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「極悪を 捨てず裁かず 摂め取る」弥陀の大慈悲 [阿弥陀仏]

(真実の仏教を説かれている先生ご執筆の『とどろき』より載せています)

「極悪を 捨てず裁かず 摂め取る」

       弥陀の大慈悲

 

如来大悲の恩徳は

身を粉にしても報ずべし

師主知識の恩徳も

骨を砕きても謝すべし  (親鸞聖人・恩徳讃)

 

阿弥陀如来の洪恩は、

身を粉にしても報い切れない。

その弥陀の大悲を伝えてくだされた方々のご恩も、

骨を砕いても済みませぬ

 

最高の仏さまが、私たちとなされたお約束

 

今月も親鸞聖人の「恩徳讃」についてお話しいたします。

報恩の情あふれる「恩徳讃」。

身を粉に骨砕いても報い切れぬと、

感泣される感謝法悦の聖人がまぶたに浮かぶ和讃です。

親鸞さまは、一体どなたから、どのようなご恩を

受けられたのでしょう。

最初に親鸞聖人が言われている「如来」とは

「阿弥陀如来」という仏さまのこと。

「大悲」とは「大慈悲心」ですから、

「大慈悲心を持たれた阿弥陀如来から

返し切れぬ洪恩を受けているのだ」と言われています。

阿弥陀如来については、『御文章』に、こう示されています。

 

阿弥陀如来と申すは、三世十方の諸仏の本師・本仏なり

               (2帖目8通)

三世十方の諸仏とは、大宇宙にまします数え切れないほどの仏方。

本師本仏とは、先生、師匠のことですから、

阿弥陀如来はすべての仏の師であり、指導者なのです。

その弥陀がなされているお約束がある。

これを「阿弥陀如来の本願」といいます。

『大無量寿経』というお経に漢字36文字で書かれており、

今日の分かりやすい言葉に直しますと、

どんな極悪人も、聞くだけで、必ず絶対の幸福に救い摂る

というお誓いです。

 

一人でケンカはできないように、約束には相手が必要。

弥陀の約束の相手は、すべての人(十方衆生)です。

日本の首相は日本人と、アメリカの大統領はアメリカ人と

約束しますが、阿弥陀如来の約束の相手は、

老若男女一人も漏れぬ「大宇宙のすべての人」ですから

スケールが全く違います。

こんな広い約束はほかにありませんので、

「弥陀の本願」のことを「弘誓」とか「大弘誓」とも

聖人は言われています。

 

約束をするには相手をよく知らねばなりません。

銀行はお金を貸す時、信用できる相手が否か、

勤め先や経歴、資産や担保の有無など、

詳しく調べるでしょう。

百万円より一千万円、一千万円より一億円と、

金額が大きくなるほど調査は綿密になります。

また、医者が病人を「必ず治します」と約束するのは、

どれほどの病なのかをよく診断したうえでのこと。

大事な約束であればあるほど、相手をよく調べるものです。

 

●すべての人は、極悪人!?

 

医師が患者の精密検査をするように、

阿弥陀如来は万人の真実の相(すがた)を、

つぶさに調べられました。

悲観でも楽観でもなく、ありのままの相を

厳密に見て取られたのです。

その間、五劫という気の遠くなるほどの時間をかけられました。

結果はどうであったのか。

『御文章』に、次のように教えられています。

 

十悪・五逆の罪人も(乃至)空しく皆十方・三世の諸仏の

悲願に洩れて、捨て果てられたる我等如きの凡夫なり

                (2帖目8通)

 

「十悪・五逆の罪人」とは、仏さまは私たち人間を、

罪や悪を造り通しの者と見抜かれたのです。

「十方・三世の諸仏の悲願に洩れて」とは、

「大宇宙の仏方が何とか救ってやりたいと、

慈悲心をおこしてくだされたが、

私たちの罪業があまりにも深く重く、

とても助けることはできないとさじを投げてしまわれた」

ということです。

肉眼ならば、きれいに思える手のひらも、

微細なものまで映し出す顕微鏡だと、さまざまな雑菌が見える。

人の目からなら「善人」と思われる人も、

顕微鏡のごとき仏眼に映れた相は、「極重悪人」

「一生造悪」であったと親鸞聖人も『正信偈』に

教えておられます。

「そんな悪いことした覚えはない。それどころか人のために

尽くし、近所でも評判だ」

と思われるかもしれません。

では、どのような罪を犯しているのか、

仏さまにお聞きしましょう。

 

阿弥陀仏は、すべての人は「五逆と法謗の者」と

見抜かれています。

「五逆罪」「謗法罪」を造っている者ということです。

まず「五逆罪」から見ていきましょう。

 

●親を殺すという罪

 

五逆罪とは5つの恐ろしい罪のことですが、

中でも最初に挙げているのが親殺しの罪です。

私たちは両親から大変なご恩を受けています。


最近、こんな話がありました。

仕事募集の広告に集まった人たちへ

面接官から説明が行われている。

ところがそれはあまりにも苛酷な条件だった。

「ほぼ全ての時間、立ち作業で、とても体力を必要とする」

「仕事は週に135時間以上、基本的に週7日、毎日24時間」

「休憩時間は実質なし」

「徹夜の日もある」

「プライベートな時間は諦めてもらう」

「ボランティアのような感じで完全無給」等々・・・。

次々に繰り出される条件に応募者たちは〝ありえない!〟

〝非人道的だ!〟と騒ぎ立てた。ところが面接官は

「もし現実に、今この瞬間も、この職に

就いている人がいるとしたら?」

と問いかける。応募者が怪訝そうに

「いったい誰?」

と尋ねると、面接官はにこやかに

「お母さんですよ」

と答えた。この面接は「母の日」にちなんで

行われた企画だったのです。

とても考えられない苛酷な労働を、

母親は無償でやり続けてきたことを、

このキャンペーンで多くの人が知り、

心から感謝したといいます。


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私たちは、赤ん坊の頃に、お乳を飲ませてもらったり、

おむつを取り替えてもらいました。

病気になれば寝ずに看病してもらったり、

離れて暮らせば、いつも心配してもらって成長してきたのです。

そんな大恩ある親を自らの手で殺すなど、

人間の心を持たぬ鬼の仕業ではないかとさえ思われましょう。

仏教では、このような親殺しの大罪は無間地獄へ堕つる

恐ろしい無間業であると教えられています。

ところが親鸞聖人は、このように手にかけて殺すばかりが

親殺しではないのだよと、

 

親をそしる者をば五逆の者と申すなり (末灯鈔)

 

と言われています。親をそしるのも五逆の罪なのです。

「早く死んでしまえ」などと言うのは無論、

「うるさい」「あっちへ行け」などとののしるのも

親を殺しているのです。

また、仏教では、

「殺るよりも、劣らぬものは、思う罪」

と言われるように、体や口よりも心を最も重く見られます。

「殺る」とは体で殺すことですが、もっと恐ろしいのは

心で殺す罪だと言われます。

一つ屋根の下で暮らしておりながら、

ろくに口もきかず、食事も別々に取り、

呼ばれても聞こえないふりして親を邪魔者扱いしているのは、

心で親を殺しているのです。

親が病気にでもなり寝たきりになったらどうでしょう。

世話を嫌って、「邪魔だなあ」「いい加減に死んでくれたら」

という心が噴き上がってきます。

とても他人には言えない心が出てはこないでしょうか。

 

かつて、女手一つで、4人の男の子を大学まで出させ、

一流企業に入社、結婚させたお母さんの悲劇が報道されていた。

その4人の兄弟夫婦が集まり、年老いた母の面倒を

誰が見るか、ということで深夜まで激論したが、

誰一人として面倒を見ると言う者がいなかった。

その一部始終を隣の部屋で聞いていた母親は、

翌朝、電車に飛び込み、自殺した。

手にかけて殺してはいなくとも私たちは、

心でどれだけ親を殺しているか分かりません。

誰しも今まで一度や二度は

「こんなに苦しいのなら死んだほうがましだ」

と思ったことがあるでしょう。

「死んだほうがましだ」と思うのは、生みさえしなかったら

こんな苦しまなくてもよかったのにと、

心で親を殺しているのです。

親鸞聖人が、「私は五逆の者だ」と懺悔されているのは、

このような心からなのです。

しかも

縁さえ来ればどんなことでもする親鸞だ

(さるべき業縁の催せば、如何なる振舞もすべし)

と聖人は『歎異抄』に告白なされています。

何をしでかすか分からない業因を、私たちは持っている。

そんな者だから、諸仏方から捨てられてしまったのです。

 

●極悪を 捨てず裁かず 摂め取る

 

では私たちは助からないのか。

そうではありません。こんな諸仏に捨てられた者だからこそ、

なお救わずにはおれないと立ち上がられた

仏さまがお一人まします。

それが本師本仏の阿弥陀仏です。

「極悪を 捨てず裁かず 摂め取る」

大慈大悲の阿弥陀如来は、どんな極悪人も無条件で救うお誓いを

建ててくださいました。

この、底無しの弥陀の大慈悲によらなければ、

金輪際助からないのが私たちであります。

先に掲げた『御文章』は、こう続きます。

 

弥陀にかぎりて、「われひとり助けん」という超世の大願を

発(おこ)して             (2帖目8通)

 

「超世の大願」とは、罪業深重の私たちを、

現在ただ今から、永久に変わらぬ絶対の幸福に救うと

誓われた弥陀の本願のこと。

それは、諸仏も到底なしえない優れた誓いですから、

「世を超えた偉大な願(超世の大願)」

と言われています。そういう大変なお力を持たれた阿弥陀如来を、

「本師本仏だ。われらの尊い先生だ」

と十方・三世の諸仏(すべての仏)が

褒めたたえられているのです。

その弥陀の本願どおりに救い摂られた聖人は、

「弥陀が五劫という長い間、熟慮に熟慮を重ねて

お誓いなされた本願を、よくよく思い知らされれば、

全く親鸞一人のためだった。

こんな計り知れぬ悪業をもった親鸞を、

助けんと奮い立ってくだされた本願の、

なんと有り難くかたじけないことなのか」

 

弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、

ひとえに親鸞一人(いちにん)が為なりけり、

されば若干(そくばく)の業をもちける身にてありけるを、

助けんと思召したちける本願のかたじけなさよ

                (歎異抄)

 

と感嘆されています。

親鸞聖人が「恩徳讃」に言われる「如来大悲の恩徳」とは

このような大恩なのです。

「こんな五逆の悪人を、そのまま絶対の幸福に

救い摂ってくだされた弥陀の本願。

その大恩に報いずにおれない」

と立ち上がられた親鸞聖人のご一生は、

「報恩」の二文字に貫かれていました。

谷深ければ山高し。罪の深さが知らされるほど、

救われた歓喜もまた大きい。

それはそのまま報恩感謝の大きさになる。

恨みと呪いの人生が、感謝法悦の人生に転じるのです。

 

●弥陀が喜ばれること

 

すべての仏に捨てられた私たち、しかも捨てられたと聞いても

ピンともカンとも感じません。

そんな箸にも棒にもかからないものだからこそ

見捨てておけぬと阿弥陀仏のほうが、

「どうか助けさせてくれ」と頭を下げておられます。

「よくよくお慈悲を聞いてみりゃ

助くる弥陀が手を下げて

任せてくれよの仰せとは

ほんに今まで知らなんだ」

と歌われるように、どこどこまでもお慈悲な仏さまが

阿弥陀仏なのです。

その阿弥陀如来が最もお喜びになることは、

私たちが弥陀の本願どおりに救われて絶対の幸福になることです。

絶対の幸福のことを仏教で「信心決定」といいます。

「信心の智慧に入りてこそ 仏恩報ずる身とはなれ」

                (正像末和讃)

信心決定(信心の智慧に入ったこと)してこそ、

阿弥陀如来のご恩に報いる身となれるのだと聖人は仰っています。

私たちが絶対の幸福に救われることを

いちばん望んでいらっしゃるのが

ほかならぬ阿弥陀仏だからです。

それは子供の幸せを願う親心の比ではありません。

「任せてくれよ。必ず絶対の幸福に救う。

そして、我が浄土に生まれさせてみせる」

と今も立ち上がって、声を限りにお叫びづめなのです。

信心決定するには、「聴聞に極まる」。

聴もキクなら、聞もキク。

聞いて聞いて聞き抜けよと教えられます。

落語や漫才を聞くのではない。

阿弥陀如来の御心を聞かせていただく。

「〝極悪の者を、聞くだけで、必ず絶対の幸福に救い摂る〟

と誓われた弥陀の本願まことだった」

とハッキリする時が必ず来ます。

真剣に聞かせていただきましょう。

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我々を救い摂る阿弥陀仏のすごいお力とは! [阿弥陀仏]

(真実の仏教を説かれている先生ご執筆の『とどろき』より載せています)

(正信偈・親鸞聖人)

普放無量無辺光(ふほうむりょうむへんこう)

無碍無対光炎王(むげむたいこうえんのう)

清浄歓喜智慧光(しょうじょうかんぎちえこう)

不断難思無称光(ふだんなんしむしょうこう)

超日月光照塵刹(ちょうにちがっこうしょうじんせつ)

一切群生蒙光照(いっさいぐんじょうむこうしょう)

 

帰命無量寿如来(無量寿仏如来に、帰命いたしました)

 南無不可思議光(不可思議光に、南無いたしました)」

『正信偈』の冒頭は、

阿弥陀如来に親鸞、救われたぞ。

 阿弥陀如来に親鸞、助けられたぞ

という、聖人歓喜の絶叫です。

言葉は違いますが、二行とも同じことを繰り返されているのは、

何度でも言わずにおれない、どれだけ書いても書き足りない、

広大無辺な喜びを表されているのです。

この2行から、

弥陀の救いは、死後ではない。生きている現在ただ今である

弥陀に救われたら、ハッキリする

という、「弥陀の救い」の凄い特徴が明白になります。

言うまでもなく、『正信偈』を書かれたのは

「生きている時」であり、また、ハッキリしないことを

聖人が何度も叫ばれるはずがないからです。

 

●凄い「弥陀の救い」とは●

 

では、「阿弥陀如来に救われた」とは、

どうなったことを言われているのでしょうか。

一言で、「人生の目的が完成した」ことです。

人は何のために生まれてきたのか、何のために生きているのか。

どんなに苦しくても、なぜ自殺してはならないのでしょうか。

これが「人生の目的」です。なぜ生きる。

すべての人にとって、これ以上大事なことはありません。

「生きる」とは、歩くことや走ること、泳ぐことや、

飛行機でいえば、飛ぶことといえましょう。

禅僧・一休は、

世の中の 娘が嫁と花咲いて 嬶としぼんで 婆と散りゆく

と歌いました。女性で一番良い時が、娘時代です。

だから娘という字は、女偏に良いと書きます。

娘が結婚して家に入ると、嫁になります。

嫁さんが子供を生むと、嬶といわれます。

「女は弱し、されど母は強し」といわれるように、

新婚当初はおしとやかでも、お母さんになると

鼻高くなりますので、女偏に鼻と書きます。

また、一家の中心はお母さんだから、顔の真ん中の「鼻」が

使われているとか。

嬶の次にお婆さんになります。

額に波がよってくるので、女の上に波と書くのだそうです。

これが女性の一生ですが、男性も呼び名が違うだけで、

すべて同じコースをたどります。

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何十億の人がいても、例外はありません。

いつまでも娘ではおれませんし、

お婆さんが娘に戻ることはできません。

「この間まで自分は娘だと思っていたのに、

もう息子が嫁をもらって孫ができた。

いやぁ月日のたつのは早いなぁ」

と言っているように、女は、娘から嫁、

嫁から嬶、嬶からお婆さんへと、どんどん歩き、

走り、泳ぎ、飛んでいくのです。

一休が「婆と散りゆく」と言っているのは、

そうしてみんな死んでいくからです。

だから、また一休は、

門松は 冥土の旅の 一里塚」とも歌っています。

「冥土」とは「死後の世界」のことです。

一日生きたということは、一日死に近づいたということですから、

生きるということは、死へ向かっての行進であり、

「冥土への旅」なのです。

年が明けると、みんな「おめでとう」「おめでとう」と言います。

しかし一年たったということは、それだけ大きく死に近づいた、

ということですから、元旦は、冥土の旅の一里塚なのです。

ついこの間、年が明けたばかりと思っていたのに、

バタバタしているうちにもう年末、すぐに元旦。

ホントに早いものですね。

こんな調子で10年、20年と、

アッという間に人生は過ぎ去っていくのです。

私たちが去年から今年、今年から来年へと生きる、

ということは、歩くことであり、走ることであり、

泳ぐことであり、飛行機なら飛んでいることに

例えられるのも、お分かりになるでしょう。

だれでも歩く時も走る時も、一番大事なのは、目的地です。

目的なしにあるいたら、歩き倒れあるのみだからです。

ゴールなしに走り続けるランナーは、走り倒れあるのみです。

行く先を知らずに飛んでいる飛行機は、

墜落の悲劇あるのみだからです。

あそこがゴールだ、とハッキリしていてこそ、

頑張って走ることができます。

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あの島まで泳ごう、と目的地に泳ぎ着いて初めて、

ここまで泳いできてよかったと、

一生懸命泳いできた満足があるのです。

では、私たちの生きる目的は、何でしょうか。

目的なしに生きるのは、死ぬために生きるようなものです。

死を待つだけの人生は、苦しむだけの一生に終わります。

私たちは決して、苦しむために生まれてきたのではありません。

生きているのでもありません。

本当の人生の目的を知り、それを完成し、

「人間に生まれてよかった、

この身になるための人生だったのか」と、

生命の大歓喜を味わうために生きているのです。

では、真の「人生の目的」とは何か。

歎異抄』には「摂取不捨の利益」(第一章)を獲ることであり、

「無碍の一道」(第七章)へ出ることだと、明言されています。

「摂取不捨の利益」も「無碍の一道」も、

今日の言葉で言えば「絶対の幸福」のこと。

絶対に壊れない、崩れない、変わらない無上の幸せです。

この「人生の目的」を全人類に知らせ、達成させてみせる、

と誓われているのが「阿弥陀如来の本願」であり、

そのお誓い通りに「人生の目的が成就した」ことを、

「弥陀に救われた」と親鸞聖人は言われているのです。

29歳の御時、

「帰命無量寿如来 南無不可思議光」

〝阿弥陀如来に救われたぞ、助けられたぞ!〟

と「人生の目的」を完成された聖人は、

「この広大な弥陀のご恩、なんとしても報いずにおれない」

と悲泣しつつ、90年の生涯、「弥陀の救い」ひとつを全身全霊、

伝えていかれました。

この無上の尊法が、「浄土真宗」です。

すべての人が最も知りたい「人生の目的」を、

鮮明にされた方が親鸞聖人ですから、

〝世界の光〟と仰がれて当然でしょう。

 

●底なしの弥陀のお力●

 

では、平生の一念に「人生の目的」を果たさせる、

阿弥陀如来のお力とは、いかなるものなのか。

それについて聖人は、

極悪最下の親鸞が、極善無上の幸福に救われたのは、

本師本仏の阿弥陀如来が、こんなに凄いお力のある

仏さまだからなのだ。

お釈迦さまが『大無量寿経』に説かれているとおりであった」

と、阿弥陀如来のお力を十二に分けて教えられたのが

「十二光」です。

今回は、初めの「無量光」について、お話しましょう。

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「無量光」とは、「量ることのできないお力」ということ。

阿弥陀如来のお力は、無限であることをいわれたものです。

「こんな悪いことをした者は助けられない」

という〝限界〟がない、底無しということです。

「十方諸仏」の力には、限りがあります。

十方諸仏とは、大宇宙(十方)に数え切れないほど

沢山まします仏方のこと。

大日如来も、薬師如来も、ビルシャナ如来も、

地球に現れられたお釈迦さまも、その中の一仏です。

それら十方諸仏の力には、

「こういう悪までなら助けることができるが、

これ以上の重い悪を犯した者は助けられない」

という境界線があります。

ですから「無量」ではありません。

お釈迦さまが、「大宇宙の仏方には、

お前たちを助ける力がなくて、見捨てられたのだよ」

と説かれているのは、私たちの造る悪が、

諸仏の力の限界を超えているからです。

ところが、本師本仏の阿弥陀如来のお力にだけは、

限界がない。

「5人殺した者までは助けられるが、

10人殺した者は助けられない」というような差別がありません。

どんな極悪人をも救う弥陀の量り知れないお力を、

釈迦は「無量光」と絶賛され、

親鸞聖人は〝その通りであった〟と知らされて、

『正信偈』に記されているのです。

『ご和讃』には、こうも説かれています。

 

願力無窮(むぐう)にましませば

罪業深重もおもからず

仏智無辺にましませば

散乱放逸もすてられず  (正像末和讃)

 

「阿弥陀仏のお力は、どんな極悪人をも救い切ることが

できるのだ」といわれたお言葉です。

 

●人のすべては、極悪人●

 

ここで「極悪人」と聞くと、文字からいえば

「極めて悪い人」ということだから、

こんなふうに思う人もあるかも知れません。

「世の中には、確かに酷い人間もいるなぁ。

法の網をすり抜けて、ドカ儲けする奴。

次々と詐欺商法を生み出しては、お年寄りをダマす者。

イヤそれより恐ろしいのは、〝人を殺したい、誰でもいい〟

と繁華街で白昼、包丁を振り回す凶悪犯だ。

〝極悪人〟とは、そんな人間のことだろう」

私たちは常に、常識や法律、倫理・道徳を頭に据えて、

「善人」「悪人」を判断します。

これらの基準では、

「1人殺すよりも、10人殺した方がもっと悪い、

10人より20人の殺人犯はもっと悪い」と、

善悪は相対的なものです。

ほとんどの人が、「自分は善人だとまでは言わないけど、

少なくともあいつよりはマシだ」などと、

他人と比較して、善悪の程度を

自覚しているのではないでしょうか。

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そして凶悪事件が起きると皆、即席評論家になり、

正義の側に身を置いて、「とんでもない奴だ」と

悪事を裁くのです。

ところが聖人の言われる「悪人」は、

犯罪者や世にいう悪人だけではありません。

極めて深く重い意味を持ち、人間観を一変させます。

 

いずれの行も及び難き身なれば

とても地獄は一定すみかぞかし   (歎異抄)

 

〝どんな善行もできぬ親鸞であるから、所詮、

地獄のほかに行き場がないのだ〟

この告白は、ひとり聖人のみならず、

古今東西万人の、偽らざる実相であることを繰り返されます。

 

一切の群生海、無始より已来(このかた)、乃至今日、

今時に至るまで、穢悪汚染(えあくおぜん)にして

清浄の心無く、虚仮諂偽(こけてんぎ)にして

真実の心無し       (教行信証)

 

すべての人間は、果てしなき昔から今日・今時にいたるまで、

邪悪に汚染されて清浄の心はなく、そらごと、たわごとのみで、

真実の心は、まったくない

世の中に「善人」と「悪人」2通りの人がいるのではない。

聖人の「悪人」とは全人類のことであり、

人間の代名詞なのです。

阿弥陀如来は、すべての人を「永久に助かる縁なき極悪人」と

見抜かれた上で、「我を信じよ、平生に、必ず絶対の幸福に

救い摂る」と誓われているのです。

 

さるべき業縁の催せば、如何なる振舞もすべし (歎異抄)

 

どうにもならない縁が来たならば親鸞、

どんな恐ろしいことでもするだろう。

人を10人殺す縁が来れば10人殺すだろう、

1000人殺す縁が来れば、1000人殺すこともあるだろう。

かかる量り知れない深い業をもった極悪の親鸞が、

絶対の幸福に救われたのは、弥陀のお力が

「無量光」であったからなのだ。

だから救われない人は一人もいない。

「私のような悪人が助かるんだろうか。

この世で救われるのだろうか」と疑っているのは、

弥陀のお力は無限であることを知らないからだ、

早く弥陀のお力を「無量光」と知らされるところまで進めよと、

親鸞聖人が訴えておられる『正信偈』のお言葉です。

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私一人を助けるための弥陀の本願 [阿弥陀仏]

(真実の仏教を説かれている先生ご執筆の『とどろき』より載せています)

   私一人を助けるための弥陀の本願

 

弥陀の五劫思惟の願を

よくよく案ずれば、ひとえに

親鸞一人(いちにん)が為なりけり

           (歎異抄)

弥陀の五劫という永い間、熟慮に熟慮を重ねて

お誓いなされた本願を、よくよく思い知らされれば、

まったく親鸞一人を助けんがためだったのだ

 

今月は、阿弥陀仏の本願に救い摂られた歓喜を表された

親鸞聖人のお言葉についてお話ししましょう。

 

「弥陀の五劫思惟の願」とは、阿弥陀仏の本願のことです。

仏教は2600年前、ヒマラヤ山麓に誕生された

ゴータマ・シッダルタが、35歳で大宇宙最高のさとりを開いて

仏陀となられ、80歳でお亡くなりになるまでの

45年間、説かれた教えです。

その全ては、7千余巻の一切経となって今日、

書き残されています。

では、膨大な経典に説かれているお釈迦さまの教えとは何か。

親鸞聖人は「本師本仏の阿弥陀仏の本願一つである」と

『正信偈』に明言されています。

 

如来所以興出世 唯説弥陀本願海 (正信偈)

釈迦如来がこの世に生まれ出られた目的は、唯、

阿弥陀仏の本願一つを説くためであった

 

その弥陀の本願を、『歎異抄』で聖人は

〝阿弥陀仏が五劫の思惟をなされて誓われた

本願(弥陀の五劫思惟の願)〟といわれているのです。

これは、どういうことなのでしょうか。

 

●本願はどのように建立されたのか

 

それを知るには、阿弥陀仏が本願を建てられた経緯を

よく知らねばなりません。

これはお釈迦さまが『大無量寿経』に説かれていることですが、

『正信偈』の初めに親鸞聖人も、

 

法蔵菩薩因位時(法蔵菩薩、因位の時)

在世自在王仏所(世自在王仏の所に在して)

 

と書かれているところです。

大略を現代の表現で述べてみましょう。

 

久遠の昔、世自在王仏(せじざいおうぶつ)という仏さまが

ましました時、一人の国王が、世自在王仏の説法を聞いて、

非常に感動し、何とかしてすべての人(十方衆生)を救いたい、

と尊い願いを起こされた。

そして、国の王という地位も投げ打って、

世自在王仏の元で出家の身となり、

法蔵と名乗られたのである。

法蔵菩薩は、世自在王仏の前にひざまずき、

恭(うやうや)しく合掌礼拝して、

「師の仏よ、苦しみ悩むすべての人を見ていると、

私はとてもじっとしておれません。

どうか私に、助けさせてください」

と懇願された。

「法蔵よ。そなたの気持ちは尊いが、あの者たちが

どんなものか、知ってのことか。

大宇宙の諸仏方が助けようと試みたが、煩悩にまみれ、

罪悪は深重、とても助けることはできぬと、

悲しまれながらも見捨てるしかなかったのだ。

無駄な苦労をそなたにさせるわけにはいかぬ」

世自在王仏の返答に、法蔵菩薩は、

「それはよく存じております。だからこそ、

私に助けさせていただきたいのです。どうぞ、

私のために広く教えをお説きくださいませ。

私は、それによって修行して、最もすぐれた浄土を荘厳し、

迷いの衆生の悩みの元を除きたいのです」

と述べられると、世自在王仏は、法蔵の願いが実に尊く、

並々ならぬものであると見て取られ、

「法蔵よ。大海の水を升(ます)でくみ干し、

海底の宝を体を濡らさずに手に入れる以上に困難なことが、

煩悩熾盛のすべての人間を助けることなのだ。

そなたは、それでもやろうとするのか」

と念を押される。

「私があきらめたら、全人類はこの世も未来も、

苦しみから苦しみへ綱渡り、永劫の苦患に沈まねばなりません。

何としても助けさせていただきたいのです。

お願いいたします」

法蔵菩薩の盤石の決心に、世自在王仏はようやく、

「真心を込めて、一心不乱に道を求めてやまぬなら、

必ずその目的を果たし遂げ、いかなる願いでも

成就せぬことはないだろう」

と許された。

かくして法蔵菩薩は、五劫という長きにわたって

深く考えを巡らされ、十方衆生(すべての人)を未来永劫、

絶対の幸福に救うという我々の想像をはるかに超えた

大きな願いを発(おこ)されたのである。

 

このように、阿弥陀仏は、私たちを救わんがために、

法蔵菩薩となって、五劫の思惟の末に、大宇宙の諸仏方には

できなかった無上の本願を建立せられました。

おとぎ話のように思われるかもしれませんが、

決してそうではありません。

これを「弥陀の五劫思惟の願」と親鸞聖人は仰っているのです。

 

●弥陀が救おうとされている相手は?

 

では、阿弥陀仏が気の遠くなる長期間、

思案せられねばならなかったのは、

どんな人のためでしょうか。

 

これについて蓮如上人は、『御文章』に

次のように教えてくださっています。

 

それ、十悪・五逆の罪人も、(乃至)空しく皆十方・三世の

諸仏の悲願に洩れて、捨て果てられたる我等如きの凡夫なり。

然れば、ここに弥陀如来と申すは、三世十方の諸仏の

本師・本仏なれば、今の如きの諸仏に捨てられたる

末代不善の凡夫をば弥陀にかぎりて、「われひとり助けん」

という超世の大願を発(おこ)して

                 (御文章二帖目八通)

 

私たちは、大宇宙のすべての仏さま方(十方・三世の諸仏)

から見捨てられた者である、と教えられています。

仏さまは慈悲のかたまりです。

「慈悲」の「慈」とは、苦しんでいる人を放っておけない、

何とかして苦しみを抜いてやりたいという「抜苦」の心。

「悲」は、喜び、満足を与え、幸せにしてやりたいという

「与楽」の心です。

そんな抜苦与楽の慈悲いっぱいの仏さまが、

「かわいそうだが、我々の力では助けることができぬ」

とさじを投げられた「十悪・五逆の罪人」とは、

いかなる者なのか。

 

先ほどの『大無量寿経』の内容や、この蓮如上人のお言葉が

ピンとこないとすれば、私たちが、自分というものの実態を

全く分かっていないからでしょう。

「十悪・五逆の罪人」と言われているのは、

一体誰のことなのでしょうか。

 

日々、生き物を殺して貪り食べている殺生罪、

他人の悪口やウソを平気で言うなどは、

仏教で「十悪」と教えられます。

 

手にかけて殺さなくとも、心の中で大恩ある親を

「じゃまだなぁ」と思えば「五逆罪」と仏教では教えられます。

 

この五逆罪よりも恐ろしいのが「法謗罪」といわれる罪です。

仏法を「迷信だ」「聞く必要はない」と謗ったり、

ウトウト居眠り半分で聴聞するのはもちろんですが、

今日の話は長かった、短かった、分からなかったと

仏法を説かれる善知識の上に立って批評しているのも

法謗罪です。

親鸞聖人は、

「善知識をおろかに思い、師をそしる者をば、

法謗の者と申すなり。親をそしる者をば五逆の者と申すなり」

と『末灯鈔』に厳戒されています。

 

それだけではありません。

私たちの実態を仏教では「闡提(せんだい)」と

教えられています。

闡提とは、梵語で断善根(だんぜんごん)の衆生のことで、

無信と訳されます。

微塵の善根もない者をいうのですが、どんな心でしょうか。

地獄へ堕ちると聞いてもちっとも驚かず、

極楽へ往けると聞いても、千円もらったほどにも喜ばない。

今日とも明日とも知れぬ無常の命だぞと言われても、

急ぎもしなければ慌てもしない。

友人の訃報に、「えぇ、あの人が?」と一旦は驚き、

涙してもその時だけで、自分はまだまだ大丈夫、

とあとはケロッとしている心があるでしょう。

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どれだけ真実を聞かされても、カエルの面に小便で、

本心は無常を無常とも思わず、悪を悪とも感じない。

それがどうした、皆もそうじゃないかと、テレー、

キョロン、キョトン、ボーとしている心が闡提です。

慈悲深い大宇宙の諸仏たちでさえも「助ける縁なき者」

とあきれて逃げるしかなかったこの心を、

親鸞聖人は「逆謗の屍」と仰っています。

五逆罪の〝逆〟と法謗罪の〝謗〟、そして真実を

はねつけて箸にも棒にもかからぬ闡提の心を

〝屍〟と言われているのです。

 

●「逆謗の屍」の私がお目当て

 

阿弥陀仏が五劫もの間、思惟されねばならなかったのは、

この「逆謗の屍」がお目当てだったからです。

「逆謗も 闡提もみな 大悲の子」

大慈大悲の阿弥陀仏は、十方諸仏に見捨てられた

逆謗・闡提の私たちに、「かわいいわが子よ」と仰せです。

「こんな心、どうにもなりません」と泣いている人こそが、

「見捨てはしないぞ。私が助けよう」と命懸けで

誓われている弥陀の本願の正客なのです。

(正客・・・お目当ての人)

その本願は、〝平生の一念に、絶対の幸福に救い摂り、

必ず極楽浄土まで渡す〟と誓われている

大宇宙に2つとないお約束。

平生に明らかになる、この弥陀の救いを

「平生業成」といわれるのです。

 

親鸞聖人が、

 

弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、

ひとえに親鸞一人(いちにん)が為なりけり 

             (歎異抄)

 

と仰っているのは、逆謗の屍の親鸞を助けてくださる仏は

大宇宙に弥陀よりほかになかった、と明らかに知らされ、

そんな逆謗の親鸞が、弥陀の独り子とは、

なんともったいないことか、と感泣されているのです。

 

これは決して「お慈悲な阿弥陀さまだから、

死ねば極楽に連れていってもらえるだろう」と

死後の花降る浄土を夢見ておられるのではありません。

弥陀の救いはこの世で「往生一定」とハッキリいたします。

続けて聖人は、

 

されば若干(そくばく)の業をもちける身にてありけるを、

助けんと思召したちける本願のかたじけなさよ 

                 (歎異抄)

と仰り、こんな計り知れぬ悪業を持った親鸞を、

五劫の思惟で骨の髄まで見抜かれ、「必ず救う」と

奮い立ってくだされた本願の、なんと有り難く

かたじけないことなのか、と感激されています。

 

見聞知(けんもんち)の阿弥陀仏は、

私も知らない真実の私までも、一切お見通し。

「逆謗の屍」の私を目当てに、

「我にまかせよ、必ず救う」

と誓っておられるのです。

本師本仏の阿弥陀仏の真言にウソはありません。

〝罪悪深重の私を、そのまま絶対の幸福に

救い摂ってくださる方は、天にも地にも、

弥陀よりほかになかった〟と明らかに知らされるまで

仏法を真剣に聞かせていただきましょう。

 

「四つとせ

よくよくお慈悲を聞いてみりゃ

助くる弥陀が手を下げて

任せてくれよの仰せとは

ほんに今まで知らなんだ」(信心数え歌)

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全人類は、重病人だ! [阿弥陀仏]

あなたは自覚しているか
全人類は、重病人だ!
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「仏教は難しい」と一般の人は思っている。
本末を聞かないから、である。
昔から、
「物に本末あり、事に始終あり」
と言うように、何事も、最初から最後まで、
順序よく聞かねば、理解できない。

●旅人と三人の酒飲み

一部だけを聞いて、早合点して失敗するというケースもある。
江戸時代のこと。
名月の晩に酒飲み三人が集まって、庭先に床机(しょうぎ)を出し、
中秋の名月を眺めながら、チビリチビリやっていた。
この三人、俳句の趣味もあった。
満月を愛でながら、短冊を手に、句をひねってもいる。
しかし、なかなか、会心の作をいえるほどの俳句はできなかった。
その時、庭の低い生け垣の向こうを旅姿の老人が通りかかった。
三人、飲むほどに酔うほどに、
「おい、そこへ行く旅の衆、ちょっと待ってくだされ。
ワシら、あの月を眺めながら、酒を飲み、俳句を作っているのだが、
そう急ぐこともなかろう。
少し休んでワシらの仲間に入り、酒でも一緒に飲まんかな」
「それは結構でございますね。
では、仲間に入れていただきましょう」
旅の老人、仲間になって、酒をよばれることになった。



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しばらくして、三人が、
「ワシら、俳句を作っているが、あんたも一句如何じゃな」
と勧める。
旅人は「そうですか。これも何かのご縁ですね。
それでは下手ですが、一句よませてもらいましょう。」
と、紙と筆を受け取った。
しばらく月を眺めた後、句が浮かんだたしく、
筆をとり紙にサラサラと書き始めた。

三人がのぞいてみると、そこには、
「三日月の」
とある。
三人、驚いて、
「オイオイ、旅の衆、しっかりしなさいよ。
もう酔ってしまわれたのかな。今は三日月ではありませんぞ。
欠け目のない満月ですよ、間違ったら駄目ですよ」
と、口々に嘲りはじめた。
老人は意を介さず、ニッコリ笑って「しばらくお待ちください」
と言い、次の句を書いた。
「頃より待ちし 今宵かな」
と、句を完成したのである。

三日月の
   頃より待ちし
      今宵かな  芭蕉

三人は、句のすばらしさに驚き、また、その老人が、
俳聖の松尾芭蕉と知ってド胆を抜かれた。
と同時に、俳句の元祖の芭蕉に「三日月の」という上の句を見ただけで、
さんざん、嘲った事を、平謝りに謝らざるを得なかった。
下の句まで、本から末まで知ってから感想を述べれば、
こんな恥をかく必要はなかった。
上の句だけで、全体を評価しようとしたのが誤りであった。
やはり、本末、始終を聞くことが大事なのだ。


●病人と医者

仏教も、本末を聞くならば必ず、理解できる。
そこで、我々を病人に例えて仏教の本末を語ろう。
ここに病人がいる。
すると病気を何とかして治してやろうという医者が現れる。
医者は、素手では病気を治せないので、薬を作る。
その薬を病人に与えると、病気が治る。
全快した病人は医者に、お礼を言わずにおれない。
こう、筋道立てて話せば、誰でも、理解のできることだが、
これは本から末に向かって説明しているからである。


もし、
「お礼を言ったから病気が治った。
病気が治ったから薬ができた。
薬ができたから医者が現れた。
医者が現れたから、病人がいた」
こう言ったとしたら、チンプンカンプン、誰も理解できないであろう。
本末顛倒(ほんまつてんどう)した話だからである。

元の分かりやすい話に仏教をあてはめてみよう。
我々という病人がいたから阿弥陀仏という医師が現れられた。
阿弥陀仏は素手では我々の病気を治せないので、
六字の名号という薬を作られた。
その薬を病人の我々が頂くと、病気が治る。
それを信心決定という。
信心決定したら阿弥陀仏にお礼を言わずにおれなくなり、
仏恩報謝の念仏を称える。
衆生、阿弥陀仏、六字の名号、信心決定、念仏、
これらは、今、述べたような関係にあるので、
これをよく理解することが、極めて大切である。


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●難治の三病

仏教では、我々を病人と教える。
釈尊は、全人類が、難治の三病にかかっていると
『涅槃経』に説かれ
、親鸞聖人も、
『涅槃経』のお言葉そのままを『教行信証』に引用しておられる。

●無明業障の
     おそろしき病

次に蓮如上人は『御文章』に「無明業障のおそろしき病」
と教えておられる。
今回は、蓮如上人のお言葉に従い、
我々のかかっている「無明業障のおそろしき病」
とはいかなる病気なのか、解説していこう。

「恐ろしき病」と言っても、肉体上の病気ではない。
心の病気であるから、病院で精密検査しても一向に発見されない。
仏法のレントゲンでなければ、分からない病気だ。

●自覚症状なき重病人

この「無明業障」という病気のおそろしさは、
自覚症状のないところにある。

ちょうど、ガンのようなものだ。
ガンは、初期には自覚症状がほとんどない。
症状があらわれて、病院へ行く頃には手遅れになっている。
ガンでも、早期発見ができれば、対処の仕方があるのだが、
痛くも痒くもないからかかっているという自覚がないのである。



同じように我々も、無明業障という病気にかかっていながら、
そのような重病人だという自覚がまったくない。

だから、阿弥陀仏という医師に治してもらおうという心がない。
仏法を求めようという気持ちが起きてこない。
病人である証拠に、皆、苦しんでいる。


●人生は苦なり

家がない、金がない、子供がいない、と苦しんでいる人もあれば、
その逆の人もある。
無理して買った住宅のローンに追われている人や、
広大な宅地の相続税が払えずに苦しんでいる人もある。
結婚した相手に裏切られて泣いている人もあれば、
育てた子供が不良化して苦しんでいる人もある。
釈尊は二千六百年昔に、
「人生は苦なり」と喝破(かっぱ)された。
生きている人は、みな苦しみ悩んでいるということだ。
「有無同然」とも断言しておられる。
金、財産、名誉、地位、それらのものが、無い人も、
ある人も同じように、苦悩しているのだ。

●金の鎖、鉄の鎖

釈尊は、財物のある人は、金の鎖でしばられている、
無い人は、錆びた鉄の鎖でしばられている、と例えておられる。
有っても無くても、苦から離れられない。

越えなばと
 思いし峰に  
    来てみれば
なお行く先は
  山路なりけり

ちょうど、険しい山道を旅する人は、
あの峰さえ越えたら、あとは楽だろうと思って歩く。
ところが、一山越えれば、
すぐ次の山が待っているのだ。

人生もまた同じで、苦の連続ではないか。
独身時代は、結婚したら幸福になれると思う。
結婚してみれば、いよいよ本格的な人生の苦の始まり。
嫁、姑の争い。夫婦間の断絶。子育ての苦労と、苦は続く。
その間に戦争があったり夫に死別したり、誰もが、
苦の連続の人生は、語るも涙、聞くも涙、
小説にすればベストセラー間違いなしと思っている。
だから、繁栄を享受している現代日本においてすら、
自殺者は一向に減少しない。
それどころか、二、三十年前と比べれば、
増加の傾向にあるというのだ。
なぜ自分だけがこんなに辛いのか、苦しいのか、
と誰もが思っている。
まさに病気なのである。


肉体が健康なら、梅干しだけでご飯を食べてもおいしいが、
高熱にうなされている時は、山海の珍味といえども、
おいしく食べられないではないか。
太平洋戦争直後の物資欠乏した時代からは、
想像を絶する飽食の時代を、
なぜ、心から楽しく幸福に生きられないのか。
心が病気だからである。
その病気の名は「無明業障のおそろしき病」。


●無明とは煩悩
   代表が、欲、怒り、愚痴

「無明」とはここでは煩悩のことである。
(※この無明は、無明の闇の無明ではないです。)
我々には百八の煩悩があると釈尊は教えられ、
親鸞聖人は「煩悩具足の凡夫」と仰せられた。
「煩」とは「煩う」。「悩」は「悩む」。
我々を煩わせ、悩ませるものが百八つある。
その代表が三毒の煩悩といわれる、貪欲(とんよく)、
瞋恚(しんに)、愚痴である。
貪欲とは、食欲、財欲、色欲、名誉欲、睡眠欲を貪る心である。
瞋恚とは、欲が妨げられた時、怒る心である。
愚痴とは、因果の道理が分からず、他人の幸福をネタミ、ソネミ、
自分の不幸を他人のせいにして、うらむ心である。
これらの煩悩で悪業を造り続け、その悪業が種々の障りとなっているから、
「無明業障」といわれるのだ。


どれほどの悪業を重ねているのだろうか。
釈尊は『大無量寿経』に、
心常念悪(心は常に悪を念じ)
口常言悪(口は常に悪を言い)
身常行悪(身は常に悪を行い)
曽無一善(曽って一善もなし)

と、人間の実相を道破された。
「常に」とは「常なることひまなかれ」一分、一秒の休みもなしに、
の意である。
微塵の悪も見逃さない仏眼にうつる我々の実相は、
まさに親鸞聖人が『正信偈』に書かれた通り「一生造悪」
「極重悪人」
なのである。

我々の掌、肉眼や虫眼鏡でみるなら、そう汚いとは思わない。
しかし、顕微鏡で見たら、どうだろう。
大腸菌、その他のバイ菌が、ミミズの如く、
無数に這っているに違いない。
冗談にも、きれいな手とは思えないだろう。
法律や道徳は、肉眼、虫眼鏡の類である。
仏教は顕微鏡なのだ。

「掌中(てのひらじゅう)、どこもきれいなところはない。」
と言うように、心、口、身は常に悪に汚れていると、言われるのだ。

●蛇か蠍(サソリ)のような心

我々の心は、どのような、悪業を重ねているのであろうか。
親鸞聖人は、
悪性さらに止めがたし、
心は蛇喝(じゃかつ)のごとくなり
と懺悔告白なされている。

とても他人に言えないような悪性が止まらず、
心は蠍(さそり)を見るようにゾーッとするほど恐ろしい。
美しい女性を見れば、愛欲の心が即座にうごめき、
心中でその女性を犯している。
気にくわない者は、死んでくれたらよいと、
願い続けているではないか。
鉄道事故でも病死でも、何でもよいから、死んでほしいと、
思い続けている心がある。
実の親でも、病気で長患いとなれば、
看病疲れから「いいかげんに死んでくれればよいのに」
と心で殺す五逆罪。
隣に倉が建つと、こちらは腹が立つ。
立派な家が建つとネタミ、ソネミの固まりとなってしまう。
挙げ句、隣の不幸を願う心が生じる。
「隣は、どこで金儲けしたのか。
相当、借金して、無理しているのでないか。
それにしても、腹が立つ、隣の主人、
交通事故か何かで死んでくれれば、面白いな。
借金を返せなくなり、売りに出したら、
叩いて叩いて叩きまくり、徹底した安値で買い取ってやろう。
そうしたら、どんなに気持ちのよいことか」
そんなことを思いつつも、隣の主人と顔を合わせれば、
「立派な家を建てられましたね。
毎日、見て楽しんでおりますよ」
と、平然とお上手を言っているではないか。
旅先の火事は大きいほど面白い、と言われる。
他人が突然出火にあわてふためいている姿を、
眺めて楽しむ心があるのだ。
恐ろしいことではないか。
欲、怒り、愚痴で、日々、どれだけの悪を造っているのであろう。


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●身体で造る悪業

加えて、口や身でも、悪の連続である。
殺生罪とは、生き物の命を奪うことだ。
直接、殺さなくても、殺した魚や肉を買って食べていれば同罪だ。
生まれてから、今日まで、我々は、どれ程、生命を奪ってきたことか。

あののろい牛でも、屠殺場にひかれていく時は、
目に涙をためているといわれる。

これまで何百、何千、いや何万の生き物の命を奪ったに違いない。
まさに限りない悪業を積み重ねている。
すでにこれまで造り続けてきた悪業は確実に業の障りとなって
我が身の人生に悪果として、次々と生えているのだ。

まさに悪業のナワで、ギリギリに縛られているのである。
その無明業障の恐ろしき病を治して下さる名医が、
本師本仏の阿弥陀如来だ。


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人類はみな病人、阿弥陀仏は医師!?


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阿弥陀仏の本願 [阿弥陀仏]

IMG_20150524_0046.jpg-1.jpg(平成10年6月号『とどろき』より載せています。) 


都会の人は可哀想である。
満天に、無数にきらめく星空を、
スモッグのためになかなか見られないからだ。
そこへゆくと、このチューリップ企画本社ビルのある
富山県大島町などはよい。
見上げれば、雄大な世界に吸い込まれるかのように思える。
わずかな土地を奪い合い、裁判沙汰になったり、
戦争まで起こしている人間社会がバカらしくなるではないか。
大宇宙から見れば、地球は星クズの一つに過ぎず、
その中にうごめく人間は、なんと表現したらよいのだろう。
かまびすしく鳴くセミも、
地上へ出て一週間で死ぬと言われる。
日本人ならば人生八十年、しかし宇宙の生命と比べれば、
それがどうした。
セミよりもはかない、一瞬のできごとではないか。

「悠々たるかな天壌
遼々たるかな古今
五尺の小軀をもって
この大をはからむとす。
ホレーショの哲学、
ついに何等の
オーソリティに
価するものぞ。
万有の真相は
唯一言にして悉す。
曰く『不可解』。
我この恨みを懐いて煩悶
ついに死を決す」

明治36年5月22日、日光・華厳の滝に投身自殺した、
藤村操の遺言である。


IMG_20150524_0010.jpg-1.jpg-2.jpg

旧制一高で西洋哲学を学んでいた18歳の藤村操が、
巌頭の大樹の幹を削り、書き残したので、
「巌頭の感」と言われる。
二ヶ月後、滝壺で遺体が発見されると、
一大センセーションが巻き起こった。
明治初期、「デカンショー、デカンショーで半年暮らす」
とうたいはやされるほど、
西洋哲学は熱狂的に受け入れられた。
「デカンショー」とは、デカルト(仏)、カント(独)、
ショーペンハウエル(独)という高名な哲学者の名前から
作られた言葉である。
彼らの哲学を学んで半年、残りの半年は寝て暮らすという、
当時の学生気質だった。
ところが、西洋哲学を学んだ天才青年の結論は、
どうだったか。

「悠々たるかな天壌」
人間の存在に比べれば、あまりにも大きな天地自然。
「遼々たるかな古今」
はかない人間の寿命に比して、宇宙の歴史は悠久である。
「五尺の小軀をもってこの大をはからむとす」
五尺の身体で人生の意義を考えてみた。
「ホレーショの哲学、ついに何等のオーソリティに価するものぞ」
西洋哲学は、私に何も教えてくれなかった。
「万有の真相は唯一言にして悉す。曰く『不可解』」
結論はただ一言、「人生は不可解」である。
この一瞬の人生、何のために生まれてきて、
なぜ生きるのか、生きねばならないのはなぜか。
「生きる目的は不可解である」と、
藤村操は言いたかったのだ。

以後、人生に悩む青年が後追い自殺を繰り返し、
4年間に185人もが、華厳の滝へ投身している。
「哲学を学ぶと自殺する」とまで言われ、
親は子に哲学をさせないようにしたという。


●伝染する自殺


藤村操の例からもわかるように、自殺は伝染する。
ペスト(黒死病)は、ネズミを媒介として大流行した。
自殺はマスコミが媒介する。
報道が自殺志願者を駆り立て、実行へ走らせるのだ。


昭和61年に、アイドル歌手だった岡田有希子が、
18歳で7階建てのビルから飛び降りたときも、
後追いと見られる遺書を残し、
少年少女が次々と自殺した。
この年の日本の自殺者は、2万5000人を突破している。


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さらには今年五月、人気ロックバンドのメンバーの自殺でも、
後追いが見られた。
それだけ、自殺志願は多いのだ。
1日65人に上る自殺者の陰で、
その4倍とも10倍とも言われる未遂があり、
さらに機会あらば自殺したいと思っている、
危険性の高い(ハイリスクの)人がいる。
これらの人が、有名人などの自殺を聞き、
「私も同じ場所で・・・」と思うと、
たちまち自殺の名所ができてしまう。
報道各社も、気を使っているようだが、
「『なぜ生きるか』が不透明」という、
人間存在の根底にあるテーマに、
斬りこむジャーナリストはいない。


●自殺者は大バカ者
    死後に待つ地獄の苦


仏教では、自殺者は愚か者と言われる。
ある日、釈尊が、托鉢の道中、
大きな橋の上であたりはばかりながら一人の娘が、
袂(たもと)へ石を入れているのを見られた。
自殺の準備である。
近寄られた釈尊は、やさしく事情を尋ねられた。
「お恥ずかしいことですが、
ある男と親しくなり妊娠しましたが、
その後捨てられました。
世間の眼は冷たく、おなかの子供の将来なども考えますと、
死んだ方がどんなによかろうと思います。
どうかこのまま、見逃してくださいませ」
泣き崩れる娘を釈尊は、哀れに思われながらも、
厳然と仰せられた。
「お前は何というバカ者なのか。
お前には譬えをもって教えよう。
ある所に、毎日荷物を満載した車を引かねばならない牛がいた。
牛はなぜ、こんなに苦しまねばならぬのか、
オレを苦しめるものは何かと考えた。
そのとき、この車さえなければ苦しまなくてもよいと
思い当たったのだ。
ある日猛然と走って、大きな石に車を打ち当て、
壊してしまった。
ところが牛の使用人は、
やがて、鋼鉄製の車を造ってきたのだった。
今までの車の何百倍、何千倍も重い。
牛は、軽い車を壊したことを深く後悔したが、
後のまつりであった。

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お前は、肉体さえ壊せば楽になると思っているが、
死ねば地獄へ飛び込むだけだ。
お前には分からぬだろうが、
地獄の苦は、この世の苦しみぐらいではないのだ」
釈尊は諄々と、地獄の苦しみを教えられた。

娘は初めて知る真実の仏法に驚き、
仏門に入って救われたという。


●星空の説法
    真に意義ある人生に


私たちの後生にも、
「必堕無間」
の一大事が待っている。

「必ず、無間地獄という苦しみの世界に堕つる」
と仰有った。経典のお言葉だ。
これを「後生の一大事」という。

なぜ私たちは、地獄へ堕ちねばならないのか。
それは暗い心で、悪のタネまきしかしていないからである。
仏教の根幹は、因果の道理
道理とは、三世を貫き(いつでも成り立つ)、
十方を普く(どこでも成り立つ)真理をいう。
何万年前も、何万年後も、
また宇宙のどこへ行こうとも、
因果の道理は正しいのだ。
因果とは、原因と結果のことで、
原因なしに現れる結果はありえない。
結果に対しては、必ず原因を追求するのが仏法である。
原因と結果の関係は、
善因善果 
 悪因悪果 
 自因自果

と釈尊が仰る。
善い行いをすれば必ず、善い結果が返ってくるが、
悪い行いには、必ず悪い結果が引き起こる。
自分のやった行為は、善きも悪きも、
自分に結果をもたらすから、
自業自得とも言われるのだ。

一息切れた後、堕ちねばならぬ地獄という悪果は、
間違いなく、わが身がまいたタネの結果である。

そして、後生の一大事を解決することが、
人間に生まれてきた目的だ。

いかに苦しくとも、自殺してはならない理由も、ここにある。
国会議員も日銀理事も、自殺してしまう。
銀行の貸し渋りで経営破綻に追い込まれれば、
妻子を残して中年男が3人、そろって首吊りしたではないか。


すべてこれらは、
「なぜ生きるか」の人生の目的を知らぬからである。

「天上天下、唯我独尊」
「天の上にも天の下にもこの大宇宙で、
唯、私たちに、たった一つの尊い目的がある」と、
釈尊は道破せられた。
私たちも同じように、生きる目的を持っている。
後生の一大事を解決し、
絶対の自由の世界に生かされることだ。

宇宙の真理である因果の道理に従って、
悪しかできぬ自己を徹見せねばならない。
後生の一大事の解決という大目的に向かってこそ、
一瞬の人生が、真に意義あるものとなる。

美しい星空が、悠遠な彼方より全人類へ、
生きた説法をしているのだ。


●2600年前、驚異の仏知見
    仏教の大宇宙観


古来、人々が夜空を見上げ、
輝く星々に思いをはせてきた大宇宙は、
我々の想像をはるかに絶する広大さである。
現在なら小学生でも知っているような銀河や銀河団などの知識も、
決して、昔からあったものではない。
概して言えば、近代科学が誕生した
16世紀以降の天文学者らによって得られたものだ。
だが、この天文学的知識を、
2600年前の昔に知見されていた方があった。
物理学者や天文学者らが驚嘆するような卓越した宇宙観を、
釈尊はすでに展開されていたのだった。

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ここで仏教の宇宙観を述べる前に、
人類の歴史を少し顧みよう。
近代科学は、ニコラウス・コペルニクスやガリレオ・ガリレイらが
活躍した16世紀のヨーロッパで生み出された。
当時の西洋世界は、
キリスト教が人も思想も支配する社会であった。
当時の宇宙観は天動説(地球中心説)に立脚していた。
すなわち地球は宇宙の中心であり、
太陽などは、その周囲を回るという考えである。
この説は、『聖書』の字句に合致する理由で、
多くのキリスト教に信じられてきた。
ところが、科学が進歩し、望遠鏡が発明されると、
地動説を唱える天文学者が現れはじめ、
教会は、権力で彼らを徹底的に弾圧した。
コペルニクスの唱えた地動説に深く傾倒したジョルダノ・フルーノは、
宗教裁判のかけられ、7年間、投獄された後、
焚刑に処せられている。
同様に、宗教裁判で、ガリレオ・カリレイは地動説の放棄を命じられた。
しかも、残る生涯をフィレンチェ郊外アルチェトリにある自宅で
幽閉の身となって過ごさなければならなかった。
このように、教会の激しい抵抗を受けたのである。
しかし、今では、誰も地動説を疑う人はいない。


●天文学者も驚嘆


次に、仏教の宇宙観を示そう。
仏教では、人間の生息する世界(地球のような惑星)を、
須弥世界という。
その須弥世界が、千(無数の意)集まった世界を、
小千世界という。
その小千世界の千集まった世界が中千世界であり、
中千世界の千集まった世界が大千世界である。
これら小千世界、中千世界、大千世界を、
三千大千世界と称するのである。
さらに釈尊は大宇宙を、十方微塵世界と説かれている。
略して、十方世界ともいう。
例えば、
「設い我仏を得んに、十方世界の無量の諸仏
悉く咨嗟して我が名を称せずば、正覚を取らじ」
           (大無量寿経)
「光明偏く十方世界を照らし
念仏の衆生を摂取して捨てたまわず」
         (観無量寿経)
などと用いられる。
ここで十方とは何か。
東西南北の四方に、北東、北西、南東、南西を加えて八方、
さらに上方と下方を加えると十方となる。
一般的に、東西南北上下四唯と呼んでいるものだ。
次に、微塵とは、文字通りに、微かな塵の意。
つまり、大宇宙は、東西南北上下四唯の十方に、
前述の三千大千世界が、
空中に塵が浮くように存在していると説かれているのだ。
何とも広大なスケールではないか。


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ここで対比のため、現代天文学による宇宙観を述べよう。
太陽の回りを、水星、金星、地球、火星などが、
それぞれの周期で回っている。
これを太陽系宇宙という。
太陽系は、自ら光を放って位置を変えない太陽のような恒星、
地球のように、その回りを公転する惑星、
さらには惑星の周囲を回る衛星(月)などで構成されている。
太陽系を直径200メートルの円とすれば、
地球は1ミリに満たぬ粒に過ぎない。
人類は、月に氷があるらしいとようやく分かったり、
せいぜい火星の表面を撮影しているに過ぎず、
太陽系さえも、未知なる世界である。
ところがさらに、地球109個分の直径をもつ太陽を
直径1センチの球とすると、
最も近い恒星(隣の太陽)ケンタウルス座アルファ星までの距離は、
約290キロ(東京~名古屋間)になる。
これだけでも、宇宙がいかに果てしないか、分かるだろう。
この広大無辺な宇宙空間で、
星は、一様に分布していない。
無数の星々が集まり、銀河と呼ばれる集団を作っている。
大宇宙には、アンドロメダ銀河や大マゼラン雲のほかにも、
無数の銀河が存在する。
我々の太陽系が属する銀河系も、その中の一つだ。
我々の銀河系は、直径10万光年で、
その中には、太陽のような恒星が2000億個ある。
さらに、銀河は集まって銀河団を作っている。
また、銀河群より大きな銀河集団の名称として、銀河団がある。
これら銀河群や銀河団は集合して、
直径3億光年ほどの超銀河団を形作っている。
しかしながら、150億光年といわれる大宇宙の広がりには、
まだほど遠い。
現代天文学は、仏教の宇宙論に酷似していると知らされる。
釈尊が、この大宇宙について説かれたとき、
当時、何人が理解できただろうか。

今日、目覚ましい観測機器の発展で、
ようやく十方微塵世界の概念が認識できたかどうかと思われる。

物理学者や天文学者が、
仏説の深遠さを驚嘆せざるを得ない理由は、ここにある。


●釈尊の師
   阿弥陀如来


次いで釈尊は、十方衆生と十方諸仏を説いておられる。
これらは、科学では、いまだ未確認の分野であろう。
十方衆生とは、十方微塵世界の衆生の意である。
人類が地球に住むように、大宇宙には、
無数の惑星があり、我々と同じような生命が存在すると説かれる。
また大宇宙には、ガンジス河の砂の数ほどの仏がましまして、
真実を叫んでおられる。

経典には、大日如来、薬師如来、仏方の名前が多く見られ、
これらの仏方を十方諸仏という。
釈尊といえども十方諸仏の中の一仏に過ぎず、
十方諸仏が皆、本師本仏(先生)と仰ぐ仏が、
阿弥陀仏なのだ。

人類史上最高の偉人である釈尊が、
合掌礼拝される仏である。

本師本仏の阿弥陀仏は、悪因悪果で必堕無間の十方衆生を
必ず救い摂ると誓願を建てておられる。

どのようなお約束であろうか。


●歴代の善知識方も涙
      弥陀五劫思惟の願


親鸞聖人は29歳の御時、阿弥陀仏に救い摂られ、
「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば
ひとえに親鸞一人がためなり」
       (歎異抄)
と、五劫思惟のご苦労に感涙なされた。
五劫思惟とは弥陀が法蔵菩薩であられた時、
4億3200万年の五倍という長年月をかけて
思惟に思惟を重ねて建立された本願、
お約束のことであり、誓願ともいわれる。
親鸞聖人の師・法然上人も、
「弥陀五劫思惟の願」に涙しておられる。
法然上人は阿弥陀仏に救い摂られた43歳以降、
『大無量寿経』を読まれる時、
いつも弥陀五劫思惟の御文のところで
落涙しておられたという。
ある時、弟子がいぶかしく思って尋ねてみると、
「この愚痴の法然、十悪の法然を助けんがために
阿弥陀仏が法蔵菩薩となられて
五劫思惟というほどのご苦労をしてくだされたかと思えば
広大なお慈悲のほどが身にしみて涙がこぼれる」
と仰せられたという。


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阿弥陀仏に救われた人は皆、
法然上人や親鸞聖人が涙を流された
「五劫思惟」のご苦労を知らされ、
御恩に報いようと恩徳讃の心になる。


「如来大悲の恩徳は
身を粉にしても報ずべし
師主知識の恩徳も
骨を砕きても謝すべし」
      (親鸞聖人)
インドでは龍樹菩薩、天親菩薩、中国では曇鸞大師、
道綽禅師、善導大師、日本では源信僧都、法然上人、
真宗で七高僧と仰ぐこれらの方々も親鸞聖人と同じく
「弥陀五劫思惟の願」に救われ、
それが真実であることを生涯叫び抜かれた歴史の生き証人である。


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●罪悪深重の十方衆生
     大宇宙の諸仏も力及ばず


では弥陀五劫思惟の願とはいかなるものか。
蓮如上人はそれを『御文章』に述べておられる。
「十悪五逆の罪人も、五障三従の女人も、
空しく皆、十方三世の諸仏の悲願に洩れて、
捨て果てられたる我等如きの凡夫なり」
          (御文章二帖八通)
「十悪五逆の罪人・五障三従の女人」とは
罪悪を造り通しの我等十方衆生のことである。
仏教で十方微塵世界といわれる大宇宙には、
地球のような惑星は無限にある。
そこには我々のように苦悩に喘ぎながら
この世もジゴク、未来も地獄、
と苦から苦の綱渡りをしながら生きている衆生が限りなくいる。

これを十方微塵世界の衆生、十方衆生という。
そんな我々を大宇宙にまします無数の諸仏が
大慈悲心を起こして何とか助けてやりたいと
立ち上がってくだされた。
しかし、残念なことに我々の罪悪が余りにも重く、
諸仏の力では到底助けることは不可能だったのだ。

「捨て果てられたる我等如きの凡夫なり」
と蓮如上人が仰せられるように
諸仏に見捨てられてしまったのが我々、十方衆生である。
諸仏は我々の「屍の心」にアキレテしまわれたのだ。
「屍の心」とは、地獄と聞いても驚かず、
無常と聞いてもあわてない、
悪を悪とも思わず、罪を罪とも感じない、
真実の仏法に向かってはウンともスンとも反応のない心である。

大宇宙の諸仏に見捨てられたままならば、
十方衆生は永遠に生死の苦海を流転輪廻するしかない。


●法蔵菩薩の願い


ところが、諸仏が見捨てたならばなお放置していけないと
立ち上がってくだされた方がおられたのである。

蓮如上人は仰せられる。
「しかれば、ここに弥陀如来と申すは、
三世十方の諸仏の本師本仏なれば、
久遠実成の古仏として、
今の如きの諸仏に捨てられらる末代不善の凡夫、
五障三従の女人をば弥陀に限りて、
『われ一人助けん』という超世の大願を発して、
われら一切衆生を平等に救わんと誓いたまいて、
無上の誓願を発して、
すでに阿弥陀仏と成りましましけり」
         (御文章二帖八通)
阿弥陀如来は、十方無量の諸仏の王であり、
師匠であられるから、弟子の諸仏が見捨てた極悪人なら、
なおさら捨ててはおけぬと、大慈悲を起こして、
十方衆生救済に立ち上がってくだされたのである。

そのために、仏の位から、菩薩の位に下りられ(従果降因という)、
法蔵菩薩と名乗られた。
ある時、法蔵菩薩は師匠の世自在王仏に自らの願いを申し出られた。
「師の仏よ、私にあの苦しみ悩む十方衆生を助けさせてください」
「法蔵よ、そなたの願いは誠に尊い。
だが、それを許すことはできない」
「何故でございましょうか」
「法蔵よ、そなたは十方衆生が、
どれほどに罪悪深重であるか知っているのか。
五逆罪、謗法罪という重罪を造り続け、
その上、地獄と聞いても驚かず、
無常を無常とも思わず、悪を悪とも思わない。
死骸の如き心の持ち主だ。
かつて十方諸仏も、大慈悲を起こして一度は助けようとしたが、
十方衆生の罪悪の重さに、救うことは不可能と、
背走を見せて逃げているのだ。

そなたに諸仏と同じような無駄な苦労をさせる訳にはゆかぬ」
「諸仏が見捨てた者ならば、
なおさら誰かが助けねば、
十方衆生は、永遠に苦しむだけではありませんか。
私は、どんなに苦難に身を沈めても後悔致しません。
どうか、助けさせてください」
法蔵菩薩よ、あの十方衆生を助けることは、
大海の水を一人の人間が升でくみ取り、
大海をカラにして、海底にある宝物を
体を濡らさずに取ってくるほどに難しいことだ。

しかし、そなたが、それほどの決心をもって、
真心をこめて、一心不乱に道を求め止まぬならば、
必ず、その目的を果たしとげ、
如何なる願いも成就せぬものはないであろう」
大海の水を汲み干し、海底の宝を体をぬらさずに手に入れる、
それほどの難事であると示されながら、
世自在王仏が許されたとき、
法蔵菩薩は心から礼を述べられておられる。


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助けてくださる方が
「助けさせてください」と頭を下げておられる。
普通は救いを求めるものが
「助けてください」と頭を下げて当然なのだ。
ある妙好人が、
「よくよくお慈悲を聞いてみりゃ、
助くる弥陀が手を下げて、まかせてくれよの仰せとは、
ホンに今まで知らなんだ」
と言ったのはこのことだ。


●絶対の幸福に救う妙薬
      南無阿弥陀仏の大功徳


世自在王仏の許可を得られた法蔵菩薩は、
どのようにしたら、十方諸仏があきれて逃げた
罪悪深重な十方衆生(我々)を、助けることができるのか。
思惟に思惟を重ねられ、その年月は五劫に及んだ。
一劫が4億3200万年、五劫思惟とは、
その5倍の年月、考えに考え抜かれたということだ。

「大海の水をすべて升でくみ取り、
海底の宝を体をぬらさずに手に入れる」
それを実行するには、どうしたらよいか。
聞いただけで「それは不可能」と無量の諸仏方が、
サジを投げてしまったことなのだ。
十方衆生を病人に例えるなら、
あらゆる医者が、助ける手段はない、
と見捨ててしまった重病人だ。
それを、阿弥陀仏のみが、「我一人助けん」と、
難病の原因とその治療法、解決法を
開発して助けようとしてくだされたのだ。
五劫の思惟をなされた結果、
ついに、いかなる薬を製造したらよいか、
その方策を確立なされた。
それは善根功徳のかたまりである、
南無阿弥陀仏の名号という薬を造り、
それを衆生に与えれば、苦悩の根源を破って、
大安心大満足の絶対の幸福に救うことができる、
というものであった。


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法蔵菩薩は、そのような名号大功徳を完成させるために
さらにそれから兆載永劫というご修行をなされた。

兆載永劫とは、量り知れない長年月である。
ご自身のためではなく、一切衆生を助けるために、
兆載永劫というご修行をしてくだされ、
ついに、今を去ること十劫の昔に、
我々を助ける能力を有する名号六字を完成してくだされたのである。
それが本願の名号、南無阿弥陀仏であり、

それを阿弥陀仏から賜った瞬間に、
凡夫がさとりの五十二位中の五十一段に相当する、
正定聚に入る
から、親鸞聖人は、
「本願の名号は正定の業なり」
          (正信偈)
と仰せられる。


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さらに死後には浄土往生させていただき、
弥陀同体の覚りを開かせていただく。

29歳の御時、阿弥陀仏に救い摂られた親鸞聖人は、
「五濁悪世の衆生の
選択本願信ずれば
不可称不可説不可思議の
功徳は行者の身に満てり」
      (高僧和讃)
と記されている。
言うことも説くことも、想像もできない
「不可称不可説不可思議の大功徳」とは
勿論名号の大功徳のことであり、
それが身に満ち満ちてしまうとは、
救われた世界の実感である。
「功徳の大宝海に帰入すれば」
         (正信偈)
「功徳の大宝海」も名号大功徳のことだ。
親鸞聖人の曾孫・覚如上人も、
「本願や名号、名号や本願、本願や行者、行者や本願」
          (執持鈔)
と、本願の名号と、行者が一体になった喜びを記しておられる。

妙好人・おかる同行もまた名号と一体になった体験を
次のように述べている。
「頭叩いても南無阿弥陀仏、
手を叩いても南無阿弥陀仏、
足を叩いても南無阿弥陀仏、
お尻叩いても南無阿弥陀仏、
座った姿も南無阿弥陀仏、
立った姿も南無阿弥陀仏、
歩く姿も南無阿弥陀仏、
本願や行者、行者や本願」
救われれば誰もが叫ばずにおれないのである。
釈尊一代の仏教は、畢竟この阿弥陀仏の本願と
その名号の大功徳を明らかにされるためであった。

「如来所以興出世
唯説弥陀本願海」
      (親鸞聖人・正信偈)
(如来、世に興出したもう所以は、唯
弥陀の本願海を説かんとなり)


●万人の終帰、弥陀の本願海


ここで親鸞聖人は、本願を海に例えておられる。
海の特徴は広くて深い。
さらに地上に降った水が、最後に行き着く所である。
これを終帰という。

広い本願・・・大宇宙のすべての衆生を助ける、
という広い誓いであるから弘誓願ともいわれる。
深い本願・・・どんな罪悪深重の衆生をも助けるという本願。
終帰・・・山の頂上に降った雨水は、渓流を下り、
湖に流れても、やがて川を下って大海に流れ込む。

苦悩の衆生はキリスト教やマホメット教などに救いを求めるが、
真の救いは得られない。
最後は、阿弥陀仏の本願によらねば、
完全な救いにあずかることはできない。
弥陀の本願に救われ、
南無阿弥陀仏の六字の名号という宝の主となり、
苦悩から離れるチャンスは、
仏法を聞ける人間界の今しかない。


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法然上人や親鸞聖人のように、
阿弥陀仏の五劫思惟、兆載永劫のご苦労に、
心から報恩の涙を流せる身に一日も早くならせていただこう。
それには、どうすればよいのか。
「たとい大千世界に
みてらん火をも過ぎゆきて
仏のみ名を聞く人は
永く不退にかなうなり」
      (親鸞聖人)
真剣な聞法あるのみである。


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阿弥陀仏の凄いお力 [阿弥陀仏]

 (真実の仏法を説いておられる先生の書かれた「とどろき」より載せています) 

普放無量無辺光(普く無量・無辺光、)
無碍無対光炎王(無碍・無対・光炎王、)
清浄歓喜知恵光(清浄・歓喜・智慧光、)
不断難思無称光(不断・難思・無称光、)
超日月光照塵刹(超日月光を放ち、塵刹を照らしたもう。)
一切群生蒙光照(一切の群生、光照を蒙る)

「帰命無量寿仏如来(無量寿如来に、帰命いたしました)
 南無不可思議光(不可思議光に、南無いたしました)」
『正信偈』の冒頭は、
阿弥陀如来に親鸞、救われたぞ。
阿弥陀如来に親鸞、助けられたぞ。

という、聖人歓喜の絶叫です。
言葉は違いますが、
二行とも同じことを繰り返されているのは、
何度でも言わずにおれない、
どれだけ書いても書き足りない、
広大無辺な喜びを表されているのです。

この二行から、
弥陀の救いは、死後ではない。
 生きている現在ただ今である。

弥陀に救われたら、ハッキリする。
という、「弥陀の救い」の凄い特徴が明白になります。
言うまでもなく、
『正信偈』を書かれたのは「生きている時」であり、
また、ハッキリしないことを聖人が
何度も叫ばれるはずがないからです。

●凄い「弥陀の救い」とは

では、「阿弥陀如来に救われた」とは、
どうなったことを言われるのでしょうか。
一言で、「人生の目的が完成した」ことです。

人は何のために生まれてきたのか、
何のために生きているのか。
どんなに苦しくても、
なぜ自殺をしてはならないのでしょうか。
これが「人生の目的」です。

なぜ生きる。すべての人にとって、
これ以上大事なことはありません。

「生きる」とは、歩くことや走ること、泳ぐことや、
飛行機でいえば、飛ぶことといえましょう。

禅僧・一休は、
世の中の 娘が嫁と花咲いて 
嬶(かかあ)としぼんで 婆と散りゆく

と歌いました。
女性で一番良い時が、娘時代です。
だから娘という字は、女偏に良いと書きます。
娘が結婚して家に入ると、嫁になります。
嫁さんが子供を生むと、嬶といわれます。
「女は弱し、されど母は強し」といわれるように、
新婚当初はおしとやかでも、
お母さんになると鼻高くなりますので、
女偏に鼻と書きます。
また、一家の中心はお母さんだから、
顔の真ん中の「鼻」が使われるとか。
嬶の次にお婆さんになります。
額に波が寄ってくるので、女の上に波と書くのだそうです。
これが女性の一生ですが、男性も呼び名が違うだけで、
すべて同じコースをたどります。
何十億の人がいても、例外はありません。
いつまでも娘ではおれませんし、
お婆さんが娘に戻ることはできません。
「この間まで自分は娘だと思っていたが、
もう息子が嫁をもらって孫ができた。
いやぁ月日のたつのは早いなぁ」
と言っているように、女は、娘から嫁、
嫁から嬶、嬶からお婆さんへと、どんどん歩き、走り、泳ぎ、
飛んでいくのです。
一休が「婆と散りゆく」と言っているのは、
そうしてみんな死んでいくからです。
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だから、また一休は、
門松は 冥土の旅の 一里塚
とも歌っています。
「冥土」とは「死後の世界」のことです。
一日生きたということは、
一日死に近づいたということ
ですから、
生きるということは、
死へ向かっての行進であり、

「冥土への旅」なのです。
年が明けると、みんな「おめでとう」
「おめでとう」と言います。
しかし一年たったということは、
それだけ大きく死に近づいた、
ということですから、
元旦は冥土の旅の一里塚なのです。

ついこの間、年が明けたばかりと思っていたのに、
バタバタしているうちにもう年末、すぐに元旦。
(11月号のとどろきです)
ホントに早いものですね。
こんな調子で十年、二十年と、
あっという間に人生は過ぎ去っていくのです。

私たちが去年から今年、今年から来年へと生きる、
ということは歩くことであり、走ることであり、
泳ぐことであり、飛行機なら飛んでいることに
例えられるのも、お分かりになるでしょう。
だれでも歩く時も走る時も、
一番大事なのは、目的地です。
目的地なしに歩いたら、
歩き倒れあるのみだからです。
ゴールなしに走り続けるランナーは、
走り倒れあるのみです。

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行く先を知らずに飛んでいる飛行機は、
墜落の悲劇あるのみだからです。
あそこがゴールだ、とハッキリしていてこそ、
頑張って走ることができます。
あの島まで泳ごう、と目的地に泳ぎ着いて初めて、
ここまで泳いできてよかったと、
一生懸命泳いできた満足があるのです。
では、私たちの生きる目的は、何でしょうか。
目的なしに生きるのは、
死ぬために生きるようなものです。

死を待つだけの人生は、
苦しむだけの一生に終わります。

私たちは決して、苦しむために
生まれてきたのではありません。
生きているのでもありません。
本当の人生の目的を知り、それを完成し、
「人間に生まれてよかった、
この身になるための人生だったのか」
と、生命の大歓喜を味わうために
生きているのです。


では、真の「人生の目的」とは何か。
『歎異抄』には
「摂取不捨の利益」(第一章)を獲ることであり、
「無碍の一道」(第七章)へ出ることだと、
明言されています。

「摂取不捨の利益」も「無碍の一道」も、
今日の言葉で言えば「絶対の幸福」のこと。

絶対に壊れない、崩れない、
変わらない無上の幸せです。
この「人生の目的」を全人類に知らせ、
達成させてみせる、
と誓われているのが「阿弥陀如来の本願」であり、
その誓い通りに「人生の目的が成就した」ことを、
「弥陀に救われた」
と親鸞聖人は言われているのです。

29歳の御時、
「帰命無量寿如来 南無不可思議光」
“阿弥陀如来に救われたぞ、助けられたぞ!”
と「人生の目的」を完成された聖人は、
「この広大な弥陀のご恩、
なんとしても報いずにおれない」

と悲泣しつつ、九十年の生涯、
「弥陀の救い」ひとつを全身全霊、
伝えていかれました。

この無上の尊法が、「浄土真宗」です。
すべての人が最も知りたい「人生の目的」を、
鮮明にしてくだされた方が親鸞聖人ですから、
“世界の光”と仰がれて当然でしょう。

●底なしの弥陀のお力・・・無量光

では、平生の一念に「人生の目的」を果たさせる、
阿弥陀如来のお力とは、いかなるものなのか。
それについて聖人は、
「極悪最下の親鸞が、
極善無上の幸福に救われたのは、
本師本仏の阿弥陀如来が、
こんなに凄いお力のある仏さまだからなのだ。
お釈迦さまが『大無量寿経』に
説かれているとおりであった」

と、阿弥陀如来のお力を
十二に分けて教えられたのが「十二光」です。

今回は、初めの「無量光」について、お話しましょう。

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「無量光」とは、「量ることのできないお力」ということ。
阿弥陀如来のお力は、無限であることをいわれたものです。

「こんな悪いことをした者は助けられない」
という“限界”がない、底無しということです。
「十方諸仏」の力には、限りがあります。

十方諸仏とは、大宇宙(十方)に数え切れないほど
沢山まします仏方のこと。

大日如来も、薬師如来も、ビルシャナ如来も、
地球に現れられたお釈迦さまも、
その中の一仏です。

それら十方諸仏の力には、
「こういう悪までなら助けることができるが、
これ以上重い悪を犯した者は助けられない」
という境界線があります。

ですから「無量」ではありません。
お釈迦さまが、
「大宇宙の仏方には、お前たちを助ける力がなくて、
見捨てられたのだよ」と説かれているのは、
私たちの造る悪が、
諸仏の力の限界を超えているからです。

ところが、本師本仏の阿弥陀如来の
お力にだけは、限界がない。

「5人殺した者までは助けるが、
10人殺した者は助けられない」
というような差別がありません。
どんな極悪人をも救う弥陀の量り知れないお力を、
釈迦は「無量光」と絶賛され
、親鸞聖人は

“その通りであった”と知らされて、
『正信偈』に記されているのです。
『ご和讃』には、こうも説かれています。

願力無窮(がんりきむきゅう)にましませば
罪業深重もおもからず
仏智無辺にましませば
散乱放逸もすてられず

      (正像末和讃)

「阿弥陀仏のお力は、どんな極悪人をも
救い切ることができるのだ」
といわれたお言葉です。

●人のすべては、極悪人

ここで「極悪人」と聞くと、
文字からいえば「極めて悪い人」ということだから、
こんなふうに思う人もあるかもしれません。

「世の中には、確かに酷い人間がいるなぁ。
法の網をすり抜けて、ドカ儲けする奴。
次々と詐欺商法を生み出しては、
お年寄りをダマす者。
イヤそれより恐ろしいのは、
“人を殺したい、誰でもいい”
と繁華街で白昼、包丁を振り回す凶悪犯だ。
“極悪人”とは、そんな人間のことだろう」
私たちは常に、常識や法律、
倫理・道徳を頭に据えて、
「善人」「悪人」を判断します。
これらの基準では、
「1人殺すよりも、10人殺した方がもっと悪い、
10人より20人の殺人犯はもっと悪い」
と、善悪は相対的なものです。
ほとんどの人が、
「自分を善人だとまでは言わないけど、
少なくともあいつよりマシだ」
などと、他人と比較して、
善悪の程度を自覚しているのではないでしょうか。
そして凶悪事件が起きると皆、
即席評論家になり、
正義の側に身を置いて、
「とんでもない奴だ」と悪事を裁くのです。

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ところが聖人の言われる「悪人」は、
犯罪者や世にいう悪人だけではありません。
極めて深く重い意味を持ち、
人間観を一変させます。

いずれの行も及び難き身なれば
とても地獄は一定すみかぞかし

         (歎異抄)

“どんな善行もできぬ親鸞であるから、所詮、
地獄のほかに行き場がないのだ”
この告白は、ひとり聖人のみならず、
古今東西万人の、
偽らざる実相であることを繰り返されます。

一切の群生海、無始より已来、
乃至今日・今時に至るまで、
穢悪汚染(えあくおぜん)にして清浄の心無く、
虚仮諂偽にして真実の心無し

              (教行信証)

“すべての人間は、果てしなき昔から
今日・今時にいたるまで、
邪悪に汚染されて清浄の心はなく、
そらごと、たわごとのみで、
真実の心は、まったくない”
世の中に「善人」と「悪人」
二通りの人がいるのではない。
聖人の「悪人」とは全人類のことであり、
人間の代名詞なのです。
阿弥陀如来は、すべての人を
「永久に助かる縁なき極悪人」
と見抜かれた上で、
「我を信じよ、平生に、
必ず絶対の幸福に救い摂る」
と誓われているのです。

さるべき業縁の催せば、如何なる振舞もすべし 
              (歎異抄)
どうにもならない縁が来たならば、親鸞、
どんな恐ろしいことでもするだろう。
人を10人殺す縁が来れば10人殺すだろう、
1000人殺す縁が来れば、
1000人殺すこともあるだろう。
かかる量り知れない深い業をもった極悪の親鸞が、
絶対の幸福に救われたのは、
弥陀のお力が「無量光」であったからなのだ。
だから救われない人は一人もいない。
「私のような悪人が助かるんだろうか。
この世で救われるのだろうか」
と疑っているのは、弥陀のお力は
無限であることを知らないからだ

早く弥陀のお力を「無量光」と
知らされるところまで進めよと、
親鸞聖人が訴えておられる『正信偈』のお言葉です。


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どんな極悪人をも救い切る弥陀の本願力 [阿弥陀仏]


願力無窮にましませば
罪業深重もおもからず
仏智無辺にましませば
散乱放逸もすてられず

       (正像末和讃)


阿弥陀仏には、どんな極悪人をも救い切る、
ものすごいお力があると教えられた親鸞聖人の「ご和讃」です。


●「願力」=「阿弥陀仏の本願力」


初めの「願力」とは、“阿弥陀仏の本願のお力”のこと。
阿弥陀仏は、大宇宙の諸仏から本師本仏と仰がれる最尊第一の仏さまで、
釈迦の経典には、
   阿弥陀仏は、諸仏の中の王なり(大阿弥陀経)
阿弥陀仏は、大宇宙にまします多くの仏方の王様だ、
と説かれています。
蓮如上人も、


阿弥陀如来は三世諸仏の為には本師・師匠なれば、
その師匠の仏をたのまんには
いかでか弟子の諸仏のこれを喜びたまわざるべきや。
この謂を以て、よくよく心得べし

        (御文章二帖目九通)
阿弥陀仏は諸仏の本師本仏であることを、
懇ろに教導されています。


次に「本願」とは、「お約束」のことです。
だから「誓願」ともいわれます。
本師本仏の阿弥陀仏は誰と、どんなお約束をなさっているのでしょうか。
阿弥陀仏の約束の相手は「十方衆生」。
十方とは仏教で大宇宙をいい、
衆生とは生きとし生けるものすべてのことですから、
古今東西のすべての人と弥陀は約束されているのです。
弥陀のお約束の相手に入らない人は一人もありません。
大日如来や薬師如来など、大宇宙に無数の諸仏がおられても、
「われら一切衆生を平等に救わんと誓いたまいて、
無上の誓願を発して」(御文章二帖目八通)くだされている仏は
阿弥陀仏だけですから、弥陀の本願のみを
「弘誓(弘い誓い)」といわれるのです。
その弥陀のお約束を平易に表現すれば、次のようになりましょう。


どんな人をも
必ず助ける
絶対の幸福に


古今東西の全人類を、必ず絶対の幸福(往生一定)に救ってみせる、
と誓われているのです。

こんな素晴らしいお約束は他には絶対ありませんから、
『正信偈』に親鸞聖人は、「無上殊勝の願(この上ない殊に勝れたお約束)とも
希有の大弘誓(大宇宙に二つとない素晴らしいお誓い)」とも言われています。


蓮如上人は『御文章』に阿弥陀仏の本願の偉大さを、
諸仏の本願と比較して、こう教えられています。


抑(そもそも)、諸仏の悲願に弥陀の本願の勝れましましたる、
その謂を委しく尋ぬるに、既に十方の諸仏と申すは、
至りて罪深き衆生と、五障・三従(ごしょう・さんしょう)の女人をば、
助けたまわざるなり。
この故に「諸仏の願に阿弥陀仏の本願は勝れたり」と申すなり

                    (御文章三帖目五通)


私たちは、極めて罪深い者(至りて罪深き衆生)であるから、
大宇宙の仏方は助けることができなかったのだ。
そして次に、


さて、「弥陀如来の超世の大願は、いかなる機の衆生を救いましますぞ」
と申せば、十悪・五逆の罪人も、五障・三従の女人に至るまでも、
皆悉くもらざず助けたまえる大願なり

                    (御文章三帖目五通)
と言われています。


ここで「十悪・五逆の罪人」とは、
仏さまの眼からごらんになった古今東西の全人類の姿です。
“罪人”と聞くと、窃盗、横領、恐喝、殺人罪など、
法律を犯した人のことだと思われるでしょうが、
ここでいわれる「罪人」はそれだけではありません。
すべての人を“罪人”と言われているのです。

「警察に捕まるようなことはやっていないのに、
どんな罪を犯したというのか」と、反発したくなりましょう。
それは、仏教で説かれている「十悪」「五逆罪」を犯した罪人である、
と仰せです。


●全人類の罪・・・十悪


仏教では、私たちの犯すいろいろの罪悪をまとめて、
十悪」と教えられています。
その中の一つ、「殺生罪」は生き物を殺す罪です。
人を殺せば刑務所行きだと誰でも分かりますが、
牛や豚、鶏や魚を食べたり、ハエや蚊を駆除したりするのは、
「仕方のないこと」と、誰も悪いとは思っていない。
しかし、どんな生き物も死が苦しみであることは
我々と変わりません。
捕まえた鶏がバタバタもがくのも、
漁船の甲板で魚がピチピチ跳ねるのも、
死にたくないからです。
それを「活きがいいなぁ」「こりゃ、うまそうだ」と、
人間は好んで食べる。
殺される生き物たちは、人間は何と残酷なものか、
と強く呪って死んでいるに違いありません。
お釈迦さまは「すべての生命は平等であり、上下はない」
と教えられています。

人間の命だけを尊いと考えるのは人間の勝手な言い分で、
相手が動物でも虫でも、殺生は恐ろしい罪なのです。


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●全人類の罪・・・五逆罪


五逆罪」とは、仏教で地獄行きの五つの恐ろしい罪をいい、
中でも最初に挙げられるのが親殺しです。
赤ん坊の頃は、昼も夜もお乳を飲ませてもらったり、
おむつを取り替えてもらいました。
病気になった時、寝ずに看病してもらった人もあるでしょう。
離れて暮らせば、「元気でいるか」「しっかり食べているの?」
「いい友達できた?」と、いつも心配してもらって、
私たちは成長してきたのです。
今年の八月、若手俳優が暴行容疑で逮捕され、
女優の母親が、多くの報道陣を前に謝罪会見したことが
テレビで報じられた。
38歳で生んだ息子は、アトピーやぜんそくもあって病気がち。
救急車で病院に連れていくこともたびたびあったという。
女優として働きながら、女手一つで育てた息子がようやく成人。
俳優として人気が出始め、まさにこれからという時の逮捕だった。
そんなことになっても、母親は、
「私はどんなことがあってもお母さんだからね」
と、警察署で面会した息子に語ったといいます。
わが子を慈しむ親心に、息子は何を感じたでしょう。


そんな大恩ある親を殺すのは、言うまでもなく大罪です。
ところが、親鸞聖人は、


親をそしる者をば五逆の者と申すなり(末灯鈔)


と教誨(きょうかい)され、親をそしるのも五逆の罪なのだと
言われています。


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「うるさいな!」「あっちへ行け!」と暴言を吐くのは無論ですが、
「いつまで生きるつもりなのか」と、
年老いた親を邪魔に思うだけでも
親殺しの五逆罪だと戒められているのです。


果たしてこれを、他人事として片づけられるでしょうか。


ある生命保険会社が制作したCM。
画面には「2分9秒38」という時間が表示されている。
東京に上京し、家庭を築き、忙しくも充実した生活を送る男性。
仕事のことばかり考える毎日の中で、
時折、かかってくる母親からの電話。
「何?今、会議中だからさ・・・」
とすげなく切る。
両親が息子の顔を見に東京に来てくれる。
母親が畑の野菜で作った漬物を渡そうとすると、
苦々しい表情で、「これ持って得意先に行けないよ」
と受け取らない。近況を尋ねる両親に、
「悪いけど俺、時間がないんだ」
と、急いで立ち去る息子を母親が呼び止める。
「次はいつ話せるの?」
男性は、何を言っているんだ、という顔で、
「また、いつでも話せるだろ」と一言。
「2分9秒38」は、男性が3か月で両親と話した合計時間。
そのままの関係が続けば20年でたったの3時間しか
会話しないことになる。
親子のつながりを見直すことを訴えかけるCMだった。
四六時中、自分のことを大切に思ってくれている両親に、
自分がどれほど心をかけ、大事に思っているか。
会話さえも煩わしく思って、ないがしろにしてはいないか。
反省させられる内容でした。


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7月に放送されたNHKのドキュメンタリー番組では、
介護問題をテーマに、介護の切実な現実をリポートし、
大きな反響を呼びました。
認知症になった母親と同居し、
11年にわたって介護を続けている50代の男性は、
当初、母親の介護を妻に任せていたが離婚。
一人で介護をすることになり、勤めていた不動産会社を退職して、
今は母親の年金で暮らしている。
「いちばんつらいのは自由がないこと」
「手足を鎖につながれた牢獄にいるようだ」
と介護の苦衷を漏らす。
5年前、母親が脳梗塞で倒れた時、
倒れている母親を前にして呆然と眺めていたという。
「このまま放置して、おふくろがいなくなれが介護が終わる。
やっと自由になれる・・・」
そんな心が去来したことを、救急車を呼ぶのをためらった自分を
強く後悔しながら告白していました。


さるべき業縁の催せば、如何なる振舞もすべし(歎異抄)


「縁が来たら、どんなことでもする親鸞だ」と親鸞聖人は仰っています。
何をしでかすか分からない業縁を、どんな人も持っている。
私たちは、そんな「十悪・五逆の罪人」だから、
大宇宙の仏さまは、これではとても助けることはできぬ、
とさじを投げてしまわれたのです。


●「どんな極悪人も助ける」本願


では、我々は助からないのでしょうか。
そうではありません。蓮如上人の『御文章』を再度、
拝読しましょう。


「弥陀如来の超世の大願は、いかなる機の衆生を救いましますぞ」
と申せば、十悪・五逆の罪人も、五障・三従の女人に至るまでも、
皆悉くもらさず助けたまえる大願なり

              (御文章三帖目五通)


こんな諸仏に捨てられた者だからこそ、
救わずにいられないと、ただ一人、立ち上がられた仏が
大慈大悲の阿弥陀如来なのです。

このようにして建てられた弥陀の本願を『歎異抄』には、


罪悪深重・煩悩熾盛(ぼんのうしじょう)の衆生を
たすけんがための願にてまします


と教えられ、阿弥陀仏は、欲や怒り、妬みそねみの煩悩の激しい、
最も罪の重い極悪人を助けるために本願を建てられたのだよ、

と言われています。
そして、弥陀がどんな極悪人も救いお誓いを建ててくだされたからこそ、
親鸞は救われた。
無量の悪業をもった親鸞一人を助けんがためのご本願であった、
と聖人は、弥陀の本願力不思議に、こう感泣なされています。


弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、
ひとえに親鸞一人がためなりけり、
されば若干(そくばく)の業をもちける身にてありけるを、
助けんと思召したちける本願のかたじけなさよ

              (歎異抄)


大宇宙の諸仏も見捨てた極悪の親鸞を、
救い摂ってくだされたのは、
弥陀の無限の本願力以外になかった
、と知らされて、


願力無窮にましませば
罪業深重もおもからず


と、ご和讃に褒めたたえられているのです。


●「決して見捨てはしない」


仏智無辺にましませば
散乱放逸もすてられず


と仰っているのは、「仏智」とは、阿弥陀仏のお力のこと。
その弥陀のお力が「無辺」であるとは、限界がないということです。
「散乱放逸」とは、思いに任せて悪を、やりたい放題、
やり散らしている我々の実態を仰ったものです。
そんな箸にも棒にもかからぬ極悪人が十方衆生(すべての人)だから、
大宇宙の諸仏はあきれて逃げたのです。
しかし、弥陀はそんな私たちを、「決して見捨てはせぬぞ」と、
底なしの大慈悲心で無上の誓願を建立してくだされた。

その弥陀の本願力によって平生ただ今、
救い摂られたことを親鸞聖人は、


誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法
               (教行信証
ああ、阿弥陀仏の摂取不捨のお約束、
まことであったなあ


と宣言されています。


罪業は深重、散乱放逸で大宇宙の諸仏に
見捨てられた自己の真実と、そんな私を「必ず救う」弥陀の本願を、
疑いなく信知させられた表明です。
“十方衆生(すべての人)が極悪人とは、おかしい”
“諸仏に捨てられたって?そんな悪人とは思わない”
“私のような者は救われないのではなかろうか”
と思っているのは、すべての人を罪業深重・散乱放逸と見て取られ、
無窮の願力と無辺の仏智で「必ず助ける」と誓われた本願を、
真っ向から疑っている証です。
この本願に対する疑心を本願疑惑心とか、疑情とか、
自力の心、不定の心ともいわれます。


このような疑心がツユチリほどでもある間は
救われていないのであると、蓮如上人は、


これ更に疑う心露ほどもあるべからず
            (御文章五帖目二十一通)
と明らかにされています。そして、


命のうちに不審もとくとく晴れられ候わでは
定めて後悔のみにて候わんずるぞ、
御心得あるべく候
 
        (御文章一帖目六通)
本願に疑い晴れていなければ、
必ず、後悔するであろう


と教誡されています。


「誠なるかなや、阿弥陀仏の本願」と、
本願疑惑心(自力の心)が浄尽し、
絶対の幸福(往生一定)に生かされるまで、
仏法を真剣に聞かせていただきましょう。

    



 


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阿弥陀仏のご念力(光明)とはいかなるものか [阿弥陀仏]

正信偈』の冒頭、
帰命無量寿如来
南無不可思議光」の二行は、
阿弥陀如来に親鸞、救われたぞ!
阿弥陀如来に親鸞、助けられたぞ!

という聖人の魂の叫びです。

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同じことを繰り返されているのは、
二回、三回だけではない、
何万回言っても言い尽くせぬ歓喜の表明なのです。

では聖人が、「救われたぞ!」と叫んでおられるのは、
何のことでしょうか。

無限に言わずにおれないほどの喜びとは、
いったいどうなったことなのでしょうか

世の中にうれしいことはいろいろあります。
オリンピックで金メダル、世界の栄誉ノーベル賞、
宝くじで3億円が当たる。
いずれも狂喜乱舞することでしょうが、
聖人の歓喜は、それらとは全く質が異なります。
「親鸞、弥陀に救い摂られたぞ!」
と踊躍歓喜されているのは、平生の一念に、
「後生の一大事を解決された」ことなのです。

「後生の一大事」とは、どんなことなのでしょうか。

仏教の目的・・・後生の一大事

4歳でお父さま、8歳でお母さまを亡くされた聖人は、
今度死ぬのはオレの番だ、死ねばどうなるのか”
と驚かれ、9歳で仏門に入られました。

死後がハッキリしない。
どれだけ考えても分からない。
真っ暗がりの後生を、仏教では「後生の一大事」といわれます。

“後生暗い心のまま一息切れたならば、
暗い世界に堕ちねばならぬ、
なんとしても後生明るくなりたい”と、
「明日ありと 思う心の あだ桜 夜半に嵐の吹かぬものかは」
のお歌とともに聖人が出家されたのは、
9歳の御時でした。

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私たちは皆、「明日がある」と思っています。
だからこそ、明日はこうしよう、
明後日はあれをしよう、来年は留学しよう、
などと計画を立てているのです。

さらに、20年後はこうして、
30年後はああなって、と夢を描いている、
これが「明日ありと思う心」です。
ところが、今晩死ねば今晩から後生、
「明日はなかった」ことになる。
「明日ありと思う心」は、必ず裏切られるのです。

(平成20年のとどろきより載せています)
先日も、大阪・ミナミの個室ビデオ店の火災で
16人は亡くなりました。
夜中の2時、放火による一酸化炭素中毒でした。
犠牲者の一人は、5年程前、介護福祉士を目指して
大阪市内の介護サービス会社に入社。
知人らに「一生を介護にささげる」
と意気込みを語っていたそうです。
同僚の男性は、
「お年寄りの入浴など体力が必要な仕事も
進んで引き受けてくれた。
一緒に飲みに行き、夢を語っていたのに信じられない」
と沈痛な表情を浮かべたといいます。
思い描いていた明日の夢が、
一夜で絶たれた悲しい事件でした。
今日も、交通事故や災害、病気で亡くなる人が、
どれだけあるか分かりません。
老少不定で、年齢は関係ないのです。
これを書いている私も、読まれている皆さんも、
遅くとも百年のうちには、
「明日がない」という「今日」を迎えねばなりません。
それがいつかは分かりませんが、
早ければ今晩かもしれない。
ということは、「明日がある」と思う心は、
まったく当てになりません。

これを聖人は「あだ桜」といわれ、
“咲き誇る満開の桜も、夜中に一陣の嵐で散ってしまう。
その桜より儚いのが私の命。
明日とは言ってられません、どうか今、出家させてください”
と、切迫した心境を歌われているのです。

親鸞聖人が仏道を求められた目的は、
富や名声を得ることでもなければ、
学問や地位のためでもない、
「後生暗い心」の解決一つであったことが、
お分かりになるでしょう。

そのために29歳まで20年間、
比叡山で血のにじむ修行に打ち込まれました。

救いたもう仏は、弥陀一仏だけ

ところが、どれだけ求めても、
暗い後生に明かりを灯すことはできませんでした。

泣く泣く下山され、どこかにこの一大事、
解決の道を説かれる方はないか、
導きたもう高僧ましまさぬのかと、
京の街をさまよっておられた聖人が、
やがて「阿弥陀如来の本願」を説かれる
明師・法然上人に巡り遇われたのです。

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釈尊がこの世にお出ましになられたのは、
阿弥陀如来の本願一つを説かんがためでありました。
この法然も、弥陀の本願によって、
救われたのです。
13歳で出家してより、27年間、
比叡での難行・苦行も、京都・奈良で学んだ、
華厳・法相などの学問も、
この法然の後生の一大事の解決には、
なりませんでした。
泣く泣く山を下りました。
黒谷で、7000余巻の釈尊の説かれた経典をひもとくこと、五回。
法然のような者でも助かる道がなかろうかと、
探し求めました。
そして、ついに、私一人を助けんがための、
阿弥陀仏のご念力が届いた一念に、
法然の暗黒の魂が光明輝く心に救い摂られたのです。
その不思議、その驚き、尊さは、
心も言葉も絶え果てて、ただ泣くだけでした。
まことに皆の人、一日も早く、
阿弥陀仏の本願を聞き開いてください。
いかなる智者も、愚者も、弥陀の本願を信ずる一念で、
救われるのです。
よくよく聞いてください


法然上人の一言一言は、甘露の法雨となって
渇き切った魂を潤していく。
雨の日も風の日も聖人はひたすら、
法然上人から「弥陀の本願」を聞き求められました。
そして29歳の御時、
“この親鸞を救いたもうお方は、
大宇宙広しといえども、
本師本仏の阿弥陀如来ただお一人であった”
と、往生一定の「後生明るい心」に救い摂られた大満足を、
「阿弥陀如来に親鸞、救われたぞ!
阿弥陀如来に親鸞、助けられたぞ!」
と叫ばれているのが、
『正信偈』の最初の2行なのです。

闇に泣き、光を求めて20年。
待って待って待ちわびた「弥陀の救い」に、
ようやく遇えた大歓喜の告白です。

「弥陀に救われた」とは、だから、
生きている現在、「後生暗い心」がぶち破られて、
“いつ死んでも浄土へ往ける”
大安心の身に救い摂られたことであることが、
お分かりになるでしょう。

これを「後生の一大事の解決」といわれます。

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では、どうして阿弥陀如来は、
現在ただ今ハッキリ救うことができるのか。
「後生の一大事」を解決して下さる弥陀のお力とは、
どういうものなのか。

それについてはお釈迦さまが
『大無量寿経』に説かれていることを、
親鸞聖人は実体験され、

正信偈』に褒め称えておられるのが、
「十二光」といわれるものです。
「光」とは、仏さまのお力、ご念力のこと。
「光明」とも言われます。

阿弥陀如来の光明(お力)を、
十二に分けて教えられているのです。
今回は「無辺光」「無碍光」「無対光」「光炎王光」
について述べましょう。

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無辺光

「無辺光」とは、阿弥陀如来のお力には
「ほとりがない」こと。
阿弥陀如来のお力の届かぬ所はない、
どんなところにも、働いてくだされている。
「ここには阿弥陀如来のお力がかかっていない」というところは、
地球上にも、大宇宙にもどこにもない。

ですから、「いつでも助かる」ということです。
畑仕事している時でも、風呂に入っている時でも、
出張している時でも、病院のベッドにいる時でも、関係ない。
「ここにいる時でないと助からない」とか、
「あそこにいては救われない」ということは、
一切ない。

弥陀の救いは、いつ、どこで、ということは決まっていません。
その阿弥陀如来のお力を、
「無辺光」と言われているのです。

●「無碍光」の「碍」は障碍、さわりということですから、
「無碍光」とは、「遮るものがない」阿弥陀如来のお力のこと
阿弥陀如来のお力は、遮蔽するものがない。
妨げるものが何もありません。

「無碍光」ですから、
私たちを「無碍の一道」に出させてくださるのです。
「無碍の一道」とは、欲や怒り、
ねたみやそねみなどの煩悩も、
浄土往生の碍りとならない大安心のこと。

親鸞聖人は、この不可思議な世界に雄飛せられた体験を、
歎異抄』には、
念仏者は無碍の一道なり」(第七章)
と高らかに宣言されています。

無対光

「無対光」とは、「対するものがない」
阿弥陀如来のお力のこと。

他に比べるものがない。
大宇宙のすべての仏方が束になっても到底及ばぬ、
もの凄いお力である
ことを、
お釈迦さまは、

無量寿仏の威神光明は最第一にして
諸仏の光明の及ぶこと能わざる所なり 
   
           (大無量寿経)
諸仏の中の王なり、光明の中の極尊なり、
光明の中の最明無限なり

           (大阿弥陀如来)

とも説かれています。

大宇宙の仏方に見捨てられた極悪の私たちを、
「我一人助けん」
とただ一仏奮い立たれて、
「無碍の一道」に助け切ってくだされる
のが
阿弥陀如来ですから、その無類の光明を「最尊第一」
「最明無極」と言われ、
「無対光」と絶賛されて当然でしょう。

光炎王光

仏教では、“私たちが人間に生まれるには、
五戒といわれる色々の戒律を持たね(たもたね)ばならない”
と教えられているのですが、

法の鏡に照らされて自分の姿をよくよく見れば、
とてもそんな戒律を持って(たもって)きた殊勝な者とは思えない。

では、どうしてそんな私が、人間に生まれることができたのか。
人界受生の難しさを知れば、
なおさらそう思わずにおれないでしょう。

源信僧都は、こう言われています。

まず三悪道を離れて人間に生るること、
大なるよろこびなり。
身は賤しくとも畜生に劣らんや、
家は貧しくとも餓鬼に勝るべし、
心に思うことかなわずとも地獄の苦に
比ぶべからず  
  
         (横川法語・よかわほうご)

まず、人間に生まれることはいかに有り難く、
喜ぶべきことかを、地獄・餓鬼・畜生界といわれる
苦しみの激しい三つの世界と比較して、
分かりやすく教えておられるお言葉です。


では、その人間に生まれたのは何のためでしょうか。
仏法を聞くためなのだと、
親鸞聖人は断言されています。


仏法を聞いて「後生の一大事」を解決し、
「人身受け難し、今已に受く」
“人間に生まれてよかった”
という生命の大歓喜を獲るため、
一切の碍がさわりとならぬ
「無碍の一道」へ出るための人生なのだよと、
親鸞聖人は生涯教え続けていかれました。

その仏法を聞くことができるのは、
六道の中で人間界だけですから、
阿弥陀如来が私たちを、なんとか仏法を聞かせて
「無碍の一道」に出させるために、
その人間界に生まれさせてくだされた絶大なお力を、
「光炎王光」と言われているのです。

(※六道とは、苦しみの絶えない6つの世界。
地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界、人間界、天上界をいう)


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阿弥陀仏の命を懸けた誓いゆえ [阿弥陀仏]

(真実の仏法を説いておられる先生の書かれた「とどろき」より載せています)  

弥陀仏本願念仏(弥陀仏の本願念仏は、)
邪見驕慢悪衆生 (邪見・憍慢の悪衆生)
信楽受持甚以難 (信楽受持すること甚だ以て難し、)
難中之難無過斯 (難の中の難これに過ぎたるは無し)
          (親鸞聖人・正信偈)

まず「弥陀仏の本願念仏」から説明しましょう。
弥陀仏とは、阿弥陀仏のこと。
大宇宙のあらゆる仏から、我らの先生、
本師本仏と仰がれるお方です。

本願とは誓願ともいわれ、お約束のことです。
阿弥陀如来の誓約どおりに救われると、
必ず報恩謝徳の念仏を称える身になります。
それで親鸞聖人は、阿弥陀如来の本願を
「弥陀仏の本願念仏」と言われています。
弥陀の本願を知らねば、後の三行も分かりませんから、
まず、弥陀の本願とは何かを
よく知っていただきたいと思います。

阿弥陀如来の本願は、
『大無量寿経』に漢字三十六文字で
書かれていますが、分かりやすく一言で言えば、
「すべての人を、必ず絶対の幸福に救う」
というお約束です。

相手を知らずに約束はできません。
例えば、金銭の貸借の約束でも、
相手構わずにできるものではないでしょう。
重大な約束であればあるほど、
相手をよくよく調査するはずです。

では、阿弥陀如来は全人類を、
どのようなものと見て取られて
約束されているのでしょうか。

「親殺し」は、恐ろしい五逆罪

阿弥陀如来は、すべての人は逆謗だと仰せです。
逆謗とは、五逆罪・謗法罪を造り通しの
極悪人ということです。

生き物を殺したり、うそをつくのも罪悪ですが、
もっと恐ろしいのが五逆の罪であり、
その最初に挙げられているのが親殺しの罪です。

十六歳の少年が金属バットで
お母さんを殴り殺したとか、
五十代の男が年老いた母親を
刺し殺したなどという事件を、
時々耳にします。
赤ん坊のころは、お乳を飲ませてもらったり、
おしめを取り替えてもらったのではありませんか。
病気になれば寝ずに看病してもらい、
離れていてもいつも心配してもらって
成長してきたのです。
そんな大恩ある親を自ら手で殺すなど、
人間の心を持たぬ
鬼の仕業ではないかとさえ思われます。
仏教では、親殺しは無間地獄へ堕ちる恐ろしい
無間業であると教えられています。

ところが親鸞聖人は、手にかけて殺すばかりが
親殺しではないのだよと、
「親をそしる者をば五逆の者と申すなり」(末灯鈔)
と言われています。

親をそしるのも五逆罪なのです。
「早く死んでしまえ」などと言うのは無論ですが、
「うるさい」「あっちへ行け」などと、
ののしるのも親を殺しているのです。

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心の罪が最も重い

また、仏教では、
殺るよりも、劣らぬものは、思う罪
といわれ、
体や口より、最も重いのは
心で殺す罪だと教えられます。

例えば、一つ屋根の下に暮らしておりながら、
ろくに口もきかず、食事も別々に取り、
呼ばれても聞こえないふりして
親を邪魔もの扱いしているのは、
心で殺しているのです。
親が病気で寝たきりにでもなると、
“邪魔だなあ”“いい加減に死んでくれたら”
と、とても他人には言えない心が
出ては来ないでしょうか。

ある三人の兄弟が、父親が亡くなったので、
土地と屋敷を売り、相続税を払い、
残りを兄弟で分けました。
ところが、独りになった母親の面倒をだれが見るかで
話し合いをしても世話を嫌う者ばかり。
結局、兄弟でたらい回しにした揚げ句、
施設に入れてしまいました。

年老いた母親は、
「子供がいないほうがましだった」
と嘆き悲しみ、
今では生きる気力を失ったように
過ごしているそうです。

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親が元気で、小遣いをくれたり
仕送りしてもらえる間は、
ありがたいと生かしておき、
肉体が衰え世話が必要になると、
忘恩(ぼうおん)の徒となり、
“面倒だ、いい加減に・・・”と抹殺する。

手にかけて殺してはいなくても私たちは、
心でどれだけ親を殺しているか分かりません。


また、
“こんなに苦しいのなら死んだほうがましだ”
と思ったことのない人があるでしょうか。

“生んでさえくれねば、苦しまなくてもよかったのに”
と親を恨み、のろっている心ですから、
心で親を殺していることになります。

全人類が救われる唯一の道を壊す大罪

五逆よりも恐ろしいのが謗法の罪です。
謗法罪とは、真実の仏法をそしったり
非難する罪をいい、
これも無間業だと教えられています。

(※無間業とは、無間地獄に堕つる罪のこと)
かの聖徳太子が、
「四生の終帰、万国の極宗」
と断言されたように、
古今東西の全人類が救われる
たった一本の道が仏教です。
そんな仏教を誹謗することは、
全人類が救われる唯一の道をぶち壊すことであり、
幾億兆の人を地獄へ突き堕とすことになりますから、
これ以上恐ろしい罪はないのです。

しかし、「仏法も鉄砲もあるか」「仏教なんて迷信だ」
「邪教だ」とののしる者だけが、
謗法の大罪を造っているのではありませんよ、

と親鸞聖人は、
「善知識をおろかに思い、師をそしる者をば、
謗法の者と申すなり」    (末灯鈔)
と教えられています。

真実の仏法を説かれる
善知識をおろそかに思うことも
謗法の罪なのです。
居眠り半分で仏法を聞いているのは、
善知識をおろそかに思っている表れでしょう。
尊く思えば、居眠りなどできるはずがないからです。

それだけではありません。
“今日の話は長かった”“短かった”と、
善知識の教えを批評しているのも謗法罪です。

なぜなら、先生は子供の答案の善し悪しが分かりますが、
子供は先生の答案の善し悪しが分かりませんから
採点ができません。
善知識の教えを「ああだ」「こうだ」と採点しているのは、
善知識の上に立ち、
おろそかにしていることに違いありません。

しかも、このように五逆罪・謗法罪を
造り通しの悪人だと聞かされても、
罪を罪とも思わず、悪を悪とも思わず、
地獄と聞いても驚かず、
極楽と聞いても喜ぶ心がない脈のあがった心ですから、
親鸞聖人は、「逆謗の屍(ぎゃくほうのしかばね)」
と言われています。

仏眼からごらんになれば、全人類は例外なく、
逆謗の屍なのです。

ところが私たちはうぬぼれ強く、
逆謗の屍が自分だと思っていません。
だれのことかと思っています。

これを憍慢(きょうまん)といいます。

●「憍慢」とは、どんな心か

憍慢とは、地獄しか行き場のない
真実の自己が分からず、
己(おのれ)は善人だとうぬぼれて、死んだら極楽、
死んだらお助けと寝とぼけている心です。

まさか地獄へは堕ちんじゃろ」
「朝晩ちゃんと勤行もしているのだから、
悪いところへは行かんだろう」
「このオレが地獄へ堕ちるとすれば、
隣のばあさんはどこへ行くのか」
「これだけお念仏称えているのだから、
いつ死んでも大丈夫だ」
「素直に本願を信じ、念仏喜んでいるもの、
間違いなかろう」
「他人から指さされるような悪いことは、
しておらんからよかろう」

挙げればキリがありませんが、
このような心の動いている人を、
憍慢の悪衆生というのです。

●生きてよし、死んでよしの幸福に

すでに阿弥陀如来が見抜かれたとおり、
すべての人は逆謗の屍。
その逆謗を「絶対の幸福」に助けると
約束されているのが弥陀の本願です。

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私たちは、手に入れても色あせ、
つかんでも夢と消える幸福しか知りません。
本当の安心、満足を切望しながら、
幸福に見放される不安が付きまとい、
どこまで求めても満たされず渇いています。

そんな私たちを、何があっても絶対に変わらぬ
大安心・大満足に助けると、弥陀のお誓いなのです。

もちろん、現在生きている時にです。
この不壊不変(ふえふへん)の未来永遠の
幸福になることこそが、人生の目的なのです。

ゆえに弥陀の誓約どおりに救われますと、
“人間に生まれてよかった、
この身になるための人生であったのか”
と生きてよし、死んでよしの幸福に満ちあふれます。

ところが、いまだ体験したことのない、
夢にも見たことのない境地。
そんなことになれるはずがないと、
私たちは全く受け付けません。
これが邪見です。

●「邪見」とは、どんな心か

邪見とは、阿弥陀如来の本願を
計らっている心をいいます。

仏智の不思議を拒否する心で、
「凡夫がそんなにハッキリ救われるものではない」
「人間に、日本晴れの大安心なんてなれるはずがない」
「我々のような悪人に大満足なんかある道理がない」
「この世で助かったということはありえない」
「生きてよし死んでよしなんかに、なれるものじゃない」
と、本願力の不思議が体得できず、
法の真実を計らっているのを皆、
邪見というのです。

世の中に、これ以上の難はない

地獄行きと聞かされても、だれのことじゃ、
オレは違うとうぬぼれている憍慢。
絶対の幸福に救うと言われても、
そんな幸福になれようかと計らっている邪見。

すべての人は邪見憍慢の悪衆生ですから、
弥陀の本願まことをまことと信じること(信楽受持)
は難中の難なのです。

それを親鸞聖人は、
邪見・憍慢の悪衆生、信楽受持すること、
甚だもって難し、難の中の難、これに過ぎたるは無し

と言われているのです。
世の中に難しいことはいろいろありましょう。
「一兆円の財産を持つことはできるか」
と問われれば、だれでも腰抜かすほど難しいと思うでしょう。
イチロー選手の年俸が約5億円とすれば、
単純計算では、飲まず食わずで全額貯金し、
2000年かかってようやく一兆円です。
ところが弥陀の救いにあうことは、
一兆円の財産を築くぐらいではありません。
100年や200年求めて得られるちっぽけな幸せとは
ケタが違うぞと、親鸞聖人は、
“多生にもあい難い本願力に、今あえたり。
億劫にも獲難き真実の信心を、今獲たり”
と叫ばれたとおり、多生億劫の目的なのです。

「一生参学の大事」
「仏道を求めることは、
大宇宙を持ち上げるよりも重いぞ」
「信心獲得は難の中の難、これ以上の難はない」
と言われるのも当然でしょう。

●若不生者のちかいゆえ

そこで阿弥陀如来は、
「必ず助ける、もしできなければ命を捨てる」
と誓われるのです。

救わずばおかぬの強烈な「阿弥陀如来の本願」と、
真実聞く耳のない「邪見憍慢の悪衆生」とが
一騎打ちをするのです。

邪見と憍慢の者は、信を獲ること甚だ難しい、
これほど難しいことはない」

しかし、命懸けの弥陀のご念力が生きて働いてますゆえに、
難中之難無過斯(なんちゅうしなんむかし)を突破させられ、
信楽受持の身にさせていただける時が、
必ずあるのです。

若不生者のちかいゆえ
信楽まことにときいたり

       (浄土和讃)
“阿弥陀如来の命を懸けたお約束があるのだから、
間違いなく絶対の幸福の身になれる時がくるのだぞ”
そこまで求め抜いてくれよの親鸞聖人のお言葉です。

 


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なぜ、阿弥陀仏が本師本仏なのか [阿弥陀仏]

(質問)なぜ、阿弥陀仏が本師本仏なのか

「釈迦の前に仏なし、釈迦の後に仏なし」と言われますように、
この地球上に現れた仏は釈迦唯一人であります。
その釈尊が35歳で成仏してから80歳でご入滅するまでの
45年間の教えがすなわち仏教ですが、
一体釈尊は何を説くのが目的であったのでしょうか。


親鸞聖人は『教行信証』に、
それ真実の教を顕さば、すなわち『大無量寿経』これなり」
と喝破なされています。

釈迦一代の教えは真実の経、
『大無量寿経』唯一つを説かんがための方便であったのだと
断言なされています。

では『大無量寿経』には何が説かれているのでしょうか。
それは唯、すべての人々が本当に幸福に救われる
阿弥陀仏の本願のみが説かれています。

ゆえに、親鸞聖人は『正信偈』に、
「釈迦如来がこの世に生まれられた目的は、
唯、弥陀の本願のみを説かんがためなり」

と仰せになっております。

釈尊は、阿弥陀仏の使いの者として、
この世に出て阿弥陀仏の本願を説かれたのです。

これを聖人は、
久遠実成阿弥陀仏
五濁の凡愚をあわれみて
釈迦牟尼仏としめしてぞ
迦耶城には応現する
」 (和讃)
と仰っています。

また、親鸞聖人の仰せのとおり釈尊は、
一切経に阿弥陀仏のことばかり褒めたたえていられます。
無量寿仏の威神光明は最尊第一にして
諸仏の光明の及ぶこと能わざる所なり
」(大無量寿経)とか、

十方無辺不可思議の諸仏如来、
阿弥陀仏を称讃せざるはなし」とか、
「諸仏の中の王なり、光明の中の極尊なり

            (大阿弥陀経)

とか、挙げれば切りがありません。
ゆえに「諸教に讃ずる所、多く弥陀に在り
天台宗のけい渓でさえ驚いているのです。

●すべての仏が称讃される訳

ではなぜ阿弥陀仏を一切の仏方が称賛し礼拝されるのか。
その理由は『般舟経』に明らかに説かれています。
三世の諸仏は、弥陀三昧(みだざんまい)を念じて、
等正覚(仏)に成る

これは一切の諸仏は、最後は阿弥陀仏のお力によって、
仏になったということです。

大日如来も薬師如来も、
そうであるように釈尊もその例に漏れません。
ですからあらゆる仏は阿弥陀仏には頭が上がらないのです。

本師本仏とあがめたてまつる道理ではありませんか。

三世十方の諸仏たちでさえそうなんですから、
ましていわんや私たちは一向専念阿弥陀仏で、
阿弥陀仏一仏を一向に信じたてまつるより、
絶対の幸福になる道は毛頭ないことを
よくよく知らなければなりません。

阿弥陀仏は光明無量、寿命無量、
智慧と慈悲の仏であることは
多くの経典で明らかですが、
中でも阿弥陀仏の勝徳(しょうとく)は、
光明、智慧、無量であることだと、
親鸞聖人は讃嘆なされています。

それはすでに釈尊が、出世本懐経たる『大無量寿経』において、
前述のとおり

無量光仏の威神光明は最尊第一にして
諸仏の光明の及ぶこと能わざる所なり

と、喝破なされているからです。

光明といいますと、何か太陽か電灯の光線のように
誤解する人もありますが、
仏法では仏の念力、仏力をいつも光明と表現いたします。
私たちの目に見えない如来の大願業力、大念力、
智慧をいうのです。

私たち人間でも、その方面の修練を積めば、
ある程度の念力を持つことができることは
今日、催眠術や超能力などによって周知のとおりです。

このように催眠術や超能力は一種の人間の精神力であり、
念力といわれるものの働きであることは、
科学的に説明されるようになりましたが、
テレパシー、念写などによれば、
念力は目には見えませんが、
光線と同じような働きや性質があることが知らされています。
例えば、遠方の暗室に置いてある印画紙に向かって、
ある人が一心に何かを念ずると、
その念じたものが瞬時にして、
遠方の印画紙に写るということは、
念力は光のような速度を持ち、
光のような作用を持っていることが分かります。

それにしても2600年以前において、
すでに釈尊は、念力や精神力を光明という言葉で
表現なされた智慧には、今更ながら驚嘆せずにはおれません。

散乱放逸の私たち人間にさえ、
ある修練を積めば相当の念力を持つことができるのですから、
仏の念力、業力は私たちの想像を絶するものです。

阿弥陀仏のズバぬけたお力とは

仏は光明と寿命、智慧と慈悲の覚体だといわれますのは、
私たちを救わんとする大念力を
体得していられることをいうのですから、
阿弥陀仏が本師本仏とあがめられ、
諸仏の王とされますのは、すでに述べましたように、
阿弥陀仏の光明智慧が諸仏に超過して、
私たちを救済する力がズバぬけているからです。

それは同時に、極悪最下の私たちを
救済することのできる仏は、
阿弥陀仏以外には断じてないことを、
暗示なされた釈尊の金言でもあります。


果たして釈尊は最後に、
「一向専念 無量寿仏」
と、その真意を説破なされています。

これはあらゆる諸仏、諸菩薩、諸神を捨てて、
一心一向に専ら阿弥陀仏一仏を信ずる以外に、
一切の人々の助かる道は絶無なることを
明言なされたものです。

この仏意を受けて親鸞聖人
一向専念の義は、往生の肝腑、自宗の骨目なり
              (御伝鈔)
とまで断言なされています。
蓮如上人また
諸仏菩薩を捨てて、弥陀一仏を一心一向にたのむべし
更に余の方へ心をふらず
その外には何れの法を信ずというとも、
後生の助かるということ、ゆめゆめあるべからず

とまで断定なされているのも、
けだし当然と言わなければなりません。


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