ、

これらをみな煩悩といいます。

人間は煩悩のかたまり。

煩悩具足の凡夫とか、煩悩成就の凡夫、

『歎異抄』には煩悩熾盛の衆生とあります。

煩悩を油にたとえると、油のかたまりに火がついて、

燃えさかっておるのが、人間です。

親鸞聖人はこれらの煩悩を雲や霧にたとえられ、

常に覆いかぶさっていると仰るのです。

無碍の一道へ出ても、常に煩悩は変わらないのです。

 

●はかり難い絶対の境地

 

無上仏に救われたと聞くと、欲は少なくなり、

腹も立たんようになる、憎しみの心もなくなるのだろうな、

とみんな思っています。

しかし親鸞聖人は、「それはまちがいだ」と教えられています。

では、煩悩がなくならないままで、

どうして絶対の幸福になれるのだろうか、

という疑問がおこります。

そんなことがあり得るとは思えません。

しかし、信心決定したら、その通りだったなあと

ハッキリ知らされます。

『教行信証』の中に親鸞聖人は生々しくそれを書いておられます。

三かな文といわれて有名です。

「爰に愚禿釈の親鸞、慶ばしき哉や、

西蕃・月氏の聖典、東夏・日域の師釈に遇い難くして

今遇うことを得たり、聞き難くして已に聞くことを得たり」

                (教行信証総序)

「悲しき哉、愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、

名利の大山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、

真証の証に近づくことを快まず。恥ずべし、傷むべし」

                (教行信証信巻)

「慶ばしき哉。心を弘誓之仏地に樹て、

念を難思之法海に流す。深く如来の矜哀を知りて、

良に師教の恩厚を仰ぐ。

慶喜いよいよ至り、至孝いよいよ重し」

             (教行信証後序)

 

●真実開顕のご辛苦

 

『教行信証』は、親鸞聖人が90年の心血を注いで書かれた、

浄土真宗の根本聖典です。

「慶ばしき哉」と「悲しき哉」では、まるっきり反対。

どっちが本当なのか。

どちらも事実なのです。

悲しい親鸞と、慶ばしい親鸞とは、同時にあるんです。

同時に書けませんが、本当は、前後がないんです。

この真実をいかに伝えるか。

ここに、親鸞聖人の辛苦があるのです。

親鸞聖人は、「慶ばしき哉」の中に「悲しき哉」を

はさんでおられます。

人間の考えでは、時間によって変わられたように思うでしょうが、

同時なのです。

これが、絶対の境地であり、無碍の一道なのです。

『正信偈』に三かな文をあてはめると、

「摂取心光常照護」は総序の「慶ばしき哉や・・・」、

「已能雖破無明闇 貪愛瞋憎之雲霧 常覆真実信心天」

は「悲しき哉・・・」、「譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇」は

「慶ばしき哉・・・」にあたるでしょう。

 

●懺悔の中に歓喜あり

 

はじめに総序のお言葉ですが、愚禿釈の親鸞とは、

愚かな親鸞は何とうれしいことか。

真実の仏法を教えてくださる方に導かれ、

信心決定させていただいた。

「遇うことを得たり」、「聞くことを得たり」は

聞即信のこと。

無上仏のお呼び声を聞かせていただいて、

絶対の幸福にさせていただいたー、というお叫びです。

こんな喜びの身になったら煩悩は少なくなったのかというと

「悲しき哉、愚禿鸞」と仰るのです。

何を悲しまれたのか。

愛欲の広さ、深さ、限りなき、まさに広い海であり、

沈没して、永久に浮かばれない、

愛欲から離れることが、瞬時もないと言われています。

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●聖人の自己告白

 

また、名利の大山に迷惑しておられます。

名は名誉欲、利は利益欲。

これらが大山ほどあって、苦しんでおられるのです。

無明の闇が破れて明るくなってハッキリ知らされた、

真実の自己を告白しておられるのです。

こんな親鸞が助かったのだから、みんな救われますよと、

素っ裸の姿をさらけ出されたのです。

これが地獄しかゆき場のない親鸞の姿なのだ、と。

「定聚の数に入ることを喜ばず」は、

絶対の幸福に救われたことを喜ぶ心がない、

という意味です。

親鸞聖人でさえ、喜ばれんと仰っているのに、

我々が喜ばれるはずがない。

喜ばれんのが当たり前と言う人があります。

喜ばれんのが当たり前と言うなら、

親鸞聖人の「慶しき哉」はどうなるでしょうか。

「慶しき哉」と「悲しき哉」の会通ができなくなってしまいます。

ノーベル賞をと貰った人でも、分からん世界なのです。

人間の智慧でわかるものなら、大したことはありません。

わかったら、「不可称不可説不可思議」とは言われません。

「いつつの不思議をとくなかに

仏法不思議にしくぞなき

仏法不思議ということは

弥陀の弘誓になづけたり」

という、不思議な世界があるのです。

華厳宗の学者鳳潭(ほうたん)が、

『教行信証』を「キチガイの書いた本だ」と

庭先に捨てたのも、この世界がわからなかったからでしょう。

喜ぶ心の微塵もない者が救われたとは、

何という不思議かいなーという喜びです。

 

●喜ばぬ心に懺悔

 

次に「真証の証に近づくことを快まず」と仰っています。

真証とは仏のさとりです。

正定聚になるのはこの世だけれども、

仏になるのは死んでからです。

信心決定した人は、日一日と極楽へ近づく。

だから楽しいはずなのに、少しも楽しむ心がない。

『歎異抄』では、

「苦悩の旧里は棄てがたく、いまだ生まれざる

安養の浄土は恋しからず候」と仰っています。

しかし、親鸞聖人は、

「喜べないのが当たり前」

と仰っているのではありません。

「恥ずべし、傷むべし」とあります。

こんな幸福にさせていただいて、

どうして喜ばないのか、懺悔しておられるのです。

このお気持ちがわからないのです。

 

●粉骨砕身の喜び

 

最後は、後序のお言葉。

「心を弘誓之仏地に樹てる」

とは、本願の大地にたてることです。

この世は無常ですから、幸福も砂上の楼閣のように

グラグラしています。

無常のものに基礎をおけば、くずれるに決まっています。

親、子供、恋人、妻、夫、金、地位。

すべては無常です。

弘誓の仏地は不変です。

だから、本願の大地に信念が立ったら、

くずれようがありません。

「念を難思之法海に流す」とは、常に念(おも)いが、

不可思議の仏法に流されてゆくことを、仰ったのです。

そして、深く無上仏の広大な慈愛を知らされ、

導いてくだされた善知識のご恩を仰がずにおれない。

恩徳讃と同じです。

「慶喜いよいよ至り、至孝いよいよ重し」

この喜びどうしようか、じっとしておれない。

最高のご恩に、報いずにおれない。

身を粉にしても、骨を砕いてでもやるぞ、

という行動となって表れるのです。

行動にあらわれない喜びは、ウソです。

 

●信前信後の決定的相違

 

以上のように、絶対の悲しみと絶対の喜びとが同時にあるのが、

絶対の幸福です。

それを親鸞聖人は『正信偈』に、

「日光の雲霧に覆わるれども、雲霧の下明らかにして闇無きが如し」とたとえられたのです。

雲や霧がいくらかかっても、その下に闇はない。

ここがちがう。

闇があるのは助かっていないから。

信心決定すると、煩悩は変わらないけれど、

無明の闇はなくなってしまうのです。

親鸞聖人は、『正信偈』のここで大変なことを

教えておられることを、知っていただきたいと思います。


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『正信偈』講話② [正信偈]

真実の仏教を説かれている先生ご執筆の『正信偈』講和から続きを載せたいと思います。

 

●すべて無上仏の独用(ひとりばたらき)

 

4歳で父君、8歳で母君と死別された親鸞聖人は、

無常を痛感され、9歳で仏門に入られた。

比叡山では、千日回峯行をしのぐ、大曼の行をも実践なされ、

ご修業は峻烈を極めた。

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29歳で親鸞聖人が救い摂られたのは、

20年間のご修行の結果である、と思っている人が多い。

だが、『正信偈』の冒頭に聖人は仰っている。

「帰命無量寿如来

 南無不可思議光」

無量寿如来に帰命し、不可思議光に南無したてまつる。

帰命と南無は同義語で、「信順無疑」、平易に言えば、

「救われた」ことである。

無量寿如来も不可思議光もともに阿弥陀仏のこと。

「阿弥陀仏に救われた、助けられた」と繰り返されている。

すべては阿弥陀仏のお力であった、

と告白なされているのである。

ひとえに無上仏の独用(ひとりばたらき)で救われる。

その訳を次のお言葉でご教示なされているのである。

「法蔵菩薩因位時

 在世自在王仏所」

(法蔵菩薩因位の時、世自在王仏の所に在して)

法蔵菩薩とは阿弥陀仏の成仏前の御名である。

仏の位を果位(かい)といい、菩薩の位を因位(いんに)という。

仏教では、凡夫が仏になるまでに

52のさとりの階程があると教えられている。

最高位の52段目を仏覚といい、

菩薩とは仏覚を目指す人のことである。

法蔵菩薩の師は、世自在王仏であった。

「世自在王仏の所(みもと)に在して(ましまして)」

と仰っているのはそのことである。

ある時、法蔵菩薩が師仏に手をついて頼まれた。

「お願いがございます。苦悩に喘ぐ十方衆生を

私に助けさせていただきたいのです」

「法蔵よ、十方衆生はいかなる者か、知ってのことか」

「はい」

「大宇宙のあらゆる仏が、一度は助けようとしてみたが、

『とても助けられぬ』と見捨てたほどの悪人なのだぞ」

「よく存じております」

 

●十方衆生の実相

 

十方衆生とは、大宇宙のすべての人のことであるが、

世自在王仏と法蔵菩薩は、十方衆生を

いかなるものと見ておられたのか。

『大無量寿経』に、釈尊は人間の実相を

次のように道破なされている。

 

心常念悪 心は常に悪を念い

口常言悪 口は常に悪を言い 

身常行悪 身は常に悪を行い

曽無一善 曽て一善も無し

 

我々の心と口と身でやる行為は悪ばかり。

一つの善も無い、十悪・五逆・謗法の者と説かれている。

だから、後生必ず無間地獄に堕在する、

と断言なされる。

世自在王仏や法蔵菩薩の見られる「私」と、

私の見る「私」とに、大きな隔たりがあるのだ。

法鏡に照らし出された真実の自己を親鸞聖人は、

次のように告白なされている。

「悲しき哉、愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、

名利の大山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、

真証の証に近づくことを快(たの)しまず」

               (教行信証信巻)

「愚禿鸞」とは聖人ご自身のこと。

「何と情けない、愚かな親鸞か」

と懺悔なされている。

愛欲が大海の如く広がり、沈み切っている相を、

「愛欲の広海に沈没し」。

「名利の大山に迷惑して」

名利とは、人から褒められたい名誉欲と、

一円でも欲しい、という利益欲である。

それらが大きな山のようにあり、迷惑していると、

赤裸々に告白されている。

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「定聚の数に入ることを喜ばず」

阿弥陀仏に救われ、51段高とびさせていただくことが

「定聚の数に入る」ということ。

「親鸞そんな幸せ者になりながら少しもそれを喜ぶ心がない」

「真証の証(さとり)に近づくことを快(たのし)まず」

定聚の数に入った人が、死ぬと同時に浄土往生し、

弥陀同体のさとりを開くことが、「真証の証」である。

「日一日と、浄土へ近づいている親鸞なのにそれを喜ぶ心も、

楽しむ心もない。助かる縁手がかりのないのが、

この親鸞。

そんな親鸞を、『助けさせてください』と

手をついて頼まれた方が法蔵菩薩である」

 

●助くる弥陀が手を下げて

 

ところが自惚れて、我が身知らずの十方衆生は、

世自在王仏と法蔵菩薩との必死のやりとりを聞いても、

お伽噺としか思えない。

十方衆生を助けるとはいかに困難なことか、

世自在王仏は一つの譬えで示された。

「大海の水を升で汲み干し、海底の宝を獲る以上に

至難なことなのだ。

それでもそなたは為そうとするのか」

それでも法蔵菩薩は後に引かれなかった。

「私がやらねば、十方衆生は助かることはありません。

どうか、助けさせてください」

幾重にも伏して懇願される法蔵菩薩を、

ついに世自在王仏は許されたのだ。

躍り上がって喜ばれた法蔵菩薩。

かくて世自在王仏の前で誓われたのが、

阿弥陀仏の四十八願であり、中でも王本願と言われるのが

第十八願である。

「どんな人も

   必ず助ける

    絶対の幸福に」

無上殊勝の本願がここに成就せられたのである。

助けていただく我々が頭を下げて当然なのに、

助ける方が「助けさせてくれよ」と手を下げておられる。

「能く能くお慈悲を聞いてみりゃ、

助くる弥陀が手を下げて、まかせてくれよの仰せとは、

ほんに今まで知らなんだ」

信心数え歌にも歌われていることである。

こんなことが他にあるだろうか。

お願いする心もない。

そこまで人間の実相を洞察されて建てられた願いは

どこにもない。

 

●法蔵の願心あればこそ

 

真実のカケラもない我々が仏道を進ませていただけるのは、

まことに法蔵菩薩の願心による。

「もう聞くまい」

と断念しても、なぜか法話会場へ足を運んでいる。

不思議なことである。

偏に法蔵菩薩の願心あればこそ、である。

「帰命無量寿如来

 南無不可思議光」

「20年間の修行も間に合わなかった。

長年の学問も一切役に立たなかった。

すべて、阿弥陀仏の独用(ひとりばたらき)であった」

知らされた真実を、親鸞聖人は叫ばずにおれなかったのである。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

普放無量無辺光 あまねく無量・無辺光、

無礙無対光炎王 無礙・無対・光炎王、

清浄歓喜智慧光 清浄・歓喜・智慧光、

不断難思無称光 不断・難思・無称光、

超日月光照塵刹 超日月光を放ちて塵刹を照らす、

一切群生蒙光照 一切の群生、光照を蒙る。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

世に「親の七光(ななひかり)」と言う。

著名人の跡取りが選挙に勝てば、

名選手の息子が人気を博せば、

「あれは親の七光だ」

と囁かれる。

もちろん、頭から光を出すはずはないが、

親の力を、光で表しているのである。

仏教では、阿弥陀仏の偉大なお力を「光」で表す。

 

親鸞聖人は『正信偈』に、阿弥陀仏の十二のお力を、

前の文章で教えられている。

『大無量寿経』に説かれた釈尊の教説を、

無我に相承なされたものである。

無量光から聞かせていただこう。

 

①無量光

 

阿弥陀仏のお力には限りがないことが、

無量光ということである。

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「さるべき業縁の催せば、如何なる振舞もすべし」

と親鸞聖人も仰せのように、縁さえくれば、

どんなことをするか分からないのが我々である。

そんな者と見抜いて、

「どんな者でも、必ず助ける」

と阿弥陀仏が誓われているのは、無量光の仏でなければ

できない誓いである。

それを、

「悪いことをしたから助からん」

「こんなことを思うから駄目なのでは」

などと思うのは、無量光を疑っている心である。

「願力無窮にましませば

 罪業深重もおもからず

 仏智無辺にましませば

 散乱放逸もすてられず」

       (正像末和讃)

無窮の願力だ。どんな極悪人でも救われる。

阿弥陀仏の無量光を教えられた親鸞聖人のお言葉である。

 

②無辺光

 

十方微塵世界(大宇宙)で阿弥陀仏のお力の届かない所はないから、無辺光と言われる。

どんな所で、何をしていても、無碍の一道へ出させようと、

常に働いてくださっているのが無辺光である。

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③無礙光

 

太陽の光も、レントゲン線も、障害があれば、

通らないが、阿弥陀仏の光明は、何物も遮ることはできない。

「私のような悪人は助からんのでなかろうか」

本願を疑う自力の心をも破ってくださるのは、

無礙光なるが故に、である。

 

④無対光

 

阿弥陀仏のお力は、他の何者とも比べることはできない。

「諸仏の光明の、及ぶこと能わざる所なり」

とあるように、三世諸仏(大宇宙のあらゆる仏方)からも

見捨てられた我々を助けることができるのは阿弥陀仏だけである。

 

⑤光炎王光

 

「人身受け難し、今已に受く」

人間に生まれたことを喜ぶべし、と釈尊は仰っている。

なぜか。

仏教では迷いの世界が六つあると教えられている。

地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の六界である。

中でも苦しい地獄・餓鬼・畜生界に生まれる者は

大地の土の如くであるのに、人間に生まれる者は

爪の上の土の如し、と言われる。

生まれ難い人間界に生まれた有り難き、目的は何か。

迷いの打ち止めをさせていただけるのは、

人間界でなければできないからである。

人間界に生まれるのは、五戒を持つ(たもつ)功力による、

と『御文章』に教えられている。

殺生してはならぬ、嘘をついてはならない、など。

我々がそんな五戒を持ってきたとは、

とうてい思えない。

光炎王光の働きで人間界に生を受けられたのである。

 

⑥清浄光

 

貪欲を照らす働きである。

照らされたらどうなるか。

清九郎と言えば、大和国(奈良県)の妙好人である。

阿弥陀仏の救いを喜んでいた人である。

「清九郎には欲がないのか、試してみよう」

と、友人が、清九郎が参詣する寺の本堂に、

銭の詰まった財布を置き、清九郎の行動を、蔭で見た。

お念仏を称えながら、清九郎、本堂に入ると

財布が落ちている。

周囲をうかがい、誰もいないのを確かめるや、

財布を懐に出て行った。

友人らは騒いだ。

ところが、間もなく清九郎が引き返してきた。

彼は本堂の阿弥陀さまに向かって泣いている。

「こんな幸せな身にさせていただきながら、

汚い心が出てきました。

申し訳ありません。申し訳ありません」

財布を仏前に供えて、懺悔している。

「あそこが違うのか」

と、友人たちは感心したという。

救われても欲は変わらないが、

清浄光に照らされて懺悔となり、歓喜になる。

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⑦歓喜光

 

瞋恚(しんに・怒り)を照らす光である。

怒りはすべてを焼き尽くす恐ろしい心である。

「恐ろしい心」が照らされて懺悔となり、歓喜となる。

 

⑧智慧光

 

因果の道理を知る力を智慧というが、

それの分からぬ心が愚痴である。

自らの不幸を他人のせいにして恨み、

他人の幸福を妬み、嫉む。

そんな大馬鹿者を照らして「馬鹿だなあ」と

知らせてくださるのが智慧光である。

 

⑨不断光

 

途切れることのない阿弥陀仏のお力をいう。

「憶念の心つねにして、仏恩報ずるおもいあり」

不断光に照らされるから、阿弥陀仏のご恩を忘れがちな身を

思い出しがちにさせるのだ。

 

⑩難思光

 

十二光の働きは、心も言葉も絶えたもの。

 

⑪無称光

 

とても言葉に表せない。

 

⑫超日月光

 

太陽や月の光も超えた光である。

 

「三世諸仏に見捨てられたこの親鸞が、

救われたのはひとえに阿弥陀仏の十二光のお力であった」

と、親鸞聖人が無上仏の偉大なお力を讃嘆なされているのである。

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『正信偈』講話① [正信偈]

帰命無量寿如来 無量寿如来に帰命し、
南無不可思議光 不可思議光に南無したてまつる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
『正信偈』は一つの文章で、初めが分からなければ
最後まで分からなくなる。
『正信偈』の内容を表す非常に大切なところである。
●阿弥陀仏の独用(ひとりばたらき)
これは親鸞聖人自らのことを仰ったので、
「親鸞は無量寿如来に帰命しました。
親鸞は不可思議光に南無しました」
ということである。
まず、無量寿如来とは、阿弥陀如来の別名である。
これは、命に限りない無量寿の仏であるところからきている。
不可思議光は、不可思議光如来を略したもので、
阿弥陀如来のことである。
我々の頭では思議することのできないお力を
持たれた仏だからである。
次に、帰命と南無という言葉であるが、
帰命とは中国の昔の言葉で、南無はインドの言葉である。
意味はともに救われた、助けられたということである。
仏教学上では、信順無疑といい、阿弥陀如来を信じ、
その仰せに従って、ツユチリ程の疑いの心をなくなった状態をいう。これは、まったく阿弥陀如来の独用(ひとりばたらき)による。
親鸞聖人はここで、自分の力微塵ほども間に合わなかったと
自己の信心を告白しておられる。
なぜ、親鸞聖人は『正信偈』の冒頭に、
しかも2回繰り返し、阿弥陀如来に救われたことを書かれたのか。
●叫びつくせぬ喜び
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それは、親鸞聖人、非常に嬉しかったからで、
何回でも叫びたいことであり、
書き尽くせないことであったからである。
たとえば、腹が減って、今から夕飯を食べようとしている時に、
電気が消えてしまった。
真っ暗闇の中、懐中電灯もローソクもない。
動きがとれず、困り果てていた。
待てども待てども電気はなかなか来ない。
30分、1時間と時は流れ、2時間たっても電気が来る気配もない。
そうしているうちに、電気がパッとつき、
あたり一面明るくなった。
その家の人はどう言うだろうか。
台所にいた奥さんも、座敷にいた主人も、
勉強部屋から動けなかった子供も電気がつくと同時に上がる声は、
「ついた、ついた」
という喜びの叫びである。
みんな光を待っていた。
暗がりに困り果てていた時に光がきた。
一回、
「ついた」
と言えば分かることであるが、歓喜の余り思わず知らず、
繰り返し叫びのである。
親鸞聖人は、長い間、どうしたら阿弥陀如来に救われるのだろうか、どうしたら魂の解決ができるのだろうかと、
いわゆる光を求めておられた。
そこへ心の暗闇をぶち破る光がとどいた。
その時どうして、
「救われたぞ、助けられたぞ」
と叫ばないでおれるだろうか。
命がけに求めた者でなかったら救われたとき、
こういう気持ちにはならない。
日中に電気が切れ、修理され電気が来ても、誰も、
「ついたか」ともいわない。
なぜか。昼間は明るいから、暗がりに少しも困らない。
光を待っていないのだから、電気がついても、
少しも嬉しくないからである。
同じことが二回繰り返してあるのは、
阿弥陀如来の救いにあずかると、
無限にその喜びを叫ばずにおれないからである。
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●明らかな救い
そして、その救いは、あまりにもハッキリした明らかなものである。
これで助かったんだろうか、どうだろうかというような
ボケたものではない。
親鸞聖人は29歳の時に、ハッキリ阿弥陀如来に救われたと、
「建仁第一の暦、春の頃ーー乃至ーーたちどころに
他力摂生の旨趣を受得し、あくまで凡夫直入の真心を
決定(けつじょう)しましましけり」
と、『御伝鈔』に書かれている。
蓮如上人は、『御文章』に、
「今こそ明らかに知られたり」
とハッキリ言い切られた。
阿弥陀如来に救われたら、救われたことがハッキリするから、
ハッキリ言わずにおれない。書かずにおれない。
これを『正信偈』のこの2行で朝な夕な私たちに教えてある。
●ハッキリするまで求め抜け
またこれがハッキリしなかったら、
後生の一大事が安心できない。
阿弥陀如来に救われたら、大安心・大満足のハッキリした
自覚があるぞ、そこまで求め抜けと、
親鸞聖人が叫ばれたお言葉である。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
帰命無量寿如来 無量寿仏に帰命し、
南無不可思議光 不可思議光に南無したてまつる。
法蔵菩薩因位時 法蔵菩薩因位の時、
在世自在王仏所 世自在王仏の所に在して
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
世界最高の宗教、仏教は、無上道とも言われる。
朝晩の勤行で拝読する『正信偈』は、
仏教を開顕なされた親鸞聖人のお言葉である。
まず冒頭二行で親鸞聖人は、何を訴えておられるのだろうか。
「無量寿如来に帰命し、不可思議光に南無したてまつる」
と読む。
「帰命」も「南無」も、「救われた、助けられた」ということ。
「無量寿如来」と「不可思議光」はともに阿弥陀仏のことである。
「親鸞は阿弥陀仏に救われたぞ、助けられたぞ!」
と歓喜の叫びをあげておられる。
これほど明らかな阿弥陀仏の救いとは、いかなるものか。
阿弥陀仏は本師本仏、と釈尊はご教示されている。
大宇宙にガンジス河の砂のごとくまします十方諸仏の
師匠にあたる仏である。
地球上、最高の聖者であられる釈尊が、
「我が師」と拝まれる最高無上の仏である。
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●生命の歓喜
偉大な仏ほど、そのお徳に応じて、多くの名前を持っておられる。
阿弥陀仏ほど、多くの名称を持たれる仏はない。
限りない命を与えて下さる「無量寿如来」、
無上の幸福にする「不可思議光如来」、
いずれも阿弥陀仏のお徳を表す御名である。
親鸞聖人は阿弥陀仏に救われた喜びを、
「救われたぞ、助けられたぞ」
と繰り返しておられる。
「人間に生まれてよかった!」
生命の歓喜がなければ言えないことである。
ましてや、繰り返されるはずがない。
人生の目的が分からず、
「人間にさえ生まれねば・・・」
と親を恨んでいた者が、
「よくぞ人間に生まれたものぞ」
と躍り上がった体験を、
「救われた、助けられた」
と仰っているのだ。
●常識をこえた世界
そんな明らかな体験だから、必ず、ハッキリする世界がある。
親鸞聖人のみ教えには、卒業があるということだ。
世間の常識とは反対である。
「死ぬまで求道」と思っている人ばかりだ。かつて、
「卒業のある信心だ」
と説法した時、
「死ぬまで求道じゃ」
と怒鳴り込んだ、80過ぎの同行があった。
40年以上も親鸞聖人の教えを聞いてきた人である。
永年を聞法に投じてきた人でさえ、こう思っている。
ほとんどの人は、
「仏教に卒業がある」
とは、ユメにも思ってない。
これは、親鸞聖人のみ教えがまったく分かっていないのだ。
●理解できないお言葉
浄土真宗の一枚看板は、平生業成である。
「人間に生まれた目的を、平生に完成できる」
ということである。
「死ぬまで求道」では看板に偽りありとなる。
現生不退ーーこれも聖人のみのお言葉である。
現在ただ今、絶対の幸福になれる。
「永遠不滅の幸福になれる」
との仰せである。
●恩徳讃も歌えない
ただ今救われたからこそ、恩徳讃となる。
「如来大悲の恩徳は
身を粉にしても報ずべし
師主知識の恩徳も
骨を砕きても謝すべし」
親鸞聖人の告白である。
ただ今、人生の目的を果たしてくだされた阿弥陀如来と、
伝えてくださった知識の大恩は、身を粉にしても足らないぞ、
骨を砕いても済まないぞ、の不惜身命の報謝行となる。
死んでから、のことではない。
にもかかわらず、聖人のみ教えが、なぜかくも誤解されるのか。
どうも生きがいや趣味を、人生の目的と勘違いしている
ことにあるようだ。
政治、経済、芸術、スポーツ・・・
人間の営みのすべては、趣味や生きがいである。
家康や秀吉の、天下統一の苦労や満足も、
すべて彼らの生きがいなのである。
生きがいや趣味には、完成も卒業もないから、キリがない。
「人の一生は重荷を背負うて遠き道を行くがごとし」
剣聖・宮本武蔵は、
「まだまだ自分は未熟」と述べている。
完成のない趣味や生きがいには、金輪際、満足ということはない。
だが人生の目的は違う。
完成がある。
「このために生まれたのか」
と歓喜する時がある。
これ一つ達成すれば、いつ死んでも満足といえるものである。
親鸞聖人はその体験を、冒頭の二行で告白なされているのだ。
その親鸞聖人のみ教えを、明らかにする人がいない。
だから、真の人生の目的を知らず、
趣味や生きがいを人生の目的、と誤解している人ばかりである。
親鸞聖人によってのみ、明らかにされた、仏教の真髄、
卒業のある信心。
人間に生まれた真の喜びは、まさにここにあるのだ。
「帰命無量寿如来
 南無不可思議光」
人生究極の目的が、平生に完成できることを、
繰り返して教え続けておられる。
祖師聖人を世界の光、と仰がずにおれない所以がここにある。

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